ローマ熱 その4.
II
もうながいこと、言葉を交わすこともなく並んで腰をおろしていた。まるで、死の記念碑とでもいうべき巨大な存在を目の当たりにしたふたりがともに、救いというものは、むしろ無為に過ごすうちにあるのだと感じているかのように。身じろぎもせず座っているミセス・スレイドの目は、シーザー宮殿へと続く金色の坂にじっと注がれており、やがてミセス・アンズレイもハンドバッグをもてあそぶのをやめて、深い物思いに沈んでいった。たいていの親しい友人がそうであるように、このふたりも黙ったままいっしょにいたようなことは絶えてなく、ミセス・アンズレイは、長年の親しいつき合いのなかで、これまでにはなかった状態を、どうしたらよいものか見当もつかず、かすかにとまどっていたのだった。
急にあたり一帯に鐘の音の深い響きが満ち、ローマの市街地全体がひとつの教会になったように銀色の屋根に覆われる時間がきた。ミセス・スレイドは腕時計に目を走らせた。「もう五時なんだわ」とさも驚いたように言う。
ミセス・アンズレイがそれとなく尋ねた。「五時に大使館でブリッジがあるんだったわよね」しばらくミセス・スレイドは何も言わなかった。ずいぶん考えこんでいるみたい、たぶん聞こえなかったんだわ、とミセス・アンズレイは思った。だが、しばらくしてから、急に夢から覚めでもしたように返事がかえってきた。「ブリッジって言った? もし行きたくないんだったら……わたしは行きたい気分ではないけど」
「ええ、そうね」ミセス・アンズレイは即座に同意した。「わたしもほんとうはどうだってよかったの。ここはほんとうに美しいのですもの。あなたの言うとおり、昔の思い出がたくさん」椅子に身を沈めて、半ば隠すようにして編み物を取りだした。その仕草を目の隅で捉えたミセス・スレイドだったが、手入れの行き届いた自分の手は、膝の上に置いたまま、動かそうともしなかった。
「わたしが考えていたのはね」とぽつぽつと話しはじめた。「ローマって、いろいろな旅行者にとって、その世代ごとでずいぶんちがったイメージでとらえられてきたのだろう、ってこと。わたしたちの祖母の世代だと、ローマ熱よね(※マラリアのこと。湿地の多いローマでは、蚊が媒介するマラリアが多く、ローマ帝国崩壊の理由の一つとも言われる)。母の世代にとっては、恋愛沙汰――わたしたち、それはそれは見張られていたものね。だけど、娘たちときたら、ただの繁華街ぐらいにしか思ってない。あの子たちは気がついていないけれど、そのためにどれほどいろんなことを見過ごしているのかしら」
長く伸びた金色の日差しがしだいに輝きを失って、ミセス・アンズレイは編み物を少し目の近くまで持ち上げた。「そうねえ。わたしたち、それはそれは厳重に保護されていたものね」
「わたし、よくこんなふうに思ったわ」ミセス・スレイドは言葉を継いだ。「わたしたちの母は、祖母の世代よりずっと大変だったんじゃないのかしら、って。ローマ熱が往来で流行っていた時代なら、危ない時間帯に娘を閉じこめておくのは、そんなにむずかしいことではなかった。だけど、あなたもわたしも若かった頃は、手招きするステキなものはうんとあるし、ときには反抗してみるのも刺激的だし、日が翳って寒くなってからだって、せいぜい風邪をひくぐらいの危険しかなかったし、母たちはわたしたちを閉じこめておくのにさぞかし苦労をしたことでしょうね」
ミセス・アンズレイを見やると、目下、編み物は難しい箇所にさしかかっているらしかった。「一、二、三――ふたつ飛んで――、そうね、きっとそうだったんでしょうね」と顔を上げることもなく同意した。
その様子をミセス・スレイドはしげしげと眺める。
――編み物ができるなんてねえ……こんな景色を前にして。まったくこのひとらしい……。
椅子にもたれたミセス・スレイドは、ためつすがめつ、視線を目の前の廃墟から、フォロ・ロマーノの草の繁る窪地へ、その向こうにある翳りゆく日を浴びる教会正面、さらにその外側に拡がる巨大なコロシアムへとさまよわせていった。不意に思う。
――娘たちがセンチメンタルになったり、月の光を見て感じたりすることもなくなってしまってもいっこうにかまわないけれど。でも、もしバブス・アンズレイがあの若い飛行機乗り、例のマルタ島出身の彼をつかまえようとして出かけたのは、まちがいなかったとしても、わたしはなにもわからない。おまけにバブスがいれば、ジェニーには何のチャンスもないし。それならはっきりとしてるわ。だからグレイス・アンズレイは娘ふたりをどこだって一緒に行かせるのかもしれない。かわいそうなうちのジェニーはカモフラージュってわけね。
ミセス・スレイドはほとんど声を出さずにそっと笑ったが、それを耳に留めたミセス・アンズレイは編み物をしている手を下ろした。
「どうかしたの」
「え? ……あら、なんでもないのよ、ただお宅のバブスはなんであろうとうまくやっていくのだろう、って思っただけ。あのカムポリエリ家の息子さんは、ローマで最高のお相手よ。あら、知らないふりをしたってダメよ。あなただって知ってるでしょう。わたし、ずっと不思議だった。もちろん尊敬の念をこめて、ってことだけど、わかるでしょ……あなたとホラスみたいに模範的な人格の人のところへ、どうしてあんなエネルギーの固まりみたいなお嬢さんが生まれたんでしょうね」ミセススレイドはかすかに棘を含んだ声音でそう言った。
(この項つづく)
II
もうながいこと、言葉を交わすこともなく並んで腰をおろしていた。まるで、死の記念碑とでもいうべき巨大な存在を目の当たりにしたふたりがともに、救いというものは、むしろ無為に過ごすうちにあるのだと感じているかのように。身じろぎもせず座っているミセス・スレイドの目は、シーザー宮殿へと続く金色の坂にじっと注がれており、やがてミセス・アンズレイもハンドバッグをもてあそぶのをやめて、深い物思いに沈んでいった。たいていの親しい友人がそうであるように、このふたりも黙ったままいっしょにいたようなことは絶えてなく、ミセス・アンズレイは、長年の親しいつき合いのなかで、これまでにはなかった状態を、どうしたらよいものか見当もつかず、かすかにとまどっていたのだった。
急にあたり一帯に鐘の音の深い響きが満ち、ローマの市街地全体がひとつの教会になったように銀色の屋根に覆われる時間がきた。ミセス・スレイドは腕時計に目を走らせた。「もう五時なんだわ」とさも驚いたように言う。
ミセス・アンズレイがそれとなく尋ねた。「五時に大使館でブリッジがあるんだったわよね」しばらくミセス・スレイドは何も言わなかった。ずいぶん考えこんでいるみたい、たぶん聞こえなかったんだわ、とミセス・アンズレイは思った。だが、しばらくしてから、急に夢から覚めでもしたように返事がかえってきた。「ブリッジって言った? もし行きたくないんだったら……わたしは行きたい気分ではないけど」
「ええ、そうね」ミセス・アンズレイは即座に同意した。「わたしもほんとうはどうだってよかったの。ここはほんとうに美しいのですもの。あなたの言うとおり、昔の思い出がたくさん」椅子に身を沈めて、半ば隠すようにして編み物を取りだした。その仕草を目の隅で捉えたミセス・スレイドだったが、手入れの行き届いた自分の手は、膝の上に置いたまま、動かそうともしなかった。
「わたしが考えていたのはね」とぽつぽつと話しはじめた。「ローマって、いろいろな旅行者にとって、その世代ごとでずいぶんちがったイメージでとらえられてきたのだろう、ってこと。わたしたちの祖母の世代だと、ローマ熱よね(※マラリアのこと。湿地の多いローマでは、蚊が媒介するマラリアが多く、ローマ帝国崩壊の理由の一つとも言われる)。母の世代にとっては、恋愛沙汰――わたしたち、それはそれは見張られていたものね。だけど、娘たちときたら、ただの繁華街ぐらいにしか思ってない。あの子たちは気がついていないけれど、そのためにどれほどいろんなことを見過ごしているのかしら」
長く伸びた金色の日差しがしだいに輝きを失って、ミセス・アンズレイは編み物を少し目の近くまで持ち上げた。「そうねえ。わたしたち、それはそれは厳重に保護されていたものね」
「わたし、よくこんなふうに思ったわ」ミセス・スレイドは言葉を継いだ。「わたしたちの母は、祖母の世代よりずっと大変だったんじゃないのかしら、って。ローマ熱が往来で流行っていた時代なら、危ない時間帯に娘を閉じこめておくのは、そんなにむずかしいことではなかった。だけど、あなたもわたしも若かった頃は、手招きするステキなものはうんとあるし、ときには反抗してみるのも刺激的だし、日が翳って寒くなってからだって、せいぜい風邪をひくぐらいの危険しかなかったし、母たちはわたしたちを閉じこめておくのにさぞかし苦労をしたことでしょうね」
ミセス・アンズレイを見やると、目下、編み物は難しい箇所にさしかかっているらしかった。「一、二、三――ふたつ飛んで――、そうね、きっとそうだったんでしょうね」と顔を上げることもなく同意した。
その様子をミセス・スレイドはしげしげと眺める。
――編み物ができるなんてねえ……こんな景色を前にして。まったくこのひとらしい……。
椅子にもたれたミセス・スレイドは、ためつすがめつ、視線を目の前の廃墟から、フォロ・ロマーノの草の繁る窪地へ、その向こうにある翳りゆく日を浴びる教会正面、さらにその外側に拡がる巨大なコロシアムへとさまよわせていった。不意に思う。
――娘たちがセンチメンタルになったり、月の光を見て感じたりすることもなくなってしまってもいっこうにかまわないけれど。でも、もしバブス・アンズレイがあの若い飛行機乗り、例のマルタ島出身の彼をつかまえようとして出かけたのは、まちがいなかったとしても、わたしはなにもわからない。おまけにバブスがいれば、ジェニーには何のチャンスもないし。それならはっきりとしてるわ。だからグレイス・アンズレイは娘ふたりをどこだって一緒に行かせるのかもしれない。かわいそうなうちのジェニーはカモフラージュってわけね。
ミセス・スレイドはほとんど声を出さずにそっと笑ったが、それを耳に留めたミセス・アンズレイは編み物をしている手を下ろした。
「どうかしたの」
「え? ……あら、なんでもないのよ、ただお宅のバブスはなんであろうとうまくやっていくのだろう、って思っただけ。あのカムポリエリ家の息子さんは、ローマで最高のお相手よ。あら、知らないふりをしたってダメよ。あなただって知ってるでしょう。わたし、ずっと不思議だった。もちろん尊敬の念をこめて、ってことだけど、わかるでしょ……あなたとホラスみたいに模範的な人格の人のところへ、どうしてあんなエネルギーの固まりみたいなお嬢さんが生まれたんでしょうね」ミセススレイドはかすかに棘を含んだ声音でそう言った。
(この項つづく)