英語の慣用句に
"Big Fish in Small Pond or Small Fish in Big Pond"
というものがある。直訳すれば、「小さな池の大きな魚か、大きな池の小さな魚か」ということで、日本語の(というか出典は『史記』なのだが)「鶏口となるも牛後となるなかれ」に当たる。
アメリカでは「あなたは小さな池の大きな魚になりたいか、それとも大きな池の小さな魚でいたいか?」という問いは、大変ポピュラーなものである。一昔前のファミリー物のシチュエーションコメディにも、ワンクールにかならず一回は、そのことがテーマとなっていた。お父さんやお母さんが職場でヘッドハンティングされる。あるいは、友だちが起こした新しい会社に誘われる。そこで「小さな池の大きな魚か……」といって悩むのである。
実際、わたしもそんなふうなことをアメリカ人から聞かれたことがある。
「学内のチアリーダーたちのグループにちょっと無理して入って、その中で一番パッとしない子でいるのと、さえない女の子たちのグループのなかで一番ステキな子になるのと、どっちがいい?」という質問だった。
確かにハイスクールでチアリーダーは花形だけれど、バスケットやフットボールの試合の前に出てきては、短いスカートをはいて、足を上げて踊ったり跳ねたりする自分がどうやってもイメージできなかったわたしは、「チアリーダーはいやだなあ」と言ったような記憶がある。質問の意に添った答えではなかったのだが、聞いた方は勝手に解釈したようで、「ほんと、そうよね」とうなずいていたのがおかしかった。
アメリカでこの質問をされるとき、肯定的にとらえられているのはあくまでも「小さな池の大きな魚」の方である。トップをねらえ、安定よりも挑戦を、という価値観が根底にあるのだ。
一方、日本では、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という慣用句もあるにはあるのだが、あまり「鶏口か牛後か」という悩み方はしないように思うのだ。例外は、ベンチャー企業を立ち上げようとする人たちぐらいで、ほとんどの場合は悩むまでもなく、働くなら「大きな池」、干上がる心配のない、波の立たない、立派で安定した大きな池を選ぼうとするのではあるまいか。
だが、世の中は「大きな池」と「小さな池」しかないわけではない。チアリーダーのグループと、さえない女の子のグループしか現実にはいないわけではないし、おまけに所属グループを選択するときの基準は「派手か、さえないか」だけではない。
たとえばある楽器を演奏する人が、「すごくうまいバンドに入れてもらってその中での一番ヘタなやつになるのと、ヘッタクソなバンドの花形プレイヤーになるのと、どっちがいい?」と聞かれたとする。このとき、その人がいったい何の楽器をやるのかによって答えは変わってくるだろう。目立ちたがりの多いギタリストやドラマー(あくまでもわたしの偏見です)はへっぽこバンドの花形プレーヤーの道を選んで、自分の華麗なパフォーマンスでバンドの人気が出れば、へたくそなボーカルの首をすげかえることを目論むような気がするし、ベーシストであれば、最初はうまいバンドで怒られながらベン、ベン、と弾いていても、陰で血豆を作りながら練習して、じきに弾き倒しベーシストへの変身を遂げるのではあるまいか(あくまでもわたしの偏見です)。
つまり、その人が所属グループに何を求めているかが決定的な要件となる。仕事先に生活の安定を求めていれば、「大きな池」を選ぶのは必然なのである。
そういうふうに考えていけば、この「小さな池の大きな魚か、大きな池の小さな魚か」という問いは、どちらを選ぶかの答えの方に意味があるのではないことがわかってくる。
そもそもこの問いは、「自分」というのは相対的な存在であることを理解して初めて成立する。高校時代のクラスメイトのなかに、「Aさんがかわいい、とか、Bさんがかわいい、とかと誰が言っていても、わたしはいつも、自分の方がかわいいと思ってるんだ」と言っている子がいて、内心「おおっ」と思ったことがある。つまり、わたしが「おおっ」と思ったのは、当然のことながら、その子の美貌の神々しさに目がくらんだのではなくて、高校生にもなってそんなことを未だに思える、しかも人に対して言うことのできる度胸に対して、である。いまこうやってそのときのことを思い返せば、そんなことをわたしなんぞに言わざるを得なかった、その子の不安な気持ちが逆にうかがえて、なんだかかわいらしく思えてくるのだが。わたしはそのとき何と答えたのだろう。そちらの方はまったく記憶にない。
幼児的万能感、という言葉があるが、小さな頃は、わたしたちの誰もが世界の中心だ。何だってできるし、世界で一番かわいくて、かしこくて、重要人物なのである。立ったといって褒められ、歩いたといって褒められ、靴を履いたといってほめられる。何をやっても褒められ、拍手され、みんなの注目を一身に浴びる、世界の王様なのである。
けれども、成長段階に応じて、この幼児的万能感は少しずつ揺らいでくる。自分にできることは、たいていの人にできるし、もっと自分よりうまくできる人もいる。たとえ学校で一番走るのが速くても、地区予選があり、さらに県大会があり、国体があり、オリンピック予選があり、さらにその先にオリンピックがある。
これこそ自分の得意なこと、と思っても、自分の上にはいったいどれほどの人がいるか、見当もつかない。
一方で、幼児期培われた強い肯定感は、その人間の軸になっていく。深いところで自分自身を無条件に肯定できる感情は、外界の変化にすぐに動揺するわたしたちの「気分」の重しとして、一生を通じて働いていくだろう。くるくる回る風見鶏の軸が決して揺らがないように。
そんなふうに、自分の「大きさ」と「小ささ」の両方を同時に感じ取れるところまで成長して、池の大きさと自分の大きさ、加えて自分が池に何を求めるか、考えることができるようになって、初めて成立する問いなのだ。自分は大きな池の小さな魚であると同時に、小さな池の大きな魚でもある。そのことを理解できることが、この問いの前提になっている。
とはいえ、「あなたの好みのタイプはどんな人?」という問いに、実はあまり意味がないように、この問いも、一般的に考えても意味はない。
魚が自分の池を選べないように、多くの場合、わたしたちは最初からある「池」に放り込まれている。ふだんはこの池の大きさも、自分の大きさもほとんど意識することはない。それが意識されるのは、こことは別の池に行ける可能性が生まれたときだ。
そのとき、自分の放り込まれた池のサイズをどのように見るか、そうしてまた自分の大きさをどう見るか。自分はいったい何を求めるのか考えるだろう。
そんなとき、人は自分に問う。
わたしは、小さな池の大きな魚となろうとしているのか。それとも、大きな池の小さな魚となろうとしているのか。
自分の大きさを外から測り、自分が何を求めているか考える。
そのとき、この問いは意味を持ってくる。
まあ、ひたすら波風の立たない大きな池ばかりを求める昨今の風潮は、どうかと思うのだけれど。
※更新情報書きました。
she-catさんのご指摘を受けて、「クレメンティーナ」一部修正しました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html
"Big Fish in Small Pond or Small Fish in Big Pond"
というものがある。直訳すれば、「小さな池の大きな魚か、大きな池の小さな魚か」ということで、日本語の(というか出典は『史記』なのだが)「鶏口となるも牛後となるなかれ」に当たる。
アメリカでは「あなたは小さな池の大きな魚になりたいか、それとも大きな池の小さな魚でいたいか?」という問いは、大変ポピュラーなものである。一昔前のファミリー物のシチュエーションコメディにも、ワンクールにかならず一回は、そのことがテーマとなっていた。お父さんやお母さんが職場でヘッドハンティングされる。あるいは、友だちが起こした新しい会社に誘われる。そこで「小さな池の大きな魚か……」といって悩むのである。
実際、わたしもそんなふうなことをアメリカ人から聞かれたことがある。
「学内のチアリーダーたちのグループにちょっと無理して入って、その中で一番パッとしない子でいるのと、さえない女の子たちのグループのなかで一番ステキな子になるのと、どっちがいい?」という質問だった。
確かにハイスクールでチアリーダーは花形だけれど、バスケットやフットボールの試合の前に出てきては、短いスカートをはいて、足を上げて踊ったり跳ねたりする自分がどうやってもイメージできなかったわたしは、「チアリーダーはいやだなあ」と言ったような記憶がある。質問の意に添った答えではなかったのだが、聞いた方は勝手に解釈したようで、「ほんと、そうよね」とうなずいていたのがおかしかった。
アメリカでこの質問をされるとき、肯定的にとらえられているのはあくまでも「小さな池の大きな魚」の方である。トップをねらえ、安定よりも挑戦を、という価値観が根底にあるのだ。
一方、日本では、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という慣用句もあるにはあるのだが、あまり「鶏口か牛後か」という悩み方はしないように思うのだ。例外は、ベンチャー企業を立ち上げようとする人たちぐらいで、ほとんどの場合は悩むまでもなく、働くなら「大きな池」、干上がる心配のない、波の立たない、立派で安定した大きな池を選ぼうとするのではあるまいか。
だが、世の中は「大きな池」と「小さな池」しかないわけではない。チアリーダーのグループと、さえない女の子のグループしか現実にはいないわけではないし、おまけに所属グループを選択するときの基準は「派手か、さえないか」だけではない。
たとえばある楽器を演奏する人が、「すごくうまいバンドに入れてもらってその中での一番ヘタなやつになるのと、ヘッタクソなバンドの花形プレイヤーになるのと、どっちがいい?」と聞かれたとする。このとき、その人がいったい何の楽器をやるのかによって答えは変わってくるだろう。目立ちたがりの多いギタリストやドラマー(あくまでもわたしの偏見です)はへっぽこバンドの花形プレーヤーの道を選んで、自分の華麗なパフォーマンスでバンドの人気が出れば、へたくそなボーカルの首をすげかえることを目論むような気がするし、ベーシストであれば、最初はうまいバンドで怒られながらベン、ベン、と弾いていても、陰で血豆を作りながら練習して、じきに弾き倒しベーシストへの変身を遂げるのではあるまいか(あくまでもわたしの偏見です)。
つまり、その人が所属グループに何を求めているかが決定的な要件となる。仕事先に生活の安定を求めていれば、「大きな池」を選ぶのは必然なのである。
そういうふうに考えていけば、この「小さな池の大きな魚か、大きな池の小さな魚か」という問いは、どちらを選ぶかの答えの方に意味があるのではないことがわかってくる。
そもそもこの問いは、「自分」というのは相対的な存在であることを理解して初めて成立する。高校時代のクラスメイトのなかに、「Aさんがかわいい、とか、Bさんがかわいい、とかと誰が言っていても、わたしはいつも、自分の方がかわいいと思ってるんだ」と言っている子がいて、内心「おおっ」と思ったことがある。つまり、わたしが「おおっ」と思ったのは、当然のことながら、その子の美貌の神々しさに目がくらんだのではなくて、高校生にもなってそんなことを未だに思える、しかも人に対して言うことのできる度胸に対して、である。いまこうやってそのときのことを思い返せば、そんなことをわたしなんぞに言わざるを得なかった、その子の不安な気持ちが逆にうかがえて、なんだかかわいらしく思えてくるのだが。わたしはそのとき何と答えたのだろう。そちらの方はまったく記憶にない。
幼児的万能感、という言葉があるが、小さな頃は、わたしたちの誰もが世界の中心だ。何だってできるし、世界で一番かわいくて、かしこくて、重要人物なのである。立ったといって褒められ、歩いたといって褒められ、靴を履いたといってほめられる。何をやっても褒められ、拍手され、みんなの注目を一身に浴びる、世界の王様なのである。
けれども、成長段階に応じて、この幼児的万能感は少しずつ揺らいでくる。自分にできることは、たいていの人にできるし、もっと自分よりうまくできる人もいる。たとえ学校で一番走るのが速くても、地区予選があり、さらに県大会があり、国体があり、オリンピック予選があり、さらにその先にオリンピックがある。
これこそ自分の得意なこと、と思っても、自分の上にはいったいどれほどの人がいるか、見当もつかない。
一方で、幼児期培われた強い肯定感は、その人間の軸になっていく。深いところで自分自身を無条件に肯定できる感情は、外界の変化にすぐに動揺するわたしたちの「気分」の重しとして、一生を通じて働いていくだろう。くるくる回る風見鶏の軸が決して揺らがないように。
そんなふうに、自分の「大きさ」と「小ささ」の両方を同時に感じ取れるところまで成長して、池の大きさと自分の大きさ、加えて自分が池に何を求めるか、考えることができるようになって、初めて成立する問いなのだ。自分は大きな池の小さな魚であると同時に、小さな池の大きな魚でもある。そのことを理解できることが、この問いの前提になっている。
とはいえ、「あなたの好みのタイプはどんな人?」という問いに、実はあまり意味がないように、この問いも、一般的に考えても意味はない。
魚が自分の池を選べないように、多くの場合、わたしたちは最初からある「池」に放り込まれている。ふだんはこの池の大きさも、自分の大きさもほとんど意識することはない。それが意識されるのは、こことは別の池に行ける可能性が生まれたときだ。
そのとき、自分の放り込まれた池のサイズをどのように見るか、そうしてまた自分の大きさをどう見るか。自分はいったい何を求めるのか考えるだろう。
そんなとき、人は自分に問う。
わたしは、小さな池の大きな魚となろうとしているのか。それとも、大きな池の小さな魚となろうとしているのか。
自分の大きさを外から測り、自分が何を求めているか考える。
そのとき、この問いは意味を持ってくる。
まあ、ひたすら波風の立たない大きな池ばかりを求める昨今の風潮は、どうかと思うのだけれど。
※更新情報書きました。
she-catさんのご指摘を受けて、「クレメンティーナ」一部修正しました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html