陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

子供の役者

2011-08-30 23:27:16 | weblog
夏の初めぐらいだっただろうか、近所のジャスコ(もはやそういう名前ではないのだが、どうしても慣れ親しんだ名前で呼んでしまう)ではレジの手前に、待っているお客さんへのサービスのつもりなのか、大きなテレビが設置された。テレビといっても病院の待合室にあるようなそれではなく、二十分程度の番組?が繰り返し流れるのである。

「鱧」の読み方だとかナスの保存方法だとかのちょっとした「お役立ち情報」や今日の占いなどだけでなく、テレビで流れるようなスポンサーのCMも差し挟まれる。先日も見るともなしにそれを見ていたら、小さな女の子が黄色い着ぐるみを着て歌っているCMが流れていた。

そうか、あのポニョの歌を歌っていた子がちょっとだけ大きくなって、あんなヒヨコの歌を歌っているのか……とばくぜんと思っていた。ポニョの歌の声とはちがっているような気もしたが、単に大きくなって、発声もしっかりしてきたのだろう、大きくなった子供がわざと子供っぽく舌足らずに歌っているのだろうと思っていたのである。

それが、後日、ふとした話の流れで、あれはまったくの別の子供だ、と聞いた。大きくなったから声が変わったのだろうとばかり思っていたのだが、そもそもまったくの別人だったのだ。考えてみればあたりまえで、ポニョの映画からもしばらく経っていることを思えば、あのポニョの子も、いまでは十代にちがいない。「あどけない舌足らずがかわいらしい」という年齢ではないのである。そう考えると「子役」というのは、ずいぶん寿命の短い稼業ということになってくる。

考えてみると、「子役」というのは奇妙な役者である。
以前、キャラメルボックスの『ハックルベリーにさよならを』の舞台を観たことがあるのだが、主役のケンジ君という小学生の役を演じていたのは、大人の女性だった。だが、半ズボンをはいて、ランドセルを背負っているケンジ君は、足を広げて立つときの胸の張り具合といい、手をぐいっと差し出すときの勢いといい、小学生以外の何ものでもなく、観ているうちに、大人の女性が演じていることなど毛頭思わなかったものだ。

つまり、「子供を演じる」というのは、わたしたちがばくぜんと思い描いている子供の動きや感じ方を取り出し、再現してみせる、ということなのだ。記憶をさぐってみても、うちの弟は舞台のケンジ君のような動きは一度も見せたことがない。同様に、弟の友だちもケンジ君のような動き方をしていた記憶もない。ケンジ君の動きは、現実の、名前を持ったひとりひとりの子供の動きではなく、大人の側が「いわゆる子供」として思い描く、「実際にはどこにもいない子供」「ステレオタイプとしての子供」ということなのだろう。

実際の子役が演じる「子供」も、その「ステレオタイプとしての子供」である。役者であると同時に子供でもある彼や彼女が、日常そう考えたり感じたり行動したりするように演じるのではなく、「大人が思い描く子供」を演じて見せる。つまりは彼らの頭の中には、「子供をこういうものだと思い描いている大人」が住んでいるのだろう。

何もこれは「子役」に限ったことではなく、現実の子供だって、周囲の大人が期待するように、いかにも子供らしい動作で喜んで見せたりすることは、結構あるものだ。太宰治の『人間失格』の中にも、主人公が幼い頃から、ことさらに子供らしい道化を演じたことを告白する箇所があるが、実際、自分の喜ぶ顔を期待している親の前で、ことさらに「わーい」と喜んで見せたことのない子供の方が少ないのではあるまいか。

だが、テレビや映画に出てくる子役というのは、どこか不自然なものだ。うまければうまいほど、その不自然さが際だつような気がする。

舞台の上、大人の演じるケンジ君は、實川貴美子さんという演じている女性の痕跡をすっかり消していたが、テレビや映画に出てくる子供たちは、「子役が演技をしている」ということを決して忘れさせてくれない。達者であればあるほど、「この子、うまいなあ」と思ってしまうし、ついでに「どんな大人になるのだろう」といういらないことまで考えてしまう。

おそらくそれは、彼ら彼女らが現実の「子供」ではなく、また「子供を演じている役者」でもなく、「子供」のすがたかたちを持ちながら「子供をこういうものだと思い描いている大人として演技をしている」という不自然さからくるものではあるまいか。だからこそ達者であればあるほど、自然とは離れていき「演技」が際だつ、ということになっているのだろう。気の毒ではあるけれど、「子役」が「子役」である以上、その不自然さは逃れられない。そうして、観客の側が子役に対して賞賛する「うまい」「かわいい」という言葉も、そのある意味での不自然さを、別の言い方で言っているだけではないのだろうか。

だが、その子役たちが大きくなると、話はいささかやっかいなことになってくる。彼らの頭の中にいる「子供をこういうものだと思い描いている大人」が歳とともに成長し、その「頭の中の大人」が思い描く「子供像」もまた少しずつ成長していけば良いのだが、多くの場合はそうはなっていないように思える。「頭の中の大人」が成長しないまま、実年齢だけが成長し、ときにそれを追い越すようになったとしたら。彼ら、彼女らは自分たちがいったい何を演じたら良いのか、わからなくなってしまうのではないか。

何というか、残酷な話であるように思う。
あのヒヨコの中で歌っていた女の子がそんなことにならなければ良いのだけれど。




「漆胡樽」の話

2011-08-28 23:03:53 | 
井上靖の散文詩に「漆胡樽」(しっこそん)という短編がある。

語り手である「私」はグラフ雑誌の記者として、正倉院展の特集記事を取材しようとしている。「正倉院展」といっても、戦後間もない時期の、それまでは多くの人は「正倉院」という歴史的建造物のなかに、いったいどのようなものが所蔵されているかも知らなかったころのことである。文化そのものに対する飢餓感も、広汎にあったことだろう。そんな時期の初めての一般公開である。いまのわたしたちにはちょっと想像もできないほど、多くの人が期待し、興味を持っていたことだろう。
作中の「私」は、そんな「正倉院展」を、多くの人に知らせるべく企画されたグラフ雑誌の編集者だった。そうしてその雑誌の巻頭ページを飾る写真を選ぼうと、開催直前の会場を訪れたのである。

そんな「私」の目を引いたのが、「漆胡樽」だった。作者はこうに描写する。
牛の角をそのまま両手いっぱい一抱え程大きく伸ばしたらこうもなろうかと思われる、器物としては一寸類のない異様なその形状は、寧ろ一個の彫刻のようであった。素朴というか、剛健というか、どっしりとそこに据えられた恰好は、むしろどこかに不遜傲岸なものさえ感じられるくらいであった。金銀をちりばめたり、螺鈿の文様をあしらったりした精巧細緻な小さい工芸品が互いに息をひそめ、ひっそりと多少のはなやぎを見せて並んでいる御物展の会場の雰囲気の中では、確かにこの一点のたたずまいは場違いの感じだった。

 そのくせ、その異様な形状の底には何がひそんでいるのであろうか、この漆胡樽の前に立っていることによって、私は自分の心がふしぎに休まされ靜められてゆくのを感じた。若しその前に立つ者の心に何ものかを呼びかけて来るものを芸術品と称していいのなら、これはまさしく一個の芸術品であった。
(『漆胡樽』『井上靖全集第二巻』新潮社)


「漆胡樽」にほかにはない魅力を感じた「私」は、ぜひとも口絵写真に使おうと考える。ところが「漆胡樽」がいったいどの時代のもので、そもそもどういった用途のものであったか、解説を載せようにも詳しいことがわからない。博物館にいる美術史家に聞いてもわからないどころか、研究者もいないという。最後に、在野の考古学者をやっと紹介してもらうことになった。

そこで「私」は、戦時中は長く中国に暮らし、いまは帰国して奈良の小さな寺に住んでいる戸田竜英という人物を訪ねることになる。

ところが戸田は「古代民族の生活の器具」という以外、何もわかっていないのだ、ととりつく島もない。「漆胡樽」という名前すら、後代の、それもおそらく日本人が適当につけた名前に相違ない、と言うのである。

「私」は食い下がる。「漆胡樽」が気に入ったから、どうしても口絵に載せたい、そのために詳しい説明がほしい、と。

そこで戸田は「知っていること」をもとに、「漆胡樽」がたどってきた不思議な物語を語り始める。

「漆胡樽」が作られてから、すでに二百年ないし三百年が過ぎた前漢時代のこと。西域地方の砂漠の中にある、とある聚落に住む人びとが、折からの干ばつのため、その地を捨てて新しく聚落を作り直そうと旅立つ。ところが出発前夜、開かれた酒宴の席で、祭壇に供えてあった「漆胡樽」から葡萄酒が染み出していた。そのことがどうしても気になったひとりの若者が、それを河竜が酒を要求したものだと感じ、河床の一角に、「漆胡樽」に収められた酒を献じようと引き返す。

ところが無人の聚落は、早くも匈奴の掠奪にさらされていた。戻ってきた若者も、たちまち匈奴に襲われ、乗っていた駱駝ごと弓で射られ、倒される。瀕死の若者は、血に濡れた手で「漆胡樽」の栓を抜き、砂漠の大地に撒いた……。

そこから百年の歳月が流れる。ある匈奴の国で、僕として働いている漢軍の捕虜がいた。彼は漢軍が匈奴の軍隊を破り、すぐ近くまで来ていることを知り、何とか部隊に戻ろうとする。そうして族長の妻に取り入って、馬や食料や水を手に入れ、女を道案内に、高原と砂漠を横切り、故国の部隊に合流しようと考えた。途中、疲労から女は息も絶え絶えになってしまう。彼は死に瀕している女に、「漆胡樽」から水を与える。それまで利用することしか考えていなかった女に対して、いまわのきわに初めて愛情のようなものを感じた漢人だったが、亡くなった女をそのままそこに棄て、さらに砂漠を進み、それから十日ほど、疲労と飢餓で死の一歩手前というところで漢軍の部隊に救われる。彼が救われた地点から、さらに二十里ほど北方の砂漠の中で、馬の死骸とともに、「漆胡樽」も発見され、部隊に持ち込まれた。元捕虜の陳の消息はわからない……。

それからさらに三百年後、さらに二百年後のエピソードが語られ、さらに二百年後の天平六年、遣唐使の一行が蘇州を発って、日本に向かおうとするときのことである。通訳として随行した身分の低い者のなかに、二十年近い歳月を唐で過ごしたのち、現地で子供まで持つようになって、日本に帰国する希望をもはや棄ててしまった者がいた。彼は帰国は望まなかったが、東大寺でともに学んだ親友に、自分の代わりに「漆胡樽」を持ってかえってほしいと願うようになったのだ。「漆胡樽」を載せた遣唐船は何度も難破の憂き目に遭い、長安の送り主の下に二度に渡って戻ることもあったが、それでも何とか日本にたどりつき、帝の宝庫である正倉院の奥深くに包蔵されることになった……。

それから千二百年後、「漆胡樽」は戸外に運び出され、「戦いに敗れた国の、秋の白い陽」を浴びることになった……。

「私」は戸田からこんな物語を聞くのである。

日が経つにつれ、「私」は次第にこの話を、「漆胡樽」の話というより、戸田自身の中国大陸での歴程の記録、彼の半生の記録ではないかと思うようになる。口絵の写真には「古代西域人の生活の器具であった」ということを説明するに留めた。

……とまあ、こんな短編なのである。
井上靖には同じ「漆胡樽」という詩もある。

「漆胡樽」

…(略)…

とある日、
いかなる事情と理由によってか、
一個の漆胡樽は駱駝の背をはなれ、
民族の意志の黯い流れより逸脱し、
孤独流離の道を歩みはじめた。
ある時は速く、
ある時はおそく、
運命の法則に支配されながら、
東亜千年の時空をひたすらまっすぐに落下しつづけた。
そして、
ふと気がついた時、
彼は東方の一小島国の王室のやわらかい掌の上に受けとめられていた。

…(略)…

詩人として文学の世界に入っていった井上だから、おそらく短編より詩の方が先なのだろうが、詩の中では想像にとどまっていた「漆胡樽」は、物語となり、砂漠や蘇州の風景の中に置かれることで、いっそう詩情を増しているように思われる。

わたしはこの短編を初めて読んだときから、ずっと「漆胡樽」のことが気になっていた。再度、最初にあげた引用の箇所を見てほしい。

なにか、ひそやかで巨大なものが浮かび上がってくるような描写である。だが見たことのないわたしには、おぼろげにしか浮かんでこない。
確かに、美術展や美術館、博物館で見てきた経験を振り返ってみても、工芸品というのは「精巧細緻な小さい工芸品が互いに息をひそめ、ひっそりと多少のはなやぎを見せて並んでいる」としか言いようのないようすで展示されているものだった。この要を得た描写をもとに「漆胡樽」の姿を思い描こうとするのだが、悲しいかな、どうしてもうまく像を結ばないのだった。

だが、いまでは「漆胡樽」がどんなものか、簡単にその写真を見ることができるのだ。
たとえば
http://www.yomiuri.co.jp/shosoin/2010/news/20101109-OYT8T00230.htm
この記事の写真である。人と比べれば、どのくらい大きいのかもある程度、見当がつく。

だが、この写真を見ても、「なんだかよくわからないもの」でしかない。「何ものかを呼びかけて来る」声は聞こえないし、それどころか、この向こうに中国の大地を思い浮かべるのもむずかしいのだ。

印刷された絵や工芸品は、どれだけ大判で印刷の良い美術全集で見たところで、本物とはやはり比べものにはならない。まず大きさがまるでちがうし、なんというか、やはり印刷すると決定的に落ちてしまうものがあるように思える(たとえ印画紙にプリントされた写真であってもそうだ)。液晶画面になれば、いっそうそうなのだろう。

本で読んだころ、どんなものだろうかとあれほど想像していた「漆胡樽」。
いまなら「どんなものか」知ることはできる。けれど、それをほんとうに知ったとはとうてい思えない。やはりつぎの正倉院展を見に行かなければならないのだろう。




フィッツジェラルド「崩壊」 最終回

2011-08-21 10:32:38 | 翻訳

最終回

 これくらいでいいだろう。なにも私は軽い気持ちでこんなことを言っているわけではないのだ。若い人が面会を求める手紙を寄越し、どうしたら作家になれるか、最盛期の作家がおちいる感情枯渇症についての作品を書くような陰気な人間になれるか、などという真の抜たことを聞いてきても、相手がよほど羽振りの良い大物の係累でもいないかぎり、受け取った知らせさえ出さない。窓の外で飢え死にしかけている人がいれば、即座に駆けよって、例のとびきりの笑顔と声で(もっとも手を取ることはお断り)、誰かが5セント使って電話で呼んだ救急車が来るまで、ぴったりと寄り添ってやる――もちろん、本の材料に使えると思ってのことだが。

 こうして、私はやっと「ただの作家」になった。これまでずっと、そうなりたいと思ってきた人間は、ひどく重荷になっていたから、何の良心の呵責も感じることなく“オサラバ”してやった。ちょうど黒人の女の子が、土曜の夜に恋敵と“オサラバ”するように。善人には善人らしくさせておけ――仕事に追われる医者なら、年にたった一週間の「休暇」に、せっせと家族サービスに励み、首輪につながれたまま死ぬがいい。仕事のない医者であれば、一ドルを放ってくれる患者をかき集めればいいだけの話。兵士なら戦死して、とっとと英霊のみたまやにでも祀られればよいのだ。連中は神々と契約を結んだのだから。

だが作家にそんな理想は必要ない。自分ででっちあげれば話はべつだが、私はそんなことはやめにした。かつてはゲーテからバイロン、そうしてショーへと受け継がれてきた「全人」にアメリカ風の肉付けをして、ピアモント・モーガン(※モーガン財閥の始祖)とトップハム・ボークラー(※チャールズ二世のひ孫でウィットに富んだ警句で名高い18世紀のイギリス人)とアッシジの聖フランチェスコを混ぜ合わせたような人物を夢見ていたが、そんな夢はいまではうち捨てられ、プリンストンの新入生のフットボールの試合で一度きり使った肩当てや、被らないままになってしまった外地用軍帽と一緒に、がらくたの山に埋められている。

 だからどうだというのだ? いまでは私はこう考えている。知覚力を有する大人の自然な状態というのは、身に合った不幸の中にいることだ。大人にとって、ありのままの自分より立派な人間になろうとする欲望(それを書くことで飯の種を得ようとする連中のいう『不断の努力』)は、結局――青春と希望が尽きてしまえば――、不幸感を増大させるだけだ。

かつて、この私は幸福のあまり、恍惚となったこともあった。だが、ほんとうに親しい人びとと分かち合うこともできず、ただ、静かな通りや小道を歩きながら散っていくにまかせ、作品の中に結晶させることができたのも、ほんの断片だけだった。そうして、そんな私の幸福も――自己欺瞞の才能とでも呼びたければそう言ってくれ――例外的なものにすぎなかったのである。自然ではなく、不自然なものだった――ちょうど好景気のように。そうして私が幸福ののちに経験したことは、好景気が終わったときに、アメリカ国民をすっぽりと飲みこんだ絶望の波に等しい。

 この事実を見きわめるのに、何ヶ月もかかったけれど、私は新しい運命の下、なんとか生きていくことだろう。アメリカの黒人たちは、耐えがたい生存条件の下で、明るいストイシズムによって生き延びることができたが、代償として、何が本物であるか、その実感を失った――だから私も代償を払おう。私はもう、郵便屋や食料品店のおやじ、編集者や従姉妹の夫などに好意をもったりはしない。お返しに、連中も私をきらいになるだろうし、人生がふたたび楽しいものになることはないだろう。

私の家の戸口には、これから先ずっと「猛犬注意」の札がかかることになるだろう。私はほんものの獣になるつもりだ。だから、だれかがたっぷり肉のついた骨を投げてくれれば、その手をなめることだってするかもしれない。





The End


(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに。
水曜日まで出かけます。再開は木曜日に。
ということで、そのときにまたお会いしましょう。)



フィッツジェラルド「崩壊」 その10.

2011-08-20 23:14:55 | 翻訳
10.

 
私の自己犠牲には、どこか底なしのところがあった。どう考えても当世風のものではない――とはいえ、戦後(※第一次世界大戦)、同様の傾向をもつ、立派で勤勉な人びとを、十人以上も見てきた(おっしゃるとおり。だが、そんなことはわかりきったことじゃないか。その中にマルクス主義者が何人もいただなんて)。同時代のとある有名人が、半年間、「ビッグ・アウト」(※本来は勝負の行方を決する重要なアウトを指す野球用語だが、ヘミングウェイは「自殺」のことをこう呼んだ)にとりつかれているのを、そばでじっと見ていたこともある。同じくらい有名なもうひとりは、彼の言う「同志諸君」とのつきあいに耐えられなくなり、数ヶ月に渡って精神病院で過ごし、私はそれを見守ったのだ。力尽き、息絶えた人びとの名を上げるなら、二十人以上にのぼることだろう。

 ここからいえることは、生き残るのは、ある意味、完全にそこから抜け出てしまった人びとだということだ。「抜け出る」とはもったいぶった言いぐさだが、実際、脱獄などとはわけがちがう。脱獄したところで、所詮、人はまた別の塀の中か、古巣に戻るだけなのだから。いわゆる「脱出」だとか「あらゆることから逃避する」などといっても、コップの中の航海であることにはかわりない。仮にそのコップの中に南洋の海があり、そこで絵を描き、ヨットを走らせたりできたとしても。

完全に抜け出てしまうと、決して人は、後に戻ることはできない。過去はもはや存在しなくなるのだから、元に戻れるはずもない。かつて人生が私に課した、というより私自身が自分に課した義務を果たす力など、もう四年も前から失っている自分なのだ。こんなぬけがらが演じる義務遂行の芝居など、いっそぶっつぶしてしまえ。

書くことは、たったひとつの生活手段だからやめるわけにはいかないが、人間らしくありたい――親切や公正、寛大であろうとすることなどやめてしまおう。贋金ならいくらでも流通しているのだし、どこへ行けば1ドルが5セントで手に入るかもわかっている。39年間、ものごとをじっくりと見てきた目には、ミルクが水で薄められ、砂糖に砂が混じり、模造ダイヤモンドがダイヤモンドとして通用し、漆喰が石で通るからくりがよくわかる。もうこれ以上、自分を人に与えてはならない――今後、何かを分け与えることは、法律違反として新たな罪名で呼ぶことにしよう。〈浪費〉という罪名で。

 そう決心したおかげで私はまた元気になった。ちょうど、何であれ本物――それがなんであっても――、しかも新品を手に入れたときのように。手始めに、私は家へ帰って、柱のように積み上げられた手紙を、すべてくずかごへたたき込んだ。タダでなにかしてくれ、という手紙である。あいつの原稿を読んでやってくれ、こいつの詩を売ってやってくれ、ラジオで話をしてくれ、ただしノーギャラで、序文を書け、インタビューに答えてくれ、劇の構成を考えるのを手伝ってくれ、家庭の危機を助けてくれ、情けをかけろ、施しをしろ……。

 手品師の帽子は空っぽなのだ。これまでずっと、手先の器用さだけでいろんなものを出してみせては来たものの、これからは――喩えを変えることにしよう――救済資金出資者名簿からは、金輪際、手を引く。

 私はもう邪悪な喜びで有頂天だ。

 十五年前、グレート・ネック発の通勤列車でよく見かけたガラス玉のような目をしていた男たちと同じだ。自分の家が無事なら、明日世界が崩壊してもかまうものかと思っているような連中。いまや私も彼らの一員であり、世渡りのうまい人間になったのだ。連中はしょっちゅうこう言っていた。

「申し訳ないが、仕事は仕事なのでね」

「だから言ったじゃないか」

「それは私の管轄じゃない」

 それから笑顔だ――そう、私も笑い方を学ぼうと決めた。いまなお研究は続いている。ホテルの支配人や社交界の経験豊かな古イタチ、参観日の校長先生や黒人のエレベーター・ボーイ、横顔で百面相するおかまや相場の半額でスタッフを集めるプロデューサー、新しい担当患者に相対する熟練看護婦、カメラを横切る前途有望なエキストラ、爪先を痛めたバレリーナ、もちろんワシントンからビバリーヒルズまで、顔をねじ曲げたおかげで生きていける連中に共通する、愛情と優しさが放射されるような笑顔、これらの最上級を組み合わせるのだ。

 声もそうだ――私は先生の下で発声を学んでいる。完璧な声が出せるようになるころには、私の喉は、自分の意志とは何の関係もなく、相手の思いのみを声にする管となるだろう。発せられる言葉は、ほとんど「イエス」ばかりだが、先生(弁護士)と私は、目下それにかかりきりだ。とはいえ、これはただの課外授業に過ぎない。

私が目下打ち込んでいるのは、言葉の中に慇懃なとげを含ませることだ。相手に、“自分は歓迎されているどころか、大目に見てもらってさえいない、絶えず厳しく批判されている……”と感じさせるような調子を加味することなのである。もちろんこんなときには例のほほえみなどみじんも見せない。この声は私にとって何の得にもならない、くたびれた年寄りや、悪戦苦闘中の青年向けの声だ。連中なら平気だろう――どうせ連中は、いつでもそんな目に遭っているのだから。





(次回最終回)



フィッツジェラルド「崩壊」 その9.

2011-08-18 23:48:01 | 翻訳
その9.

張り合わせ
1936年4月


これまで数ページに渡って、底抜けに楽天的なひとりの若い男がみまわれた、あらゆる価値観が崩壊しつくすという経験、しかもその崩壊というのが、ずっとあとになるまで気づかない種類の崩壊だったという話をしてきた。そうして崩壊のあとに訪れた荒廃のなかで、それでも彼はなんとかしようとしてきた、という話もした。ありがちなヒロイズム、ヘンリーの「血を流そうと 決して頭(こうべ)は垂れまい」(※"Invictus(不屈)"というイギリスの詩人ウィリアム・ヘンリーの詩の一節)は役に立たない。なにしろ自分のこれまでの精神の傾向を考えてみれば、私には垂れようにも垂れる頭がなかったのだから。心臓だけは昔、確かに持っていたが、私に確証をもって言えるのはそれだけだ。

 とはいえ、少なくともこれは、私がはまっていた泥沼から抜け出す足がかりにはなる。すなわち「我感ず――ゆえに我あり」というわけである。かつては多くの人が私を頼り、こまったことがあると私のもとに駆け込んできたり、遠方からは手紙を寄越したりしたものだ。人びとは私のアドバイスに含まれる言外の意味を感じ取り、私の人生に相対する態度を本物だと思ってくれた。多くの人びとの運命に影響を及ぼすような人間というのは、たとえそれが頭の鈍い、決まり文句しか口に出来ないような手合いや、節操のないラスプーチン的人物であったとしても、少なくとも何かしらの特質を備えているはずだ。とすれば問題は、私がどこでどうして変わってしまったのか、まだその時期でもないというのに、わたしの情熱も活力も、いったいどこから絶えることなく漏れだしていったのかを発見することである。

 疲労困憊し、捨て鉢になりかけたある晩、私は書類カバンに荷物を詰めて、二千キロ離れた場所へ旅に出た。そのことについてよく考えたかったのだ。知る人もない小さな町で、一日一ドルの部屋を借り、有り金をはたいて缶詰の肉とクラッカーとリンゴを買った。といっても、ものであふれかえった世界から禁欲的な世界へと移り住み、「崇高なる探究」に取りかかろうとしたわけではない――私はただ、完全な静寂に身を置いて考えたかったのだ。どうして私は悲しいものを前にすれば悲しげな態度を取り、憂鬱なものに対しては憂鬱な態度、悲劇には悲劇的な態度を取るようになったのだろうか――どうして恐れや哀れみの対象と自分自身を同一視するようになってしまったのだろう。

 私はどうでもいいことに気を取られてしまっているのか? いや、そうではない。このように対象と自分とを同一視してしまうと、し終えることが不可能になる。狂人に仕事ができないのも、おそらくはそれが理由だろう。レーニンはプロレタリアートの受難を耐え忍ぼうとはしなかったし、ワシントンは兵隊たちの苦しみ、ディケンズはロンドンの貧しい人びとの苦しみを、みずから味わうようなことはしなかった。トルストイは心寄せる対象に同化しようとしたが、そんなことは欺瞞でしかなかったし、結局は失敗に終わった。あえて彼らの名を出したのは、みんなが知っているというだけだが。

 それは、幾重にも霧のかかった中にいるほど危険なことなのだ。ワーズワースが「栄光は地上より消え失せり」と断定したときに、自分もともに去らなければならないと思いはしなかったし、「赤々と燃え上がる粒子」のキーツ(※バイロンは詩「ドン・ジュアン」第十一巻の六十節をジョン・キーツに捧げ、「彼の奇妙な心 赤々と燃え上がる粒子」と歌った)は、結核との闘いをやめることはなかったし、最後の瞬間までイギリス詩人の一翼に加わる望みを捨てもしなかったのである。



(この項つづく)


 

フィッツジェラルド「崩壊」 その8.

2011-08-15 22:40:09 | 翻訳

その8.


 (1) 私は自分の技術の問題をのぞけば、ほとんど考えるということをしたことがなかった。その代わりに二十年にわたって、ひとりの男が私の知的な面での良心を務めてくれたのである。それがエドマンド・ウィルスン(※アメリカの文芸批評家、作家。プリンストン大学ではフィッツジェラルドの一年先輩で、終生の友人となった)だった。

 (2) もうひとり別の男が、私の考える「良い生活」を体現してくれていた。彼とは十年に一度、会うか会わないかぐらいで、そのあいだはたとえ彼が絞首刑になっていても知らないほどの関係しかなかった。彼はいま、北西部で毛皮ビジネスに携わっているのだが、ここに名前を出されるのは好まないだろう。とにかくむずかしい情況になるたび、「彼だったらどう考えるだろう、どのように行動するだろう」と私はずっと考えてきた。

 (3) 三人目も同時代の人物だが、彼は私にとって芸術的良心と言える存在である――影響力の強い彼の文体を模倣しようとしたわけではない。というのも、私自身の文体は、お粗末なものながら、彼がまだ何も発表しないころから固まっていたからだ。ただ、私はことあるごとに、彼にひどくひきつけられていた。

 (4) 四人目の人物は、人とうまく人間関係を築くためにはどうしたらいいかを教えてくれた。どうふるまうべきか、何を言えば良いのか。たとえほんのひとときであっても、人を幸せにするにはどうしたらいいか(言うなれば、裏返しのミセス・ポスト(※女性作家で行儀作法の権威とされる。1922年に出した『エチケット』はベストセラーになった)である。彼女の方法論というのは、どうすればかならず他人に不快感を味わわせることができるか、下品な振る舞いを体系化したものである)。人間関係にはいつだって混乱させられたし、外へ出て一杯やりたくなるのがオチだったが、彼は駆け引きを見抜き、分析し、うまくやった。彼の言葉だけで私には十分だった。

 (5) この十年というもの、政治的良心は私にとって、一種の皮肉としてしか存在しなかった。ところが自分の属する組織への関心がふたたびよみがえったのだ。それは私よりずっと若い人物が、情熱と新鮮な関心を私にもたらしてくれたからだった。

 したがって、もはやひとりの「私」なる者はどこにも存在せず――自分の自尊心が持てるような根拠など、どこにもないのだから――、わずかに誇れるのは、苦しい仕事を際限もなく続ける能力ぐらいだったが、もはやそれさえなくなってしまったらしい。自分がないというのは奇妙なものだ――小さな男の子が大きな家にひとり残されて、なんでもやりたいことができると思ったとたん、やりたいことなど何もなくなっていることに気がついたときのようだ……。

(時計は予定時刻を過ぎているが、いまだ本論にはほとんど入ってない。多くの人に興味を持っていただけるかどうかわからないのだが、話はまだたくさん残っているので、もっと話を聞きたいという読者がいらっしゃれば、編集者まで知らせていただきたい。もう結構、と思われたとしても、そう言ってもらえればありがたい。――ただしなるべく小さな声で。というのも、ぐっすりと眠っている人が、どなたかは存じ上げないが、いるような気がしてならないからだ。もしその人が眠らないでいてくれたなら、私も店じまいせずにすんだかもしれないのに。寝ているのはレーニンではないし、神でもないが)



(この項つづく)





フィッツジェラルド「崩壊」 その7.

2011-08-12 23:13:55 | 翻訳

その7.


 去年の春、空模様が変わって太陽がさえぎられたときには、最初、十五年前や二十年前に起こったことと結びつけて考えることはなかった。ところが次第に、ある種の家族的類似が見えてきたのだ――両翼が伸びきってしまった陣形や、両端に火のついたロウソクのようなもの。ちょうど預金口座から借り越した人のように、私は自分がコントロールできる以上の肉体的能力を求めてしまっっていた。この出来事から受けた衝撃は、前のふたつより激しかったが、同じ種類のものだった。――黄昏時のひとけのない射撃場、標的も片付けられた場所で、空っぽのライフルを持って突っ立っているあの感じだ。始末する対象もない――ただ、静寂の中に自分が息をする音が聞こえるだけだ……。

 この静寂の中では、どんな義務に対する責任も一切が消滅し、価値という価値が崩落する。道理に寄せた熱狂的な信頼も、当て推量や予言を重んじて動機や結果を無視してしまう傾向も、技術を高め、まじめに励みさえすれば、どんな世界でも通用するのだという思いも、その他の信念と一緒にひとつ、またひとつと吹き飛ばされてしまったのである。

壮年期の私にとって、小説こそが思想や感情を人から人へと伝える、もっとも強靱で、もっとも柔軟な手段だと思われていた。ところがその小説が、ハリウッドの商売人やロシアの理想主義者らの手によって、きわめつきの陳腐な思想とあからさますぎるほどの感情しか表現できない、機械的な商業芸術に成り下がってしまったのである。この「芸術」は、言葉を映像に隷属させ、個性は共同製作というロー・ギアに組み込むことで、結果的にぼろぼろにしてしまうのだった。

すでに1930年ごろ、トーキーのおかげで、どんなベストセラー作家であっても無声映画同様、古ぼけたものになってしまうだろうという予感を抱いていた。人びとはまだ本を読んではいる。キャンビー教授(※評論家であり『サタデー・レビュー』誌の編集者)の「今月の推薦図書」だけにせよ。好奇心旺盛な子供たちは、ドラッグストアの棚に並んだティファニー・セイヤー氏の低俗な本(※セイヤーはアメリカの作家・シナリオライター。超常現象の研究家であるチャールズ・フォートらと「フォーティアン協会」を設立し、超常現象を研究した)をのぞく。だが、書かれた言葉の力が、別の力、もっときんぴかで安っぽい力に従属させられてしまうのを見ると、身が震えるような怒りがこみあげ、ほとんど強迫観念のようになってしまうのだった。

 これがあの長い夜、私に取り憑いた悪夢の一例だ――受け入れることも、抵抗することもできない力、チェーン店が小さな店を押しつぶしていくように、私の仕事を時代遅れにしてしまう、外からの、無敵の力……。

(なんだか私はいま、机の上の時計をのぞいて、あと何分残っているかと気にしながら講演をしているような気がする……)

 さて、この静寂の時期が到来して、ふだん、決して誰も自分からすすんでやろうとはしないことをやるしかなくなった。考える必要に迫られたのである。まったく、大変な作業だった! 大きな秘密のトランクをいくつも、あっちへやったりこっちへやったり、という仕事だ。疲労困憊のあげく、やっと一息ついたとき、自分はほんとうにこれまでものを考えたことがあったのだろうか、という気がした。長い時間をかけて、やっとたどりついた結論を、以下に記すことにしよう。



(この項つづく)



フィッツジェラルド「崩壊」 その6.

2011-08-10 23:22:52 | 翻訳
その6.

 最初の経験は二十年前のことである。マラリアと診断されて、プリンストンの三年次を休学することになったのだ。もっとも十数年後に撮ったレントゲン写真で、実は結核だったことが明らかになるのだが、ともかくそのときは症状も軽かったために、数ヶ月後には復学することができた。ところがいくつかの地位は、失ったきりになってしまった。最大の痛手は「トライアングル・クラブ」(※プリンストン大学のミュージカル・コメディ劇団)の部長の座を失ったことであり、そのほかにもミュージカル・コメディの構想を失い、おまけにその学年を留年することになった。私にとって大学は、もはや前と同じ場所ではなくなってしまったのだ。もう優秀賞のバッジにもメダルにも、手は届かない。三月のある昼下がり、私は自分が望んでいたことごとくが、手から滑り落ちてしまったように感じていた――その夜、私は初めて女性の幻影を追い求めた――そのおかげでほんのひとときではあっても、ほかのことはすべてどうでもよくなってしまうような。

 だがあとになって、大学時代に大きなチャンスをものにしそこねたことが、かえって良かったのだとわかってきた――委員になる代わりに英詩に取り組んだ。それがどういうものかわかってくると、今度は創作を学び始めた。バーナード・ショーの格言「ほしいものが手に入らないのなら、手に入るものを好きになった方がよい」にならうなら、この休息は幸運だったといえよう――当時の私は、人の上に立てるチャンスを失ったことで、どん底の気分だったのだが。

 ともかくそのとき以来、私はどれほど使用人が無能でも、首を切ることができなくなってしまったし、そんなことができる人には感嘆するしかなかった。人を自分の支配下に置こうという野心は、うち砕かれ、跡形もなく消え失せた。私の日々は、まじめくさった白日夢のようなもので、別の街に住む一人の娘に手紙を書くことだけが生きがいとなった。人は打撃から立ち直ることはできない――別の人間になるのだ。つまり、新しい人間が、新しいものに引かれるだけなのである。

 もうひとつ、いまと同様の情況に陥ったのは、第一次世界大戦後、私がまたしても背伸びをしすぎた時のことだ。

貧乏のせいで失恋する、というありがちな話である。常識に従った彼女の方が、ある日、終わりにしよう、と言ってきたのだ。絶望の淵に沈んだ長い夏、私は手紙を書く代わりに小説を書いた。結局万事うまくいったのだが、うまくいったのは愛のためではなかった。ポケットの中で金をじゃらじゃらいわせながら、一年後に彼女と結婚した男は、その後ずっと有閑階級に対する根強い不信と憎悪を抱くことになったのである――革命家のように信念があったからではなく、小作人の胸にくすぶる憎悪ゆえに。それからどれほど歳月が過ぎても、私は友人連中はどこからその金を手に入れたのだろうと考えるのをやめることができなかった。例のあの“初夜権”(※封建領主が家臣の結婚初夜にその花嫁と一夜をともにすることを要求できる権利)を、私の妻に向かって行使しようとするような手合いではあるまいか、と。

 こうして過去十六年間、金持ちに対して不信の念を抱きながら、彼らの中でもある種の連中が持つ、軽やかさや生活の中で見せる優雅さがほしくて、金のために働き続けた。その間、何頭もの駄馬を乗りつぶしてきた。馬の名前のいくつかはいまでも覚えている――「傷つけられた誇り」「くじかれた期待」「見せびらかし」「ひどい痛手」「金輪際ありえない」……。

やがて二十五歳になり、三十五歳を過ぎても、一向にパッとしなかった。だがその間も、一度も、ほんの一瞬たりとも、あきらめたことはない。善良な人びとが自暴自棄に陥るのを見てきた――あきらめて自殺した者もいれば、折り合いをつけて私よりはるかに大きな成功を収めた人もいる。けれども私の士気は、みっともないことをしでかしたときに感じる自己嫌悪のレベルを下回ることはなかった。困難に出遭えば、かならず希望を失うと決まったものではない。関節炎と関節がこわばることがちがうように、失望には失望の病原菌がある。



(この項つづく)







フィッツジェラルド「崩壊」 その5.

2011-08-05 23:28:25 | 翻訳
その5.



取り扱い注意

1936年3月


 前号の小文で、筆者は自分が手にしたものが、若い頃、四十になったときのために注文しておいた皿ではなかったことに気がついた、と書いた。実のところ、筆者と皿は同じこと、筆者は自分を壊れた皿に喩えているだけなのだから、そんなものを後生大事に書き記すことに、どれほどの価値があるのだろう。編集者に言わせれば、この小文は、詳しい説明もなしに多くのことがらをほのめかしているだけらしいし、読者の多くも同じように感じたのかもしれない――あるいは、告白などというのは「不屈の魂をお与えくださった神々に感謝する」式の、ありがたい言葉で締めくくってでもいないかぎり、唾棄すべきもの、と思っている人もいるだろう。

 だが、この私だってもう長いこと神々には感謝してきたのだ。しかも、何の見返りも求めずに。あれは私の失われたものに寄せる哀歌なのである。背景を飾ろうと、エウガネイの丘(※イタリア北東部の丘陵地帯でバイロンの別荘があり、シェリーはそこで「エウガネイの丘にて」という詩を書いた)を描くようなまねもしなかった。そもそも私にとってのエウガネイの丘など、どこにもなかったのだから。

 とはいえ、壊れた皿も食器棚にしまっておけば、なにかの役に立つことがある。もちろんコンロにかけて暖めたり、洗い桶のなかでほかの皿と一緒に揺すって洗うわけにはいかない。客に出すこともできないけれど、夜中にクラッカーをのせるとか、残り物を冷蔵庫にしまうとかの役には立つ……。

 ということで、続きの話をしよう――壊れた皿の後日譚である。

 さて、どん底にいる人間のための特効薬は、現実に貧しさや病気に苦しんでいる人びとのことを考えてみることである――これはどんな種類の憂鬱にも効く万能の福音で、昼間なら誰にでもてきめんの効果を上げる。ところが午前三時というのは、荷物をひとつ忘れたぐらいのことが、死刑の宣告に劣らぬほどの悲劇的な意味を持つものだから、どんな薬も効きようがないのだ――そうして魂の漆黒の闇の中では、来る日も来る日も、時刻はいつも午前三時だ。その時刻、人は子供じみた夢の中へと逃げこんで、少しでも長く現実から目を背けようとする――だが、世間の方がさまざまなかたちで手を伸ばしてくるせいで、ひっきりなしにハッと目が覚める。こうした干渉から身をかわし、なんとかもう一度夢の中に戻ろうとする。夢見ている間に、物質的な面であれ、精神的な面であれ、棚ぼた式に万事うまくいかないかなあ、と期待しながら。ところが逃避は繰り返すにつれて、うまくいくチャンスをますます遠ざけてしまうのだ――待ちこがれた先にあるのは、悲しみが消えていく瞬間ではない。見たくもない処刑の光景だ。ほかならぬこの自分が崩壊してゆくという処刑……。

 狂気か麻薬か酒にでも頼らないかぎり、この状況は行くところまで行き、最後に待っているのは空虚な静けさだ。ここまで来れば、自分が何を奪われ何が残ったか、見極めることができる。私はこの静寂にたどりついたとき、これと同じことが、これまでにも二度、あったことを思い出した……。



(この項つづく)






フィッツジェラルド「崩壊」 その4.

2011-08-05 23:28:25 | 翻訳

その4.

 たしかにこれはうるわしい図ではない。当然ながら、私はどこへ行っても邪険にされ、さまざまな非難を一心に浴びることになった。そのうちの一人は、彼女と比べれば、誰もが死人としか思えないほど生気にあふれていた女性で、私というヨブ(※旧約聖書の登場人物で、罪がないにもかかわらず、子供も財産も失い、病に倒れる)を慰める役を割り振られたときでさえ、元気いっぱいだったのだ。この物語はとうに終わってしまっているのだが、まあ、一種のあとがきのつもりで私たちの会話を残しておこう。

「自分を哀れむ代わりに、いい?……」と彼女は言った(のべつ彼女は「いい?」と口にしたが、それは実際に考えながら、――ほんとうに考えながらしゃべっていたからだろう)。それから言葉を継いだ。「いい? あなたの内面が壊れてしまったのではなくて……グランド・キャニオンに亀裂が入ったぐらいに思ってみて」

「その亀裂はぼくの頭の中にあるんだ」勇気をふりしぼって私も言い返した。

「いい? 世界はあなたの頭の中にしか存在しないの――世界というのは概念に過ぎない。あなたはそれを望み通りに、大きくも小さくもしたらいいのよ。だからあなたもちっぽけなものだって考えてみて。もしわたしが壊れでもしようものなら、絶対、世界も自分と一緒に壊してしまうわよ。いい? 世界はあなたが考えるようにしか存在しないの。だったら壊れるのならあなたじゃなくてグランド・キャニオンの方がずっといいじゃない?」

「君のスピノザがそう言ってるのかい?」

「わたしはスピノザなんて知らないわ。わたしが知ってるのは……」それから彼女は自分が昔、苦しんだ話を始めた。その話によれば、もっとずっとひどい経験だったらしい。どのように彼女はそうした経験を味わい、乗り越え、うち負かしていったか。

 その話には、少なからぬ反発を覚えはしたものの、元来私は頭の回りが遅いたちだったし、そのとき、別の考えが頭に浮かんできた。生まれつきの資質のうちでも、生命力というものは、他人に言葉で伝えることはできない、ということだった。かつて私も、自分のエネルギーが苦もなくわき出ていたころ、なんとかそれを周囲に分け与えようとしたものだった――だが、うまくいったためしがない。喩えていうなら、生命力は「受け取る」ことのできるものではないのだ。持っている人もいれば、持っていない人もいる。健康や茶色い眼や、名誉やバリトンの声と同じように。

もし私が彼女に向かって、そいつをうちで料理して食べられるように、うまい具合に小分けしてもらえないかと頼んだところで、そんなことは無理なのである。自己憐憫という物乞いのコップを持って、何千時間待っていたとしても。私にできることは、彼女の部屋のドアから出て、去っていくこと。壊れた陶器のように自分をそっと抱えて、失意の世界に戻っていくだけだった。そこにあるもので自分の家を作るしかない――ドアを出るとき、私は聖書の句をそっと唱えた。

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。」(マタイによる福音書 五章十三節)





(この項つづく)