リップ・ヴァン・ウィンクルというと、たいがいの辞書には「西洋版浦島太郎」と書いてある。だが、この説明はあまり正しくはないのではないかとわたしは昔から思ってきた。
日本の浦島太郎が作者不詳の伝説であるのに対し、「リップ…」はれっきとしたワシントン・アーヴィングの創作である。1819年に発表された短編集『スケッチ・ブック』のなかの一作、このなかには数年前映画化された「スリーピー・ホロウ伝説」も所収されているが、やはり圧倒的に有名なのはこの「リップ…」だろう。
ざっとあらすじを紹介しておくと、山奥の小さな村に住むリップ・ヴァン・ウィンクルは、あくせくせずにのんびり暮らすのがモットーの気のいい男。がみがみ口やかましいおかみさんと、孝行娘の三人暮らしである。
ある日、そのリップは口やかましい女房からのがれ、山に入っていく。山奥には見慣れない姿形の人々が、当時のボウリング、ナインピンズで遊んでいる。リップも仲間になって、いっしょに酒を酌み交わすうち、酔ったリップはそのまま眠ってしまう。
目をさますと朝になっている。口やかましい女房にはなんと言い訳したものかと頭を悩ませながら山を下りると、知った顔はひとりもいない。女房も娘の姿もない家は、廃屋になっている。なんと二十年間も眠っていたのだった。
そのあいだにアメリカはイギリスから独立し、山からおりたその日がちょうど大統領選挙の当日、どっちの党に投票したかと聞かれて、「国王に忠誠を誓っております」と答えたりする。
じき、口うるさい女房はもう死んでしまったことを知り、娘は立派な男と結婚している。そこで娘と一緒に暮らしながら、村人からは長老として敬われ、幸福な余生を過ごしたのだった……めでたしめでたし、という話なのである。
二十年寝ていたのだから、年を取っても長老とは言えないのではないかと思うのだが、まあそこは人徳というものなのかもしれない。あくせくせず、気楽に生きてきた彼は、二十年のギャップなどものともせず、あっというまに順応してしまうのだ。
この話と浦島伝説が似ているところといえば、帰ってみれば思わぬほど時間が経っていた、というただそれだけ(山中異界と海中異界という見方もあるけれど、単純にアメリカにスライドさせていいのかとかいろいろむずかしい話になってきそうなので、ここではそういう考察は置いておく)なのである。しかもこちらは二十年、浦島伝説ではなにしろ行った先が時間のない世界なので、計測不能なのである。ほんとうに戻ってきた太郎さんは、いったいどれほどの恐怖と、やがて絶望を感じたことだろう。
しかもリップが楽しんだのは、ボウリングなのである。なんとなく楽しそうではあるが、とにかく竜宮城とはえらくちがう。
もちろん、浦島といえば竜宮城なのだが、学生時代に深夜の時間帯、古い映画のリバイバル放送をよく見ていたのだが、そんなころ「キャバレー竜宮城」みたいな、奇妙なコマーシャルが流れていたような記憶がかすかにあるのだ。低予算のローカルCMで、あきれるくらいセンスの悪いものだった。
それを見るたび思い出したのが、太宰治の『お伽草子』の「浦島さん」の竜宮城である。
浦島さんを連れてきた亀が竜宮城の説明をする。
だが、太宰のこの部分を読むまでは、わたしの御想像も「ドンヂヤンドンヂヤンの大騒ぎ」、わたしが持っていた絵本の挿絵でもそうだったし、ほかの絵本でも似たり寄ったりなのだった。ところが太宰のこの小説を読んでしまえば、そんな絵が、どう考えても「キャバレー竜宮城」に近いように思えてくる。海の底にそんな場所があるとするなら、太宰が描く竜宮城以外にありえないように思われる。「神聖の聖の字に、あきらめ。」という「聖諦」の曲を奏でる琴によく似た、もっと寂しい音が、耳の奥、かすかに響いてくるような。
浦島さんは、やがてこの太宰版美しくもどこかかなしい、批評のない、無限に許されている竜宮城から、人間界に戻っていく。
そうして玉手箱を開けるのだが、太宰版ではそこで一気に三百歳になったのは、「決して不幸ではなかった」という。一気に三百年の月日が浦島太郎に流れ、そうしてそこに忘却が訪れたのである。おそらく浦島太郎はそこであらゆることを忘れてしまった。
太宰は話をこの言葉で締めくくる。
「 浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。」
これは、リップ・ヴァン・ウィンクルと同じことなのかもしれない。片や、眠っていて何も覚えていない、年だけ取った、経験のない長老の幸せな晩年の日々。片や、すばらしい経験を忘れるという慈悲を受けた、これまた幸せな晩年の日々。
もちろん、断然、太宰版『お伽草子』の世界の方がすばらしい、というか、くらべることにあまり意味はないのだが。
日本の浦島太郎が作者不詳の伝説であるのに対し、「リップ…」はれっきとしたワシントン・アーヴィングの創作である。1819年に発表された短編集『スケッチ・ブック』のなかの一作、このなかには数年前映画化された「スリーピー・ホロウ伝説」も所収されているが、やはり圧倒的に有名なのはこの「リップ…」だろう。
ざっとあらすじを紹介しておくと、山奥の小さな村に住むリップ・ヴァン・ウィンクルは、あくせくせずにのんびり暮らすのがモットーの気のいい男。がみがみ口やかましいおかみさんと、孝行娘の三人暮らしである。
ある日、そのリップは口やかましい女房からのがれ、山に入っていく。山奥には見慣れない姿形の人々が、当時のボウリング、ナインピンズで遊んでいる。リップも仲間になって、いっしょに酒を酌み交わすうち、酔ったリップはそのまま眠ってしまう。
目をさますと朝になっている。口やかましい女房にはなんと言い訳したものかと頭を悩ませながら山を下りると、知った顔はひとりもいない。女房も娘の姿もない家は、廃屋になっている。なんと二十年間も眠っていたのだった。
そのあいだにアメリカはイギリスから独立し、山からおりたその日がちょうど大統領選挙の当日、どっちの党に投票したかと聞かれて、「国王に忠誠を誓っております」と答えたりする。
じき、口うるさい女房はもう死んでしまったことを知り、娘は立派な男と結婚している。そこで娘と一緒に暮らしながら、村人からは長老として敬われ、幸福な余生を過ごしたのだった……めでたしめでたし、という話なのである。
二十年寝ていたのだから、年を取っても長老とは言えないのではないかと思うのだが、まあそこは人徳というものなのかもしれない。あくせくせず、気楽に生きてきた彼は、二十年のギャップなどものともせず、あっというまに順応してしまうのだ。
この話と浦島伝説が似ているところといえば、帰ってみれば思わぬほど時間が経っていた、というただそれだけ(山中異界と海中異界という見方もあるけれど、単純にアメリカにスライドさせていいのかとかいろいろむずかしい話になってきそうなので、ここではそういう考察は置いておく)なのである。しかもこちらは二十年、浦島伝説ではなにしろ行った先が時間のない世界なので、計測不能なのである。ほんとうに戻ってきた太郎さんは、いったいどれほどの恐怖と、やがて絶望を感じたことだろう。
しかもリップが楽しんだのは、ボウリングなのである。なんとなく楽しそうではあるが、とにかく竜宮城とはえらくちがう。
もちろん、浦島といえば竜宮城なのだが、学生時代に深夜の時間帯、古い映画のリバイバル放送をよく見ていたのだが、そんなころ「キャバレー竜宮城」みたいな、奇妙なコマーシャルが流れていたような記憶がかすかにあるのだ。低予算のローカルCMで、あきれるくらいセンスの悪いものだった。
それを見るたび思い出したのが、太宰治の『お伽草子』の「浦島さん」の竜宮城である。
浦島さんを連れてきた亀が竜宮城の説明をする。
、「これは海の桜桃の花です。ちよつと菫に似てゐますね。この花びらを食べると、それは気持よく酔ひますよ。竜宮のお酒です。それから、あの岩のやうなもの、あれは藻です。何万年も経つてゐるので、こんな岩みたいにかたまつてゐますが、でも、羊羹よりも柔いくらゐのものです。あれは、陸上のどんなごちそうよりもおいしいですよ。岩によつて一つづつみんな味はひが違ひます。竜宮ではこの藻を食べて、花びらで酔ひ、のどが乾けば桜桃を含み、乙姫さまの琴の音に聞き惚れ、生きてゐる花吹雪のやうな小魚たちの舞ひを眺めて暮してゐるのです。どうですか、竜宮は歌と舞ひと、美食と酒の国だと私はお誘ひする時にあなたに申し上げた筈ですが、どうですか、御想像と違ひましたか?」
浦島は答へず、深刻な苦笑をした。
「わかつてゐますよ。あなたの御想像は、まあドンヂヤンドンヂヤンの大騒ぎで、大きなお皿に鯛のさしみやら鮪のさしみ、赤い着物を着た娘つ子の手踊り、さうしてやたらに金銀珊瑚綾錦のたぐひが、――」
だが、太宰のこの部分を読むまでは、わたしの御想像も「ドンヂヤンドンヂヤンの大騒ぎ」、わたしが持っていた絵本の挿絵でもそうだったし、ほかの絵本でも似たり寄ったりなのだった。ところが太宰のこの小説を読んでしまえば、そんな絵が、どう考えても「キャバレー竜宮城」に近いように思えてくる。海の底にそんな場所があるとするなら、太宰が描く竜宮城以外にありえないように思われる。「神聖の聖の字に、あきらめ。」という「聖諦」の曲を奏でる琴によく似た、もっと寂しい音が、耳の奥、かすかに響いてくるような。
浦島さんは、やがてこの太宰版美しくもどこかかなしい、批評のない、無限に許されている竜宮城から、人間界に戻っていく。
そうして玉手箱を開けるのだが、太宰版ではそこで一気に三百歳になったのは、「決して不幸ではなかった」という。一気に三百年の月日が浦島太郎に流れ、そうしてそこに忘却が訪れたのである。おそらく浦島太郎はそこであらゆることを忘れてしまった。
太宰は話をこの言葉で締めくくる。
「 浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。」
これは、リップ・ヴァン・ウィンクルと同じことなのかもしれない。片や、眠っていて何も覚えていない、年だけ取った、経験のない長老の幸せな晩年の日々。片や、すばらしい経験を忘れるという慈悲を受けた、これまた幸せな晩年の日々。
もちろん、断然、太宰版『お伽草子』の世界の方がすばらしい、というか、くらべることにあまり意味はないのだが。