陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト更新しました

2007-05-31 22:41:34 | weblog
先日ここで連載していた「鏡よ、鏡」、加筆修正してサイトにアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

削った部分、加わった部分、まあいろいろあります。
もたもたしているのは相変わらずですが、少しは見通しがよくなったかな、と思っています。

ところでね、文中で引用した芥川の「妖婆」、今回、初めて読みました。ふだんあんまり短編集には載ってない作品じゃないでしょうか。

これはホフマンの『黄金の壺』の影響がけっこうみて取れるんですが、途中まで、けっこうおもしろいじゃん、って思いながら読んでました。なんでこれがマイナーなんだろう、って。
で、最後、え? ってなった(笑)。
なんなんでしょうね。途中でいやになったのかな。オチがうまくつけられなかったんだろうか。これはないよなあ、って思いました。
いや、引用部を見て読んでみようと思った方のために、これは言い添えておきます。
最後は、え? です(笑)。
読まれる方は、自己責任で(笑)お願いします。
そんなものを紹介するなよ、ですって?
まあ『蓼食う虫』はおもしろいですし、『存在の耐えられない軽さ』はすばらしい作品だと思います。

ということで、またお暇なときにのぞいてみてください。
ふう、疲れました。
ということで、それじゃ、また。

夢の話

2007-05-30 22:46:03 | weblog
明け方、目覚める前にYesの "Time and a Word" を夢のなかで聴いた。
アンダーソンが "it's right for me," と繰りかえし、最後のトランペットがフェイドアウトしていくところまでしっかり聴いたので、朝、起きてしばらくはちょっと変な感じだった。
こういう夢は、いったいどうして見るのだろう。

夢というのは遡航的に作り上げられる、という話を、以前聞いたことがある。
その人は、消防車が来るのが「オチ」になる内容の夢を見ていて、目が覚めたら、実際に消防車のサイレンが外で聞こえていた。
かなりの長さの、起伏のあるストーリーの夢の、まさに「オチ」になる部分で、サイレンの音を聞くというのは、ひどく不思議で、こんな偶然もあるのか、と思ったのだそうだ。
だが、のちにその人は、ある機会で夢のメカニズムを聞く。つまり、消防車のサイレンがきっかけとなって、一連のストーリーがほとんど一瞬のうちに作り上げられたことがわかったのだそうだ。主観的にはかなりの長さの夢であるように思われても、それは目が覚めて、いわば帳尻を合わせているのをそう錯覚しているに過ぎないのだとか。

「邯鄲の夢」というが、夢は本来そういうものであるらしい。

そう言われてみれば、夢の時間というのは、ひどく曖昧だ。昨日見た夢か、一昨日見た夢か、判然としないこともあるし、繰りかえし見る夢、というのも、いったい何度同じ夢を見たのか、はっきりとはしない。

ただ、起きてから忘れられない夢というものはあるもので、それを人に話したりすると、話すうちに、次第にはっきりしてくる。それも無意識で編集作業を行っているせいなのだろうか。

夢の中で編集作業をすることもある。
夢を見ていて、ここはこうするともっとおもしろくなるな、と考えて、もういちど最初から作り直した夢を見直すのだ。一時期わたしはそういう夢をよく見ていたのだが、これをやると、朝起きたときにものすごく疲れるので、意識してやめてしまった。

気になっていることが、そのまま夢に出てくるときもあれば、会う約束をしていて、楽しみにしていたのに、どうやっても家から出られない夢を見るときもある。今朝方のように、近頃ではほとんど思いだすこともない曲をフルコーラスで聴くこともあるし、フィンランド語でしゃべられてもわからないなあ、と途方に暮れたこともある(もちろんわたしはフィンランド語など知らないのだが、夢に出てきた外国人がまくしたてる言葉が「フィンランド語」であることはどういうわけか「わかって」いる)。

予知夢もいちど、見たことがある。
中学の時、わたしが小学校の学年誌に投稿して採用された記事のことが、不意に夢に出てきたのだ。すると、翌日、その記事の載った雑誌をクラスの子が学校に持ってきて、「あいつ、こんなことを書いてたんだぜ」とほかの子にも見せたのだ。

どうせならこんなくだらない予知夢ではなくて、もっといい予知夢が見たいものだ。

「鏡よ、鏡」、今日はアップできませんでしたが、明日はかならずやります。
ええ、自分にプレッシャー、かけてます(笑)

三たび、空気を読む話 

2007-05-29 22:21:01 | weblog
「空気を読む」ということは、何も最近になって急に言われ始めたことではない。
前回のログ「もういちど、空気を読む話」でもふれたように、「十二人の怒れる男」でも、主人公のヘンリー・フォンダ扮する8号陪審員は、刻々と移り変わっていく陪審室の空気を十分に読み、さらにコントロールしようとしていた。

人が集まる場では、かならずその場に「空気」が生まれる。
「雰囲気に呑まれ」て、言いたいことが言えなかったのも、見方を変えると「場の空気を読」んで、言いたかったことを引っこめた、とも言えるし、「周囲の重苦しい気分が伝染して、自分まで憂鬱になってしまった」ようなことが起こるのは、その人が場の空気を読んだ結果でもある。

ところが、その一方で、「空気を読む」自分自身を、どこか完全には肯定できないではいないだろうか。空気を読まない人間は批判される。8号陪審員のように、新たな「空気」を創出するために、「空気を読む」人は肯定され、評価されもする。だが、自分自身が空気を読んで、言いたいことをひっこめてしまったり、心ならずも、思ってもないことを言ってしまったりするようなときは、内心、忸怩たる思いにとらわれてしまう。
あるいは、空気を読むのが妙に巧みな人に対しては、わたしたちはおそらくは「節操がない」とか、「コウモリみたいだ」とかと、どうしても批判的に見てしまうような気がする。
そういう人を目の当たりにすると、わたしたちはどうしてもこう思ってしまう。
「この人は自分の意見など持っていないのではないだろうか」

だが、わたしたちはほんとうに自分の意見を持っているのだろうか。
多くのコミュニケーションの場において、わたしたちは何かを言いたかったり、何かを知りたかったりするわけではない。人を動かしたり、意見を変えさせたりしたいわけでもない。そうした目的のないコミュニケーションのときに、わたしたちが求めるのは、その場の一員であるというだけだ。
だからこそ、よけいに「その場の空気」が重要になってくる。「場の空気」を乱す人が許せなくなってくるのだ。
あるいは、場に属する人々の関係を緊密にするために、わざと「空気の読めないやつ」をスケープゴートにすることもあるだろう。

空気をうまく読んでも満たされない。
空気の読めないやつには腹が立つ。
それがわたしたちの置かれているところではないか。

「空気」なんていうのは無視すればいい、というつもりはない。
それは「空気の読めないやつ」という役割を、自分から引きうけることでしかないからだ。そんなことをしても意味はないし、しんどいばかりだ。

「空気を読む」のは、場のなかでうまく立ち回るためではなく、逆に、その場と適切な距離をとるために必要なのだ。そのあやふやで曖昧な「空気」のなかから、その場を支配している「ルール」を読みとって、呑みこまれることなく適度な距離をたもちながら、うまくつきあっていく。そうして、自分が属する「場」も、ひとつだけではないほうがいい。

「空気を読む」というのは、結局はそういうことになるのではないか、とわたしは思うのだ。

犬の散歩、やります

2007-05-27 23:02:24 | weblog
最近、だいたい週に四日か五日ほど、ジョギングをしている。

夕方のジョギングコースはけっこうな人出で、走っている人、腕を奇妙な具合にふりながら歩いている人、リハビリをかねて、つえをつきながら一歩一歩確かめるように歩いている人さまざまだが、犬もずいぶん歩いている、というか、犬が単独で歩いているわけではなく、もちろん人間が散歩させているのだ。

小型のミニチュア・ダックスフントなどは人間の歩く速さに合わせてちょこちょこと足を動かして、けっこうな運動になっているようだが、大型犬ともなると、飼い主が少々歩くぐらいではどうみても物足りなさそうな顔である。どうも犬の方が人間を引き連れて、威風堂々歩いていくような組み合わせもある。
犬の飼い主同士が立ち話を始め、ケンカを始めてしまう犬たち。
あるいは、小さなポメラニアンに猛々しく吠えかかられて、尻尾を巻いて飼い主のうしろに隠れるシェットランド。
飼い主に服従を教え込もうとしているのか、曲がり角で断固として足をふんばっている犬もいる。走り出したセッターのうしろで、メガネを片手で押さえながら、必死でついていく人、遊歩道からそれて、犬は木立のなかで遊ばせて、ベンチで携帯をいじっている人。
太りすぎで地面につきそうなお腹をしたコーギー。
脇を勢いよく駈けていく人について、一緒に走りたがっている柴犬もいる。

以前、本で、セントラル・パーク近くの高級アパートに、夏の間だけ留守番のために住み込んで、犬を散歩させるアルバイトをする女の子の話を読んだことがある。
それがどれほどのお金になるのかはわからなかったけれど、いい仕事だとうらやましく思ったものだった。
ジョギングをしていると、犬を連れて走っている人がうらやましくなってくる。
犬の散歩やります、という広告でも出そうかしら。

「鶏的思考的日常vol.12」更新しました。
「桜、桜」までしかできてませんが。のこりはまたそのうち、ということで。

もういちど、空気を読む話

2007-05-26 22:44:04 | weblog
以前、「空気を読む話」としてこんなログを書いた。
ここで言いたかったのは、いわゆる「空気を読む」ということが求められるようになったのは、別に目新しいことなどではない、ということだった。
どんな場でも、そこにはルールがある。はっきり明文化されておらず、微妙に変わっていきながら、みんながそれに従ってプレイしているルールというものがある、「空気」という言葉で呼ばれているのはそのルールなのだ、ということだった。

ところで、先日こんなコラムを読んだ。そのうちリンクが切れるだろうから、全文を引用させていただく。
発信箱:KYといわれても

 若者言葉に「KY」という。その意は「空気が読めない」。自己中心の愚かさを指すのか、雰囲気に合わせられない不器用さをなじるのか知らないが、「KY」と耳にささやかれたら「この場の空気を読め」という警告らしい。

 しかし、KYだろうと何だろうと、人間、周囲の空気にのまれず自分を通さねばならぬ時がある。2年以内に制度が始まろうとしている裁判員もそうだ。

 米映画「十二人の怒れる男」(1957年)は殺人事件裁判の12人の陪審員たちの評議を描く。被告はハイティーンの非行少年。父を刺殺したとして第1級殺人罪で起訴された。有罪なら死刑だ。

 「あんなガキ」「何しろ不良だ」と11人は有罪を決め付け、仕事や今夜の大リーグの試合へと心は飛んでいる。

 だが1人が即決に抗し、話し合いを求める。「皆に気を変えろとは言わない。ただ人の生死を5分で決めていいのか」

 陪審制は全員一致が原則だ。「こんな手合いがいて困る」と周囲はぼやき、くってかかるが、彼は屈しない。そして評議が進むにつれ、気づかなかった合理的な疑問が浮かんでくる--。

 仕組みに差異はあるが、重大刑事事件を扱う裁判員にも課題は共通する。思念を尽くした判断や内心の疑念を、周囲の空気と一致しなくてもきちんと表明し、説くことができるか。

 こわもてで大声を上げる必要はない。あの陪審員は名優ヘンリー・フォンダが演じた。帰りたがるヤンキースファンの陪審員にほほ笑み、静かに説く場面がいい。

 「1時間話そう。ゲームは8時だ」(論説室)

この筆者氏が書きたかったのは、

「陪審制では周囲の空気にのまれず自分を通さねばならぬ時がある」

ということらしい。
だが、「自分を通す」、すなわち自分の主張を周囲に聞いてもらい、なおかつ支持してもらうためには、それこそなによりも空気を読まなくてはならない、ということを、この筆者氏はわかっておられるのだろうか、と思ったのだ。

仲間内でだべっているようなときなら、実際には空気など読む必要はない。多少場違いなことを言ってしらけさせようが、「少しは空気読めよ」と少々いやな顔をされようが、それほどたいした問題ではない。
だが、言うべきことがあり、自分の意見に賛同してほしい、周囲を動かしたい、そのためには、この場を支配している見えないルールがいったい何なのかを読みとらなければ賛同者を得ることはむずかしい。

筆者氏は「十二人の怒れる男」に言及しているけれど、ほんとうにこの映画を見たのだろうか。ヘンリー・フォンダ扮する8号陪審員は、最初から確固たる見解があったわけではない。自分に投げかけられる疑問にひとつひとつ答えていくなかで、事件をさまざまなパースペクティヴからとらえなおしていく。この話し合いを通じて、彼自身もさまざまな発見をしていくのだが、同時に周囲を自分の側に巻きこんでいく。
陪審員室の空気を誰よりも読み、そうしてその流れを意識的に変えていっているのは、この8号陪審員なのだ。

「空気を読む」ことはルールを理解し、そのルールにのっとってうまくゲームをすることだ。そうして、ゲームをよりおもしろくするために、わたしたち自身がそのルールを変えられるということを忘れてはならない。

問題があるとしたら、それを必要以上に絶対視し、場に身動きできないほどがっちりと絡め取られてしまうことのほうだ。
ほんとうに「KY」と耳元で囁く人がいるのかどうか知らないが、「空気」を維持することが目的になってしまうのは転倒してしまっている。
その場との関係をどうやって作り上げていくのか、それを決めるのは自分なのだから。

火傷と評価

2007-05-25 22:22:41 | weblog
先日火傷をした。

茹でたパスタを流しに置いたざるにあけようと、コンロから鍋を持ち上げた瞬間、鍋の柄が片方、ボクッと折れたのだ。

鍋の柄というのはたいていビスで留まっていて、使っているうちに、どういうわけか緩んできて、グラグラしてくる。だからグラグラが気になったころ、つまり、グラグラではなく、ガクガクしてきたころ、ドライバーでねじをしめていた。それで、このところまたグラグラの幅が広くなってきて、ガクガクまであと三回(笑)ほどの感じではあった。

それが、いきなりボクッときたのは、ビスの方ではなく、プラスティックの柄が、コンロの火で炙られて、劣化していたのだった。2リットルほど入ったお湯プラスパスタの重みで、その劣化した柄が、一気に折れたのである。そこでバシャッと左手はシャワーにしては熱すぎる、先ほどまでグラグラと煮え立った、白濁したパスタのゆで汁を浴びることになったのであった。

火傷は何を置いてもまず冷やすことである。
幸い流しの水道まで、約15センチ。わたしは即座に流水で左手を冷やすことにした。
冷やすこと約十分。そこから出すとひりひりしてひどく痛む。まっ赤になっている。わたしは椅子と『神話と人間』という本を持ってきて、左手を流れ落ちる水道の水で冷やしながら、そこに腰かけて、アフリカ大陸におけるかまきりの信仰について考察された本を読んだ。

さらにそこから二十分ほど。
わたしはお腹がすいてきた。フライパンのなかでは、赤いトマトソースのマグマのなかに、薄いベージュ色のツナと緑のほうれん草が顔を出している。パスタ鍋のなかのスパゲッティは……おそらくうどんのようになっているにちがいない。これは適当に切って冷凍して、そのうちスープか何かで使うことにして、もういちどスパゲティは、こんどは別の鍋で、柄の具合を確かめて茹でることにしよう。
そう考えて、わたしはかまきりが表紙でこっちを見ている本を閉じ、立ち上がったのだった。
外気にふれるとぴりぴりとかなり痛んだので、ワセリンを塗り、フィルムをはる。指を動かすと痛むので、固定するために包帯でぐるぐる巻きにした。とりあえずそうやって応急処置をすませると、食事作りを再開したのである。

翌朝、どうなったか見てみると、全体に赤くてかてかしているなかに、「く」の字のみずぶくれがひとつと、読点のようなみずぶくれがふたつできていた。「く。。」というと、なんだか笑われているような気がしないでもなかったが、とりあえずこれですんだのはめっけもの、というべきであろう。おそらく「く」は、鍋の縁かなにかがあたったものと思われる。

ともかく、二日ほどは、ほかのものが当たったりしないよう、もっぱら防御の意味で包帯を巻いておいた。小指を除けば指先はなんとか動くので、キーボードを打つことはむずかしかったが、それ以外のことは何とかできた。

そうして、その手の状態で近所のスーパーに買い物に行ったのである。
出かける前に必要なものがあったので、開店間もない店だった。まだ野菜コーナーでは、ほうれん草やら小松菜やらを並べているところだった。客より店の従業員の方が多いような店内で買い物をすませ、レジに向かう。

ところがそこで困ったことになった。
その店では買い物のたびにポイントをつけてくれるカードがあって、レジで打ってもらう前にそのカードを出すようになっているのだが、そのカードがサイフからでてこないのだ。
左手でサイフを広げて持てないので、右手でサイフをささえ、左手でカード入れの中から取り出すのだが、それがどうしても出てこない。
「もういいです。そのまま打ってください」と言ったら、レジの人は、
「いいですよ、店、空いてますから、ごゆっくりどうぞ」といってくれたのだった。

そのレジの人はわたしもよく知っていた。
レジのパートは比較的入れ替わりが激しいのだけれど、そういうなかで昔からいる人なのだ。バーコードを読みとらせるにしても、お金の精算にしても、ひとつひとつの動作がひどくもたもたとしていて、全然慣れていく様子がない。その人のレジだけは、ほかの人の倍近くの時間がかかるのだった。実際の時間としてみればわずかであっても、そのもたもたとする仕草を見ているのは苛立たしいものである。少々ほかの列が長くても、たいていのとき、わたしはその人の列を避けるようにしていた。

ところが開店直後だったために、レジにはその人しかいなかったのだ。だから、やむなくそこに並んだのだった。
ふだん、「もたもたしている」とわたしが思っていた人の目の前で、わたしはおっそろしくもたもたとカードを出したのだった。

わたしたちは、さまざまな場面で、さまざまなものに評価を下す。これは良い、これは悪い、おもしろい、おもしろくない、わくわくした、つまらなかった……。
読んだ本について、聴いた音楽について、そんなことばかりではない、言葉を交わした人や、その人の話の内容、あるいはすれちがっただけの人の服装のセンスとか、モノレールの座席のクッションの具合とか、ありとあらゆるものを、半ば無意識のうちに評価を下してしまっている。そうして、それが良きにつけ、悪しきにつけ、極端なものが意識にのぼってくる。

そうして、あるものや人に対して否定的な評価を下すとき、というのは、「下す」という言葉通り、わたしたちは高い位置に立っている。
もたもたとするレジ係を見て「トロいなぁ……」と評価を下すときも、あるいは、エスカレーターの前で立ち止まる人を見て「邪魔だなぁ」と評価を下すときも、最近流行っているらしい、ハイウェストのへろへろしたチュニックを着ている女の子を見て「まるでマタニティドレスみたいだなあ」と評価を下すときも、わたしたちはそうした人より高いところから、見下しているのだ。

だが、自分の立っている位置というのは、決して不動のものではない。
まわりがすべて自分より器用な人のなかでは、自分が誰よりも「トロいやつ」になってしまう。怪我をして、さっさと歩けないときは、エスカレーターにすぐ乗れないかもしれない。ハイウェストのチュニックがとってもオシャレだと信じている若い女の子たちのなかで「へろへろ」だの「マタニティドレス」だのと言うと、「やっぱりおばさん」と目配せされるかもしれない。

もちろん、自分のあらゆる行動には規準があるはずだ。自分がああしたい、こうしたい、ではなくて、「こうすべき」「こうすべきでない」という、善悪の規準を持つことは必要だろう。
それでも、わたしたちはこの規準をもとに、人であろうがものであろうが、意識的・無意識的に判断を下しているし、判断を下す自分は、高い位置に立ってしまっている、ということは、頭の隅に留めておいた方がいい。そうして、自分もまた評価され、判断を下される側でもあるということを忘れないことだ。
自分はいつもいつも最高のコンディションというわけではない。
ああ、自分は傲慢な目で人を見ていたのだな、ということに気がつくことができたのだから、火傷をしたのもいい経験だったのだ。

鍋の柄は、東急ハンズに行ったら売ってるかしら。

鏡よ、鏡 その6.

2007-05-24 22:51:15 | 
6.鏡がたくさん

姿見の前に立つ。自分の全身を見る。やはり不思議な感じはする。これが自分なんだろうか。ふだん、手や足や膝や腕を見ることはできても、統一した自分の身体として見ることができる機会は、鏡の前に立つ以外にはあまりない。

 テレザは自分の身体を通して自分を見つめたいと努めた。そこでしばしば鏡の前に立った。母親がそんなことをしているテレザを見つけることをテレザは恐れたので、鏡をのぞくことは秘められたささやかな興奮という性格を持っていた。
 彼女を鏡に引きつけたのはうぬぼれではなく、自分自身というものを見ることの驚きであった。彼女は身体のメカニズムの計測パネルを見ていることを忘れていた。顔の特徴の中に、彼女自身を認識させる心を見ているようにテレザには思われた。鼻が空気を肺に送る管の終わりにすぎないということを忘れていた。鼻が自分の性格の忠実な表現だと見ていた。
 テレザは自分を長いこと見つめていたが、時折自分の顔の中に母親の特徴が見えて、それがさまたげになった。そこで自分をさらにじっと見つめ、自分の顔の中には自分自身のものだけが残るように、意志の力で母親の人相を見ないようにし、取り除こうと努めた。それがうまくいったときはしばしの陶酔に浸るのであった。心は身体の表面へとあらわれてきて、それはまるで軍隊が甲板の下から勢いよく出てきて、甲板をうめつくし、天に向かって手を振り、歌っているかのようであった。
(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳 集英社)


わたしたちは他人が身体を持っていることは知っている。けれども、それとおなじように自分の身体を見ることはできない。鏡の前に立つことで、自分が他人と同じような身体を持つ存在であることを知ることができるのだ。
自分の身体をあらかじめ知っているのではない。ほかの人がいるから、鏡に映っているのが自分であることがわかるのだ。

もしほかに人間がいなかったら、その世界でたったひとりの人間は、鏡に映っているのが自分だとは気がつかないだろう。『存在の耐えられない軽さ』からもう少し引く。ここでアダムとあるのは、あのアダムとイヴのアダム、カレーニンとはテレザの飼っている犬の名前である。
 アダムが《天国》、泉をのぞき込んだとき、自分が見ている者が自分であることをまだ知らなかった。テレザが女の子として鏡の前に立ち、自分の身体を通して自身の心を見ようと努めたことを彼は理解しないであろう。アダムはカレーニンのようであった。テレザはカレーニンを鏡のところへ連れていってよく楽しんだ。カレーニンは自分の姿が分からず、それに向かって信じがたい無関心と放心した様子で対した。

鏡は、遠い昔、ナルキッソスがそうしたように、わたしたちの自分に向かう欲望を呼び起こす。それを知っているから、あまり自分が鏡に向かっているところを人には見られたくない。

その一方で、鏡の前に立つことは、自分を他人の目で見ることでもある。自分の姿を他者のひとりとして見ることもできる。こうやって、わたしたちは自分が「人間のひとり」であることを知るのだ。


ところで「子供は大人の鏡」であるとか、「学校は社会を映し出す鏡」であるといった言い方がある。ここで使われる鏡のメタファーは、人々のありようを映し出すもの、ぐらいの意味で使われているのだろう。

あるいは、ジョン・チーバーの小説、たとえば「とんでもないラジオ」では、このラジオは様々な人の生活を映し出す役割を果たしながら、同時に、表面は平穏で豊かなウェスコット夫妻の内側、決して平穏でもなければ満ち足りてもいない側面を映し出す鏡の役割を果たしている。
そうして、この小説自身がアメリカの中産階級を映し出す鏡でもある。
さらに、アメリカに限らず、ふだん気がつかないわたしたち自身の見栄や欺瞞も映し出す。

わたしたちはあらゆるものを鏡として見ることができるのだ。
ふだんあまりに当たり前で気がつかないものを、鏡を通して見ることで、少しちがう位置から見ることができる。

鏡に映った自分は、左右が入れ替わっているし、ありのままの自分ではない。鏡によって、立つ位置によって、微妙に見え方もちがってくる。だが、そのためにふだん気がつかないものに気がつくこともある。

自分自身が鏡になっていることもある。自分が何を映しているのか、それを知るためには、また別の鏡が必要になる。
二枚の鏡を向かい合わせたときのように、世界には無限の鏡がある。無限の像を映し出している。

(この項終わり)

鏡よ、鏡 その5.

2007-05-23 22:20:15 | 
5.鏡が映し出すもの

谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』はもともと新聞の連載小説で、現在でも岩波文庫には、新聞連載時そのままの小出楢重の挿絵が載っている。その挿絵の第一枚目が、鏡に向かって髪を結っている、向こう向きの女性の姿が描かれている。

身だしなみをしている女性が美佐子、その後ろ姿を見ているのが夫の要である。
 座ぶとんを二枚腹の下へ敷いて畳の上に頬杖をついていた要は、着飾った妻の化粧のにおいが身近にただようのを感じると、それを避けるようなふうにかすかに顔をうしろへ引きながら、彼女の姿を、というよりも衣裳の好みを、なるべく視線を合わせないようにしてながめた。彼は妻がどんな着物を選択したか、その工合で自分の気持ちも定まるだろうと思ったのだが、あいにくなことにはこのごろ妻の持ち物や衣類などに注意したことがないのだから、――ずいぶん衣裳道楽の方で、月々なんのかのとこしらえるらしいのだけれども、いつも相談にあずかったこともなければ、何を買ったか気をつけたこともないのだから、――今日の装いも、ただ花やかな、ある一人の当世風の奥様という感じよりほかは何とも判断の下しようもなかった。……

 美佐子はいつのまにかマニキュールの道具を出して、膝の上でセッセと爪を磨きながら、首はまっすぐに、夫の顔からわざと、一、二尺上の方の空間に目を据えていた。…

 要は妻がはいったあとの風呂へつかって、湯上がりの肌へ西洋浴衣(バスローブ)を引っかけながら十分ばかりで戻って来たが、美佐子はその時もぼんやり空を見張ったまま機械的に爪をこすっていた。彼女は縁側に立ちながら手鏡で髪をさばいている夫の方へは眼をやらずに、三角に切られた左の拇指の爪の、ぴかぴか光る尖端を間近く鼻先へ寄せながら言った。


美佐子の父親から文楽を見に来るように誘われて、出かけるとも取りやめるとも決心がつかず、ずるずると決定を先送りしている要ととりあえず出かけられる装いだけはしておこうとしている美佐子の場面である。

ここでふたりは一緒にいるのだが、「なるべく視線を合わせないようにして」いる。というのも、「要にとって女というものは神であるか玩具であるかのいずれかであって、妻との折り合いがうまく行かないのは、彼から見ると、妻がそれらのいずれにも属していないからだった」という理由で、要はなんとか妻を心理的にも社会的にも傷つけずに別れようと考えている。その妻にも阿曾という恋人がいる。

わたしたちは対面するとき、相手の表情から相手の眼に自分がどう映っているか、かなりのところまで知ることができる。そこに鏡がなくても、自分の顔に何かついていたら、相手の顔を見ただけでわかるし、相手が気遣わしげな顔をしていれば、自分の顔色が悪いのを知ることができる。つまり、人は自分を映し出す鏡でもあるのだ。
向かい合うふたりは、お互いがお互いの鏡となる。

要がここで鏡を使っているのは、美佐子の様子をそれとなくうかがうためである。正面から向き合うと、自分が相手を見ていることが相手にわかる。自分の目に相手がどう映っているかも相手にわかってしまう。だから正面から向き合わない。
美佐子の側もそれを知りたくないので、向かい合っても「夫の顔からわざと、一、二尺上の方の空間に目を据えてい」る。

向かい合わないふたりには、それぞれに鏡が必要である。
ここで鏡が映し出すのは、このふたりの関係でもあるのだ。

(この項つづく)

(※まだ片手でポチポチ打ってます。時間がかかってしょうがないっす(泣))

今日はお休みです

2007-05-22 22:27:07 | weblog
火傷しちゃったんで、今日は休みます。
右手だけでポチポチ打とうと思ったんだけどうまくいかない。
たぶん明日にはなんとかなると思うので、そのときまたのぞいてみてください。
あと二回で終わる予定です。

それじゃ、また。

鏡よ、鏡 その4.

2007-05-21 22:50:45 | 
4.鏡とナルシシズム

鏡がまだなかったころ、人は自分の顔を見たことがなかったのだろうか。

「ドラえもん」のなかに、自分の顔に嫌気がさしたのび太君が「もしもボックス」で鏡の世界を作り出してしまう、というエピソードがある。
その世界では、だれもが鏡を見たことがなく、自分の顔を知らない。その世界にドラえもんが鏡を持ち込んだものだから、鏡を初めて見たしずかちゃんは「このかわいい女の子はだれ?」と言うし、ジャイアンは「ゴリラみたいにひどい顔」と言い出す。

だが、実際には、たとえ鏡がなくても、水に映った姿などを見て、鏡が一般的ではなかった時代でも、人々は自分の顔は知っていただろう。

ギリシャ神話には有名なナルキッソスの話がある。泉の水を飲もうとして水面に映った自分の姿に焦がれて死んでしまうのだ。
自分だけの世界から出ることができない者は滅びるしかないのである。

ところで、こういう問いにどういう意味があるのかわからないのだが、ともかく「芸能人のだれかに似ていると言われることがありますか」という質問がある。
いま仮にA君がその質問に「福山雅治」と答えたとする。
B君が「次長課長の河本準一」と答えたとする。
どちらもたいして似ていないことにかけては五十歩百歩だ。だが、「似てないクセに、フン」と言われるのはA君の方だ。

あるいは「わたしみたいにカワイイ子とつきあえる男の子はラッキーだと思わない?」と臆面もなく言える女の子は、まちがいなく嫌われている。

こんなふうにナルシシズムを露わにする人間は周囲から嫌悪される。
電車のなかでお化粧をする女の子が嫌悪を誘うのは、それがナルシシズムを感じさせる行為、周囲の視線を一切遮断し、自分ひとりの世界にどっぷり浸りこんでいるからなのかもしれない。

それでは、鏡に向かう人はだれでも一種のナルシシストなのだろうか。

林芙美子の『晩菊』では、かつての恋人を迎える五十六歳の女性きんが、鏡の前で身支度をする。
別れたあの時よりも若やいでゐなければならない。けつして自分の老いを感じさせては敗北だと、きんはゆつくりと湯にはいり、帰つて来るなり、冷蔵庫の氷を出して、こまかくくだいたのを、二重になつたガーゼに包んで、鏡の前で十分ばかりもまんべんなく氷で顔をマッサアジした。皮膚の感覚がなくなるほど、顔が赧くしびれて来た。五十六歳と云ふ女の年齢が胸の中で牙をむいてゐるけれども、きんは女の年なんか、長年の修業でどうにでもごまかしてみせると云つたきびしさで、取つておきのハクライのクリームで冷い顔を拭いた。鏡の中には死人のやうに蒼ずんだ女の老けた顔が大きく眼をみはつてゐる。化粧の途中でふつと自分の顔に厭気がさして来たが、昔はヱハガキにもなつたあでやかな美しい自分の姿が瞼に浮び、きんは膝をまくつて、太股の肌をみつめた。

鏡の中に映る自分の姿を見るきんの目は厳しい。可能なかぎり美しく装うために、鏡の中の像を突き放して見ている。鏡に映った自分を他人の目で見つめているのだ。

自分だけの想像の世界に浸っている人は、他人の目を遮断してしまう。他人の視線を遮断して、鏡に見入っている人に、果たして正しく自分の姿を認識することができるのだろうか。その視線の先にあるのは、ありのままの自分の姿などではなく、想像上の自分の姿、言い換えれば、鏡によってイメージを与えられたその人の欲望の姿なのではあるまいか。

(この項つづく)