陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」最終回

2011-11-14 23:14:36 | 翻訳
(※遅くなってすいません。でもがんばって最後まで訳しました)


最終回



 ランディが夫人をテーブルからほんの数メートルのところまで連れて行ったので、ちょうど夫人のところから容器を見下ろす恰好になった。

「ご対面ですな」とランディは言った。「あれがウィリアムです」

 彼はミセス・パールが思い描いていたよりはるかに大きく、色も濃かった。表面全体に隆起している箇所と割れ目とが走っていて、どう見ても巨大なクルミのピクルスといったところがせいぜいだ。彼の下から四本の太い動脈と二本の静脈が伸びており、それがビニールチューブにきれいに接続されている。人工心臓が鼓動するたびに血液が押し出され、チューブはそろって小さくふるえた。

「顔をのぞかせてやってください」ランディは言った。「奥さんの美しい顔を、眼の真上に来るように、出してあげてください。そうやったら彼にもあなたが見えるから、にっこりしたり、投げキスをしてあげたりすればいい。私だったら何か気の利いたことを言うでしょうな。実際には聞こえやしないんだが、だいたいのところは通じると思いますよ」

「あの人は、投げキスなんてされるのは、がまんならないたちです」ミセス・パールは言った。「わたしの好きなようにさせてくださいませんこと?」テーブルの縁まで近寄っていって、容器の真上に顔がくるように体を前方に傾け、ウィリアムの眼をまっすぐに見下ろした。

「こんにちは、あなた」彼女はささやいた。「わたしです。メアリーよ」

 眼は相変わらずきらきらと輝き、それが癖のひたと見据えるようなまなざしが、投げ返されていた。

「お加減、いかが?」と彼女は言った。

 プラスティックのカプセルは周囲が透明なので、眼球はすっかり見えていた。眼球の下部と脳をつないでいる視神経は、まるで短い灰色のスパゲティのようだ。

「ご気分はどうかしら、ウィリアム」

 夫の目をのぞきこむというのは、奇妙な気持ちだった。なにしろ一緒にあるはずの顔がないのだ。自分が見なければならないのは眼だけ、そうして、眼から視線を放さずにいるうちに、徐々にその眼が大きくなっていき、しまいには視界いっぱいに拡がっていってしまった――それ自身が一種の顔であるかのように。か細い赤い血管が網のように眼球の白い表面を走り、冷たい青い色をした虹彩には、中央の瞳孔から三、四本の黒っぽい筋が伸びている。瞳孔は大きく、黒々としていて、一方の端は光を反射して小さくきらめいていた。

「あなたの手紙をいただきました。どうしてらっしゃるかと思って、飛んで来たのよ。ランディ先生はあなたはすばらしく良い調子だ、っておっしゃっておられます。きっとわたし、もう少しゆっくりしゃべった方があなたにはわかりやすいわね。あなた、わたしの唇を読んでらっしゃるんでしょう」

 間違いない。あの眼はわたしを見つめている。

「みなさんはあなたのために、あらゆることをしてくださっているのよ。ここにある優秀な機械は、絶え間なく血液を送り続けていて、わたしたちが持ってるみたいな、ちゃちでくたびれた心臓とはくらべものにならないくらい良いものなんでしょうね、きっと。わたしたちの心臓は、いつ壊れるか、全然当てにはならないものだけれど、あなたの心臓はいつまでも動き続けるんだわ」

 ミセス・パールは間近で眼をしげしげと眺め、この眼がこんなにも奇妙に見える原因をなんとかして見つけようとした。

「お元気そうね、あなた。ほんとうに調子がよさそう。確かにそう見えるわよ」

 以前、あの人がものを見るときの目つきより、この眼はずいぶん感じがいい、と彼女は胸の内でそうつぶやいた。どこかしら、やさしいところがある。穏やかで、優しそうで、わたしはあの人がこんな眼をしているところなんて見たことがない。きっと瞳孔の中心点と関係があるのだろう。ウィリアムの瞳は、これまでずっと、いつも黒い小さなピンの頭みたいだった。そのピンは誰か目がけて飛んでいき、頭の中まで貫いて、すべてを見通してしまう。だからウィリアムの眼はいつも、人のたくらみを見通し、それどころか頭の中にあることさえ見抜いてしまうのだ。だが、いま彼女が見ているのは、大きくて穏やかでやさしい、まるで雌牛のような眼だった。

「彼に意識があることはまちがいないんですか?」彼女は目を上げようともせずたずねた。

「もちろんです」

「ええ、完全にあります」とランディは答えた。

「では、わたしのことが見えているんですね?」

「完全にね」

「それってすごいことじゃありません? いったいどうしてこんなことになったのか不思議がっているんじゃないかしら」

「とんでもない。彼は自分がいる場所も、なぜそこにいるのかも、完璧に理解していますよ。忘れている可能性なんて、まずないでしょうな」

「つまり、彼がたらいの中にいる、っていうこともわかっていると?」

「もちろんです。もし彼にしゃべる能力がありさえしたら、いまこの瞬間にもあなたと完璧に正常な会話が交わせるにちがいありません。私の見る限り、このウィリアムとあなたがご自宅で知っていらっしゃった頃のウィリアムとのあいだには、精神的な相違は一切ありません」

「あらまあ」ミセス・パールはそれだけ言うと口をつぐんだ。この好奇心をそそる情況をとくと考えてみたかったのだ。

 だけど――目玉の向こう側に視線をやり、水底に静かにたたずむ灰色のどろどろした巨大なクルミの酢漬けに目をこらしながらひとりごとを言った――いまのあの人の方がイヤだなんて、わたしにはどうしても思えない。ううん、それより、こっちのウィリアムならうんとずっと気持ちよく暮らしていけそう。これならわたしの方が上だもの。

「ずいぶん静かなのね、この人は」彼女は言った。

「当然、静かということになります」

 議論をふっかけてくることもないし、あらさがしもしない。いつまでも説教することもないし、規則に従うことを強要することもない。タバコを吸うなとか言わないし、夜、本の上から眼だけ出して、じろじろこっちを観察している冷たい、非難がましい視線を送ってくることもない。洗濯したり、アイロンがけしたりしなくちゃならないシャツもない。ご飯の用意をする必要もない――あの人工心臓の鼓動の音だけ。それだって心休まる音だし、もちろんテレビの邪魔になるほど大きくもない。

「先生」彼女は言った。「なんだか急にあの人に対して、どうしようもないほどの愛情がこみ上げてきてしまって……。これっておかしなことでしょうか?」

「いやいや、充分に理解できることですよ」

「あの人、あんなちっちゃなたらいの中で水に沈められて、ずいぶん心細いだろうに、おとなしいのね」

「おっしゃることはわかります」

「あの人ったらまるで赤ちゃんみたい、ねえ、そうじゃなくて? ほんとにちっちゃな赤ちゃんみたいね」

 ランディは彼女の背後に立ったまま、じっと眺めていた。

「ねえ」彼女は器を覗きこみながら、そっと言った。「今日からメアリーがひとりだけであなたのお世話をしてあげますからね。だからもうちっとも心配しなくていいのよ。先生、わたしはいつになったらこの人を連れて帰れますの?」

「何ですって?」

「いつ、彼を連れて帰ることができるんですか――わたしの家へ」

「ご冗談でしょう」ランディは言った。

 ミセス・パールはゆっくりとふりかえると、まっすぐにランディを見た。「どうしてわたしが冗談を言わなければならないんですの?」彼女は晴れ晴れとした顔をし、両の眼はふたつのダイアモンドのようにきらめいている。

「とうてい彼を動かすことなんて、できっこありません」

「どうしてそうしちゃいけないんですの?」

「これは実験なんです、パールさん」

「これはわたしの夫なんです、ランディ先生」

 ランディの口の端に、奇妙な、神経質そうな薄笑いが浮かんだ。「ともかく…」

「これはわたしの夫なんですのよ」夫人の声には怒っているような響きはなかった。物静かな声で、まるで相手に単純な事実を思い出させようとしているだけ、といった具合だ。

「それはいささかやっかいな点ですな」とランディは言い、唇を湿した。「パールさん、あなたは現在、未亡人ということになっているんですよ。ですので、この件に関してはあきらめていただけますかな」

 彼女は急にテーブルに背を向け、窓辺へ歩いていった。「わたしは本気で言ってるんです」そう言うと、ハンドバッグからタバコを引っ張り出した。「うちの人に戻ってきてほしいんです」

 ランディはタバコを唇にはさんだまま、火をつける彼女をじっと見つめた。自分の目に狂いがなければ、この女にはいささか異様なところがあるな、と考える。なんだか自分の亭主が容器に入ったことを喜んでいるんじゃないか。

 彼は何とか想像してみようとした。もしそこにあるのが家内の脳で、あいつの眼があのカプセルの中からじっとおれを見上げていたら、どんな気がするだろう。

 どう考えてもぞっとしないぞ。

「私の部屋に戻りましょうか」と彼は言った。

 彼女は窓辺にたたずんだまま、落ち着き払い、すっかりくつろいだ風でタバコをくゆらせていた。

「ええ、いいわ」

 テーブルの脇を通ったとき、立ち止まってもう一度、器をのぞきこんだ。「メアリーは帰りますからね、大好きな人」彼女は言った。「ちっとも心配なんかしなくていいのよ。いいわね? できるだけ早くあなたをお家に連れて帰ってあげますからね。家に帰ったらわたしたちがちゃんとあなたの面倒を見てあげますから。ええと、それから……」そこで彼女は言葉を切ると、タバコを口に持って行って一服やろうとした。

 そのとたん、目玉はきらりと光った。

 彼女もまさにそれを直視していたときだったので、目玉の中心部に小さな、けれどもまばゆい火花が散るのもわかった。瞳が憤怒にかられたあまりに、黒い小さな点にまで収縮している。

 彼女はすぐには動かなかった。器の上に身をかがめて、タバコを口に近づけたまま、その眼を見つめていた。

 それからきわめてゆっくりと、わざとらしくタバコを唇の間にはさんで、深々と煙を吸い込んだ。思い切り深く息を吸いこんでから、三、四秒間、煙を肺にためる。それから急に、ふたつの鼻の穴から勢いよく煙を噴射させた。吹き出された煙は、器の水面を直撃し、厚くたなびく青い雲となって水面にたれこめ、眼をすっぽりとくるんだ。。

 ランディは彼女に背を向けたまま、ドアを出たところで待っている。「いらっしゃい、パールさん」と呼んだ。

「そんな怒った顔をしないで、ウィリアム」彼女は優しく言った。「機嫌を損ねたって、良いことはひとつもないのよ」

 ランディは振り返り、彼女が一体何をしているのか確かめようとした。

「もうそんなことしちゃダメよ」彼女はささやいている。「これからはね、良い子ちゃん、あなたはなんだってメアリーの言うとおりにするの。わかった?」

「奥さん」ランディは彼女に近寄った。

「だからもう悪い子になっちゃいけません。いいわね、わたしの宝物」彼女はそう言いながら、またふーっと煙を吹きかけた。「近ごろじゃ悪い子は、とっても厳しい罰を受けることになるのよ、そのことはちゃんと覚えておいてね」

 ランディは彼女の隣に立って彼女の腕を取り、有無を言わさない手つきで、だが決して礼儀は失しないようにしてテーブルから引き離そうとした。

「ごきげんよう、あなた」彼女は声をかけた。「すぐに戻ってきますからね」

「奥さん、もう良いでしょう」

「彼ってかわいくありません?」彼女は大きな目を輝かせながらランディを見上げると、甲高い声でそう言った。「天使みたいよね? 彼を家へ連れて帰るのが待ちきれないわ」



The End





(※近日中に手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)




ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その13.

2011-11-07 11:51:53 | 翻訳
その13.


 ミセス・パールはしばらく黙り込んでいた。

「ええ、そうね」やっと口を開いたが、先ほどまでとは打って変わって、ひどく弱々しい、疲れた響きだった。「そちらへうかがって、あの人がどんなだか見た方がいいんでしょうね」

「それはよかった。そうなさるだろうと思っていました。ここでお待ちしています。三階の私のオフィスにじかにいらしてください。では、失礼します」

 半時間後、ミセス・パールは病院にいた。

「彼の様子を見て、驚いてはなりません」ランディは彼女と並んで廊下を歩きながらそう言った。

「驚いたりしませんわ」

「最初のうち、おそらく多少、動揺されることでしょう。あまり現在の彼の様子は、きわめて魅力的とは言い難いですからな」

「あの人の外見と結婚したわけではありませんわ、先生」

 ランディは振り返ると、まじまじと彼女を見た。何だかおかしな、ちっぽけな女だな、と彼は思った。大きな目をしているが、無愛想で、なにかに腹を立てている感じだ。顔立ちは、おそらく昔はきれいだったのだろうが、もはや当時の面影もない。だらしなく開いた口元、こけた頬はたるんでいる。喜びのない結婚生活を長年おくってきたせいで、少しずつ、だが確実に顔全体が崩壊しつつある、という印象だ。ふたりはしばらく黙ったまま歩いていった。

「中に入ったら、時間をかけてください」ランディは言った。「あなたが入っただけでは彼にはわからない。彼の眼の真上に顔を出すまではね。眼はいつも見開いた状態にありますが、まったく動かすことはできません。だから視界は大変狭いんです。いまのところ、天井を見るように設置しています。もちろん何も聞こえません。だから私たちは話し放題ってわけですよ。さて、この中です」

 ランディはドアを開き、小さな四角い部屋に招じ入れた。

「まだそばには行かない方がいい」とランディは言うと、ミセス・パールの腕に手をかけた。「奥さんがあれに慣れてしまうまで、一緒にここにいましょう」

 部屋の真ん中にある白い、丈の高いテーブルの上に、白いほうろうびきの、ちょうど洗面器ほどの大きさの容器が置いてある。そこから五、六本、細いビニールのチューブが伸びていた。そのチューブはたくさんのガラス管につながっていて、人工心臓から出入りする血液の流れが見えた。機械の立てる静かでリズミカルな鼓動が聞こえてい
る。

「彼はあそこにいます」ランディは、容器を指して言ったが、高すぎて彼女のところからは中を見ることはできなかった。「もうちょっと近くへ行ってみましょう。でも、近づきすぎないで」

 彼は二歩、前へ進ませた。

 首を伸ばすと、ミセス・パールにも容器の中の液体の表面が見えた。透き通って静かな水面には、小さな楕円形のカプセルが浮かんでいる。ちょうど鳩の卵ほどの大きさだ。

「あそこにあるのが眼です」ランディは言った。「あれが見えますか?」

「はい」

「私たちにわかっている限りでは、完璧な状態にあります。あれは彼の右目で、プラスティックの容器にはかつて彼がかけていた眼鏡のレンズと同様のものが装填されています。いま、このときもおそらくかつてと同じくらい、はっきりと見えているはずです」

「天井なんて見るほどのものじゃないでしょうに」ミセス・パールは言った。

「その点はご心配なく。私たちは現在、彼を楽しませるプログラムを作成しつつあります。とはいえ、最初からあまり先走ったまねはしたくない」

「良い本を見せてあげて」

「もちろんですとも。そうしますよ。ご気分は悪くはないでしょうか、パールさん」

「大丈夫です」

「ではもう少し前に出ましょう。そうすれば、すべてをご覧になれますよ」


(この項つづく)




ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その12.

2011-11-05 23:13:34 | 翻訳
その12.


追伸 私が逝っても身を慎むよう。妻であることより未亡人の方が厳しいということをどんなときでも忘れることがないように。カクテルは飲まないこと。無駄遣いはしないこと。タバコも駄目だ。ペストリーも食べないように。口紅で粧うことなど不要だ。テレビを購入してはならない。私のバラ園と石庭は夏の間もきちんと雑草を引いておくように。ついでながら、電話は解約してかまわない。もはや私には電話は必要ないから。
                            W.


 ミセス・パールは手紙の最後の一枚を、かたわらのソファにゆっくりと載せた。小さな口元をきゅっと引き結ぶと、両の鼻翼のつけねのあたりが白くなった。

 冗談じゃないわよ! 未亡人っていうのは、あんな年月を過ごしたんだもの、そのあとは心安らかに過ごす権利があるんじゃない? 

 何もかもが考えるだにおぞましい。汚らわしくて、気分が悪くなりそう。ミセス・パールは思わず身震いした。

 バッグに手を伸ばし、もう一本タバコを抜き出した。火をつけ、深々と吸い込んでから、部屋一面、煙の雲でおおわれるほど、大きく吐き出した。煙の帯の向こうに素敵なテレビが見える。新品でピカピカと輝く巨大なテレビが、かつてウィリアムの仕事机だったものの上に、ふてぶてしく、いくぶんあたりを気にしながら、鎮座ましましていた。

 あの人がいまあれを見たら、なんて言うだろう。

 ミセス・パールの思いは、以前、夫にタバコを吸っているところを見つかった一年前に戻っていた。あれは私が台所の窓を開けて、そのかたわらに腰を下ろして、あの人が帰ってくる前に、あわただしく一服していたときのことだった。ラジオからはダンス音楽が大きな音で流れていて、コーヒーをもう一杯つごうとして振り返ったとき、戸口にあの人が立っていたのだ。大きくて容赦のないあの人が、あの気味の悪い目つき、黒い瞳孔を怒りでぎらぎらさせながら、わたしを上からにらみつけていた。

 それから四週間というもの、あの人は家計を全部握ってしまって、わたしには全然渡してくれなかったけど、でも、わたしが流しの下の粉石けんの箱の中に6ポンド以上も貯め込んでいたことは、まああたりまえだけど、気がつきはしなかった。

「どうして?」ミセス・パールはかつて夕食のときに夫にたずねたことがある。「わたしが肺ガンになるかもしれないと心配してくれているの?」

「いいや」夫は答えた。

「じゃ、どうしてタバコを吸ってはいけないの?」

「私が認めないからだ。それが理由だ」

 彼は子供も認めなかった。その結果、ふたりは子供を持つこともなかったのだ。

 いまあの人はどこにいるんだろう。わたしのあのウィリアム。偉大なる難癖屋。ランディはわたしが電話をするのを待っているのだろう。ランディにどうしても電話しなくちゃいけないのかしら?

 まあそんなことしなくていいんじゃないかしら。別に。

 彼女はタバコを吸い終わると、その吸いさしですぐにつぎのタバコに火をつけた。電話に目が向く。テレビが載っている机の上に電話も置いてある。ウィリアムは電話をかけてくれ、と言っていた。手紙を読んだらすぐに電話をかけるように、具体的に指示してきたのだ。彼女は逡巡していた。深く染みついた義務感、未だ思い切って振り捨てることもできないその感覚と必死で闘っていたのだ。それからのろのろと立ち上がって、仕事机の電話のところに向かった。電話帳で番号を調べてから、ダイアルを回し、それから待った。

「ランディ先生をお願いします」

「どちら様ですか?」

「パールです。ウィリアム・パールの妻です」

「少々お待ちください」

 すぐにランディが受話器の向こうに現れた。

「パールさんですね?」

「そうです。パールの家内です」

 少し間が空いた。

「パールさん、とうとうお電話くださったんですね、うれしいですよ。お加減はいかがです? お声ではお元気そうですが」聞こえてくるのは、静かで感情のこもらない、礼儀正しい声だった。「病院の方へお越しいただけませんか? そうすればお話もできますし。あれがどうなっているか、さぞかしお気になっていらっしゃるでしょうな」

 彼女は何も言わなかった。

「何にせよ、今のところ何もかも順調と言ってよろしいでしょう。実のところ、あらかじめ期待していたより、ずっとうまくいってるんです。ただ生きているっていうだけじゃない、パールさん、意識があるんですよ。二日目に意識が回復したんです。興味深いでしょう?」

 彼女は相手の話が続くのにまかせた。

「おまけに眼が見てるんです。まちがいない、だって眼球の前に何かをかざすと、即座に脳波計に変化が見られるからです。だから私たちは毎日それに新聞を読ませているんですよ」

「どの新聞ですか?」ミセス・パールは厳しい声で尋ねた。

「デイリー・ミラーです。見出しが大きいから」

「うちの人はミラーが嫌いです。タイムズを見せてやってください」

 間が空いた。ややあって医者が口を開いた。「結構ですよ、パールさん。タイムズを見せることにしましょう。あれにも気持ちよく過ごしてほしいと思ってるんですよ」

「彼です」ミセス・パールは言った。「“あれ”ではありません。彼ですわ」

「彼、ですな」医者は言った。「そうでした。すいませんでした。彼には幸せでいてほしいんですよ。そんなわけで奥さんにもできるだけ早くこちらへいらしていただきたいんです。彼があなたを見るのは、きっといいことでしょうからな。また一緒になれてどれだけうれしいか、聞かせてあげてください――笑いかけたり、投げキッスをしたり、まあそんなことですな。あなたがそこにいることがわかれば、彼もきっと喜ぶでしょう」


(この項つづく)





ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その11.

2011-11-03 11:49:24 | 翻訳
その11.


 奇妙な考えというのはこうだ。脚を切断された男が、自分の脚がまだそこにあるという幻肢を持つという話がないだろうか。もはやそこにはない足の指がかゆくて、気も狂わんばかりだと看護婦に訴えるようなことはおこらないだろうか。つい先日も、そのたぐいの話を聞いたような気がする。

 やれやれ。その前提に立つのなら、くだんの容器の中でたったひとつ浮かんでいるわたしの脳が、自分の体について同様の幻覚に悩まされる可能性はないと言えるだろうか。いつも私を襲うような痛みや痒みが、そんなときにも押し寄せてくるのだろうか。仮にそうだとしても、痛みを和らげようにもアスピリンを飲むわけにはいかないのだ。あるときには脚がひどい痙攣を起こすような幻覚におそわれ、別の時には猛烈な下痢の幻覚、さらにその直後には、私のちっぽけな膀胱が――君も知っての通り――即座に空にしなければ爆発しそうになるという幻覚に、いともたやすく見舞われるかもしれないのだ。

 冗談じゃない。

 私は長いこと横になったまま、こういったおぞましいことをあれこれと思っていた。ところが不意に、正午ごろだったろうか、私の気分は変わり始めた。こうした事態にまつわる好ましからざる側面がだんだんどうでもよいように思えてきて、ランディの提案を合理的な光に照らして吟味することができるようになっていた。とどのつまり、数週間のうちに自分の頭が死んで、この世からいなくなってしまわなければならないわけではない、と考えることは、いくばくかのなぐさめになっていないだろうか。私はそう自問してみた。たしかにそのことは否めない。私は自分の頭には、少なからぬ自負を抱いている。感受性が鋭く、明晰で、創造的な器官である。汲めども尽きぬ知識の宝庫であり、いまなお想像力豊かで独創的な理論を生み出すことができるのだ。自分でいうのも何なのだが、脳に関しては、実にすばらしいものなのだ。私のこの体、貧弱で年老いた肉体を、ランディがさっさと捨ててしまいたがっていることを考えてみれば、メアリー、おまえだってこんな体をもはや取っておく価値などないという私の意見に、同意せざるをえないだろう。

 わたしは仰向けに寝ころんだままでブドウを食べ続けていた。おいしいブドウで、小さな種を三つ、口から出して皿の縁に載せた。

「やってみよう」私は小さく言った。「そうだ、絶対にやってやる。ランディが明日、見舞いに来たときに、やってやるとはっきり言ってやるんだ」

 こんなふうに話はさっさと決まったのだ。それから先、私はずいぶん気持ちが楽になった。私が昼飯をがつがつかき込んだので、みんなが驚いたほどだ。いつものように君が見舞いに来てくれたのは、それからまもなくだった。

 だが、君は私がずいぶん元気そうだ、と言ったね。明るくて、気分がよさそう、何かいいことでもあったの? いい知らせが届いた? と。

 その通り。私は言った。それから君は覚えているかね。君に椅子を勧めて楽にさせると、すぐに、これから起こるであろうことを、できるだけ穏やかに説明し始めたのだった。

 だがね、君は聞く耳を持たなかったのだよ。細部に立ち入るか立ち入らないかのところで、君はとんでもなく腹を立てて、あり得ない、吐き気がする、おぞましい、考えられないなどと言い立てて、何とか話を続けようとする私をよそに、部屋から憤然と出て行ったのだ。

 メアリー、君も知ってのとおり、それからも私は何度となく君との話し合いを試みようとしてきたが、君は一貫して耳を傾けることすら拒んできた。だからこそこの手紙を書いているのだが、たったひとつ臨むのは、君がこれを分別を持って読んでもらいたい、ということだ。手紙を書くのにずいぶん時間がかかった。最初の一文を書くまでに二週間もかかってしまい、今はそのときよりもかなり弱ってしまっている。これ以上書き続ける体力が残っているかどうかも疑わしいほどだ。確かに、私は別れを告げるつもりはない。というのも、チャンスがあるからだ。ほんのささやかなチャンスではあるが、ランディの手術がうまくいけば、じきにまた君に会うことができるのだから。まあ、君が私の下へ来てくれるなら、ではあるのだが。

 私は死後一週間経ってから、この手紙が君に届くように計らっておくつもりだ。ということは、君がこの手紙を読んでいるのは、ランディが処置を行ってから、七日という日にちが経っていることになる。君自身はその結果がどうなったか知っているのかもしれない。もし知らないのなら、もし君が自分の意志でことから身を離し、関わることをこばんでいるのなら――そうなるのではないかという懸念を私は持っているのだが――今からでも考え方を改め、ランディに電話を掛けて、私がどうなっているのか聞いてみてほしい。これだけは君にできることだから。私はランディに七日後、君から何かあるかもしれない、と伝えておこう。

           君の誠実な夫
              ウィリアム



(この項つづく)