陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「真似る」話 その6.

2007-06-30 23:07:10 | 
6.模倣と承認

わたしたちは、言葉も知らず、立つことも、歩くこともできない状態で生まれてきた。
赤ん坊は話をしている両親を見て、懸命に真似をしようとして喃語を口にする。食べている大人を見て、なんとか自分も食べてみようと手を伸ばし、口に入れる。

やがてしゃべったり、歩いたりが自由にできる幼児になってくると、今度は「ごっこ遊び」を始める。両手を広げて走っている子供は、飛行機になったつもりだし、ワンワンと鳴きながらイヌになる子もいる。

やがてもう少し大きくなると、「ごっこ遊び」も変化する。
ままごとで「お母さん役」「お父さん役」「お姉さん役」「赤ちゃん役」とさまざまな役割を設定し、演じることによって、家庭という最小単位での社会が、それぞれの役割を持つ人によって維持されていることを認識する。お店屋さんごっこでは、売り手と買い手に分かれることで職業の役割を意識し、おもちゃの銀行券をやりとりすることで貨幣の役割を知る。

つまり、人間は「模倣」を通じて人間となっていくのである。

だが、わたしたちにとってそれほど本質的な行動である「模倣」であるが、一方で、わたしたちは「物真似」「コピー」をオリジナルに較べて劣ったものと見なす。真似をする人間を「独創性のないもの」として軽蔑するし、「あなたの考えはどうなの?」と、あたかもその人独自の「考え」なるものがどこかにあるように思っている。だが、ことばというものが本質的に模倣であることを考えると、模倣ではない考えなど、どこにもありはしないのだ。

わたしたちはなんとなく、自分の奥深くにひっそりと、「ほんものの自分」がいる、と思っている。周囲とは関係のない、揺るぎのない、たったひとりしかいない純粋な自分。
おそらく「模倣」と「独創」や「オリジナリティ」を対置し、前者より後者を尊いものとする考え方は、そういうところから来ているのだろう。

だが、わたしたちは実際はそんなに揺るぎのない確固とした存在としてあるわけではない。さまざまな関係において、さまざまな役割を果たし、さまざまに移ろいゆくのがわたしたちだ。模倣によって、役割を学び、社会の一員となっていくわたしたちは、どこまでいっても「模倣」から自由にはならない。模倣ではない考えなどどこにもないように、模倣ではない行動も、どこにもない。

だがここまでで見てきた小説に描かれる「真似」「模倣」は、いずれも暴力と結びついている。
これはいったいどういうことなのだろうか。

『同居人求む』では、アリの外見をそっくり真似たヒルダは、アリの恋人を横取りし、さらには暴力的にアリに成り代わろうとする。
『リプリー』でも、最初は愛情からディッキーを模倣したトムは、トムが決して自分を受け入れてくれないことを知り、ディッキーを殺す。
『ローマ熱』では、しばらくのあいだグレイスに引っ込んでいてもらうために、アライダはグレイスを「ローマ熱」(マラリア)に罹らせようと策略を巡らせる。
『こころ』では、「先生」がKを自殺に追いこんだとまでは言えないかもしれないが、自分とお嬢さんの婚約が、Kにどれほどのダメージを与えることになるか、少なくとも「先生」は十分に知っていたはずだ。
『名人伝』では、飛衛に学んだ紀昌は、自分こそ天下第一の射手である、として、師を殺そうとする。
『駆け込み訴え』では、ユダはイエスを売る。

どうしてこんなことが起こるのだろう。
これらの小説ではいずれも真似ている人物は、ある段階にいたると、ライヴァルとなるのである。ライヴァルは排除しなければならない。自分が真似をしていた痕跡を消し、今度は手本になるために。
だからこそ、模倣は一種の暴力性を帯びてくる。

これは真似をする人間が不可避的に陥ってしまう陥穽なのだろうか。

だが、『名人伝』でには暴力と無縁の関係も出てくる。
紀昌は飛衛を殺そうとした。飛衛は、そのような事態を避けるために、自分よりさらなる弓の名人である甘蠅を紹介するのである。この甘蠅のもとで修行に励んだ紀昌は、どうなっただろうか。
 甘蠅師の許を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙(けむり)のごとく静かに世を去った。その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かった。口にさえしなかった位だから、弓矢を執っての活動などあろうはずが無い。
(中島敦『名人伝』

彼が名人であるかないかは、それを判定する人の存在が必要になってくる。彼の腕を認める人がいなくては、ほんとうの名人かどうかはわからない。だが、弓を射る技術に関していえば、承認はまったく無関係のことである。極め尽くした紀昌にとっては「天下一の名人であること」など認めてもらう必要はなかった。そこで彼は模倣の暴力性から免れるのである。


これは小説だ、いま、わたしは別に誰かの模倣をしようとしているわけではない、と思う人の方が多いだろう。だが、ほんとうにそうなのだろうか。

コマーシャルや雑誌の広告の多くは、製品だけをクローズアップするのではなしに、俳優やスポーツ選手や有名人が手にしているところを映し出す。それはどうしてか。
 近代に特有で、流行として組織されている模倣=競争は、他人が持っているモノを持とうとする努力としてだけではなく――あるいは、まったくそのようなものとしてではなく――、他人のスタイルを模倣しようとする努力として、特徴づけることができる。伝記というものは、主人公にはけっして見えなかったような形でその人の人生全体を見せてくれるからこそおもしろいのだが、それとほとんど同様に、他人のスタイルは、一つの全体を構成しているので、人を惹きつけうるのである。スタイルが自然に見えれば見えるほど、またそうするための努力が少ないように見えれば見えるほど、それは魅力的になりうる。なぜかというと、わけても、私たちが自分自身のスタイルを考えだそうとして、「自然な」自分の姿を思い浮かべようとしても、非常に難しいからである。…

 ブランメル(※19世紀に紳士服の流行をリードしたボー=ブランメル)とウォーホルが自己陶酔しているように見せかけたのは、自分自身を売るため、つまり彼らのスタイルが他者の目に望ましいものに映るようにするためであったが、ファッションモデルは身につけた衣裳や装飾品を売るためにポーズをとっている。実のところはしかし、それらはまったく同じことなのだ。流行の宣伝は、宣伝一般の多くがそうであるように、写真に写っている個々の商品だけでなく、消費のスタイルも売り出しているのである。今日の自分自身を売物にする人々は、とりわけ芸術家がそうだが(…)売るべき作品も持っている。だが、それを売るためには、まず自分という人間について触れ回るのである。
(ニコラス・クセノス『稀少性と欲望の近代 豊かさのパラドックス』北村和夫・北村三子訳 新曜社)

連日マスコミにはさまざまな「有名人」が登場する。「その人なら何を選ぶか」の指針を与えてくれるのがそうした「有名人」なのである。「有名人」は多岐に渡る。わたしたちはそのなかから「ほんとうの自分」「自分がなりたい自分」の手がかりを与えてくれるようなモデルを選び出す。そうしてそれぞれのモデルを模倣していると意識もしないまま、模倣していくのである。

同じモデルを模倣している人も多い。
それを絆に結びつくこともある。
わたしたちにとってこの「モデル」は「遠い」人々で、ライヴァルになることはないが、「エビちゃんのファッション」をモデルとしているA子とB子のあいだにはライヴァル意識が生まれていく。このとき、A子とB子はともに「エビちゃん」を模倣しているのだが、この模倣が意識されていないとき、何かのきっかけで(たとえば先にその靴を買ったという理由で)A子は「B子が自分を真似ている」と考えるかもしれない。自分が「近い」相手を模倣している、ということは、自尊心が許さない。そこで、近い関係にあっては、「模倣される」のはつねに自分、「模倣している」のは自分ではない誰か、ということが起こる。そうやって、「わたしの真似をするのはやめて」と怒りを爆発させることになる。
真似をする相手を許せなく感じ、排除したくなる。


わたしたちは自分が世界にたったひとりしかいない人間、かけがえのない人間であると承認してほしいと思って、日々を生きている。
これをすると、そうなれるのではないか。
これができれば、そうなれるのではないか。
何をするにしても、結局はこの承認を求めている。

けれども、わたしたちは模倣をすることで、人間となっていったのである。
まず、わたしたちが何か「自分だけ」の側面を持っている、という考え方を改めよう。
そうして、模倣を創造とを対置させて考えるのもやめよう。模倣の要素のない創造などありえない。「独創的な考え」は「模倣の組み合わせ」だ。

そうして、わたしたちそれぞれの「かけがえのなさ」というのは、物や量ではない。物や量なら所有したりも喪失したりもする。そうではなくて、わたしたちがさまざまな局面で築いていく関係のなかで、かけがえのない存在になることができるものなのだ。
模倣をしながら生きていく自分が、同じように模倣をしながら生きいく相手を認めること。
相手を排除するような関係に陥らないためには、それしかないのではあるまいか。

(この項終わり)

今日は休みます

2007-06-29 22:42:27 | weblog
えーと、さっきからずっと書いてるんですが、どうやってもまとまらないので、今日はお休みします。もう頭が霞んできました。

それにしても暑いですね。
一雨あって、外気はそれほどでもないみたいなのですが、室内にいると尋常ではない湿気と暑さで、でろでろにのびてしまいそうです。

わたしのささやかな贅沢、ブルーベリーアイスクリームを食べて、寝ることにしよう。
それじゃ、また。

「真似る」話 その5.

2007-06-28 23:08:06 | 
5.「学ぶ」ことは「真似」ぶこと

わたしたちは技術でも知識でもいい、何かを身につけようと思ったら、かならずお手本を必要とする。わたしたちは何かが「自然に」できるようになったり、わかるようになったりはしない。たとえ「ひとりでにできるようになった」と思ったとしても、それは身近にそれをやっている人を見て、「見よう見まね」でできるようになっただけのことだ。

そこで登場するのが「先生」である。
「教え子」というのは、先生の知識や技術を習得するために、先生の真似をする。その先生に対する敬意の念が強ければ強いほど、真剣に模倣に努めるだろうし、先生と同じになろうとするだろう。
そういう関係の「先生と教え子」はどうなっていくのだろうか。

昨日も取り上げた『個人主義の運命』では、夏目漱石の『こころ』を「師弟関係を正面から扱っている」とする。一見、「先生」の友人であるかのような「K」は、「手本とライヴァルが同一人物の中に並存する」存在である、というのである。

 私の解釈では、「先生」はたとえ策略のいけにえになったとしても、お嬢さんが結婚に値する女性であることを、尊敬するKに保証してもらいたかったのです。そしてまた同時に、このような女性を妻とすることをKに誇りたかったのです。…

「先生」がKを下宿に連れてきた時、すでに一つのアンビヴァレンスに陥る運命が予定されていました。Kが彼女に合格点を与えなかったなら、先生はこの手本の意見に従って対象選択を諦めなければなりません。Kとの師弟関係は続きますが、愛の断念はつらい。逆にKが彼女を愛するにいたるなら、Kによって合格点を与えられた女性を「先生」は求めないわけにはゆかず、Kは「先生」にとってライヴァルとなるでしょう。そしてもし「先生」がこの競争に打ち勝つなら――事実はそうなったのですが――Kは手本としての位置からすべり落ち、以後先生は生きてゆくにあたっての指針を失うことになるでしょう。それは愛の断念よりつらい。「先生」はKに対する尊敬と憎しみのアンビヴァレンスに陥りました。そして客体を獲得し、手本(モデル)を喪失する結果となりました。
(作田啓一『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』岩波新書)

『こころ』では、Kは「先生」の師(手本)であり、同時に恋愛ではライヴァルとなった。けれども、恋愛という出来事がなくても、教え子はある段階で、師のライヴァルとなるのではないか。
たとえば中島敦の『名人伝』は、「天下第一の弓の名人になろうと志を立てた」紀昌という男の物語である。紀昌は当今並ぶもののない名手と謳われた飛衛のもとで修行を積み、腕を上げていく。そうしてある日こんなことを考える。
 もはや師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、ある日、ふと良からぬ考えを起した。
 彼がその時独りつくづくと考えるには、今や弓をもって己に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。
(中島敦『名人伝』

このときは互いの力が拮抗していたために、飛衛はことなきを得た。だが命を狙われた飛衛は「紀昌に新たな目標を与えてその気を転ずるにしくはないと考え」、さらなる師甘蠅を紹介する。

太宰治の『駆け込み訴え』はどうだろうか。
これはイエス・キリストを銀貨三十枚で売った弟子ユダの物語である。このひと息で語りおろされたような短編は、こんな言葉から始まる。
 申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。

ユダは自分がイエスにどれほどひどい目に遭わされたか、縷々訴える。わたしを軽蔑した、わたしが世話をしているのが傲慢だから悔しいのだ……。だがそう言いながら、つづけてこんなことを言わずにはおれない。
一度、あの人が、春の海辺をぶらぶら歩きながら、ふと、私の名を呼び、「おまえにも、お世話になるね。おまえの寂しさは、わかっている。けれども、そんなにいつも不機嫌な顔をしていては、いけない。寂しいときに、寂しそうな面容をするのは、それは偽善者のすることなのだ。寂しさを人にわかって貰おうとして、ことさらに顔色を変えて見せているだけなのだ。まことに神を信じているならば、おまえは、寂しい時でも素知らぬ振りして顔を綺麗に洗い、頭に膏(あぶら)を塗り、微笑んでいなさるがよい。わからないかね。寂しさを、人にわかって貰わなくても、どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父だけが、わかっていて下さったなら、それでよいではないか。そうではないかね。寂しさは、誰にだって在るのだよ」そうおっしゃってくれて、私はそれを聞いてなぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。

ユダがイエスを密告したのは、自分の献身がイエスに容れられなかったからではない。一度目はマリヤが高価な香油をイエスの足にぬったとき、イエスはマリヤに心を動かしたように思う。そこで「凡夫だ。ただの人だ。死んだって惜しくはない。そう思ったら私は、ふいと恐ろしいことを考えるようになりました。悪魔に魅こまれたのかも知れませぬ。そのとき以来、あの人を、いっそ私の手で殺してあげようと思いました。」と、殺意が芽生えるのである。

ユダはイエスを愛しながら、反面「ああ、もう、この人も落目だ。一日生き延びれば、生き延びただけ、あさはかな醜態をさらすだけだ。」と判断している。ここではもはや「師」と「弟子」の関係ではない。
ユダはイエスを密告する決意をする。
あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手で、下役たちに引き渡すよりは、私が、それを為そう。きょうまで私の、あの人に捧げた一すじなる愛情の、これが最後の挨拶だ。私の義務です。私があの人を売ってやる。つらい立場だ。誰がこの私のひたむきの愛の行為を、正当に理解してくれることか。いや、誰に理解されなくてもいいのだ。私の愛は純粋の愛だ。人に理解してもらう為の愛では無い。そんなさもしい愛では無いのだ。

この愛は、果たして弟子が師に捧げる愛なのだろうか。

師を尊敬すればするほど、その教え子は師を忠実に模倣する。そうしてある時点で師はライヴァルとなるのである。

(明日最終回)

「真似る」話 その4.

2007-06-27 22:48:25 | 
4.ライヴァルか模倣か

さて、つぎに一見、模倣とは関係なさそうな三角関係のドラマを見てみよう。
サイトの翻訳の項にも載せているイーディス・ウォートンの「ローマ熱」である。

この「ローマ熱」という短編では、アライダとグレイスというふたりの中年女性が登場する。

このふたりには、過去にこんないきさつがあった。
ローマに滞在していたアライダは、デルフィン・スレイドと婚約していた。そこへ「ちょっと見たことがないほど美しい」グレイスが現れる。

このグレイスもまたデルフィンに夢中になるのである。それに危機感を抱いたアライダは、策略を用いてグレイスを出し抜く。そうして、首尾良くデルフィンと結婚する。

これだけ見れば、アライダとグレイスはライヴァル関係、恋愛の勝者と敗者である。
ところが不思議なことに、恋愛の勝者であるアライダは、同じ時期、結婚したグレイスの監視がやめられない。おとなしい男性と結婚したおとなしいグレイスの地味な生活を、飽き飽きしつつも、どうしても監視せずにいられない。

これはどういうことなのだろう。
ライヴァルとは、主人公の前にたちふさがる障害ではないのか。
この点に関して、作田啓一の『個人主義の運命』はこう指摘する。
ライヴァルが主体よりも一歩先んじている限り、主体はライヴァルを尊敬し、ライヴァルのように「なりたい」と願います。この同一化の作用(…)によって、主体はライヴァルの客体に対する欲求を模倣します。そのために、初めから主体の中にあった客体への欲求はさらに強化されます。言いかえれば、もしライヴァルがいなかったなら、それほどでもなかったはずの主体の欲求が、ライヴァルの介在によって格段に高められるのです。極端な場合には、ライヴァルがいなければ、潜在的であるにとどまったかもしれない欲求(もちろん特定の客体への欲求)が、ライヴァルのおかげで活性化する、ということもありえます。
(作田啓一『個人主義の運命 ―近代小説と社会学―』岩波新書)

実はわたしたちは「ライヴァルの存在が欲求を活性化させる」ことをよく知っている。ドラマや映画などでは、煮え切らない恋人をその気にさせるために、主人公はお見合いをしたり、ほかの異性の存在をほのめかしたりする。

わたしたちが「欲しい」と思うものは、ほかの人が欲しいものだ。人気のある人はステキに思えるし、逆に自分が好きなものをほかの人が認めてくれないと不安になってしまう。
つまり、わたしたちは何かを、あるいは誰かを自分のものにしたい、という欲求が模倣であることを知っているのである。

だが、おそらくアライダは自分がグレイスを模倣しているとは思いもつかないだろう。逆に、自分の婚約者に手を出そうとするグレイスこそ、自分を模倣している、と思うかもしれない。それはどうしてなのだろう。ここでも『個人主義の運命』は回答を与えてくれる。
自分の欲望の達成を妨げ、自分を軽侮している人間をあがめ、この人間の欲求を模倣しているという事実を認めることは、主体の自尊心を苦しめます。手本=媒介者に対する崇拝と恨みという相半する感情(フロイトの用語を借りればアンビヴァレンス)によって引き裂かれた主体は、自己の内部の矛盾から免れようとして、媒介者の中にもっぱらライヴァルの役割を見ようとします。そして本来の役割であった手本の役割を認めることをいやがります。主体は媒介者を手本としてあがめ、彼を模倣している事実を、客体や他の人々に隠すだけではなく、自己自身にも隠そうとします。こうしてライヴァルとしての媒介者への敵意だけが表面にあらわれてきます。

わたしたちは、自分の欲求というのは自分自身のものだと思っている。ところが実際は、何かを欲望するということは、誰かの欲望を模倣するということなのだ。
アライダのグレイスに対する敵意(ローマ熱に罹らせようとして、深夜にコロセウムに行かせた。もしかしたらそれで死ぬかもしれなかったのに)の背景には、単にライヴァルに対する怒りというだけではなかったのである。

(この項つづく)

「真似」る話 その3.

2007-06-26 22:45:21 | 
3.真似る側の気持ち

「太陽がいっぱい」「リプリー」と二度、映画にもなったパトリシア・ハイスミスの『リプリー』では、主人公のトム・リプリーがリチャード(ディッキー)・グリーンリーフを真似し、さらに彼になりかわろうとする物語である。この作品を手がかりに、「真似る」気持ちを見ていこう。

幼少の頃、両親を亡くし、吝嗇で情愛に乏しい叔母に育てられたトムは、俳優を目指して二十歳の時にニューヨークへやってくる。だが、チャンスはなく、生活に追われ、やがて経理に明るいところから、所得税を巡って、詐欺をはたらくようになる。

そこに現れたのが造船会社を経営するグリーンリーフ氏。かつて、ちょっとしたつきあいのあったトムを息子の親友と思いこみ、イタリアにいる息子をアメリカに連れ戻してくれるよう頼み込む。

こうしてトムは、イタリアで絵を描いているディッキーに会いに行くのだが、ディッキーのほうはイタリアでの生活が気に入っていて、アメリカに帰って父親の跡を継ぐことなど望んでいない。トムは、グリーンリーフ氏の頼みよりも、なんとかディッキーの気に入られようと、さまざまに心を砕く。

退屈していたディッキーの側も、トムを歓迎し、やがてディッキーの家にトムも住むようになる。ところがディッキーにはマージというガールフレンドがいた。マージはトムをゲイだと思い、自分たちのなかに入りこんできた邪魔者と見なす。
「マージのところに寄っていくよ」と、ディッキーが言った。「長くはかからないが、きみは待っていることはない」
「そうかい」と、トムは言って、不意に淋しさを感じた。…

 窓が見えるところで、足をとめた。ディッキーが彼女の腰に腕をまわしている。キスをしていた。…トムはひとくいやな気がした。…

 くるりとうしろを向き、階段を駆けおりた。大声で叫びたかった。ガチャンと門を閉めた。ずっと走りつづけ、息せき切って家にたどりつき、門を入ると、手すり壁に身をもたせかけた。…

 彼はディッキーの部屋へ行き、ポケットに手を突っこんで、しばらくの間ゆっくりと歩きまわった。…クローゼットの扉をぐいと引っぱりあけ、なかを覗いた。きちんとアイロンをかけられた、いま流行のグレーのフランネルのスーツがあった。着ているのは一度も見たことはなかった。それを取りだした。半ズボンをぬぎ、グレーのフランネルのズボンをはいた。デッキーの靴をはく。さらに、チェストのいちばん下の引き出しをあけ、真新しいブルーと白のストライプのワイシャツを出した。

 ダークブルーのシルクのネクタイを選び、ていねいに結んだ。スーツは彼にぴったりだった。髪を分けなおし、ディッキーのまねをして、分け目をすこし横に寄せた。

「マージ、いいか、ぼくはおまえをあいしていないんだ」トムは鏡に向かい、ディッキーの声音をつかって言った。高い声を出して言葉を強調し、フレーズの終わりでは、喉の奥で多少ゴロゴロいう音をさせた。…「マージ、やめるんだ!」トムはとつぜん降りかえり、マージの喉を絞めているかのように、空をつかんだ。
(パトリシア・ハイスミス『リプリー』佐宗鈴夫訳 河出文庫)

これがトムがディッキーの真似をした最初の経験である。ディッキーにたいして激しい愛着を抱いたが、それが受け入れられなかったことがきっかけとなっていったのである。

こののち、ディッキーはいよいよトムを疎んじるようになり、トムは間もなくそこを出ることになる。最後にふたりは旅行に出かけるのだが、そこでもディッキーは冷たい。トムは「憎しみや愛情や苛立ちや欲求不満といった狂おしい感情が心のなかでふくれあがり、息が苦しくなった。殺してやりたいと思った」という感情を抱くようになる。
トムはディッキーに、友情も、付き合いも、敬意も、必要なものはすべて捧げてきたのだ。それにたいして、彼は忘恩と敵意で報いたのだ。トムはのけ者にされていた。この旅の途中でディッキーを殺しても、事故死ですませることができると思った。そして――彼はそのとき、すばらしいことを思いついていた。つまり、自分がディッキー・グリーンリーフになりすますのだ。

こうして思い通りに、トムはディッキーになりすまし、首尾良くパリでの生活を始めることができるようになる。だが、偶然やってきたイタリアでの共通の知人に疑念を持たれ、その人間まで殺してしまう。警察はトムではなく、ディッキー・グリーンリーフを疑うようになる。
ディッキー・グリーンリーフになりすましているのは、これが最後であることはわかっていた。トーマス・リプリーにはもどりたくなかったし、取り柄のない人間でいるのもいやだった。また昔の習慣に逆もどりしたくもなかった。みんなから見下され、道化師のふりをしなければ、相手にされないのだ。誰にでもちょっとずつ愛嬌をふりまく以外、自分はなにもできない役に立たない人間だという気持ち、そんな気持ちはもう味わいたくなかった。買った当座でもたいしたことはなかったのに、油のしみがつき、しわの寄った、そんなみすぼらしいスーツを着たくはないように、ほんとうの自分にはもどりたくなかった。

ここでわかるのは、誰かの真似をする、というのは、真似をする対象に、強い愛着を持っている行為であることだ。それに対して、いまある自分はつまらない、何でもない存在であるという嫌悪感を募らせている。
言葉を換えれば、自分が真似をする対象こそ、自分のあるべき姿なのであり、現在の自分の姿はどこかまちがっている、というふうに思うようになっていくのである。やがて、自分が真の自分となるためには、自分があるべき姿に「戻る」こと、つまり、真似をする対象になりかわっていくことを望むようになっていく。

単にあこがれから始まった「真似」が、これほどまでに暴力的な意識に変わっていくものなのだろうか。それともこれは単にミステリだから?
真似、模倣ということを、今度はもう少し別の角度から見てみよう。

(この項つづく)

「真似」る話 その2.

2007-06-25 22:31:23 | 
2.真似される恐怖

誰かが自分の真似を始めたとする。
英語のことわざに

 "Imitation is the most serious form of flattery."
  (模倣はこれ以上はないほどのおべっかである)

というのがあるが、最初、そうではないか、と思ったときに、まず感じるのは一種の優越感だろう。
「自分が模倣される」というのは、悪い気分ではない。

だが、その優越感は長くは続かない。すぐに不快感に取ってかわられ、やがて怒りを引き起こす。その怒りの正体は何なのだろう。

ここではその極端なケースを見てみよう。
「ルームメイト」というタイトルで映画にもなった原作『同居人求む』から。

主人公のアリはニューヨークで生活する若い女性。それまで同棲していた恋人サムと仲違いしたために、アパートに一人暮らしすることになった。ところが家賃は高い。そこで新聞に広告を出す。「SWF(独身・白人・女性)のルームメイト募集」。
そこへ応じてきたのがヒルダ。おとなしそうな女性だったので、アリはヒルダに決める。

内気で物静かなヒルダは、理想的なルームメイトのはずだった。
ある日急な用事でアパートに戻ったアリは、彼女が自分の服を着て、自分の靴をはいた姿で鏡にみとれているところに行きあわせる。
最初は腹を立てたアリも、泣きながら謝るヒルダの姿に憐憫をかきたてられ、その場は許してしまう。

ところが後日、ヒルダが外出しているときに、見あたらないスリッパをさがしていたアリは、ヒルダのクロゼットに、自分のとそっくりな服やアクセサリばかりがしまわれているのに気がつく。しかも自分と同じヘアスタイルのかつらまで。

アリはサムの詫びを受け入れ、ふたたび同棲生活を始めようとする。ヒルダには出ていってもらうことにしたのである。
ところが仕事から帰ってみると、自分そっくりのかつらをつけたヒルダが、サムと一緒にベッドにいた。
 ヒドラの狙いは何だろう? なぜ文字どおりアリの人生を乗っ取って、アリの人格を奪い、もう一人のアリになってしまったのか? ヒドラはアリのアパートメントに住んでいた。そっくりの洋服を着て、そっくりのアクセサリーと香水をつけた。ときにはアリの服と装身具を身に着けた。アリの名前を使った。仕草やしゃべり方すらも真似た。サムと寝た。
 アリを羨んだ。
 自分というものがなかった。……

ヒドラの内心の炎と嫉妬の激しさを見誤っていた。今となっては、ヒドラがなぜサムを何が何でも奪いたかったか、なぜアリに情事をみせびらかしたかったか、明白である。ついにヒドラがアリに取って代わったこと、アリはもはや確固とした現実の存在ではないことを思い知らせようとしていると言っていい。アリはうつろな人生の住人、自分の人生に住む影のような間借人となった。

 たまらないのはアリ自身がそう感じていることだ。
(ジョン・ラッツ『同居人求む』延原泰子訳 ハヤカワ書房)

わたしたちはふだん、自分は確かな存在であると考えている。世界で唯一の、取り替えのきかない存在であると。
ただ、それを証明してくれるのはなんだろう?
それは、他人が自分を自分であると認めてくれるからではないか。

それまでアリの周囲の人々は「アリ」を「アリ」であると認めてくれていた。アリ自身もそのことを当たり前として何の疑問ももっていなかった。ところがヒルダがアリそっくりの格好をし始めた。周囲はアリの格好をしたヒルダは「アリ」として生き始めた。そこで「アリはうつろな人生の住人、自分の人生に住む影のような間借人となった。」、つまり、アイデンティティを失ったのである。

これはもちろん極端な例である。
それでも、わたしたちは誰かが自分の真似をしている、と思うとき、多少、優越感を覚えることがあっても、不快感はそれを上回る。それは、真似されることでアイデンティティを脅かされたように感じるからなのだ。

(この項つづく)

「真似る」話 その1.

2007-06-24 22:19:42 | 
1.真似られると腹が立つ?

先日、たまたま電車で知り合いの女の子と一緒になって、少し話をした。
彼女はずっと、A子と仲が良く、いつ見ても一緒にいる印象があったので、わたしは深い考えもなく「今日はA子ちゃんとは一緒じゃないの?」と聞いてみた。

すると、彼女の表情が変わった。「もうA子なんて関係ないんです」
わたしが何とも返事をしないでいると、彼女は「あの子、ひどいんですよ」と堰を切ったように話し出した。

A子はいつもわたしのマネばっかり。わたし、最近メガネ替えたでしょ、そしたら、A子ったらそれまでコンタクトだったのに、わたしと同じセルフレームにしたし、このあいだなんて、わたしが着てたのとそっくりのチュニック、着てきたんですよ、もうわたし、絶対着れなくなった。おまけにね、××を最初に見つけたのはわたしなんです。なのに、いまじゃ自分が見つけてファンになったみたいに大騒ぎしてる。そういうの、信じられないと思いません?

確かにそういわれてみれば、彼女たちふたりはよく似た格好をしていたような気もする。それでもほかの女の子たちも、みんな揃ってよく似た格好をしているのだ。そういう流行などに興味もないわたしから見ると、ことさらにA子が彼女のマネをしているとは思えなかった。それでも彼女からすればそう見えるのか、あれもマネ、これもマネ、となおも言い募る彼女の話を、わたしの降りる駅に着くまで聞いていた。

ひとりになってその話を思い返しながら、ふとそれまで忘れていた記憶がよみがえってきた。
確か中学一年のときのことだ。女の子数人に取り囲まれて、なかの一人に「その靴下、やり過ぎじゃない?」と詰問されたのだ。わたしはまったくの寝耳に水で、どういうことかわからないけれど? と聞き返したような気がする。するとほかの女の子たちも口々に、わたしがバインダーにしても、ペンケースにしても、そのなかの一人の女の子のマネばかりしている、というのである。そうして、その日わたしが履いていた靴下も、彼女が気に入っていて、学校によく履いてきた靴下と同じだというのである。

その靴下は、紺色の地にグレーと赤のアーガイル模様がついたもので、母親がイトーヨーカ堂で買ってきたのを、その日おろしてはいてきたのだ。わたしはアーガイルはあまり好きではなくて、模様がもう少し小さければいいのに、なんだかカッコ悪いな、と思っていたのだった。
わたしは自分が何と答えたのかまったく記憶はないのだが、言いたいことを言った彼女たちは満足して帰っていったのではなかったか。ともかくわたしとしては言いがかりをつけられたとしか思えず、何とも言えない腹立たしさだけが残った。

人真似は反感を引き起こす。
昔話でも、隣の正直爺さんのマネをして、裏の畑を掘った意地悪爺さんも、同じようにこぶを取ってほしかっただけの踊りの下手なお爺さんもひどい目に合うし、舌切り雀のお婆さんはガマだのヘビだのが出てくるつづらをもらってしまう。アラビアンナイトでも、アリババの真似をして盗賊の洞窟に入ったまま、出るときの呪文を忘れた兄のカシムは、戻ってきた盗賊に殺される。
こうした話は暗に「人真似は良くない」という教訓を与えているようだ。

一方で、学ぶことは真似ぶこと、という言い方もある。
習字を習うときは、かならずお手本をなぞる。踊りを習うときも、手本とする先生の踊りを、できるだけそっくりに真似ようとする。

わたしたちは、身近な人間が自分を真似ている、と感じたとき、なぜ怒りを感じてしまうのだろうか。真似をする人間を蔑んでしまうのはなぜなんだろうか。逆に、真似が奨励される場面というのはどういう時なんだろう。

いろんな小説に描かれる「真似る」ことを見ながら、「模倣」ということを考えてみたい。
良かったら、しばらくおつきあいください。

生きること、殺すこと

2007-06-22 22:32:36 | weblog
最近、近所づきあいの一環で、生協に入ってしまった。
なにしろ近所に「生協命」のおばちゃんがいらっしゃるのである。
戸別訪問の襲来を受けて、撃退すること三度、四度目に弱みを握られ(その中身はヒミツ)、ついに陥落してしまったのだ。

以前にも銭湯は環境破壊かで書いたことがあるけれど、わたしはこれまで「有機野菜」というものをわざわざ選んで買うということもなかった。
どこまで「有機野菜」「減農薬野菜」というのが根拠があるものなのか、という疑いをずっと持っていたし、なんというか、「ちょっと値段が高いものを選ぶ」というセンスが何となくイヤ、というのもあったのだ。

ところがおばちゃんのオルグに陥落して、いまではれっきとした生協の組合員である。

いざ入ってみると、これがなかなかすごい。
チラシ、というか、タブロイド判の新聞みたいなチラシを見て、注文票に記入する。この注文票というのが、昔懐かしいマークシートなのである。
昔もこうやって枠内をぐるぐると塗りつぶしたなあと思いながらだいたい市価より高いので、気を許してあれも買おう、これも良さそうだなどとチェックしていくと、おおっとぉ、という値段になってしまって、あわてて消しゴムで消したりする。

そうしてキャベツや白菜を頼んだりすると、葉っぱの間に蛾がぺたんこになって潰されているわ、アオムシはバラバラ落ちてくるわ、このあいだはナメクジを三十年ぶりぐらいに見た。

もはや干からびている蛾や羽虫ならいいのだが、生きてもぞもぞと動いているアオムシや葉についたタマゴをどうするか。これは悩むところなのである。たいていは集めて外葉にくるんで、ポリ袋に入れて捨てる。また殺生をしてしまったなあ、と一瞬思うのだが、しかたない。一匹や二匹のアオムシではないのである。こんなにたくさん飼ってやるわけにもいかないし、公園に放してやる、というわけにもいくまい。

生協のチラシで卵のところを見ると「有精卵」と書いてある。有精卵、ということは、温めてやれば孵るということだ。一パック十個、十羽のニワトリになるかもしれない卵を、冷蔵庫に保存して、つぎからつぎへと食べていく。

こうした野菜にしても、卵にしても、届くたびに実感するのは、食べるということは、命を食べているのだな、ということだ。あるいは、食べるものを守るために、ほかの命を殺している、ということだ。

スーパーに並んでいるぴっちりとラップされたキャベツや、ニワトリには決してならない卵、あるいは、原型をうかがわせないパック詰めされた魚の切り身やスライスされた肉は、他の生き物を殺してそれをわたしたちが食べていることを見えなくするためのあれやこれやの工夫でもある。

減農薬やらなんやらという付加価値のついた、いささか高い生協の商品は、スーパーが隠そうとしていた「命を食べている」ということを剥きだしにしてみせる。付加価値は「安全」ということだが、虫にとっては農薬を使用されることとまったく同じ結果をもたらす。ちがうのはたったひとつ。消費者であるわたしが手を下しているということだ。

「アオムシが喜んで食べるくらい、おいしいっていうことよ」とそのおばちゃんは力説するのだが、近所の別の人は、野菜だけは怖くって買えない、と言っていた。わたしは虫は平気なのだが、それでもやはりこまったなあ、と思う。この「こまったなあ」も含めての付加価値なんだろうか、と思ったりもするのだ。

ともかく、今度そのおばちゃんに会ったら聞いてみよう。「アオムシも喜ぶ生協のキャベツについてるアオムシ、どうしてらっしゃるんですか?」

サイト、半分、更新しました

2007-06-21 22:26:22 | weblog
先日までここで連載していた「あのときわたしが聞いた歌」、加筆してサイトにアップしました。
えーと、更新情報はまだ書けてません。たぶん明日の朝くらいにはアップできると思うので、二番目の"Latest issue"のところか、「この話したっけ」のところから入ってみてください。もちろん、明日以降にのぞいてくださってもうれしいです。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

何かやたら個人的なネタで、おもしろくもなんともないのかもしれませんが、ちょっとでも重なりあう部分があったり、あのころ自分は何を聞いていた、と思いだすことがあったりしたら、またお話、聞かせてください。

それじゃ、また。

質問に答えてみました

2007-06-20 22:21:21 | weblog
いやいやみなさんこんばんは。

えーと、このかん、何人かのかたからメールをいただいたんですが、返事、書けてません。ごめんなさい。

このおばちゃんにも昔、毎日毎日せっせと長ーいメールを書いてたころがあったんですよ(遠い目)。
だけどね、歳を取ってくると、長いこと坐ってたら腰は痛くなってくるし、パソコンの液晶画面を見てたら目はすぐに疲れるし、夜は眠いし、やらなきゃいけない雑用はなんだかんだあるし、おまけに性格がひねくれてきて(おっとこれは昔からか)、やらなくてもいいことならできるんですが、やらなきゃならないと思ったら、そのとたんに何にもしたくなくなる。

こう見えても、結構、文章書くのに時間がかかるんです。
ブログの文章も、書き飛ばしているように見えるかもしれませんが、書き飛ばす状態に入るまで、やはり相当時間がかかってる。毎日のブログの更新でも結構大変です。

とくにくださったメールの返事は、くださったかたに波長を合わせるのに結構時間がかかる。それをしないと定型文になっちゃって、それはそれで書くのが苦痛ですから、それを避けようとすると、やっぱり数時間はかかっちゃう。で、いきおい休みの日に書こうと思うんですが、それでもね、なんだかんだと……。Rushに魂を抜かれたり、本を読んだり、台所の床に山と積まれた本を整理したり、キンギョ水槽のメンテをしたり、地雷除去作業に精を出したり(ってこれはパソコンに入ってるゲームのことです。これとか、上海とか、Zookeeper って、動物が落っこちてくるのをまとめるやつとか、つい、ね…)、そういうことやってると、どんどん後回しになっちゃって。

ほんとうにごめんなさい。

ただ、これまでいただいたメールには、よく共通するご質問がありました。ここでFAQとしてあげておきますので、わたしのブログやサイトを見て、同じような疑問を抱かれた方は、これを参照なさってください。

Q.1:翻訳の勉強がしたい(英語を生かした仕事につきたい)のですが。

まず、わたしはプロの翻訳家でもなんでもないので、どうかそれを忘れないでください。
単に文章を書く勉強をする一環として、翻訳の勉強もやっているだけです。プロだったら、こんなレベルで人に晒すようなことはしないでしょうし、無料で公開したりもしないでしょう。だから、そういう人間の意見として、読んでくださいね。

まず、本気で勉強をするつもりなら、学校へ行ってください。
最近では大学でも教えてくれるところがあるみたいですが、わたしにはよくわかりません。
ともかく、あちこち調べて、パンフレットなんかも集めて、いろいろ検討してみてください。お金はかかる。これは勉強しよう、資格をとろうと思ったら、何でも一緒です。泣きたいくらい、お金はかかる。そういうもんです。それが勉強をするということです。
親に頼めるなら、頼んでください。それが無理なら働く。とにかく方法はいろいろあるから、必要に迫られればどうにかなるもんです。

独学は、そこを出てからの話です。心配いりません。独学はもう好きなだけ続けることができます。
ただ、まず最初は先生につくことです。
ピアノを弾くにしても、絵を描くにしても、泳ぐのにしても、なんでも最初は習わなきゃなりません。自分のフォームは自分では見えないでしょ? 正しいフォームを身につける。
英語ができることと、翻訳をやることは全然ちがいます。
だから、本気でやるつもりだったら、まず習いに行ってください。

Q.2:ブログや英会話(翻訳)の勉強が三日坊主で続きません。

ブログの更新であれ、英会話の勉強であれ、ダイエット(これはやったことないけど)であれ、続かないのは、それがあなたにとって必然ではないからです。

あのね、たとえば誰かが好きになったとするでしょ、そういうとき、つい、相手のことを考えちゃいますよね。相手のことを考えるのが三日坊主……なんてことはありえない。つまり、そこで「相手のことを考える」はあなたにとって、のっぴきならない必然があるからです。

あなたが単身アメリカに行く。そこで英語を理解することは、のっぴきならない必然です。生死に関わる事態ですから、必死になって聞くし、自分の要求もなりふりかまわず通そうとします。

だけど日本ではそんなことはできない。なりふりかまわず……なんてことは恥ずかしくってできません。英語をしゃべる、っていうのは、ある種、バカにならなきゃやっていけないところがありますから、バカになりきれない、カッコ悪い自分が受け入れられない人はできません。
だけど大丈夫。日本にいるんですから。

必然がないことは、できることじゃない。だからやらなくていいんです。
どうしてもやりたい。カッコ悪くても、バカにされても、どうしてもやりたい、という気持ちがたかまってきて、自分の中で必然になったら、大丈夫。わたしのように書くことなんてなくても、なんとかひねりだせるようになります。

たいていのことは三日坊主で十分です。全然、問題ありません。

Q.3:やりたいことがわかりません。どうやって見つけたらいいの?

これはいろんな形で質問をいただきますが、煎じ詰めればこれになるご質問が多いように思います。

これは、むずかしいね。
ほんとにやりたいこと、なんて、あらかじめ持っている人なんているのかしら。
だけど、多くの人は、自分以外のみんなが、「ほんとにやりたいこと」を持っていて、充実した毎日を過ごしているように思えて、それにくらべて自分は…みたいに思っているような気がします。

だけど、そんなに心配しなくて大丈夫。
「ほんとにやりたいこと」をしっかりと持って、それに邁進している人なんて、それほど多くない。
そうしてあなたがまだそれに向かって動けないんだったら、まだその時期じゃないんだと思います。日々、早起きして、ちゃんと食べて、身の回りの人に「おはよう」「おやすみ」って挨拶していればいい。

何かしなきゃ、と思ったら、まずはなんでもやってみることです。一生懸命やる。やる以上はそのことを勉強する。そうしたら、少しずつ楽しくなってくる。
でも、続けてみて、そこから楽しみがもう汲み出せない、と思ったら、またもういちど考える。いろんなことをやってみて、自分の身体に耳を傾けてみてください。身体がやっていて喜ぶことをやってみる。

そうして見つけたら、もう髪振り乱して、やってってください。下手くそ、とののしられようが、落ちこもうが、それがもとで彼氏彼女にフラれようが、それでも手放せない。そういうものが見つかったら、それを軸に、自分の人生を立てていけばいいんです。

実際には何にも始めずに、文句ばっかり言ってる人もいますが、とにかく動くことです。人に会うことです。そうしていると、自分の気持ちも見えてくる。気持ちなんて、何かにぶつかるまでわかったりはしないもののような気がします。

アクシデントが起こったっていいんです。手放さなきゃならなくなって、手放せるんだったらそれはそれだけのこと。やめようと何度も思って、それでもやめられなかった、そういうものをとおしてわたしは自分を作ってきたように思います。

何か、説教じみたことを書いちゃいましたが、何らかの参考になれば、と思っています。
いつも読んでくださってありがとうございます。
メールもありがとうございました。
ブログにコメント書く方が楽なんで(なんでなんだろうなあ)、返事が必要な方はこちらに書き込んでくださるとうれしいです。

ということで、それじゃまた。