陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ものを食べる話 その3.

2006-03-05 22:32:40 | 
3.ダイエット

"diet" という語は、一義的には飲食物そのものを指す語である。"fish diet" というのは、ローカロリーの魚を食べてダイエットする、という意味ではなく、魚を中心とした食事ということだ。ただ、"food" という語が食べることと密接に関連しているのに対し、この語は、栄養とか身体の影響というニュアンスがでてきて、そこから食事療法や規定食、制限食、減食といった意味が派生する。さらにそこから特定の食事→常食という意味もある。"basic diet" というと、ふだんよく食べているもの(主食といってしまうと、微妙にずれてしまうのだけれど)といった意味になる。

ジョイス・メイナード『ライ麦畑の迷路を抜けて(原題は"At Home in The World")』(野口百合子訳 東京創元社)には、すべての意味のダイエットが出てくる。

雑誌に才気あふれる文章を発表していた十八歳のジョイスは、ある日、きみが気をつけるなら、ほかの人間にはなれないような本物の作家になれることを自覚してほしい、という手紙を受け取る。差出人はJ.D.サリンジャー。彼は三十五歳年長だった。

文通から始まり、サリンジャーの下を訪れたジョイスは、このようなもてなしを受ける。

 彼がランチを作った。全粒粉のパン、チェダーチーズ少々、ハチミツであえたナッツ。彼は、折りたたみ式の小さなテーブルをふたつテラスに出した。
「これで足りるといいんだが」彼が言った。「あまりもてなしをしないもので。女子青年同盟のような接待はとてもできなくてね」
「ほっとするわ」とわたしは答えた。
 彼はチーズとリンゴをひと切れずつ切った。「この組み合わせはいいんだ」むしゃむしゃと頬張った。
 わたしもリンゴとチーズを切った。

執筆のほかは、ホメオパシー(毒性のない薬をあたえて、患者の症候と同じような症候をつくりだし、患者の抵抗力をまして病気を治療する方法)を実践し、彗能(中国唐代の禅僧)の本を読み、瞑想とヨガを行う毎日を送るサリンジャーは、食事にも厳しい制限を設けていた。

調理すると、食物からすべての栄養素が失われてしまう、と彼は説明した。それだけではない。砂糖や小麦粉のような精製食品は――全粒小麦粉、ハチミツ、メイプル・シロップでさえ――体に悪影響を与える。わたしにチーズを出したけれど、乳製品もまたよくない。とくに殺菌したミルクからつくられたものは、結局のところ、重要な栄養素が破壊されてしまう六十二度以上に熱せられているのだからだめだ。調理した肉は人間が口にするもっとも有害な食品のひとつだが、むろん生の肉が安全というわけではない。……

 だいたい、ジェリー(※サリンジャー)は調理されたものはすべて避けるようにしている。一日のおもな食事は、生の果物と野菜とナッツ。多くの人々が口にしている食物については、ジェリーは“毒”という言葉を使った。

高校を卒業してから、一日にリンゴ一個とアイスクリームコーンひとつ以外はほとんど食べないようなダイエットを繰り返していたジョイスにとって、こうした食事制限そのものは、まったく苦痛ではなかった。けれども、ともに生活するようになると、ふたりの相違はどんどん深まっていく。

毎日の食事で実行している禁欲は――“節制”と彼は言っていた――生活のほかの面でも信奉していた。瞑想における彼の目標は、欲望を去り、自我を抹消することだった。思考を追い出して脳を空にすることこそが、目標だった。これに対して、彼は禅の“定(じょう)”という言葉を用いていた。……

 だが、わたしがヨガのポーズをとって目を閉じ、呼吸を始めると必ず、世俗のことが意識にのぼってくる。二十からカウントダウンし、腹筋を使って息を吸い、息を吐く……すると、撮影中の六十年代に関する記録映画のためにインタビューしたいという、ドキュメンタリーフィルム制作会社から昨日きた手紙のことを考えてしまう――断るけれど、ほんとうはぜひ参加したい企画なのだ。……

 食べ物についても考える。カウンターの上のバナナ・ブレッド。行ってひと切れ切ってきたい。とうとう、その考えを頭から振り払うために、そうする。もうひと切れ、またひと切れと欲しくなり、ついにバナナ・ブレッドはなくなる。わたしは気分が悪くなって、自分がしたことを恥じる――その時点ですることは、食べたものを吐くしかない。

わたしたちはだれでも、自分が尊敬していたり、あこがれていたり、好きだったりする相手の行動を、まねたい、自分もそうしたい、そうなりたい、という欲望を持っている。他者の欲望を模倣して、自分も同一の存在であると認めてもらいたいと思うのだ。つまり、わたしたちが自分の欲望だと思っていることの多くは、他者の欲望を模倣することであり、模倣することで自分の欲望を満たそうとしている。

ときに、この欲望は、自分本来の欲求――おなかがすいたら食べたいものを食べ、満腹したところで食べ終わる――を圧殺してしまうことさえあるのだ。

身体の持つ欲求とかけ離れてしまった「食事」には、「ともに食べること」が持っているはずの喜びは、もはやどこにもない。

(この項つづく)