陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『ネコナキドリの巣の上で』 あとがきの代わりに

2004-12-30 19:27:39 | 翻訳
   いやな上司

まずは、個人的な経験から。

数年前のことだ。ある企画を立ち上げたことがあった。
賛同者を募り、計画書を出し、無事認められたまでは良かったが、「監修者」のような人間が上に付いた。この人のことは前から知っていたのだが、何をやっているでもなく、なんとなくブラブラしている奇妙な人、という印象でしかなかった。漏れ聞こえてくる評判も、それほど芳しいものではない。
ところが、この人の名前を聞いて、以前関わりを持ったことのあるメンバーは青ざめた。あのおばさん、ババ抜きのババみたいなもんだよ、回されてきたら、なんとか別のところに追いやろうとして、どこも必死になってる。

実際に始まって見ると、聞きしにまさるすさまじさだった。
信じられないくらい無知だし、目を疑うほど何もできないのだ。そのくせ、何にでも口を突っ込んでくる。無視された、とすぐに怒り出す。人のものは欲しがる。要するに、異様に子どもっぽい人だったのだ。
口を開けば、自慢ばかり。係累を自慢し、家を自慢し、飼っている犬を自慢し、犬のトイレの砂まで自慢する。
だが、この人のやることで一番害がないのが、自慢だった。いっそ、自慢だけしておいてくれれば良いとさえ思ったものだった。
なんだかんだいちゃもんをつけてくるのだが、それがことごとく、完全に見当はずれもいいところ。あまりのピントのずれように、聞いていれば気分が悪くなってくる。しかもあちこちに地雷がばらまかれているらしく、突然爆発する。その地雷のポイントがまったく予測不能なのである。
このおばさんに耐えきれず、辞めていった者もいた。実際、わたしも何度となく、投げ出してしまいたくなった。

サーバーの短編で、マーティン氏が毎晩、胸の内で、バロウズ夫人の殺害計画を夜毎練って、飽きなかったというところがある。殺害計画こそ練らなかったけれど、この心理は非常に良く理解できた。
いやな人間が身近にいると、自分はその人間のどういうところが嫌いか、何で嫌いなのか、どうしても考えてしまう。マーティン氏と同じように、罪状をあげつらい、論告しないではいられない。しかもその人は、日々、審理のタネを提供してくれる。

ところがこれは癖になる。
だれか、好きな人ができると、水が低いところに流れ込むように、気がつけば好きな人のことを考えている、このような経験は、日常めずらしいことではない。
だが、嫌いな人間に対しても、同じことが起こるのだ。腹立たしい人間、考えるだけではらわたが煮えくりかえるような人間のはずなのに、いつの間にかそうした人間のことを考えている。いやな人間が、本来の領域を越えて、無関係な領域にまで滲出してきているのだ。
そのことに気がついたとき、ぎょっとしたし、自分が汚染されていくように感じた。汚染をくい止めるために、「ふと気がつけば」という状態をなるべくなくそう、自分がいま何を考えているか、自分で把握しておこうと思った。仲間内で集まれば、いつしかそのおばさんの悪口大会で盛り上がっていたのだが、それはそれで一種のストレス解消の効用があったにせよ、やめるように努めた。

ただ、それで自分の腹立たしい思いを霧散できるほど、わたしは人格者ではない。
実は、復讐方法を考えついたのだ。マーティン氏の殺害計画である。
わたしは最初から実行するつもりはなかった。それでも、その復讐方法を思いだすと、どんなに鬱陶しいことを言われても、乗り切れるような気がした。
そのうちに、ひとつのことに気がついた。
わたしは、この企画さえ終われば、この人から離れることができる。けれども、その人は一生、その人であり続けなければならない。その人として、生き続けなければならない。
疎んじ、腹を立てたのは、わたしたちが最初でもなければ、最後でもない。これから後もその人は、ババ抜きのババであり続けるのだ。これほどの罰があるだろうか。

マーティン氏の計画は、見事成功した。
現実問題として、こんなうまい話はないだろう。それでも、現実の「バロウズ夫人」も、やはり罰を受けているのだ。これほど目に見える形ではないにしても。それは、「バロウズ夫人であり続けなければならない」、という罰である。
考えてみたら、人間というのは、誰しも「その人」から抜け出ることはできないのだ。「心」、「人格」、「性格」、「自我」、何と呼んでもいいけれど、誰しもそうした「器」に閉じ込められている。人は自分の器をとおしてしか、外界を見ることができないし、他者を理解することも他者と接することもできない。そう考えていくと、この器は人を一生閉じ込める一種の牢獄であるともいえるだろう。
さらに厄介なことに、自分を閉じ込めている器がどんなものか、自分ではごく一部しか見えないのだ。

どうせ一生、そこから出られないのなら、すこしでも居心地の良いものにしたい。
自分で見える部分はごく一部でしかなくても、その一部をできるだけ気持ちの良いものにしたい。
それはほんとうにそう思う。

そうそう、わたしの考えた復讐方法を、ここで披露しよう。
まず、おばさんの真向かいに席を占める。話し合いを始める前に、ふっと「何か、臭いね~」みたいなことを言いながら窓を開ける。「何の臭いだろう」とかなんとか。あらかじめ打ち合わせたほかの人間が、目配せしたり、肘で付いたり。
そして、そのおばさんの方に目をやる。はっとして、「すいません」といかにも申し訳なさそうに謝る。
そうして、恐縮しつつ、そっと出すのが『キスミント』。
「良かったら、どうぞ」

いかにわたしが見下げ果てた人間であることか……。

さて、サーバーについて少々。
ジェームズ・サーバーは1894年生まれで1961年没。
雑誌『ニューヨーカー』の、創刊時代から30年代半ばまで編集に携わるが、単なるスタッフライターという以上に、『ニューヨーカー』という雑誌の基調を決定した一人でもある。
ユーモア作家兼イラストレイターという評価が一般的だが、そのユーモアというのは、人間を良く知っている人ならでは、という感じがする。
『ニューヨーカー短編集』(Iには『虹をつかむ男』が所収されていて、IIにはこの『ツグミの巣ごもり』が所収されている)の著者紹介には「そのユーモアは、真似手のいない、底ににがみ、かなしみを含んだユニークなものである」とある。たしかにそのとおりだと思う。

ジェームズ・サーバー 『ネコナキドリの巣の上で』 その4.

2004-12-29 21:37:49 | 翻訳

翌朝八時半、マーティン氏はいつもどおりの時間にオフィスに着いた。九時十五分前、普段は十時前に出てきたことのないアージン・バロウズが、勇ましい足取りで文書部に入ってきた。
「これからフィットワイラー社長に報告に行きますからねっ」と夫人は怒鳴った。「社長さんがあんたを警察に着きだしても、当然の報いだわ!」
マーティン氏はさも驚いた、という表情を浮かべ「何をおっしゃっておられるのかわかりかねますが」と言った。バロウズ夫人がフン、と鼻を鳴らして勢いよく出ていくのを、部屋にいたミス・ペアードとジョーイ・ハートは呆然と見送る。
「オバアチャン、こんどはどうしたんですか?」と聞いてきたミス・ペアードに、マーティン氏は「見当もつかんよ」と答えて、仕事に戻った。残ったふたりは、マーティン氏を見、それからたがいに顔を見合わせた。ミス・ペアードは立ち上がって部屋を出ていった。フィットワイラー氏のオフィスの閉ざされたドアの前をゆっくりと通り過ぎる。なかからバロウズ夫人がわめいているのは聞こえたが、ロバのいななきのような笑い声は立てていなかった。何を言っているのかまではわからない。ミス・ペアードは、自分の席に戻った。

 四十五分後、バロウズ夫人は社長室を出て、自分の部屋に戻るとドアを閉めた。三十分もたたないうちに、フィットワイラー氏がマーティン氏を呼びだした。文書部長は端然かつ沈着冷静、加えて思慮深い面持ちで社長のデスクの前に立つ。フィットワイラー氏は顔色が悪く、落ち着かなげな物腰だった。眼鏡をはずしてもてあそんでいる。喉の奥で軽い咳払いをして、切り出した。
「マーティン、君が我が社に来てから、二十年以上になるね」
「二十二年になります」
「その間ずっと」と社長は続けた。「君は仕事内容といい、あー、その、何だ、勤務態度といい、模範的だった」
「そうありたいと願っております」
「君は確か、酒もタバコもやらんのだったように思うが」
「そのとおりです」
「やっぱり、そうだったな」フィットワイラー氏は眼鏡を拭いた。

「マーティン、昨日、退社後どうしたか、教えてくれるかね」
マーティン氏はほんの一瞬たりともとまどう様子を見せなかった。「もちろんです、社長」そうしてことばをついいでいく。「徒歩で帰宅しました。のち、シュラフトの店に夕食を取りに出かけ、食後、ふたたび歩いて戻りました。早めに床につき、しばらく雑誌を読みました。十一時前には就寝したと思います」
「やっぱり、そうだったな」とフィットワイラー氏は先ほどと同じことを言った。文書部長にどう話したらよいのか言葉を選んでいるような間が空いた。
「ミセス・バロウズのことなんだ」やっとのことでそう言った。「ミセス・バロウズは大変熱心に働いてくれた。マーティン、それはそれは一生懸命に、だ。そのために、痛ましいことに、ひどい神経衰弱になってしまった。被害妄想の症状が現れて、痛ましいことに、幻想を見てしまうらしい」
「お気の毒なことです」
「これもみな妄想なんだが、ミセス・バロウズは、昨夜君が彼女の下を訪れて、まぁ、その、何だ、けしからん真似をしたと言っているんだ」

マーティン氏が洩らした不愉快そうな抗議の声を、フィットワイラー氏は手を上げて制した。
「心の病では、ありがちなことなのだ。一番害のなさそうな人物に目をつけて、まぁ、その、何だ、被害妄想の原因にするんだよ。こうしたことは、一般人にはなかなか理解しがたいんだが。かかりつけの精神分析医のフィッチ先生に、さっき電話で聞いてみた。もちろん医師という立場での正式見解ではないがな。一般論だったが、私の懸念は十分、裏付けられたよ。ミセス・バロウズには、けさ彼女が、まぁ、その夢物語をしたときに、フィッチ先生のところへ行くように勧めたんだ。すぐにそうした病気じゃないか、と思ったんでな。ところが残念なことに、怒り出して手がつけられなくなってしまった。そうして、君をここに呼んで譴責するように、命令、というか、その、要求してきたのだ。君は知らなかっただろうが、マーティン、ミセス・バロウズは君の部署の再編成を計画、というか、私の決裁が下りたらだが、もちろんそうだ、私の決裁がまずなければな。ということで、だれよりも君のことが頭にあったんだろう。まぁこれもフィッチ先生の扱うことがらで、私らの管轄ではないがな。ということで、マーティン、残念だが、ここで役に立ってくれたミセス・バロウズも、お引き取り願うことにしたのだ」
「非常に残念です」


 そのとき突然、ガスの本管が爆発したかのように、すごい勢いでドアが開いて、バロウズ夫人が飛び込んできた。
「この薄汚いネズミは、認めようとしないんですね?」と金切り声をあげる。「逃げようったって、そんなことはさせませんからねっ」
マーティン氏は立ち上がって、気づかれないようにフィットワイラー氏の近くに移動した。
「あんたはわたしのところで酒を飲んだしタバコを吸ってたでしょ」夫人はなおも食ってかかる。「しらばっくれないでよ! フィットワイラーさんのことをくそったれのおしゃべりジジイって、それから、あのくそジジイをくたばらせた日にゃ、ヘロインで最高にイッちまう、って言ったくせに」わめくのを止めて息をつくと、飛び出さんばかりに見開いた目に、新たな光が宿った。
「もうちょっとであんたが全部仕組んだことを信じこまされるところだったわよ。舌を出して、ネコナキドリの巣の上で、タマゴを抱いてるところだなんて言っちゃって。どうせわたしがこんなことを言っても、だぁれも信じちゃくれない、とでも思ったんでしょ! お生憎様。あんまりうますぎたようね!」ロバそっくりのヒステリックな高笑いをしているうちに、ふたたび怒りがこみ上げてきたらしい。今度はフィットワイラー氏をねめつけた。「どうしてこいつにだまされてるのがわからないの、耄碌爺さん。三文芝居だってわかんない?」

ところが少し前、フィットワイラー氏がこっそり机の天板の裏側のボタンをすべて押していたために、F&S社の社員が社長室になだれ込んできた。
「ストックトン」とフィットワイラー氏が言った。「君とフィッシュバインで一緒にミセス・バロウズを家に送っていってあげなさい。ミセス・パウエル、あなたもついていってあげなさい」
ストックトンは高校時代、フットボールを少しやったことがあったので、マーティン氏に襲いかかろうとしているバロウズ夫人をうまくブロックした。バロウズ夫人を社長室から速記者や雑用係の少年が群がる廊下へと力ずくで連れ出すためには、ストックトンとフィッシュバインが協力しなければならなかった。それでもなお、バロウズ夫人はマーティン氏を呪って支離滅裂なことばを吐き散らしている。だがわんわん言う声も、通路を遠ざかるに連れて消えていった。

「こうした事態になって残念だよ」とフィットワイラー氏が言った。「マーティン君、どうか忘れてくれたまえ」
「かしこまりました」マーティン氏は「行ってよろしい」ということばを察して、ドアへ向かった。「忘れることにいたします」
社長室を出て、ドアを閉めたマーティン氏の足取りは、軽やかに、宙を舞うがごとくになった。だが文書部に入っていくときには、いつもの足取りに戻し、静かに部屋を横切って、W20のファイルに向かうと、仕事に熱中しているときの顔つきをまとった。


(明日はちょっとした感想など)

ジェームズ・サーバー 『ネコナキドリの巣の上で』 その3.

2004-12-28 19:00:50 | 翻訳

「おやおや、いったいだれかと思いきや!」バロウズ夫人は大きな声でわめくと、ショットガンを乱射させたような騒々しい笑い声をとどろかせた。マーティン氏はフットボールのタックルのように夫人にぶつかりながら、なかへ突進した。「もうっ、押さないでったら」そう言いながら、夫人はドアを閉める。
ふたりは居間に入ったが、そこはマーティン氏の目には、百個もの電灯で煌々と照らされているように映った。
「なんに追いかけられてるの? ヤギみたいにびくびくしてるわよ」
しゃべろうとしても、なにも言うことができない。せりあがってきた心臓が、喉元でぜいぜい言うだけだ。「あー、ええ」と、やっとのことで声が出た。
夫人は早口でなにやらぺちゃくちゃしゃべりながら笑い声をあげ、マーティン氏がコートを脱ぐ手助けをしようとした。
「いや、結構。コートはここに置きます」そう言ってマーティン氏は脱いだコートをドアのそばの椅子にかけた。
「帽子と手袋もね」と夫人が言う。「ここはレディの家ですから」
マーティン氏は帽子をコートの上に載せた。バロウズ夫人は思ったより大柄だった。手袋は、そのままにしておく。
「ちょうどここを通りがかって、気がついたんです――どなたか、いらっしゃるんですか」
夫人の笑い声は、いっそう大きくなった。「だーれも。あんたとわたしのふたりきりよ。だけど、あんたの顔色、紙みたいよ、おかしな人ね。一体全体、どうしちゃったの。レモン入りのお湯割りウィスキーでも作ってあげたほうがいいわね」部屋を横切って、ドアの方へ行きかけた。「それともスコッチ・ソーダのほうがいい? あら、あんたは飲まないんだっけ」夫人は振り返ると、おもしろいものでも見るような目つきで彼を眺めた。
マーティン氏は落ち着きを取り戻してきた。「スコッチ・ソーダの方がいいな」と自分が言っている声がする。台所で夫人が笑う声が聞こえた。

 マーティン氏は凶器になりそうなものはないか、と素早く居間を見回した。現場でなにか見つかるだろうと思っていたのだ。暖炉の薪を載せる台、火かき棒、隅になにか体操用のこん棒のようなものがある。どれも使えそうにない。そんなはずがないのだ。マーティン氏は歩き回った。机に近寄る。飾り柄のペーパーナイフは金属製だ。刃は役に立つほど鋭いだろうか。手を伸ばしたはずみに、小さな真鍮のつぼを倒してしまった。中から切手がこぼれ出し、ガチャンと音を立てて床に落ちた。
「ちょっとォ」とバロウズ夫人が台所で怒鳴った。「豆畑をほじくり返さないでちょうだい」
マーティン氏は奇妙な笑い声を洩らした。ナイフをとりあげ、左の手首に先を当ててみる。先が尖ってない。これでは役に立たない。

 バロウズ夫人がハイボールを二つ持って戻ってくるころには、手袋をはめたままそこに立つマーティン氏も、自分が抱いてきたのはおとぎ話だったのだ、ということを、痛切に感じ始めていた。タバコはポケットに。そして飲み物が用意され――なにもかも、あまりに、どうしようもなく現実離れしている。いや、それ以上に、そんなことは不可能だ。
マーティン氏の胸の、どこかしら底の方で、ばくぜんとしたアイデアが浮かび、芽吹いた。
「後生だから、手袋は取ってちょうだい」
「いつも家の中では手袋をはめることにしてるんですよ」
アイデアが花開き始めた。奇妙な、だが、すばらしい花だ。
夫人はソファの前のコーヒーテーブルにグラスを置くと、ソファに腰を下ろした。「こっちへいらっしゃいよ。ほんと、おかしな人ね」
マーティン氏はそちらへ行って、隣に座った。キャメルのパックからタバコを一本引き抜くのはやっかいだったが、なんとかできた。夫人は笑いながら、マッチで火をつけてくれた。
「なんてことでしょうね」と言いながら、飲み物を渡す。「まったく驚きよ。あんたが酒を飲むわ、タバコを吸うわだなんて」

 マーティン氏はタバコを吹かし――それほど無様なことにはならなかった――、ハイボールを一口飲んだ。
「オレは酒もタバコも、年がら年中やってるんだ」自分のグラスを夫人のグラスにカチリと合わせた。「くそったれのおしゃべりジジイ、フィットワイラーに乾杯」そう言うと、もういちど、グイッとあおった。途方もなくまずかったが、顔はしかめずにすんだ。
「マーティンさんったら、本気で」そう言う夫人の声音と態度は、一変していた。「我が社の社長を侮辱なさってるのね」いまやすっかり社長付き特別顧問である。
「爆弾を用意してるんだ。そいつであのじいさんを地獄の向こうまで吹っ飛ばしてやろうと思ってさ」
まだほんの少ししか飲んでいないし、それほど強い酒でもない。そのせいであるはずがない。「あなた、マリファナか何かやってるのね」バロウズ夫人は冷ややかに言った。
「ヘロインさ。あのくそジジイをくたばらせた日にゃ、最高にイッちまうだろうなぁ」
「マーティンさん!」夫人は立ち上がって叫んだ。「もうこれ以上は結構。すぐにお帰りください」
マーティン氏はもうひとくち飲んだ。タバコの火を灰皿で揉み消し、キャメルのパックをコーヒーテーブルに置き、それから立ち上がる。夫人は立ったまま、恐ろしい目で睨んでいた。マーティン氏はそこを出て、帽子とコートを取った。「このことはひとことも喋るんじゃないぞ」そう言って、人差し指を自分の唇に当てる。バロウズ夫人が口にすることができたのは、「まったく!」というひと言だけだった。マーティン氏はドアノブに手をかけた。「オレはネコナキドリの巣の上で、タマゴを抱いてるところさ」そう言うと、夫人に向かってべろりと舌を出し、出て行った。その姿を見た者は、どこにもいなかった。

 マーティン氏が歩いて自宅のアパートメントに戻ったのは、11時よりもずいぶん前だった。帰ったところを見た者もいなかった。歯を磨いてから、コップ二杯のミルクを飲むと、鼻歌を歌いたいような気分になってきた。酔ったせいではない。足下がふらつくこともなかったから。とにかく、ウィスキーの効きも、歩いているうちにすっかり飛んでしまっていた。ベッドに入って、しばらく雑誌を読んだ。そうして真夜中になるまえには、すっかり眠ってしまっていた。

(バロウズ夫人はどう出るのか? マーティン氏の運命や如何? 次回怒濤の最終回。刮目して待て!)

ジェームズ・サーバー 『ネコナキドリの巣の上で』 その2.

2004-12-27 21:52:40 | 翻訳

 マーティン氏の胸の内で、裁判官の木槌がうち下ろされ、正式な申し立てが再開された。ミセス・アージン・バロウズは、故意の、目に余る、絶えざる妨害工作を、F&S社の効率と組織体に対して行った咎で起訴されている。彼女の出現と、権力の掌握に至る経緯をかえりみることは、適切であり、重要であり、本件と十分な関係を持つ。マーティン氏はミス・ペアード、いつもなにか見つけてくることに長けているような彼女から、こんな話を聞いたのだ。話によると、バロウズ夫人はとあるパーティで、フィットワイラー氏に会ったのだという。そこでたくましい体つきの男が酔っぱらって、F&S社の社長を、中西部のフットボールの引退した有名監督と間違えて抱擁してくる手から救い出してくれたのだ。バロウズ夫人はフィットワイラー氏をソファへと導き、なにやらそこで恐るべき魔法をかけた。年を重ねた紳士が、即座に結論に飛びついた。この女性こそ、自分と会社から最良のものを引き出してくれる、たぐいまれな能力のもちぬしである、と。

一週間後には、社長は夫人をF&Sの特別顧問として紹介していた。かくてその日、混乱の火ぶたが切って落とされたのである。ミス・タイソンならびにブランデージ氏、バートレット氏がクビになり、マンソン氏が帽子を手に席を蹴ってでていくと(辞表は後日郵送された)、ロバーツじいさんも勇をふるってフィッツワイラー氏のところへ談判に行った。マンソン氏の部は「若干、混乱を来して」いるので、おそらくは、従来の組織体に戻したほうがよろしいのではありますまいか、と。フィットワイラー氏は、それはダメだ、と答えた。わたしはバロウズ夫人の考えには絶大なる信頼を寄せている。そしてこう付け加えた。「必要なのは、少々のスパイスなのだよ。少々のスパイス、それがすべてだ」ロバーツ氏はあきらめてしまったのだった。
マーティン氏はバロウズ夫人によって加えられたあらゆる変革を、つぶさに検討した。会社という建造物の、壁面上部の装飾を打ち壊すことから始めた夫人は、いまや礎石めがけてつるはしをふるい始めたのである。

 いよいよマーティン氏は最終弁論に入る。1942年11月2日月曜日の午後、ちょうど一週間前のこと。その日、午後三時にバロウズ夫人は、マーティン氏のオフィスに、弾むように入ってきたのだ。「なーんなんでしょっ!」と大声をあげた。「漬け物樽の底をこすってるところね」マーティン氏は緑のアイシェード(※この時代、新聞記者や会計士などは緑色のセルロイドがはまったまびさしを頭にかぶって仕事をしていた。参考画像)ごしに夫人を見たが、なにも言わなかった。歩き回りながら、大きな目を見開いて、部屋を品定めしている。
「こうした書類戸棚がほんとうに全部必要?」と、いきなり詰問してきた。
マーティン氏の心臓は、飛び上がりそうになる。「こうしたファイルはどれも」と声を平静に保って答えた。「F&S社にとって、組織運営上、必要不可欠の役割を担っております」
夫人は耳障りな声で言う。「あら、そう。だけど豆畑をほじくり返すのは止してちょうだい」とドアに向かった。そこで声を張り上げた。「だけどあんたたち、まったくたいそうな紙クズの山をここに溜め込んだもんね」

マーティン氏の愛する文書部に危害が及ぶことは、もはや疑いようもないところまできていた。夫人のつるはしは振り上げられ、最初の一撃を下す態勢に入っている。ただ、まだ振り下ろされるところまではきていない。マーティン氏は青いメモ、魔法にかかったフィットワイラー氏が、非常識な女の指図のままに出す、分別を欠いた辞令の用紙を受け取ってはいない。しかし、マーティン氏の胸中では、早晩、辞令が下りることは、疑いようもない事実だったのである。すみやかに行動しなければならなかった。すでに貴重な一週間が過ぎ去っている。マーティン氏はすっくと居間に立ち上がった。ミルクのコップを手にしたまま。「陪審員のみなさん」マーティン氏は胸の内で言った。「かかる残虐非道な人物に、わたくしは死刑を求刑するものであります」

 つぎの日、マーティン氏はいつもどおり、日常業務をこなした。実はいつもよりよけいに眼鏡を拭いたり、一度などはすでに削った鉛筆を改めて削ってしまったりもしたのだが、あのミス・ペアードさえ気がつかなかった。ほんのちらっと獲物の姿を見かけた。廊下で追い越しざまに、さも見下したような口調で「どうも」と声をかけていったのである。五時半になると、普段と同じく歩いて自宅に戻り、これまたいつもどおりミルクを飲んだ。それより強い飲み物は飲んだことがなかったからである。ジンジャー・エールを入れると、話は別だが。
いまは亡きサム・シュロッサー氏、F&SのSに当たる人物なのだが、このシュロッサー氏が亡くなる数年前、幹部会議の席上でマーティン氏の節制ぶりを讃えてこう語った。「我が社のもっとも有能な社員は、喫煙とも飲酒とも無縁だ。その結果は、まさに自明の理とも言えるな」傍らに腰を下ろしたフィットワイラー氏も、賛意を表してうなずいていたではないか。

 マーティン氏はその記念すべき日のことをなおも考えつつ、五番街の四十六丁目に近いシュラフトの店に歩いていった。着いたのは、いつもどおり八時である。夕食とともに、サン紙の経済面を読み終えたのが、これまたいつもどおりの九時十五分前。食後に散歩をするのは、マーティン氏の習慣である。この日は五番街を南に向かってぶらぶら歩いていった。手袋をはめた手はじっとりと熱をもっているが、頭はひんやりとしていた。キャメルをコートのポケットからジャケットへと移しかえる。そうしながら、タバコが極度に緊張した痕跡を不用意に残したもの、と受け取られなかったらどうしようと思った。ミセス・バロウズが吸うのは、ラッキーストライクに限られている。キャメルをちょっと吹かして(消去した後に)、夫人の口紅がついたラッキーストライクが残っている灰皿でそれを揉み消し、かくてこのちょっとした偽装工作で、操作の方向を攪乱する、というのがマーティン氏の狙いなのである。ひょっとしたら、これは名案とは言い難いのだろうか。時間も食うだろう。ひょっとしたらむせて、大きな咳をするかもしれない。

 ミセス・バロウズが住む西十二丁目の家を、マーティン氏はこれまで一度も見たことはなかったが、そのイメージははっきりと持っていた。さいわいにもだれかれとなく、とびきりステキな赤レンガの三階建てのアパートメントの一階に、とびきりかわいい自分の部屋があることを、吹聴して回っていた。そこにはドアマンや管理人がいないこと、ただ二階と三階の住人だけだということも。マーティン氏は歩を進めながら、九時半より前にそこに着いてしまいそうなことに気がついた。最初はシュラフトの店から五番街を北に向かい、十時までには夫人の家に着けるような場所で折り返すことも考えた。その時間なら、人の出入りも少ないように思われた。だが、この方法では、偶然を装った一直線の道筋に、不格好な輪ができてしまう。そのためにこの案は棄却されたのだ。どちらにせよ、いつ人がそこを出入りするかなど、予測できるものではない。何時であっても大きな危険性は伴うのだ。もしだれかにでくわしたら、アージン・バロウズ抹消計画は、永遠に休止中ファイルのなかに放り込んでおきさえすればいい。夫人のアパートメントにだれかがいても、同じことが当てはまる。その場合は、通りがかりにステキなお宅をお見かけしたもので、ちょっとお寄りしてみました、とでも言えばよい。

マーティン氏が十二丁目に入ってきたのは、九時十八分だった。ひとりの男が追い越していき、一組の男女が話していた。ブロックを半分ほど行ったところにあるその家にさしかかる間、五十歩以内に人影はなかった。一瞬のうちに階段を駆け上がって玄関口に立ち、『ミセス・アージン・バロウズ』と書かれた名札の下のベルを押す。掛け金の鳴るかちりという音が終わらないうちに、ドアに飛び込んでいた。サッと内側に入り、ドアを閉めた。玄関ホールの天井から鎖でつり下げられているランタンの電球が、あたりをすさまじく明るく照らし出しているような気がする。手前から左の壁面に沿って上っていく階段には、人の姿はない。ホールの右側のドアが開いた。つま先立ちで、すばやくそちらに向かった。

ジェームズ・サーバー 『ネコナキドリの巣の上で』 その1.

2004-12-25 21:33:30 | 翻訳

今日から四回(予定)にわたって、ジェームズ・サーバーの短編『ネコナキドリの巣の上で』の翻訳をお送りします。
原文はhttp://home.eol.ca/~command/catbird.htmに掲載されています。
邦訳は鳴海四郎氏によって『ツグミの巣ごもり』というタイトルで『ニューヨーカー短編集III』(早川書房)に所収されています。

原題は"The Catbird Seat"、Catbirdがどうしてツグミになったのかわかりませんが、ここではCatbirdの日本語として辞書にも載っている「ネコナキドリ」を使いました。
なお、文章のなかにも出てきますがイディオムとして "in the catbird seat"=有利な立場にいる人 、というものがあります。
ネコナキドリは馴染みがない鳥ですが、こんな鳥みたいです。http://www.westol.com/~pennwest/birds/catbird.html
ネコみたいな声で鳴くんでしょうか。

***
『ネコナキドリの巣の上で』 ジェームズ・サーバー


 月曜の夜、マーティン氏は、ブロードウェイのどこよりも繁盛したタバコ屋で、キャメルを一箱買った。劇場が開いている時間だったので、七、八人の男たちがタバコを買っている。店員はマーティン氏のほうをちらりとも見ず、氏はオーバーのポケットにタバコを納めると店を出た。F&Sの社員のだれかがマーティン氏がタバコを買っているのを見たら、驚いたはずだ。マーティン氏がタバコを吸わないのは、周知の事実だったし、実際、一度も吸ったことはなかったのである。だがマーティン氏を見かけた者はいなかった。

 マーティン氏がミセス・アージン・バロウズを消去しようと決心したのは、一週間前のちょうどこの日だった。「消去」ということばをマーティン氏は好んだ。というのも、このことばには、間違い――この場合、フィットワイラー氏の間違いである――を改める、という以上の含意が感じられなかったからである。マーティン氏はこの一週間というもの、毎夜、計画を立てては吟味を重ねてきた。自宅に向かって歩を進めつつ、またしても計画を反復してみる。何百回目になるのだけれど、この作業から排除しきれない不正確な部分、憶測の領域が腹立たしい。マーティン氏が立てた計画は、偶然の要素が大きく、かつ大胆なものなので、その危険も無視できない。いずれかの時点で不慮の事態が起こらないとも限らない。だが、そこがこの計画の抜け目のない点なのである。いったいだれが、慎重で精密な仕事ぶりのアーウィン・マーティン、F&S社文書部長にして、かつてフィットワイラー氏に「人みな過つ、しかれどもマーティン過たず」と称されたマーティン氏が、このことに関与していると思うだろうか。だれひとり、彼の仕業と考える者はいないだろう。現場を押さえられないかぎりは。

 自宅のアパートメントに座ってコップのミルクを飲みながら、マーティン氏はこの七日の間、夜毎続けてきた、ミセス・アージン・バロウズに対する審理を再検討してみた。始まりに立ち戻る。アヒルのように騒々しい声とロバがいななくような笑い声が、F&S社の社屋をけがしたのは、1941年3月7日が初めだった(マーティン氏は日付を覚えるのが得意なのだ)。いまいましいロバーツ、人事部長が、社長であるフィッツワイラー氏付きの特別顧問として新しく任命された女性を紹介したのだ。一目見るなり、マーティン氏は怖気をふるったが、もちろんそんなそぶりは見せない。熱のこもらない握手をし、仕事に没頭しているそぶりをしながら、わずかばかりの笑顔を見せた。「あらあら」机の書類を見ながら、こう言ったのだ。「溝にはまった牛車を引っ張り上げてるのね」

ミルクを口にしつつ、このときのことを思いだしたマーティン氏は、どうも落ち着かなくなってきた。自分の意識を、特別顧問としての犯罪的行為に向けるべきであって、性格上の過ちを問題にすべきではない。ただそのことは、異議申し立てを受け、それを認めたとしても、簡単ではなかった。マーティン氏の心の中では、あの女の欠点をあげつらう女性が、命令に従わない証人のように、おしゃべりを続けるのだった。夫人には、いまや二年に渡って悩まされ通しだった。廊下で、エレベーターの中で、マーティン氏のオフィスまでも、サーカスの馬のように跳ね回り、度はずれの声でばかげた質問をまくしたてるのだ。「溝にはまった牛車を引っ張り上げてるの? 豆畑をほじくり返してるのね? 天水桶に向かってどなってるの? 漬け物樽の底をこすってるんでしょ? ネコナキドリの巣でタマゴを抱いてるところ?」 

 ちんぷんかんぷんのおしゃべりを説明してくれたのは、マーティン氏の二名いる部下のひとり、ジョーイ・ハートである。
「たぶんドジャースのファンなんですよ。レッド・バーバーがラジオでドジャースの実況中継をしているときに、ああした言い回しを使うんです。南部にいるころ覚えたんでしょう」
ジョーイは言い回しをひとつふたつ、教えてくれた。『豆畑をほじくり返す』、っていうのは大暴れしている、っていうことです。『ネコナキドリの巣でタマゴを抱く』っていうのは、有利な立場にいる、ちょうど、バッターがノーストライク、スリーボールのようなカウントにいるようなことを指すんです。
マーティン氏はこうしたことをすべて、強いて却下しようとした。不快だったし、そのおかげで気も狂わんばかりにさせられたこともあったが、このような子供じみた動機で殺人を犯そうと思うには、あまりに手堅すぎるマーティン氏である。
幸いにも、とバロウズ夫人に対する重要な告発に移りながら、マーティン氏は思案する。自分はそうしたことに、たいそう良く耐えてきた。見たところ、つねにがまん強く礼儀正しい態度をとり続けてきたのだ。「ほんと、部長さんったらあの方、お好きなんじゃないかしら、ってもうちょっとで思ってしまいそうですよ」と、もうひとりの部下のミス・ペアードが以前、言ったことがある。マーティン氏はただ微笑して見せただけだった。

この話 したっけ その3.

2004-12-22 21:39:54 | weblog
3.The Working Song

初めてやった仕事は、コピー屋のバイトだ。
やってきた客に、ちょうど携帯電話くらいのサイズのカウンタを渡す。カウンタを差し込むとコピー機が動き始める、という仕組みだ。コピーが終わるとまたそのカウンタをレジに持ってきてもらい、数字をノートに記入する。そうして枚数をチェックしてお金をもらう。
白黒コピー一枚あたり8円だった。

コピー機がだいだい6台前後あり(中古のコピー機を使っていたので、8台ある機械のうちのたいていどれかが故障していた)、修理まではできないけれど、調整をし、用紙がなくなったら給紙し、紙が詰まったらパネルをかぱっと開けてしわくちゃの紙を取り出し、必要に応じてトナーを交換したり、なかの掃除をした。

試験前になると殺人的に忙しくなる。試験期間中はバイト要員を二人、ときによっては三人に増やしていたのだが、休憩を取るどころではなく、コピーを待つ学生の列は店の外にまで及び、レジは途切れることがなく、常時、どこかしらのコピー機で用紙がなくなり、どこかしらで紙が詰まるのだった。

学生街にあったコピー屋は、試験期間が終わって学生の拡散期になると、うってかわって暇になる。
一日客が一人か二人、という状態で、一般の客が来ることもあった。
たまにコピー機を使ったことがない、という年配のお客さんが来たりすると、代わりに取ってあげたりもした(一度、年配のお坊さんが持ってきた、こよりで綴じてある和紙の本をコピーしたことがある。裏の字が写って見にくくなりやすいので、調整したり、紙を間に挟んだりしながらずいぶん苦労して取った。漢字ばかりの本だったけれど、あれはお経だったんだろうか。聞いてみればよかったな)。
お客が来なければ、その間、何をしていてもかまわない。わたしはもっぱら本を読んでいた。

そのころ、メアリー・モリスの『コピー』(原題"Copies" 飛田茂雄訳 『ラヴ・ストーリーズII』所収 早川書房)という短編を読んだ。ニューヨークのアッパーイーストサイドにあるコピーセンターが舞台である。
そこはわたしがバイトしていたようなセルフコピーの店ではなく、持ち込みの原稿を、そこで働く人がコピーを取るのだ。
オーディションに受かるのを待ちながらそこの店で働く女優志望の主人公の恋愛模様を描いたスケッチ風の短編だったけれど、メインストーリーはともかく、コピーを依頼して持ち込む原稿から微妙に垣間見える、客の人生が非常に印象的だった。

 コピーセンターには休みなく客が入ってくる。ビバリーはどの客も知っている。グリムズリー夫人も知っているし、ホモの劇作家も知っている。ライカーズ島(ニューヨーク市の刑務所がある)の弟のところに祈りの言葉を送っているエホバの証人も知っているし、いつもアメリカン・エキスプレスのゴールド・カードを使うせっかちな婦人も知っている。背広のえりにふけのついた音楽学校の教師たちも、思い詰めた表情でぼろぼろになった履歴書を持ち込む失業者たちも知っている。


学生相手のコピー屋には、そんな劇的な原稿が持ち込まれることは多くはなかっただろう。それでも、コピー機の間に取り忘れた手書きの手紙や、ときにはスナップ写真を見つけたときには、いったいなんでこんなものをコピーするのだろう、と、想像力をかきたてられもした。

その仕事は試験期間を除くと、楽なものだったけれど、拘束時間が長い割には時給が良くなかった。あたりは大学だらけ、医学部や医大もあったので、文系の一年や二年には、コストパフォーマンスの高い教育関係の仕事は回ってこない。大学のアルバイトの窓口には日参したし、アルバイトニュースもよく買った。

大学で紹介してもらったものに、絵のモデルというのがあった。
絵画教室でモデルを勤めるのである(もちろん面接など一切なく、容姿で選ばれたわけではなかったので、念のため)。
座っていれば金になる、楽なバイトだと思ったのだが、とんでもなかった。40分座るのを、間に20分の休憩を挟んで三セット繰り返すのだが、実際、休みはほんとうに必要だった。
ほんの少しも動けないのが辛い、というよりも、座っている間は一点を見つめていなければならない。これが眠くなるのだ。そうならないように、休憩時間には画家志望の学生たちと話をしたり、コーヒーを飲んだり、体操したり、ときには椅子を並べて仮眠したこともある。そうやってなんとか鋭気を養う? のだが、また一点を見つめていると、睡魔が襲ってくる。受験勉強をやっているときより、睡魔とは必死で闘ったような気がする。プロのモデルというのは、えらいものだと思った。

出来上がりつつある絵を見るのはおもしろかった。絵というのは、あくまで描き手が表現したいものを写し出すのだということがよくわかった。つまり、実物にはちっとも似ていないのだ。ちょっとなー、ひどいよなー、と文句をつけたいものも少なくなかったが(こちらに自覚が足りなかっただけか?)、中にひとり、実物より二割り増しくらいに描いてくれた人がいて、その絵はちょっとほしいな、と思ったりしたものだった。

このバイトは、コピー屋と掛け持ちしながら、二年ほど続けた。つまり、わたしを描いた絵は、当時、相当数存在したことになるのだが、それはいったいどうなったのだろう。そうして、あの画学生たちはどうなったのだろう。

**

一日でクビになったバイトもある。
寮の先輩が、自分が辞めたいから、と探していた後釜に、抜擢? されたのだ。
なんと、喫茶店のウェイトレスである。

まず開店前に掃除をしてください、と言われたので、掃除機をかけた。奥の方がけっこう汚れていたので、椅子を重ねてやっていると、もうひとりのバイトのお姉さんに「そこまで丁寧にやらなくていいから」と言われた。これがそもそも、ケチのつけ始めだったのかもしれない。
言われるまま、テーブルを拭き、店を開け、マスターに教えてもらいながらアイスコーヒーを作ったりした。

生憎、その日は台風で、お客が3組ぐらいしかない日だったのだ。
お客が来れば、「いらっしゃいませ」と言い、注文を取りに行き、マスターに伝え、できあがったものを運んだ。客が帰れば、カップやさらを洗った。
そのうちやることもなくなった。
マスターとバイトのお姉さんはずっと話をしている。それが妙にintimateな雰囲気で(なんというか、日本語の「親密」というのとは微妙にちがうのだ)、邪魔をしたら悪いような気もしたし、基本的に話すことがなかったら喋らないことにしているわたしは、レニー・クラヴィッツをかけて(「好きな音楽をかけてもいい」と言われてラックを見たら、ロクなCDがなかったので、唯一聞いてもいいかなと思えるクラヴィッツをかけたのだ)、持ってきた本を座って読んでいた。

そうして5時になった。
その日の日給をもらい、「ウチの店には合わないから」とマスターから、多少申しわけなさそうと見えなくもない言い方で言われた。
以来、バイトをクビになった経験はないのだけれど(ウェイトレスの経験もないが)、いったい何が悪かったのか。

やっぱり、レニー・クラヴィッツ?

この話 したっけ その2.

2004-12-21 19:10:17 | weblog
本に線を引きますか?

引きません。

おそらく本に「線を引く」のは、ここが大切だからマーキングしておこう、という意図の下に引くのだと思う。
けれど、引く人に聞いてみたいのだが、線を引いたくらいで、その部分が頭に入るのだろうか。 

ほんとうにここ数年、記憶力の減退は目を覆うばかりで(って、そんな年でもないんですけどね)、覚えておかなくてはならないことも、どんどん忘れる。とくに、それが気の進まないことだったりすると(出なくちゃいけない会議だったり、かけなきゃいけない電話だったり)、気持ちいいくらい、跡形もなく忘れてしまっている。
本屋で待ち合わせしたのはいいけれど、探していた本を見つけてすっかり興奮してしまって、待ち合わせしていたことなどどこかへ飛んでしまい、夢中で読んでいるとき電話がかかってくる、などという経験もあった。

いまは「ここが大切」(というか、使えそうだ)と思った場所は付箋紙を貼り付けておき、ノートを作るようにしている。実際そうでもしなければ、頭なんぞに残りはしないのだ。

おまけにその本を読み返すとき、線が引いてあったりすると、そこばかりが気になってしょうがない。わたしはそれを「思考の轍にはまる」と名づけているのだけれど、結局、最初に読んだのと同じ読み方をしてしまって、再読する意味がないような気がするのだ。ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』のなかで

まことに奇妙なことだが、ひとは書物を読むことはできない。ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである。その理由を話そう。はじめて読むとき、苦労して目を左から右へ、一行一行とページを追って動かせてゆく作業そのもの、こういう複雑な肉体的仕事、空間的にいっても、時間的にいっても、その書物の中になにが書かれているかを知る過程そのものが、わたしたちと芸術的鑑賞のあいだに立ちはだかる障りなのだ。(『ヨーロッパ文学講義』野島秀勝訳 TBSブリタニカ)

と言っているのだが、わたしが再読するのは「芸術的鑑賞」のためというよりは、ひたすら必要に迫られてであることが多い。良き読者ではない所以なのだが、とにかく「芸術的鑑賞」であろうと、必要に迫られてであろうと、線なんぞが引いてあったら、どうしてもそこに目が行ってしまうだろうし、さらにひどいことには、線を引いたときのあれやこれやなどをつらつら思いだして、気持ちがすっかり逸れてしまうからなのだ(これはわたしだけか?)。

と、こうはっきり断言してしまうのも、実は経験があるからなのである。
庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』、わたしはこのシリーズを親の本棚にあったのを見つけて、中学生の頃に読んだのだけれど、そのなかに、主人公の下のお兄さんが、本に書き込みをする、という部分があったのだ。“!”や、腹が立ったところに“カッカ”、やられたと思ったところに“メッタ”(だったと思う。全部甚だ怪しい記憶だけで書いている)と書き込んでいて、それを弟である薫クンが、お兄さんの追体験をするように読んでいく、という内容だったように思う。

その当時は「追体験」という部分はあっさり素通りしてしまって、書き込むことがなんだかカッコいいことのように思えたのだ。

なんでこんなことを書いているかというと、実はつい先日、『グループ』の紹介をしているときに、ちょうどその「書き込み熱」に取り憑かれた時期にあたっていたらしく、やたらに書き込みがしてあったのだ。すっかり忘れてしまっていたのだが、「フレイザー」ということばの横に『金枝篇』、ヘンリー・ジェイムズの横に『ねじの回転』『デイジー・ミラー』と注が入っているし、「元来ヘレナは決して革新派ではない。母親の控えめでお上品な改良主義に〈反撥〉しているだけで、他人を変えるとか、自分が他人に変えられるとかということになると、ツンとソッポを向いてしまう」などというところに線が引いてある。
もう、本を投げ捨ててしまいたくなった。実際、過去の自分の亡霊? に会ったようなものだ。
当時、何を思ってそんなところに線を引いたか、その引き金になったようなできごとをはっきりと思いだしたし、親の本棚から取ってきた岩波の『金枝篇』が旧字体で読めたものではなかったことや、『ねじの回転』は絶対性的な含みがあるにちがいない、と頭を悩ませたことまで、全部頭に蘇ってしまったのだった。実際、かなりげっそりするような体験だった(懐かしく思い返せるほど、その時代は自分の中で過去のものになっていない、ということか)。

書き込みをしていた時期は、短かった。当時でさえ、読み返してみて恥ずかしかったのだ。線を引くのもそれと一緒に止めた。だから、以降読んだ本は、一切痕跡は残っていない。

本を読むことについての、大変おもしろい本に、青山南の『眺めたり触ったり』(早川書房)がある。
それには、線を引くことについて、このように書かれている。

本に初めて線を引いたのはいつのことだったか。中学の終わりころか、高校の始めのころか。なにやらおどおどしながら線を引いていたことだけはよく覚えている。参考書を相手にしていたときのように赤や青の鉛筆でぐいーっと線を引くなんて真似はできず、ふつうの黒の鉛筆で、いつでもすぐ消せるように、薄く線を引いた。なにしろ、線を引くじぶんに自信がないのだ。とんちんかんなところに線を引いてるんではないか、と不安でならなかった。
 読んでいるじぶんが共鳴した文章、読んでいるじぶんを励ましてくれる文章、読んでいるじぶんの現在を照らしだしてくれる文章、そういう文章にぼくは線を引いていたのだが、だけど、そのいっぽうでは、おれがいまこうして線を引いている文章ってこの本の作者にはどうでもいい文章なんではないか、この本の本質とは関係ない文章なんではないか、と気にしていた。
 優先すべきは、書いた作者か、読んでいるじぶんか。
 線の引き始めのころは、作者だと思っていた。

そうしてつぎのようなエピソードが続く。

後年、筆者はピート・ハミルに会う。たまたまユードラ・ウェルティの話になって、偶然『ウェルティとの会話』という本を読んでいたハミルが、その本をくれたのだ。なんとその本にはあちこちに線が引いてある。「黄色い蛍光マーカーでぐいーっと、それはもう力いっぱいにだ」。青山はすっかりうれしくなってしまう。

だって、こういうのって、一冊だが二冊の本みたいなものだからだ。本そのものは「ウェルティの本」だが、ハミルが線を引いた箇所を拾って読んでいくなら「ウェルティの本で作ったハミルの本」ということになるではないか。
 そうだ、線を引くひとは、線を引きながらべつな本を作っているのだ!


そうか、わたしは自分の作った本が読みたくないのか!
確かにそうかもしれない。一冊の本から引き出せるものを、まだ固定したくない、そういう思いがどこかにあるような気がする。

さて、青山南ではないけれど、わたしもそういう本ならものすごくほしいと思う。
だってその本を読んでどう思ったか、っていうことは、その人自身を語ることにほかならないじゃありませんか。

この話 したっけ その1.

2004-12-20 18:04:07 | weblog
クリスマスに思う


高校のとき、習いに行っていた英語の先生があるとき「占いについて、思っていることを話してごらんなさい」と言った。
「占いは好きじゃありません」
「それはどうして?」
「見ず知らずの人に、あなたの性格がどうだとかこうだとか、言われたくないからです」
「それは大変おもしろい考え方ね。だけど、人は島ではない(No man is an island)。そのことはよく覚えておきなさい」

基本的に占いに関する考え方は、いまもさほど変わってはいない。
自分のことを世界で一番よく知っているのは自分だ。
もちろん「ジョハリの窓」というものがあるのも知っているし、確かに自分が知らず、人が気がついている部分というのもあるだろう。
けれども、「自分」という存在を抱えて生きていかなければならないのは、このわたしだ。失敗したらやり直すのも、間違いを改めるのも、自分以外にできる人はいない。自分の誤りやすい傾向や、陥りやすい失敗を、だれよりも良く知っているのは、自分でなければならない、とずっと思ってきた。

占いというのは、まず「あなたは~という性格で」というのが、かならず最初に来る。
人であろうと(占い師に見てもらったことはないけれど)、星座や血液型の欄に書いてあることであろうと、なんで見ず知らずの人間にそんなことを言われなくちゃいけない? とまず腹が立つ。

ところが占い好きな人間は、こういうのがいっこうに腹が立たないらしいのだ。
「ねぇ、見て見て。この占い、当たってると思わない?“あなたは良くも悪くも新しいもの好きのところがあります”だって!」
だれだってそうだろう。そして、だれだって反面、古いものに愛着を持ち、変化を怖れるのだ。
そんなごくあたりまえのことを、たいそうに言ってもらっては困る。

そうして占いは、あたりまえのことしか言わないクセに、説教までしてくるのだ。
「“新しいもの好きのあなたは、古い人間関係を維持していくより、新しい人に飛びついて行きがちです。でも、ここでよく考えてみてください。あなたにとってどちらが大切な人か?”だって~。怖いくらいに当たってる! やっぱり、A君を大切にしたほうがいい、ってことよね?」

性格なんてものがほんとうにあるのだろうか、という疑問は、むかしからあった。
新しいもの好き、古いもの好き、ということばかりではない。優しい―冷たい、几帳面―雑、いろんな形容があるけれど、ほとんどのことばは、ひとりの人間の中に同居しているさまざまな要素を、さまざまな角度で切り取ったものにすぎない。ある人間に対しては優しい人物が、別の人間に対して酷薄になれる様は、日常めずらしいことではない。
確かに、おおまかな傾向、考え方のクセのようなものはあるのだろうが、それをそうしたことばで言い表すことに疑問があるのだ(さらに詳しくは『ことばを読む ことばで読む』参照)。

そうした行動の傾向、考え方のクセは、その人がそれまで生きてきた経緯と無関係であるはずがない。生まれつきのもののほかに、経験の蓄積が、その人の傾向を生み、クセを育んできたはずだ。

よく「あなたの性格のこんなところは間違ってるから、直しなさい」と平気で言う人間がいるが、わたしはそんな人間を信じない。
批判というのは、やったことなしたことに限定されるべきであるし、それを飛び越えて、その人間の本質(どこまで知っているというのだ?)を云々することができる人間など、極めて限られるはずだ。
もしそれをしようというのなら、する側も、相手がこれまで生きて来た経緯をまるごと引き受けるぐらいの、あるいは、自分自身の経緯をまるごとぶつけるぐらいの覚悟がなければならない、と思う。

ただ、人は他者に干渉したがる。
忠告だの、アドバイスだのと称して。
そう、確かに人は島ではありえない。さまざまな人の行き交う大陸の一部なのだ。

「……愛する者が自分の望むことや、相手によかれと思うことをしてほしいと願うのは人情だが、人のことはなにごともなりゆきにまかせなきゃいけない。自分が知りもしない人に干渉するもんじゃないのと同様、愛する人に干渉しちゃいけないんだよ」とウォーリーはエインジェルに言い、そしてこう付け加えた。「それにしてもこれはつらいことさ、人はとかく干渉したくなるもんでね――自分が計画をたてる側になりたがるんだな」
「誰かを守ってやりたくても、それができないというのもつらいよ」とエインジェルは指摘した。
「人を守ってやることなんてできるもんじゃないよ、おまえ。精々できることは愛することぐらいさ」とウォーリーは言った。(ジョン・アーヴィング『サイダーハウス・ルール』真野明裕訳 文藝春秋社)

さて、愛せない相手はどうだろうか。
愛せない相手に関してはこのE.M.フォースターのことばが参考になる。

愛は私生活では大きな力です。最大の力と言ってもいいほどです。ところが、公生活では役に立たないのです。それは何度も実験ずみで、中世のキリスト教文明でも、世俗版の人類愛強調運動だったフランス革命でも実験されたのです。ところが、すべて失敗しました。国家同士で愛しなさい、企業同士あるいは商取引委員会同士で愛しなさい、ポルトガルで暮らしている人が、まったく知らないペルーの人を愛しなさいなどという――これはバカげた話で、非現実的で危険です。……われわれは、じつは、直接知っている相手でなければ愛せないのです。そして、それほど多くの相手を知ることはできません。文明の再建(※これは1941年の講演の記録)といった公の問題にとってはもっと地味な、あまり感情とは縁のない精神が必要なのでして、それは寛容の精神であります。寛容という美徳はあまり冴えません。……要するに、どんな相手でもがまんする、何事にもがまん、という精神なのですから。……
世界には人間があふれています。怖いほどの混雑ぶりです。……その相手は大部分が知らない人間で、なかには嫌いな相手もいます。たとえば皮膚の色が気にいらないとか、鼻の形が、洟をかむのが、逆にかまないのが、あるいは話し方が、体臭が、衣装が、ジャズ好みが、といろいろなことが気に入らないというわけですが、ではどうすればいいか? 解決策は二つあります。一つはナチ流のやりかたで、ある民族が嫌いなら、殺し、追放し、隔離し、その上でわれこそは地の塩なりと豪語しながら胸をはって闊歩する方法です。もう一つはこれほど魅力的ではあありませんが、それこそ大体において民主国家のとる方法でして、私はそっちのほうが好きであります。ある民族が嫌いでも、なるべくがまんするのです。愛そうとしてはいけません。そんなことはできませんから無理が生じます。ただ、寛容の精神でがまんするように努力するのです。こういう寛容の精神が土台になれば、文明の名に値する未来も築けるでしょう。(E.M.フォースター「寛容の精神」『民主主義に万歳二唱』小野寺健訳 みすず書房)


E.M.フォースターがこの講演をしたときから、わたしたちはあまり先へ進んではいない。
街に流れるジョン・レノンのクリスマス・ソングを聴きながら、ふと思うのだ。ジョン・レノンも、共産主義を夢想する歌なんか作らずに、寛容の精神を、がまんを讃える歌を作ったら、いまもまだ生きていたんじゃないだろうか、と。

それこそばかげた夢想かもしれないが。

メアリー・マッカーシーはいかがですか その5.

2004-12-17 19:34:31 | 
5.『グループ』その4.

大学を卒業した八人の女の子たちが、どのようになっていくか。
それが『グループ』という小説の骨子なのだが、こうしたテーマは、小説というより、むしろ映画やTVドラマが得意とする題材である。
つまり、出てくる登場人物が多いことで、読者(視聴者)は、自分の感情移入がしやすい人物を見つけやすいし、それからどうなるんだろう、という興味だけで、読者(視聴者)を引っ張っていきやすいからなのだ。
それを小説でやっていこうとすると、どうしても通俗的なものになってしまう。それこそ、ビバリーヒルズなんとかのノヴェライズを読んでいるような具合になってしまう。

この『グループ』は、一歩間違えば青春群像劇のノヴェライズになりかねないような題材を扱いつつ、そうしたものとはまったく異なる作品に仕上がっている。
それはなによりも、作中人物がみなそれぞれに個性的でありつつも、1930年代のアメリカの、さまざまな階層の典型的な人々を、そのライフスタイルや思想も含めて代表しているからであり、そして、さらにその登場人物たちは、年代も国も越えた普遍性を備えているからだろう。

『グループ』の「訳者あとがき」には、マッカーシーに敵対的な批評家が「彼女はいつもモデル小説しか書かない」と批判したこと、それに対して「たいていの小説はそうなのです。つまり、実在の人物によって満たされているのです。考案される部分はほんの僅かしかありません」と答えたことがあげられているが、この「モデル」というのを単純に理解してはならないように思う。

たとえばマッカーシーのほかの作品に『アメリカの渡り鳥』(早川書房)というのがあって、これは、ハープシコードの演奏家でもあり、音楽学の研究者でもある離婚した母親と、一人息子の物語なのだが、単純に考えれば、この息子ピーターは、実子ルーエルがモデルということになるが、マッカーシーはアーレントに宛てた手紙のなかで、こう書いている。

モデルはミロシュの息子たちヴィエーリ・トウッチ(ニコロの息子)を少々とルーエルを少々。カルロ・ターリャコッツォという少年とジョーダン・ボンファントという『ライフ』の記者、ジョナサン・アーロン――ダニエル・アーロンの息子――という名のソルボンヌにいた子をすこしばかり。ジョナサンについてはいい話があって、暗い路地裏の自分の部屋の鉢植に光を当ててやるため、彼はいつもそれを持って散歩に出たといいます。この痛ましい奇行は、ピーターボンファント(※実際の作品ではピーター・レヴィとなった)と名づける私の若い主人公の特質となるでしょう。

つまり「実在の人物によって満たされている」というのは、そういうことなのだ。

ケイとハロルドの結婚生活は、ハロルドの名前が、最初の夫と綴りが一字違うだけで同じ名前であることなどから、マッカーシーの最初の結婚生活をモデルにしたものである、と解説にも書いてあるし、先頃出た小谷野敦『聖母のいない国』(青土社)にも「ケイはマッカーシー自身をモデルにしている」とあるが、そのような単純なものではないように思える。
たとえば、あきらかにグループの嫌われ者の役を割り振られているリビー・マコーズランドの編集助手時代の生活(そして仕事がもらえないのではないかという不安)は、自身の経験であるだろうし、逆に、生命力には溢れているけれど、むしろ鈍感で、芸術的なものへのあこがれは強くても芸術的なセンスには乏しい人間として造型されているケイが、みずからを投影した存在だとは考えにくい。

つまり、どの人物にも、自分自身の経験が投影されているだろうし、また、複数のモデルをさまざまに組み合わせて造型されている、という意味で、作者マッカーシーとははっきりと別人なのである。

小笠原の解説によると、マッカーシーはこの作品を書きながら(アメリカの小説にはよくあることなのだが、この作品も部分ごとに発表され、最も早く出たものは1954年で、全体が完成したのは1963年だった)、「すっかり憂鬱になった」という。「この八人の娘たちの運命はあんまり残酷なので、わたしは仕事をつづけることができなくなりました。残酷というのは、娘たち自身にとって残酷なだけじゃなくて――人類全体にとってね」と言っていたという。
また、執筆時、「これは実は進歩という観念についての小説なのです。女性の側から見た進歩という観念ですね。女性の側とは、つまり、家庭経済とか、住居とか、生活技術とか、避妊とか、育児とか、そういう面です……その二十年間に(※当初はルーズウェルト就任の年からアイゼンハワーの就任の年までの一種の疑似年代記小説として構想されていた)、進歩、あるいは進歩という観念に対する信仰が失われていったことを物語るつもりです」とも語っていたことが紹介されている。

アッパークラス、あるいはアッパーミドルクラスの出身で、当時としては最高の教育を修めたはずの娘たちが、社会的な成功を収めることもできず(ひとりを除いて――ただ、そのひとりも学生時代はまだ萌芽の状態だった俗悪さが、社会的な成功と引き替えに丸出しになってしまう)、家庭的にも満たされず(ポリーは除く。ポリーの家庭生活は、この作品中ほとんど唯一の救いである)、いつしか若いころ持っていた輝きを失ってしまう。

確かにそのストーリーは決して明るくはないのだが、作品には陰気な要素はまったくない。
アーレントがところどころ大笑いをした、と手紙に書いているように、全体的に乾いていて、硬質で、ユーモラスな要素も散りばめられている。

『グループ』を初めて読んだのは、おそらく中学に入ったばかりのころだったと思う。
スポンジのように何もかも吸収する時期にこの本にめぐり会ったのだ。
具体的な性行為のディテールも、フレイザーの『金枝篇』も、ヘンリー・ジェイムズも、クラフト・エーピングも、行動主義も、精神分析が寝椅子に座って行われることも、全部この本で知ったのだし、その他にも数え上げればきりがない。
この文章を書くために、ずいぶん久しぶりに『グループ』を読み返し、部分を抜粋しながら、自分の文体がいかに小笠原豊樹の影響を受けているか、あらためてぎょっとしたし、ヴァージニア・ウルフを読んだのが、なぜあんなに遅かったかも合点がいった。そんな部分があったことなど忘れてしまっていたのだが、無意識のうちにレイキーの「感傷的よ」という宣告に影響されていたのである。

最初に読んだ頃、「あとがき」の「残酷さ」というものが、ピンとこなかった。
ヴァッサー女子大を卒業した当時の彼女たちが手にしていた可能性と、それが実体化したもののあまりの落差を具体的に理解できるようになったころになって、やっとわかってきたのではないかと思う。

ただ、いまは思うのだ。それが若い、ということなのだろう、と。
若いから、輝いて見えるのだし、可能性が感じられるから、実体以上にすばらしく見えるだけなのだ。だが、可能性を実体化させていけるかどうかは、つまり、成長し続けることができるかどうか、というのはつぎつぎに脱落していくレースのようなものだ。
進歩、あるいは進歩という観念に対する信仰、というのは、ことばを換えれば、時の流れにつれて、人は成長し、可能性は実体化する、という錯誤ではあるまいか。


というわけで、『グル-プ』はおもしろいんです。なかなか手に入りにくい本だとは思いますが、なんとか手に入れて読んでみてください。

メアリー・マッカーシーはいかがですか その4.

2004-12-16 19:29:59 | 
4.『グループ』その3.

【ポリー・アンドルース】
メディカル・スクールに進むために化学を専攻していたポリーは、在学中に大恐慌のあおりをくらった父親が破産してしまう。そのため、奨学金を得て大学を卒業し、卒後はコーネル医学センターの臨床検査技師として働いていた。

 ポリーの外見は、〈おだやかな日の光〉のような娘だった。色の薄い藁か、未加工の絹に似た、ほとんど亜麻色に近い髪。青い目。ミルクのように白い(脱脂ミルクのようにちょっと青みがかった)肌。顎はやわらかくふっくらとして、窪みというか、ちいさな割れ目のようなものがあった。腕は白くふくよかで、眉は細長い。……難をいえば、ポリーは一対一で話すととてもおもしろい相手なのに、大勢集まる席ではどうもパッとしないのである。いつも穏健なことを囁くように喋る父親に似て、ポリーも非常に声が低かった。だれかがポリーの家系を話題に出さぬ限り(部分的な汚点はあってもまずまずの良家だった。アンドルース氏の姉たちはみなサージェントに肖像画を描いてもらっている)、パーティの客たちはポリーの存在に全然気づかぬか、あるいはポリーが帰ったあとで、あのおとなしいブロンド娘は何者、と訊ねるのである。それがまた問題だった。ポリーはいつでもさっさと帰ってしまう。帰らせぬためにはこつがあって、隅のほうで退屈しているあの人を救ってあげなさいと言えばいいのである。ポリーはすぐにその男と熱心に話し出し、だれも知らないようなその男の特徴を掴み出すのだった。

リビーのパーティで知り合った、編集者のガス・リロイとポリーの情事は一年近く続いていた。
中学教師で共産党員のガスの妻は、所属細胞の男と恋愛中で、夫婦は別居しているのだが、その結婚が救いようのないものなのかどうか確かめるために、ふたりは精神分析を受けている。
だがポリーには、ガスがいつまでも精神分析を続ける理由がわからない。一向に異常は感じられないし、離婚することに決めているのなら、その必要もないはずである。ポリーは仕事先で文献を漁り、ガスの唯一の病気は、週二十五ドルも費って精神分析医の診察を受けていることなのではないかと思っている。

ある晩、やってきたガスは、精神分析で障害が起こった、という。夢を見なくなったのだ。ガスの妻のエスターは、それはガスがわざと精神分析を妨害し、治るまいとしている、ポリーを避難所にして、ポリーを看護婦として見ているから、治るまいとしているのだ、と。ガスの妻は、治療を進展させるために、ポリーと別れてはどうか、と提言したと言うのだ。

「きみはどう思う?」「そうね」ポリーはこわばった喉で言った。「エスターは免許証もないのに医者みたいな口をきいちゃいけないと思うわ。かりにそれが事実だとしても、そういうことをあなたに言うのは、ビジャー先生の仕事じゃないの? しばらくわたしに逢うな、なんて言う資格は、ビジャー先生にしかないと思うわ」
「そうじゃないよ、ポリー。ビジャーはぼくの精神分析医だ。その話はいつかしたじゃないか。精神分析医は、ぼくの実生活上の行動について命令することはできない。ぼくの報告を聴くことしかできないんだ」……「ぼくはきみを愛してるんだよ」「でも、もう決心したんでしょ?」

こうしてガスがあっさりと出ていったその翌日、ポリーは一通の手紙を受け取る。それは、母親と離婚した父親が、ポリーと一緒に暮らしたいので、そちらに行かせてほしい、というものだった。

慌てて母親に連絡を取ると、長年鬱状態にあったアンドルース氏は、現在躁病になったのだという。手始めに離婚し、ニューヨークに出ると言いだしたのだ、と。最初は反対していた母親も、そのうち離婚してはならない理由が思い当たらなくなり、農場の経営も思い通りにできるようになった、と屈託がない。
アパートの部屋を改造したり、温室作りを計画したり、生活を快適にすることに余念のない父親と一緒に生活することは、最初のうちは楽しかったのだが、そのうちポリーには父親の浪費が抑えられなくなる。

ふたりの生活費を工面するために、ポリーが勤め先の病院で売血をしている最中、父親の症状について何度か相談に乗ってもらっていた精神科の医師、ジム・リジリーに見つかってしまう。

「何をしてるんだい」とリジリーは訊ねたが、採血直後のポリーは寝椅子に横たわっているし、横に採決の道具はあるし、これはきわめて形式的な質問と言わねばなるまい。「クリスマスの資金作りよ」ポリーは神経質な笑顔を店、握りしめていた拳をひらいた。……「いいかい、ぼくの解釈を聞いてくれ。これはきわめて妥当な解釈だと思う。ここに躁病の患者がいて、その家族が病院で血液を売っている。とすれば、その患者の浪費癖が昂じてきたと、ぼくは解釈する。……だれかが説得して、治療を受けさせなきゃいけない。……ポリー、きみはお父さんを入院させなさい」「絶対いやよ」青年は上半身をかがめ、ポリーの片手を握った。「こんなにぼくがむきになるのは、惚れたからかもしれない」


ジムと結婚した後も、病院勤めを続けていたポリーが、ある日、精神科病棟の病室に入っていくと、そこに目を腫れ上がらせたケイがいた。ハロルドと殴り合いのケンカをしたあとで、ケイは夫に騙されて精神病院に入れられてしまったのだ。ポリーはハロルドとなんとか連絡を取ろうとするが、ハロルドはつかまらない。ポリーの頼みでやってきたジムも、ケイを助けるために骨を折ろうとする。

「ケイ、あなたの精神状態を疑うとすれば、それはたった一点しかない」「ハロルドのことね」と、低い声でケイは相手のことばを補足した。ジムは溜息をついた。「愛してるんですね、彼を」
「そう言えばロマンチックな話になるけど」とケイは率直に答えた。「でもわたしは愛してないと思うわ。ある意味では、憎んでるくらい」……「つまり、あなた方の結婚は体(てい)のいいニセモノだったということですか」ケイはジムの目を見つめた。「どうしてそれが分かりました?」と、ケイは言った。「ええ、そうだと思うんです。だから、わたしは今の状態から逃げ出せないのかしら。逃げだせば、わたしたちの結婚が失敗だったってことがみんなに分かってしまいますからね。まさかと思うでしょうけど、ジム、わたしはソールト・レイク・シティでは郷土の誇りなのよ。〈東部へ行って成功した娘〉ってことでね」「成功した?」「ハロルドと結婚したことよ。芝居の世界に関係しているでしょ、彼は。父や、母や、学校友だちは、それがすばらしいことだと思ってるのね。わたしも一時は演出家になりたかったの。でなきゃ女優に。でも、実際には、わたし、才能がないんです。それがわたしの悲劇」


【プリス・ハーツホーン】
二歳半になるスティーヴンを遊ばせに公園に行ったプリスは、そこで赤ん坊を日光浴させているノリンにばったり出くわす。社会主義者のパトナム・ブレイクと離婚したノリンは、今度はまったく関係のないユダヤ系の銀行家と再婚していた。
きまじめで、経済学を専攻し、最優等生のクラブに所属し、大学卒業後は国家復興局に勤めていたプリスだったが、出産後仕事をやめてからというもの、考えることといえば、息子のトイレのしつけや幼児食のことばかり。小児科学会で最先端の育児法を提唱する小児科医の夫スローンも、家庭のなかでは、まったく協力的ではないのだった。
久し振りにうわさ話に花を咲かせるふたりだったが、誘われるまま、プリスはノリンの新居を訪れる。
だがノリンは、ただハロルドの話がしたいだけだった。

「びっくりしないでね、わたしはハロルドを夢中で愛していたの。四年間よ。それでも、ケイとの友情には変りなかったけど、その恋に希望がないと分かったから、フレディと結婚したの。初めから希望がなかったんだけど、自分で自分をだましていたのね。……でも彼にはケイに対するコンプレックスがあった。わたし、いまだにそれがよく分からないのよ。……ハロルドはちょっしゅうケイがエネルギッシュだという話をしたわ。ケイの攻撃的エネルギーは〈生命力〉とつながりがあるんだって――ハロルドはバーナード・ショウの影響から抜けきれないのよ。あなたどう思う? ケイはわたしよりエネルギッシュかしら」プリスはその質問に答えたくなかった。「ケイには確かにエネルギーはあったわね」とプリスは言った。「それに……ケイは、ハロルドを養っていたでしょう」「ハロルドは金持ちの女なら一ダースも知っていたのよ」と、ノリンは言った。「わたしだって彼のためなら床の拭き掃除くらいできるわ。……わたしは何もかも犠牲にしようとしていたのに」
 ノリンの黄褐色の目に涙があふれた。「ああ、そんなこと言うもんじゃないわ、ノリン!」と、プリスはその涙に驚き、自分も告白したいような気持ちにとらえられた。プリスはスローンのために職場を去り、社会的な理想を捨ててしまったが、それでいて自己犠牲を人にすすめる気にはなれない。もうスチーヴンがいるから遅すぎるけれぢ、プリスは自分の過去はまちがいだったと確信していた。もしプリスが自分の希望をつらぬいて、ワシントンの職場に勤めつづけ、スローンのきらいなニューディール政策のなかの小さな歯車たることに甘んじていれば、すろーんだって、今よりはずっと仕合わせであり、〈ボリシェヴィクの女房〉を自慢することもできたと思われる。プリスがNRA(国家復興局)にいた頃、スローンはプリスを誇りにしていた。それというのも、プリスにそれだけの積極性があったからなのだが、今やそれすらない。


【エリナー・イーストレイク(レイキー)】
卒後間もなくソルボンヌ大学に留学したレイキーが、第二次世界大戦が始まり、間もなく戦場になりそうなイタリアから七年ぶりに帰国する、という話を聞いて、グループの一同は、久し振りに七人揃って波止場へ迎えに行った。

いざ船の渡り板が下ろされたとき、ある者は不安になった。レイキーは自分たちより遙かに成長したのではなかろうか。ヨーロッパで暮らして、教授や、美術史家や収集家と付き合っていたあとでは、昔のグループなど田舎者の集まりに見えるのではなかろうか。……自分たちが家に帰れば亭主や子供たちが待っている堅実な女たちの集まりになってしまったことを、思わないわけにはいかなかった。ポーキーにはもう子供が三人もいるし、ポリーにも小さな女の子がいる。
 さて、いよいよレイキーが濃い紫色のスーツに帽子といういでたちで、緑色のレザーの化粧鞄と、細く畳んだ緑色のアンブレラを持って、胸を張り、しっかりした素早い足どりで渡り板を下りて来たとき、みんなはレイキーの若さに一驚した。こちらはみな断髪あるいはパーマネントだったが、レイキーはまだ黒い髪をうなじのところでまとめているから、まるで少女っぽく見えたし、それに体の線も若さを保っている。レイキーは一同を認めた。その緑色の目が喜びに大きく見ひらかれた。レイキーは手を振った。抱擁のあと(七人ぜんぶの両頬にキスし、一人一人距離をおいてしげしげと見つめた)レイキーは連れの外国人の女性を紹介した。


その男爵夫人は、レイキーの恋人だった。
最初はレズビアンということに衝撃を受けたグループの面々も、次第にそのことを受け入れ始める。
「喫煙室のモナ・リザ」と渾名されていた、大変な美人だったが冷たく人を寄せつけないところがあった学生時代より、はるかに人間的で、子供と楽しく遊ぶのだった。
そうしてふたりは、ふつうの夫婦のように、グループのメンバーと行き来するようになる。

間もなく、ケイが死ぬ。
ケイが結婚式を挙げたのと同じ教会で、季節もほぼ同じころ、葬式がグループのメンバーの手によって行われた。

 みんなが用事で忙しがっているあいだは、リビーは姿を見せなかった。グループのほかのメンバーが出し合った葬式の費用についても、リビーは知らん顔をしていた。去年の夏、リビーはピッツフィールドで結婚式をあげた。相手はリビーが斡旋してベストセラーになった歴史小説の作者である。……ケイの葬式の日の朝、リビーは息せき切って駆けつけ、来るや否やシェリーを飲み、ビスケットをつまんだ。……「ねえ、だれでもいいから教えてよ」と、リビーはビスケットをつまみながら言ったのである。「ほかの人には言わないから。ケイは跳び下りたの、落ちたの?」
 デイビスン夫人はその肥えた手で、いきりたちそうになったポリーの腕を抑えた。「エリザベス、ほかの人に言っても構いませんよ。言って下さったほうがいいと思うわ。ケイは落ちたのよ」「そう。それは警察の解釈かと思ってた」……「なんといっても、生きているケイを最後に見たのは、わたしですからね。亡くなる一時間ほど前だったかしら。夕食のあと、わたしがケイを呼んで、ラウンジで一緒にコーヒーを飲んだのよ。わたしは昔からケイが好きでしたからね。警察にも言いましたけど、そのときのケイはとても元気がよかったわ。完全に平静な精神状態でね。わたしたち二人は、チャーチル首相のことや、空襲のことや、アメリカの徴兵制度のことを話しました。ケイはサクス・フィフス・アヴェニューに就職の口があるとかで、その面接試験を受けるのだと言っていました。ケイは自殺のことなど考えていませんでしたよ。あの人が一時期、精神病院に入っていたことがなかったら、そんな疑問は初めから起こらなかったと思うわ」


会葬者の多い華やかな葬式の最中に、ハロルドが現れる。
芝居がかった仕草で教会中の注目を集め、墓地へ向かうときは、レイキーに近寄っていって同乗を願い出るのだった。「彼、レイキーを口説くつもりかしら」と心配するポリーに父親のアンドルース氏はおだやかに答える、「口説けばおもしろいことになるね、あの男爵夫人はブラス・ナックルズをつねに携帯しているそうじゃないか」

ハロルドの話を聞いているうちに、レイキーは心の底からうんざりしてきた。要するに、この男はただの見掛け倒しなのである。……だが、レイキーはまだこの男を罠にかけてやろうという気持に変りはなかった。ケイに代って、全女性に代って、そして何よりも馴れ馴れしく近づいてきた厚かましさにたいして、この男に罰を加えねばならぬ。

そうやって、レイキーはハロルドの口から、同性愛に対する狭隘な、ありきたりな言質を引き出させる。
怒ったハロルドは車から降りる。
墓地へ向かうレイキーの車のバックミラーには、ニューヨークへ戻る車をなんとかヒッチハイクでつかまえようろするハロルドの姿が映っていた。

このシーンでこの長編小説は幕を閉じる。

(明日はこの小説をめぐるちょっとしたおしゃべりを)