陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

カート・ヴォネガット「才能のない子供」その5.

2011-05-30 22:58:56 | 翻訳

その5.


うつむいたプラマーの頭がどんどん下がり、胸に届きそうになってきたので、ヘルムホルツ先生はあわてて希望の兆しを探した。「たとえばだな、フレイマーには新聞の配達区域を走り回ったり、記録をつけたり、新規顧客を開拓したり、といったことは金輪際、ムリな話だろう。あいつはそんなことができるような人間じゃないし、仮に命がかかっているとしても、そんなことはできない」

「いいところをついてますよ」プラマーは意外なほど明るい表情で言った。「ひとつの面でだけ極端にできるやつって、えらく偏ってるんですよね。もっと多方面に渡って努力する方が、よっぽど価値があると思います。いや、フレーマーは今日、正々堂々と戦ってぼくを負かしたけど、そのことをいつまでもこだわったりしてるわけじゃないんです。そのことで腹を立ててるわけでもない」

「君は実におとなだな」ヘルムホルツ先生は言った。「だが、私が指摘したかったのは、人間というのは誰でも弱点を持っている、ということなんだ。そうして…」

プラマーは手を振ってさえぎった。「そんなこと、ぼくに話すにはおよびませんよ、ヘルムホルツ先生。先生みたいに大きな仕事を抱えていれば、万事うまくいくなんて奇跡でも起きなきゃ無理でしょ」

「ちょっと待て、プラマー……」ヘルムホルツ先生は言った。

「ぼくが頼んでるのは、先生もちょっとはぼくの身になって考えてください、ってことなんです」とプラマーは言った。「ぼくがAバンドのメンバーに挑戦して帰ったばっかり、それも死力を尽くしたあとだっていうのに、先生ときたらCバンドのガキをぼくにぶつけてきたんだから。やつらにただ、チャレンジの日の雰囲気を味合わせてやるだけだってことは、先生とぼくならわかってるんです。それに、ぼくがすっかり力を使い果たしていることもね。だけど先生はそのことを連中に言ったんですか? とんでもない。そんなことはしなかった。ヘルムホルツ先生、だからあいつらはみんな、ぼくより自分の方がうまいなんて思いこんじゃったんです。ぼくが傷ついているのはそこなんですよ、先生。やつら、なんだかたいしたことをやったような気でいる。ぼくをCバンドの末席にしたんだって」

「プラマー」ヘルムホルツ先生は言った。「わたしはこれまでずっと、なんとかして君にわかってもらおうとしてきたんだ。できるだけ穏やかな言い方でね。だが、どうやらそのためには率直に話をするしかなさそうだな」

「ムダな批判だろうがなんだろうが、お好きなように」プラマーは立ち上がりながらそう言った。

「ムダな?」

「ムダな」プラマーはきっぱりとそう言って、ドアの方へ向かった。「こんなことを言ったりしちゃ、Aバンドに入るチャンスを自分からドブに捨てるようなもんだ、ってこともわかてるんです。先生。でもね、率直に言って、今日、ぼくが被ったようなことが、六月のブラスバンド競技会で負けた原因なんですよ」




(この項つづく)



カート・ヴォネガット「才能のない子供」その4.

2011-05-24 23:36:25 | 翻訳
その4.

ジョージ・M・ヘルムホルツ先生は音楽の世界に生きていたから、ズキズキという頭痛さえもが、痛みを伴ってはいても、音楽的に――直径二メートルのバスドラムの深い響きのように――襲ってくる。

 いまは午後も遅い。今日は新学期に入って最初のチャレンジの日だった。ヘルムホルツ先生は自宅の居間に腰を下ろし、目を閉じて、もうひとつ別の打撃音、夕刊がぶつかる音を待ち受けているところだ。新聞配達をしているウォルター・プラマーが、玄関の羽目板に投げつけるのである。

 チャレンジの日だけは夕刊なんてなければいい。なにしろプラマーつきなんだから。ヘルムホルツ先生がそうひとりごとを言ったとき、新聞がグシャッと配達される音がした。

「プラマー!」先生は怒鳴った。
「はい、何でしょうか、先生」歩道からプラマーの返事が聞こえてきた。

ヘルムホルツ先生は室内用スリッパのまま、ぎこちない足取りでドアのところへ行った。「なあ、君。わたしたちは友だちにはなれないのかね?」

「もちろんなれますけど」プラマーは言う。「過ぎたことは水に流せ、って言いますもんね」そう言って、ひとなつっこそうな笑い方を苦々しげにまねて見せた。「ダムも決壊しちゃったことですし。先生がぼくをナイフでめった刺しにしてから二時間も過ぎたし」

 ヘルムホルツ先生はため息をついた。「ちょっといいかな。少し話し合った方が良さそうだ」

 プラマーは夕刊の束を植え込みの裏側に隠してから、家に入ってきた。ヘルムホルツ先生は仕草でその部屋で一番座り心地のよい、自分が先ほどまで腰掛けていた椅子を進めた。プラマーはその椅子ではなく、背もたれのまっすぐな堅い椅子を選んで腰を下ろす。

「さて」バンドの指揮者は言った。「神様はさまざまなタイプの人間をお作りになった。走るのが速い者、すばらしい物語が書ける者、絵が描ける者、何だって売ることができる者、美しい音楽を作曲する者。だが、あらゆることを巧みにこなすことができる者だけはお作りにならなかった。成長の一部なんだ。自分に何ができて、何ができないかを見極めることは」先生はプラマーの肩を軽く叩いた。「最後に言ったこと、自分にできないことを見極めるのは、成長のプロセスの内でももっとも辛い。だが、誰もがそれにしっかりと目を向けて、ほんとうの自分を探しに行かなければならない」



(この項つづく)

カート・ヴォネガット「才能のない子供」その3.

2011-05-22 23:12:45 | 翻訳
その3.


「金曜日はチャレンジの日だということを忘れるなよ」ヘルムホルツ先生はCバンドの面々に向かって言った。「練習をしっかりするんだ。君たちがいまいるのは、一方的に割り当てられた席だ。チャレンジの日には君たちが、自分にほんとうにふさわしいのはどの席か、証明するんだ」先生は自信満々に細められたプラマーの目を避けた。プラマーときたら掲示板に貼っておいた座席表を確かめもせず、首席奏者の席にすわっている。挑戦の日は二週間ごとに一度開かれて、その日は楽団員なら誰でも自分より上位の誰かに挑戦できるのだ。ヘルムホルツ先生はその審査員なのである。

 プラマーの手が上がった。鳴らしている。
「どうした、プラマー」ヘルムホルツ先生は言った。先生がチャレンジの日を恐れるようになったのも、プラマーのせいだった。いまではその日はプラマーの日と思えてくる。プラマーがチャレンジする相手はCバンドの誰でもなく、Bバンドのメンバーですらなく、ブラスバンド部の最高峰たるAバンドのメンバーのみに突撃するのだった。あいにくなことに挑戦権は等しくみんなに与えられているためである。Aバンドにとって、時間が無駄になるだけでなく、ヘルムホルツ先生にとってもっと胸が痛むのは、自分の演奏が挑戦相手を上回るものでなかったと聞かされたときの、プラマーのショックを受けたような、信じられないと言わんばかりの表情だった。

「ヘルムホルツ先生」プラマーが言った。「ぼくはその日、Aバンドでの挑戦に加わりたいんです」
「わかった。もし君がそうしたいんならね」プラマーはいつだってそうするつもりなのだから、もしAバンドに挑戦するつもりがないとでも言い出したことなら、そちらの方が驚きだ。

「ぼくはフレイマーに挑戦したいと思ってます」
楽譜の擦れ合うカサカサいう音や、楽器ケースをしめるカチリという音が止んだ。フレイマーとはAバンドの首席クラリネット奏者で、Aバンドの団員でさえ挑戦しようという度胸のある者はいない。ヘルムホルツ先生は咳払いした。
「君のチャレンジ精神には感服するよ、プラマー。だが新学年最初にしては、いささか野心的すぎないか? たぶん、手始めにエド・ディレイニーあたりに挑戦するのがいいんじゃないかな」ディレイニーはBバンド末席のクラリネット奏者だ。

「わかってませんね」プラマーは言った。「ぼくが新しいクラリネットに変えたこと、ご存じないんでしょう」

「はん? おう、そうだったのか。確かに新しいな」

プラマーはあたかもそれがアーサー王の剣で、誰であろうとそれを持った者に魔法の力を授けるのだ、と言わんばかりに、クラリネットのすべすべした筒をなでている。「これならフレイマーに負けちゃいません」とプラマーは言った。「こっちの方がいいかも」

彼の声音には、ヘルムホルツ先生に向けられた警告の響きがこめられていた。差別待遇の日々は終わりましたよ、まっとうな精神を持った人間ならば、これほどの楽器を持った人間を、まさかとめだてするようなことはしませんよね、と言わんばかりの。

「まぁ」ヘルムホルツ先生は言った。「まあ、そうだな。そうかもしれん」

練習が終わると、ヘルムホルツ先生は人でいっぱいの廊下で、ふたたびプラマーと顔をつきあわせる羽目になった。プラマーは、目を丸くしている一年生の団員に、すごみをきかせながら話をしているところだった。

「この前の六月に、あのバンドが1負けたか知ってるか?」そう言っているプラマーは、自分のすぐ後ろにヘルムホルツ先生がいることに、気がついていないらしい。「それはな、バンドが能力主義で編成されなくなったからだ。金曜日には目にもの見せてやるからな」


(この項つづく)



カート・ヴォネガット「才能のない子供」その2.

2011-05-20 23:41:24 | 翻訳
その2.

 いまやCバンドで演奏し続けているのはたったふたり、クラリネットとスネアドラムだけだ。ふたりとも音だけは高らかに、誇らしげに、自信に満ちあふれ、しかもでたらめだった。ヘルムホルツ先生は、自分たちを打ちのめしたバスドラムよりさらに大きな太鼓という物欲しげな白昼夢から我に返り、ワルツをうち砕くとどめの一撃、とばかりに譜面台を指揮棒で叩いた。「結構、結構」元気づけるように声をかけると、曲のわびしい終わりまで持ちこたえたふたりをほめた。

 クラリネット奏者のウォルター・プラマーは、それに対して重々しく――シンフォニー・オーケストラの指揮者に導かれてわき上がった喝采に応えるかのような――うなずき返した。小柄だったが、夏になるとプールの底に潜って過ごしたおかげで胸板が厚く、Aバンドの誰よりもロングトーンを長く続けることができた。が、彼にできることはそれがすべてだった。

 プラマーは疲れて充血した唇の間から、リスのような二本の大きな前歯をのぞかせて、リードを調節し、指を屈伸させながら、自分の卓越した技量に対する次なる挑戦を待ちかまえている。

 今年はプラマーにとっては三年目のCバンドだな、と、ヘルムホルツ先生は、あわれみと不安の気持ちとがないまぜになりながら考えた。たとえ何があってもプラマーの決意を揺らぐまい。Aという神聖な文字の編み込まれたセーターを着る権利を得ようという決意は。たとえそれがどれほどはるかな、気の遠くなるほどはるかな道のりであっても。

 これまでにもヘルムホルツ先生は、プラマーに対して、彼の野心がどれほど的はずれか、何とか説得しようと試み、さらには豊かな肺活量とあふれんばかりの情熱をほかのこと、音程がさほど重要ではない分野に向けることをすすめてきた。だが、プラマーが愛していたのは音楽ではなく、イニシャルつきのセーターだった。ゆでたキャベツと同じくらい音感の欠けているプラマーは、自分の演奏に意気阻喪させられることも欠陥があることにも気がついていなかったのである。



(この項つづく)



カート・ヴォネガット「才能のない子供」その1.

2011-05-18 22:08:10 | 翻訳
カート・ヴォネガットの初期の短編をお送りします。
五回くらいで終わると思います。できるだけ毎日訳していこうと思うので、まとめて読みたい方は一週間後(笑)くらいにまたのぞいてみてください。

原文がお読みになりたい方は

http://www.miguelmllop.com/stories/index.htm

でどうぞ。

* * *

The No-Talent Kid (才能のない子供)

by Kurt Vonnegut



 秋になり、リンカーン高校の周りの木々もさび色に変わり、ブラスバンド部練習室の外壁のレンガと同じ色になった。内部では、音楽科の主任にしてブラスバンド部の指導教官、ジョージ・M・ヘルムホルツ先生が、折りたたみ椅子や楽器ケースに囲まれている。椅子には少年たちが腰を下ろし、ヘルムホルツ先生が白い指揮棒を下ろした瞬間に、それぞれの楽器に息を吹きこもう、打楽器セクションなら打ち鳴らそうと、緊張の面もちで待ちかまえていた。

 ヘルムホルツ先生は四十歳になるが、自分の大きな腹を健康と壮健と威厳の象徴と見なしていた。その彼は、いまや天使のごとくほほえんで、人類がこれまで耳にした音の中でも、最も妙なる調べをこれから解き放とうとせんばかりである。先生の指揮棒が振り下ろされた。

 ブルーンプ! 大きなスーザフォンの音が響いた。
 ブラーッ! ブラーッ! フレンチホルンがそれに呼応して、よたよた、ふらふらしながら不機嫌なワルツが始まった。

 金管楽器が自分の居場所を見失い、木管楽器が意気阻喪し、吹き損なっているというより音が消えかけてきたところへ、打楽器がゲティスバーグの戦いのような音で殴り込みをかけたが、ヘルムホルツ先生の表情は微動だにしなかった。

「アーアーアーアーターター、アーアーアーアーアー、ターターターター!」
テノールの声を張り上げ、ヘルムホルツ先生は第一コルネットのパートを歌う。コルネット奏者は真っ赤になり、汗を流しながら、楽器を膝の上に下ろして吹くのをあきらめ、椅子の上で背を丸めたからだ。

「サキソフォーン隊、聞こえないぞ」ヘルムホルツ先生が声をかける。「その調子!」

 これはCバンドだった。Cバンドの演奏としては、まずまずの出来なのである。本年五度目の演奏では、これ以上洗練させようとしたところで、土台無理な話だ。少年たちのほとんどは団員として足を踏み出したばかりで、数年のうちに、このつぎの時間に集まってくるBバンドに編入できるほどの技術を身につけることになる。そうして彼らの内でもっともうまい者たちだけが、この市でも花形の、リンカーン・テン・スクウェア・バンドの一員となれるのだ。

 フットボールチームは全試合の半分を落とし、バスケットボールチームは三分の二に負けた。だがブラスバンド部は、ヘルムホルツ先生が顧問に就任してからの十年間、一度も二位に甘んじたことがなかった――この六月までは。

フラッグ・バトンを採用したのも州内で最初なら、器楽曲ではなく合唱曲を使用したのも最初、トリプルタンギングを全面的に採用したのも、倍速行進で衆目を驚かせたのも、バス・ドラムの中でライトを照らしたのも、リンカーン高校が最初だった。リンカーン高校はAバンドの団員には、学校のイニシャル入りのセーターを栄誉の印として渡しており、そのセーターは深く尊敬されていたが、それも当然の話だった。このブラスバンドは過去十年間というもの、州規模の大会という大会で優勝し続けてきたのだから――六月の対決を別とすれば。

 Cバンドの団員たちが、換気口からマスタード・ガスが流れ込んででもいるかのように、ひとり、またひとりとワルツから脱落していっても、ヘルムホルツ先生は笑顔を絶やさずに生存者に向かって指揮棒を降り続けながら、頭の中では六月からずっと、彼の楽隊が喫した敗北をかみしめていた。ジョンズタウン高校が優勝したのは、秘密兵器があったからだ。直径二メートルもあるバス・ドラムである。審査員というのは、音楽科ではなく政治家だったので、目も耳も、どこについているのか定かではなく、ただただ世界八番目の不思議にたまげたに過ぎなかったからなのだが、以来、ヘルムホルツ先生の頭の中には、それ以外のことが入り込む余地がない。だが、学校の予算はすでに楽隊の支出を突出させている。教育委員会が前回、先生の熱心な懇願に負けて、特別支出を認めたときは――その費用は、夜間の試合のために、団員の帽子の羽根飾りに、フラッシュライトと電池の配線のためだったのだが――、教育委員長はまるで常習的な飲んだくれを相手にするかのように、ヘルムホルツ先生にこんな約束をさせたのだった。神掛けて、これが最後です。


(この項つづく)




オスカー・ワイルドの話(※一部加筆)

2011-05-10 23:52:47 | weblog
外国の小説の中には、さまざまな引用句がちりばめられている。最初にそのことを知ったのは、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンの翻訳物を読んでいるとき、カッコでくくられた中に小さな字で書いてある(訳注:ルカ伝22章9節より)といった文言からだった。注解がなければ読み過ごしてしまうような言葉に実は深い意味がこめられていたり、登場人物が突然ラテン語をしゃべり出したり。引用句というのはおもしろいものだと思った。

やがて、欧米ではその場にもっとも合った格言・名言を引用できるのが一種の教養であると考えられていることを知るようになる。自分でも原文でミステリを読むようになったころ、辞書と一緒に引用句辞典を買い、それらしい言葉が出てきたら、索引から探してみるようになった。そのうち、引用句辞典を引くのではなく、「読む」ことがおもしろくなって、気の利いた警句や、人間に対する鋭い洞察を飽きず眺めたものである。

そのうち、シェイクスピアや聖書ほどではないが、オスカー・ワイルドの項目にも、ずいぶん多くの言葉が所収されていることに気がついた。当時はまだ、オスカー・ワイルドといえば、子供の頃に読んだ『幸福の王子』や、もう少し大きくなって読んだ『ドリアン・グレイの肖像』の作者としてしか知らなかった。
その人が

  "Always forgive your enemies; nothing annoys them so much.(自分の敵はかならず許してやることだ。それ以上に連中を困らせることはないのだから)"
 
とか

  "What is a cynic? A man who knows the price of everything and the value of nothing. (皮肉屋とは何であるか。あらゆるものの値段を知っていて、何一つその価値を知らない人間のことだ)"

などという、これまで言葉にしたくてもうまくできなかった「ある種の感じ」をずばっと言葉にしてくれている。これはぜひ、もっと読んでみなくては、と思って、それほど多くない小説や戯曲、さらには獄中記に至るまでせっせと読んだ。やがて、彼の人となりを知るようになり、ワイルドがすばらしい名言の数々を残したのも当然、そもそも彼は機知にあふれる警句を口にすることで世に出た、ということを知るようになった。

ワイルドは1854年、アイルランドに有名詩人の母親と、これまた高名な眼科と耳鼻科の医師である父親の下に生まれる。十代でアイルランドの名門カレッジに進学し、そこで「審美主義者」になった。こう書くとたいていの人は「審美主義者」って何だ? と思うだろうが(もちろんわたしもそう思った)、実際のところ、自分はこれから美を追求していこう、日常においても美を至上の価値として、それに沿った生活をしていこう、と決心するのが「審美主義者」なのである。資格も何も必要ない肩書きなので、人からの冷笑を浴びてもビクともしない強い心臓さえあれば、明日からでも看板を掲げるだけならできそうではある。

だが、ワイルドは自称するだけではなく、「審美主義者」の実践に励んだ。トリニティカレッジでは著名な古典学者の下で、学業そっちのけで美しい装飾品や家具、嗜好品に対する見識を深めていった。徐々にアイルランドはワイルドにとって小さな街に思えてきて、イギリスに行き、オックスフォードに進むことにする。それも、オックスフォードが「審美的」に見て自分にふさわしいように思えてのことで、特に何かを勉強しようという目標があったわけでもなかったらしい。

そもそもがそんな動機だったものだから、学業に励んだわけでもなく、卒業したからといって将来が開けることにもならない。いくつか戯曲を書いてはみたものの、上演されるあてもなく、一向に文名は上がりそうにはなかった。

ところがその彼が、ロンドンの社交界では有名人だったのだ。パーティの席上で、誰かが言った言葉に対して、才気あふれる切り返しをしたり、機知に富んだ言葉をふんだんに振りまいたりする人物として。簡単に言えば「おもしろいやつがいる」ということだったのだろう。ワイルドが現代に生まれていれば、きっとおっそろしく頭の切れるお笑い芸人になっていたにちがいない。つまりは何をやっているのだか、誰もその実体をよく知ってはいないのだが、なんとなく有名な、人気者、というわけである。

鋭い言葉で一部の人に人気者だったワイルドが、広く世の人に知られるようになったのは、当時、大変人気のあった、ギルバートとサリバン(ギルバート・オサリバンじゃないよ、十九世紀後半にオペレッタをたくさん書いた二人組だよ)が、ワイルドをモデルにした戯曲を書いたからだった。いつも百合を手にしていた(「なぜなら百合は美しいだけで、何の役にも立たないから」)ワイルドさながらに、百合を手に登場した役者は、巧みな切り返しと魅力的な警句を口にする。そのオペレッタは大評判となり、かくしてワイルドも有名人になったのである。

おしゃべりするだけの「有名人」は、アメリカにも行き、「審美主義者」として各地を講演して回った。ところがアメリカでの評判は高くても、イギリスに戻ればそういうわけにはいかない。「何でもない有名人」のワイルドが、実質を備えるための苦闘はまだまだ続いた。

ところがそんな中、ワイルドの周りには彼を崇拝する大勢の青年たちが集まってくる。その一部と同性愛の噂が立ち、噂をうち消すために結婚し、子供までもうけた。だが、他方で青年たちとの交友も続き、その中から生まれたのが、『ドリアン・グレイの肖像』だったのだ。

当時はヴィクトリア朝、お堅い道徳が幅を利かせた時代である。そのさなかに頽廃そのものの生き方をする主人公を登場させたのだから、当時のセンセーションたるや、すさまじいものだったに相違ない。一躍、ワイルドはベストセラー作家となったのである。

その彼に、近づいていった青年がいた。貴族の息子、アルフレッド・ダグラスである。彼のワイルドに対する傾倒ぶりはすさまじいもので、『ドリアン・グレイ…』を一言一句まで暗記し、熱烈な求愛活動を行った。やがてふたりは公然と関係を結ぶようになるのだが、ヴィクトリア朝の当時、頽廃的な美しさの小説を賛美することと、現実に同性が恋人同士となることはわけがちがったのである。この関係が世間から容赦されるはずがなかった。

だが、いつの世も、破局が訪れてダメージを受けるのは、社会的地位の高い側である。片やこれといって取り柄のない貴族の末息子、片や、『ウィンダミア夫人の扇』『サロメ』などの戯曲で大成功をおさめている作家。となると、社会的地位を失うのはどちらか、明かだろう。

破局は、アルフレッド・ダグラスの父親であるクイーンズベリー侯爵が、ワイルドに対して、「ソドミスト オスカー・ワイルド殿」としたためた手紙を、ワイルドの出入りする社交クラブのテーブルの上に載せておいたところから始まった。だが、公然たる侮辱を受けても、ことさらに仕返しする気のなかったワイルドを焚きつけたのが、息子のアルフレッドである。あろうことか「ぼくを愛しているなら、名誉毀損で父親を訴えてくれ」とワイルドに迫ったのである。

当時、こんな訴訟を起こして勝てるはずがない。あっけなくクイーンズベリー侯の無罪が決まり、逆に今度は侯爵からワイルドはわいせつ罪で訴えられてしまった。

このときワイルドが逃げていれば事なきを得たのだろうが、ワイルドはイギリスに留まった。自分の人間洞察力と魅力的な言葉を武器に、裁判では無罪が勝ち取れると思ったのだろうか。だが、その結果はワイルドを憎む判事によって、可能な限りの過酷な判決が下されたのである。重労働二年の懲役だった。

それまでペンより重いものは持ったことがない……かどうかは知らないが、審美主義者であるワイルドが、重労働に耐えられるはずがない。重労働といっても、重い荷物を運ぶようなレベルではないのである。荒れ地に行き、岩を動かし、穴を掘るような労働である。ワイルドはあっというまに健康を損ない、それでも獄中では何とか生き延びて二年の刑を終えたが、釈放後二年あまり、ホームレスとなり放浪生活を続けたのち、亡くなってしまう。

ところで、禍の元凶たるアルフレッド・ダグラス、当時の彼は、ちょうどやかましい父親、クイーンズベリー侯の死後、財産を相続していたのだが、ダグラスはすべてを失ったワイルドを助けただろうか。
答えはノー。ワイルドの援助の依頼を断っただけでなく、絶交状を叩きつけたのである。「老いさらばえた娼婦のようなことを言うな。金の無心で煩わせないでくれたまえ」と言って。よくもまあ、と思うが、今日まで「悪名」が残り、世界中でさげすまれていることを思えば、彼だってもう十分罰を受けているのかもしれない。

病み衰えたワイルドは1900年、パリのフランスの屋根裏部屋で息を引き取る。
彼の最期の言葉とされているのが、以下のものである。死の床にあったワイルドは、荒れ果てた部屋で、壁紙だけを見ていたのだろうか。

 "My wall paper and I are in a battle to the death, one or the other must go."(わたしの壁紙とわたしはいま死を賭した闘いをしているところだ。どちらか一方が逝かずばなるまい)

鋭いきらめきに満ちた言葉によって世に出、そうした言葉をちりばめた戯曲で成功をおさめ、最期まで言葉を道連れにしたワイルド。彼にとって言葉こそ、文字通り、彼の命だったのだろう。

そのワイルドの忘れられない言葉を。
アルフレッド・ダグラスの父親との泥沼のような裁判のさ中、クイーンズベリー侯は激怒してワイルドをののしる。
「どぶさらいめが。息子までどぶに引きずりこみおって」

それに対してワイルドはこう応えた。

"We are all in the gutter, but some of us are looking at the stars."
(わたしたちの誰もが、どぶの中にいるのです。けれどもそのうちの何人かは、そこから星を見上げています。)





居場所がない

2011-05-06 23:27:13 | weblog
いまではあまり聞くこともなくなった言葉だが、わたしが大学生の頃はまだ「五月病」という言葉があった。大学に入学して一ヶ月ほどが過ぎた五月の連休あけの時期にもなると、入学時の感動も緊張も解け、目標もなくなるのと一緒に、これといって理由もないのに気持ちが塞ぎ、心身共にすぐれない状態に陥る、というのがその「症状」である。

その言葉は知っていても、実際にわたしの周囲で「わたし、どうも五月病みたい」などと使われているのを聞くことはなかったが、反面、「五月病」となる人がいるのも、なんとなくわからないではない、と思ってもいた。

何よりも違和感を覚えたのが、高校まで学校にあった「自分のクラス」「自分の机」「自分のロッカー」が、大学にはどこにもないことだった。つまり、それまでとは異なり、自分が所属する固定した場所というのが、大学の中にはどこにもないのだ。

一応、学部ごとのクラスはあったが、それも語学のクラスで、終わってしまえばたちまち離ればなれになってしまい、学生ひとりひとりなどというのは、「よどみに浮ぶうたかた」のようなもので、まさに「かつ消えかつ結びて久しくとゞまることな」いのだった。

当時思ったのは、「居場所がない」という言葉は、「自分だけのために用意された場所がない」ということなのだなあ、ということだった。自分がこれまでいた場所とはちがって、ここには「自分だけのために用意された場所」というのは、どこにもないのだ、と。自分というのは、大学にとってみれば学籍番号の数字に過ぎず、そんな番号のために「場所」など用意する必要もない、と思われているのだろう、などと考えたこともあったような気がする。

ところがやがてサークルに入ったり、語学やほかの授業で一緒になる数人と集まって、最初はお茶を飲んだり食事をしたり、やがて訳文を写し合ったり、ノートを見せたり見せてもらったり、ということを続けるうちに、いつのまにか「居場所がない」などということを考えることもなくなっていた。

別に空間的な意味で「自分の場所」を見つけたわけではない。単に、自分を受け入れてくれ、そこにいなければ気遣ってくれ、何かがあれば誘ってくれる人間関係ができたに過ぎない。つまり、「居場所」というのは、自分とほかの人とのあいだに生まれる関係のことだったのである。

「場所柄をわきまえる」「その場にいたたまれなかった」「場の雰囲気(空気)になじめない」「場がしらける」……というふうに、わたしたちは「場」や「場所」という言葉を使って、さまざまな状態を表現する。けれども多くの場合、そんなときの「場」というのは、空間的なものというより、その「場所」での人間関係、さらに言えば、人間関係の中で自分の果たす役割があるかどうか、ということなのだろう。

大学や、新しい環境の中に入って一ヶ月が過ぎて、少しずつ周りが見えてきた反面、「いまの自分には居場所がない」と感じている人もいるかもしれない。そんな人に言いたいのは、「居場所」というのは人間関係のことだ、ということである。人間関係を形成していけば、かならず自分の「居場所」は見つかる。

いまはまだ自分が何の「役割」を割り振られているのか、わけがわからないかもしれない。舞台に立たされたのはいいが、自分が演じているのが何の役かもわからず、せりふさえ知らされていないような状況なのかもしれない。けれども、そんなことがはっきりわかっている人などいないのだ。多少年期が入っている人や経験を重ねた人がいるにせよ、たいていはアドリブでやっている。だとすれば、こちらも何か言ってみて、返事によって立ち位置を修整しながら、少しずつ関係を積み重ねていくしかない。

慣れるまでの期間というのは、その人にもよるだろうし、周囲の環境にもよるだろう。それでも、結局は、人との関係をどう築いていくか、ということなのだ。
不安でいる人も、みんな「自分の居場所」が見つかるといいね。