だが、フランシス・クリアリィ、彼の女性版と一緒にタクシーに乗って家路につくフランシスはどうなのだろう。
性は彼にとって意味をなさなかった。その名前が表すように、男性であっても女性であってもかまわないのである。これまでだれも彼をフランクと呼んだことがない。独身の男であってもいいし、オールドミスであるのかもしれない。彼がひと組のカップル、単体として機能するカップルであることもしばしばだった。
もし彼がフランシス・クリアリィという存在を、独身男性としてスタートさせたなら、結婚はあまり賢明なことではない。というのも、妻によって極めて鮮明に定義されてしまう怖れがあるからだ。みんなは妻を好きになったり、嫌いになったりするだろう。自分が知らないうちに、妻のおかげで、論争に決着をつける存在から、争点そのものになってしまうかもしれないのだ。
先に言った、性は彼にとって意味をなさないというのは、彼が女性とまったくつきあわない、フランシスが女性であれば、男性とつきあわない、という意味ではない。彼といえども、恋愛をすることはあるが、生活のほとんどを占めているのが、公的、社会的なものであったために、自分のために残しておいたこの小さな、たったひとつの領域は、私的な、きわめて内密なものとなった。彼のロマンスは、もし多少なりともあるとすれば、いわば課外活動だったのである。
ロマンスは彼の社会的な役割を妨害することはなかった。しかも、どちらが原因で、どちらが結果といえるようなものではなかったのである。彼がまだ若いころに人妻と恋に落ちたために、週末や夜や休日は友だちが勝手に使うことができたのか? それとも最初から友だちの専門家という役を割り振られたことに気がついていたので、それに合わせるかのように情事の段取りをし、現実に誰かを格別に愛することをしないまま、性的嗜好を育むことなど不可能であったために、仮名を使い、客車や、裏通り、安宿や公園での密会で永遠に満足してしまうようになったのだろうか。
どうやって知ることができよう。彼の様子を見ていると、恋愛が電話のベルに喜んで先送りされたことの根底には意図があったのはあきらかだった。
この破滅的な熱情や、不品行について、結婚している友だちとの関係が、ある程度、親密になったころにほのめかされることもあったが――電車で、見知らぬ人間と、ある程度、話がはずめば名刺を交換するようなものである――こうした告白はなんとなく嘘くさく、そこまで言わないまでも軽薄な感じがした。いったいだれが、毎日の五時以降深夜までと日曜、祝日は終日、その犠牲者をまったく暇にするような恋愛や不倫などというものを、真剣に受け取ることができようか。にもかかわらず、その告白は受け入れられ、ときに歓迎されさえした。告白は、新しく知り合いになった人々にとって、とりあえず彼のことを説明するものではあったし、かくも恐ろしい不道徳行為を密かに行っているのだ、とはっきり言われなければ、彼を奇妙な人であると思うかもしれないのだった。
なんら計算があるようには見えない場合もあった。
彼が結婚のことをときおり考えることはあったけれど、探し続ける「理想の人」は、生まれ出ることを待つ魂のように、この世界の向こうに存在するかのように思われた。その理想を備えた人が、生身の姿でこの世に現れるときはいつだって、すでに結婚していたり、年老いた母親に縛りつけられていたりして、とにかく不可能なのだった。
かくして眠れない夜は、時を経て自分の願いが馬鹿げたことだと気づくまで続き、五十歳になったフランシス・クリアリィは、恋い焦がれるのを止めて、自分の運命を、地理的な偶然(だれもが自分の分身、自分の片割れと一緒にいるけれども、その相手はニューヨークにいるとは限らないし、それどころかアメリカにいるとも限らないのだ)、あるいはロマンティックすぎる気性、あるいは単に、未成年のころにつき、未だに断ち切れていない、結婚している女性に恋をしてしまうという悪い習慣――この習慣のために、自分は夫がいない女性はみんな本質的に完全ではないとみなしてしまうのだ――のせいにする。
恋心を背後に隠して、フランシス・クリアリィはいままで以上に友情という任務に身を捧げるようになる。訪問したり、ちょっとした贈り物や親切をやりとりしたり、害のないゴシップや病気の不安を口にし、子どもたちを外に連れ出したりするような。
そうした生活のなかで、何度となく遅い春を味わい、友だちはみんな、彼も今度は結婚も目前だ、と期待する。ところが実際は、彼の性質がおのずと明らかになっていくにつれ、結局、結婚という考えは放棄せざるを得なくなるのだ。
この点――罪のなさという観点――から見ると、フランシス・クリアリィはまぎれもなく愛すべき人物である。たしかに彼は、友だちから、だれよりも好き、ということはないまでも、好意を寄せられた。そして、彼を害のない存在として受け入れていた友だちの夫や妻たちは、その性質ゆえに、好きになっていったのだ。
だが、善良さゆえに好かれる、ということは、嫉妬をかきたてることがないという点で、才能や魅力、美しさゆえに好かれることより特筆すべきことだったのである。
その善良さにもかかわらず、彼だけを食事に招いたり、一緒に散歩したりするのは、やはりうんざりするようなことだった。どうしたはずみか、差し向かいの話が途絶えたままでも幸せな気分でいられれば、フランシスの相手は決してそれを忘れることはできず、このできごとを繰り返し話すのだった(「わたし、このあいだフランシス・クリアリィとすばらしいひとときを過ごしたのよ」)。あたかも奇蹟を目撃したかのように、そして徳行はそれ自体に報いがあるかのように。
(この項続く)