陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

記憶の話

2006-04-30 22:03:17 | weblog
わたしは昔は記憶力が良かった。
昔は、と書いてしまうのも、いまでは見る影もないからである。

いまでも、本を読んだりして、ここはポイントだな、と思ったり、使えるな、と思ったりする。そうするところは迷わずポストイットをはりつけておくのだけれど、それはほとんどの場合、正確に引用するために必要なだけで、頭に刻んでおいた内容を忘れるということはない。

ところが、アパートの断水の日時とか、古紙回収とか、あるいはどうでもいい(と判断をくだすのは、当然わたしである)用事や集まりの日時、これはもう、気持ちがいいくらい忘れる。そんなこともあったな、と思うのはまだいいほうで、聞いたことすら忘れてしまうこともある。最近では、その通知を見た段階で、これは忘れそうだ、とだいたい見当がつくので、気をつけておかなくては、と、カレンダーに印をつけ、冷蔵庫の前に貼り、携帯のカレンダーにもマーキングしておくのだが、それでも忘れる。あとかたもなく、忘れる。朝、出かける前にカレンダーを見て、そのことを確認していたとしても、その時間が来る頃にはきれいさっぱり忘れていることも少なくないし、冷蔵庫の前のピンナップは、じつはわたしのコレクションなので(含嘘)、肝心なとき肝心なものは決して目に入らない仕組みになっている。携帯は、日常的に見るという習慣がないので、実はほとんど意味がない。

先日、フリーマーケットに初めて参加する、という友人が、仕事は休みなんでしょ、絶対来てね、と言ってきた。聞いた段階で、ああ、これは忘れるな、と思ったわたしは、当日もう一度電話してね、と頼んでおいた。当日、すっかり忘れて日が暮れて、夜になって電話が鳴った瞬間に、はっと思い出した。わたしは彼女から電話を受けて(案の定忘れていたのだけれど、何かあるような気がして、早めにその日の雑用はすませていた)、家を出たところで、そういえば図書館に行かなくちゃいけなかったんだ、と気が変わって、図書館で本を借りて、読み出したら『猫の大虐殺』が大変おもしろかったので、そのまま続けて読んでしまって、あ、そうだ、「ジュリア」の翻訳も手を入れなくちゃ、と翻訳の手入れを初めて、やりだしたらちょっとのつもりが大変な作業になってしまって、気がついたら日が暮れていたのだ。受話器を取りあげ、向こうの声を聞く前に「あー、ごめん、ほんとうにごめん」と謝ったら、とりあえず許してくれた(のだと思う)。ただ、これでもうわたしをフリーマーケットには誘おうとは思わないだろう。それがお互いの平和でもあると思うのである。

最初に、昔は記憶力が良かった、と書いたけれど、なんでもかんでも記憶するのが得意だったわけではない。試験前の一夜漬けなどうまくいったためしがないのだ。

ところがうちの弟は、教科書をひととおり眺めただけで、世界史の年代だろうがややこしい地名だろうが、あるいは英単語だろうが熟語だろうが、端から覚えてしまっていた。
そんなことができるわけがない、と思って、教科書をもとにわたしが質問をしてみる。ほんとうに、全部覚えているのである。

そういう芸当はからきしダメで、一生懸命覚えても覚えても年代にしても王位にしても歴代内閣にしても、ちっとも頭に残っていかないわたしはものすごく悔しく、かつ、うらやましかった(だから結局世界史も日本史もやらなかった。そうして、歴史的常識の欠如に後に泣かされるのである)
ところが弟によると、そんなふうにして覚えた記憶は、試験が終わると、そのまま抜けてしまうのだという。興味があることは別だけれど(彼は小さいころから奇妙な響きの名前や地名をメモ帳にびっしりとコレクションしていた)、試験のために覚えたことは、試験が終わると白紙に戻る。そうしてまたつぎの試験の時には覚えなおさなければならないのだ、と。

それでもわたしからすれば十分にうらやましかったが、いっぽう、わたしが強かったのは、語句や年代ではなく記述のほうである。本であろうが雑誌であろうが新聞であろうが、たいていのことは一度読んだら確実に頭のなかにストックされ、普段、記憶に留めていると意識することがなくても、何かを聞いたら、あ、それはあのとき~で読んだ、と取り出すことができたのだ――ああ、いま書きながら、大変虚しい思いに襲われている。もうこんなことを書くのはよそう。悲しい気持ちになるだけだ。

やはり三十を過ぎたあたりだろうか、意識が途切れると、ふっと忘れてしまうようになった。とくに、イレギュラーな事態がヨワイ。いつもひとりでやっていることに、たまに同行者ができると、いっしょに来たことを忘れてひとりで帰ってしまう。臨時に場所が変更になったりすると、知っていたはずなのに、いつもの場所に出向いてしまう。自分の携帯の電話番号はもちろん覚えていない(五年以上使っているのに)。買い物のためにメモを書いても、そのメモを持っていくのさえ忘れてしまう。自転車置き場の一体どこに自転車を置いたか、毎日のようにわけがわからなくなって、うろうろと探し回ってしまう。
読んだことをいまのように記憶していられるのも、いつまでだろう、と思うと、不安になってしまう。

最近、寝る前に、小説に出てくるさまざまな登場人物の名前を、できるだけ詳しく思い出してみている。
『鳩の翼』に出てくるのは、まずケイト・クロイ、伯母のモード、ケイトの恋人がマートン・デンシャー、アメリカ人娘がミリー・シール、ケイトの父親の名前はなんだっけ……。

眠れないときは『戦争と平和』をやってみよう、と思っているのだが、たいていのとき大変寝付きがよいわたしは、未だそれは試したことがない。六人以上思い出せるかどうかが不安この上ない今日この頃である。

ダイアン・アーバスの写真に対する補筆 その4.

2006-04-29 22:52:15 | 

アネットは、描かれた題材が好きか嫌いかによって絵の好き嫌いが決まるという、一般人の大多数を占める人々に属していた。(P.G.ウッドハウス『階上の男』私訳)

ときに、抽象画がわからない、という人がいる。そういう人は、具象画ならわかるのだろうか。
たとえばゴッホの『黄色い家』は確かに「黄色い家」を描いているのかもしれない。けれども、あの奇妙な色の空、家より濃く塗り込められ、遠近法を無視して前にせり出してくる「空」はどういう意味があるのだろう? さらに、画面左下方と右中央にある土の固まりのようなものは一体何なのか? 

抽象画がわからない、という人は、単に「何が描いてあるかわからない」から「わからない」と言っているだけにすぎない。「何が描いてある」かわかったら、わかったと言えるのか。ウッドハウスの『階上の男』のアネットのように、描かれた題材が好きなら、その絵が好き、何が描いてあるかわからなければ、わからないからきらい、というのだろうか。
絵は、好きか、きらいか、しかないのだろうか?

写真を見るわたしたちは、写真を抽象画のように「わからない」とは決して思うことはない。なにを写したものであるか、まずほとんどの場合、理解できる。
だから、多くの場合、わたしたちの意識は写真をすり抜け「そこに何があるか」に向かい、写真そのものを見ようとはしない。せいぜい被写体がわかりやすく写っているのを見て「よく撮れている」と思うだけだろう。きれいなものを、美しく撮っているから「好き」。好きな人を写しているから、「好き」。

絵にしても、写真にしても、そうやって「好き」「きらい」という以上のアプローチの仕方があるはずだ。
見て、考える。理解したいと思う。その奥に物語を探すのではなく、絵を、写真を「読む」。そういうアプローチの仕方があるのではないか。

報道写真家でもあった名取洋之助は『写真の読み方』(岩波新書)のなかで、写真の読み方は無限にある、「読む人の経験、感情、興味によって、同じ写真でも、解釈が違い、受け取り方に差がある」、という。

 写真は文字と同様、記号であるといえます。記号という言葉は「物」の実体ではなく、その代理をするもののことをいうのですが、たとえ肖像写真を見せられた土人が、それを実物と勘ちがいしてひじょうに驚いたというような話が事実であるとしても、写真がこの定義にあてはまる記号であることは確かです。

 それでは記号としての文字と、記号としての写真との大きな違いはなにか。それは文字は実物と関係ないが、写真は実物とひじょうに密接な関係があるということです。……写真と実物とは、いつもある決った幾何学的な関係で対応しています。

 これに対して文字の場合、こういう一定の対応はありません。…写真の特質の一つとして、「犬」というような抽象的な概念を与えにくいということがあげられるのも、写真が「物」に忠実な記号であり、抽象化されていない記号だからでもあります。

 このことはまた、写真は感情的反応をひきおこしやすい記号だということでもあります。……

 写真はまた、ひじょうに感覚的に理解される記号です。私たちは写真を見て、知的に理解するよりも、感覚的に理解することが多いのです。……

 知的な理解に頼らず、感覚的な理解に頼る記号では、当然のことながら、その記号の内容が過去に経験したことを思いださせる場合に、より強烈な反応を呼び起こします。過去の経験によって、写真を見て得たイメージを、発展させることができるからです。

 これは逆な言い方をすれば、共通の経験のない人に、同じ写真で同じ反応を起こさせることがむずかしいということにもなります。……

 その意味で、もっとも感情的反応を起こしやすいのは人間の写真です。私たちがいろいろな感情を体験するのは、大部分、対人関係においてですし、それは日本人であろうと外国人であろうと、共通に経験していることです。

感情的反応を引き起こしやすい「写真」。とくに人間を被写体に選んだ写真。
わたしたちはここから、写真を「読む」ということを、始めていけるのではないだろうか。

* * *

わたしが写真を見るようになった頃、最初に目に止まったのがアーバスの写真だった。
アーバスの写真は、ほかの写真と非常にちがっていた。
まるで署名でもしてあるかのように、アーバスの写真は一目でわかったし、見間違いようがなかった。

どうしてこの人はこんな写真を撮るのだろう?

わたしの興味は、写真を超えて、アーバスにまっすぐ向かっていった。
そうして、評伝を読み、わたしの知ったアーバスをまとめたのが、前の文章だ。

それからのち、さまざまな本を読み、ほかの写真家の写真を見、「写真の読み方」を少しずつ(いまのところはまだほんの少し)理解するようになった。

アーバスの写真には、わたしの「知りたい」と思うものがある。
普段、見てはいけない、とわたしたちの眼から隠されているもの。
「差別」という禁忌。

アーバスはメリーランドのサーカスのなかに入っていき、人間針刺しや入れ墨をした男、白子の剣呑みなどの写真を撮った。日本でも、戦前までは大道芸として、あるいは見せ物小屋、という形で、特殊な芸を見せてお金を取るようなことを昔からしていた。
だが、いまの日本では、そのようなものは「差別的である」として、見ることができなくなってしまった。

中世の琵琶法師の論考のなかで、赤坂憲雄は琵琶法師を「堺の神」と位置づける。

神異を顕わす人々は多くは疾病や〈不具〉を負い賤形に身をやつしていた。そこでの疾病・〈不具〉・賤形などは聖なる痕(スティグマ)であり、神と人との仲介者たる表徴または資格であった。換言すれば、種々のレヴェルにおける〈異常性〉――障害・欠損・過剰などをそなえた〈異人〉は、それを聖痕(スティグマ)として、神に遣わされし者・神を背負いし者・神に近き者へと聖別されたのである。そうした神と人間という二つの範疇(カテゴリー)に相またがり、“媒介の様式を体現する”存在は、〈聖なるもの〉としてこの上なく厳しい禁忌の対象とされた。その際、かれらが共同体の側から怖れと敬いの混淆した両義的心体をもって迎えられたことは、あらためて繰りかえすまでもない。
(赤坂憲雄『境界の発生』 講談社学術文庫)


これを単純にスライドさせて考えることは危険なのかもしれない。
それでも、そうした人々や芸を見ながら、人は偽善や自己満足しか感じなかったのだろうか。むしろ、聖なるもの、啓示的なもの、そうしてその不思議を見てとったのではあるまいか。
ふつうのもの、標準的なものを見ても、人は驚かない。自分の知っていることをなぞるだけだ。けれども通常ではないものを見て、驚き、感嘆する。それは自分の認識を揺るがす。

差別、というのは、具体的な接触があるところでしか、感じたり、考えたりできないのではないか。具体的にふれあい、言葉を交わすなかで、思いやったり、理解することであって、こういうときにはこうすべき、こういう人にはこうすべき、と、パターン認識するものではない。「差別はよくない」として、自分の感情のなかのある種の部分を封じこめ、ふたをしてなかったことにするほうが、よほど問題の根を深くしているのではないのか。


アーバスの写真を見る。
アーバスの前で、くつろぎ、「ありのまま」でこちらを見返す人を見る。
写真のなかに、アーバスの眼の痕跡を探す。
そうすることで、わたしは揺らいでいく。


(この項終わり)

ダイアン・アーバスの写真に対する補筆 その3.

2006-04-28 22:49:17 | 

 アーバスの作品でもっとも心を打つ面は、彼女が芸術写真の一番迫力のある計画のひとつ――犠牲者や不運なものに眼を向けること、しかしこういう計画につきものの同情を惹く目的ではなくて――に参入したらしいということである。彼女の作品は、嫌悪感も与えるが哀れな痛ましい人たちを見せる。だからといって同情心をかきたてることはいささかもない。彼女の写真の突き放した視点についてはもっと正確な言い方があろうが、そのための率直さと、被写体への感傷を交えない感情移入を称揚されてきたのである。実際は彼女の写真の一般人への攻撃であるものが道徳的な完成として扱われてきた。つまり、彼女の写真は見る者が被写体から疎遠でいることを許さないということである。
スーザン・ソンタグ『写真論』(晶文社)


アーバスの写真では、被写体はたいていまっすぐにこちらを見ている。落ち着いて、くつろいだ、ありのままのようすでこちらを見返している。
さらにソンタグはこのようにも言っている。

彼女の写真を見る人はたいてい、こういう人たち、遺伝学的な変種であるだけでなく性的下層社会の市民たち、は不幸だろうと即座に想像するものだが、写真のなかで実際に心痛をおもてに出しているものはほとんどない。…たいがい明るく、開きなおって、ありのままに示されている。苦痛は正常人のポートレートの方が読みとりやすい。公園のベンチで言い争っている年配の夫婦、思い出の犬と家で暮らすニューオーリンズの女バーテンダー、セントラルパークで玩具の手榴弾をにぎった男の子。


「通りでだれかを見かけるとします。その際目につくのは本質的には欠点なのです」とアーバスは書いている。

わたしはここでこんな話を思い出す。いわゆる「美人」と呼ばれる顔はその時代、その地域の平均的な顔である、という。
反面、「個性的」と形容される顔は、美人ではない女性に対するもの、とたいてい相場は決まっている。つまり個性というのは標準、平均からはみ出したものだ。アーバスが目を留める「欠点」とは、この「個性」の別の言い方なのだ。

わたしたちは「個性」という言葉を多くの場合、肯定的なものととらえている。
最近では「個性を伸ばす教育」などというスローガンさえも言われている。
けれども、この個性というのは、本来的には標準には到らない部分、あるいは、極端に過剰である部分、「欠点」「欠陥」としてあるものではないのだろうか。「欠点」「欠陥」を肯定的に位置づけるときの呼び方が「個性」という、単にそれだけのことなのではないのだろうか。

ある程度の差こそあれ、この欠陥はだれもが抱えている。
そうして、アーバスはこの「欠陥」に目を留める。

ここでもう一度、写真を見る、ということを考えてみる。


 家族や他の集団の一員と考えられる個人の業績を記念することが、写真の最初の一般的な利用の仕方である。というのは少なくとも一世紀にわたって、結婚写真はお定(きま)りの式辞と並んで式の一部になってきたからである。カメラは生活とともにある。フランスでおこなわれたある社会学の調査によれば、大部分の家庭がカメラを一台はもっているが、子供のいる家庭が少なくとも一台のカメラを持つ比率は、子供のいない家庭の二倍である。子供の写真を撮らないということは、とくに子供が小さいときは、親の無関心の表われであり、卒業写真に出ないことが思春期の反抗のゼスチャーであるのと同じである。


プロの写真家による写真と、アマチュアの写真はどこがどうちがうのだろうか。
googleで"family portrait"で検索してみる。
おびただしい家族の写真を見ることができる。
けれども、その写真はおもしろくない。
あるいは、他人の家族の写真や旅行に行った写真、学生時代の写真など、知っている人がほとんどいない写真を見せられて、退屈した経験はないだろうか。
それは、そうした写真が、私的な記録、個人を離れたところでは意味を持たない記録でしかないからではないだろうか。

それに対して、写真家による写真を見ることの意味がまぎれもなくあるはずだ。
たとえ被写体を知らなくても、あるいはその場所や風景を実際には見たこともなくても、深く揺り動かされる写真。
見ることによって、自分の見方そのものが変わってしまうような写真。
それが写真を見る、という経験だ。
(明日最終回)

ダイアン・アーバスの写真に対する補筆 その2.

2006-04-27 22:18:56 | 
2.アーバスの写真を見てみる

さて、ここでほかの写真と比べながら、アーバスの写真の特徴を探ってみよう。

右はアーバスの〈ベッドルームの三つ子、ニュージャージー〉(1963)である。
三つ子は三人ともこちらにしっかりと目を向けている。意識的に表情を作ることはしていないけれど、緊張した印象はない。
http://robthurman.com/images/arbus.jpg



左はウォーカー・エヴァンスの〈地下鉄〉(1938)
エヴァンスはニューヨークの地下鉄で隠しカメラを使い、乗客の姿を盗み撮りした。撮られていることを知らない人々の表情に浮かび上がる「素」を浮かび上がらせたのである。当然、写された人々はこちらを向いていない。

http://www.tfaoi.com/am/8am/8am318.jpg




さらにこれはユージーン・スミス〈カントリー・ドクター〉(1948)
スミスは地方の医者につきそい、その仕事の様子を一種のストーリーのように記録していった。
この写真は特に、一枚だけでも物語を感じることができる。
http://cafdes2004.free.fr/photos/smith_country_doctor_surgery.jpg

こうやってほかの写真家の写真と見比べてみると、アーバスの写真の特徴が浮かび上がってこないだろうか。

エヴァンスの写真が「だれでもない地下鉄の乗客」を撮っているのに対し、こちらを向いた三つ子はほかのだれでもない「ニュージャージーの三つ子」である。
それだけではなく、それを撮った写真家の存在も、感じずにはいられないのではないだろうか。
笑うわけでもない、緊張しているわけでもない、この三人の視線の先にいるアーバス。

アーバスの写真には「物語」はない。地下鉄の乗客よりも、三つ子の写真は情報が遮断されている。わたしたちにわかるのは、奇妙な模様の後ろの布と、三人が三つ子であることを強調するかのような、同じ髪型と服装であること、つまりは三つ子である、ということしかわからない。

一切のフィクションを排しているから、スミスの写真に比べると、単純にわかることはできない。
けれども、この三つ子を、不思議に知ったような気がする。そうして、さらに、もっと知りたくはならないだろうか。

そうして、もうひとつ、三つ子の写真を見ながら、それを撮った写真家の存在を感じる。笑いもしない、緊張もしない、けれども三人の目の先にいるのは、間違いなく写真家アーバスだ。

アーバスは言う。「小人であるというのはどういうことか私にはわからない。しかし小人であるということはどういうことか、それはわかる」(ボズワース『炎のごとく』)

アーバスの写真を見るとき、わたしは「どういうことか、それはわかる」と思ったアーバスを通して、「どういうことか」わかるような気がする。

それがアーバスの写真であると言えるのではないだろうか。

(この項つづく)

ダイアン・アーバスの写真に対する補筆 その1.

2006-04-26 22:51:18 | 
以前、パトリシア・ボズワース『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』(名谷一郎訳 文藝春秋)の本を元に、写真家のダイアン・アーバスについての小文を書いた。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/arbus.html

このときは評伝をもとに、自分が惹かれたアーバスの言葉を紹介したいと思ったのだ。けれども、アーバスの写真についてはふれることができなかった。そのことがずっと心残りで、もっと写真にアプローチできないものだろうか、と折にふれて考えてきた。

ここで、もういちど、アーバスの写真について書いてみたい。

http://www.vam.ac.uk/vastatic/microsites/1355_diane_arbus/exhibition.php
(※リンク先参考画像:アーバスの写真〈白子の剣の呑み込み〉)

この写真はおもしろい。
まず、これは被写体の剣を呑み込む人が楽しんでポーズをつけているのがわかる。
自分の「芸」を見て欲しい。
アーバスは、言葉を交わし、この女性のことを知りたいと願い、賛嘆している。

アーバスの写真が、ある種の人々の嫌悪感をかきたてるのは、想像に難くない。
「差別はいけないこと」と思っている人は、まず絶対にアーバスを認めないだろう。

わたしたちは、異形の人々に惹かれる。
不思議なことができる人々に惹かれる。
おそらく、これは同根の感情だ。
おもしろい、と思う。なんでおもしろいのかよくわからないけれど、おもしろいのだ。だからもっとよく見たい。

もちろん、おもしろく感じない人もいるのだろう。そういう人は、おそらく知りたくないのだ。

思い遣り、というのは、基本的には、想像力の問題だ。
どういうことかというと、実際に人間と人間の具体的なつきあいのなかでしか生まれないものだし、理解もできない。事前にシミュレーションできるものでもないし、覚えておけるものでもない。こういうときにこうしたらいい、なんてことがあらかじめ決まっていることでは断じてないのだ。
想像力を働かせることができない人間が、ノウハウとして覚えている「思い遣り」なんて、結局は優越感を強化するものとしてしか働かないのだ。
差別はよくない、と繰りかえし教えられて、学ぶものがあるとしたら、それは、そういう人はかわいそう(裏返しとしての、自分の優越感)、自分はそうじゃなくて良かったという満足でしかない。

知りたいと思う。見たいと思う。不思議だと思う。
アーバスのこの写真は、「差別はよくない」という標語による思考停止を揺さぶるものはないだろうか。

(この項つづく)

サイト更新しました

2006-04-25 21:49:17 | weblog
先日までここで連載していたリリアン・ヘルマン「ジュリア」、手を入れてサイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/
『ペンティメント』に所収されている「亀」を訳したときから、「ジュリア」はやってみたかったのです。長い分、大変でしたが、なんとか最後まで息切れしないで行くことができました。よかったよかった。

ところでこの中にはさまざまな有名人が出てくるのですが、すでに訳したジェイムズ・サーバーのほかにも、ゆくゆくドロシー・パーカーやリング・ラードナーなんかも訳していきたいなと思っています。

ただラードナー、web上で読める"Haircut"、あんまり好きじゃないんですよね。うーん。どうしたものだろう。
ま、なんにせよ、また考えます。

ということで、お暇なときにでもまたサイト、のぞいてみてくださいね。

それじゃ、また。

今日はつなぎです

2006-04-24 21:59:12 | weblog
すいません、ここ数日仕事のほうが忙しく、なかなか翻訳の手入れが進んでいなかったのですが、なんとか3/4くらいまでできたので、明日にはアップできると思います。

ということで、今日はつなぎの話。

わたしのサイトやこのブログをあちこちお読みの方は、すでにわたしが大変、人なつこくない、無愛想な人間であることはご存じだと思います。別にぶすっとしているわけではなく、逆に小さい頃からよく親に、へらへら笑うんじゃない、馬鹿に見える、と始終たしなめられていたぐらい、基本的に機嫌はいいほうなのですが、特に用事もないのにしゃべることができない。何をしゃべっていいかわからない。場の雰囲気を和ませるためにしゃべることができないわけです。

だから、美容院とか、店に行ってもできるだけしゃべりたくない。
もう美容院はなんだかんだ話しかけるのがサービスみたいなものらしいので、半ば諦めているのですが、ゴハンを食べるところや喫茶店で店の人に話しかけられるようなところは、まず絶対に行かないことにしています。

学生時代、寮の近くにお好み焼き屋が二軒ありました。
寮をはさんで東西にそれぞれ三百メートルずつぐらい離れているんですが、ここでは仮に、東の店をA、西の店をBとしておきましょう。

お好み焼き、わたしは好きでたまらない、というほどではないけれど、たまに食べたくなるもののひとつです。友だちと、どこかでゴハンを食べようか、という話になると、候補にあがるのがその東の店Aでした。Aはちょうど通り道に当たっていたので、何の気なく入ったのが初めです。学生のたまり場で、夜にはコンパの流れみたいな連中もたむろしてやかましいこともありましたが、お好み焼きはおいしくて、わたしは内心、ひいきにしていました。

ところがこの店、よく休む。不定休だったわけでもないでしょうに、あー、お好み焼きが食べたい、と思ったときに、行ってみて「本日休業」の札が下がっていたのを見たときは、もう気分はお好み焼きになってるし、いまさら変更もきかないし、で、どうしたもんだろうか、と思ったものでした。

そんなとき、一緒にいった連れから、お好み焼き店Bの存在を教えてもらったのです。

そこは真ん中に大きな鉄板があって、カウンターがそこを取り囲む、マスターが目の前で焼いてくれて、客の前に移す、というスタイルの店でした。

そこのおじさんがまた、やたら話し好き。
「うちはね、イカ、冷凍ものなんて使ってないのよ」と、妙に女性的な話しぶりで、ねちこく話しかけてくるわけです。
「学校は、どこ? 学部は?」
と、なんだかんだうるさいから、そこにあるマンガに手を伸ばそうとすると、
「『がんばれ元気』読んでみて。すっごく泣けるから」

わたしは小学生の時、近所の本屋で全巻立ち読みはしたけれど、なんかお涙頂戴のメソメソしたマンガだな、と思っていたので、いかにもあんなのが好きそうな手合いだ、などと思って(笑)、そんなおじさんのアドバイスなんて無視して、『わたしは真悟』かなんかを取り出す。するとまたなんだかんだと話しかけてくるわけです。

やっと焼けたお好み焼きを食べてみると、基本的なところを間違っている。小麦粉が粉のまま、ダマになって残っていたりするんです。
おいおい、ぐちゃぐちゃしゃべってないで、ちゃんとやってくれよ、と思いはしたものの、とりあえず片づけて、もう二度と来るもんか、とお金を払いながら胸の内で思いました。
サービス券だかスタンプカードだか、ごしゃごしゃいっぱいくれたような記憶があります。

ところが驚いたことに、そのおじさん、界隈でも結構有名人みたいで、寮のなかにも、話がしたいからあそこにお好み焼きを食べに行く、という人間までいるわけです。
え? なんで? なんであんなおばさんみたいなおじさんに話なんてすんの?
と聞いてみました。
え、だってあのおじさん、すごく優しいから。

そのとき、人間なんて意外に簡単にダマされるものなんだな、と思いました。
「わたしは優しい」って看板出してたら、優しいってことになるのか。

そのときから年も取り、多少の知恵もついたわたしは、そんなふうに決めつけるのはよくない、と思うのですが、それでもそういう例をいくつも見てきました。「わたしは優しい」と信じて疑わない人間が、そんなふうに看板を出し、なんとなく周りもそう思って慕ったり、集まったりしている。
そんな簡単なもんじゃないだろう、と思うのですが、信じたい人は信じたいのだから、それはそれで良いのかもしれません。

もちろん、お好み焼き屋Bのおじさんがほんとうにそんな人間だったかどうか、わたしには知るすべもありません。ただ、店も清潔ではなかったし、味も良くなかった。小麦粉のダマもあった(笑)、というだけ。
ただ、わたしはそういう人の「人柄」はあまり信じないことにしていますが。

このあいだ、職場にその地域のタウン誌が置いてありました。
ずいぶんあたりも変わったな、知っていた店もほとんど残ってないなー、と思いながら見ていたら、なんとその「お好み焼き屋B」が載っていたではありませんか!
メニューが紹介してあって、マスターの写真もちゃんと載っていました。間違いない、あのオネエ言葉のおじさんです。

世の中、わからないものです(笑)。
いまでもダマ、あるんでしょうか。
確かめに行きたいとは思いませんが。


明日には「ジュリア」アップできると思います。
また遊びに来てくださいね。
それじゃ、また。

リリアン・ヘルマン 「ジュリア」最終回

2006-04-21 22:17:43 | 翻訳
確かにトランクは、二週間後、モスクワに届いた。内装はずたずたに切り裂かれ、底板は毀されていたが、なくなっていたのはカメラと四、五冊の本だけだった。そのときも、いまも、トランクが行方不明になったことがジュリアに何か関係があったのかどうかはわからない。その後三十年間、わたしはドイツの地を踏むことはなかったし、ジュリアと話をすることも、もはや二度となかったからである。

ジュリアには、モスクワから、そうしてパリへ戻る途中、プラハから手紙を出し、その後、内戦さなかのスペインから帰国したあと、ニューヨークからも手紙を出した。三、四ヶ月後、ジュネーブの消印が押してあるはがきが届いた。「スペインへ行ったなんてすごいじゃない。行って何かわかることがあった? 三月にニューヨークに行くから、そのとき話しましょうね」

けれども三月が来、四月が過ぎてもジュリアからは何の音沙汰もない。わたしはジュリアの祖母に電話をかけたが、わかりきったことだったけれど、何も得るものはなかった。お祖母さんが言うには、ジュリアからはもう二年、何も言ってきていない、とのこと。ところであなたはなんでジュリアのことをいつも案じているのですか? わたしが十月に会ったことを言うと、電話はそのまま切れてしまった。ちょうどそのころ、ジュリアの母親の写真が雑誌に載っているのを見かけたが、それによると、また再婚した、という。今度の相手はアルゼンチン人で、その名前を覚えておかなければならない理由があるはずもなかった。

1938年5月23日、間違った住所が記載されていたために二日前の日付がついた電報を、ロンドンから受け取った。
ジュリアサツガイサル』ロンドンホワイトチャペルロードムーアソウギジョウマデオイデヲコウ』イチドウヲダイヒョウシオクヤミモウシアゲマス」
差出人のところには、ジョン・ワトソンの名があったが、住所は空白だった。

泣くことができれば、いくぶんなりとも気持ちが楽になるようなときに、決して泣けないわたしは、そのかわり、まるまる二日間ひたすらに飲み続けたために、そのあいだのことはなにひとつ覚えていない。三日目の朝、わたしはジュリアの祖母の家へ行ったのだが、執事は、まるでわたしがこの家に災厄をもたらすとでもいうように、通りまで出てきて、ご主人様と奥様は世界一周の船旅に出かけておいでです、お帰りになるのは八週間後でございます、と言った。船の名前を尋ねると、身分証明書のご提示を、と言われる。こうしたやりとりをしているうちに、わたしは、孫娘が死んだっていうのに、ガタガタぬかしやがって、おまえもじいさんばあさんもみんな一緒にくたばってしまえ、と怒鳴ってしまったのだった。その晩のわたしがあまりひどい状態だったせいだろう、ふだん自分がどこにも行きたくないために、わたしまでどこにもやりたがらないダッシュが、君はいますぐロンドンに行った方がいい、と言った。

このとき出かけた記録をわたしは残していないために、いまも記憶にあることはただひとつ、傍らに立って、修復されてはいるけれど、顔の左側に残るナイフの傷跡は隠しようもなかったジュリアの亡骸を見おろしていたことだ。葬儀屋は、努力はしたんですが、顔に斬りつけた跡はどうしても隠すことはできませんでした、隠すことができない傷というのがどの程度のものかご覧になりたかったら、身体のほうを見ればわかります、と言う。わたしはそこを出て、通りにしばらく立っていた。やがて葬儀場に戻ると、昼食を取っていた男が手紙を渡してくれた。「親愛なるミス・ヘルマン、お越しいただけると考えていましたが、ご無理を申し上げたのかもしれません。その際のために、写しをニューヨークのご住所にもお送りしております。ご家族が、ご遺体をどのようになさりたいと望んでおられるのか、英雄の葬儀をどこでなさりたいのか、私たちにはわかりません。貴殿にはお知りになる権利があると考えるのでお伝えしますが、ジュリア様はフランクフルトの同志宅にてナチの襲撃を受けました。我々が奪還し、なんとか延命がかなわないかとロンドンにて努めましたが、残念な結果となりました。この場にてお慰めできないことを残念に思います。このすばらしい女性に対する哀悼の念を行動へ移し、いつの日にか復讐を誓うものであります。 同志一同を代表し ジョン・ワトソン 謹んで哀悼の意を」

その日わたしはそこを離れ、夕方になって葬儀場に電話をかけて、ジョン・ワトソンの住所を知らないか、訊ねてみた。ジョン・ワトソンなどという名前は聞いたことがないですよ、ご遺体を取りにうかがったのは、ドクター・チェスター・ロウのお宅で、ダウンシャーヒルの30番地です、と言う。わたしがそこに言ってみると、いまはアパートに作りかえられた大きな屋敷で、ドクター・ロウなどという名前は、標識のどこにも見あたらない。そこで初めて、わたしが訪ねていくことが、危険に瀕している人を、いっそう厄介な事態に追い込むことになるのかもしれない、と思いいたった。

わたしは遺体と一緒にデ・グラス号で帰国し、今度はジュリアの母親に連絡を取ろうとした。同じ執事がわたしに、奥様のお住まいをお教えすることはできかねます、奥様はお嬢様がお亡くなりになったことはご存じでいらっしゃいます、と答えた。わたしは遺体を火葬に付し、灰はいまなお、遠いあの日と同じ場所にある。

* * *

ほんとうならロンドンから帰国するときに、ミュルーズに行ってみなければならなかったのに、わたしはそれをしなかった、というか、そのことを思いつきさえしなかったのだ。ロンドンでみじめな気持ちで過ごしたときも、船で帰国する間も。火葬が終わってから、ジュリアの祖母に手紙を書いた。ジュリアには子供がいます、その赤ちゃんがミュルーズに住むある家族に預けられていること以上は知りませんが。ミュルーズはそれほど広い市ではないので、アメリカ人の子供を捜そうと思えば、それほど困難はないでしょう。返事は来なかった。おそらくわたしも来るとは考えていなかったのだろう、だからもう一度、こんどはきつい調子の手紙を送ってやった。するとこんどはご大層な法律事務所のご大層な名前を名乗った手紙が届いた。わたしだけがその存在を信じている子供に関しては、「このような特殊な事例を鑑み」、しかるべき手段が講じられており、今後、わたしにはいかなる「疑わしき結果」であっても報告してやろう、というのだった。

数ヶ月のあいだ、毎晩のようにジュリアの夢を見た。ジュリアはいつも、初めて会った頃の年格好なのだった。ハメットが、君はひどい様子をしているぞ、そんなに心配なら、どうしてミュルーズの弁護士か探偵に連絡を取ってみないんだ、と言う。映画監督のウィリアム・ワイラー、わたしはワイラーと二本映画を一緒に作ったことがあるが、その彼がミュルーズの出身で、一族はいまでもそこでデパートを経営しているという。あまりに古い話だから、いつ、どのような方法で、ワイラーがミュルーズに住む弁護士の名前を調べてくれたのか、はっきりと記憶にはないのだが、とにかくワイラーは見つけてくれて、しばらくして、操作は難航しているが、もし赤ん坊がいまもミュルーズにいるのなら、ゆくゆくは、かならずや赤ん坊を見つけ出すことになるだろう、と書いてよこした。

三ヶ月後、大戦が勃発し、西ヨーロッパに居住している誰からも連絡は来ないという状態が、1944年3月に、ソ連経由でロンドンに行ったときまで続いた。ロンドンでの二日目――そのときロンドンに行った目的は、イギリス政府の依頼で、ドイツのV2爆弾が投下されたときの波止場の人々の様子を、ドキュメンタリー・フィルムに収める、というものだった――自分があの葬儀場のすぐ近くにいることに気がついた。葬儀場の場所はわかったが、あたりは爆撃を受けて粉々に破壊されてしまっていた。

* * *

この話で書き残したことがひとつだけある。1950年代初頭、ロングアイランドに住むルースとマーシャルのフィールド夫妻の地所でピクニックをしていたときのこと、わたしは石垣に坐っていたのだった。隣の男がオナシスという人物――わたしはその名前を聞いたのは、そのときが初めてだった――のことや、オナシス氏に対するアメリカ政府の訴訟のことをひとしきり話したあと、わたしの方に向き直り、こんなことを言い出したのだった。「父もやはり弁護士で、あなたがジュリアのことで手紙を書いた相手が父です。ぼくとジュリアは祖父母のいとこの孫ということになるんです」

しばらくしてわたしは返事をした。「そう」

「父は昨年亡くなりました」

「あなたのお父様は、あれから二度と手紙をくださらなかった」

「あの、ぼくは弁護士じゃないです、銀行員です」

「ジュリアの家族はどうなったの?」

「祖父、祖母ともに亡くなりました。ジュリアの母親はアルゼンチンにいて……」

「くそったれよ、みんな」

彼はわたしに笑いかけた。「みんないとこの仲なんですよ」

「あの人たちが見つけたくなかかった赤ん坊は見つかったの? あなたが誰だろうと、どうだっていい」

「赤ん坊のことなんて、知りませんでした」

「わたしはあなたの言うことなんて、信じない」そう言って石垣から降りると、ルースには、気分が悪いから帰るわ、と書き置きを残して、わたしは車で家へ帰った。

The End

(※後日、手を入れたのち、サイトにアップしますので、お楽しみに)

リリアン・ヘルマン 「ジュリア」その11.

2006-04-20 21:46:15 | 翻訳
「どのくらい一緒にいられるの? 乗換駅はここからどのくらいかかるの、モスクワ行きの汽車の駅は?」

「乗り換えまで二時間よ。だけどわたしたちはそんなに一緒にはいられない。駅まであなたに付き添っていく人がいるのだけれど、その人が、明日の朝ワルシャワに着くまであなたと一緒に汽車に乗ることになってる人を見つける時間だって必要だから」

わたしは言った。「あなたみたいな人はほかにはいない。前よりもっときれい」

「わたしの脚のことで泣いたりしないで。切断したんだけど、義足の出来がよくないの。だから、出来るだけ早く、二、三ヶ月うちにはニューヨークへ行って、いいのを作ってもらわなきゃ。リリー、わたしのために泣かないで。涙を拭くのよ。仕事を終わらせてしまいましょう。帽子を脱ぐの、こんなところでは暑くてかぶってなんていられない、っていうふうに。髪を梳かしながら、わたしたちのあいだに帽子を置いて」

ジュリアのコートは前が開いていた。わたしが帽子を席においたとたん、ジュリアは用意していた安全ピンで、コートの内懐深くに留めた。

「わたしはこれから化粧室に行く。もしウェイターが手を貸そうとしたら、あなた、手を振って追っ払って、わたしについてきて。化粧室の鍵はかかるようになってる。もしだれかがドアを開けようとしたら、あなた、ドアを叩いてわたしを呼んで。たぶんそんなことは起こらないとは思うけれど」

ジュリアは立ち上がると、松葉杖を一本取りあげて、わたしに反対側に来て、と合図した。アルベルトとおぼしき人間とドイツ語で話をし、わたしたちは広い店のなかを進んでいった。化粧室のドアの内側に、松葉杖を差し込むタイミングが早かったために、変な角度で引っかかり、いらだって松葉杖をむりやり外そうとした。

だが、化粧室から出てきたときのジュリアは、わたしを見てにっこり笑った。席に戻りながらジュリアは声高にドイツ語で、化粧室の話をあれこれしたあと、英語になってわたしに言うのだった。「あなたがドイツ語がわからないって忘れてた。わたしが言ったのはね、ドイツの公衆トイレはいつもきれいだ、わたしたちの国のよりもきれいだ、とくに新体制の下では、みたいなこと。下司野郎どもが。人殺しどもが」

わたしたちがふたたび席に着くと、キャビアとワインが運ばれてきて、ジュリアはウェイターに愛想をふりまいた。ウェイターが行ってしまうと、ジュリアが言った。「ああ、リリー。うまくいった。ほんとうにうまくいったの。もうだいじょうぶ。だけど、あなたには知る権利があるわね、あなたが運んでくれたのはわたしのお金だった。わたしたち、それでたぶん五百人、ううん、うまく交渉したら千人の命を救える。だから、あなたはわたしのいい友だちってだけじゃなくて、もっと大切なことをしてくれた人なんだ、って、わかっておいて」

「ユダヤ人?」
「半分くらいはね。あと、政治運動をしてる人。社会主義者、共産主義者、古くからのカトリック系の反体制活動家もいる。ここで弾圧されてるのはユダヤ人だけじゃないの」そう言うとジュリアはため息をついた。「この話はもうおしまい。わたしたちは今日できることしか今日という日にはできないのだし、今日できることはあなたがもうわたしたちのためにやってくれたから。ワインより強いお酒がいい?」

いらないと答えるわたしに、ジュリアは、さぁ、早く話して、もうあまり時間がないわ、できるだけいろんなことが聞きたいのよ、と言う。だからわたしは自分が離婚したこと、ハメットと暮らすようになった歳月のことを話した。ジュリアは『子供たちの時間』は読んいて、あれはよかったわ、と言ってくれた。つぎは何を書く予定?

わたしは言った。「もう書いちゃったの。二番目の戯曲は、失敗だった。あなたの赤ちゃんのことを教えて」

「よく太っててかわいい子よ。うちの母に似てるから、そこが気にならなくなるまで、ちょっとかかったけど」
「すごく会いたいわ」
「会わせてあげるわよ。義足を作りに帰るときに連れて行くから。あなたのところで育ててもらったほうがいいかもしれない。もし、あなたさえかまわなければ、だけど」

わたしは、何の悪意もなくこうたずねた。「今日会えない?」
「あなた、気は確か? こんなところにあの子を連れてこれるとでも思うの? あなたの身を守るためにわたしがどれだけ危険を冒したか、これがもうぎりぎりのところなのよ。そのつけは、今夜も明日も……」それから笑顔になった。「赤ちゃんはミュルーズ(※フランスアルザス地方にある地方都市)にいるの。とってもいい人たちと一緒に。国境を越えたときはいつも会うことにしてる。足のことで帰国したらあなたに預けようかしら。あの子もヨーロッパにはいないほうがいいかもしれない。ヨーロッパはもう赤ん坊にはいい環境じゃなくなってしまってるから」

「わたし、まだ家もないし、アパートだって賃貸だけど、赤ちゃんのために家を買うわ、もしあなたが連れてきてくれるなら」

「もちろんよ。だけど家なんてどうでもいい。あなたは良くしてくれるに決まってるもの」それからジュリアは声をあげて笑った。「あなたは子供のときと同じように、大人になっても怒ってるの?」

「たぶんね」わたしは答えた。「よそうとは思うのだけど、このざまよ」
「なんでよそうとするの?」

「あなたはわたしの近くにいるわけじゃないから。そしたらそんなことは聞くまでもないわ」

「あら、わたしはいつだって怒ってるあなたが好きだった。信頼してた」

「じゃ、あなたがそんな意見を持ってるただひとりの人ってわけね」

「人の言うなりになって怒ることをやめちゃいけない。怒りはまわりを落ち着かなくさせてしまうかもしれない、だけど、あなたにとっては意味があるの。あなたが怒る人だから、今日、こんなふうにお金を運んでくれた。そうね、あの子はあなたに預けることにする。父親がとやかく言うはずがないし。赤ちゃんにも、わたしにも関わりを持ちたがってないから。確かに悪い人じゃない。よくいる出世街道をひた走っていくタイプってだけ。どうして彼とつきあったりしたんだろう、フロイトは、よせって言ったんだけど、ま、ともかくそんなことはたいしたことじゃない。赤ちゃんは、いい子よ」

ジュリアはにっこりしてわたしの手を軽く叩いた。「いつかフロイトに会わせてあげる。あら、わたし、何を言ってるんだろう。たぶん、もうフロイトに会うことなんてないだろうに――わたしがヨーロッパで生きのびられるのも、もうそんなに長いことじゃないのかもしれない。松葉杖は目立つから。あなたを守ってくれる人が、通りに来たわ。窓の外に見えるでしょ? さあ、立ち上がって、行きなさい。通りを渡って、タクシーをつかまえて、二〇〇駅に行くように言って。別の人がそこで待ってるはず。その人は、あなたが安全に列車に乗れるように、それから明日の朝ワルシャワに着くまで大丈夫なように、傍にいてくれるから。その人はA号車の13番室。あなたの切符を見せて」

わたしは切符を渡した。「列車の左側の客室だと思う」それからジュリアは声をあげて笑った。「左よ、リリー、左。あなた、右と左がわかるようになった? 北と南の区別は?」

「いやよ。あなたを残して行きたくない。汽車が出るまで一時間以上あるじゃない。もうちょっとだけでも、あなたと一緒にいたい」

「だめよ。まだ何かよくないことが起こらないとも限らないし、万が一にもそうなったときのために、助ける時間もとっておかなくちゃ。二、三ヶ月したら、ニューヨークに行くから。モスクワに着いたら、パリのアメリカン・エクスプレス付けで手紙を書いて。数週間ごとに荷物を取りに行ってるから」ジュリアはわたしの手を取って、唇に当てた。「わたしの大好きな友だち」

それからわたしはジュリアに押し出されるままに歩き出した。ドアのところで振り返り、おそらくそちらに戻りかけたにちがいない、ジュリアは首を横に振ってから、あらぬ方向に顔を向けてしまった。

駅まであとをついてきているという男のことは、よくわからなかった。列車に乗っているはずの男も見なかったけれど、何度か、中年にはまだ間がある男が客室の前を通り過ぎ、その同じ男が、夕食のときに隣の空いた席に腰掛けたが、最後までひとことも話しかけることはなかった。

夕食をすませてから客室に戻ると、車掌が、もしお望みなら、お持ちの旅行鞄ふたつを通路に出していらっしゃれば、ドイツ-ポーランド国境の検査のときに、おやすみになったままでいられますよ、と教えてくれた。わたしは、貨車に衣裳トランクがあるから、と車掌に伝えて、税関職員に渡すように、と鍵を預けてから、生まれて初めて睡眠薬を飲んだ。おそらくそのせいだろう、わたしの乗った列車が翌朝七時にワルシャワ駅に入るまで、目が覚めなかった。外を見ようとカーテンを開けると、人が忙しく行き交っている。窓のすぐ下には、昨夜食堂車でわたしの隣にいた男が立っていた。手で何かのそぶりをするのだが、わからないので首を横に振った。するとまわりを見まわして、自分の右側を指す。わけがわからず、もう一度首を振ると、男は窓から離れた。まもなくノックの音がして、わたしは立ち上がってドアを開けた。隙間から、イギリス訛りの声が聞こえてきた。「おはようございます。お別れの挨拶に来たんです。良いご旅行をお続けください」それから声をぐっと低めて続けた。「あなたのトランクはドイツ側の手に渡りました。国境は越えましたから、あなたにもう危険はありません。二、三時間は知らん顔をして、ポーランド人の車掌にトランクのことを聞くんです。モスクワからの帰路はドイツ経由ではなく、もう一方のルートを通ってください」それからふたたび大きな声になった。「ではご家族にもよろしく言っていたとお伝えください」それだけ言うといなくなった。

それから二時間、わたしはベッドに腰掛けて、不安な気持ちのまま、つぎに取らなければならない行動に怯えながら、トランクにつめたまま行方不明になってしまった洋服のことを考えたりした。ワンピースに着替え、ポーランド人の車掌に、ドイツ人の車掌が鍵を預けてくれているか聞いてみた。車掌は憤慨しながら、トランクはドイツの税関職員に押収されてしまったんです、そういうことはよくあるんですよ、でも、おそらく数日のうちに、モスクワのあなたがいらっしゃるところに届くと思います、いや、ちっとも特別なことじゃないんです、ドイツの人でなしどもはきょうび、こういうことを平気でやるんです、と教えてくれた。

(たぶん明日が最終回)

リリアン・ヘルマン 「ジュリア」その10.

2006-04-19 22:09:04 | 翻訳
それから数時間というもの、わたしたちはまどろんだり、本を読んだりしていたのだが、やがて痩せた娘がわたしの膝を指でそっとたたいて、もう五分か十分もすると、国境を越えるわ、と教えてくれた。恐怖の感じ方は、ひとそれぞれだと思うけれど、わたしの場合は決まって身体がひどく火照ってくるか、冷え切るかして、どちらにせよ外気とはいっさい無関係にそうなるのである。待っているあいだ、わたしの身体は熱を帯びていた。汽車は次第に速度を落として停まり、わたしは外に出ようと立ち上がった――すでに大勢の人々が列車を降りて、検問所に向かって歩いており、前の車両には手荷物を検査するために、男たちが乗り込んできていた――コートと新しい帽子はそこに置いたままにしておいた。客室を出かけたとき、痩せた娘が言った。「たぶん、コートと帽子はあったほうがいいわ。風が強いから」

「どうもありがとう。だけど寒くないのよ」

娘の声が鋭くなった。「コートがきっと必要になります。帽子も頭にかぶっていると、ステキだし」

わたしはそれ以上、もう何も聞き返したりしなかった、というのも彼女の語調に有無を言わせぬものがあったからだ。席に戻ってコートを羽織って、裏地に縫い込まれた詰め物のせいでいっそう重く感じられる帽子をかぶり、ふたりの娘を先に行かせて、鏡の前で具合を直した。プラットフォームに出ると、同室のふたりは、ほかの客室から出てきた数人の乗客の先にいた。大柄な娘はそのまま進んだ。痩せたほうはハンドバッグを落とし、拾い上げながらすっと脇へ寄り、そのまま歩いてわたしの後ろに並んだ。わたしたちは口もきかないまま列に並んで、検問所に立つ制服を着たふたりの男のところまで進んだ。前の男がパスポートを調べられているとき、痩せた娘が言った。「一時通行証は時間がよけいにかかるかもしれないけれど、何でもないわ。心配しないで」

ほかの人より時間がかかるということはなかった。みなと同じぐらいの時間でそこを通り抜け、乗客の整然とした列について、列車に戻った。痩せた娘はわたしのすぐ後ろにいたのだが、列車の階段をわたしが上ろうとしていると、「ごめんなさい」と言ってわたしを脇へ押しのけ、先に中へ入った。客車に戻ってみると、大柄な娘は席に坐って、隣の客室でふたりの税関職員が、手荷物を開けて見せている乗客と交わしているあたりさわりのない話にじっと耳を傾けていた。

「手荷物の検査にはずいぶん時間がかかるのよ」痩せた娘はそう言いながら、身を乗り出してわたしのお菓子の箱を取りあげた。勝手にリボンをほどくと「いただくわね。わたし、チョコレートには目がなくて。ほんとにありがとう」と言ったのだ。

「やめてちょうだい、お願いよ」そう言いながら、わたしという人間は、つくづくこうしたことには向いていないと思い知らされていた。「おみやげに持っていくつもりなの。お願いだから、開けたりしないで」
税関職員が入ってきたときには、痩せた娘がふたをひらいた箱を膝に乗せ、お菓子をむしゃむしゃ食べているところだった。その数分のあいだに起こったことは、荷物をすべて網棚からおろした職員が、わたしの荷物を、相客ふたりより念入りに調べたことしかわからない。大柄な娘があれやこれやとしゃべり続け、わたしの通行許可書のこともなにやら話題になっているようだった。ええ、このかたは劇作家で、演劇祭に行かれるのだそうですよ、などと(それから二日後、わたしはやっと、自分がモスクワ演劇祭に行くことや、自分が何者であるかなど、一言も話さなかったことに気がついた)。それからヘルマンという名前が、わたしには半分も理解できない会話に出てきた。税関職員のうちの一人が「ユダヤ系」と言い、大柄な娘が、ユダヤ系ばかりとは限らない、と言って、いくつもの人や土地の名前をあげていたが、わたしにはとてもついていけなかった。それから職員はわたしたちに礼を言うと、荷物をきちんと元通りにして、一礼するとドアから出た。

その後数時間のうちにわたしの身体は熱くなったり、冷えたりするのをやめ、その日はもう怯えることはなかった。痩せた娘はお菓子の箱にもう一度リボンをかけ直してくれたけれど、列車が駅に着くまで、もうだれも話したりしなかったのではあるまいか。赤帽がやってきてわたしの荷物を取りあげると、わたしは自分に言い聞かせた。ここから緊張してやっていかなければならないのだ、国境の検問所でお金が発見されたのなら、まだフランスにも近かったから、それほど大事にはならなかったのだ。いまこそ慎重に、頭を働かせ、当然沸き起こってくるはずの恐怖心に立ち向かうときなのだ。ところがそんな「とき」は一向に訪れない。非常に多くの場合に、何の脈絡もなく恐怖に襲われ、危機に瀕したときにぼんやりして眠くなってしまう自分の性格のそうした側面がおかしくなってしまった。

だが、その日はほんとうに何も危険なことは起こらなかった。痩せた娘がわたしのすぐ後ろにいて、改札口まで延々と歩いていった。人々がキスしたり、握手したりする光景がいたるところで繰り広げられていた。五十年配の男女がこちらに向かって歩いてくると、女の方が腕を広げてわたしを抱きしめ、英語で話しかけてきた。「リリアン、お会いできてうれしいわ。だけど、ほんの二、三時間しかこちらにいらっしゃらないなんて、なんて憎らしい、だけどそのあいだだけでも、わたしたち、楽しくやりましょうね」そのとき、わたしにぴったりと寄り添うようにしていた痩せた娘が「お菓子の箱をこの人に渡して」と言った。

「またお会いできてほんとうにうれしいわ。おみやげがあるのよ、おみやげは――」ところがそういうよりも早く、箱はわたしの手を離れ、わたしは改札の方向に押し出されていった。改札よりかなり手前で、わたしはその女性の姿も痩せた娘も、見失ってしまっていた。

男の方が言った。「あの改札を抜けるんだ。そこの駅員に、駅の近くのレストランを聞く。〈アルベルツ〉を教えてくれたら、まっすぐそこに行きなさい。もし違う名前を言うようだったら、そこへ行って、外の様子を見て、引き返して〈アルベルツ〉に向かう。そこは君の正面にある扉のちょうど真向かいにあるから」改札口で駅員にレストランを聞いているうちに、その男はわたしの脇を通り過ぎていった。駅員は、ちょっとそこ、どいてください、いま忙しいんだ、教えてあげるから少し待ってください、と言う。わたしは駅の中に長いこといたくなかったので、通りを渡って〈アルベルツ〉に向かった。回転ドアを通って中に入ったわたしは、テーブルに着いているジュリアの姿を見て、ショックのあまり棒立ちになってしまった。ジュリアは半ば腰を浮かせ、わたしの名前をそっと呼んだ。わたしはとめどなく涙をあふれさせながらそちらへ行った。傍らにもたせかけた二本の松葉杖を見て、それまでずっとそうであってほしくないと願っていたことが事実だったのがわかったから。テーブルで身体をささえて立ち上がろうとしながら、ジュリアが言った。「大丈夫、うまくいってる。お祝いにキャビアを頼んだわ。アルベルトは買いにやらせなきゃならなかったけど、じきに来るでしょう」

わたしの手をしばらく握っていたジュリアはやがて口を開いた。「うまくいってるわ。何もかも。大丈夫、もう何も起こらないわよ。さ、再会を祝して、食べたり飲んだりしましょ。ずいぶん長いこと会わなかったわね」

(この項つづく)