陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

日付のある歌詞カード #4

2006-03-10 22:43:20 | 翻訳
~#4 駅前でBon Joviの "These Days" をふと思い出した

"These Days"

人混みのなかを一人で歩いていた
なんとか雨に濡れないようにしながら
発泡スチロールの王冠をかぶった浮浪者を見た
おれもゆくゆくはあんなふうになるんだろうか、って思った
街角で歌ってる男がいた
昔の、変革を呼びかける歌を歌っていた
このごろじゃだれもが十字架を背負ってるっていうのに

スーツケースいっぱいの夢を抱えて泊まるところをさがしにきた彼女は
大通りのモーテルに着いた
たぶん、ジェームズ・ディーンにでもなろうと思ってるんだろう
ありとあらゆる人間の信者と、ありとあらゆる有名人の真似をしてる連中に会うんだ
このごろじゃ自分自身でありたいと思う人間なんていやしない
それでもしがみつけるものといったらこうした日々でしかない

このごろじゃ星なんてとても手が届かないような気がする
このごろじゃストリートに梯子なんてありゃしない
日々はまたたくまに過ぎて、この情け容赦のない時代には何も残らない
このごろじゃあとに残されたのはおれたちだけ

ジミー・シューズは両脚を折った 空を飛ぶ練習をしようとして
二階の窓から、目をつぶってジャンプした
ジミーのママは、頭がどうかしてる、って怒ったけど、ジミーはこう言ったんだ
「ぼくはやらなくちゃ」って
おれのヒーローはみんな死んじまったけど
おれだってフェイド・アウトするくらいなら死んだほうがマシだと思う

このごろじゃ星なんてとても手が届かないような気がする
このごろじゃストリートに梯子なんてありゃしない
日々はまたたくまに過ぎて、この情け容赦のない時代には何も残らない
善意なんてものも夜更けの列車に乗って行ってしまった
だからこのごろじゃあとに残されたのはおれたちだけ

まだ大変なときは終わったわけじゃない
時代は移り変わっていくけど
地球は回り続けてるんだ
このごろだって

このごろじゃ星なんてとても手が届かないような気がする
このごろじゃストリートに梯子なんてありゃしない
日々はまたたくまに過ぎて、この情け容赦のない時代には愛なんて続かない
善意なんてものも夜更けの列車に乗って行ってしまった
だからこのごろじゃあとに残されたのはおれたちだけ

このごろじゃ星なんてとても手が届かないような気がする
このごろじゃストリートに梯子なんてありゃしない
日々はまたたくまに過ぎて、この情け容赦のない時代には何も残らない
もうムダに生きてる暇はないんだ
責任を取ってくれるやつもいない
このごろじゃおれたち以外にだれもいないんだ

* * *

その昔、とあるアメリカ人と話をしていた。つい最近、映画の“スピード”を見た(つまりそのころの話だ)、と言ったら、どうだった、と聞かれたので、なんというか、ああ、こうなるんじゃないかな、と思ったら、そうなって、つぎに、こんどはこうなるだろう、と思ってたら、やっぱりその通りになって、おもしろくないわけじゃないけど、完璧に先が読めて、ちょっとつまんなかった、といったら、そういうのは "predictable" というのだ、と教えてくれた。もちろん予言する、とか、予想する、とかいう意味の "predict" という単語はよく知っていたのだけれど、それの可能態をそういうふうに使えるとは知らなかった。
それ以来、"predictable" という単語が出てくるたびに、わたしはキアヌ・リーヴスが出てくるこの一本調子の映画を思い出してしまう。

Bon Joviの音楽というのは、ほんとうにこの"predictable" そのもので、“バウンス”というアルバムでもいきなり“ダダダダダダダダ”(ああ、こういう書き方ってほんとうにマヌケだ)と来るから、きっとつぎは“ッダダダダダダダ”と来るだろう、と思ってたら、ほんとうにそうなって、つぎはきっと“ダダッダダッダダッダダッダッ”ってなるだろうと思うと、あら不思議、ほんとにそうなる(笑)。
だからとっても覚えやすい。一度聞いたら、間違いなくメロディラインを完全に覚えられる。

こういう書き方をすると、なんとなくわかるかもしれないけれど、Bon Joviを好きかっていうと、それほど好きじゃない。
なんていうか、ごく浅いところで、こういうのが音楽なんだ、音楽っていうのはこういうもんなんだ、みたいに満足してるみたいなところが感じられて(そう思ってしまうのはわたしだけなんだろうけど)、そうしたおさまりの良さみたいなものにちょっとイラッときてしまう。

それでもジョンの声の質とか(感情のこめかたが安いところは好きじゃないんだけど)、バンドの音とか、それほどキライではないので、たまに聞く(おまけにどういうわけか図書館にはいっぱいある)。
この"These Days" には、ほかにはない揺れみたいな、ためらいみたいなものがあって、Bon Joviのなかでは好きなアルバムだし、好きな曲だ。

* * *

今日、小雨がぱらつく駅前を歩いていて、ふっとこの歌を思い出した。
ホームレスの人を、何人か見かけた。
発泡スチロールの王冠をかぶってはいなかったけれど、いくつもいくつもショッピングバッグを抱えていた。

わたしが子供のころは、そういう人を「浮浪者」と呼んでいた。そういう人は怖かったし、母親からは「見ちゃいけません」と注意された。横を通り過ぎるときは、怖くて胸がドキドキした。

大学に入ったころは、そうした人は「レゲエのおじさん」と呼ばれていた。その呼び方には、揶揄もあったけれど、どこか、親しみもこもっていたかもしれない。なかには有名な「レゲエのおじさん」もいて、エピソードを持っている人もいた。

いまでは、ただ、ホームレス、という。

ジョナサン・コゾルの『家のない家族』(増子 光訳 晶文社)という本を読んだことがある。この本のなかには、家族でありながら、家を失った人々が描かれる。些細なきっかけで(たとえば火事で、失業で)中流階級から、あっというまにすべりおち、家を失うと、そこからはいあがるのは、奇跡を待つのに近いほど、困難なことになる。
この曲に出てくる「シェルター」で寝泊まりするだけで、日々、少なからぬ額のお金が消えていく。そこからさらに生活費を捻出しなければならない。どんな安アパートでさえ、「家」と呼べる場所を借りるためのお金など、正規の職をいったん失った人には、貯めようがないのだ。

わたしと、家を持たない人との間には、いったいどれほどの距離があるのだろう。

ジョンが“おれもゆくゆくはあんなふうになるんだろうか、って思った”と歌うように、だれもがどこかでそう思ってしまうんだろう。
だからよけいにわたしたちは、視界のなかに入れまいとするのかもしれない。
見なければ、そこに存在しない、とでもいうかのように。