陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

カーソン・マッカラーズ「家族の問題」その5.

2008-11-29 22:05:33 | 翻訳
その5.

 エミリーは台所のテーブルに身を預け、曲げた肘に顔を埋めるようにして、すすり泣いていた。マーティンはスープをよそってその前に置いた。あえぐようにすすり泣く声を聞いているうちに、彼の気持ちも寄る辺を失っていた。その原因が決して褒められたものではなかったにせよ、思いを爆発させた彼女に、胸の奥のいつくしみの感情を揺さぶられたのである。思わず、黒い髪に手をのせた。「体を起こして、スープを飲むといい」顔を上げたその顔は、悔い改め、慈悲を請うような表情が浮かんでいた。アンディが二階へ上がったせいか、それともマーティンの手がふれたことで、気持ちの方向が変わったのか。

「マ……マーティン」彼女は泣きじゃくっていた。「あたし、恥ずかしい」

「スープを飲みなさい」

 その言葉に従って、あえぐ息の合間にスープをすする。二杯目のカップが空になると、夫に引かれて寝室へ上がっていった。いまはもうおとなしく言われるままになっていた。マーティンがナイトガウンをベッドにのせて部屋を出ようとすると、アルコールによる精神的動揺のためだろう、新たな悲しみが噴き出した。

「あの子、行っちゃった。あたしのアンディが、あたしを見て背を向けた」

 いらだちと疲労のせいで声がとがってしまうのはどうしようもなかったが、それでも慎重に言葉を選んで話した。「きみはアンディがまだ小さい子だということを忘れちゃいけない――あんな場面を見ても、何がなんだかわかりゃしないよ」

「ねえ、あたし、そんな場面を見せちゃったの? ああ、マーティン、あたし、子供たちの前で“あんな場面”って言われなきゃならないようなことをしちゃったの?」

 その怯えきった表情を見て、胸がまた揺さぶられたが、どういうわけか思いがけず笑いそうにもなったのだった。「もういいんだよ。寝間着に着替えてもう寝なさい」

「あたしの子供があたしに背を向けて行っちゃった。アンディはママの顔を見て、背を向けた……」

 エミリーはまたアルコールによる悲しみの周期にとらえられていた。マーティンは部屋を出ながら言った。「頼むから、もう寝ておくれ。子供たちも明日には忘れてるさ」

 そう言いながら、彼はほんとうにそうなのだろうかといぶかってもいた。あの場面が、そんなに簡単に記憶から滑り落ちていくものなのだろうか……それとも、無意識の底に根を張り、後になってもそこに巣くうのだろうか。 マーティンには何とも言えなかったが、あとの場合のことを思うと、気分が悪くなった。エミリーのことを考える。一夜明けての惨めな気分が目に見えるようだった。断片的な記憶と明瞭な意識が、容赦ない光を忘却という暗闇の底に沈んだ恥辱に投げかけるのだ。おそらくエミリーはニューヨークの事務所に電話を寄越すだろう。二度は――もしかしたら、三度、四度と。マーティンにはそのときの自分のばつの悪い気持ちがいまから予想できた。事務所の連中は何か勘づくだろうか。彼は、秘書がずいぶん前から自分の抱えている問題を知っていることに気がついていた。つかのま、彼は自分の運命を憤り、苦い気持ちをかみしめた。

 だが、ひとたび子供部屋に入ってドアを閉めると、その夜初めて温かな心地を感じた。マリアンヌは床にころんと転がっては自分で立ちあがり、「パパ、見てて」と大きな声で言い、また転がり、立ちあがり、そうやって繰りかえしながら決まって父親を呼ぶのだった。アンディは子供用の低い椅子に腰かけて自分の歯を動かしている。マーティンは浴槽にお湯を張り、洗面所で自分の手を洗ってから、アンディをバスルームに呼んだ。

「もう一回、歯を見てやろう」マーティンは便器の蓋に腰をおろし、両膝でアンディの体をはさんだ。子供が口をあんぐりと開けたところで、マーティンは歯をつかんだ。ぐらぐらと動かして、すばやくきゅっとねじってやると、真珠のような乳歯は抜けた。最初、怖そうだったアンディの表情は、じき、びっくりしたような顔に、それからぱっとうれしそうな顔に変わっていく。アンディは水を口に含んでから、洗面台にぺっと吐きだした。

「見てよ、パパ! 血が出たよ。マリアンヌ!」


(明日最終回)


カーソン・マッカラーズ「家族の問題」その4.

2008-11-28 23:14:08 | 翻訳
その4.

「やあ、アンディ・キャンディ」マーティンは言った。「あの古いやつはまだおまえの口のなかにしがみついてたのかい? こっちへおいで、パパに見せてごらん」

「引っ張る糸を持ってるんだ」アンディはポケットからもつれた糸を取り出した。「ヴァージーがね、歯をこの糸でしばって、反対側をドアのノブにくくりつけて、思いっきりバタンって閉めなさい、って言ったんだ」

 マーティンはきれいなハンカチを出して、ぐらぐらしている歯を念入りに調べた。「こいつは今夜にはアンディ君の口のなかから抜けるだろうね。さもなきゃ家族がひとり歯の木になっちまう」

「何だって?」

「歯の木だよ」マーティンは言った。何かに噛みついて、一緒に歯を飲み込んだとするだろう。そしたらアンディ君のお腹のなかで歯は根っこを生やす。それから歯はどんどん伸びて、木になる。歯の木ってのは葉っぱの代わりにちっちゃな尖った歯が生えてるのさ」

「うへえ、パパ」アンディは言った。だが汚れた小さな親指と人差し指でしっかりと歯をつかんだままでいる。「歯の木とかねえし。だっておれ、んなもの見たことねえからさ」

「“歯の木なんてないよ、だってぼく、そんなもの見たことないからね”」

 不意にマーティンは身をこわばらせた。エミリーが階段を降りてきたのだ。ふらつく足音を聞きつけると、マーティンは恐怖に駆られて思わず小さな男の子を抱きしめた。エミリーが部屋に入って来たのを見て、その動作と仏頂面から彼女がまたシェリーのボトルを傾けたことがわかった。エミリーは引き出しを力まかせに引っ張ると、食卓を整え始めた。

「そんな状態だって!」くぐもった声でそう言った。「あんたが言ったことよ。あたしがこの言葉を忘れるなんて思わないで。あんたが言った汚い嘘を、あたしは金輪際忘れやしないから。そのうち忘れるだろうなんて考えは捨てた方がいいわ」

「エミリー」彼は懇願した。「子供たちの……」

「子供たち――そうだわ! あんたが小汚い細工をしてるの、あたしが気がついてないと思ってた? ここであたしのかわいい子供たちを手なずけて、あたしから離れさせようとしてるんだ。あたしが何も知らないなんて思わないでよね」

「エミリー! 頼むよ――頼む、上にいておくれ」

「そうやってあんたあたしの子供たちを手なずけて――あたしだけのかわいい子供たちを――」大粒の涙がふたつ、彼女の頬を転がり落ちた。「あたしのかわいい坊や、あたしのアンディを、あたしからそっぽを向かせようとしてるんだ」

 酔いの衝動にまかせて、呆然としているアンディの前で、エミリーは床にひざまずいた。子供の両肩に手をのせて、かろうじて体の均衡を保っている。「アンディ、よく聞いて――あなたのパパが言うような嘘っぱちに耳を貸しちゃダメよ? パパの言うことなんて信じてないわよね? ねえ、アンディ、ママが降りてくる前に、パパは何て言ってたの?」心許なげな表情を浮かべて、アンディは父親の顔を見た。「教えて。ママは知りたいの」

「歯の木のお話」

「何、それ?」
 アンディが父親の言葉をそのまま繰りかえすと、エミリーは、信じられない、という不安の表情を浮かべて、オウム返しに言った。「歯の木ですって?」体がぐらりと傾き、もう一度子供の肩につかまり直した。「何の話をしてるんだかちっともわからない。だけど聞いて、アンディ、ママは全然大丈夫でしょう?」涙があふれて母親の頬を濡らしたので、アンディは身を引いた。不安になったのだ。エミリーはテーブルの端につかまって立ちあがった。

「ほら! あんたがあたしの子供にあたしからそっぽを向くように仕向けたんだ」

 マリアンヌが泣き出したので、マーティンは腕に抱き上げた。

"See! You have turned my child against me."

「そういうことか。あんた、自分の子を取ったらいいわ。あんたって人は昔っからすぐえこひいきするんだから。いいわよ。だけど少なくともあたしにはこの坊やを残しておいて」

 アンディは父親の方へにじり寄ると、その脚にふれた。「パパ」彼も泣き出した。

 マーティンは子供たちを階段のところまで連れて行った。「アンディ、おまえはマリアンヌをお部屋に連れてってやれるね。パパもすぐ行くから」

「だけど、ママは?」アンディはささやくように聞いた。

「ママは大丈夫だ。心配しなくていい」

(この項つづく)



カーソン・マッカラーズ「家族の問題」その3.

2008-11-27 22:36:05 | 翻訳
その3.

 階下で忙しく夕食の支度をしながらも、マーティンは、どうして自分の家族にこんな問題が起こってしまったのか、これまで何度となく自問してきたことに、また心を奪われていた。彼自らが、酒は以前からかなり飲む方だった。妻とまだアラバマにいたころには、丈の高いグラスになみなみと注がれた酒やカクテルを、ごく当たり前のように何杯も飲んだ。何年もに渡って、夕食の前に一杯か二杯――たぶん、三杯ぐらいは飲んだし、大ぶりのグラスで寝酒もやった。休日の前の晩ともなれば、ふたりともかなりご機嫌になったし、いささか酩酊したこともあったかもしれない。だが、彼にとってアルコールは問題ではなかったし、家族が増えるにつれて、調達がむずかしくなっていく厄介な出費というだけだった。明らかに妻が飲み過ぎていることに気がついたのは、ニューヨークへ転勤になってからである。昼のうちからもう杯を傾けるようになっているのに気づいたのだ。

 問題が意識されるようになると、マーティンはその原因を分析しようとした。アラバマからニューヨークへ引っ越したことが、なにかしら精神の動揺を引き起こしたらしい。南部の小さな町の、家族やいとこ、子供の頃からの友だちを基盤としたのんびりした暖かさに馴染んでいたせいで、北部のはるかに厳しく孤独な環境に順応することができなかったのだ。母親としてのつとめや家事はエミリーにとってはわずらわしいばかりだった。パリス・シティへの里心がつのって、東部の郊外で友人を作ろうとしない。雑誌や探偵小説を読むばかりだった。彼女の内面の空虚は、アルコールででもごまかさなくてはどうにもならなかったのである。

 妻が次第に自制を失っていくのがあきらかになっていくのと歩調をそろえるかのように、マーティンの側も以前のような愛情を抱くことがむずかしくなっていった。自分でも説明できない激しい悪意にとらわれることが何度もあり、アルコールが導火線となって、見苦しいほど怒りを爆発させるようなこともあった。エミリーのなかに、生まれつき備わっている単純素朴なところと相容れない、潜在的な粗野な面に思いがけなくぶつかりもした。酒を飲むことで嘘をつき、思いもよらないような策略を弄して、彼をだましにかかったのである。

 そのころ事故が起こった。一年ほど前のこと、仕事から帰った彼を迎えたのは、子供部屋の悲鳴だった。エミリーが、お風呂に入ったあと濡れたままで裸の赤ん坊を抱いている。落とされた赤ん坊が、もろく壊れやすい頭蓋骨をテーブルの角にぶつけて、一筋の血を蜘蛛の糸のように繊細な髪のなかに垂らしていたのだった。すすり泣くエミリーは、酩酊していた。そのときマーティンは傷ついた子供をこれ以上はないほど尊いものに感じながら、この先どうなるかと思って、暗澹たる気分に襲われていた。

 翌日、マリアンヌはすっかり元気になっていた。エミリーは、もう二度と酒には手を触れないと誓い、数週間はしらふで、気を滅入らせ、ふさぎこんでいた。それからまた始まったのだ――ウィスキーやジンではない――たくさんのビール、シェリー、外国産のリキュール。一度などは帽子の箱にペパーミントのリキュール、クレームドマントの空き瓶が入っているのを見つけたこともあった。マーティンは家事全般、完全にこなすことのできる、信頼できるメイドを見つけた。ヴァージーもアラバマ出身だったが、マーティンはニューヨークでのメイドが一般にどれほどかかるか、あえてエミリーに教えようとは思わなかった。エミリーの飲酒は一切、秘密ということになっていて、彼が家に戻る前に、一切はなされるのだった。たいていはその影響も、ほとんど気がつかないほど――動きがいくぶん鈍くなったり、まぶたが重そうだったりするぐらいだった。トーストにトウガラシをふりかけるほどひどいことをすることはめったになく、マーティンもヴァージーが家にいるあいだは、心配しなくて良かった。だが、そうはいっても不安はつねにあって、そのうちにも予期せぬ事故が起こるのではないかという恐れは、彼の日々の底を流れていた。

「マリアンヌ!」マーティンが呼んだのは、あのときのことを思い出しただけで、安否を確かめずにはいられなくなったからだった。小さな女の子、もはやケガも治っているが、それゆえにいっそう父親にとっては愛おしい。娘は兄と一緒に台所にやってきた。マーティンは食事の支度をつづける。スープの缶を開け、肉のかたまりをふたつ、フライパンに入れた。それからテーブルのそばにすわって、マリアンヌを膝に馬乗りにさせた。アンディは父親と妹を見ながら、週の初めからぐらついてきている歯を指で動かしていた。

(この項つづく)


カーソン・マッカラーズ「家族の問題」その2.

2008-11-26 22:22:12 | 翻訳
その2.

 エミリーは子供たちの夕食をむきだしのホウロウ天板のテーブルにひろげていた。二枚の皿には朝食のシリアルと卵の食べ残しが載っていて、銀のマグには牛乳が入っていた。もう一枚の大皿には、一口かじったまま放り出してあるシナモントーストが一枚。マーティンはかじりかけのトーストのにおいをかいで、こわごわかじってみた。そうしてそのトーストをゴミ箱に放り込んだ。

「ふう……まったく……なんてことだ」

 エミリーはトウガラシとシナモンの缶を間違えていた。

「もうね、辛くてとびあがっちゃった」アンディが言った。「お水を飲んで、走って外に出て、はあって口を開けたよ。マリアンヌはちょっとも食べなかった」

「ちっとも」とマーティンは言葉をなおしてやった。呆然と立ちつくしたまま、台所の壁をぐるりと見回した。「さて、と。それはそれとして、と。さて」と、やっとのことで声を出した。「ママはいまどこにいる?」

「上のパパたちの部屋」

 マーティンは子供たちを台所に残したまま、階段をあがって妻のもとへ向かった。ドアの外で怒りが鎮まるのを待つ。ノックせずになかに入ると、後ろ手にドアを閉めた。

 エミリーは暖かな部屋の窓辺の揺り椅子に腰を下ろしていた。大ぶりのグラスに入った何かを飲んでいたようだったが、彼が部屋に入ったときに、あわてて椅子のうしろの床にグラスを置いた。あわてふためき、ばつの悪そうな態度だったが、強いてそれを隠し、これみよがしの快活さを装った。

「あら、マーティ! もうお帰り? そんな時間だなんて気がつかなかった。下へ行こうと思ってたの……」よろよろと彼の方へ寄っていき、シェリーのきついにおいのするキスをした。マーティンが立ったままそれに応ようとしえないので、一歩さがって神経質そうにクスクス笑う。

「どうしたの? そんなところに立ってると、まるで床屋のサインポールだわね。調子でも悪いの?」

「調子が悪いかだって?」マーティンは揺り椅子におおいかぶさるようにして、床のグラスを拾い上げた。「おれが吐きそうな気分でいるのがきみにわかるか――おれたちみんな、どれほどいやな気持ちになっているか」

 エミリーはわざとらしく明るい声を出したが、その声は彼にはもうなじみ深いものになってしまっていた。そんなときにはよく、イギリス風のアクセントをつけ加えるのだが、どうやらそれは彼女のあこがれている女優の口振りの真似らしかった。「何のことを言ってるのか、わたくしにはちっともわかりませんことよ。ひょっとして、シェリーをグラスにほんの少々いただいたことをおっしゃってるのかしらね。指一本分のシェリーをね――二本だったかもしれないけど。ですけどそれがいったいどんな罪に当たるのかしら。教えていただけませんこと? わたし、全然平気なのに。まったくどうもないわよ」

「だれが見てもわかるぐらいにはね」

 バスルームに向かいながら、エミリーは慎重に、しっかりとした態度を崩さないように歩いた。蛇口をひねると、両手で水をすくって顔に浴びせ、バスタオルの端で軽く押さえてふき取った。整った顔立ちは若々しく、染みひとつない。

「ちょうど下へ降りて、晩ご飯のしたくをしようと思ってたの」よろめいて、ドアの枠につかまってバランスを取った。

「晩飯はおれが作る。きみはここにいなさい。持ってきてやるよ」

「そんなことはダメ。ねえ、そんな話、聞いたことがある?」

「頼むよ」マーティンは言った。

「もう、ほっといてよ。何ともないんだから。ちょうど下へ降りようと思ってたんだから……」

「おれの言うことを聞いてくれ」

「あなたのお祖母ちゃんに話を聞いてみて」

 よろよろとドアの方へ行きかける彼女の腕を、マーティンがつかまえた。「きみがそんな状態でいるところを子供たちに見せたくないんだ。少しは分別を働かせてくれよ」

「そんな状態ですって!」エミリーは腕を振り払った。怒りのために声が高くなっている。「え? 昼間っからシェリーを二杯か三杯飲んだからって、あなたね、あたしを酔っぱらい扱いするわけね? そんな状態ってどんな状態よ! いやあねえ、ウィスキーなんてさわったこともないのに。あなただって知ってるはずよ、バーで強い酒をあおるようなことなんてわたしがしたことがないのを。それをあなたね、なんてこと言うのよ。ディナーの前にカクテル一杯だって飲んでないのに。あたしがときどきグラス一杯シェリーを飲んだぐらいで。ね、おうかがいしますけど、それが何かみっともないことなの? そんな状態ですって?」

 マーティンは、妻を落ち着かせようと言葉を探した。「ここだとふたりきりで落ち着いて食事ができるじゃないか。さあ、お嬢さん」エミリーがベッドの端に腰をおろしたので、彼はドアを開けると、急いで部屋を出た。

「すぐ戻ってくる」


(この項続く)


カーソン・マッカラーズ「家族の問題」

2008-11-25 22:45:31 | 翻訳
今日から5日ぐらいを目途にカーソン・マッカラーズの短篇「家族の問題」を訳していきます。マッカラーズらしい、繊細な色合いの短篇です。
原文はhttp://members.lycos.co.uk/shortstories/mccullersdomestic.htmlで読むことができます。

* * *

A Domestic Dilemma(「家族の問題」)

by Carson McCullers


木曜日、マーティン・メドウズは帰宅するための最初の急行バスに間に合うよう、早めに職場を出た。雪で濡れた通りにたれこめる薄紫の日の名残りも、徐々にかき消えて、バスが中心部のターミナルを出るころには、光でまばゆい都会の夜になっていた。木曜にはメイドが半日の非番を取るので、マーティンはできるだけ早く家に戻りたかった。というのもこの一年、妻の調子があまり――良くなかったからだった。今日はひどく疲れていたので、顔見知りの通勤者との会話の輪から外れようと、バスがジョージ・ワシントン橋を渡るまで、新聞に一心に目を落としていた。ひとたびバスが9-W高速道路に入ってしまえば、いつも道中は半ばまで来たような気がして、息を深く吸い込むのだった。たとえ寒い時期で、車内のタバコ臭い空気のなかに、ほんの一筋混ざっているだけであっても、いま自分が呼吸しているのは田舎の空気なのだと信じているのだった。

以前は、ここらあたりまでくると、気持ちもほぐれ、満ち足りた心持ちになって家のことを考えたものだった。だが、この一年というもの、近くなったという感じは緊張しかもたらさず、道中が終わるのが少しも楽しいとは思えなくなっていた。この夕べ、マーティンは窓に顔をよせて、殺風景な野外や、通り過ぎる町の寂しい明かりを見つめた。月が暗い大地や、ところどころに残る雪を青白く照らしている。マーティンの目に、今夜の田舎の景色はむやみにだだっ広く、荒涼たるものに見えた。下車を知らせる紐を引いて合図するのにまだ数分の余裕があったが、彼は網棚から帽子を取り、新聞をたたんでオーバーのポケットに入れた。

 家はバス停から一区画離れた、川に近いが、岸まではいかない場所にある。居間の窓からは、通りをはさんで向かいの家の庭や、その向こうのハドソン川が見えた。モダンな感じの木造平屋で、狭い庭の区画に、多少白くて真新しすぎるような感じがした。夏のあいだは芝生も柔らかく色鮮やかで、マーティンも庭を縁取る花壇や、アーチにはわせた蔓バラを丹念に世話した。だが、寒くなって数ヶ月のあいだに、庭は荒涼とし、家はむきだしになったようだった。その晩、小さな家の部屋という部屋の明かりがついていて、マーティンは玄関へと歩を急がせた。階段を上る前に、立ち止まって乳母車を邪魔にならないようによけた。

 子供たちは居間にいたが、夢中で遊んでいたのだろう、表の扉が開いたのにまだ気がつかない。マーティンは、無事で、愛らしい子供たちを立ったまま眺めた。子供たちは蓋つき机の一番下の引き出しを開けて、クリスマスの飾り付けを取り出していた。おそらくアンディがなんとかクリスマス・ツリーのプラグを差しこんだらしく、緑と赤の電球が、居間のじゅうたんを、季節はずれの祝祭の光で照らしていた。そのとき、アンディはマリアンヌの木馬の上に、明かりのコードをどうにかして這わそうとしていた。マリアンヌは床にすわって、天使の羽を引っ張って取ろうとしている。子供たちはびっくりしながら、おかえりなさい、と歓声をあげた。マーティンが、まるまるとした小さな女の子を、肩のところまでさっと抱き上げるあいだに、アンディは父親の脚に体当たりしてきた。

「パパ、ねえ、パパ、パパったらぁ!」

 マーティンは女の子をそっと下に降ろすと、今度はアンディを抱いて、振り子のように何度か揺すぶってやった。それからクリスマス・ツリーのコードを拾い上げた。

「こんなものを出して、どうしようっていうんだ? パパが引き出しへ戻すから、おまえも手伝っておくれ。おまえは電気のソケットをいじるようなバカな子供じゃないだろう? この前、パパが何て言ったか、思い出してごらん。大切なことなんだよ、アンディ」

 六歳の男の子はうなずくと、机の引き出しを閉めた。マーティンは柔らかな金髪をなでると、か細い首の後ろに手を当てたまま、しばらくじっとしていた。

「ぼうず、晩ご飯はもう食べたか?」

「痛くなっちゃった。トーストがからかったんだ」

 女の子がじゅうたんに足を取られてつまずいた。転んだ瞬間はびっくりしていたが、やがて泣き出す。マーティンは両腕に抱きかかえてやり、台所に入っていった。

「見てよ、パパ」アンディが言った。「あのトーストだよ」

(この項つづく)


(※そろそろか、と思って、今日のお昼ごろカウンターをのぞいてみたら50000を突破していました。
50000か50001のキリ番を踏まれた方、お知らせください。地味~なカウンタなので、気が付かない人の方が多いんですが……。地味~なお礼をさせていただきます)


枯れ尾花が怖いわけ

2008-11-23 22:56:32 | weblog
昨日の続きで、今日も三島由起夫の『不道徳講座』をもとにした話である。

せっかくだからと電車のなかで全編を読み返してみたのだが、「知らない男とでも酒場へ行くべし」とか「大いにウソをつくべし」とか「約束を守るなかれ」とか「弱い者をいじめるべし」とかというタイトルは刺激的でも、実際のところはとてもまっとうで良識的なことが書いてあって、さほどニヤリともできないし、鈍いわたしには、解説を書く奥野健男のように「得意の心理分析、洞察で人間の心理を裏返し、悪へ、革命へ、破滅へ虚無へ向かう人間の現存在の深淵をチラリと垣間見」れるようにも思えず、結局は想定された「読み手」を「この程度」と踏んでいたのかなあ、という印象が強かった。

それでもそんな具合に、ごく力を抜いて軽く書いているにもかかわらず、小説よりももっとずっと「素」の三島の健全さ、まじめさが透けて見えるようで、ジンメルの「各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知ってい」て、「しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである」(『社会学』)ということばを改めて思い出したりもしたのだった。

とはいえ、やっぱり「なるほど」と思う章もいくつかあった。「悪口の的となるのは、…必ず何らかのソゴであります」という「批評と悪口について」の章、「ニセモノの物語には、バレるというクライマックスが絶対必要」という「ニセモノ時代」の章、そうしてここで取り上げようと思っているのが「自由と恐怖」という章である。

三島はここでは自分がカニがコワイ、という話から話を書き起こす。カニが怖い、あるいはナメクジが怖い。どうしてこんなつまらないものが怖いのか。たとえば真剣にナメクジを怖がっている人に、原爆や水爆とナメクジとどちらが怖い? と聞けば、おそらくナメクジの方が怖いというだろう。
 今のところまだ落ちるか落ちないかわからぬ水爆よりも、目の前のナメクジのほうが怖い! 実はこれがわれわれの住む世界の本質的な姿なのです。この法則からは英雄も凡人ものがれることができない。世界中の恐怖が論理的に説明のつく正当なものだけならば、世界中の人の恐怖心は一致して、水爆も原爆も戦争も、立ちどころにこの世から一掃されることでしょう。しかし歴史がそんなふうに進んだことは一度もありません。人間にとって一番怖いのは「死」の筈であります。でもあらゆる人が死の恐怖において一致したということはない。アパートの一室で死にかけた病人が死の恐怖にすべてを忘れているとき、隣の部屋では、健康な青年が油虫を怖がって暮らしているのです。
 そう考えてゆくと、「正当でない恐怖」こそ、人間の一等健康な姿かもしれないのです。…
 カタツムリやカニなど、とるに足らないものへの恐怖は、他人のマネではなくて、全く自分だけの個性的な恐怖でありますから、むしろそこには自由の意識が秘められている。死や水爆や戦争に対する恐怖は、受動的な恐怖であって、こちらの自由を圧殺して来るおそろしい力に対する恐怖ですが、それに比べると、カニやクモや鼠や油虫に対するわれわれの恐怖は、むしろ積極的なものだ。われわれはそれらを、進んで怖がるのです。…

人間、生きるためには、下らんものを怖がっているほうがよろしい。人の心の抱く恐怖の分量などは各人大体同じだから、下らぬものを怖がっていれば、恐怖の全分量がそれで一杯になってしまい、死や水爆や戦争に対する恐怖を免れる。そういう圧倒的な、のしかかって来る恐怖から自由でいられる。そのおかげで、現在における自分の自由を確保できるのです。
(三島由紀夫『不道徳教育講座』角川書店)

これはまったくその通りだと思うのだ。恐怖ばかりではない、不安でも、悩みでも、現れ方はさまざまだが、根本的にはどれもまったく同じように思う。

以前、職場で「Aさんはあのときああ言った、Bさんは別のときこんなことを言った」と、端で聞いていれば、ほとんど取るに足らないようなことを、しかもよくよく聞いてみれば、一年も二年も前の出来事を、執念深く思い返しては改めて腹を立て直しているような人がいた。だがその人は、わたしの目から見れば仕事の上で、もっとずっと深刻な、即座に抜本的な改善の必要があるような問題を抱えていたのだ。また、何年も失敗を続けている資格試験の前になると、決まってややこしい恋愛を始めて、周囲も巻き込んで大騒ぎを始める人もいた。

「そういう圧倒的な、のしかかって来る恐怖から自由でい」るために、人は積極的に怖がったり、腹を立てたり、不安がったり、悲しんだりするのだろう。三島は「人間には、こんな風に、恐怖をほしがるふしぎな心理もあります」と書いているが、恐怖ばかりではない、さまざまなネガティヴな感情を、多くの場合、人は進んで求めている。

何かが怖いと思ったとき、ほんとうはちがうものを恐れているのではないか。自分はその恐怖や不安を必要としているのではないか。そう問い返してみることは、決して無意味なことではないように思う。おそらく、ほんとうの原因がわからない限り、自分の感情をコントロールすることはできない。「生理的に受けつけない」というのは、自分のごまかしを自分自身に正当化しているだけなのだろう。


おせっかいはどこへ行った(※一部マイナーチェンジ)

2008-11-22 22:21:03 | weblog
三島由紀夫の『不道徳講座』というエッセイを高校時代に読んだことがある。軽く読み終わってしまって、中身もほとんど記憶に留めることもなかったように思うのだが、「おせっかい」に対して手厳しい批判を投げつけている箇所だけは、ひどく心に残った。鬱屈した高校生だったわたしは、ばくぜんと感じていた「おせっかいなんてどうしようもない連中だ」という意識に裏付けを与えられたように思い、何かにつけ自分におせっかいを焼こうとする連中に対して、(胸の内で密かに)牙をむいていたのだった。

とはいえ、どんな批判だったかまったく覚えていなかったので、このあいだ図書館でたまたま見つけたのを幸い、読み直してみた。

奥野健男の解説を見ると、初出は「女性向き大衆週刊誌」(「解説」)の連載ということで、一回分が原稿用紙10枚くらい。奥野は「三島氏は裃を脱いで、ふざけています」と書いているのだが、こういうエッセイが「大衆週刊誌」に載っていた時代もあったのだな、という感慨を持つ。いまはどうなんだろう。そもそも「女性向き大衆週刊誌」なんて「大衆」が読むんだろうか。それはともかく、くだんの回は「うんとお節介を焼くべし」というタイトルなのである。

そのコラムは、三島が新婚時代、妻宛に匿名の手紙を受け取った、という話から始まっていく。匿名の手紙の主は、「世間では、作品はどうか知りませんが、作者のことは随分な遊び人とか申してましたし、突然婚約を発表されたとき、私、大へん貴女がお気の毒な気がしました」と、結婚を考え直せという手紙なのである(どう考えてもここに出てくる手紙は、どこからどう見てもまごうかたなき三島の文体で、そもそもそんな事実があったかどうなのかは、まあ、どうでもいいことなのだろう)。

三島は「いかにも真情があふれており、まことにうるわしい友情の手紙であります」と、皮肉な調子で話を続けていく。
 こういう人たちの人生はバラ色です。何故ならいつまでたっても自分の顔は見えず、人の顔ばかり見えているので、これこそ人生を幸福に暮らす秘訣なのです。……
 お節介は人生の衛生術の一つです。われわれは時々、人の思惑などかまわず、これを行使する必要がある。会社の上役は下僚にいろいろと忠告を与え、与えられた方は、学校の後輩にいろいろと忠告を与えます。子供でさえ、よく犬や猫に念入りに忠告しています。全然むだごとで、何の足しにもならないが、お節介焼きには一つの長所があって、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、しかも万古不易の正義感に乗っかって、それを安全に行使することができるのです。人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないという人の人生は永遠にバラ色です。なぜならお節介や忠告は、もっとも不道徳な快楽の一つだからです。
(三島由紀夫『不道徳教育講座』角川書店)

どうです、こう言われたら、確かにそうだなあ、と思うでしょ?

ところが、なのである。
ちょっと考えてみてください。あなたが最後に誰かにおせっかいを焼かれたのはいつですか?

わたしはこれを読んでからつらつら考えてみたのだが、「大きなお世話」と思ったのは、いまから五年ぐらい前、知り合いと踏み切りの手前で待ち合わせをしていたときが最後だ。

そこで待ち合わせたのは、単にその踏み切りを渡ったところに行く予定があっただけのことだったのだが、いつものように待ち合わせの少し前に着いたわたしは、だんだん暮れていくなか、そこに立って遮断機が下りたり上がったりするのを見ながら、待ち合わせた相手を待っていた。

すると自転車に乗ったおじさんが「あんた、悩みがあったら、なんでも聞くデ」と、わざわざ自転車から降りてきて、声をかけてきたのである。どうやら自殺を考えていると思われたらしい。

「待ち合わせしてるだけです」という言葉の向こうに「大きなお世話」というニュアンスが確実に伝わるように、木で鼻をくくったような語調で返事をすると、「ああ、そんならええねん」とおじさんは自転車に乗って去っていった。内心、仮に悩みがあったとしても、あんたにだけは言わないよ、と思ったのだが。

以来、「おせっかい」とわたしが判断するような経験をしたことがない。

高校のころ、クラスにひとりぐらいはかならず「おせっかい」な女の子はいた(“血中おばさん濃度の高い子”とわたしは密かに名づけていた)。とんでもなく寒い日でも、せっかく教室が暖まったころを見計らって「空気が悪い」と称して、窓を全開にするような子である。HRが大好きで、何かあると「クラスの問題」にしてしまうし、ボタンがとれかけていたらカバンからソーイングセットをだしてきて、すかさず縫いつけてくれる。そのあいだ、こちらは散歩に連れて行ってもらうのを待つ犬のごとく、横に控えて待っていなければならない。

わたしの記憶のなかには、ひとりだけ“血中おばさん濃度”の高い男の子もいて、彼は観察対象としてはなかなか興味深かったのだが、実際、話していると「弁当に肉料理が二種類入っているのはバランスが悪い」などとすぐ指摘してきて、相当にイライラさせられる人物だった。弁当云々は、中学時代、完璧な肥満体だったが、高校で一念発起してダイエットに成功した彼は、人の弁当を見て、たちどころに総カロリーを計算する能力を身につけていたのである。その才能をもとに、人の弁当を見てはアドバイスに余念がなかったのである。

近所にも「おせっかい」なおばさんはかならずいた。回覧板を持ってきては玄関のあがりがまちに腰をおろして話し込み、町内のあれやこれやを疎漏なく伝えてくれる。そうした情報がありがたい、ことも、まあ、なくはなかったのだろうが、多くは“木下さん(仮名)んとこの奥さんときたら、おばあちゃんがいるのに、毎晩毎晩トンカツだのカレーだの、そんなものしか作んないですってよ。あのおばあちゃんもかわいそうねえ。だからあたし、奥さんに言ってあげたのよ。それじゃいくらなんでもおばあちゃんがかわいそうよ、って。それで、ほうれん草のおひたし、作って持っていってあげたのよ」といった、およそどうでもいい話をしていくおばさんである。

そういえば、親戚にも一人ぐらい、そんな人がいたような気がする。そういう人は、未婚の人間が自分の視野にいれば、そのパートナーになりうる対象を四方八方から探し出し、「いい人がいるんだけど」とお見合いの段取りをするような人だったのだろう。

だが、いつしかわたしの周囲からはそんな「おせっかいなおばさん」が消えていった。頼まれてもいないのに、隣の家の前も一緒に掃き掃除をしてくれるようなおばさんはいなくなり、スーパーを走り回る子供がいても、迷子になって泣きわめく子供がいても、誰かなんとかすればいいのに、という目でそちらに目をやる人ばかりである。

確かに「おせっかい」というのは、周囲の人間にとっては、いやな気持ちにさせるものなのだったのだろう。くだんの「お掃除おばさん」にしたところで、こんな人に会うと、彼女が掃除をしてあげたことを決して忘れさせてくれない。

だからこそ、みんな「おせっかい」になるのを避けようとしてきたのだ。これは「おせっかいじゃないかしら」と控え、「こんなことはあの人の問題だから」と見て見ぬふりをし、必要以上の関わりを避け、そうやって少しずつ人との距離を広げていったわけだ。

それでも「万古不易の正義感に乗っかって、それを安全に行使」ということは、相変わらずわたしたちはやっているような気がする。具体的な人間関係のなかでそれをやるかわりに、「最近の若い人は」と新聞の投書欄に投稿したり、事実関係をはっきり確認する前に「たらいまわし」と書かれた新聞記事を読んで「医師の無責任」を声高に批判したり、芸能人のスキャンダルを批判したり。

こういうのは、「おせっかい」とは呼ばない。
でも、「不道徳な快楽」の出口としては、踏み切りで無意味なおせっかいを焼いてつっけんどんな対応をされるより、リスクを引き受けない分、卑怯とはいえないか。

おせっかいを厭ったわたしは、しばらく前にこんな経験をしたことがある。

連れと一緒にスパゲティ屋で夕食を取っていたときのこと。

隣の席に、きちんとした身なりのおばあさんが一人きりで坐っていた。その人は、注文を取りに来たウェイトレスにわたしが食べているものを「あれは何?」と聞いていた。「あれ、おいしそうねえ。わたしもあれにしようかしら」と。

ウェイトレスの方はごく事務的に「あれはペスカトーレです、魚介類のトマトソースです」と答え、その会話はそれっきりで終わってしまったのだが、なんとなく、その人は誰かと話したそうな気配がうかがえた。おそらく一人暮らしで、ときどき、きちんとした格好で外食をする。そうやって単調な生活にめりはりをつけようとしているのだろう。

そんなときにわたしが「このペスカトーレ、ムール貝がとってもおいしいですよ」みたいに言うことができれば、ずいぶん良かったのだろうと思う。

一瞬、そう言おうか、とも思ったのだが、連れがいるし、などといろいろ考えて、結局、無視してしまったのだった。だが、連れがいる、などというのは、実のところ、ほんとうの理由でもなんでもなくて、それだけの関わりも厭うてしまうようなものがわたしの内側にあったのである。

きっと、こんなとき「おせっかい」な人だったら、進んで話し相手になったことだろう。もしかしたらその結果として、相手に立ち入りすぎて不愉快にさせてしまうかもしれない。それでも、まぎれもなく人と話した、人と関わったという記憶は、そのおばあさんにとって、プラスであれ、マイナスであれ、のちのち思い返す材料となったはずだ。黙ったまま、目も合わさなかったわたしとでは、どんな記憶にもなっていかない。そのどちらがいいか。やっぱり何であれ人と関わろうとすることは、どこかにおせっかいの要素を含んでいると思うのである。

とはいえ、そのときのことをいまだにわたしは思い出し、「おせっかい」ではない自分にたいして、忸怩たる気分でいるわたしの内にも「血中おばさん濃度」のいくばくかがあるからこそ、こんなことを考えているのだろうが。

役員さん

2008-11-21 22:53:23 | weblog
知り合いにPTAの役員をやっているという人がいる。月に一度、学校での会合に出なければならないのだそうだ。四月に役が回ってきたときは、なんと運が悪い、と思ったが、実際始めてみると、学校の様子もわかるし、ほかのお母さんからの話も聞ける。確かに会合のあるときは、仕事時間の調整もしなければならないし、ときにそこでのつきあいがわずらわしく思えるときもあるけれど、いまではやって良かったと思っている、という話だった。

わたしはいま輪番制で回ってくる、住んでいるところの役員をやっているのだが、実際、役が回ってきたときは、ほんとうに気が重かった。集合住宅といっても、知っているのは両隣の人ぐらい。まったく顔も知らない、ふだんのつきあいもまったくないような人と、最低でも月に一回顔を合わせ、あれやこれやの話をしなければならない。おまけに配布物だの回覧板だのと、さまざまな仕事もある。

ところがそういう仕事を始めて見て、ひとつわかったことがあった。
PTAにせよ、アパートの自治会にせよ、ふだんのわたしたちの生活に「なくては困る」と実感されるものではない。わたしなんて、回覧板が回ってきたら隣りに送っていたけれど、そんなものがあるということすらはっきりとは知らなかった。PTAにしても、「何であんなものが必要なんだろう」という声も少なくないという。

けれど、「そんなことはないに越したことはない」ようなことが起こったときに、必要なのがそういう組織なのである。たとえば学校で事故があったり、あるいは大きな地震が起こったりしたようなとき。保護者や住人が一堂に会して討議が必要な事態はあるのだ。

そんなとき、保護者や住人が集まることのできる組織が必要なのである。
危急の事態では、ただ集まればいいというものではない。たとえば学校側に情報の開示を求めるとか、危険区域の情報の集中とか、そういうときには集まることに目的がある。そうして目的を達するためには、役割分担も必要になってくる。PTAや住民の自治会がないところでは、まずそうした組織を作るところから始めなければならず、緊急を要するときは、そういう組織をあらかじめ備えているところといないところでは、大きな差ができてくるだろう。

つまり、輪番制の住民自治会とか、PTAの役員とかは、いつくるか定かではない、来ない方が望ましいような「いざ」というときに備えて、バトンを渡され、つぎに手渡すリレー走者のようなものなのだ。自分たちが、組織があることの恩恵を受けることはないかもしれないが、それでも「いつか」のために、みんなで少しずつ役割を分担していく。

思い起こしてみれば、わたしの母親は一貫して一学期の授業参観日のあとの懇談会には出席せず、わたしと一緒に帰っていた。今日懇談会に出ると、PTAの役員を押しつけられるから、というのがその理由で、それはずっと続いた。当時はそういうものか、ぐらいに思って、別に疑問を感じたこともなかったのだが、当時ですら、PTAの役員というのはそんな具合で、なり手に事欠く状態だったのだろう。いまは仕事で参観日に行けなかったら、そのあいだ「欠席裁判」で役員を押しつけられた、という話も聞いたことがあったので、もはや母のようなことをやっても、役員からは逃れられないらしい。

あんなもの必要はない、そんなものに時間をとられるぐらいなら、もっと家族と過ごしたい、という意見も聞いたことがある。
けれど、自分の時間と労働力をそういう組織に提供することで、未来の誰かの役に立つだけでなく、やはり、わたしたち自身が得るものがあるように思う。

ふだんは接することのないような年代の人と話をする機会もできるし、わたしが住んでいるところでも、普通に生活しているだけでは知らないような場所があることもわかった(だからといってどうということもないのだが、それでもなんだか知らない場所があったことを知ったというのは楽しい)。

もちろん、そういう人ばかりではない。幼稚園での保護者会のとりまとめの役がまわってきて、幼稚園とほかの保護者の要求のあいだで板挟みになって、神経性胃炎を患ったという人の話も聞いたことがある。青い顔で、あと何ヶ月の辛抱、と言い、そんな役は二度とこりごり、と言っていた。人が集まれば、意見の一致をみないことも当然あるだろうし、それがもとで揉めることもあるだろう。

それでも、わたしたちには、やはり組織が必要なのだ。
もちろん必要ではない、という考え方もある。けれど、それが行き着く先は「お金を払えばいい」という、「お客さん」の発想だ。お客さんは自分からは何もしなくてすむ。誰とも関わらなくてすむ。けれど、「お客さん」はそこを利用させてもらうだけだ。お金を払って、代価を受け取るというだけだ。

そうじゃない関係がある、ということを経験できることが、最大の得るものなのかもしれない。


サイト更新しました(蛇足つき)

2008-11-20 22:37:41 | weblog
このところ、急に冷え込んできましたねー。
二月くらいの寒さはもう勘弁してほしい、と思うのですが、この時期の、ああ、寒くなってきたなあ、という感じは悪くないものです。

幸田露伴に『折〃草』というエッセイがあります。
露伴が「試みに心のたのしさを数へむ」といって、「たのしさ」をあげていく。

そのなかに「一、風さはがぬ朝早く起て袖寒きを冒し、静に歩めば落ち葉ひらひらとひるがへり、魂魄引締まるようなる初冬のさびしさ。」というのがあって、この時期、朝いつもこの文章を思い出します。

この『折〃草』には、ほかにもいろんな「たのしさ」があげてあって、「一、顔の色のうつくしき十一二歳の男の子に、八百善の料理せし肴食はせても左程よろこばず、浅草公園の賑やかさ見せても嬉しがりもせざりしが、我畜ひし小犬を欲し気なりし故それを与ふべしと云へば、眼中一段の麗はしさを増し、罪もなく笑かたまげ、はや我ものぞと其犬の頭を摩で首筋抱きて楽しみ深そうにしたる長閑さ。」とイヌをかわいがる子供の姿が目に浮かんでくるようなものもあります。
「グリフォン」に出てくるトミーも「セルビー氏」というイヌをかわいがっていましたね。

「一、三四里離れたる所に閑居せる友を訪ふて、互におもしろく風流の話し修行の話しの間に一ツ二ツは浮世の恋ものがたりなども交り、誰に遠慮なく高笑したる揚句、飯時になりて菜ごしらへも主客の別なく共にはたらきて、然も作り出せし煮物の塩からきに眉皺めし可笑しさ。」

こんなふうに、話をしたり、食事の用意を一緒にしたり過ごすのも楽しそう。
煮物のしょっぱいのさえ、楽しさをましますよね。やっぱりこの人恋しさも寒い季節にぴったりくるかもしれません。


サイト更新しました。
更新情報も書きました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

またお暇なときにでものぞいてみてください。
ということで、それじゃ、また。

サイト更新しました

2008-11-19 22:18:00 | weblog
更新したといって、何なんですが、どうも末尾の「蛇足」がうまく決まらなかったので、その部分は更新情報と一緒に明日アップすることにします。
今日はとりあえず本文とFAQにバクスターが答えた部分だけ。

ひとつ、気になってたんですがsumacという単語、ふつうは「ウルシ」を指します。
だからブログで訳したときは「ウルシ」としていたのですが、校庭のまわりに「ウルシ」を植えるかなあ、という疑問がありました。

sumacは、ウルシ科ウルシ属の総称とあります。辞書を見ると、ウルシと並んでハゼ、ヌルデとある。そこで、かぶれることのほとんどない「ハゼノキ」をここで訳語にしました。

もうひとつ"Two-striped Grasshopper"は、学名Melanoplus bivittatusというバッタ、もしくはイナゴの一種なのですが、和名が結局わからなかったので、二本縞バッタと一応ここでは訳しています。もし和名をご存じの方ありましたら、どうか教えてください。

本格的には明日アップするはずですので、またそのころに遊びに来てください。
ということで、それじゃまた。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html