陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

闇を探す

2006-03-28 22:17:14 | 
0.闇を作り出すことはできるのだろうか?

以前、スウェーデンから来た人と話をしていて、おもしろいことを聞いた。

スウェーデンは白夜なので、夏の間は日が沈んだと思うと、夜中の二時ぐらいには、もう太陽が昇ってしまうのだという。すると、一斉に鳥が鳴き出す。日が昇るだけなら、厚いカーテンをかけ、なんとか眠りを妨げないようにする工夫もできるのだが、鳥の声だけはどうしようもない。

そこで、ひとつ提案があるのだが、とその人は言うのだ。だれか科学者を知らないか、と。

自分は冷蔵庫の原理を聞いたことがある。熱を逆転させて冷やしているのだ。それと同じように、光を逆転させて、闇を作り出すことはできないだろうか。
そうすれば、闇を作り出す装置を街灯のように設置して、太陽が昇っても鳥たちをそのまま起こさないようにできる……。

わたしはこの話を聞いて頭がぐらぐらしてしまって、そんなことが可能かどうか、考えてみることすらできなかったのだけれど、光を遮断して闇を作るのではなく、闇を人工的に作り出すことは可能なんだろうか。

考えてみれば、わたしの小さい頃は、アイスクリームというのは、暑い夏の楽しみだった。暑い夏に、冷凍庫からよく冷えたアイスクリームを取り出して食べる。暑さを忘れる瞬間である。

ところがいまでは冬に、暖房の良く効いた部屋でアイスクリームを食べる。暖房で多少暖まり過ぎた体に、アイスクリームが心地よい。

このように、わたしたちは、夜を明るく照らすだけでなく、さらに、明るい中に闇を作り出すようになっていくのだろうか。

そういうSFのような、未来のことはさておいて、いまのように夜が明るくなる前はどうだったのだろう。本のなかから、夜が暗かった頃、暗いなかにともる灯りはどんなふうだったのか、見てみたい。

1.明治のころ

明治になって、ちょうど灯りが行灯からランプに移り変わる時期の小説といってまず思い出すのは、芥川龍之介の『雛』という短編である。

物語の語り手は十五になるお鶴。
お鶴の生家は、もともとは大店だったのだが、幕末の混乱で一切を失ってしまい、代々つたわってきた道具類を売ることで、かろうじて生活を成り立たせている。

そうしてお鶴の雛人形もアメリカ人に売ることになってしまった。

わたしの家と申しましても、三度目の火事に遇つた後は普請もほんたうには参りません。焼け残つた土蔵を一家の住居に、それへさしかけて仮普請を見世にしてゐたのでございます。尤も当時は俄仕込みの薬屋をやつて居りましたから、正徳丸とか安経湯とか或は又胎毒散とか、――さう云ふ薬の金看板だけは薬箪笥の上に並んで居りました。其処に又無尽燈がともつてゐる、……と申したばかりでは多分おわかりになりますまい。無尽燈と申しますのは石油の代りに種油を使ふ旧式のランプでございます。可笑しい話でございますが、わたしは未に薬種の匂、陳皮や大黄の匂がすると、必この無尽燈を思ひ出さずには居られません。現にその晩も無尽燈は薬種の匂の漂つた中に、薄暗い光を放つて居りました。
(芥川龍之介 『雛』

無尽燈の光が照らす蔵のなかは、いったいどのくらいの明るさだったのだろう。

雛人形にさほど執着がなかったお鶴だが、手放す日が近づくと、いちど並べてみたくなり、父親にそれをせがむ。だが、売ると決めたものは、もう家のものではない、と、父親は取り合わない。
いよいよ雛人形を手放すことになった当日、入れ替わるように、一家に「ランプ」が来ることになる。

 その晩のことでございます。わたしたち四人は土蔵の中に、夕飯の膳を囲みました。尤も母は枕の上に顔を挙げただけでございますから、囲んだものの数にははひりません。しかしその晩の夕飯は何時もより花やかな気がしました。それは申す迄もございません。あの薄暗い無尽燈の代りに、今夜は新しいランプの光が輝いてゐるからでございます。兄やわたしは食事のあひ間も、時々ランプを眺めました。石油を透かした硝子の壺、動かない焔を守つた火屋、――さう云ふものの美しさに満ちた珍しいランプを眺めました。
「明るいな。昼のやうだな。」
 父も母をかへり見ながら、満足さうに申しました。
「眩し過ぎる位ですね。」
 かう申した母の顔には、殆ど不安に近い色が浮んでゐたものでございます。
「そりやあ無尽燈に慣れてゐたから……だが一度ランプをつけちやあ、もう無尽燈はつけられない。」
「何でも始は眩し過ぎるんですよ。ランプでも、西洋の学問でも、……」
 兄は誰よりもはしやいで居りました。
「それでも慣れりやあ同じことですよ。今にきつとこのランプも暗いと云ふ時が来るんです。」

無尽燈に比べれば、石油ランプははるかに明るいのだろう。一家は雛人形を手放すことで、新しい「美しさに満ちた」石油ランプの光を手に入れる。
だが、みんなが喜ぶなかで、病に臥す母親は、石油の匂が鼻について、重湯さえ食べられない。

なんとか雛人形がもういちど見たい、と思いながら眠ったお鶴は、夜中、目が覚める。

それからどの位たちましたか、ふと眠りがさめて見ますと、薄暗い行燈をともした土蔵に誰か人の起きてゐるらしい物音が聞えるのでございます。鼠かしら、泥坊かしら、又はもう夜明けになつたのかしら?――わたしはどちらかと迷ひながら、怯づ怯づ細眼を明いて見ました。するとわたしの枕もとには、寝間着の儘の父が一人、こちらへ横顔を向けながら、坐つてゐるのでございます。父が!……しかしわたしを驚かせたのは父ばかりではございません。父の前にはわたしの雛が、――お節句以来見なかつた雛が並べ立ててあるのでございます。

 夢かと思ふと申すのはああ云ふ時でございませう。わたしは殆ど息もつかずに、この不思議を見守りました。覚束ない行燈の光の中に、象牙の笏をかまへた男雛を、冠の瓔珞を垂れた女雛を、右近の橘を、左近の桜を、柄の長い日傘を担いだ仕丁を、眼八分に高坏を捧げた官女を、小さい蒔絵の鏡台や箪笥を、貝殻尽しの雛屏風を、膳椀を、画雪洞を、色糸の手鞠を、さうして又父の横顔を、……

 夢かと思ふと申すのは、……ああ、それはもう前に申し上げました。が、ほんたうにあの晩の雛は夢だつたのでございませうか? 一図に雛を見たがつた余り、知らず識らず造り出した幻ではなかつたのでございませうか? わたしは未にどうかすると、わたし自身にもほんたうかどうか、返答に困るのでございます。

ここに出てくるのは行燈である。
天井に吊すのではなく、床に置いた、おそらく高さ90センチあたりに揺れる灯。和紙が周囲に張ってあるため、行燈が投げかける光は、蝋燭の火よりも淡かったのではないか。

不思議、とも、夢ではなかったか、と思うのも、それはすべて覚束ない行燈の光のせいだろう。
芥川龍之介は、滅びゆく世界を、この行燈の光で映しだしたのである。

(この項つづく)