陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ・コレクション「トバモリー」その3.

2010-02-28 22:36:35 | 翻訳
その3.
 全員が、文字通りのパニックに陥っていた。この屋敷にあるほとんどの寝室の窓には、幅の狭い飾り手すりがついているのだが、ここがトバモリーの昼夜を問わないお気に入りの散歩コースになっているのを、不意に思い出したのである。トバモリーにしてみればハトを見張るのに格好の場所なのだが、そのほかに一体何を見ているか、神のみぞ知るところだ。これから先も、思いつくまま洗いざらいぶちまけることが続いたら、いったいどうなることか。気まずいぐらいではすまないだろう。

ミセス・コーネットは、きれいに化粧しているというより、刻々と変化し続ける顔のもちぬしなのだが、それも実は暇さえあれば化粧室に坐っているからだった。そのため、少佐と同じくらい憂鬱そうな顔をしている。ミス・スクロウェンはたいそう官能的な詩を書いているが、ほんとうは非の打ち所もない生活を送っていたために、かえっていらだたしげな表情をうかべていた。みながみな、まっとうで貞潔な私生活を告知したいわけではない。

バーティ・ヴァン・ターンは十七歳のときから腐敗した生活を続け、ずいぶん前に、これ以上堕落しようのないところまで墜ちに墜ちた男だったが、そんな彼でさえクチナシのような蒼白な色になっていた。とはいえ、部屋からあわてて逃げ出したオドゥ・フィンズベリほど、無様なまねはしなかったが。フィンズベリはキリスト教学の勉強をしている若い男で、おそらく人びとが関わっているスキャンダルを聞かされて、心の平安が乱されるのを望まなかったのだろう。クローヴィスは落ち着き払ってはいたが、頭のなかでは、口止め料として、エクスチェンジマートの代理店を通して、めずらしいハツカネズミを手に入れるには、何日ぐらいかかるだろう、と計算していた。

 このように厄介な状況であっても、アグネス・レスカーときたら、人の前にしゃしゃり出て一言、言い出さずにはおれない女だった。

「どうしてこんなところに来ちゃったのかしら」なんとも芝居がかった調子である。

 打てば響くようにトバモリーが答えた。

「あんたは食い物が目当てだったんだろう? 昨日、クローケーの芝のところでミセス・コーネットに話してたじゃないか。滞在するにしてもブレムリー夫妻ほど退屈な夫婦はいないが、一流のコックを抱えるぐらいの頭はある。そうでなきゃ、いったい誰がこんなとこに二度と遊びに来るもんか、って」

「そんな話、最初から最後まで全部大嘘よ! コーネットさん、わたしが言ったのは……」アグネスは困惑して叫んだ。

「ミセス・コーネットはそのあと、あんたが言ったことをそのまんま、バーティ・ヴァン・ターンに伝えた」とトバモリーは続けた。「それから『あの女、ほんとに意地汚いったらありゃしない。一日に四回ご飯を食べさせてくれるところならどこにだって顔を出すのよ』とのことだ。バーティ・ヴァン・ターンはそれに答えて……」

 そう言ったところで、時の神の配剤により、トバモリーは口をつぐんだ。牧師館の黄色い大きなネコが植え込みを抜けて、馬小屋の方へ行くのが、視野に入ったのである。彼は弾かれたように立ちあがり、開いたままのフランス窓から出ていった。

 このすばらしく優秀な生徒がいなくなると、コーネリアス・アピンは手ひどい叱責を喰らうやら、不安そうに問いつめられるやら、おびえながら哀願されるやらの暴風にさらされた。こういうことになったからには、全部あなたに責任があるんですよ、これ以上事態を悪くしないように、何か防御策を採ってください、というのである。トバモリーはあの危険な才能を、ほかのネコにも伝えることができるのですか? との問いに答えることが、さしあたっての任務だった。親しくしている馬小屋のネコに伝えた可能性はあるだろうが、そのネコを超えて、技術が伝播している可能性はまずない、というのがアピンの回答だった。

「だったら」ミセス・コーネットは言った。「トバモリーはそりゃ貴重なネコだし、大切なペットでしょうよ。だけど、あなたもわかってるわよね、アデレイド、馬小屋のネコと一緒に、いますぐ処分しなきゃダメよ」

「わたしがいまの十五分間を楽しんだとでも思って?」レディ・ブレムリーは苦々しげに言った。「主人もわたしもトバモリーをそりゃかわいがってきましたよ――少なくとも、あんな恐ろしい力を身につける前まではね。だけど今となったら、もちろん、あの子にしてやらなきゃいけないことはたったひとつしかありません。それもできるだけ早くね」

「やつのいつもの晩飯の中にストリキニーネを入れてやればいい」とサー・ウィルフリッドが言った。「馬小屋へは私が出向いて、そっちは川に沈めて始末するとしよう。馬丁は飼いネコがいなくなれば悲しむだろうが、二匹とも、伝染性のひどい疥癬にやられて、猟犬に伝染すると大変だから手を打った、と伝えておくよ」

「ですが、私の大発見なんですよ!」ミスター・アピンが訴えた。「何年にも及ぶ研究と実験の成果が……」

「農場でも行って、牛相手に実験すりゃいいんです。それならちゃんと管理されてますからね」とミセス・コーネットは言った。「そうでなきゃ動物園のゾウとかね。ゾウなら知能が高いって話だし、なによりすばらしいのは、寝室に入り込んだり、椅子の下なんかにこっそりもぐりこんだりしないってとこね」



(この項つづく)



サキ・コレクション「トバモリー」その2.

2010-02-27 23:23:08 | 翻訳
その2.

 サー・ウィルフリッドはくだんのネコをさがしに行き、一同は腰を下ろしたまま物憂げに、多少は気の利いた素人腹話術でも見ることになるのだろう、と思っていた。

 まもなく戻ってきたサー・ウィルフリッドの日焼けした顔は蒼白で、興奮した目は飛び出しそうになっている。
「なんということだ、本当だったんだ!」

 その動揺はまぎれもなく本物で、興味をかき立てられた人びとは身を乗り出した。

 肘掛け椅子に身を沈めても、サー・ウィルフリッドの息は治まってなかった。「喫煙室で寝ているのが見えたから、『こっちへ来て一緒にお茶にしよう』と声をかけたんだ。そしたらこっちを向いて、いつもやるみたいにまばたきする。だから言ってやった。『トビー、こっちへおいで。お客様を待たせるもんじゃない』すると、どうしたと思う? やつは恐ろしいほど普通の声音で、うんざりしたみたいに言うんだ。『その気になったら走っていくさ』だと! 心臓が飛び出すかと思ったよ」

 アピンが話したときは、誰もまともに相手にしなかった。だが、サー・ウィルフリッドの話となると、信憑性がまるでちがってくる。驚きのコーラスが湧き上がるのを、科学者アピンは静かに腰を下ろして耳を傾け、世紀の発見の最初の果実を心ゆくまで楽しんでいた。

そのさわぎのまっただなかに、トバモリーはやってきたのである。ベルベットのようになめらかな足取りで、興味もなさそうに一同を見渡すと、丸いティー・テーブルを囲む人びとの方へ歩いていった。

 気まずい、当惑に満ちた沈黙が、一同の頭上にたれこめる。どうやら飛び抜けた知能を持つとされる飼い猫と、対等の立場で会話するというのは、妙に居心地の悪いものであるらしい。

「ミルクを少しいかが、トバモリー?」レディ・ブレムリーが緊張した声でたずねた。

「悪くはないね」というのがその答えだった。どっちでもいいけど、と言わんばかりである。それを聞いた一同は、動転しそうな気持をなんとか抑えた。レディ・ブレムリーのミルクをつぐ手が震えたのも、無理からぬところである。

「ごめんなさい、わたし、ずいぶんこぼしちゃったわね」すまなそうにそう謝った。

「ま、何にしてもぼくのアクスミンスター・カーペットじゃないからね」とトバモリー。

「人間の知性について、どう考えていらっしゃる?」メイヴィス・ペリントンがへどもどと聞いた。

「たとえば誰の知性?」トバモリーはすげなく聞き返す。

「あら、まあ、そうね、たとえばわたしとか」メイヴィスは弱々しい笑い声をあげた。

「そりゃまた言いにくいことをぼくに言わせようとするね」だが、トバモリーの声も態度も、言いにくそうなようすはみじんもない。「今度のパーティにあんたを呼ぶかどうかって話になったときにも、サー・ウィルフリッドは反対して、『あんなに頭の悪い女は見たことがない』って言ったんだ。『客をもてなすことと、頭の弱い手合いの面倒を見てやることは、話がちがうんだぞ』ってね。そしたらレディ・ブレムリーはこんなふうに言い返した。『智恵が足りない人っていうのは、招待するのにもってこいなのよ。うちの古い車を買ってもいいって考えてくれるようなおバカさんは、あの人だけなんだから』って。ほら、あの車、『シジフォスの羨望』とかいうやつ。まあ押してやれば坂だってちゃんと上れる。だからそんな名前がついてるんだろうな」

 レディ・ブレムリーは、とんでもない、と打ち消してはみたが、それも、もし今朝、何気ないふうを装って、メイヴィスに、この車だったらデヴォンシャーのお宅にはちょうどいいわ、ともちかけていなければ、多少は本当らしく聞こえたかもしれなかった。

 バーフィールド少佐が話の流れを変えようと、大きな声で割り込んだ。

「馬小屋にいる三毛猫とはうまくいってるのかね、ええ?」

 すぐに、全員が少佐の失敗を悟った。

「ふつうはそういった話題は、人前で取りざたするのを避けるもんじゃないかね」トバモリーは冷たく言う。「この家に来てからのあんたをちらっと見ただけだが、その話をしたら具合が悪いんじゃないのかな。あんたのちょっとした恋の話とかね」

 大慌てに慌てたのは、ひとり少佐だけではなかった。

「コックのところへ行って、あなたのご飯の準備ができたかどうか見てきたらどうかしら」とレディ・ブレムリーが焦りながら言った。トバモリーの夕食まで二時間は優にあったが、気がつかないふりをしたのだ。

「どうも」とトバモリーは答えた。「お茶の時間が終わってから間がないんだがね。消化不良で死にたくはないな」

「ネコは九生あるそうだが」サー・ウィルフリッドは陽気に言った。

「かもしれないが、我々の肝臓はひとつしかない」

「アデレイド!」ミセス・コーネットが言った。「あなた、このネコが召し使いのところへ行って、ゴシップを広めるのをそのままにしておくつもりなの」


(この項つづく)



サキ・コレクション 「トバモリー」その1.

2010-02-26 23:59:07 | 翻訳
リクエストにお応えして、サキの短篇をまたいくつか訳していきたいと思います。
最初は「トバモリー」です。
原文はhttp://haytom.us/showarticle.php?id=19で読むことができます。

Tobermory(トバモリー)

by Saki


その1.

 八月も終わりの肌寒い、雨で洗われたような午後のことだった。この時期、ヤマウズラは禁猟期で保護されているか、冷蔵庫の中で保護されているかのどちらかだし、ほかに獲物もない。ブリストル海峡を北に臨む地域なら、丸々とした赤ジカを馬で追いかけても違法ではないのだが、ハウスパーティを催したレディ・ブレムリーの屋敷は、ブリストル海峡に臨んでいるわけではなかったので、この日の午後、客はひとり残らずお茶のテーブルに集まっていた。

目玉になるようなものがひとつもない季節ではあるし、集まりも新鮮味に欠ける。にもかかわらず、一同の面もちは、自動ピアノを聞かされるのなんてごめんだとうんざりしているようすもなければ、オークションブリッジが始まるのを心待ちにしているような気配もなかった。みんな口をぽかんとあけて、ミスター・コーネリアス・アピンという風采の上がらない、地味な男に目を奪われていたのである。レディ・ブレムリーが招待した客の中で、身元が定かではないのは彼だけだった。「切れ者」といううわさを聞いた夫人が、その切れるところの一部でも、みんなのお楽しみに貢献してくれれば、と、わずかばかりの期待を込めて招待したのである。

この日のお茶の時間まで、彼がどの方面で切れるのか、夫人にはどうにもよくわからなかった。気の利いたことを言うわけでもなければ、クローケーの名手というわけでもない。人をうっとりさせるような魅力があるわけでなし、しろうと芝居を見せてくれることもない。頭脳を使う場面では、いささか見劣りのする男でも、女性なら喜んでそれを忘れてくれる外見のもちぬしも世間にはいるけれど、彼の容姿ではそれも無理というものだった。結局ただのミスター・アピン、コルネリウスというのはたいそうな名前負けである。

ところがその彼が、実は私は大変な発見をしたのです、と言い出した。火薬の発見も、活版印刷や蒸気機関の発見も、私の発見に比べればものの数ではありません、過去数十年間、科学は各方面でめざましい進歩を遂げましたが、私の発見は科学的偉業というより、奇跡の領域に属すると言えましょう、とのたもうたのである。

「というと、私たちにその話を信じろと、本気でおっしゃっておられるのですな」サー・ウィルフリッドが言った。「あなたが発見されたのは、動物に人間の言葉を教える方法である、と。そうして、うちのトバモリーがあなたの教え子第一号であると?」

「これは、ぼくが過去十七年間に渡って取り組んできた課題なのですが」とミスター・アピンは言った。「成功のかすかな糸口をつかんだのは、たかだか八、九ヶ月前のことなんです。もちろん、何千種類もの動物で実験を繰りかえしてきましたが、最近はネコに限っています。ネコはすばらしい生き物で、人間文明に見事なまでに同化しながら、ネコ特有の高度に発達した本能は依然として持ち続けている。ときおり、ネコの中でも、おそろしく優れた知能を備えたネコがいます。ちょうど、人間と同じように。一週間前、トバモリーを見かけたとき、ぼくには一目でわかりました。飛び抜けて高い知能を持った『超ネコ』だ、と。このところの実験も、成功への道を着々と歩んでいたんですが、トバモリー、そう呼んでいらっしゃいますよね、彼のおかげでぼくはゴールにたどり着いたのです」

 ミスター・アピンはこの瞠目すべき発言を、勝ち誇った調子を何とか抑えてしめくくった。だれも「バカだろ」などと言ったわけではなかったが、クローヴィスの口が、一音節の言葉をつぶやいたかのように動いた。おそらく何らかの不信の思いが言葉になったものであろう。

「ってことは、こうおっしゃってるの」ようやくミス・レスカーが口を開いた。「簡単な文章とか、単語とかを、トバモリーが理解できるように、教えたってことなんですか?」

「ミス・レスカー」奇跡を起こした人物は落ち着いて答えた。「小さな子供や野蛮人、頭の鈍い大人であれば、細切れのやり方で教えるでしょう。だが、知能が極度に発達している動物は、導入部の問題さえクリアできれば、そんなまだるっこしいやり方は、必要ではないんです。トバモリーはぼくたちの言葉を完璧に話すことができます」

 クローヴィスの言葉は、今度ははっきり聞こえた。「大バカだな」
サー・ウィルフリッドは、それよりは礼儀をわきまえていたが、同様に疑念を表明した。

「だったらトバモリーを連れてきて、みんなで判断すればいいのじゃなくて?」レディ・ブレムリーが提案した。




(この項つづく)



想定内・想定外

2010-02-25 07:13:55 | weblog
もう少し服装の話。

「例のスノーボードの選手」という言い方をしたのは、検索避けのつもりだったのだけれど、そろそろ「国母選手」という名前で検索する人も減ってきたと思うので、そんな言い方は失礼だし、きちんと名前を書くことにしよう。

さて、その国母選手はユニフォームを着崩したことが、かくも大きな騒ぎになるとは予想もしていなかっただろう。もし彼が、反抗の意味をこめてあんな着方をしたのであれば、記者会見の席で自分のポリシーなりなんなりを明らかにできたはずだからである。

反抗というのは、公に受け入れられている規範や人びとのものの見方考え方に対して、異を唱えるということだ。
むしろ、国母選手の場合は「公に受け入れられている規範」をよく知らなかった、あるいは、知ってはいても、自分の意識に入っていなかったのではあるまいか。彼が自分の着こなしを見せたかったのは、自分の属する共同体に向かってであり、「こんなダッセエ格好でも、オレなんかこんなに着こなしちゃうんだもんね~。どうよ?」とアピールしたかっただけだろう。

ところが彼の視野の中に入っていなかった人から抗議が来て(あるいは文句を言われて)、おそらく彼は驚いただろうし、同時に不快に思ったにちがいない。

ちょうど、短いスカートを、「オシャレだから」「かわいいから」とはいている女の子が、彼女が自分を見てほしいのは、もっぱら同性の同じくらいの年代の女の子なのに、中年のおじさんに脚をジロジロ見られて憤慨するのと一緒だ。

誰でも、自分を「見てほしい」「賞賛してほしい」相手は、自分の中でおおざっぱに想定されている。特定ひとりから始まって、身の回りの小さなグループから大きなグループへと同心円状に広がっていく。

ところが自分の想定する同心円の外から評価が矢のように飛んできたとき、人はとまどってしまう。その「矢」が想定内の内容であればまだしも、予想もしなかった反応であれば、「ちっ、うっせーなー」となるのは当然なのである。

オメーの意見なんて何も聞いてねーんだよ。
気に入らなきゃ、見るなよ。

エッチなおじさんなんかに見せようと思って短いスカート、はいてるんじゃないの。
見ないでよ。

国母選手にしても、ミニスカートの女の子にしても、自分の想定しうる世界の外に、さらに大きな世界が広がっていることを知らなかったから、そういうことになってしまったのだ。逆にいうと、彼ら彼女らが意識しうる世界というのは、きわめて小さなものだったといえる。きわめて小さなものだったからこそ、その反応もあらかじめ予想できたのである(ヤッベ~、カワイイ……)。そうして、その世界からこぼれおちた大勢からの矢によって、初めて、自分がいままで気がつかなかったけれど(見ないように、忘れようとしていた)世界というのは大きなものだった、そこに属する人も、さまざまにいたのだ、ということを、思い知らされたのである。

世の中にはたくさんの人がいる。
たくさんの人は、キミの(せまい頭の中からは)予想もしない反応を取ってくる。
このことで世界が広いことはよくわかったね。
問題は、じゃ、これからどうするか、だ。

1.広い世界に対して、飛んでくる矢をことごとく受けるサンドバッグになりながら、自分のこれまでのスタイルを貫き通す。

 …とすれば、やがてそれは強靱でしたたかな、そのときこそ“個性”と呼べるものになっていくかもしれない。

2.狭い世界に退却して、自分と意見を同じくする者たちとだけつきあっていく。

 …うまくすればカルト・ヒーローになれるかも。

3.世間に受け入れてもらえるようなスタイルに変えていく。

 …かつての仲間からはバカにされるだろうが、お父さんお母さん、母校の先生たちは喜んでくれるだろう。

4.時と場合によって、うまく使い分けていくようになる。

 …つまりこれがいわゆる「オトナになる」ということだ。


わたしがいま想定しうる方向性というのは、この四つだけれど、なにしろ世界は広い。わたしの想定しえないやり方もあるかもしれない。
国母選手は五つめの方向性を見せてくれたらおもしろいんだけどな、と思っているのだけれど、きっと一番おもしろくない四番目だろうな。


記号としての服

2010-02-22 22:44:15 | weblog
駅へ行く途中に中学があるのだが、時折、そこに入っていく、見事なまでに同じ格好をした男の子たちの一団に出くわす。

制服だから格好が同じなのはあたりまえじゃないか、と思うかもしれないが、そんなレベルではないのである。目に入りそうなほど垂れ下がった前髪に、念を入れて乱したとおぼしい髪型も同じなら、制服の着崩し方も一緒、背筋力の弱そうな体を斜めに傾け、ズボンは可能なかぎりずりさげ、裾を地面にこすりつけながらだらだらと歩いているところも同じ、体の大きさに多少のちがいはあるが、そっくり同じ五つ子か六つ子、身長差のある「不良版おそ松君」といったところなのである。

彼らとしては校則に反抗を企てているつもりなのだろうが、反面、自分たちが校則とは別のルールに忠実に従っていることには気がついていないのだろうか。まさに彼らの格好は「不良の教科書」の模範解答で、「不良」という記号から逸脱している点は、どこにも見当たらないのである。

もはやいまとなってはおとといの晩ご飯のおかずの残りのような話題だが、例のスノーボードの選手の服装が問題になっていたころ、Yahooだったかgooだったかのアンケートで、あの服装は「ルール違反」か「個性的」かを問うものがあったが、ずいぶん的はずれな二択ではないか。

彼の服装は、自分の所属する共同体の「制服」であり、「スノーボーダーのファション」というカテゴリでは、正しくルールを遵守していたのである。いったいどこが個性的といえるのか。雑誌に載り、まったく同じ格好をしている集団がいるような服装は、その個人の個性を主張するものであるとは言い難いだろう。言葉本来の意味において「個性的」というなら、誰も決して着ていないような奇抜で突拍子もない、それゆえに着るのに多大な勇気と度胸が必要な格好をしていなければなるまい。

ストリートファッションばかりではない、ギャル系、お姉系、あるいはオタクファッションに至るまで、ファッションにはさまざまなカテゴリがあり、その典型から亜流までいくつものパターンがある。けれども「個性的」なファッションは、このなかのどのカテゴリにも属さないものであるから、どんなものか現物を見るまでは、想像もつかないが、もし仮にそんな格好をしている人がいたとしても、本当に「個性的」なその服装を、わたしたちはどのような意味でも賞賛することはない。

というのも、わたしたちがステキ、オシャレ、カッコイイ(イケてる、ヤバい)と思うのは、わたしたちの仲間(わたしよりちょっとステキでちょっと有名な誰か)がすでに着ているからこそ、ステキだと思うのだ。その服が(靴が、バッグが)ステキだからほしいのではない。わたしたちの仲間が身につけているから、ステキなのであり、それを身につけたわたしも、周りのみんながステキだと思ってくれるにちがいないから、わたしもその格好をするのである。

いきおい、同じカテゴリに属する人は、同じ格好をすることになる。当人たちはそれが制服のつもりでもなければ、真似をしているという意識さえないだろう。カワイイから、オシャレだから、この服を選んでいる、と思っているにちがいない。

でも、ほんとうにそれがかわいくてオシャレなら、何年か経って、流行がすっかり変わったときに「当時」の写真を見て、「何? これ? 変な格好!」と思うことはないはずだ。
ところがわたしたちは、え? 何? このぼさぼさの眉、とか、この肩パッド、ださっ、とかと思うのである。何という健忘症! 当時はそれが「オシャレ」であったのに。そうして、いまのわたしたちの格好も、まちがいなく数年後には、そうみなされるのである。

いまのわたしたちはその年と、自分がその一員と認めてもらいたい小さな共同体によって規定された「制服」を着ているのだ。例のスノーボードの選手の格好にせよ、しゃべり方にせよ、自分がその一員であると認めてほしい共同体のルールに忠実に従ったまでであり、認めてほしい共同体が「オリンピック日本選手団」ではなかったというだけの話である。

わたしたちはふだん、あまり自分がどういう人間と見られたがっているか、意識することはないのかもしれない。けれども、自分の格好を見れば、それは一目瞭然なのである。



クマのプーさんは子供かおじさんか

2010-02-21 23:08:34 | weblog
『クマのプーさん』という本がある。わたしも岩波から出ている石井桃子訳の絵本を持っていて、子供のころ、おそらく読み返した回数は、何万回という単位になるはずだ。

大人になって、イギリス人とその本をめぐって話をした。
彼は、あれはさまざまなイギリス人のカリカチュアだ、と言った。
クリストファー・ロビンは典型的な中産階級の男の子、孤独で、親の生活とは切り離されて、身近に同年代の友だちがいるわけではなく、田舎に住んでいる。
そうしてウィニー・ザ・プーは中年のおっさんで、ちょうど田舎の郵便局の局長によくいそうなタイプだ。小さな仕事ならちょこちょこやってるんだけど、間が抜けている。それなりに愛されてはいるけれど、大きな仕事は勤まらない。
ほかに登場する動物たちも、全部イギリス人、ただティガーだけが例外で、あれはアメリカ人のメタファーになっている。

わたしはすっかり驚いてしまった。クリストファー・ロビンがイギリスの中産階級の男の子、というのは納得できる。児童文学に出てくるイギリスの男の子は、みんな孤独で、学校にも行かず、乳母や家庭教師の世話になり、きょうだいを除いては友だちもいない、そんな子供たちばかりだったからだ。

驚いたのは、ウィニー・ザ・プーの解釈である。プーはぬいぐるみ、言ってみればクリストファー・ロビンと同等の子供なのだろうと思っていたのである。じじつ、わたしが読んだ石井桃子の訳では

「そうなんだ。いないんだ。すると、ぼく、かんがえごとのさんぽ、ひとりで、しなくちゃならないんだな。いやんなっちゃう」


となっている。ここから伝わってくる語りは、小さな男の子の語り口、というより、「本の中に出てくる、育ちの良い男の子のしゃべり方」である。

だからわたしは聞いた。あれは子供じゃないの?
子供ではない、という。イギリス人じゃないとなかなかわからないかもしれないけど、あれはイギリス人のいろんな典型をうまく拾い上げて造型してるんだ、と。

原文は以下のようになっている。
"That's what it is. He's not in. I shall have to go a fast Thinking Walk by myself. Bother!"

別にこの文章を

「そういうことか。彼はいないか。となると、ひとりで足早に思考散歩をしなくてはならないな。厄介なことだ!」

と訳しても、まったく問題はないわけだ。
石井桃子の訳でも、プーは子供っぽいが、イーヨーは「おまえさんも、ごきげんよう。木曜日はなおのこと」とおじいさんくさいし、フクロは「しかしながら、天候は迅速に回復するものと予想されます」と学者めかした物言いをする。これらのイメージは、わたしが話を聞いたイギリス人の意見とも重なっていく。大きくちがっているのはプーなのである。

さて、いまではプーというと、A.A.ミルンの本で読む人より、ディズニー・アニメで見る人の方が多いのかもしれない。あれはプーの声優をやっているのはおじさん、それも極めておっさん臭い、のっそりとした声だ。さらに、原作の挿絵を描いているシェパードの絵よりも、ディズニーのオリジナルのアニメーション(というのは、のちのTVバージョンのアニメーションは絵が変わっているからなのだが)では、さらにおっさん臭い。なんとなく、クマのぬいぐるみのかわいさ、という系列の絵ではないように思うのだ。

ウィニー・ザ・プーは子供なのだろうか。それとも、おじさんなのだろうか。

ひとつ、考えに入れておかなければならないのは、大人と子供、何がちがうというと、子供は変わっていく、ということだ。三十歳の大人が十年経って四十歳になるのと、十歳の子供が十年経って二十歳になるのでは、まるでその意味がちがう。

クリストファー・ロビンは最後に百エーカーの森を出る時期を迎える。おそらく寄宿学校に行くことになるのだろう。彼はそこでプーや百エーカーの森の住人たちと別れる。プーが子供なら、クリストファー・ロビンと共に成長できるのではないか。プーは、イーヨーやピグレットやオウルやティガーと同じく、そこから先にはもはや、子供が大きくなるようには成長しない大人なのではないか。自立した世界を営んでいる百エーカーの森の住人たちと、子供であるクリストファー・ロビンの人生が、一瞬交錯したのが、あの物語なのではないかと思うのである。

プーの物語には、失われた子供時代への郷愁のようなものはない。もちろん最後の場面は大人になって読み返すと、涙を流さずにはいられないものがあるのだけれど、作品そのものとしては、かなりあっさりと別れていく。それは、クリストファー・ロビンの気持が、もうつぎの世界を向いているだけでなく、プーもクリストファー・ロビンの存在に依存していないからだろう。

彼がそこから出ていったあとも、百エーカーの森は失われたりせずに、そこにあるはずだ。クリストファー・ロビンの存在から自立して営まれている世界だからこそ、「百エーカーの森」がクリストファー・ロビンにとってかけがえのない世界ではあるにせよ、彼はそこから出ていける。そこが彼にとって唯一最高にすばらしい世界なのではないことを彼は知っている。

そうしてまた、前を向いて歩いて出ていけるのは、百エーカーの森がそこに変わらずあることで、自分の何かが失われるのではなく、そこにいたときのまま、のクリストファー・ロビンは大人になっていけるのだろう。

子供時代に繰りかえし繰りかえし読んだ『クマのプーさん』にしても、『ピーター・ラビット』にしても、もう少し大きくなって読んだ『宝島』や『ツバメ号とアマゾン号』にしても、大人になって読み返すとき、自分の子供時代のノスタルジーに浸って読むことは、まずない。その年齢なりの読み方で、その年齢なりの味わい方で読んでいる。もう少し言えば、自分がいま抱えている問題意識に接ぎ木しながら、その答えをそんな本の中から探している。

そういう読み方ができるのも、そんな本が前を向いていて、そこから先に目を向けているからなのかもしれない。


罰金は解決策になりうるか

2010-02-20 23:37:46 | weblog
以前から図書館で予約している本が、一向に返ってこないので、どうなっていますか、とカウンターの職員に聞いてみた。すると、相手は困った顔になって、その本を借りている人は一年以上前からずっと借りっぱなしになっていて、延滞通知をどれほど送っても、音沙汰がないのだという。そういう状態であれば、予約を出した時点で、そのことをこちらに知らせてほしいし、返ってくることが期待できなければ、新たに購入するか、他館に貸し出しを依頼するなどの方法を取ってほしい、と言ったところ、申し訳ありません、と頭を下げられてしまった。この人に頭を下げられてもなあ、と思って、いやいや、とにかくよろしくお願いします、と言ったら、「多いんです、延滞される方」と困った顔をした。

延滞には、ハガキや電話による督促だけでなく、何日間かの貸し出し禁止など、いくつかの罰則規定があるのだそうだが、実際にはほとんど功を奏さないらしい。図書館を頻繁に利用する人なら、つぎに借りることができないのは痛手だが、それ以降、利用しなければ、そんな罰則規定など痛くも痒くもないだろう。

とにかく本はよろしくお願いします、と念押ししてそこを離れたのだが、自転車に乗って帰りながらそのことを考えた。

レンタルビデオ屋であれば、延滞料を取る。それがいやさに、夜遅く思い出して、慌てて持っていくこともある。同じように、図書館でも延滞金を取るのはどうだろう。

そこで思い出したのがこんな話だ。

ポピュラー・エコノミックスとでもいったらいいのだろうか、『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー著、東洋経済新報社)という本があるのだが、その中にこんな例があった。

ある地域の保育園では、子供を午後4時までに迎えにこなければならない。だが、親たちはよく遅れてくる。そのために、先生は少なくとも一人が残って親たちを待たなければならない。

そこで、経済学者2人が解決に乗り出した。
彼らはまず最初に4週間観察した。すると、保育所1カ所あたり、週に8件の遅刻があった。そこで、彼らは罰金制度を実施した。

迎えに来るのが10分以上遅れた場合に、毎回子供一人につき3ドルの罰金を、380ドルの月謝に上乗せして徴収することになった。

その結果はどうなったか。

遅刻は、週に20件にまで増加した。月に60ドル追加すれば、毎日遅刻してもよいことになる。親たちは罰金3ドルと引き換えに、罪の意識もなく遅刻するようになったのだった。

そこで、経済学者は罰金を取るのをやめた。遅刻する親は減ったか?
結果は、罰金をやめても遅刻する親は減らなかった。遅れてきた人たちは罰金を払わされることもなく、そのうえ罪の意識もなくなったからだった。

罰金制度の問題点というのは、遅刻という「悪」に、値段をつけてしまったことだ。罰金を払うことによって、悪は免罪されてしまう。いったん値段がつけば、罰金制度を仮に廃止したとしても、それは単なる「値引き」である。廃止しても、もはや罪の意識は戻ってこない。

さらに、問題となるのは、お金を払うことによって、保育園と保護者の関係が、保育園と保護者ではなく、売り手と買い手という関係に抽象されてしまうことだ。先生と~くんのお母さんという関係が、売り手と買い手となることで、「買い手」の側に、自分たちの保育園、という意識がなくなり、保護者としての責任は見えなくなり、結果、「お金さえ払えばいいんでしょう」という関係になっていく。

では、罰金をもっとあげたらどうだろう。
そうなると、親たちは払うことをこばむかもしれない。遅刻はするが、払うこともしない、という親が大勢出てくると、保育園の側も対応できないだろう。

こう考えていくと、罰金はあまりいい手とはいえないような気がする。
結局は、図書館なり、保育園なり、施設の利用者が、単に利用者というだけではなく、公共意識、すなわち「ほかの人のものでもあり、同時に自分自身のものでもあるのだ」という意識を持つしかないのかもしれない。自分がもしエゴイスティックな利用の仕方をしたなら、他の人が困るだけでなく、同時に自分も困るのだ、という。
何だかあまりに当たり前な結論なのだが、そんなことをもう一度改めて考えなければならないところにわたしたちはいるのかもしれない。

ハスの実を食べた

2010-02-19 23:33:59 | weblog
サマセット・モームの短篇に "Lotus Eater" というものがある。邦訳ではたいがい、「ロータス・イーター」と訳されていることが多いようだ。

あるていど英語を知っている人なら、ロータスというのが日本語でいうハスだと知っているかもしれない。となるとロータスの実はレンコンか? とも思うのだが、レンコンは蓮根、英語でも lotus root である。

ロータス・イーターが食べるのは、ロータスの実で、このロータスもハスではなく想像上の植物である。辞書を見ると、ナツメの木またはニレの木がもとになって生まれた空想とあるが、これはそもそもギリシャ神話に出てくる話が元になっている。

オデュッセウスが故郷へ帰る途中、ある島に上陸する。そこはロータスの花盛り。そこに暮らすロトパゴスたちは、ロータスの実を食べては眠りこけることを繰りかえす。なんとその実は、一切を忘れてしまう効果があるのだった。

つまり、ロータス・イーターとは、レンコンを食べる人ではなくて、空想上の木、ロータスの実を食べて、この世の憂いを忘れて、至福の境地に暮らす人のことを指すのである。

モームの短篇も、まさにこの神話を下敷きにしてはいるのだが、その結末が果たして至福と言えるのかどうかは何とも言えないところだ(そのうち訳すと思うので、ここでははっきりとは書かない)。ともかく、この神話がおもしろいのは、至福の境地でいるために、過去の一切を忘れてしまうという点である。

過去は自分にこれから先、やらなければならないことをつきつける、ということなのだろうか。さらにこれからしたいことが頭にあるうちは、人は決して安逸をむさぼることはできない、ということでもあるのか。

確かにそれはそうかもしれない。仮にうまくいったことがあったとしても、その記憶だけではそんなに長い間、喜びに浸っていられるわけではない。過去があるということは、わたしたちの意識を先に振り向けるし、そこから先へ行こうと思えば、またそのための苦労が始まるし、つぎに実を結ぶまでの準備期間が必要だ。そうでなくても、手に入れたものは、自分のものになった瞬間に色あせるだろうし、今度はまた別のものがほしくなる。

うまくいったところでそのぐらいなのだから、うまくいかなければどうなるだろう。『カラマーゾフの兄弟』では、無能な父親、スネギーリョフのために体を張って世間と闘う、けなげなイリューシャは、父親に向かって、ほかの町へ越そう、ぼくたちのことをだれも知らない町へ越そう、と訴える(この場面は何度読んでも胸が痛む)。ロータスの実さえあればイリューシャが苦しむこともないのに、現実にはそんなものはないのだ。

こう考えていくと、記憶というのは、わたしたちを苦しめるものでしかないような気がしてくる。

だが、過去の自分を忘れてしまった人は、その人と同一人物であると果たして言えるのだろうか。「過去のわたし」と、いまここにいるわたしをつなぎとめるのは、自分の記憶、そうして周囲の人の記憶だけなのではあるまいか。
過去の自分と現在の自分をつなぐ記憶を欠いてしまえば、たとえその人に何の憂いもなかったとしても、その状態が幸福といえるのかどうか。

どうやら至福の状態というのは、過去を決して消すことのできないわたしたちが、もし過去さえなければ、と夢見る、その夢のなかだけにあるのかもしれない。

* * *

「パーティの終わりに」の後半とあとがき、結構書き直しました。
更新情報も書きました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

またお時間のあるときにでも読んでみてください。



サイト更新しました

2010-02-18 23:21:25 | weblog
先日までここで連載していた「パーティの終わりに」、手を入れてサイトにアップしました。一緒に「責任」の話も手を入れていたのですが、こっちの方が早く完成したので。

近いうちにそちらもアップしますのでそのときはまたよろしくお願いします。


http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

梅がそろそろほころび始めました。
気がついたら、もう二月も半ばを過ぎてましたね。

ということで、それじゃ、また。
更新情報は明日にはアップします。

江戸しぐさ

2010-02-14 23:12:48 | weblog
テレビから「傘かしげ」や「腰浮かせ」などという言葉が聞こえてきて、あれ、と思ったら公共広告機構のCMだった。

これは何かで読んだなあと思って、あやふやな記憶をたどりながら検索してみたら、『思いがけない涙―ベスト・エッセイ集 '88年版』(日本エッセイスト・クラブ編 文藝春秋社)に所収されている村尾清一の「よみがえれ江戸しぐさ」であることがわかったので、図書館に行って読み返してみた。

本では「傘傾げ」や「腰浮かせ」のほかに、「うかつ謝り」という作法も紹介されていた。
雑踏で人に足を踏まれる。すると、足を踏んだ方ばかりでなく、踏まれた側が「いやいや、こちらこそ、うっかりしておりました」と謝るのだ。

この箇所を読んだときに、わたしもこちらが足を踏んだのに、相手から謝られたことがあったのを思い出した。作者も、こんなことを書いている。

 私は、京都に市電が走っていたころ、市電内でよろめいて、中年女性の足を踏んだとき、こちらが謝る前に、先方から「済んまへん。うっかり足を出しまして。堪忍どっせ」と謝られて、赤面した経験がある。京女のしぐさに、自分がいかに、いなか者であるかを思い知らされた。

京都に市電が走っていたのは1978年まで、とあるから、70年代には京都の一部ではまだこうしたふるまいが残っていたことがわかる。わたしが経験したのもそのころではなかったのだろうか。足を踏むか、ぶつかるかして、相手の方から、「あらごめんなさい」という感じで先に詫びられて、とんでもない、わたしが悪いんです、ごめんなさい、と頭を下げたような気がする。こんなふうにぱっと言えるのが大人なんだ、カッコイイ、と思ったのではなかったか。

ここで「いなか者」とあるのは、こうした「江戸しぐさ」が、大勢の人びとが肩をすりあわせるようにして暮らしている都市で生まれたから、というだけではない。

 数え上げると際限ないが、江戸人の衣食住や人との交際について、「江戸しぐさ」は二百以上あった。子は、父母のしぐさとふりを見て育つ、親を見たけりゃ子を見よ、などと昔から言ったが、江戸しぐさを無意識にやってのけられるようになるのに三代、約一世紀かかった。三代たたなきゃ江戸っ子だと威張れなかった。まして「通」とか「いき」とか言われるほど意識や振舞が洗練されるのは容易ではなかった。

ここではそうしたしぐさが「思いやり」という文脈ではなく、「通」や「粋」の文脈でとらえられているのがおもしろい。「思いやり」や「礼儀」は「正しい」か「間違っているか」に回収される。けれども「通」や「粋」が回収されるのは、「美しさ」だ。

細い通りを歩いていくとき、向こうから人が来る。自分の歩いている幅は、自分の既得権として主張しなければならない、とばかりに、肩を怒らせて歩いていく。すれちがい際、肩が当たる。「ぶつかってくるなんて。なんて無礼なんだ」と、相手の「過ち」を咎める。「もう少し、周囲の人に対して思いやりを持つべきだ」と考える。
正しいか、正しくないかの二分法で考えるというのは、結局こういうところに陥ってしまいがちになるのかもしれない。

向こうから来る人と、すれ違い際、右肩をうしろに引いて、からだごと、斜めにする。これが「肩引き」だ。こうするのが正しいふるまいであると言ってしまうと、「野暮」な話になってしまう。ただ、知らないとバカにされる、というだけだ。

わたしたちはそういう文化を失ってしまったから、「こうするのがマナー」と言い、マナー違反者を咎めるようになってしまった。けれども、しぐさとかふるまいとかというものは、本来的には「正しい」「間違っている」というものではないように思う。