陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

陰陽師的2011年占い

2010-12-31 22:52:53 | weblog
去年はやらなかったのですが、ご要望があったので今年はやります。
恒例の「陰陽道的に意味のない“陰陽師占い”」でございます。

今年のテーマはあなたが来る2011年、「何に気をつけたら良いか」ということです。
どうか星座ごとにあげる「注意点」に留意して、波瀾万丈、何が起こるかわからない新しい一年を、パワフルに、きめ細やかに乗り切っていってください。

陰陽師的2011年占い


【牡羊座】
2011年の注意点:「落とし物」に注意

2011年のあなたが気をつけるべきことは「落とし物」です。
何を落とすのか、いつごろ落とすのか、そんなことはわたしに聞かないでください。牡羊座の人がいったい何人いると思っているか知っていますか? そんな大勢の人が、いちどきに同じ物を落とすはずがないのです。
ともかく、あなたは何かを落とす可能性があります。きっとそれはあなたにとって重要な物。落としたら困る物にちがいありません。物ではなくて、もしかしたら自転車の子載せに乗せた子供かもしれませんが。
ともかく落とし物に気をつけてください。
2011年の年末を振り返って、何も落とさなかったとしたら、わたしのアドバイスが役に立ったということです。感謝してください。


【牡牛座】
2011年の注意点:「拾い物」に注意

世の中にはうっかりした人間が多く、彼らは財布だの携帯電話だの自転車の子載せに乗っている子供だの、ありとあらゆる物を落としていきます。ですからあなたがそうした「落とされ物=拾い物予備軍」に出会う確率は、決して少なくありません。ですから今年、あなたは目の前に落ちている「拾い物予備軍」を前に、態度を決めなければならないでしょう。
拾うか、見なかったことにするか。
拾えばそこからさらに、警察に届けるか、こっそり自分のものにするか……と選択肢が広がっていき、取るべき行動を誤ったら、人違いされてマフィアにつけねらわれることになるかもしれず、CIAにマークされることになるかもしれず、あなたの人生が思いもかけない方向に転がっていくかもしれませんが、見なかったことにしても、同様にそのせいでとがめられたり、儲け話を取り逃がしてしまうことになるかもしれません。
態度を決めるのはあなたです。そこから先どうなるかまでは、わたしの関知するところではありません。自分の好きなようにして、わたしに苦情を言わないでください。わたしに言えるのは、「拾い物」に注意、というところまでです。
来年の大晦日、何にも拾わなかった、と思っても、よくよく考えてみてください。隠喩としての「拾い物」はありませんでしたか? つまり一年、命があっただけでも、「こりゃあ拾い物だったよ」ってことです。


【双子座】
2011年の注意点:「遅刻」に注意

春眠暁を覚えず、といいますが、夏は寝苦しくて朝起きられないし、秋は夜長で起きられないし、まして冬の朝、布団から出られるわけがありません。「遅刻」の危険は一年三百六十五日、休みの日以外、あなたについてまわります。
ですから、この星座のあなたはとにかく「遅刻」に注意してください。
いやなこと、面倒なことを前にすると、わたしたちはとかく億劫になりがちですが、ほんとうの計画は仕事の上にしか成長しません。だからともかく定刻に仕事を始める。そのことだけをとりあえず念頭に置いて、辛抱してみてください。
目覚まし時計を増やすもよし、アラームをセットした携帯を耳元に置くもよし、鳴ったら起きる、が基本です。鳴って止めたら地獄が待っています。学生時代、隣の部屋の目覚まし時計で毎朝起きていたわたしは、その実例をよく見ています。


【蟹座】
2011年の注意点:「待ち人」に注意

世の中には何やかやと言い訳しながら遅刻してくる連中にあふれています。「浜の真砂は尽きるとも 世に遅刻した理由は尽きまじ」と言いたくなるほどです。最近では携帯電話が普及した結果、待ち合わせの時間の変更も容易になりましたが、どれだけ相手が来る時間がわかったとしても、あらかじめ予定を組んでいたあなたの方が待たされることには変わりありません。
ですから今年、あなたが「待ち人」にイライラさせられる可能性は、極めて高いでしょう。あなたの注意点は、ズバリ、「待ち人」でしょう(丸尾君ふうに)。
問題は、待たされている時間をどう使うかです。
佐々木小次郎は「待つこと」しかしなかったために疲弊し、モンテ・クリスト伯は獄中で力を蓄えました。つまりは待っている時間の主導権を自分が握るということです。待っている時間を有効に使ってください。たとえばghostbuster's book web.を見るなどはいかがでしょう。


【獅子座】
2011年の注意点:「ほんとうのこと」に注意

世の中に「ほんとうのナントカ」はあふれています。
ウソを言っている人が大勢いるから? 
とんでもありません。「ほんとう」と言っている人は、それを「ほんとう」だと信じています。つまり、何を「ほんとう」とするかは、その人次第、ってことです。
だから、2011年のあなたが注意しなければならないのは、注意して「ウソの中にあるほんとう」や「ザ・トゥルーエスト・オブ・ザ・ほんとう」を見つけることではありません。
「ほんとうのナントカ」と言う人が「ほんとう」という言葉でいったい何を言おうとしているのか。
「ほんとうの「スイーツ」を食べたことがありますか」と言う人は、このロールケーキを買え、と言っているのだし、「ほんとうの私を誰も知らない」と言う人は、「アタシはあんた何かが思ってるようなチャチな子じゃないのよ」と言いたい。「ほんとうは何がしたいかわからない」と言っている高校生は、やらなければならない勉強をしたくないだけだし、「ほんとうの問題点はそんなところにはない」と言っている人の「ほんとう」は、「てめーら、バカなことばっか言ってんじゃねえよ、オレ様の言うことを聞け」という点にある。
注意して、「ほんとうのナントカ」という言葉にこめられた「ほんとう」を見つけてみてください。それを暴いたって良いことはないでしょうが、とりあえず対策を立てることはできるでしょう。


【乙女座】
2011年の注意点:「正しいこと」に注意

「ナントカが正しい」と言い切るのは、気持ちの良いものです。「あいつが悪い」「あの人さえいなかったら」……と悪い人を断罪するだけで、あなたはちょっとした水戸黄門もしくは遠山の金さんになったような気分になれます。
ただ問題は、そうしたドラマは後日談を描かないというところにあります。黄門様ご一行はどこかへ行ってしまうし、遠山の金さんも遠山景元に戻ってしまい、あとは自分たちで何とかしなければなりません。「誰が悪いか」を明らかにしたところで、実は何の解決にもならないのです。
ところがわたしたちは「誰が悪いか」を見つけただけで、「正しいこと」をしたような気になり、解決することを忘れてしまいます。「正しいこと」は「思考停止」の危険をはらんでいる。だからこそ「正しいこと」には注意が必要。「誰が悪いか」と考え始めたら、「どうやって解決するか」と問題意識をシフトしてください。


【天秤座】
2011年の注意点:「食べ物」に注意

「食べ物に注意」というのは、食材に注意ということなのか、病気になるという意味で注意しろということなのか、太るから注意せよということなのか、ダイエットに注意ということなのか、人によってちがいます。とにかく、「自分の口に入れる物」に注意してください。どう注意したらいいかは、おそらくあなたが一番わかっているはず。
ひとつ言えるのは、食べ物に注意するのをつきつめると、結局、自分で作ってみることに行き着きます。ですから、今年は台所に立ってみてください。ふだんから立っている人はもちろんのこと。
台所はとりもなおさず、火や刃物を使うという場所。つまりは家の中で一番危険な場所ともいえます。たとえ包丁や煮えたぎる鍋が飛び交わなくても、そこにいるだけであなたの危険予知能力はアップするはず。


【蠍座】
2011年の注意点:「飲物」に注意

英語の drink にせよ、日本語の「飲む」にせよ、飲むといったら胃薬……ではなくて、アルコール飲料ということになります。あなたがお酒を飲む習慣がある人なら、「飲む」人はあなたで、某歌舞伎役者のように飲んだあげく「厄介」を背負い込むことになるかもしれませんし、奈良漬けを食べるだけで酔ってしまう人なら、某歌舞伎役者のような「飲む」人に厄介な目に遭わされるのかもしれません。
このように「飲む」という行為は、わたしたちを危険な場所に立たせる可能性をはらんでいるのです。ただ、危険はそれとたわむれると痛い目に遭いますが、避けているだけでは危機回避能力も身に付きません。
「飲物に注意」しつつ、うまくつきあってください。
もしかしたら「注意」の中味は、デート中にコーラを飲んで、恋人の前で派手なゲップをしてしまうということなのかもしれないし、夏の暑い日に水筒を忘れてしまうということなのかもしれませんが。


【射手座】
2011年の注意点:「余計な一言」に注意

「余計な一言」は甘美な誘惑です。マジメな空気が張りつめているとき、上司や先生がつまらない失敗をしたとき、もっともらしいことを声高に主張する人間が現れたとき、あなたはつい、「余計な一言」を言ってしまいたくなります。
ただ、「余計な一言」を言われて喜ぶ人はあまりいません。たいてい言われた方は、気分を害し、あなたをうとましく思うはず。
このことからわかるのは、自分の気持ちを自分でコントロール(「余計な一言を言わないようにしよう」)するより、人の気持ちをコントロール(「その赤いネクタイ、よく似合いますね。もうちょっと幅が広かったら還暦のよだれかけかと思いますよ」「……(その口をホッチキスで留めてやろうか)」)する方が、よほど簡単だということです。
人を不愉快にして、良いことはひとつもない。となると、「余計な一言」に注意する、ということは、「余計な一言」を口にしたくなったら口を閉ざす、ということにほかなりません。


【山羊座】
2011年の注意点:「忘れ物」に注意

このところ記憶力の減退を感じているあなたの注意点は、ズバリ、「忘れ物」。持っていく物を忘れたり、宿題を忘れたり、電話することを忘れたり、約束を忘れたり、アポイントメントを忘れたり、忘れたことさえ忘れてしまうかもしれません。
「忘れ物」の問題点は、相手がいる、という点にあります。宿題を忘れたら、先生からお目玉をくらうことになるし、報告書を忘れたら、会議の席で、並みいる出席者の非難の視線を浴びながらプレゼンしなければなりません。
運が良ければ、相手も忘れてくれて「なかったこと」になるかもしれませんが、多くの場合、忘れられた方は、あいつ、忘れたな、といつまでも執念深く覚えているもの。
忘れることがないように、メモを取る、冷蔵庫の前に貼る、手の甲に書いておく、など、さまざまな予防手段を編み出してください。出がけに「帰りに練り辛子買ってきて」と頼まれて、手の甲に「練り辛子」と書き、つぎに手の甲を見るのは、帰宅して手を洗うときかもしれませんが。
ただ、忘れてしまった失敗だけは、くよくよしても始まらない、これだけは忘れたもん勝ちです。

【水瓶座】
2011年の注意点:
「過去のまぼろし」に注意


仕事の期限や試験の期日が間近にせまってくると、誰でも焦りを感じ、疲れてくるものですが、こんなとき、自分は何と頭が悪いのだろう、という考えも起こりがち。ついでに過去の出来事を振り返って、自分が失敗したり、批判されたりした記憶を呼び出して、自分の頭が悪い証明までしてしまうものです。こんなことをしてしまうと、これから良い仕事ができるはずがないし、受かる試験まで失敗してしまいます。
同じように、気分の晴れないとき、大昔に言われた悪口や、意地の悪い批判を思い返して腹を立てたり、恋人に振られて悲しかったことを思い出し、ふたたび涙を流してしまうかもしれません。
でも、終わったことは終わったこと。いまのあなたの仕事を妨げているのは、過去のまぼろしにとらわれてくよくよしている「いまの自分」だし、「悪口」をもう一度、いまの自分に聞かせているのも、ほかならぬ「いまの自分」です。
いまのあなたに必要なのは、自分のしでかした失敗や、受けた侮辱を検討することではなく、そんなことをくよくよ思い返している自分を笑い飛ばすこと。「悲劇の主人公」ぶっている自分なんて、冷静に眺めればきっと笑えるはずです。


【魚座】
2011年の注意点:「占い師」に注意

占い師はあちこちにあふれています。テレビをつければ太ったおじさんが偉そうに能書きを垂れているし、ネットには有料無料の占いサイトが花盛り。315円という価格がどこからきたものか、2000円のところにくらべてどれほど当たらないものなのか、いったい誰に説明できるのでしょうか。それでも、2000円の方が、無料のサイト(たとえばこんなページ)より「当たる」ような気がするのは、あなたが言われるとおり、自分に言いきかせているからです。
つまり占い師はばくち打ちに向かって「あなたはばくちを打つでしょう」、守銭奴に向かって「あなたはお金を貯めこむでしょう」と言っているようなもの。占い師のひとことで、あなたは「ばくち打ち」になったり「守銭奴」になったりするのです。
占い師の言葉によって、あなたは自分に一種の呪いをかけています。そうしてそれが予言を成就させていることを忘れてはいけません。
誰の身の上に起こることでも、すべて思いがけないもの。
自分だけ、それを先に知っておこうとすると、結局自分に呪いをかけてしまうことになります。
思いがけない一年を、どうか楽しんでください。


* * *



2010年もブログ「陰陽師的日常」とghostbuster's book web.をご愛顧くださってどうもありがとうございました。
ちょっと「リアル」の方がいろいろ忙しくなってしまって、更新が滞っていたのですが、まあぼちぼちとやっていきたいと思っています。

2011年も世間は忙しそうですが、世間のあわただしい動きと一歩離れて、あれやこれやの話と英米短編の翻訳を、歩く速さでやっていきたいと思います。
気が向いたときで結構です。息長くおつきあいくだされば幸いです。

新年は一月二日までおやすみして、三日から始めます。どうかみなさま、良いお年を。

2011年もどうぞよろしく。




歴史小説の楽しみ その2.

2010-12-29 19:19:12 | weblog
(承前)

司馬遼太郎の連作短編集『幕末』(文春文庫)の巻頭を飾るのは、「桜田門外の変」である。

わたしたちはこの短編を読まなくても、「歴史的事実」として「桜田門外の変」が1860年に起こり、時の大老井伊直弼が暗殺され、江戸幕府崩壊の口火を切ったことを知っている。

けれども司馬遼太郎は、こんな書き出しで話を始める。
 桜田門外の事変であまねく知られている有村治左衛門兼清が、国許の薩摩から江戸屋敷詰めになって出府したのは、事件の前年、安政六年の秋のことである。二十二歳。
「江戸にきて何がいちばんうれしゅうございましたか」
 と、さる老女からからかい半分にきかれたとき、
「米のめし」
 と治左衛門は大声で答えた。薩摩藩士にはめずらしく色白の美丈夫で、頬があかい。外貌どおり、素直すぎるほどの若者だったのであろう。
(司馬遼太郎「桜田門外の変」『幕末』所収 文春文庫)
ここまで読んだだけで、読者はみんな治左衛門に好感を抱くだろう。作為のない、「真っ直でよいご気性」の青年なのだから、『坊っちゃん』の清ならずとも好きにならずにはいられない。こうやって作者は開始後ほんの数行で読者を引き込むのである。これを見事な手際と言わずに何と言おう。

そこからわたしたちは治左衛門とともに、幕末の江戸を生きていく。三月三日が近づくにづれ、そこから先、どうなっていくかがわかっていても、それでも事の正否に胸がドキドキする。
 やがて、合図の短筒がひびいた。
 治左衛門は、左から突進した。駕籠までの距離は二十間はあろう。
 佐野は右から突進。
 駕籠の右脇には、井伊の家中できっての使い手とされた供目付川西忠左衛門がいる。すばやく大刀のツカ袋を脱するや、まず飛びこんできた稲田重蔵を片手で斬り、さらに脇差をサヤのままぬいて、広岡子之二郎の一撃を受けとめた。川西、両刀使いで知られた人物である。つづいて飛びこんできた海後嵯磯之介に浅傷を負わされ、広岡に踏みこまれて肩を斬られ、斬られながらも広岡の額を割った。
 そこへとびこんできた佐野竹之助は、まず川西に致命の一刀をあびせ、死体をとびこえ、まっすぐに井伊の駕籠へすすんだ。

この短編を読みながら、わたしたちは「桜田門外の変」に立ち会う。「知る」のではなく、雪の冷たさを感じ、血の臭いを感じ、斬られた痛みを感じ、つまりは経験するのだ。

読者をぐいぐいと引き込むような、おもしろい、よくできた歴史小説は、年表にあるときは単に文字の連なりでしかなかったことがらを、わたしたちに経験させてくれる。

だが、人物を中心に据えた歴史小説には、不可避的に困った問題も起こってくる。

あらゆるドラマには悪人がつきものだ。この「ドラマ」というのは、テレビでやっているあれのことではなく、劇的構築物、小説であろうが映画であろうが演劇であろうが、はたまたノンフィクションであろうが、いわゆる「ドラマティック(劇的)」な要素を持つすべての「書かれたもの」を指しているのだけれど、そうしたものにはかならず主人公(ヒーロー)に対して、悪役(アンチヒーロー)が登場する。主人公と悪役の対立が、ドラマを緊迫させ、盛り上げる。

当然、短編「桜田門外の変」にも悪役が出てくる。井伊直弼である。主人公が「善い人間」であるためには、そうして「暗殺」という行為が正当化されるためには、悪役たる井伊は、小悪党では務まらない。巨悪でなければならない。事実、作中では井伊はこのように描写される。
 井伊は政治家というには値いしない。なぜなら、これだけの大獄をおこしながらその理由が、国家のためでも、開国政策のためでも、人民のためでもなく、ただ徳川家の威信回復のためであったからである。井伊は本来、固陋な攘夷論者にすぎなかった。だから、この大獄は攘夷主義者への弾圧とはいえない。なぜなら、攘夷論者を弾圧する一方、開国主義者とされていた外国掛に幕吏を面黜し、洋式調練を廃止して軍制を「権現様以来」の刀槍主義に復活させているほどの病的な保守主義者である。
 この極端な反動家が、米国側におしきられて通商条約の調印を無勅許で断行し、自分と同思想の攘夷家がその「開国」に反対すると、狂気のように弾圧した。支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者である。

ここまで井伊がどうしようもないやつであれば、暗殺やむなし、という気持ちにもなってくる。読者は誰もが井伊直弼を憎む。手に汗握って、彼が殺されるのを待ち望むようになる。

そうして、誰もが知っている結末を迎え、この短編は幕を閉じる。けれども、読者の脳裡には、「井伊直弼=支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者」という人物設定が、あまりに強烈であるために、そのまま残ってしまうことはないだろうか。

昨日も書いたように、歴史小説というのは、ひとつの歴史的出来事の見方だ。さらに、いわゆる「歴史的事実」というものでさえ、解釈を離れては成立しない(「「事実」とはなんだろうか」)。

歴史というのは傑出したひとりの人間が動かすものではない。さまざまな条件が重なって、さまざまな出来事が起こり、それらが合わさって大きな流れとなり、「歴史」を作りだしていく。だからこそ、さまざまな解釈があり、さまざまな見方ができるのである。

だが、おもしろい、良くできた歴史小説は、逆に、わたしたちのものの見方を固定してしまう。それ以外の見方があることを忘れ、「井伊直弼=支離滅裂、いわば精神病理学上の対象者」という図式ができてしまうのだ。

本来わたしたちは「新撰組」を題材にした小説と、「坂本龍馬」を題材にした小説を両方楽しむことができる。政治的な主張としては正反対、片方で「良い」とされていることが、片方では「打破すべきもの」とされているにもかかわらず。

つまり、読者は「支離滅裂」なのではなく、「新撰組」を読むときと「坂本龍馬」を読むときでは、歴史を別の角度から眺めている。さらに別の作家の手による明治維新ものを読めば、同じ歴史的出来事が、また意味を変えていく。
意味がそうやって変わり続けるからこそ、わたしたちは何とか「正しい像」を得ようとして、さらに熱心に読書の幅を広げていく。それは同時に人間を知ることにもつながっていく。

今年は龍馬の年だったらしく、坂本龍馬を模した人形のストラップまで登場した。確かに「龍馬=風雲の志士」というイメージは、わたしたちに広く受け入れられているのだろう。

それでも、そうではない見方もあるのではないか。
イメージをひっくり返すような。
自分を感動させるような新しい解釈が。
そんなものであり続ける限り、歴史小説はどこまでいっても楽しい読書経験になっていくのではあるまいか。

歴史小説の楽しみ

2010-12-28 08:30:55 | weblog
小学生のころ、授業で歴史を教わっているときに、平安時代の終わり頃に来て、担任の先生がやたらと平清盛を悪く言い、源頼朝を持ち上げるのに気がついた。

曰く、平清盛は悪い人間で、人びとを苦しめた……。自分の一族で要職を固めて、権力をほしいままにした……。しかも平家というのは、一門で要職を独占したあげく、「平氏にあらずんば人にあらず」などと公言するような、貴族かぶれしたいやらしい連中だった……などなど。

そうして、その貴族かぶれした平家を追い落としたのが源頼朝だったと、あたかも救世主か、はたまたナポレオンか、という調子で誉め称えたのだった。

当時のわたしは、子供向けにリライトした『平家物語』を繰りかえし読んでいて、なかでも歌を詠み、舞いを舞う、光源氏の再来とまで言われた平惟盛が、当時の(言っておくが、あくまで十歳当時のわたしにとっての、である)アイドルだった。「貴族かぶれ」という言葉は、自分のヒーローを直接貶めるもののように思え、内心悔しくてたまらなかかった。

登場人物の系図も、主だった出来事も、すべて暗記していたぐらいだから、「平氏にあらずんば……」という言葉が平氏一門とは血縁関係のない、清盛の妻時子の弟である平時忠の言葉であることも知っていた。確かに時忠はつまらないいやな人間だったが、公家出身で、「貴族かぶれ」ではなく、貴族そのものだったのだ。平氏が権力を握る前の公家たちが、どんなにいやらしい連中だったか。清盛の父、忠盛を辱めたことにも見て取れる。そんな連中の一人が、権力の近くにいることに気をよくして、そんないやらしいことを言ったのだ、と指摘したように思う。もちろんそんなに理路整然とは説明できなかっただろうが。

そのときの先生の返事はまったく記憶になかったが、ともかく源頼朝はすばらしい、私利私欲に走らず、御家人のために鎌倉幕府を開いたのだ、という話が続いていった。

こんなふうに書いてしまうと、ずいぶんバイアスのかかった、とんでもない授業をするような先生に思えるが、中学、高校に行ってもやはり、先生は、誰それはつまらない人間だった、とか、誰それはほんとうに立派な人物だった、という程度のことは言っていたように思う。

現に「暴君ネロ」や「賢帝マルクス・アウレリウス」、「凡将徳川秀忠」などのように、人物の名前には、すでに評価が組みこまれているようなケースも少なくない。どうやらわたしたちは歴史的人物を評価抜きに見ることは、かなり難しいらしい。

ところで、こうした歴史の勉強とは別に、歴史小説というものがある。
わたしたちが歴史小説を読むのは、「その出来事に関わった人がどんな人か」を知りたいからである。1600年に関ヶ原の合戦が起こったことは知っていても、それがどんなものだったかはわからない。だが、ひとたびフィクションを通してみると、「人間が起こしたこと」「ある種の人間の普遍的な資質が引き起こしたこと」として、眺めることができるようになる。出来事が立体的に浮かび上がってくるばかりではない。ある登場人物が備えている資質を読む内に、自分のなかにもほかならぬその資質があることを発見する、自己発見の機会でもある。

つまり、歴史小説を読むということは――歴史の勉強をするといっても良いのだけれど――、出来事の見方を学ぶということなのである。作者はひとつの見方を提示してくれる。ひとつの出来事が、途方もなく複雑な人びとの行き交いによって支えられていることが見て取れるよう、その見て取り方を示してくれるのである。

わたしたちはそれによって、「出来事を起こした人間」を知る。「出来事を起こした人間」の持つ「資質」――権力欲であるとか、正義感であるとか、傲慢さであるとか、向上心であるとか――を理解する。そしてまた、人間の評価の仕方を知る。歴史の勝者がすなわち立派な人間ばかりではないことや、滅びるとわかっていながら、懸命にそれを先へ送ろうとする人間の努力、といったことを。

そうしてひとつの歴史小説を通じて興味の深まった出来事や人物をさらにくわしく知るために、今度は歴史小説を離れ、もっとほかの論説書や資料を見ることによって「自分の見方」を作っていくようになる。

「自分の見方」ができれば、人に知らせたい。だからこそ、織田信長や豊臣秀吉や勝海舟らについて、多くの小説が書かれていくのだ。

いずれも、その底にあるのは、人間の興味である。そんな出来事を起こした人は、どんな人なのだろう。

「どんな人か」というのは、個人の解釈を通してしかありえない。解釈をつきつめていけば、結局その底にあるのは、好きかきらいか、なのである。


サイト更新しました

2010-12-23 22:58:04 | weblog
なんとか時間を見つけて、これまで書いたままにしているログをサイトにアップしようと思っています。ということで、手始めに「鶏的思考的日常vol.34」をアップしました。昔書いたネタですが(笑)、またお時間のあるときに、ちょぼちょぼ見てもらえたら、おもしろいかもしれません。

ということで、それじゃ、また。フィッツジェラルドも近い内に。


http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

助けてもらうということ

2010-12-21 22:12:42 | weblog
先日、携帯の機種変更の手続きをしに販売店に行った。カウンターの向こう側に坐っているお姉さんの指示に従って、書式に記入していたところ、ついたての向こうから声が聞こえてきた。何やら叱責しているらしい声が、わたしのところまで聞こえてくる。なんとか低く抑えようとしているらしいのだが、店内が静かだったせいで、言葉がはっきりと響くのだった。思わず顔を上げると、向かいのお姉さんも、居心地の悪そうな顔をしていた。

「あと、ここもお願いします」
「はい」
言われるまま記入を続けながら、耳に入ってくる声を聞くともなしに聞いていたのだが、教育係だか上司だか知らないが、女性の尖った声が
「わからないって、いったい何がわからないのよ。それを言ってくれなきゃ、こっちだって教えようがないでしょう」
と、それまでにも増してはっきりと聞こえてきた。

向かいのお姉さんもいたたまれなくなったのか、ちょっと失礼します、と奥へ入り、同時にぴたりと声が止まった。しばらくすると、その声の主らしい、厳しい顔をした女性と、叱責されていたとおぼしい暗い顔をした女性もそれぞれ出てきて、やがて店内も通常の業務に戻ったようだった。

ただ、わたしの頭の中に「わからないって、いったい何がわからないのよ」という強い調子の言葉がいつまでも残った。

わからないときというのは、実際、どこがわからないかわからないものだ。逆に、どこそこがわからない、たとえば「比較表現でtheがつくときと、つかないときがあるけど、どういうときにつくのか」と質問してくる中学生は、「比較表現」をある程度のところまで理解している子に限られる。つまり、わからない箇所を特定できるというのは、かなり実力がある人なのである。

こうしたことはほかにもある。
仕事を任されたのだが、まるっきり力のない人は、ひとりで到底できないのはわかっていても、助けを求めるとなれば、どこをどう助けてほしいのかわからないし、誰に助けを求めて良いのかもわからないから、結局、助けさえ求めることができない。助けてもらおうと思ったら、結局誰かに全部やってもらうしかないというような状況である。

それに対して、「ここに表を入れたいんだけど、わたしはエクセルが使えないから表を挿入することができないの。だから表の入れ方を教えて」という具合に、具体的な助けを求めることができる人は、その「表」以外のことはすべてできているのである。

こうしたことを考えると

・力がある人は、助けを借りることができる。
・力がない人は、助けを借りることができない。

とまとめることができる。

この「力」というのは、現実にはさまざまなかたちを取って現れる。
お金がない、ということもそうだ。

わたしはお金がないころ、どれだけお金がなくても借金だけはすまい、と心に決めていた。何もポローニウスの説教を守るつもりだったわけではなく、今月お金が不足しているということは、来月もやはり不足するということにほかならないからなのである。仮にいまの不足分を借金で穴埋めすれば、来月も同じように借金しなければならなくなる。借金を返済しようと思ったら、月々の収支をトントンにできるところまで収入を増やすばかりか、さらには借金が返済できるほどの収入を得なければならない。収入が増える具体的な目安もないのに、借金ができるはずがない。

つまり、借金していいのは、お金がある人間だけ、お金がない人間は借金はできないのである。

わたしたちは、ふだん、人の助けを借りるのは、力がないからだ、というふうに考えている。でも、実際はそうではない。これまで見てきたように、力がなかったら人の助けを借りることもできない。

こうした取り違えには、いくつものバリエーションがあって、たとえば「Aさんが~できたのも、Bさんの助けがあったおかげだ」という言い方には、Aさんの能力をいくぶん貶めるニュアンスがあるのだが、実は、Bさんの助けを借りて成功ができるほど、Aさんは能力があった、ということなのである。

これでは、力がない人間はいつまでたっても力がないままではないか。貧乏な人間はいつまでたっても貧しいままだし、弱い人間は未来永劫、虐げられたままなのか。

確かにそうなりがちではあるのだけれど、決してそうと決まったものでもないように思う。

まず、借金にしても、助けにしても、足らないところを補うため、欠乏を埋めるため、と考えることがまちがっているのだ。だとしたら、いったい何のために、わたしたちは助力を仰ぐのだろうか。

おそらくそれは、わたしたちが自分の枠組みを広げるためだろう。
いまある自分をいったんリセットする。自分の生活のあり方、ものの見方・考え方を根底から作り直していく。自分の枠組みを広げようと思ったら、これまでの自分をいったん砂漠化し、そこから新たにもう一度自分自身を作りなおしていくことが必要だ。そのためにこそ、自分以外のものの見方や力や資力が必要になってくる。助力というのは、欠乏を埋めるためではなく、自分を作りかえていくために必要なのだろう。

何かがわからない。それは、ある一つのやり方を覚えることによって解消する場合もある。だが、ほんとうに「できない」「わからない」状態にあるときは、そんなものでは間尺に合わないのである。むしろ、それができる自分になれるよう、自分のものの見方・考え方、仕事のやり方、生活全般を組み立てなおしていくことが必要で、アドバイスや助力はそのためのものでなければならないのだろう。何よりも、いまの自分ではダメだ、どうしようもない、根本的に自分を作り直していくのだ、という覚悟が必要になってくる。

力がない。では、自分に何ができるのか。自分のできることをもっと増やすためには、いったい何をしたらいいのか。自分のできることとできないことの境界を見きわめながら、その境界を少しでも広げていくしかない。

逆にいうと、もしかしたらわたしたちは、「欠乏」ということをあまりに簡単に考えすぎているのかもしれない。何かがうまくいかない。ちょっとした「もの」が足りない。あのうっとうしい上司がいなければ、わたしの仕事はうまくいくのに。月々もう一万円、余分にバイト代が入ると楽になるのに。計算ミスがなくなればもっと成績が上がるのに……といった具合に、わたしたちの日常に現れるちょっとした「穴」は、どこかから何かを持って来さえすれば、あるいは逆に障害になるものをどこかに持っていきさえすれば、簡単に解消できるぐらいの気持ちでいるのではあるまいか。

けれども、一度や二度ではなく、毎回立ち現れる穴や障害は、わたしたちのものの見方・考え方や、仕事のやり方、日々の生活そのものに、原因があるのだ。

なぜうまくいかないか。自分のあり方をそうやって振り返ってみるだけで、わたしたちは自分自身を対象化して見ることができるはずだ。どこまでそれを突き放して見ることができるか。

他人を厳しい目で査定するように、自分のあり方の欠陥を見据えることができさえすれば、おそらくわたしたちは「助け」を求めることができるのではないか。
助けてくれる人がいないのではなく、助けを得られる状況まで、自分自身で問題を整理する。おそらくそれが、助けを求めることのできる「力」がある状態なのだろう。




スコット・フィッツジェラルド「生意気な少年」最終回

2010-12-19 23:34:49 | 翻訳
その14.



ティールームと中央通路は、並べた鉢植えのモミで隔てられているだけだ。ベイジルはそれに沿ってラウンジを進み、彼らのテーブルのほぼ正面の席を取った。

 彼女の声は低くとぎれがちで、演技をしているときのように、言葉も明瞭ではなかった。なによりひどく悲しそうだった。
「もちろんあたしもそうだわ、テッド」

会話の間中、彼女は「そうよ、もちろん」とか「でもそうなのよ、テッド」とかと繰りかえしていた。テッド・フェイの返事は低すぎて、ベイジルには聞き取ることができない。

「――来月って言ってきてるの。あっちももうこれ以上延期されるのはごめんだって……ある意味ではわたしだってそうなのよ、テッド。とっても言いにくいことなんだけど、あの人、お母さんにもあたしにも、とってもよくしてくれてるの……。自分にウソをついてもしょうがないわ。あれは誰がやったって失敗するはずのない役だったし、あの人からその役をもらった女の子はみんなすぐに有名になったんだもの……あの人、すっごくいろんなこと、考えてくれてるんだわ。あたしのために何だってしてくれるんですもの」

 夢中になって耳をそばだてているせいで、ベイジルの聴覚は鋭くなっていた。いまやテッド・フェイの声すら、聞き取ることができた。

「だって君はぼくを愛してるって言ったじゃないか」

「でも、あたしがあの人と婚約したのは一年以上も前なのよ」

「ほんとのことを言えよ――愛してるのはおれだって。あきらめてくれって頼めよ」

「これはミュージカル・コメディじゃないのよ、テッド」

「あれは安っぽい芝居だったな」と吐き捨てるように言った。

「ごめんなさいテッド、でもね、あなたにこんなふうに言われると、あたし、おかしくなっちゃいそうよ。あんまり辛く当たるんだもの」

「とにかくイェールは止める」

「だめよ、そんなことしちゃいけない。あなたは学校に残ってこの春も野球の試合に出なきゃ。あなたは男の子たちの理想なんだから! もしあなたが……」

 彼は短く笑った。「理想を語らせたら右に出る者はいない、ってとこか」

「だってそうじゃない? あたしはベルツマンに対する責任を果たそうとして一生懸命やってるの。あなただって心を決めて。あたしだって決めたんだから――あたしたち、一緒にはなれないのよ」

「ジェリー! 自分が何をしようとしてるかわかってるのか。おれは一生、あのワルツを聴くたびに……」

 ベイジルは立ちあがると大急ぎで廊下を渡り、ロビーを抜けてホテルの外へ出た。気持ちは千々に乱れ、頭は混乱しきっていた。聞いたことのすべてが理解できたわけではない。だが、ふたりの私生活をこっそりとのぞき見することで、ふたりの抱える問題を通して、人生経験のまだ浅い彼にも理解できたことがあった。誰にとっても人生は闘いなのだ。その闘いは、遠くから眺めているぶんには崇高に見えたとしても、すべからく困難で、同時に驚くほど単純で、しかもいくぶんはもの悲しい闘いなのだ……。

 あのふたりは、これからも進んでいく。テッド・フェイは、きっとイェールに戻る。あのひとの写真は机の引き出しにしまいこまれ、春になれば満塁ホームランをかっ飛ばすだろう――八時半にはまた幕が上がり、あのひとは今日の午後には持っていた何か、温かで若々しいものが、自分の人生から失われてしまったことに気がつくのだろう。

 外は暗かったが、ブロードウェイはあかあかと燃え上がる森で、ベイジルはその中のひときわ明るい灯を目指して、ゆっくりと歩いていった。そうして燦然と輝く巨大な多面体を、漠然と称賛するような、恋いこがれ、離れがたい思いで見上げていた。ぼくはこれからこいつを何度も見ることになるだろう。この国の人びとのせわしなさの上に、自分の性急さを重ね合わせながら――学校から抜け出せたときには、いつだってここに来るだろう。

 いや、状況はすっかり変わったんだ――ヨーロッパに行くんだから……。
不意に、ベイジルは自分がヨーロッパには行かないことを悟った。自分の運命を放り出すわけにはいかない。たかだか数ヶ月、苦痛を和らげるだけのために。寄宿学校、大学、それからニューヨークと続く世界を征服していくこと――それこそが、小さかったころからいまにいたるまでずっと、持ち続けてきたほんとうの夢だったじゃないか。なのに、数人の生徒が冷やかしたからといって、それを打っちゃってこそこそと裏通りに逃げ込もうとしていたのだから! 彼は激しく身を震わせた。ちょうど水から出てきた犬のように。その瞬間、ルーニー先生のことを思いだした。

 数分後、彼はバーに入っていき、いぶかしげな顔をしているバーテンダーの前を横切って、ルーニー先生がまだ眠りこけているテーブルまで進んだ。ベイジルは優しく、つぎに強く揺さぶった。ルーニー先生はもぞもぞと身を動かし、ベイジルに気がついた。

「り…こうになるんだ」寝ぼけた声でそうつぶやいた。「りこうになって、ほっといてくれ」

「自分のことならわかってますよ」とベイジルは言った。「ほんとです。ぼく、自分のことならちゃんと理解できてるんです、ルーニー先生。一緒にトイレに行ってきちんとしてください。そしたらまた汽車の中で寝られますよ、先生。さあ、ルーニー先生、お願いだから……」



V



 長くつらい日々だった。ベイジルは十二月にふたたび外出禁止を喰らい、三月までそれが開けることはなかった。甘い母親が努力する習慣を身につけさせなかったせいで、彼にとっては悪癖を直すことなどおよそ手に余るものだった。それでも、日々の生活それ自体が、彼を立ち直らせていった。だがそのために、数え切れないほど再スタートを切っては、繰りかえし失敗することを余儀なくされたが。

 クリスマスが終わると、新しくやってきたメイプルウッドという生徒と友だちになったが、その彼とも愚かしい口げんかをした。冬の期間、男子校は外部から遮断され、少年たちの野蛮さをなんとかなだめててくれるのは室内競技だけだったが、ベイジルはそこでもバカにされ、現実の罪ばかりでなく想像上の罪まで加わって冷遇され、ほとんどいつも孤独だった。

 だが、彼にはテッド・フェイがいた。それに蓄音機で聞く『夜のバラ』があった。――「おれは一生、あのワルツを聴くたびに……」――ニューヨークの街明かりの記憶があったし、さらにはつぎの秋、フットボールで自分がどんな活躍ができるかを考え、イェール大という燦然と輝く理想を思い浮かべた。空気の中には春の兆しも潜んでいた。

 ファット・ガスパーやほかの数人は、いまでは彼に好意的に接してくれるようになっていた。ファットとは一度、町からの帰り道、たまたま一緒になって、女優について長々と話し合いながら歩いた。ベイジルも、話をしたからといって、そのあとずうずうしくふるまうような馬鹿なまねはしなかった。年下の生徒たちは、どうやら急に彼を受け入れることに決めたらしく、それまで彼を嫌っていた先生までもが、ある日、彼の肩に手を回し、一緒に教室に向かった。やがてみんなは何もかも忘れてしまうことだろう――この年の夏には。九月には新入生が入ってくる。来年は新しくスタートを切ることができるだろう。

 二月のある日の午後のことだった。バスケットボールをしているとき、大事件が起こったのである。彼とブリック・ウェールズが第二組でフォワードを務めていた。声援や鋭いかけ声や悲鳴が体育館にこだました。

「こっちだ!」

「ビル! ビル!」

 ベイジルはドリブルでコートを進んでいた。フリーでいたブリック・ウェールズが大声で呼んだ。

「こっちだ! リー! ヘイ、リーイ!」

 リーイだって!

 ベイジルはさっと赤くなると、へたくそなパスを出した。愛称で呼ばれたのだ。つまらない、間に合わせの愛称でしかなかったが、名字だけの愛想も何もない呼び方や嘲罵にくらべれば、だんぜん良かった。ブリック・ウェールズはプレーを続けている。自分が特別なことをやったとも気づかず、苦悩する人びとの群れ、自己中心的で、神経衰弱になりかけていて、不幸せな人びとの群れから、ひとりの少年を救済するのに貢献したことにも、まったく気づかないまま。心を開いた人と人は、ささやかなふれあいを通じて、傷ついたり、逆に癒されたりする。だが、その瞬間を察知できる能力を、わたしたちは与えられてはいない。いつでも一瞬、遅れを取り、もはやこの世では手に届かないものになってしまう。どんな特効薬も蘇らせることはないし、どれほど鋭利な剣でも葬り去ることもできないのだ。

 リーイだなんて! おっそろしく発音しにくいじゃないか。それでもベイジルはその晩、その言葉を抱いて眠りについた。呼びかけを反芻し、その言葉がくれた幸福感をしっかり握りしめて逃さないようにしながら、安らかに眠りに落ちた。





The End




(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)





スコット・フィッツジェラルド「生意気な少年」その13.

2010-12-18 23:02:47 | 翻訳
その13.


  第三幕 ヴァン・アスター家の屋上庭園
 夜。

半時間ほどが経過していた。結局は何もかもがうまくいくのだろう。コメディアンはいまが見せどころ、涙のあとだけに、笑いの場が楽しくふさわしいのだ。明るい熱帯の空は至福を約束している。愛らしくももの悲しいデュエットがあり、比類なきまでに美しい場面が続き、やがて幕が下りた。

 ベイジルはロビーに出て、去っていく観客を見送りながら立ったままで考えていた。母親の手紙とショーが、彼の気持ちの苦々しさと恨みがましさをきれいにぬぐい去ってくれていた――前の自分に戻って、やるべきことをするんだ、と思っていた。ルーニー先生を学校に連れて帰ることが、その“やるべきこと”に該当するだろうか。酒場に向かって歩き出し、店にさしかかったあたりで歩調を緩め、用心深くスイングドアを開けて、内部にすばやい一瞥をくれた。彼にわかったのはただ、カウンターで飲んでいる男たちの中に、ルーニー先生はいない、ということだった。彼は通りをしばらく歩き、戻ってきてもう一度、中をのぞいてみた。あたかもドアに噛みつかれるかといわんばかりに、おそるおそるそうしたのは、時流に遅れた中西部の少年らしく、彼も酒場に恐怖感を抱いていたのである。三度目にやっと彼は目的を達成した。店の奥のテーブルで眠りこけているルーニー先生を見つけたのである。

 ふたたび外に出たベイジルは、行ったり来たりしながら考えた。ルーニー先生にもう三十分、時間をあげることにしよう。もしそれだけの時間が経っても出てこなければ、自分ひとりで学校に帰るのだ。結局、ルーニー先生はフットボールシーズンが終わってからずっと、おれのようすをうかがっていたんだ――おれはこの出来事の一切から手を引く。なにしろあと一日か二日で学校ともおさらばするんだから。

 彼は五、六回も行ったり来たりしていたが、劇場の横手に沿った露地にふと目をやると、「楽屋入口」という看板が目に入った。ちょうどそこへ役者が出てきた。

 ベイジルは立ち止まった。役者のあとから女たちが続いたが、それは祝日前の日々のようなもので、このさえない人びとは衣装係か何かなのだろう。不意に若い女性が現れて、その向こうに男が一緒にいた。ベイジルはまるで見とがめられるのを怖れるかのように、くるりと身を翻すと通りを駆け出した。だが数歩いったところでふたたび向きを変えて走って戻り、はあはあと心臓発作でも起こしたかのように息を荒げていた。というのも女性は、輝くほど美しくかわいらしい十九歳の劇中の「かのひと」であり、傍らにいる若い男はテッド・フェイだったのである。

 腕と腕をからませて、ふたりはベイジルの横を通り過ぎた。ベイジルは、ついていきたいという思いに抵抗できなかった。歩きながら彼女はテッド・フェイに身を寄せ、ふたりから醸しだされる親密な雰囲気は、周囲を魅了するばかりだ。ふたりはブロード・ウェイを横切り、そこで方向を変えてニッカボッカホテルに入っていく。ベイジルは五、六メートルほど後ろから、アフタヌーン・ティーのための細長い部屋に入っるふたりのあとを追った。二人用のテーブルに着いてから、ウェイターに何ごとか言い、ふたりきりになると嬉々として頭を寄せた。ベイジルはテッド・フェイが彼女の手袋をはめた手をにぎっているのを見た。






スコット・フィッツジェラルド「生意気な少年」その12.

2010-12-15 22:44:50 | 翻訳
その11.



  第一幕 ニューヨーク近郊の小さな町にある公共緑地

 舞台が明るすぎて目がくらみ、しばらくはわけもわからぬうちに話がどんどん進んでしまったので、ベイジルは幕開きからほとんどすぐ、いろんなことを見逃しているような気持ちに襲われた。母が来たら――来週、いや明日にも、また連れて来てもらおう。

 一時間が過ぎた。その場面はとても悲しい場面だった――明るい悲しさ、とでも言ったらよいのか。娘と――男。どうしてここに来てもふたりは離ればなれのままなのだろう。ああ、なんという悲劇的な過ち、それと誤解。なんと悲しいのだろう。どうしてふたりは互いに目を合わせ、相手をよく見ようとしないのか。

 光がまばゆさを増し、音楽は不協和音から協和音へ、予感と一触即発の危機。第一幕が終わった。

 彼は外へ出た。テッド・フェイを探していると、劇場の後ろ側、ビロード張りの壁に気むずかしげな顔でもたれている姿が彼のように思えたが、はっきりとしなかった。ベイジルはタバコを買い、一本、火をつけた。だが一口吸い込んだところで音楽が鳴り響き、彼は急いで中へ戻った。



  第二幕 ホテル・アスターのロビー

そうだ。彼女はまぎれもなく、歌詞にもあるように「麗しき夜のバラ」だ。ワルツが彼女をふわりと持ち上げて、胸の痛くなるような美しさの高みへと連れていく。それからちょうど木の葉が風に乗って地上に舞い落ちるように、ワルツの最後の数小節に乗って滑るように降り立った。ニューヨークの上流階級の暮らしときたら! もし彼女がそうしたまばゆい生活に目を奪われて、琥珀色の窓を抜け、明るい朝の光の中へ、あるいは舞踏室のドアの向こうへ、扉が開いたり閉じたりするのに合わせて流れこむ音楽に誘われて消えてしまったとしても、いったい誰に責められよう。輝く街の花なのだから。

 半時間が過ぎた。真実の恋人が、彼女に、まるで彼女そのもののようなバラを携えてやって来たが、彼女はあざけるようにそれを相手の足下に投げ捨てる。彼女は笑い、もうひとりの相手に向き直って、踊った――狂おしく、激しく。いや、待て! 細い管楽器に混じって、繊細なソプラノと大きな弦楽器の奏でる低い、うねるような調べ。また、胸のうずくような、感情のうねりが舞台を吹きすぎていくような調べがふたたび始まった。彼女はふたたび翻弄される木の葉のように、風に捕らえられてしまう。

 バラ――バラ――夜のバラ
 春の月が輝く夜は 君もまた美しかろう……

 しばらくしてベイジルは、異常な興奮に胸をふるわせながら人波に混じって外に出た。彼の視線が最初に留まった先には、ほとんど念頭になかったルーニー先生がいた。おかしなことだが、いまやすっかり面変わりし、ルーニー先生の亡霊といったかっこうである。

 実際、ルーニー先生はなんだか取り乱しているようだった。まずお昼、ベイジルと別れたときのとはちがう、ずいぶん小さな帽子をかぶっている。さらに、いささか下品だったおももちが、純粋で繊細、汚れのない顔つきに変わり、いったい何があったのか、びしょ濡れのコートからはネクタイとシャツの一部がはみ出している。たった四時間のあいだに、ルーニー先生はどうしてこんな有様になってしまったのか。熱烈なアウトドア精神が、男子校に閉じこめられて圧迫されていた、としか説明がつかない。そもそも澄んだ明るい空の下で汗水流して働くように生まれついていたルーニー先生が、半ば無意識のうちに、自分の運命にあらがいがたく従ったのだろう。

「リー」彼はぼんやりした声で言った。「君はもっと賢くならなくてはいかん。私がありのままの君を認識させてやろう」

 ロビーで自己認識させられる不吉な可能性を避けるため、ベイジルはあわてて話題を変えた。

「先生はショーを観にいらっしゃったんじゃないんですか?」ルーニー先生だって万難を排してショーを観たいはずだ、と言外に匂わせながら、気持ちを引き立てようとした。「とってもすばらしいショーですよ」

 ルーニー先生は帽子を取ると、濡れて固まった頭をあらわにした。しばらくの間、彼の脳内は、現実の像を結ぼうと苦闘していた。

「学校へ戻らなければ」陰気な、自分でも確信が持てないような声でそう言った。

「でも、もう一幕あるんです」ぎょっとしてベイジルは抵抗した。「最後まで観なくちゃ」

 体をふらつかせながら、ルーニー先生はベイジルに目をやり、いまや自分がこの生徒の掌中にあることをぼんやりと了解していた。

「わかった」と彼は認めた。「私は何か食べることにする。隣で待っているから」

 やおら向きを変えると、十歩ほどぐらつきながら歩き、劇場の隣のバーへふらりと折れていった。かなり動揺しながら、ベイジルも中へ戻った。




(この項つづく)




スコット・フィッツジェラルド「生意気な少年」その11.

2010-12-13 22:58:57 | 翻訳
その11.

ベイジルはイスから立ちあがると、これからウォルドーフまで歩いていって、お母さんが来るまでおとなしく部屋にこもっていようか……とぼんやり考えた。それから、何かに駆り立てられたかのように声を上げ、響きのあるバスで遠慮なくウェイターを呼びつけた。セント・リージス校とはおさらばだ! もうセント・リージス校なんて行かなくてもいいんだ! 幸福感のあまりに、息もできなくなりそうだった。

「すげえや!」彼はひとりで叫んだ。「やったぜ! 最高だよ! ほんっと、夢みたいだ!」もうドクター・ベイコンもルーニー先生もブリック・ウェールズもファット・ガスパーも関係ない。バグス・ブラウンとも、外出禁止とも、ボス呼ばわりともおさらばだ。もうやつらを憎む必要さえないんだ。だってもうあんなのは全部、静止画像の中の無力な影でしかないんだから。おれはそこから抜け出した。バイバイと手を振りながら、抜け出してやったんだ。「あばよ!」かわいそうなやつらめ。「元気でな!」

 喜びの涙を流していたベイジルも、四十二番街の喧噪でやっと我に返った。そこらじゅうのスリに遭わないように財布を手でしっかり押さえて気をつけながら、ブロードウェイに向かった。なんて日なんだ! ルーニー先生に言ってやらなくちゃ。――先生、ぼく、もう戻る必要がないんです、と。いや、それよりも、戻って連中に教えてやろうか。君たちがこれから先も陰気で退屈な学校生活を送っているあいだ、ぼくはいったい何をしてると思う? って。

 劇場を見つけてロビーへ入っていくと、マチネーらしくそこには女らしい粉おしろいの香りがたちこめていた。チケットを取り出したところで、ベイジルの目は十メートルほど先の、彫像のような横顔に釘付けになってしまった。二十歳前後とおぼしい体格の良いブロンドの青年で、しっかりした顎と、まっすぐな灰色の目をしている。ベイジルの脳はしばらく激しく回転し、ひとつの名前のところで止まった――名前、というより、伝説、空に刻まれた署名である。何という日なんだ! これまで一度も会ったことはなかったが、何千枚という写真を見ていたので、彼がテッド・フェイだということは疑いの余地がなかった。イェール大学フットボールチームのキャプテン、昨秋はほとんどひとりでハーバードとプリンストンを破ったのだ。ベイジルは一種甘美な苦痛を味わっていた。横顔は向きを変えてしまった。人波が動き出す。ヒーローは見えなくなった。……でも、これから先、数時間というもの、テッド・フェイと一緒にいるんだ。

 きぬずれの音とひそやかな声、甘い香りがたちこめる劇場の暗がりの中で、彼はプログラムを読んだ。これこそ彼が焦がれたショーの中のショーである。幕が実際に上がるまでは、プログラム自体に不思議な神聖さのようなものが宿っていた――ショーの原型のようなものが。けれどもひとたび幕が上がってしまえば、プログラムは紙くずとなり、顧みられることもなく床に落ちていた。



(この項つづく)





スコット・フィッツジェラルド「生意気な少年」その10.

2010-12-12 23:24:50 | 翻訳

その9.


「五年生の中でぼくは一番年が下なんです」ベイジルはよく考えもしないで言ってしまった。

「どうやら君は、自分がずいぶん頭がいいと思ってるようだね」ルーニー先生はベイジルに非常に厳しいまなざしを向けた。だがそのうち、何か思うところがあったらしく態度が急にかわり、そのままふたりは黙って列車に乗っていた。列車は家々の密集する町にさしかかった。ニューヨークも近くなったころ、先生はまた口を開いた。今度は穏やかな、あらかじめ入念に考えていたような口ぶりだった。

「リー、君を信頼してみようと思う」

「はい、先生」

「君はお昼でも食べてショーを見に行けばいい。私は自分の用があるから。それが片づいたらショーに行くことにしよう。もし行けなかったとしても、外で待っているから」

ベイジルの胸は踊った。「わかりました、先生」

「で、学校ではこのことを口外してほしくない――つまり、私が自分の用を足しに行くということを、だね」

「口外しません」

「さて、君が本当に口を閉ざしていられるかどうか、試しにやってみようじゃないか」冗談めかしてそう言ってから、お説教をするような調子で付け加えた。「酒はダメだ。わかっているな?」

「そんなこと、するわけがありません!」夢想だにしなかったことを言われてベイジルはひどく驚いた。酒など口にしたこともなかったし、頭の隅をよぎったことすらなかった。夢の中でのカフェの場面でこそ、味もわからない、本物とはおよそ縁のない“シャンペン”を口にしたものだったが。

 ルーニー先生の忠告に従って、ベイジルは昼食を取りに駅近くのマンハッタン・ホテルに行き、クラブ・サンドウィッチとフレンチフライ、チョコレートパフェを注文した。目の隅で、周りのテーブルに着いているニューヨーカーたちを観察した。調子が良く、にこやかで、楽しむことにも倦んだような人びとが、実は彼らは中西部の町からやってきた仲間だとしたらどうだろう。それでいて一度も途方に暮れたりしたことがない、などという物語をまとわせながら。学校はまるで荷物のようにふりほどかれ、もはやかえりみられることもない、遠くのざわめきでしかなかった。午前中受け取って、ポケットの中に入れっぱなしの手紙も、開封するのを引き延ばしていた。というのもその手紙も、学校の生徒ベイジルに宛てて来た手紙だったからだ。

 チョコレートパフェがもうひとつ食べたかったが、忙しげなウェイターをこれ以上わずらわせるのは気が進まず、手紙を開封して広げてみた。母親からの手紙だった。


 親愛なるベイジル

 取り急ぎお知らせします。電報を打って驚かせたくはなかったし。お祖父様が水治療養のために外国へ行らっしゃるというので、わたしとあなたにも来るように言ってくださっています。そうなると、あなたも今年の残りはグルノーブルやモントレーの学校で語学の勉強ができるし、家族一緒にいることができます。それもあなたがそうしたければ、の話ですが。

あなたがセント・リージス校を気に入っていて、フットボールや野球を楽しんでいるのはよくわかっています。もちろんそういうことは向こうではできなくなるでしょう。でも、その代わりに、良い気分転換ができますし、たとえイエール大学に入学するのがもう一年遅れたとしても、別にかまわないと思うのです。ですから、いつものように、あなたには自分で判断してほしいのです。この手紙があなたのところに届く頃には、わたしたちは家を離れ、ニューヨークのウォルドーフホテルにいるはずです。あなたが学校を続けたいと決心したとしても、ホテルには会いに来てください。しっかり考えてね。

            愛をこめて

               母より





(この項つづく)