陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

再開します

2009-02-28 22:54:13 | weblog
女の子ということもあるのだろうが、小さいころ、外で走り回って遊んだという記憶が数えるほどしかない。その数少ない記憶が、いつ、どこで、誰と、という具合に、細部にいたるまで異様にはっきりしているので、おそらく当時のわたしにとって、それらはいかにも特殊な体験だったのだろう。

そのころ遊びといえば、スケッチブックにクレヨンで絵を描いたり、人形たちに壮大な王朝物語を演じさせたり、あとはもう本を繰りかえし読んだりするぐらいだったのではあるまいか。そうした遊びのことは、何をした、ということではなく、ガラス戸を開け放った廊下にぺたっとすわって人形を動かしているときに、不意に降り出した天気雨の、不思議なほどきらきらしていた雨粒とか、スケッチブックからはみ出して畳についてしまった水色のクレヨンの油っぽいにおいとか、本を読んでいた部屋の畳の縁の模様とかの記憶と一緒になって残っている。

たいてい家にいたわたしにとって、夏も冬もほとんど関係なさそうなものだが、そのころ冬ならではの記憶といえば、扁桃腺を腫らして高い熱を出して寝込んだときのものだ。

石油ストーブの上には薬缶が載って、チンチンとかすかな音が聞こえる。ときどき湯冷ましをもらう以外は、ほとんど何も口にしないせいで、口のなかが妙にねばつき、舌の奥に苦い味が残ったような気がする。そうしてかならず三度、スプーンで飲まされる水薬の、変な甘ったるさ。そんなときかならず、以前小児科で見かけた奇妙な男の子のことを思い出すのだった。自分と同じくらいの年の子で、お母さんが帰り際に水薬をもらうや否や、それちょうだい、と手を伸ばし、薬ビンからぐびぐびと口飲みし、そこまで、と言われると、もっと飲ませろ、とダダをこねていた子供のことだ。あの子はこの味のどこがそんなに気に入ったのだろう、と、水薬を飲むたび、不思議だった。

やがて症状も落ち着いてくると、苦しさもなくなる。それでも足の裏の熱さだけは気持ち悪く、布団のつめたい場所を探してそこに置いても、そこもまたすぐに温まってくるのだ。そのころは意識もはっきりしていて、本棚の背表紙を眺めながら、一冊ずつその中身をあれやこれやいろんなことを考えているのだが、寝た記憶もないのに、部屋の影が急に向きを変えているのだった。

ときどき冷たい手が額の上に載せられる。もう熱はないね、という言葉といっしょに、しんどくない? とか、何か食べたいものはある? とか、寒くない? とかと聞かれるのだが、その質問にはほとんど意味はないし、答えにも意味はない。それでもかまってもらえるのはうれしかった。

そこから少しずつ起きる時間が長くなってくると、もはやほかの日々とまぎれてしまって、記憶には残っていない。明日は久しぶりの学校だという夜は、クラスの様子はどうなっているだろう、と少し緊張しながら、ランドセルに時間割に合わせて教科書やノートを詰めたものだった。その緊張は、学校へ入るまで続くのだが、たいがい教室に入る前にクラスメイトに声をかけられて、自分がそれまで休んでいたことさえも忘れてしまうのだった。


長いことお休みして申し訳ありません。
休んだあいだものぞきにきてくださったみなさん、気にかけてくださってどうもありがとうございました。
また今日から再開です。
今後ともよろしく。




ご用聞きのおじさん

2009-02-23 23:19:43 | weblog
最近はゴミの分別がやかましくなって、ペットボトルとびんを一緒の袋に入れて出すと、その袋だけが捨て子のように取り残されてしまう。収拾が終わったあと、ぽつんと転がっているゴミ袋を見るのは、なんともうらさびしい眺めなので、せめて自分の出したゴミはそんな目に遭わないよう、冷蔵庫に貼ってある分別表を見ながら、ちゃんと振り分けていく。

資源ゴミというのは月に二回なのだが、出先でついペットボトルのお茶を買ってしまうような夏はともかく、いまのような季節だと、びんもペットボトルも缶も、たいしてあるわけではない。小さなポリ袋にひとつふたつ入れたのを三つぶらさげて、ゴミを出しに行く。

ゴミ置き場も三つに分けられているのだが、ペットボトルが圧倒的に多い。この季節でもペットボトルがあれだけ出ているということは、お茶はもうペットボトルで買ってくるものになってきたのだろうか。考えてみれば、醤油もみりんもペットボトルに入っている。

わたしが子供の頃は、そういうものは全部一升瓶に入っていた。

当時は家に酒屋さんと米屋さんが「ご用聞き」に来ていたのだ。店に買い物に行くのではなく、店の人が月に一度ほど「ご用はありませんか」といって、注文を取りに来る。いまでも酒屋のおじさんの出っ張ったお腹に巻き付けられた、醤油で煮しめたようないろの、ずたぶくろのような前掛けが目の前に浮かんでくる。そこから帳面を出し、耳にはさんだボールペンで、注文の品を書きつけていた。

次の日には勝手口の横に黄色いプラスティックのケースに入ったキリンビールや、水色の一升瓶に入った醤油、そうでなければ10キロ入りの米袋やプラッシーが積んであった。プラッシーが来るとうれしくて、冷蔵庫に何本も入れて、「ほかのものが入らなくなる」と怒られたものだ。

プラッシーと言って、わかる人がいるんだろうか。
おそらく200mlだったと思うのだが、瓶に入ったジュースだ。当時、ジュースというと、果汁は入っていなかったのだが(高校時代、わたしが持っていたカタカナ語の英和辞典には、「ジュース」の項目にjuice ではなく pop という単語が載っていて、「日本のジュースは果汁100パーセントではないので、juice ではない」と注釈がついていた。だが、そのころは100パーセントのオレンジジュースはふつうに売っていたのだが)、このプラッシーにはちゃんとみかんの果汁が入っているのだ、と米屋のおじさんは自慢げに言っていた。粒が入っているから、よく振って飲むんだよ、と。

冷蔵庫で冷やして飲むとおいしくて、やっぱり果汁入りはおいしいなあ、と思っていたのだが、いま考えてみれば何パーセントくらい入っていたのだろう。のちに百パーセントの濃縮還元ジュースを初めて飲んだとき、プラッシーとは味がずいぶんちがうなあ、と思ったものだった。

オレンジ色ではなく、オレンジがかった黄色で、色が薄い。のちに小学校で「プラッシーには米のとぎ汁が入っている」という話を聞いて、そういえば微妙に白濁しているような気がして、家に帰ってあわてて母に聞いて確かめたこともある。「そんなわけないでしょう」と一笑に付されたが、ガラス瓶を透かして見ても、妙に白っぽいような気がして、もしかしたら、という疑念は消えないのだった(子供というのはそういうことを言いたがるものなのかもしれない。のちに「キャラメルコーンに芋虫が入っている」というのを聞いたときは、さすがに嘘だと思った)。

米のとぎ汁疑惑は百パーセント払拭されたわけではなかったが、プラッシーはよく飲んだ。ご飯が食べられなくなる、という理由で、一日一本、と制限されていて、休みの日などはどのタイミングで飲むか、朝からずっと考えていたような気がする(なんというしょうもない一日の過ごし方だ……)。夜まで待って、風呂上がりに飲もうとしたら、こんな時間に飲んだら虫歯になる、と栓を抜いたところで言われて、涙が出るほどくやしかった(どうしてこういうしょうもないことはこんなにはっきり覚えているのだろう)。

飲み終わったプラッシーは、さっと水洗いして、ケースに入れておく。そうすると、つぎの米と一緒に、新しいプラッシーは届くのだった。
ガラス瓶には底の方に傷がけっこうついていたが、そういうものだろうと思っていた。

わたしの家がいつまで酒屋や米屋の掛け売りを続けていたのか、わたしはほとんど記憶がないのだが、勝手口の脇にペットボトルが置いてあったのは見たことがない。スーパーでは醤油がペットボトルに入って売られていても、家に届くのは一升瓶だった。

掛け売りが廃れたのは、消費者がペットボトルで買ってくるようになったせいだろうか。ビールはいつのまにか缶が主流になり、調味料はペットボトルに入って、持ち運びが便利になった。

いままたリユースの声があちこちで聞かれるが、以前のような掛け売りのシステムのないところでは、なかなか定着もむずかしいかと思う。

酒屋のおじさんは話し好きな人で、一度注文を取りに来ると、三十分ぐらいは勝手口で話し込んでいた。米屋のおじさんにはプロ野球のオープン戦のチケットをもらったこともある。掛け売りが復活すれば、それはそれで助かる人も多いように思うのだが、小売店そのものがなくなったいまとなっては、そういうシステムもむずかしいのかもしれない。


それ、いくら?

2009-02-22 22:35:59 | weblog
ちょっと前に、以前、下の階が火事になった話をした。
その後日談なのだが、火事から二週間ほどがたったころ、その火事を出した家の人が「お詫び」としてお金を持ってきた。自分の部屋が全焼し、住むところもなくなった人からお金を受けとるのは、何か心苦しかったのだが、まあこういうときに見舞い金を払うというのは常識的に考えてもふつうのことだろうと思って、わたしは封筒を受けとった。

不思議なもので、そんなものの相場があるのかどうかさえ知らなかったはずなのに、わたしの頭のなかには「だいたいこのぐらい」という目安があったらしい。封筒を開けて、思ったよりはるかに多い紙幣が入っていたのにびっくりして、あわててその人に返しに行った。

熱であおられた鉢植えがダメになったり、網戸が溶けたり、窓ガラスにひびが入ったりの実害はあったにせよ(窓ガラスに関しては、共有設備ということで、アパートの管理組合が入っている保険でまかなわれることになっていた)、それ以上なかったのだ。そんな額は受け取れない。

受け取ってください、こんなに受け取れません、の押し問答があったのち、火元の人は
「じゃ、どのくらいが適当ですかねえ」とわたしに聞いてきた。
わたしとしても、答えられるはずがない。いっそ「お詫びの気持ちだけ」の方がすっきりする、と思ったわたしがそう言うと、それは困ります、と相手は言う。そこで相手は、じゃ、半分ということで、と、封筒から半分を抜いて、残りを渡してくれた。

半分でも、実害と比較すると、もらいすぎなのだ。それでも、これくらいならいいか、という範囲であるように思えて、お気遣いありがとうございました、といって受け取った。

だが、受け取って良かったのか、のちのち気になった。
何人かの人に、もらうべきだったのか、とか、そういうときの相場などを聞いてみた。

ところが相場というのも、誰に聞いても、火事に遭った知り合いに「お見舞い」を出すんだったらわかるけれど……という。その相場にしても、何か根拠がある数字ではなく、なんとなくみんなそのぐらいを出しているらしい、ぐらいのものでしかない。

なかには「怖い思いをしたのだから、くれるというのなら、それだけもらったって全然多すぎるとは思わない」という人もいて、値段のないものに値段をつけることのむずかしさを感じた経験だった。

ネットの広告に、「あなたの適正年収を診断します」というものがある。学歴や資格など、いくつかの項目に記入すると、「適正年収」が出るらしいのだが、これはいったいどうやって割り出すのだろうか。公務員の給与あたりを基準にしているのだろうか。

だが、その「尺度」がいったいどこから割り出されたものなのだろう。しかも、それを自分に当てはめる根拠がどこにあるのだろうか。だが、こういう基準さえないところでは、自分に値段をつけることは不可能なのだ。わたしたちは暫定的に、そういう基準が適切であるかのようにふるまっている。

慰謝料というのも、よくわからないものだ。
知り合いに慰謝料をもらって離婚した人がいるが、離婚が成立して慰謝料をもらったときに、何ともいえない空虚感を感じたそうだ。いろいろもめて、調停を申し立てて、それが銀行に振り込まれた数字となって表れて、もちろん調停でそれを受け入れてはいても、「自分の苦しみはこの値段だったのか」と、愕然とする思いだった、という。「その気持ちは経験者じゃないと絶対にわからない」と言っていた。わたしも聞いていて、そんなものなのだろうと思ったのだった。

わたしたちは自分の能力とか、感情とか、本来なら値段のつけようのないものに値段をつけている。別の言い方をすれば、本来「質」としてあるものを、「量」に置き換えて、計測しているのだ。「わかったかどうか」をテストの点数で判定する小学生時代からの経験をふまえて、わたしたちはふだんそれを当たり前のように受け入れているけれど、それは本来、ずいぶんおかしなことだ。その置き換えが適切なものなのかどうなのか、判断のしようがないからだ。

だが、非日常的な感情の激しい揺れを経験したときに、不意に、質が量として計測されることの違和感が兆す。
なぜ、それにその値段がついているのだろう。

そうやってみると、ものの値段、というのはどこまでいってもよくわからないものだ。


今日も告知だけ

2009-02-21 23:12:49 | weblog
すいません。告知だけの記事をアップするのは実に気が引けるのですが、今日もサイトを更新しただけの記事です。

"what's new"を書きました。これもね、どういうわけか、これだけのことを書くのに最近時間がとってもかかるんですよ。これだけ書いて、へろへろになっちゃうんです。

またのぞいてみてください。

だから、もう抜け殻になってしまって。
明日はちゃんとした?記事をアップする予定でいますので、よろしゅうに。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

サイト更新しました

2009-02-20 22:57:00 | weblog
サキではありません。
去年の6月ぐらいにここで連載していた「濡れ衣」に関してのあれやこれやを大幅に加筆修正して「濡れ衣が乾くまで」としてアップしました。
明日には更新情報を書くつもりなので、またお暇なおりにでものぞいて見てください。
サキも近日中にアップします。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

『高瀬舟』と「足るを知る」こと

2009-02-19 22:59:07 | weblog
森鴎外の『高瀬舟』というと、たいてい「安楽死」を扱った作品であるとされている。
だが、わたしが気にかかるのは、それとは少し違う箇所なのである。

高瀬舟に乗せられて幸せそうに見える罪人を、同心庄兵衛は不思議に思う。話を聞いてみると、確かに喜助は「二百文」をもらって喜んでいるのだ。
お恥ずかしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文というお足を、こうしてふところに入れて持っていたことはございませぬ。どこかで仕事に取りつきたいと思って、仕事を尋ねて歩きまして、それが見つかり次第、骨を惜しまずに働きました。そしてもらった銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買って食べられる時は、わたくしの工面のいい時で、たいていは借りたものを返して、またあとを借りたのでございます。それがお牢にはいってからは、仕事をせずに食べさせていただきます。わたくしはそればかりでも、お上に対して済まない事をいたしているようでなりませぬ。それにお牢を出る時に、この二百文をいただきましたのでございます。こうして相変わらずお上の物を食べていて見ますれば、この二百文はわたくしが使わずに持っていることができます。お足を自分の物にして持っているということは、わたくしにとっては、これが始めでございます。島へ行ってみますまでは、どんな仕事ができるかわかりませんが、わたくしはこの二百文を島でする仕事の本手にしようと楽しんでおります。
喜助の話を聞いた庄兵衛は考える。
庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べてみた。喜助は仕事をして給料を取っても、右から左へ人手に渡してなくしてしまうと言った。いかにも哀れな、気の毒な境界である。しかし一転してわが身の上を顧みれば、彼と我れとの間に、はたしてどれほどの差があるか。自分も上からもらう扶持米を、右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎぬではないか。彼と我れとの相違は、いわば十露盤の桁が違っているだけで、喜助のありがたがる二百文に相当する貯蓄だに、こっちはないのである。
庄兵衛の考えはやがて「足るを知る」ということに向かい、それを知っている喜助と、知らない自分の比較に考えは及んでいくのだが、わたしはその手前に少し踏みとどまりたいのだ。鴎外は『高瀬舟』にも「縁起」を書いているのだが、そのなかでもこんなふうに言っている。
私はこれを読んで、その中に二つの大きい問題が含まれていると思った。一つは財産というものの観念である。銭を待ったことのない人の銭を持った喜びは、銭の多少には関せない。人の欲には限りがないから、銭を持ってみると、いくらあればよいという限界は見いだされないのである。二百文を財産として喜んだのがおもしろい。
つまり、貨幣を所有するというのはどういうことなんだろう、という観点から、この部分を読むことができるのではないか。

貨幣はもちろん容易に「力」に結びつく。より多く貨幣を持っている者は、より多く交換する力を持っているわけだから、それが「権力」ということにもなっていく。「銭を持ってみると、いくらあればよいという限界は見いだされないのである」ということは、すなわち、力への欲望というのは限りがない、ということだろう。

では、喜助はいったい何を「ありがたい」と思っているのか。「二百文分」の力を手に入れたことを喜んでいるのか。「島でする仕事の本手」というからには、やはり「二百文」でできる力を得た、と考えているともいえる。だが、喜助の言葉にはもっと額面にはよらない、所有そのものに対する根源的な喜びがあるように思うのだ。

社会で生活するためには、お金が必要欠くべからざるものとしてある。お金がなければ、人とやりとりすることができない。それは農村部はともかく、都市部では、江戸時代でも同じことだろう。

喜助の喜びは、社会の一員となれたことの喜びなのだろうか。確かに『高瀬舟』のなかにはこんな部分もある。
わたくしはこれまで、どこといって自分のいていい所というものがございませんでした。こん度お上で島にいろとおっしゃってくださいます。そのいろとおっしゃる所に落ち着いていることができますのが、まず何よりもありがたい事でございます。

自分にとっての居場所がある、たとえ島流しにされた遠島であっても、社会の一員としての場所を与えられた、という喜びが語られる。
二百文は、人間の社会に入れてもらえる「パスポート」だったのだろうか。

だが、それとは別に、人間は何かを所有することに対する根源的な喜びがあるのではないか、という気がするのだ。それで何かができるから、ということではない。ちょうどカラスがキラキラ光るガラス玉を巣に集めるように、「自分だけの何か」を持つことは、ひとに喜びを、生きる力を与えるのだろうか。

喜助はまだ何も所有していない。けれども、二百文ではあれ、貨幣を手にした喜助は、それをもとに「何ものか」を所有できる可能性を手にしたわけだ。彼の喜びというのは、「何かを所有できる未来」を手に入れた喜びだったのだろうか。

それにしても、不況だの危機だの不景気だのという言葉が踊る新聞を見るたびに、わたしはやはり「足を知る」という言葉を思い出す。
 庄兵衛はただ漠然と、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。
わたしたちがばくぜんとした不安を感じているのも、どこまで行っても踏みとどまれないがゆえの不安だろう。病気になってしまえば、病気を不安に思ったりはしないのだ。不安になるのは、健康だからなのだ。「この根底はもっと深いところにあるようだ」と庄兵衛は思う。喜助が「足を知」っているのは、その経験からだったのだろうか、それとも彼の資質のせいだったのか。このことと、安楽死の問題は、どこまで関係があるのだろうか。わたしはよくわからないままだ。


恥ずかしいことですよ?

2009-02-18 22:55:21 | weblog
冷凍餃子事件の頃だから、一年ほど前のことになる。
ニュースのなかで、街頭インタビューをやっていた。

餃子事件についてどう思いますか、とマイクを向けられて、主婦とおぼしき女性が、「自分が食べるものを輸入に頼るなんて、恥ずかしいことですよ」と非難する調子で言ったので、ものすごく奇妙な気がした。
ところがこの奇妙さは、それを伝えたリポーターもスタジオのアナウンサーも感じなかったらしく、その奇妙なコメントは「街の声の代表」のように、全体のなかに織り込まれていったのだった。

わたしはそのとき、この人の「恥ずかしいことですよ」の主語は何だろうと思ったのだ。

「わたし」が「恥ずかしい」のか。
「わたしが、(自分が食べるものを輸入に頼っている)日本人を、(その一員として)恥ずかしく感じる」という意味でこの言葉が口にされたのなら、少なくとも「恥ずかしい」のは自分を含む日本人であるから、非難のニュアンスがこもるのはおかしくはないか。

「わたしが恥ずかしい」というとき、人は外に向けた非難のニュアンスをそこにこめることはしない。非難というのは、あくまでも自分以外の人びとに向けられるものだ。

そう考えていくと、この人の「恥ずかしいことですよ」は、「それは恥ずかしいことなのだから、恥と知るべきです」という文章の省略形のように思えてくる。

だからこのとき「恥ずかしい」の主語は「(自分が食べるものを輸入に)頼ることが」ということになるのだろう。

では、そう言っている人は、いったいどこに立ってこの発言をしているのだろうか。
「わたしが恥ずかしい」なら、恥ずかしくないような行動を考えなければならない。
けれども「××することが恥ずかしい」というのは、「空が青い」と一緒で、それを言っている人は何の関係もない。
「空が青いですね」
「今日は寒いですね」
「それは恥ずかしいことですね」

どこかに「あるべき正しいやり方」があって、現在の状態をそれと引き比べて「恥ずかしいことですよ」と客観的に評価しているのだ。

だが、それを言っている人は、ほんとうにそのことと無関係なのだろうか。
冷凍餃子事件が明らかにしたのは、こういうことではなかったか。
安いから、手に入れやすいから、という理由で輸入食品を購入していた。農業生産者が現在置かれている状況を、自分がまったく知らないことにさえ気がついていなかった。
恥ずかしいのはこの自分なのだ。

首相が簡単な漢字さえ読めないという報道が新聞をにぎわしていたころ、わたしはこのときのインタビューを思い出していた。そうしてG7での元財務大臣の記者会見での応答をめぐる報道についても、「恥ずかしいことですよ」の大合唱を聞いたように思ったのだ。

だが、そういう首相や財務大臣を戴いているのは、わたしたちなのだ。
恥ずかしいのは、誰なのか。
なのに新聞のトーンは、もれなく引用してある海外のメディアの報道と、いささかも変わりはない。「恥ずかしいことですよ」と言っていれば、それですむのか。

去年のちょうどいまごろ、中野好夫の文章を引用して、「指導者出よ?」という文章を書いた。

戦後まもない昭和21年三月、中野はこう書く。
戦争中ついに私に諒解できなかったことは、指導者出でよ、大号令を待つ、というあの国民の声である。さらにもっと滑稽なのは、国民の準備はできている、今はただ大号令を待つのみ、というあの悲鳴である。それも一般大衆だけならまだしもだが、堂々たる知識層も言った。一流の新聞紙までが臆面もなく三日に一度は書いた。(中略)
一体号令してくれとは、正直言って一人前の成人のそう口にすべき言葉ではないはずである。民主主義に再出発するという日本人が真剣に考え直さなければならない問題ではないかと思う。
(中野好夫「歴史に学ぶ」『ちくま日本文学全集 中野好夫』所収 筑摩書房)
わたしたちはいまも待っているのだろうか。すばらしい指導力を発揮してくれる首相や大臣が登場して、大号令を発してくれるのを。そうして、どこかにいるすばらしい指導者と引き比べて、現在の首相や元財務大臣を「恥ずかしい」と批判しているのだろうか。

そう考えていくと、わたしたちは自分たちにふさわしい人びとを、自分たちの代表に戴いている、と言えるのかもしれない。


……うん、勉強しよう。



朝の占い

2009-02-16 22:38:15 | weblog
先日まで訳していたサキの「暦」だが、昔、わたしのうちにも酒屋が持ってきてくれる大ぶりの日めくりの端に、毎日占いのようなものがついていた。いまでもJRに乗ると、車内のモニターに星占いが出る。インターネットにつないで、msn でも goo でも yahoo でもポータルサイトにアクセスすれば、たいてい星占いが端の方に出てくる。

わざわざ自分から進んで見に行ったりはしなくても、目に飛び込んでくればとりあえず自分の星座は見る。占いなど信じていなくても「周りの人の気持ちも考えて行動しましょう」とあれば、頭の隅に留めておく。たとえ駅を出る頃には忘れてしまっていても、とりあえずその場では自分の星座を確認せずにはいられない。

わたしたちはそんなに占いが好きなんだろうか。
毎日目にしても、当たったかどうかなど、ほとんど気にしない、というか、昼過ぎまで覚えていることはまれではないか。そんなに好きなら、もっと意識に留めておいて、当たったか当たらなかったかの結果を大切にするのではないか。そういえば「幸運な一日」とあったけど、別にたいしたことはなかったなあ、と寝る前にひょいと思い出すことがあるにせよ、それで落胆することもなく、その占いを書いた占い師(?)を恨みに思うようなこともないだろう。

こんなふうに考えていくと、わたしたちは「占いが当たっているかどうか」ではなく、「今日という日」の目安がほしいのかもしれない、という気がする。

知らないところへ行く道は遠い。不安になりながら、初めての場所へ行く。ところがそこから帰る道は、あれ、こんなに近かったのか、と思う経験は、だれにもあるのではあるまいか。

それでも、たとえ行ったことがなくても、その近くへ行ったことがあったり、目印になる場所を知っていたりすれば、その不安感はずいぶんちがう。

新しい日に向き合うわたしたちは、知らないところへ行くのと一緒だ。占いは、地図の代わりにはならなくても、漠然とした「あそこらへん」ぐらいの目安にはなる。そうやって、一日が軌道にのってしまえば、もはやその目安はいらなくなる。

占いを信じているわけではない。それでも、目安があればのっぺらぼうの一日にめりはりがつく。わたしたちが求めているのは、おそらくはアドバイスではなく「めりはり」なのだ。言ってみればそのアドバイスというのは何でもいいのだ。

サキの短篇の「暦」では、ヴェラたちはごく当たり障りのないことを書いておいて、当たったかどうかの判断は、読み手に任せている。
けれども読み手が求めていたのは「当たるかどうか」ではなく、背中を押してくれる「目安」であったと考えると、18ペンス分の価値は十分あったにちがいない。

(※このところ風邪を引いてちょっと体調を崩していました。
のぞいてくださった方、無駄足踏ませてしまってごめんなさいね。
いま別の記事をひとつ書いていて、サキもそのうちアップします)


サキ「こよみ」(後編)

2009-02-13 23:10:32 | 翻訳
(後編)

 それから一日二日たつうちに、クローヴィスが自己中心的ではないことを示す機会が訪れた。キツネ狩りに参加したクローヴィスがふと見ると、ブラッドベリー門のそばにジョスリンがいた。あたりでは猟犬たちが姿の見えないキツネのあとを追って、長い木のうろを探しまわっていた。

「臭いのあとなんてたいして残ってないだろうし、ここら一帯は隠れ場所には事欠かないから」クローヴィスは馬に乗ったままぶつぶつ言った。「キツネをここから追い立てるまで何時間もここにいなくちゃならなくなりそうだな」

「だからわたしたち、たくさんお話できるじゃありませんの」ジョスリンはいたずらっぽくそう言った。

「問題は」クローヴィスは陰気な声を出す。「話しているところを見られていいのかどうなのかってことなんです。あなたを巻き添えにしてしまうかもしれない」

「まあ! 何の巻き添えなんですの?」ジョスリンの息が弾んでいる。

「ブコウィナってご存じですか」いかにも何気ないふうにクローヴィスはたずねた。

「ブコウィナ? 小アジアのどこかじゃありませんでしたっけ……それとも中央アジアだったかしら……それともバルカン半島の一部?」ジョスリンは当てずっぽうを言った。

「革命の瀬戸際なんです」いかにも重大なことを告げるようにクローヴィスが言った。「だからこそぼくはあなたに気をつけていただきたいんです。ぼくがブカレストの伯母のところにいたとき」(クローヴィスはほかの人間がゴルフ歴を創作するがごとく、伯母さんを気前よく創作する)「ぼくは自分がいったい何に関わり合っているのかも知らないままに、ある事件に巻き込まれてしまったんです。王女がいらっしゃって……」

「なるほど」ジョスリンは心得顔にうなずいた。「こういう事件には美しくて魅力的な王女様がつきものですものね」

「いや、あそこまで不器量で退屈な女は東ヨーロッパ中探しても見つけられっこありません」とクローヴィス。「いまにも昼食の声がかかりそうなときにやってきて、夕食のために着替えなきゃならないような時間まで居座るような人なんです。ところで、ここにユダヤ系ルーマニア人が出てくるんです。鉱山の利権を保証してくれるなら、革命の資金を喜んで出そうという人物です。そのユダヤ人はヨットでイギリス沿岸をまわってるんですが、王女が権利書をわたすには、ぼくが一番安全な人間だと考えたんですよ。ぼくの伯母さんはこう耳打ちします。『お願いだから、王女様のおっしゃるとおりにしてさしあげて、さもないと晩餐まで居座っちゃうから』って。どんなことになるぐらいだったら、どんな犠牲だって払おうってもんですよ、だからいまぼくがここにいるのもそのためなんです。ぼくの胸ポケットが膨れてるでしょ、なかには例の書類が入ってる。おかげでぼくはまず生きては帰れないでしょうね」

「でも」とジョスリンは言った。「あなたはイギリスにいらっしゃるんですもの、安全なんじゃありません?」

「あそこに男がいるのが見えますか、葦毛の馬に乗ってる」クローヴィスは黒い口ひげでおおわれた男を指さした。近くの町から来た競売人らしいが、いずれにしても狩りのなかではなじみのない男である。「あいつはぼくが王女様を馬車まで送っていったとき、伯母の家の前に立っていたんです。ぼくがブカレストを発つときは駅のプラットホームにいましたし、イギリスに着いたときには港の桟橋にいました。ぼくの行く先々で、すぐ近くにいるんです。今朝も会ったところで、驚くにはおよびません」

「だけどあのひと、あなたに何もできはしないでしょう?」ジョスリンの声はふるえていた。「殺すことなんてできるはずがないわ」

「目撃者のいるところではそんなことはできません。そんな危険は犯しませんよ。猟犬が獲物を見つけて、狩り場にみんなが散ったときが、あいつにとってのチャンスです。やつは今日こそあの書類を横取りしようと狙っているはずだ」

「だけどその書類をあなたが肌身離さず持っているってどうしてわかるの?」

「それはわからない。こうやって話しているときに、もしかしたらそっと書類を渡しているかもしれません。だからいざとなったらぼくたちのどちらを狙おうか、腹を決めようとしているんです」

「ぼくたちって?」ジョスリンは悲鳴をあげた。「もしかしてあなたが言ってるのは……」

「だからぼく、言ったでしょう。一緒に話しているところを見られるのは危険だって」

「でも、そんなのひどいわ! わたし、どうしたらいいのかしら」 

「猟犬たちが動き出したら、すぐに藪に飛び込んで、ウサギみたいに走るんです。それ以外に逃げ延びるチャンスはありません。でも、忘れないで。もしうまく逃げおおせても、一切他言は無用です。いまぼくがお話ししたようなことを、一言でもあなたが漏らせば、命の危ない人が何人もいる。ブカレストの伯母が……」

 そのとき、窪地の方から猟犬のクンクン鳴く声が聞こえてきたかと思うと、あちこちに散って馬上で待っていた人びとが、波紋のように動き出した。叫び声がひとつ、それに呼応するように、ざわめきが渓谷の方から聞こえてくる。

「見つかったんだ!」クローヴィスは叫ぶと、馬の向きをぐいっと変えて、殺到する人びとに合流しようとした。がさっ、ごそごそっと音がして、人が大急ぎでカバノキのやぶや枯れたシダを踏み分け、決然と進んでいく音がする。彼がいましがたまで相手をしていた人物の痕跡はその音だけとなった。

 ジョスリンの一番親しい友人たちも、彼女がキツネ狩りで遭遇した恐るべき危機がどんなものだったか、ほんとうのところは決して知ることはできなかったが、暦の売上げ向上に寄与するぐらいの内容は、広く知れ渡ることとなった。その暦、値上げされて、新価格は三シリングである。



The End