陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

求む、荒唐無稽

2008-04-30 23:00:18 | weblog
学生のころ、大学に行くと「失敗した~」としきりに頭を振っている子がいた。どうしたの、と聞くと、彼女はボーイフレンドの下宿で同棲していたのだが、ついうっかり、かかってきた電話を取ったのだという。それが相手の実家からの電話で、声を聞いてすぐにそれを察した彼女は、何も言うことができず、そのまま切ってしまったのだという。もちろんいまとちがって、携帯電話などないころの話だ。

わたしは、彼氏にこういわせるといいよ、と知恵を授けた。
友だちからポケットモンキーを預かってたんだ、その猿、電話を取る癖があるんだよ。

そんな話、通じるわけがないじゃない、とあっさり却下されたのだが、わたしはなかなかいいアイデアではないかと思ったのである。
こういう話は、荒唐無稽であればあるほどいいのではないだろうか。

英語のジョークで「犬が宿題を食べちゃった」(My dog ate my Homework.)というものがある。最初にこれを言った子供は、だれも信じてくれないことだから、かえって聞いてくれると考えたのかもしれないと思うのだ。あまりに傑作だったので、後世に残ったのでは……というのは考えすぎだろうか。

実はわたしは頼まれ仕事をひとつすっかり忘れてしまっていたのを思い出して、どう言い訳しようかさっきから考えているのである。パソコンが壊れた、などという誰でも考えつきそうな言い訳ではなく、あまりに突拍子もないので、本当としか思えないような言い訳。
プリントアウトして封筒に入れていたら、狂犬に追いかけられて、ブロック塀の上によじ登ったら、うっかりその封筒を水たまりに落としてしまって、全部インクが流れてしまった、というのはどうだろう。

何かいいのがあったら、教えてください。
そうでなければ、その頼まれ仕事をあわててやらなければならなくなってしまうのだ。

更新情報書きました。

サイト更新しました

2008-04-29 22:53:14 | weblog
三月の終わりから何度かに分けて書いた、インターネットでのふるまい方についてのログを「ネット時代のお作法・不作法」として一本にまとめてアップしました。
重複部分は削除し、全体に加筆しています。
似たような文章を何度も読ませることになってごめんなさい。
そうやっていきつもどりつしながら書くやり方しかできないんです。

この記事と前の音楽堂のも合わせて、更新情報をまた明日書きますので、そのころまたお暇なときにでものぞいてみてください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

ということでそれじゃまた。

論争は虚しい

2008-04-28 22:59:26 | weblog
わたしは基本的にweb上では論争をしないことにしている。
たとえ「これはひどいな」という意見を見たとしても、たとえそれに対する反論を頭のなかで考えてみたり、親しい人に「こういう意見を見たけれど、おかしくはないか」と話すことはあるかもしれないが、直接、その人に向かって、たとえばコメントを書きこむようなことはしない。

というのも、拠って立つところが明らかにちがっている場合、議論自体が成立しないからだ。

もしかしたら、たとえ見解が対立したとしても、事実と照らし合わせてみれば、正しい見解は明らか、と思っている人が多いかもしれない。
ところが、「事実」だけならどんな「事実」だって見つけることができるのだ。
たとえばアポロが実際には月面着陸していない、と、まことしやかに主張している人々が依拠しているのは、いくつもの「事実」ではあるまいか。
陰謀論にしても、トンデモ論にしても、主張する人々は、それを証明するために、おびただしい資料のなかから「事実」をかき集めている。
彼らに対して、それが事実ではない、と別の「事実」を対峙させても、まったく不毛なだけだ。

ここから言えることは、どんな意見に対しても、必ず反論はできる、必ず反証は可能だということである。たとえ彼以外の人全員が眉をひそめるような意見であっても、主張している人物は、どこからか「事実」を見つけてくるだろうし、自分に対する反対意見は決して聞こうとはしないだろう。
トンデモ論を主張する人に欠けているのは、「事実」ではなく、バランス感覚なのである。バランス感覚の欠けている人間の意見を変えさせることは、言葉には不可能なのだ。
そういう人の見解を目の当たりにしたら、通りすぎるしかない。

それでも論争好きな人はいるのかもしれない。
自分の主張を展開させていく言葉の運用能力に自信のある人。「争い」という状態を楽しむことさえできる人。

けれど、残念ながら、そういう人も、相手が一歩も譲歩しなければ、議論は平行線をたどるだけだ。

もちろん論争に勝つことはできる。
だが、それには条件がある。
・相手とあなたが同じ理論上の土俵に乗っていること
・相手があなたの意見に耳を傾ける度量を持っていること
・相手があなたの意見をきちんと理解できる知性を持っていること
つまり、あなたが論破できるのは、その論点においては意見を異にしているかもしれないが、それ以外の点ではあなたと多く意見を同じくした、知的で人間的にも優れた人物なのである。

だが、そんな相手なら、論破するより、相手と自分の一致点を探った方が良くはないか。
話し合うなか、自分自身の意見も変わり、相手も変わり、結局は双方の意識が深まっていくような、そんな話し合いができる相手なんじゃないだろうか。

なのにそういう相手であるにもかかわらず、自分の方が正しいのだ、間違っている相手を屈服させずにはおれない、と一歩も譲るつもりがないとしたら。
もしかするとあなたは
・相手の意見に耳を傾ける度量を持っておらず
・相手の意見をきちんと理解できる知性を持っていない
のかもしれない。

サイト更新しました

2008-04-27 22:30:49 | weblog
以前Porcupine Tree の "Fear of a Blank Planet" の訳詩とレビューを書きましたが、それに加筆して「陰陽師的音楽堂」にアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

音楽のことはブログで散発的に書くことはしても、サイトにのせるのであれば、譜面と一緒にきちんと書きたい、という思いもありました。ただ、譜面をアップしようと思えば、専用のアプリケーションが必要ですし、いまのわたしには音を拾うピアノもありません。どこまで正式なものが自分に書けるんだろうか。
印象主義的な感想文なら、書いてもつまらないし。
そんなあれやこれやの思いで、どうしてもまとめることができずにいました。

今回も、なんだか中途半端な文章なんですが、コンセプトアルバムだということさえわかってもらえれば、まあいいかなあ、と思っています。ひとりの主人公の物語を語るのではない、音が色彩や情景を持っていく、という意味で、コンセプトアルバムなんだ、って。

おかしいところもあると思うんですが、自分はこんなふうに聴いたよ、というのがありましたら、また教えてください。

ソクラテスであろうが豚であろうが

2008-04-26 22:53:28 | weblog
似たような、多少ちがうような話を続ける。

昨日のログを書いた後で読み返してみて、ふと彼女がなんであそこまでしきりに「忙しい、忙しい」と繰りかえして言ったか、やっと思い当たったように思ったのである。おそらく彼女は充実している彼女の生活を、わたしに「うらやましい」と思ってほしかったのだ。
そう考えてみれば、いろいろ細かいところに納得がいく。非常に申し訳ないことに、わたしはそのことにまったく気がつかず、何を言われても「なるほどね」と、至極あっさり受け流してしまっていたのだ。

ときどき、自分がどんなに幸せか、承認を求めないではいられないような人に会うことがある。
自分がどれほど忙しいか、人に求められているか、大切にされているか、あるいは、自分に何ができるか、自分は何を持っているか、自分はどこの大学を出たか、どこの企業に勤めているか、自分の結婚相手や恋人や親や子供がどれほど優れているか、そういうことを言う人というのは、結局は自慢がしたいのではなく、ほんとうは、自分の幸せを認めてもらいたいのだろう。

けれど、前にも引いたジンメルではないが、言葉というものは、かならず意図しているものとちがうものを伝えてしまう。
そういうメッセージから受けとるのは、逆に、その人の自信のなさだ。
自分が幸せだ、自分は満ち足りている、と人に言わずにはおれないのは、実はその人がどこかいまの自分に自信がなくて、そうではないよ、あなたは幸せだよ、間違ってないよ、と言って欲しいのだ。「ほんと、あなた恵まれてるわね、うらやましいわ」と言って欲しいのに、実際には自分の自信のなさを、人に向かって発信しているのだ。

そんな人は、自分とちがう生き方をしている人を見たら、自分が否定されたように感じる。だから相手を否定しないではいられない。相手に、あなたの生き方の方がずっとすばらしい、と認めさせずにはいられない。

子供を持たないことに決めた、という人は、たいてい「子供はまだ?」という周囲の言葉に、神経を尖らせ、必要以上に傷ついてしまうように思える。逆に、子供を持って専業主婦になった人は、「子供がキライ」という人の言葉に、やはり必要以上に神経質になっているような気がする。

あるいは「専業主婦は暇だ」という言葉に神経を尖らせたり傷ついたりすることだって同じだ。ときにそれが「まとも」という言葉だったり、「世間では」という言葉だったり、「普通だったら」という言葉だったり、なんにせよ確かに無神経な言葉にはちがいないのだが、そういうことを平気で口にできるような人間は、あまり深くものごとを考えない人か、あるいは自分に自信がなくて自分以外の人に対して攻撃的になっているかのどちらかのような気がする。そんな言葉にむかつくぐらいはかまわないけれど、傷つく必要はまったくない。

いまの自分に自信があれば、つまり、いままでのいくつかの選択の場面で、迷いながらもじっくりと考えて、自分に納得のいく結論を出した人であれば、まあいろんな考え方があるからね、と笑って聞けるのではないだろうか。もちろん悪意を持って言われれば頭にも来るだろうが、そんなことを言うような人間は、その人間に問題があるんだ、と思えるような気がする。

幸せという「何ものか」があるわけではないし、「幸せ」という状態があるわけでもない。
ケーキは食べてしまえばなくなるし、これから海に行こうと決めてしまえば、今日、山に行くことはできない。ケーキはいま食べてしまった方が幸せなのか、まだ持っていた方が幸せなのか。海に行った方が幸せか、山が幸せか、いったい誰にわかるというのだ。

そんな誰にも答えの出せないことを考えるよりも、そのときどきをどうやったら一番楽しく過ごせるかを考えたほうがいい。ケーキを食べるのだったら、どうやったら一番おいしく食べることができるのか考えればいい。自分が日々を納得して過ごせたら、それが一番いいし、自分のありようを納得できている人は、まわりを否定する必要もないはずなのだ。

もしかしたら、わたしはえらく低いところで「満足」してしまっているのかもしれないのだが、まあそれならそれでいいと思っている。わたしが痩せたソクラテスか太った豚か、別にだれにも判断してもらわなくてもかまわない。

忙しいんだか、忙しくないんだか

2008-04-25 22:59:59 | weblog
先日、知り合い(友だち、と、わたしのなかでは微妙に位置づけにくいので、この曖昧な言葉を使う)と偶然に会った。なんとなくお茶でも、という話になって、すぐ近くのスタバでアイスカフェアメリカーノを飲んだのだが、結局わたしは「なるほど」と相づちを打つ以外は、ほとんど口を開くこともなく、彼女のいう自分がどれほど忙しいかという話を延々と聞かされる羽目になったのだった。

職場でいま大きなプロジェクトにかかりきりになっていること、周囲に無能な人間が多いこと、しかも子供のP.T.A.の役員まで回ってきて、その会合に出なければならなかったこと。もうストレスが溜まって溜まって……。

その話の合間合間に携帯をやたら取り出してはメールをチェックし、着信音が鳴るやカパッと開き、目を走らせてすぐさま返信する。そのあいだ、こちらはじーっと待つしかない。そのうち、携帯を開くたびに、こっちも本を取り出して読むことにしたのだが、それを見て、「うらやましい」と彼女は言ったのである。自分には、いまは本を読む暇などほとんどない、と。なるほど。
そのうち、彼女は携帯に目を走らせて時間を確認すると
「ああ、もうこんな時間」と立ち上がった。「またメールするから」

二十分ほどしてメールは来たが、わたしはその返信はまだ(もらってから54時間ほど経っているが)していない。あの頻繁に打っていたメールが、もしこんな内容であれば、彼女の毎日を忙しくしているものがどういったものなのか、その一端の想像はつくような気がする、というのは意地悪な見方かな。

いつから「忙しい」ことがそんな立派なことになってしまったのだろう。
確かにわたしもときどき忙しくなることはあるのだが、多くの場合、それはそんなに褒められたことではないのだ。わたしの場合、やらなければ、と思い始めてから取りかかるまでに時間がかかるし、いよいよダメだ、もう間に合わない、という状態になって、初めて起動する脳内のアプリケーション(笑)みたいなものがあって、それが起動するのを待っている(何か言い訳みたいだなあ)。

おまけに世の中には気乗りのしないことも、もうひとつ言えば、どうしてもやらなければならないわけではないことも多いのである。
たとえば、携帯メールとか。
反面、たとえお金にならなくてもやって楽しいことはたくさんあるし(このブログとか)、そういうことはできるだけ時間をかけて丁寧にやりたい。

結局、仕事をばりばりやっている人から見ると、ずいぶんお気楽に過ごしているように見えるわたしでも、(忙しいときには)かなり忙しくなってしまうのだが、これはどちらかというと(というか誰が見ても明らかに)自分に責任があるのであって、だからそれを思うと恥ずかしくて忙しいなんてあまり言えないのだ。

わたしの知り合いには専業主婦も何人かいて、それぞれにおもしろい人たちなのだけれど、この人たちにはある種の言葉に「ちょっと神経質」という共通点があるように思う。

つまり、そういう人たちに、ついうっかり「昼間、自由になる時間がある」ようなことを言うと、たいてい「そんなことない」という言葉が返ってくるのである。多くの人は、不当な批判をされたような、傷ついた顔になって、子供の世話がどれほど大変か、自分の自由になる時間なんて一日のうちに何分あるか……。朝から晩まで家事と家族の世話に追われ、なのに誰からも評価されず、感謝もされず、もちろんお金ももらえず、これほど割の合わないことはない、と言われてしまうので、わたしとしては、自由な時間があるから昼寝でもできると言いたかったわけではなくて、予定を組むとき、昼間だったら比較的融通がつきやすいね、ぐらいの意味で言ったのだが、それでも、ごめん、と謝らなければならないような気がしてしまう。

確かに、ほんとうに忙しいのだろうと思う。
けれど、どうしてもやらなければならないわけではないことの手を抜いて、気乗りのしないことはパスしたっていいのだと思うし、自分は働いてないから、子供たちとゆっくり時間を過ごせて楽しい、と言ったって、全然かまわないと思うのだ。

別に忙しいのが偉いわけじゃない。
だって、ジョン・レノンだって"Beautiful Boy" のなかで言っているじゃないか。

"Life is what happens to you while you're busy making other plans."
 (人生とは、何かの計画を立てるのに忙しいときに起きてしまう別のできごと)


いや、別の人が言ったこんな名言も、わたしは捨てがたいと思ってるんですが。
"Life is a medley of everything that happens to you while you're saying busy."
 (人生とは、忙しいと言うのに忙しいうちに起きてしまうさまざまなできごとのごたまぜ)

夢のような読書

2008-04-24 22:43:57 | weblog
いまのところわたしが考える最高の読書というのはこれだ。

・休暇に
・暖かいところで
・海辺やプールサイドで
・数日間の時間をかけながら
・紙と鉛筆を持って(海辺やプールサイドでは濡らさないように気をつけて)
・『百年の孤独』を読む

というものである。
なぜ紙と鉛筆が必要かというと、家系図を書きながら読むためである。百年の間にずいぶん大勢の人物が出てくるので、紙はB4くらいあるほうがいい。

わたしは上の四つの条件とはまったくちがったのだが、紙と鉛筆だけは持って、家系図を書きながら読んだ。

数年前に改訳版が出て、それには家系図があらかじめついているらしい。だが、おそらくこれは本の楽しみを半減させてしまう。

ホセ・アルカディオ・ブエンディーアがマコンドを切り開いて、町がなかったところに町ができていく。そうして一世紀のあいだに寄せては返す波のように繰りかえされる、同じような名前を持った登場人物が何十人も現れていく。その波のような名前をひとつひとつつかまえて、家系図を自分の手で作ることによって、人間の生きていく歴史のつらなり、ゆっくりと流れていく時間と、「いま生きている自分」の時間を一致させていく。

そうして、さいごでまたその時間がゆっくりと円環していくことを、自分の手で確認したとき、なんともいえない豊かな気持ちに包まれる。そういう円環的時間を自分の実感として感じることができるという意味で、実に希有な小説なのである。

ですから、まだこのガルシア・マルケスの『百年の孤独』をお読みでない方は、ぜひ、そうやってお読みください。
おそらく、人生最高の読書体験のひとつになることと思います。
これはわたしが保障します。

ところで、「百年の孤独」という名前の焼酎がある、という話をこのあいだある方に教えてもらった。名前の由来はこの小説らしい。

そうしてこの小説のラベルには、

"When you hear music, after it's over, it's gone in the air, you can never capture it again."
(君が音楽を聴いているとする。だがそれ終わってしまうと、音は空中に消えてしまって、もはや二度とその音をつかまえることはできないのだ)

という、ジャズ・クラリネット奏者のエリック・ドルフィーの言葉が引用されているらしい。この言葉は彼の最後のアルバム"Last Date" での彼の言葉なのだそうだ。

こういう言葉を見ると、確かに音楽というのは、ほんとうはそういうものなのだ、と改めて思う。
曲を曲として認識しているのは、わたしたちの頭に過ぎない。それ自体は瞬間、瞬間で消えていく音を、わたしたちはそれを「まとまり」として聴き、頭のなかで再構成しているのだ。

エリック・ドルフィーのテクニカルなバス・クラリネットの音は、深い、つやのある音がころころと転がっていってとどまるところを知らないように聞こえる。ひとつひとつの音などと意識することもない。音楽は、そこにある、見えているような気さえする。

なのに、ドルフィーはそれを「一瞬一瞬消えていく音」というのだ。
この言葉を知って、もういちど"You Don't Know What Love Is" を聴いてみると、不思議なフルートの音が薄くなって消えていくところが見えてくるような気がする。

マルケスの、円環する大きな時間と、ドルフィーのこの「瞬間」、両極端でありながら、通底するものがあるように思う。
わたしたちは、時間というのは、時計が刻むような均質なものだとどこかでばくぜんと思っている。けれど、時間というのは決してそれだけではないのだ。


わたしがお酒が飲めたら、上の六つの条件にこの焼酎を加えたいのだけれど、どなたかぜひ、それをやってみてくださいませんか。
だけどエリック・ドルフィーを聴きながら焼酎を飲んだら、ちょっと悪酔いしそうな気がしないではないけれど。

二十過ぎれば…

2008-04-23 22:57:11 | 
そのかみの神童の名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと (『一握の砂』)

小学校時代、絵が飛び抜けてうまい子がいた。わたしを含めて多くの子が、水彩絵の具がどういうものかも理解できずに、色を混ぜ合わせて濁った色を画用紙に塗りたくっていたころ、淡彩の手法を使っていて、淡い色調の、透明度の高い絵を描いていた。名前などついていなくても、その子の描いた絵はすぐわかったし、毎年絵画コンクールで大きな賞を受賞していた。卒業文集にその子は「将来は画家になりたい」と書いていたし、わたしたちはみんな「あの子なら絶対なれるだろう」と疑っていなかった。

けれど、結局彼は歯科医院を継いだ。小学校を卒業してからわたしの方は、まったく交流はなくなってしまったのだけれど、たまたま母がそこにかかり、歯の治療をしてくれている「若先生」が、わたしの元同級生であることがわかったのである。絵を続けているのかどうなのかは知らないし、もしかすると趣味で楽しんでいるのかもしれない。彼のなかでどんな曲折があったのか知る由もないけれど、子供時代のわたしたちのなかで、「才能」という言葉に一番近いところにいたのは、おそらく彼だったのではあるまいか。

昨日引いた金田一京助も「神童だった」と書いているが、実際のところ、石川一少年の「神童ぶり」というのはどの程度のものだったのだろう。
小学の首席を我と争ひし
友のいとなむ
木賃宿かな

村の小学校で自分と主席を争った子は、おそらく家業を継いで木賃宿の主となった。一方、一の方は盛岡中学に進み、金田一京助を始め、多くの文学少年たちと雑誌を作ったりしている。

年譜によると、十七歳のときに「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」が与謝野鉄幹・晶子の主催する『明星』に掲載されたとある。この歌も、この時期の活動のなかから生まれたものなのだろう。

二十歳で処女詩集『あこがれ』を刊行。これには序詩上田敏、跋文与謝野鉄幹とあるから、確かに華々しいスタートを切ったといっていい。

それから啄木の人生、といっても、もう七年しか残っていないのだが、ひたすら小説を書き、認められず、評論を書き、金にはならず、生活に追われ、借金をし、無駄遣いをし、合間合間に吐き出すように歌を詠んだ。自分と同じ代用教員を主人公とした『雲は天才である』と書いた啄木は、やがて自分を「天才」と思うことをやめてしまう。
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

周囲を呪詛することもあった。
死ぬことを
持薬をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば

いつも死ぬことを考えた。
けれども「玩具」がいつも彼の傍らにあった。使い慣れた短歌、短い生涯を共に歩いてきた短歌。その形式が、自らの言葉の形式となるほどまでに、自分のものにしつくした短歌。
遊びに出て子供かへらず、
取り出して
走らせて見る玩具の機関車。(「悲しき玩具」)

啄木の短歌のどれも、生活のなかの心情が描かれる。一瞬に移ろいゆく日々の感情を言葉につなぎとめ、歌のかたちにすることで、形式を与えられる。おそらく啄木の短歌が「わかりやすい」のは、形式として完成されているからだろう。完成されているものは単純なかたちをしているものだから。

けれど、その歌を読むわたしたちは、そこで初めてその気持ちが自分のなかにあったことに気がつく。手袋を脱ぐときに、不意に去来する思い、自分よりほかの人の良い知らせを聞いて、おめでとう、と言いながら、自分ひとり取り残されていくような鬱屈、ひとりになりたい思い、どこかへ行きたい思い、なにもかも、そこにあったと気づく。
庭のそとを白き犬ゆけり。
 ふりむきて、
 犬を飼はむと妻にはかれる。

死後出された『悲しき玩具』はこの歌で終わる。
まるでこのあとも日々が続いていくように。

借金の名人

2008-04-22 23:02:28 | 
実務には役に立たざるうた人と
我を見る人に
金借りにけり

 新潮文庫版の『一握の砂・悲しき玩具』の解説は、盛岡中学時代からの友人であり、のちにはその生活を支えもした金田一京助が書いている。彼は「啄木の生涯」をこう書き起こす。
 石川啄木は禅寺に生まれた神童だった。山寺のことで、もとより豊ではなかったけれど、生活難の何物たるかを知らずに成長した。それが、二十歳になった五月、処女詩集『あこがれ』を出版した得意の絶頂に、暗澹たる運命が前途にこの少年天才を待ち設けていようとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。

 啄木は『あこがれ』一巻をふところに、「故郷の閑古鳥を聞きに、行って来る」というハガキをわれわれに飛ばして、突然帰郷した。あとになってわかったが、当時、郷里の檀家との間にいざこざが起こって、啄木の両親が寺を出て還俗し、盛岡市帷子小路に一家を構え、年来の恋人であった堀合節子嬢を迎えて結婚式を挙げさせようとする両親の電報や手紙で招き寄せられての帰郷だった。が、この帰郷を境に、まだ金をもうける道を知らなかった二十歳になったばかりの詩人の弱肩の上に、一家扶養の重荷が一度にのしかかって来たのであった。そして、身を終わるまでふたたび浮かび上がることのできない赤貧のどん底に、あえぎ通さなければならなかったのである。
(金田一京助『一握の砂・悲しき玩具』解説)

こののち、盛岡からまた生まれ故郷の渋民村へ、そこから一年間、北海道を放浪することになる。そうして明治四十一年四月、二十三歳の一(はじめ)青年は、上京する。
啄木は釧路から函館までは船で、そこから小樽までは汽車で行き、小樽に置き去りにした家族と会った。四月二十四日の夜、再び函館から三等船室の客となり横浜へ向かった。
 最初函館に着いたとき宮崎郁雨から十五円借りた。小樽へも七円贈って貰い、その金を妻の節子にわたした。横浜行きの船に乗るとき郁雨からさらに十円借りた。啄木は借金した相手とその額を十銭の単位まで生涯忘れることはなかったが、返すだけの経済的実力を持つ見込みはまったく立たなかったから、それはついに気休めのままに終わった。
(関川夏央『二葉亭四迷の明治四十二年』文藝春秋社)

金田一京助は「ふたたび浮かび上がることのできない赤貧のどん底に、あえぎ通さなければならなかったのである」と書いているのだが、この啄木の借金生活は、たとえば同じように一家が双肩にかかっていた樋口一葉のそれとはずいぶんちがった印象を受ける。啄木は上京した二十三歳の四月から、ローマ字で日記をつけはじめているのだが、そこにはこのような生活がうかがえる。

この年の五月から六月、啄木は「小説を二百二十枚ほどとと詩を八篇書き、短編小説の構想を十六本分練った」が、金銭的にはほとんど報われない。そうして「小説執筆の情熱が憑物の落ちたようにおさまった」あとのことである。
 六月二十三日からは雨になった。前日に散文詩三篇を生まれてはじめて書いてみた啄木は、その日も二篇書き、紫陽花と鉄砲百合の花を三十銭で買ってきた。百合の花のかおりが湿った空気に重たく漂う部屋で床についたが眠れずにいた彼は、ふと思いたって歌をつくりはじめた。朝までに五十五首、徹夜した翌二十四日の午前中には五十首をつくった。…
 夕方、赤い百合を買ってきて白百合の群に一本挿し、それから午前二時までに百四十一首つくった。
(引用同)

こうしたなかから「海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」などの歌が生まれたのである。

翌年三月、朝日新聞社に校正係の職を得る。月給二十五円。
 その頃まだ函館にあって友人の世話になっていた家族からは、就職したのならすぐにでも東京へ呼んでくれ、という懇願の手紙が再三届けられた。
 月給二十五円はいまの感覚で十五万円、家賃が安いから独身者なら暮らせる。労働時間は一日五時間にすぎない。三日に一度夜勤をすれば合計三十五円、家族三人の扶養も不可能ではない。…
 啄木は節倹するかわりに、活動写真と女性に逃避した。前借りした月給が手元にあると落ち着かない気分になり、浅草へ行って洋食を食べ、安価な娼婦を買った。
(関川夏央『本読みの虫干し』岩波新書)

啄木が返事を引き延ばしたにもかかわらず、六月になると待ちくたびれた家族が上京し、本郷区弓町の下宿屋での間借り生活が始まる。妻が子供を連れて家出するなど、経済的困窮ばかりでなく、妻と自分の母親のあいだの確執も啄木を悩ませた。
空き家に入り
煙草のみたることありき
あはれただ一人居たきばかりに

だが、啄木のそうした生活のなかから歌われたこうした歌は、現在のわたしたちが読んでも少しも違和感がない。たとえ不満がなくても、家族から離れただ一人になりたいばかり、という心情は、ひとり暮らしではない誰もが経験するものだろう。

「悲しき玩具」には、働く人の歌もいくつも見られる。『一握の砂』よりさらに、やさしい言葉で書かれた言葉は、さりげないようでいて、響きがある。日々のなかで簡単に移り変わる気分の一瞬をとらえているだけでなく、それをつなぎとめる言葉の隅々まで気が配ってある。こうした歌を見ていると、これが明治に作られたものだということを忘れそうになる。
家にかへる時間となるを、
ただ一つの待つことにして、
今日も働けり。

いろいろの人の思はく
はかりかねて、
今日もおとなしく暮らしたるかな。

おれが若(も)しこの新聞の主筆ならば、
やらむ――と思ひし
いろいろの事!

だが、啄木の勤務振りはいい加減だったらしい。「三月はまじめに出社したが、四月は十八日、五月は二日しか出なかった」(『本読みの虫干し』)とある。
『ローマ字日記』にある明治四十二年四月から六月まで、寸借と入質を含めた啄木の総収入は九十八円二十五銭だった。たまった下宿代を三十七円入れ、必要経費は二十六円ほどだった。残る三十五円は、娼婦、酒など不要不急の出費、つまり無駄遣いである。…
 啄木の貧乏はおもに啄木自身の責任である。結局彼は望みどおりに病気になり、現代の価値で約一千万円の多重債務者のまま明治四十五年四月、二十六歳で死んだ。
(『本読みの虫干し』)


あたらしき洋書の紙の
香をかぎて
一途に金を欲しと思ひしが(『一握の砂』)

「公団嵐が丘」のふるさと

2008-04-20 22:49:48 | 

かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川

いしいひさいちのコミックスのシリーズに「ドーナツブックス」というのがあって、これは一巻ごとに文学書のパロディのタイトルがついている。たとえば『毛沢東語録』が『毛沢東双六』になっていたり、『女の一生』が『女の一升瓶』になっていたり、『長距離走者の孤独』が『長距離走者の気の毒』になったりしていて、言葉をほんのひとつかふたつ変えるだけで、オリジナルとパロディのあいだのずれが、笑えたり、一種の権威のようなものをしゃれのめしてみたり、まったくちがう見方を与えたり、そこからいろんな物語さえもが生み出されたりするのだなあとよくわかる。『公団嵐が丘』も、そんなタイトルのひとつだ。

小さい頃から、郵便受けに差し込まれている新聞を取ってくるのはわたしの仕事で、毎週土曜の朝刊というのは、厚さがふだんの倍近くになっているのは幼い頃からよく知っていた。新聞を分厚くしているのは広告で、週末になると入ってくるのは、折りたたんだつやつやとした大型の紙で、その多くは木立を背景に、立ち並ぶ団地の絵が麗々しく描いてあるのだった。

そうした広告に踊る大きな文字は、「青葉台」だの「ひばりヶ丘」だの「桜ヶ丘」だの、よく似た名前が毎週並んでいる。子供時代は不思議にも奇妙にも思わなかったそうした名前が、いったいどういう性質のものなのか、理解するようになったのは、それからずいぶんあとだった。

そこには別の名前があったのだ。長い歴史のなかで、そこに暮らす人々が、さまざまな思いをこめて口にし、文字にも記してきた、その土地に結びついたもともとの名前があったのだ。ところが山を崩し、地形を変えて、宅地を造成するなかで、忽然と消えた山と一緒に、その山の名前も、村の名前も、跡形もなく消えてしまったのである。砧村、関戸村、古い地図や昔の小説には、いろんな村の名前が出てくる。それぞれに言われも歴史もある名前をいくつも知るようになると、その土地本来の名前を「青葉台」や「ひばりヶ丘」に変えてしまうことは、山を崩し、そこに生える木や草や菌類や、そこに暮らす生き物を根こそぎにすることと同じくらい、暴力的なことのように思えてくるのだった。

いや、考えようによっては、プラスティックのように薄い、本来の「青葉」や「ひばり」の意味をすでに失った「言葉」の残骸は、山をごっそり削り取り、その残骸に建てた家の群れにこそふさわしいものなのか。『嵐が丘』の前に「公団」とつけてしまえば、ヒースの生い茂るイギリスの荒れた台地が、一転、ベージュだのネープルズイエローだののペンキを塗りたくったマッチ箱が建ち並ぶ、新興住宅地の光景が浮かんでくるように。

だとしたら、その山を「ふるさと」として感じていた人々の「記憶」や「思い」や「歴史」はいったいどこにつなぎとめられるのだろう。姿も、名前すらも残っていない「おもひでの山」は、いったいどこにつなぎとめておけばよいのだろう。


岩手県の渋民村に生まれた啄木、というか石川一(はじめ)が、生涯渋民村を出ることがなければ、父の跡を継いで常光寺の住職となっていれば、渋民村は彼の生活の場であって、「ふるさと」とはならなかっただろう。
病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも

「ふるさと」が「ふるさと」となるためには、人はそこから出なければならない。そうやって、ふりかえる場所である。
己が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術なし

けれどもそこで振りかえる「ふるさと」は、自分が出たそのままの場所として自分のなかに刻まれている。自分のなかでは、その「ふるさと」は、時間を止めてしまうのである。このときふりかえる「ふるさと」は、現実の場所ではない。「かへる術なし」とうたわれる場所が「ふるさと」なのである。
ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足軽くなり
心重れり

啄木の評伝を読めば、たいていどれにも彼が「石持て追われた」ことが書いてある。だが、「足軽くなり」「心重」くなるのはそのためばかりなのだろうか。体はそこを歩いた日々を覚えている。川のある場所も、坂道も、四つ辻もすべて覚えているだろう。けれど、「心」の方は、そこが「ふるさと」ではないことを知っている。自分からすでに失われた場所であるから「ふるさと」は「ふるさと」と意識されるのだとしたら。たとえそこを歩いていたとしても、まぎれもなく体はそこを認めても、失われた場所である「ふるさと」を、心の側は認められない。
やまひある獣のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

「ふるさと」はそこにある。話に聞くことはできる。けれどそこには決して到達できない。
そういう場所が「ふるさと」であるならば、根こそぎにされた山の名前が、古い地図や歴史のなかに残っている限り、「ふるさと」として残る可能性はあるのだろうか。山も村も、そこに刻まれた歴史とともに、その土地の「ふるさと」として残っているのだろうか。

わたしが子供のころに毎週入っていた広告のもとになった公団住宅も、作られてから四半世紀以上が過ぎた。そこで生まれ、育ちした人も、すでにずいぶんいるのだろう。
そうした人にとっては、「青葉台」や「ひばりヶ丘」が「かにかくに」「恋しかり」のふるさとなのだろうか。A棟とB棟のあいだのケヤキの立木が、「ふるさとの山」であり、雨の日に増水して流れが速くなった排水溝が「ふるさとの川」となっているのかもしれない。
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに