陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「健忘症連盟」を日本で最初に読んだ人

2007-07-24 22:53:37 | weblog
さて、昨日までロバート・バーの短編「健忘症連盟」を訳してきたのだが、いかがでした?

原作が所収された短編集の発表年は1906年。シャーロック・ホームズの活躍が1987年から1914年ということだから、ほぼ同時期ということになる。
エルキュール・ポワロ以前にも、「モナミ」と呼びかける、こんなフランス人の探偵がいたんだな、とびっくりする。というか、アガサ・クリスティのポワロの原型が、このウージェーヌ・ヴァルモンでもあるのだろう(ただしポワロはベルギー人だが)。もちろんこのウージェーヌ・ヴァルモンのさらに原型は、作中冒頭にも出てくるエドガー・アラン・ポーのオーギュスト・デュパンである。

さて、わたしがこれを訳してみようと思ったのは、このあいだ山田風太郎のエッセイ集『風眼抄』(中公文庫)を読んでいたら、「漱石と『放心家組合』」という章に出くわしたからだ。
 江戸川乱歩が選んだ古今の推理短編小説ベストテンの中に、ロバート・バーの「放心家組合」(あるいは「健忘症連盟」)という作品がある。…略…

 さて、ところで私は、この「放心家組合」を読んだとき、そのアイデアそのものにはそれほど感心しなかった。なぜかというと、このアイデアは漱石の「猫」に出てくるからである。
「……この間ある雑誌をよんだら、こう云う詐欺師の小説があった。僕がまあここで書画骨董店を開くとする。で店頭に大家の幅や、名人の道具類を並べておく。無論贋物じゃない、正直正銘、うそいつわりのない上等品ばかり並べておく。上等品だからみんな高価にきまってる。そこへ物数奇(ものずき)な御客さんが来て、この元信の幅はいくらだねと聞く。六百円なら六百円と僕が云うと、その客が欲しい事はほしいが、六百円では手元に持ち合せがないから、残念だがまあ見合せよう」
「そう云うときまってるかい」と主人は相変らず芝居気のない事を云う。迷亭君はぬからぬ顔で、
「まあさ、小説だよ。云うとしておくんだ。そこで僕がなに代は構いませんから、お気に入ったら持っていらっしゃいと云う。客はそうも行かないからと躊躇する。それじゃ月賦でいただきましょう、月賦も細く、長く、どうせこれから御贔屓になるんですから――いえ、ちっとも御遠慮には及びません。どうです月に十円くらいじゃ。何なら月に五円でも構いませんと僕が極きさくに云うんだ。それから僕と客の間に二三の問答があって、とど僕が狩野法眼元信の幅を六百円ただし月賦十円払込の事で売渡す」

「タイムスの百科全書見たようですね」
「タイムスはたしかだが、僕のはすこぶる不慥(ふたしか)だよ。これからがいよいよ巧妙なる詐偽に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で皆済(かいさい)になると思う、寒月君」
「無論五年でしょう」
「無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙君」
「一念万年、万年一念。短かくもあり、短かくもなしだ」
「何だそりゃ道歌か、常識のない道歌だね。そこで五年の間毎月十円ずつ払うのだから、つまり先方では六十回払えばいいのだ。しかしそこが習慣の恐ろしいところで、六十回も同じ事を毎月繰り返していると、六十一回にもやはり十円払う気になる。六十二回にも十円払う気になる。六十二回六十三回、回を重ねるにしたがってどうしても期日がくれば十円払わなくては気が済まないようになる。人間は利口のようだが、習慣に迷って、根本を忘れると云う大弱点がある。その弱点に乗じて僕が何度でも十円ずつ毎月得をするのさ」

 という一節を記憶していたからである。
 しかし、私の読んだ順はさておき、おそらく事実は逆だ。――果然この中の「この間ある雑誌を読んだら、こういう詐欺師の小説があった」というのはこの「放心家組合」に相違ない。

『吾輩は猫である』の最終章十一にこれは出てくる。
山田風太郎によると、『猫』のこの回が書かれたのは明治39年、ロバート・バーの"The Triumph of Eugene Valmont"(『ウージェーヌ・ヴァルモンの勝利』)が出版されたのも、同じく1906年なのだが、おそらくはその前の「雑誌」に初出の段階で漱石は読んでいたのだろうと思われる。

若干、書き足しておくと、通常アンソロジーなどに収められている「健忘症連盟」"The Absent-minded Coterie" というのは、全体のうちの十三章から十七章の五章分を指すことが多いのだが、「健忘症連盟」というのは、十七章の章のタイトルであって、明確に区分された「短編」という体裁をとっているわけではない。

山田風太郎が冒頭、「江戸川乱歩が選んだ」とある『世界短編傑作集1 江戸川乱歩編』(草原推理文庫)を見ると、十三章は訳していなくて、この短編集では十四章から「放心家組合」と訳されている。日本ではこの十四章からのバージョンが一般的なのかもしれない。

ついでにタイトルにふれておくと、原題が"The Absent-minded Coterie"、"absent-minded" というと、ぼんやりした、とか、うっかりした、とか、心ここにあらずの、といった意味の形容詞ではある。あるいは、「健忘症」というと、それに該当する病名としては"amnesia" という単語があるのだけれど、「物忘れがひどい」ぐらいの意味で、「わたしは健忘症かも…」みたいに言いたいときは "I have a poor memory." ぐらいで、"amnesia" みたいな強烈な言葉は使わない。日本語の「健忘症」という言葉がカヴァーする範囲は、英語より少し広いような気がする(「不眠症」にしてもそうだ)。
作中、インチキドクターが「療法」を紹介する、というパンフレットも出てくるので、療法などということがどうやっても出てきそうもない「放心」より、「健忘症」を選んでみました。だいたい「放心家」という日本語はないような気がする。
言いますか? 「わたし、放心家で、ときどきぼーっとしちゃうんです」
(※エラリー・クイーンの編によるアンソロジー "Golden Dozen" にもこの作品は収められているのだが、そちらのタイトルも『健忘症連盟』になっている。)

それにしても漱石の要約の巧みなことよ。これだけの長さの作品が、この要約を読むだけで足りてしまう。
もっともこの作品の不思議な持ち味は、漱石の取りだした作品のアイデアというよりも、主人公がいつのまにか主人公の座からすべり落ち、最初、犯人と目された人物でもない、ほんの使いっ走りのような人物が、後半の三分の一ぐらいから主役になってしまう、なによりもその地滑りしていくような感覚にあるのではないか、とわたしは思っているのだが。

それにしても、月々払っているから、といって、人間、惰性でそんなにいつまでも払い続けるもんなんでしょうか。わたしも相当ぼんやりした人間(というか、ある面に関してはどうしようもなく抜けている)なのだが、そういうことは忘れないような気がするのだが。上流階級というのは、そこらへん、鷹揚なものなのだろうか。というか、そういう時代だったのかもしれない。

1980年代、ディック・ロクティの『眠れる犬』というミステリがあったのだが、これに出てくる犯罪というのは、銀行口座に長年残ったままになっている半端な少額(数ドル何セント)を、持ち主が忘れているかどうか確かめて、それからかきあつめて「塵も積もれば」状態にして、ごっそりいただく、という詐欺だった。これも遠い先祖をたどっていくと、この「健忘症連盟」に当たるのではないか、と思うのだけれど、リアリティといえばはるかにこちらのほうがあるように思う。わたしも百円単位で残っている口座がふたつあるし(忘れてはいないが、わざわざそのために通帳を持っていって解約するというのも面倒なのだ)。それでも、数百円で巨万の富を得ようと思えば、いったい何人に通知を出さなければいけないのだろう。

「健忘症連盟」にしても「眠れる犬」にしても、どうも犯罪というのは割に合わないような気がする。コストパフォーマンスが悪すぎませんか。

さて、最後はまた山田風太郎から引くことにしよう。
 ただし右の事実が偶然の一致なら――私は偶然の一致とは思わないが――漱石は留学中夫人に送った手紙の一節を持ち出して苦笑するかも知れない。
「只今本を読んで居ると、切角(せっかく)自分の考えた事がみんな書いてあった。忌々しい」

またそのうち、もう少し手を入れてサイトにアップしますから、そのときはまたよろしく。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2024-07-12 16:21:17
草原推理文庫→「創元」推理文庫
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