陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

闇を探す その2.

2006-03-29 22:36:28 | 
2.明るいランプと豊かな闇

芥川龍之介の『雛』の舞台は、日本に石油ランプが普及し始めたのは、明治七年(1874)『東京日日新聞』に「舶来ランプのみならず、和製のランプも出回り東京市内にランプ普及す」という記述があることから、ちょうどその頃のことであろうか。

だが、地方の、それも農村部にランプが普及するのは、もっとあとのことである。

新美南吉の『おじいさんのランプ』では、日露戦争の頃(開戦は明治三十七年(1904))の話として、十三歳の巳之助のこんな話が語られる。(引用は青空文庫

 しかし巳之助をいちばんおどろかしたのは、その大きな商店が、一つ一つともしている、花のように明かるいガラスのランプであった。巳之助の村では夜はあかりなしの家が多かった。まっくらな家の中を、人々は盲のように手でさぐりながら、水甕や、石臼や大黒柱をさぐりあてるのであった。すこしぜいたくな家では、おかみさんが嫁入りのとき持って来た行燈を使うのであった。行燈は紙を四方に張りめぐらした中に、油のはいった皿があって、その皿のふちにのぞいている燈心に、桜の莟ぐらいの小さいほのおがともると、まわりの紙にみかん色のあたたかな光がさし、附近は少し明かるくなったのである。しかしどんな行燈にしろ、巳之助が大野の町で見たランプの明かるさにはとても及ばなかった。

 それにランプは、その頃としてはまだ珍らしいガラスでできていた。煤けたり、破れたりしやすい紙でできている行燈より、これだけでも巳之助にはいいもののように思われた。

 このランプのために、大野の町ぜんたいが竜宮城かなにかのように明かるく感じられた。もう巳之助は自分の村へ帰りたくないとさえ思った。人間は誰でも明かるいところから暗いところに帰るのを好まないのである。

 竜宮城のように明るい町の灯に感激した巳之助は、その足で雑貨屋に行き、ランプを買おうとする。自分の持っている全財産をはたいても、ランプは買えない。そこで雑貨屋に、卸値で売ってくれるよう、掛け合う。自分は今日からランプを商うのだ、と。

 巳之助はランプのあつかい方を一通り教えてもらい、ついでに提燈がわりにそのランプをともして、村へむかった。
 藪(やぶ)や松林のうちつづく暗い峠道でも、巳之助はもう恐くはなかった。花のように明かるいランプをさげていたからである。
 巳之助の胸の中にも、もう一つのランプがともっていた。文明開化に遅れた自分の暗い村に、このすばらしい文明の利器を売りこんで、村人たちの生活を明かるくしてやろうという希望のランプが――

やがてこのランプも、『雛』の兄が「それでも慣れりやあ同じことですよ。今にきつとこのランプも暗いと云ふ時が来るんです。」と言ったように、十三歳の巳之助が、大人になり、ふたりの子供の父親になった頃、町に電灯が引かれる。

 ところでまもなく晩になって、誰もマッチ一本すらなかったのに、とつぜん甘酒屋の店が真昼のように明かるくなったので、巳之助はびっくりした。あまり明かるいので、巳之助は思わずうしろをふりむいて見たほどだった。
「巳之さん、これが電気だよ」
 巳之助は歯をくいしばって、ながいあいだ電燈を見つめていた。敵でも睨んでいるようなかおつきであった。あまり見つめていて眼のたまが痛くなったほどだった。
「巳之さん、そういっちゃ何だが、とてもランプで太刀うちはできないよ。ちょっと外へくびを出して町通りを見てごらんよ」
 巳之助はむっつりと入口の障子をあけて、通りをながめた。どこの家どこの店にも、甘酒屋のと同じように明かるい電燈がともっていた。光は家の中にあまつて、道の上にまでこぼれ出ていた。ランプを見なれていた巳之助にはまぶしすぎるほどのあかりだった。巳之助は、くやしさに肩でいきをしながら、これも長い間ながめていた。

巳之助はランプがもはや時代遅れだと知る。

電燈という新しいいっそう便利な道具の世の中になったのである。それだけ世の中がひらけたのである。文明開化が進んだのである。巳之助もまた日本のお国の人間なら、日本がこれだけ進んだことを喜んでいいはずなのだ。

こうして巳之助はランプ屋を廃業するのだ。

ここには、明るいことはいいことだ、明るいことは文明が進んだ証だ、という素朴な信念がある。

ところが、同じ時期、日本の地方にいながら、古くからの日本の灯りに感動したのは、ギリシャに生まれ、アメリカで新聞記者生活をした後、日本にやってきたラフカディオ・ハーンである。

家のちょうど真向かいにお堂のあるお地蔵様の祭礼を然るべく執り行いたいので、少しばかりお力添えをお願いしますという。私は心から喜んで寄付をした。この穏やかな神様が大好きだし、そのお祭りが実に楽しいものだということも知っていたからである。

あくる朝早く見てみると、お堂はすでに花や奉灯がいっぱい飾られていた。地蔵の首には真新しいよだれ掛けがかけられ、仏教のお供え膳が前に置いてある。しばらくして、お寺の境内に、子供たちが踊る舞台を大工が組み立てた。そして日が落ちる前には、敷地内の道の両側におもちゃ屋の屋台店が次々と並んで建てられた。

あたりが暗くなってから、私は子供たちの踊りを見に、提灯の明かりがまばゆく輝く中へと出て行った。すると家の門の前に、長さ三尺をこえる巨大な蜻蛉が一匹とまっているのに気付いた。それは、私のささやかな寄付に対する子供たちのお礼のしるしの飾り物だった。一瞬、あまりに写実的な出来だったので度肝を抜かれたが、よくよく見れば、胴体は色紙でくるんだ松の枝で、四枚の羽は四本の火掻き棒、きらきら光る頭部は小さな茶瓶で作られていることがわかった。さらに全体が、あやしい影が差すように置かれた蝋燭の光で照らし出され、その影が絶妙な効果をあげているのである。これは、美術用品を全く使わずに、美的感覚を存分に発揮させた見事な例といえる。しかもそれは貧しい家の、わずか八歳の小さな子が全部一人で苦労して作った作品なのだった!
(小泉八雲『光は東方より』平川祐弘編 講談社学術文庫)



当時の日本人にとって、暗さは、貧しさと文明の遅れの象徴だった。そこに美を見出すのは、外の世界からやってきたハーンの目が必要だったのだ。

ハーンは日本の闇の深さをよく知っていたにちがいない。それは『狢』という短編にもよく現れている。(以下引用は青空文庫

紀国坂の壕のほとりでしゃがんで泣いている女がいる。商人が声をかける。振り返って袂から顔を上げた女には顔がない。

 一目散に紀国坂をかけ登った。自分の前はすべて真暗で何もない空虚であった。振り返ってみる勇気もなくて、ただひた走りに走りつづけた挙句、ようよう遥か遠くに、蛍火の光っているように見える提灯を見つけて、その方に向って行った。

真っ暗な中で見つけた提灯の明かりを見て、商人はどれほど安堵したことだろう。ところがその蕎麦屋は……

『盗賊にか?』『盗賊ではない――盗賊ではない』とおじけた男は喘ぎながら云った『私は見たのだ……女を見たのだ――濠の縁で――その女が私に見せたのだ……ああ! 何を見せたって、そりゃ云えない』……
『へえ! その見せたものはこんなものだったか?』と蕎麦屋は自分の顔を撫でながら云った――それと共に、蕎麦売りの顔は卵のようになった……そして同時に灯火は消えてしまった。

日本の豊かな闇を教えてくれたのは、ハーンが最初だったのかもしれない。

(この項つづく)