陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー 「とんでもないラジオ」 最終回

2006-03-24 21:48:06 | 翻訳
その6.

「なぜ聞かなきゃならない? そんないやな思いをしてまでなんだって聞いてるんだ?」

「もうやめて。お願いだからよして」アイリーンは泣いていた。「世間ってほんとうにひどい、あさましくて怖ろしいものなんだわ。でも、わたしたちはそんなふうじゃなかったわよね、あなた? そうでしょ? わたちたちはいつだって良い人間だった、ちゃんとしてたし、お互いを思いやってきたわよね? 子供だってふたりともかわいいわよね。うちの子は下品なんかじゃない、そうでしょ? ね?」夫の首に腕を回してしがみついて頬を寄せた。「わたしたち、幸せよね? 幸せでしょ? ね?」

「あたりまえじゃないか。ウチはうまくいってる」うんざりしたようにそう答えた。面倒くさいという思いが次第に耐え難くなってくる。「幸せに決まってるだろう。明日にはあの忌々しいラジオも修理に出すか、引き取らせるかするから」妻の柔らかな髪を撫でてやりながらつぶやいた。「バカだな」

「わたしのこと、愛してくれてるわね? それに、わたしたちはひどいことを言ったり、お金のことで気をもんだり、嘘ついたりしないわよね?」

「ああ、しない」とジムは答えた。



 翌朝、修理の男性が来て、ラジオを直して帰った。おそるおそるつけてみたアイリーンは、カリフォルニア・ワインのコマーシャルにつづいて、ベートーヴェンの第九、シラーの『歓喜の歌』のレコードが流れてきたのでホッとした。そのまま一日中つけていてもスピーカーからはもう何も聞こえてこなかった。

 スペイン組曲が流れているとき、ジムが帰ってきた。「もう悪いところはないな?」顔色が悪いようだわ、とアイリーンは思った。ふたりでカクテルを飲み、オペラ《イル・トロバトーレ》のなかの“アンヴィル・コーラス”を聴きながら夕食を取った。そのつぎは、ドビュッシーの《海》が聞こえてくる。

「ラジオの代金を今日払ってきた」ジムが言った。「四百ドルもかかったぞ。こうなったらせいぜい楽しんでくれなけりゃ」

「もちろんよ。わたし、そうするつもりよ」

「四百ドルっていうのは、ぼくからすれば不相応なぐらいの大金なんだ。君の喜ぶ顔が見たくて買ったんだからな。今年はもうこれ以上、贅沢する余裕はない。ところで君は、ドレスの請求書をまだ払ってなかったんだな。化粧台の上に何枚もあった」妻の顔を真正面に見据えた。「なんでもう払った、なんて言ったんだ? どうして嘘なんかつくんだ」

「心配させたくなかったから」そう言うと水を飲んだ。「今月分から払えばいいって思ってたのよ。先月はソファのカバーを新しくしたし、パーティもあったし」

「アイリーン、君はそろそろぼくが渡す金でもう少し賢くやりくりすることを覚えてくれなきゃな。今年は去年ほど余裕があるわけじゃないんだ。今日、ミッチェルと真剣に討議したんだ。購買意欲が落ちている。新製品のプロモーションにかかりっきりになってはいるんだが、そういうことの効果が現れてくるまでには時間がかかる。ぼくももう若くなることはできないんだ。もう三十七だ。来年には白髪になってるだろう。やろうと思ったこともろくすっぽできてないっていうのにな。おまけにこれから何か良くなるなんて見通しだってありゃしない」

「わかってるわ、あなた」

「切り詰めていかなきゃな。子供のことだって、考えなけりゃ。洗いざらい言ってしまうが、金のことは相当に厳しいんだ。これから先どうなるか、まったくわかったもんじゃない。だれだってそうだ。もしぼくに何かあったら、確かに保険はあるが、きょうび、そんなもんではとてもじゃないがやっていけない。こうやって必死になって働いているのも、君や子供たちに、ちゃんとした暮らしをさせてやりたいからなんだ」それからこう吐き捨てた。「まったく精魂傾けて、日々若さをすり減らして働いた結果が、そんなものに消えていくんだからな。毛皮のコートだろ、ラジオだろ、ソファ・カバーだろ、それからなんだ?」

「お願い、ジム。どうかやめてちょうだい。聞こえるわ」

「だれが聞くっていうんだ? エマには聞こえやしないさ」

「ラジオよ」

「勘弁してくれよ!」ジムは大きな声になった。「そのおどおどした顔を見ると、気分が悪くなる。ラジオが一体どうしたっていうんだ。だれも聞いてなんかいない。第一、聞いてたらどうだっていうんだ。かまやしない」

 アイリーンは食卓を立ってリビングに移った。あとを追ったジムは、ドアのところで怒鳴り続けた。

「急に聖人づらか? 一夜明けたら尼さんか? 君のおふくろさんの遺言状の検認もまだすまないうちに、宝石を盗んだくせに。妹には1セントだってやりゃしなかったよな、あれは妹に行くはずの金もあったんじゃなかったのか? 彼女だって必要なときがあったのに。グレイス・ホーランドの生活を惨めなものにしたのは、君なんだぞ。信心深そうな善人づらをさげて、子供だって堕しに行ったよな。あんまりあっさりしてるんで、たまげたぜ。旅行鞄を用意して、ナッサウ山脈にでも行くような顔で、おなかの子を殺させに行ったんだからな。もう少し君が分別を働かせてくれたらな、まったく、どうしてもっと頭を働かせられないんだ?」

 辱められ、嫌悪に身を震わせて、アイリーンは醜いキャビネットを前に立ちつくしていた。スイッチに手をかけてはいたが、音楽と話し声を消す前に、この機械がわたしに優しく話しかけてくれないかしら、あのスウィニーの乳母の声だけでも聞こえてこないかしら、と思った。ジムは相変わらず戸口でわめいている。ラジオからは、洗練され、我関せず、といった声が聞こえてくる。「今朝早く、東京で列車事故があり、29人が亡くなりました。バッファロー近郊のカトリック系病院付属の盲学校から出火しましたが、修道女らの働きで鎮火されました。現在の気温は摂氏8度、湿度89パーセントです」

The End


(後日手を入れてサイトに一括掲載します。お楽しみに)