陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

芸術家たち その4.

2007-03-31 22:29:53 | 
4.芸術家と生活者は相反する存在なのだろうか

昨日は主人公の葉蔵が、芸術家でありながら、生活者のふりをして小さい頃からそのなかに混じって生きてきたこと、生活者を怖れながらも、その一方で、特別な自分の存在をだれかに認めてもらいたがっていたところまでを見てきた。

やがて主人公は東京に出て画塾で堀木正雄という青年に出会う。
この堀木は、葉蔵の「対義語」にあたる人物、主人公と逆に、「芸術家を気取る生活者」なのである。
彼の手引きで主人公は「酒と煙草と淫売婦と質屋と左翼思想」を知るようになるが、一方でこの無頼を気取る自称芸術家には意外な一面がある。
「おい、おい、座蒲団の糸を切らないでくれよ」
 自分は話をしながら、自分の敷いている座蒲団の綴糸というのか、くくり紐というのか、あの総のような四隅の糸の一つを無意識に指先でもてあそび、ぐいと引っぱったりなどしていたのでした。堀木は、堀木の家の品物なら、座蒲団の糸一本でも惜しいらしく、恥じる色も無く、それこそ、眼に角を立てて、自分をとがめるのでした。考えてみると、堀木は、これまで自分との附合いに於いて何一つ失ってはいなかったのです。
 堀木の老母が、おしるこを二つお盆に載せて持って来ました。
「あ、これは」
 と堀木は、しんからの孝行息子のように、老母に向って恐縮し、言葉づかいも不自然なくらい丁寧に、
「すみません、おしるこですか。豪気だなあ。こんな心配は、要らなかったんですよ。用事で、すぐ外出しなけれゃいけないんですから。いいえ、でも、せっかくの御自慢のおしるこを、もったいない。いただきます。お前も一つ、どうだい。おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。ああ、こいつあ、うめえや。豪気だなあ」
 と、まんざら芝居でも無いみたいに、ひどく喜び、おいしそうに食べるのです。

主人公が芸術家でありながら生活者のふりをしようとしてきたのとは逆に、堀木は、根はここまで実直な生活者なのである。

登場人物には、堀木を始めとして、ヒラメ、画商など、さまざまな生活者の男たちが登場する。彼らはみな生活者としての罪、欲望からの罪を犯していく。

一方で、ひたすらに葉蔵を許す女たちもつぎつぎに登場する。
彼女たちは生活者の真似をしながらどうしてもひきさかれて、その結果、どうしても行き違ってしまう葉蔵に対して、それぞれに許しを与えられるのだが、だれもその本質、芸術家としての葉蔵を認めるものではない。そのために、葉蔵は女たちがどれだけ許しを与えたとしても、許しを実感できないのである。

実は葉蔵がほんとうに許しを求めていたのは(芸術家として認められたかったのは)父親からだったのである。
生活者ではない葉蔵の生活を、ほんの一時期を除いてずっと成り立たせていたのは、父親だった。
最後の方で、精神病院に強制入院の措置をとられた葉蔵は、父親の死をそこで聞くことになる。
 父が死んだ事を知ってから、自分はいよいよ腑抜けたようになりました。父が、もういない、自分の胸中から一刻も離れなかったあの懐しくおそろしい存在が、もういない、自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、あの父のせいだったのではなかろうかとさえ思われました。まるで、張合いが抜けました。苦悩する能力をさえ失いました。

こうして主人公は許される相手を失ってしまうのだ。

いくつかの女性遍歴を経て、葉蔵は自身の「同義語」であるヨシ子と出会う。
彼女は生活者ではない。
「芸術家」である主人公がどうして「生活者」になれないかというと、欲望がわからないからだ。言葉を換えれば、欲望を持たない、イノセントな存在であるから、ともいえる。
その意味で、葉蔵のイノセンスを分かち持つヨシ子は、葉蔵の「同義語」と言えるのである。
そうして、このイノセントを共有するヨシ子と生活をする時期、例外的に葉蔵は「家長」として、ヨシ子を養っている。一時的に葉蔵が「生活者」となる。

昨日最初にあげた堀木との同義語・対義語遊びは、この嵐の前の静けさのなかで行われたものだ。
生活者の犯す欲望からの罪ならば、法律が定める罰が対義語となる。
だが、芸術家の犯す罪というのは、生活者ではないこと、言い換えれば、生活者から超越し、高い位置から世間というものを俯瞰しているための罪である。
そこで与えられる罰とは、超越している自分を承認されないという罰である。
その意味で、罪と罰は同義となるのである。

直後、堀木の手引きによって、ヨシ子が画商に犯されている場面を目撃することになる。
これは決定的な場面である。

これまで女性からひたすら許されてきていた葉蔵は、ここでヨシ子を許さなければならないのだ。許す側に回ったら、おそらく葉蔵は、自分がほんとうに求めていた許しが得られたはずなのだ。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)


主人公は、堀木との会話のなかで、「(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです」という。
これまで受け容れられることを願い、そのために欺き、許されることを願っていたのが「世間」だった。主人公が畏れもし、一員であることを希いながら、同時に自尊心からその一員ではない、と考え、「罪を犯した」と意識していたのは、すべて「世間」と漠然と意識していたけれど、実は、世間なんてものは、個人じゃないか、というところまでたどりついている。
自分が求めていたのは、個人、それも、父ただひとりなんじゃないか、と気がつくところまで、あと一歩なのだ。そうして、その「父からの許し」というのは、ほかならぬ自分の意識が生みだした幻想でしかない、というところまで、あと一歩、というか、実際には手が届いていた。

許しは誰かから得られるものではなく、自分が許すことによって、その対立そのものを無効とすることでしか得られない、許し、というのは、つまり「生活者」対「芸術家」の対立などというものは、自分の意識が生みだした幻想でしかないのだ、ということに、主人公は手がかかっていた。

ところが主人公はそれができない、というか、太宰はおそらく漠然と気がつきながら(気がついてなかったら、こんな場面を設定することはできないだろう)、それに答えを出すことができなかった。
主人公を成長させて、「父」の同義語にしなければならなかったのに、作者はそういう展開の筋道を作っていくことができなかった。

もしここで主人公が、ヨシ子と一緒に辛がるのではなく、つまり自分のイノセンスが陵辱されたと感じるのではなく、自分の愛する他者が陵辱されたのだと感じることができ、憤ることができ、そうして許しを与えることができたら、そういう筋道を太宰の側が用意できたら、『人間失格』という作品が生まれることはなかっただろうけれど、別の作品が生まれただろう、そうしておそらく作者は死ななくて良かっただろう。

だが、太宰は日本の近代文学が作り出した「生活者」対「芸術家」という図式を壊すことができなかったのである。

実はこの「生活者」対「芸術家」という図式は、二葉亭四迷の『浮雲』以降、近代の日本文学が繰りかえし扱ってきたテーマである。
その背景にある思想を簡単にまとめると、以下のようなものである。

明治維新によって封建制が滅びて、新しい知識や学問、技術を持っている人はどんどん出世できた。

ところが明治も半ばになると、そうした人の数も増えて、競争相手が多くなり、積極的に仕事をしようと思うと、師匠や同業者にぶつかっていく。自分の身についた知識や技術を生かそうと思っても、働くことで人を蹴落とし、あるいは人に蹴落とされ、屈辱的で反人間的な生活を送らざるを得なくなってくる。

良心を持ち、汚れのない仕事をしようとする人は、親の仕事も引き継がず、勤め人にもならず、家庭など壊してしまって飛び出したほうがいい。

大正から昭和初期にかけての作家の多くはこういう人々であったし、読者も、「たとえ貧乏をし、破滅しようとも、良心を持った人間の、自己を偽らない生活、または清らかな生活の典型がここにある」(伊藤整『改訂 文学入門』)として、「芸術家」が描いた「芸術家」の作品を読んでいたのである。

中島敦の『山月記』のなかにも、この構図はそのまま描かれている。

だが、「芸術家」対「生活者」というのは、二項対立のものなのだろうか。
たとえばこの作品はそうだろう。
 真夜中を過ぎてから、窓辺に座って絵を描いた。もう一度眠ろうとしたけれど、寝返りを打つばかりで眠れなかったのだ。それで、赤ん坊が寝ている多くの夜にやるように、わたしは仕事机に向かった。まず、シャープな線を描いた。ある顔の輪郭の曲線だ。オイル・パステルでそれに色を塗った。それをさらに何度も描き、指の爪で余分な絵の具を削った。わたしはそれを何層も重ねて描き、色を塗り、爪で削り、ふたたび描いた。そのうち、絵のどこか下のほうから顔が浮かび上がってくるように見えてきた。バスケットに入れておいた雑誌の切り抜きを顔の一部――鼻、横向きの唇――の形に慎重に切り取り、それを糊で貼りつけ、オイル・ペイントをこすりつけた。
メアリー・モリス『シングル・マザー』斉藤英治訳 筑摩書房

シングル・マザーとして赤ん坊を育てながら、宝石のデザインと修理でかつかつの生活を送っている主人公は、一方で画家としてコラージュを作っていく。このコラージュの底には、幼い頃に生き別れた母のおもかげがある。

果たして彼女は生活者なのか、それとも芸術家なのか。
この問いそのものに、まったく意味などない、ということを、この作品が証明しているかのようだ。

もう一度『人間失格』に戻ろう。
主人公の葉蔵が常につきまとわれた罪の意識はどこから来るのか。
それは、芸術家である、という意識なのである。
ところが葉蔵が芸術家であることを示す根拠となるものは、中学生のときに竹一に見せた、いまは存在しない幻の自画像一枚でしかない。
自分が芸術家である、という意識(自信といってもいいかもしれない)を支えるのは、その罪の意識だったのである。
実際に作品を生みだしたことのない葉蔵の「芸術家」としてのアイデンティティを支えたのは、「生活者ではない」という罪の意識だったのだ。

芸術家としてのアイデンティティ。
芸術家であるかどうかの分岐点がどこかにあるのだろうか。
明日はこのことを見てみよう。

(この項つづく)


※先日ここで紹介した Oceansize の "Catalyst"、大幅に加筆して「音楽堂」にアップしました。興味のあるかた、覗いてみてください。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html
Oceansize の日本一詳しいサイト、かもしれない。もしかしたら、ずいぶんヘンなこと、書いてるかもしれないんですが。
ああ、アバラ骨が痛い……。

芸術家たち その3.

2007-03-30 23:05:56 | 
3.芸術家か生活者か

昨日も見てきたように、李徴に対して羞恥心を起こさせたのは、官吏(生活者)と詩人(芸術家)という二種類の集団からの視線の交錯である。とりわけ、詩作の道をあきらめて、官吏の一員として生きようとしたときに、この羞恥心は「尊大」なものとして、つまり、自分は詩人である、おまえらとはちがうんだ、という意識は抑えがたいところまでふくれあがってしまったのである。

李徴は生活者ともなれず、芸術家ともなれず、その狭間で狂気に陥ってしまった。
どうやらこの生活者か芸術家かという分岐線は、芸術家にとってきわめて重要なものであるらしい。
今日はそのことを見てみよう。
扱うのは太宰治『人間失格』である。

『人間失格』という作品は、非常に有名な作品で、読んだことのある人も多いだろう。ところがいったい何の話だったのか、と、読んだことがあるという人に逆に聞き返してみると、女と情死を繰りかえし、生き残った男の話、という答えが返ってくることが実に多い(経験談)。なかには、あの作品を太宰の経験談と受けとって、どうしようもないやつ、と見当外れの批判をする人まで出てくる始末である。森鴎外の『舞姫』と太宰治の『人間失格』は見当外れの批判を浴びせかけられる二大作品(ともに作者の道義面を――もちろん誤解に基づいて――批判する、というところまで一緒だ。みんな結局は道徳が好きなのね)なのである。頼むからいちどきちんと読んでくれ、と思うのである。おっと話が逸れた。
この『人間失格』は、『罪と罰』を下敷きにした作品である、とわたしは考えている。もちろんこの作品には老婆殺しも出てこないし、もっと大きな問題、たとえば自然と人間の問題といったものには触れられていない。
太宰の頭にあったのは
 またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明していました。それは、対義語の当てっこでした。黒のアント(対義語(アントニム)の略)は、白。けれども、白のアントは、赤。赤のアントは、黒。…

「罪。罪のアントニムは、何だろう。これは、むずかしいぞ」
 と何気無さそうな表情を装って、言うのでした。
「法律さ」
 堀木が平然とそう答えましたので、自分は堀木の顔を見直しました。近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光を受けて、堀木の顔は、鬼刑事の如く威厳ありげに見えました。自分は、つくづく呆れかえり、
「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」
 罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮しているのかも知れません。…

 罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……

この部分に出てくる罪と同義語としての罰、ということだった。

第一の手記はこの文章から始まる。
 恥の多い生涯を送って来ました。
 自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

ここで主人公はまず、自分は人間の生活が見当のつかない、空腹ということすら理解できない非生活者、すなわち、はっきりと明言することはないけれど、「芸術家」であると自分のことを規定している。

なぜ「恥の多い生涯」なのか。
それは、葉蔵は「芸術家」でありながら、幼い頃から自分をほかの人間と同じ「生活者」であるふりをしてきた、とある。
内心では生活者の一員として、みんなに混ざって生活したいと望みながら、芸術家である自分は、そのなかに入ることができない。そのくせ、自分を偽ってきた。その「二重の視線の交錯」が葉蔵の羞恥心を生んできた。そうしてこれが葉蔵の考える自分の「罪」である。

だが、周囲を偽りながらも、だれかに自分の真実、自分が芸術家であることを認めてほしかった。
そんなある日、主人公はこんな経験をする。
 その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。
「ワザ。ワザ」
 自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。
 それからの日々の、自分の不安と恐怖。


だが、一方で恐怖を覚えながら、他方で竹一こそ自分の真実の姿を認めてくれる存在なのかもしれない、そう思って、葉蔵は竹一に執着するようになる。親友のように竹一につきまとう。「彼が秘密を口走らないように監視していたい」と思う一方で、自分がわざと道化たことを見破った彼なら、自分が芸術家であると見抜いてくれるのではないか、と期待する。だからこそほかのだれにも見せなかった自分の絵、「これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ」という自画像を竹一に見せるのである。

そうして竹一から「お前は、偉い絵画きになる」という評価を得た段階で、主人公にとって竹一の存在は必要なくなる。
そこで竹一も作品から姿を消すのである。

(あしたは『人間失格』後編へ)

芸術家たち その2.

2007-03-29 22:36:17 | 
芸術家たち その2.

「奥深いところに棲み、猛々しい身ぶりで歩き回ることをやめない」もの、とくれば、当然浮かんでくるのが中島敦『山月記』である。
これはかつて高校の教科書に収録されていて、多くの日本人はこの作品に教科書でふれることになった。

『山月記』は青空文庫で読むことができるのだが、ここで簡単にこの作品を見ておこう。

隴西の李徴は若くして官吏に登用されるが、下吏に甘んじるよりは、と詩作に没頭するようになる。ところが文名は上がらず、生活は苦しくなり、半ば詩作をあきらめ、地方に下ることにする。ところが一年ほどして、行方不明になる。

狷介な李徴の唯一といっていいほどの友人に、袁さんがいた。その袁さんが旅に出て帰ろうとする道中に、虎が出るという。袁さんはそのまま旅を続けたのだが、やはり虎は出た。

その虎が「あぶないところだった」と繰りかえすのを聞いて、袁さんは李徴ではないか、と聞く。すると、「如何にも自分は隴西の李徴である」と虎は忍び泣きとともに答える。そこから李徴が虎になったいきさつが語られ、それでも一日のうち数時間は人間の心が返ってくる。そのときには詩作もする。その詩を聞いてほしい。そうして、一部でも後代に伝えてほしい。

虎になった李徴はさらにいう。
 何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

夜明けが近いことを知った李徴は、もうひとつ、妻子の行く末を頼み、消えていく。

学校ではこの作品を読んで、かならず「どうして李徴は虎になったのか」という問いをあげ、その答えとして、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」ということをあげることになっている。さらにはどうして「尊大な」「自尊心」ではなく、「臆病」なのか、「臆病」な「羞恥心」ではなく、「尊大」なのか、まで考えることを求められる。

自分のなかに才能がある、と頼みにする気持ちはあったが、もし自分がそれほどのものでなかったらどうしよう、と考えて、その才能をとことん磨いていこうとはしなかった。
だからこの自尊心は「臆病」なのである。
かといって、自分の才能に見切りをつけ、平凡な官吏として生きることもできなかった。だからこの「羞恥心」は「尊大」なのである。

ところでここでわたしは昔から疑問だったのだが、前半の「臆病な自尊心」はともかく、後半は、果たして「羞恥心」と呼べるものなのだろうか。
wikipedia で「羞恥心」の項目を見ると、このような記述がある。
羞恥心は、自我や自尊心の延長に有る概念で、恥となる行動をしてしまった場合に感じるものである。

いったい李徴はどういう「恥」となる行動をしてしまったのだろう。中島敦は「己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった」と書くのみで、これを「恥」の行動と考えることはちょっとむずかしい。
実際、「益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった」とは書いているのだが、「尊大な羞恥心」がどうなったかはふれられていない。

さて、この「羞恥心」ということを「恥」と分けて考察した本がある。作田啓一「羞恥の文学」(『仮構の感動』所収 筑摩書房)は太宰治の文学を「羞恥」をキーワードに読み解いた大変おもしろい評論なのだけれど、ここではこの本を参考にしながら、この部分をもう少し考えてみたい。

モデルを職業としている人が、裸になって、画室でモデルを勤めているという場合に、モデルは別にはじらいを感じないですね。しかし、その画家が自分に対して特別の関心を抱いている、というふうに思った瞬間、そのモデルは急に羞恥心に襲われる。それはなぜか、ということです。

 モデルとして画家に対している場合には、モデルは自分を眺める視線が普遍性という観点に立った視線であることを疑わない。つまり画家一般、モデル一般という普遍的な関係の枠の中で、画家とモデルという状況が設定されている。…しかし、突然そこに個別性の観点が入ってきて、画家がモデル一般に対して抱いている関心ではなくて、まさに特定の女性として自分を眺めているかもしれない、と思ったとたんに、当惑――「はにかみ」が起こってくる。つまり普遍的であるべき状況の中に、いきなり個別的なものが持ち込まれるというときの当惑ですね。

 それとちょうど反対の場合も起こり得るわけで、たとえば二人の男女が愛を語り合っているときに、ひょっとしたら相手は自分を誰かと比較しているのではないか、あるいは恋愛におちいっている人間はこのような状態になるのだ、ということを観察しているのではなかろうか、という想念がふと念頭に浮かぶと、突然羞恥心が起こってくる。…ですから「恥」の感情と区別される「はにかみ」というのは、普遍性と個別性という二つの視線が交錯する状況において起こってくる、というふうに考えることができます。
(作田啓一『仮構の感動』筑摩書房)

ここから作田は「日本の社会はその社会構造の点で、二重の視線が交錯する状況が非常に起こりやすい」とする。地方出身者が努力して立身出世する。そのとき、田舎という所属集団の観点から自分を見る視線と、都会という準拠集団の観点から自分を見る視線が交錯する。そこで、都会で同郷人と会うと、都会人風の気取りを見透かされたように感じて羞恥心を覚える。

 集団に所属するということと、安定した自画を持つということは両立しない、つまり集団に所属することは自我を失うことであるから、集団に完全にはまりこんでいる人は自我の弱い人である、同調性が強くて、自分自身を持たない人だけが集団に完全に埋没する、というような考え方がひろく広がっております。しかし私の考えでは事実はそれと反対であって、われわれが自分自身について持っている自信というものは、けっして自分一人でつくり上げたものではなく、安定した集団に依りかかっているから自身ができたのだ、ということだと思います。

 集団にしっかりと所属している人は、強い自信を持ちうる。そうでない人間は、いつも自分に対して自信を持つことができない。


これをもとに『山月記』のこの部分を読むならば、「羞恥心」の意味がよくわかってくる。李徴は、「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった」とあるように、詩人としての集団に依りかかることもできず、いっぽうで官吏としての集団に依りかかることもできなかった。

つまり詩人と官吏という二重の視線の交錯によって羞恥を覚え、さらには官吏である同僚に対してはことのほか詩人であろうとふるまうことによって、「羞恥心」を「尊大な」ものにしていったのだ。
結局この「羞恥心」は、官吏(生活者)のなかにあって、詩人(芸術家)であろうとした証しなのである。

それでも官吏として生きて行こうとした李徴は、「戸外で誰かが我が名を呼んでいる」のを聞く。それこそが、「奧深いところに棲み、猛々しい身ぶりで歩き回ることをやめない」もの、「心の底に咆哮するもの」(藤沢周平『溟い海』)が呼んだのではないか。
おまえはそれでいいのか。
それで生きられるのか。

そうして李徴は「心の底に咆哮するもの」を解き放ち、虎になったのである。

(この項つづく)


※インフルエンザは治ったんですが、どうも抵抗力が落ちていたみたいで、溶連菌に感染してしまいました。いわゆる扁桃腺炎というやつです。もうだいたい良くなったのはいいんですが、咳のしすぎでどうやら右の肋骨にヒビが入ったみたい。息をするだけで痛みます。背筋を伸ばして歩けない。背中を丸めてとぼとぼ歩いています(笑)。もー、咳をするとなると、一苦労。できるだけ響かない姿勢をとって、決死の思いで、そーっと咳をしています。ああ、なんてかわいそうなんだ。だれも言ってくれないから、自分で言おう。

芸術家たち その1.

2007-03-26 22:55:31 | 
芸術家たち その1.

小説には、音楽家、画家、もちろん作家など、さまざまな芸術家が登場する。
そうした芸術家は作品のなかでどんな役割を果たしているのだろうか。
描かれた芸術家を見ることで、わたしたちと文学や絵画、音楽などの関わりを、もういちど見直すことができるのではないか。

そういう観点から、描かれた芸術家を見てみたい。

1.なぜ描くか ~藤沢周平『溟い海』

この『溟い海』は藤沢周平が「オール讀物」で新人賞を受賞した、いわゆる「処女作」に当たる作品なのだが、それ以前から同人誌で研鑽を積んできた、四十三歳の作品でもあり、非常に緻密な作品である。

主人公は葛飾北斎。

舞台は1833年、北斎は七十三歳で、富岳三十六景で、衆目を驚かせたが、これも二年前に完結している。名前は売れたが、世間からは盛りは過ぎたとみなされるようになっている。

四十半ばから、憑かれたように耳目を驚かせるようなことをやってきた。
 音羽護国寺の境内で大達磨を描いた。本所合羽干場では馬、両国の回向院で布袋を描いた。評判を聞いて集まった人々が見まもる中で、百二十畳敷の紙をひろげた上に、藁箒で墨絵を描きあげるのである。米粒に、躍動する雀二羽を描いたのもその頃である。指先に隅をなすって描いたり、紙を横にして逆絵を描いたりもした。

 新兵衛は、それを香具師の啖呵にすぎないというのだ。北斎はそれを否定することが出来ない。現実に、そうして得た人気をテコにして、読本の挿絵を描いては第一人者という、評判と地位を手に入れた。効果的に、あくどくやったと自分でも思うことがある。

だが、人気取りだけではなかった。無名でいることに耐えられなかったばかりではない。
 月並みなものに爪を立てたくなるもの、世間をあッと言わせたいものが、北斎の中に動く。北斎ここにあり、そう叫びたがるものが、北斎の内部、奧深いところに棲み、猛々しい身ぶりで歩き回ることをやめない。

こうやって、北斎は「表皮を剥奪」し、「肉を削がれ」たような富士を描いていった。
そこに安藤広重の評判が聞こえてきた。大変な人気だという。北斎は気になってならないのだが、なかなかその版画を見ることができない。そこで弟子たちに聞いてみる。
「お前さん、東海道を見たってかい」
「はあ、見ました」…

「で、どんな風なのだ。お前たちがみた東海道を聞かせてもらおうか」
「あたしは、思ったより平凡な感じをうけましたが」
と、北渓が言った。
「思ったよりというのは、世間の評判ほどでない、という意味もありますが、絵そのものが。大体そういう感じでした」
「やはり風景か」
「ええ、風景です。東海道の宿場を、丁寧にひき写したもので、よくまとめてはありました。しかし、構図にしろ、色にしろ、あッと息を呑むような工夫はなかったです。たとえば、先生の富嶽のような、前人未踏といった感じのものは、一枚もないですな」

あるとき北斎は版元に呼ばれる。広重の東海道の初刷りが手に入ったから見に来ないか、と誘いを受けたのだ。そこで北斎は初めて広重に会う。もの静かな中年の男。慎重な話しぶり。ところが横顔に大きな黒子を見つける。「それは、広重の柔らかい物腰を裏切って、ひどく傲岸なものに見えた」。
広重が帰ったのちに、北斎はとうとう広重の版画を見ることができる。
 構図、手法、材料、色の平凡さは、疑い得ないのだ。…この平凡さの中に、広重は何かを隠していないか。大店の主人のような風貌が、目立たないところに、ほとんど獰猛な感じさえする黒子を隠していたように、だ。

 一枚の絵の前で、北斎はふと手を休めた。隠されている何も見えないことに、憑かれたのである。結局広重は、そこにある風景を素直に描いたにすぎないのだと思った。

 そう思ったとき、北斎の眼から、突然鱗が落ちた。

 まるで霧が退いて行くようだった。霧が退いて、その跡に、東海道がもつ平凡さの、ただならない全貌が浮かび上がってきたのである。

北斎は「東海道五十三次のうち蒲原」を見ながら、絵の中にふるひそやかな雪の音と一緒に、巨峰北斎が崩れていく音も一緒に聞いてしまう。

自分のところに来るはずだった注文が広重のところに回った、と聞いて、とうとう北斎は無頼の徒を雇うことにする。広重を襲撃させるのだ。
 若僧が、いい気になりやがって、と北斎は呟いたが、それは低いうなり声にしか聞こえなかった。

 木曾街道を、広重に描かせたくなかった。街道風景を描くことは、広重にとっては、故郷に帰るようなものだ。…

 なぶり殺しにされてたまるか、と北斎は思う。富嶽三十六景――その栄光は遠い。それは何といとおしく、遙かかなたにあることか。いまここに蹲っているのは、老醜の巨体だけだった。すでに、心の底に、暗く咆哮するものの気配を聞かなくなって久しい。

暗がりに潜んでいる北斎たちのところへ広重がやってくる。ところが目の前、月に照らされた広重の表情は暗い。このあいだ、版元で見た柔和な気色は影も形もない。
「やめた」
 と、北斎は応えた。何かが脱落し、心はほとんど和らいでいた。渋面をつくりやがって、と思った。正視を憚るようだった。陰惨な表情。その中身は勿論知るよしもない。ただこうは言えた。絵には係わりがない。そこにはもっと異質な、生の人間の打ちひしがれた顔があった、と。言えばそれは、人生である時絶望的に躓き、回復不可能のその深傷を、隠して生きている者の顔だったのだ。北斎の七十年の人生が、そう証言していた。

広重を襲うことをやめた北斎だったが、金の持ち合わせがなかったために、逆にならず者たちに殴る蹴るの暴行を受ける。なんとか杖を頼りに家に戻った北斎は、手と顔の血を洗い流し、やりかけの仕事を始めるところで、この短編は終わる。


この画家の「奧深いところに棲み、猛々しい身ぶりで歩き回ることをやめない」もの、「心の底に咆哮するもの」について、もう少し考えてみよう。

(この項つづく)

窓の向こう

2007-03-25 22:24:26 | weblog
学生の頃、夜、電車に乗ってバイト先から帰っているとき、沿線の家々から洩れてくる明かりを見ては、あの窓の向こうに生活があるのだ、と思っていた。

高層住宅も、電車から見えるのが玄関の側だったりすると、そこに見える光景はよそ行きの顔だ。ついている明かりも、廊下に規則的に並ぶ、青白い蛍光灯である。
それが、玄関とは反対側の窓だと、明かりの色もさまざま、カーテンの色を通していたり、人影が映ったり、TVの青い明かりがチラチラと瞬いていたりもする。

冬の水蒸気で曇った窓の向こう、電灯のあるとおぼしいあたりだけがくっきりと明るく、あとはぼおっとしている向こうはひどく暖かそうで、自分がこれから帰っていく、まっ暗い窓を思ったりもした。

その向こうでの生活は、さまざまにあるだろう。
『アンナ・カレーニナ』にはあの有名すぎる冒頭の一文
幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はそれぞれにその不幸の様を異にしているものだ。

があるけれど、似ているといえば、幸福であれ不幸であれ似ているだろうし、それぞれにちがうといえば、幸福も、不幸も、それぞれにちがうものであるのにちがいない。どこから見るか、その見る位置によって、同じにも、ちがうふうにも見えるのだ。いっそ、人間の幸福も不幸も、たいしてちがいがありはしない、というような視点の置き方だってあるだろう。

ベランダでもみ合っているカップルを見かけたことがある。たぶん、夏だったのだろう、ランニングシャツ姿の男が、同じように薄着の、髪をふりみだした女の両手首をつかんでいた。電車で過ぎていくほんの一瞬のことだったが、胸を衝かれ、どうなったか後々までひどく気になった。

閉め出されたのか、窓ガラスを叩いて泣いているらしい子供の姿を見たときは、他人事ながら、危ないと思ったものだ。

いつ見ても、ベランダに出した椅子に腰かけて、タバコを吸っているおじいさんもいた。暗い中、少し低い位置でかすかに揺れる火は、赤い蛍のようにも見えた。

いまわたしは、夜に帰ってくると、明かりをつけ、それからカーテンを閉める。
外の夜を閉めだし、しっかりと戸締まりをするのだ。
そうすると、部屋の中がほんとうの夜らしくなってくる。
カーテンの向こうで電車が走り抜ける音がする。その中に、わたしの窓を見上げて、あそこに生活がある、と思っている人はいるだろうか。


(※明日から新しいことをたぶん始めると思います)

サイト更新しました

2007-03-24 22:38:23 | weblog
先日までここで連載していたウィラ・キャザーの短編「ポールの場合」、大幅に修正してサイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

わたしがこの作品を初めて読んだのは、作中のポールとそれほど歳のちがわない時期でした。
ふだん本を読んであまり感情移入ということはしないのですが、この作品はいつまでも「どうしてそうなったのだろう」「どうしてポールはこうするしかなかったのだろう」と、繰りかえし、考えたものでした。

自分がこう見られたくて、嘘をつく。
ありのままの自分を認められなくて、嘘をつく。
それはポールではなく、わたしがやってきたことそのものだったから、ポールの気持ちは痛いほどによくわかりました。

これを訳すために久しぶりに読み返してみて、何か、自分がきわどいところで難を逃れたような気がします。それはわたしが何かしたというより、たまたま出会うべき時に出会うべき人に逢えたのだ、という、それだけでしかなかったように思います。

さまざまな巡り合わせで、いろんなことが起こっていく。
やはりその不思議さは、おりにふれて思わずにはいられません。

それにしてもきつい翻訳でした。
まだ微妙に気に入らない。しばらくはちょこちょこと手を入れていきましょう。
ともかくつぎのネタも考えなきゃいけないし、書きっぱなしのネタもなんとかしなきゃいけない。
ただもういまは眠くて頭がまわりません。

またお暇なときでも読んでみてください。
これから隠し持つハーゲンダッツ抹茶アイスクリームでも食べることにしましょう。

ということで、それじゃ、また。


始発電車の話

2007-03-23 22:12:20 | weblog
いまではたいてい始発電車が走り出すずいぶん前に起き出しているので、寝床の中で始発電車の音を聞くこともなくなった。だが、始発の音を目覚まし代わりにしているころもあった。

初夏ならばすでに薄明るくはなっているけれど、それ以外の季節ならまだ暗い、冬であれば空はまだ深夜と変わらない五時台に、始発電車は走り始める。

ほかに音といえば新聞配達のバイクが聞こえるぐらい、それも配達がひとわたり終わってしまうと、あたりはふたたび静まりかえる。
そこへシャーシャーという高い金属をこすりあわせるような音が遠くから聞こえてきたかと思うと、あっという間に轟音となり、それが一瞬で通り過ぎ、また金属音だけがしばらく残っていく。最初から音が消えるまで、ほんの数秒の出来事なのだが、あたりが静かなぶんよけいに、始発電車はいつも、ひどく長いあいだ聞こえているように思うのだ。

暗いなか、煌々と灯りをつけて走る始発電車を、ベランダから見ることもある。満員の通勤電車は、人影で外に灯りも洩れ出さないほどなのだが、ひとけのない始発の車両はひときわあかるく、内部が浮きあがったようにはっきり見える。
黄色い電灯に照らされた車内は、朝の空気というより、まだ昨夜の人の疲れた息や酒の残り香が残っているのではないか、というような気さえする。

始発が通っていったあと、しばらくしてから、今度は逆方向に電車が走り始める。それにはもう少し人が乗っているから、どこか早く始まる職場があるのかもしれない。人の乗る車両は、新しい日の始まりにふさわしく、もはや夜更けの名残はどこにも感じられない。
それが過ぎると次第に電車と電車の間隔はつまってきて、七時台になると、音はひっきりなしになる。

以前住んでいたところも同じように線路が近かった。
夏になれば窓をあけると電車の音がやかましく、電話のときなどは「聞こえない、ちょっと待って」と中断しなければならないほどだった。

ある年、地震があった。阪神淡路大震災である。
それまで震度3から4程度の地震なら慣れっこで、怖いとさえ思ったことがなかったのに、そこまで大きな地震を味わってみると、ちょっと強めの余震があっただけで、全身が硬直してしまうような怖さを感じた。
TVでは直線距離にしてどれほども離れていないところで拡がる大惨事を映し出し、頭上で響くヘリコプターの音が、この世のものとも思われないような神戸の光景が、いまいる場所の地続きであることを思いださせた。

そのころ、線路を保線工事の人たちが点検しながら歩いていくのを見た。数人が少しずつ、少しずつ、あちらこちらを丁寧に確かめていくのが見えた。それからどのくらいたってからだろう、耳慣れた電車の音が聞こえてきたのだった。

そのときに、初めて気がついた。
自分がその日の朝からずっと覚えていた違和感のひとつは、それまで、自分の生活のなかに織りこまれていた電車の音が聞こえてこないことだったのだ。

電車が走る。
電車の音が聞こえる。
当たり前の尊さのようなものを、わたしはそのときに感じた。
おそらく午後だったのだろうが、それがその日の始発電車ではなかったか。


いつか、始発に乗ってみたい。
始発に乗って、自分の部屋の窓を見上げてみたい。
わたしが見ている場所は、電車のなかからどんなふうに見えるのだろう。
そのときは、部屋の電灯は忘れないでつけておかなくては。



(※いやもう「ポールの場合」大変です。なんでこんなに訳しにくいんだろう、って、もういやになっちゃいます。だけど、やーっと終わりが見えてきた。たぶん明日にはアップできると思います)

歳を取った話

2007-03-22 22:49:27 | weblog
よく言われる話に、高校野球を見ていて、子供の頃は大人がやっていると思っていたのに、いつのまにか自分と同年代となり、やがて年下になり、そのうちに子供がやっていると思うようになる、そういうときに「歳を取った」と実感する、というものがある。

高校野球をまともに見たことがないわたしでも、それが意味するところはよくわかる。

『あしながおじさん』をわたしが初めて読んだのは小学校の低学年ではなかったかと思うのだが、主人公のジュディを女子大生、と意識はしなかったように思うのだ。自分より、少し年上のおねえさん、というぐらいの感覚だった。
彼女が女子大の寮に入って、部屋を飾ったり、いろんな本を読んだり勉強したりする。それが自分の延長にあるようで、読んでいて実に楽しかったのだ。

ところがそれが最後に「あしながおじさん」と結ばれるのだ!
もちろんこの「おじさん」は、当初ジュディが思っているような老人ではなく、三十代半ばの社会改良家(?)なのだが、当時のわたしには、「初老の評議員」と「三十代半ばの社会改良家」の区別など、ロクにつかなかったのだ。
「皺をのばしてさしあげる」という記述があるくらいだから、そんな皺があるような年代のおじさんと一緒になるなんて!
これにはかなりショックを受けた。

だが、いまのわたしから見れば、三十代半ばの男性が、大学を卒業して間もない女の子と結婚しようが、まったく違和感を覚えることはない。なんでそんなに「年寄り」に感じてしまったか、当時の自分の感覚のほうが「子供」だったんだなあ、と、感慨を覚えてしまうのだ。

わたしが初めて人を教えたのは二十歳のときで、あいては小学校五年生の子だった。のちにその子のお母さんと電車の中でばったり会ったとき、はっきりと記憶にあるそのお母さんの横で、照れくさそうな顔をしているスーツ姿の青年が、かつての小学生だ、ということに気がついたときほど、自分の年齢を強烈に感じたことはない。自分の中では二十歳のときなんてついこのあいだのような気がするのに、あれから11年もたっていたのだった。

記憶の中の時間、物語の時間、時間というのはそれぞれに「場」を持つのである。

以来、しばらくぶりに会うかつての「子供」が、どれほど大人になっていても、びっくりするのはやめてしまおうと決めたのだ。

ところで、近所にもついこのあいだ子供で、わたしが頼まれて英語を教えてやっていた子がいたのだけれど、その子が下の駐車場でバイクにもたれてタバコを吸っていた。
こちらを照れくさそうにちらりと横目で見やったきり、挨拶もしてこない。
ついこのあいだ中学生だったのになあ、と思いながら、わたしはつらつら考えてみた。

…英語、教えてやったの、たった二年前じゃん。

復帰のお知らせ

2007-03-21 22:36:05 | weblog
おひさしぶりです。
まだ頭がふらふらする感じとか、節々の痛みとか、しつこい咳とかは残っているのですが、今日からなんとか普通の生活に戻ることができました。

気にかけてくださったかた、どうもありがとうございました。

土曜日の朝、病院に行って検査をしたらやはりインフルエンザということがわかったんです。
そのときに、お医者さんから、タミフルが原因かどうかは不明だけれどかくかくしかじかの事故がいくつか報告されているんです、ただ、××さんぐらいの年代の人は、ほとんど関係ないといっていいでしょう、で、タミフルどうします? と聞かれました。

どうもこのところ何年も連続してインフルエンザに罹って、三年前ぐらいから飲んでいるわたしの感覚だと、ああ、タミフル、飲んで良かったなあ、という実感がないんです。せいぜい一日短くなるぐらいかなー、という感じ。熱だってそれほど変わらないし、劇的な効果というのがよくわからない(もちろん人によってちがいがあるんでしょうが)。
そういうことをお医者さんに言いました。
そしたらお医者さんも、確かに期間が短くなるといっても24時間ぐらいですね、という。
じゃ、そのぐらいだったらいいです、必要ありません、といって、タミフルはもらわず、アレルギー関係の薬と、二次感染を抑えるための抗生物質だけもらって帰ってきました。

もういったん病気になってしまったら、あきらめて、良くなるのをひたすら待ちながら、延々と眠り続けるしかできることはありません。
だから、まあよく寝ました。

でもやはり病気の効用はあるのだな、と思いました。
こんな機会でもなかったら、そこまで思いっきり体を休めるということもないわけです。

わたしたちはある種の症状が出ると、たとえば熱とか、痛みとか、吐き気とか、どうしてもそこばっかりが気になって、それをなんとか解消しようと思ってしまうのだけれど、体がその症状を出すことを必要としているから、という側面があると思うんです。
だから、その症状を出す必要がある期間というのは受け入れなきゃいけないんじゃないか。
そんなことを思ったりしました。
もちろんそれはいちがいに言えることではないのでしょうが。

寝ていると、ベランダで「ピーヤー、ピーヤー」と鳴く声が聞こえてきました。
見るとナツメの細い枝(直径1cmもないぐらいです)にヒヨドリが止まっている。細い枝が折れそうにしなっています。もう一羽のヒヨドリは、ベランダの手すりに止まり、なんとなく心配そうにもう一羽を見ている。
どうやら新居を探しに来たヒヨドリのカップルみたいでした。
いくら大きくなったといっても、鉢植えのナツメですから、巣を作るにはどう考えてもムリがあるんですが、ヒヨドリの片方はえらく気に入ったようで、しきりに枝を移っていました。

インフルエンザにならなかったら、こんなに近くで長いこと見ることもできなかったなあ、なんて思いました。

ということで、またよろしく。
休んでいるあいだ、のぞきにきてくださったかた、ごめんなさい。
これからまた書いていきますので、遊びに来てくださいね。