6.模倣と承認
わたしたちは、言葉も知らず、立つことも、歩くこともできない状態で生まれてきた。
赤ん坊は話をしている両親を見て、懸命に真似をしようとして喃語を口にする。食べている大人を見て、なんとか自分も食べてみようと手を伸ばし、口に入れる。
やがてしゃべったり、歩いたりが自由にできる幼児になってくると、今度は「ごっこ遊び」を始める。両手を広げて走っている子供は、飛行機になったつもりだし、ワンワンと鳴きながらイヌになる子もいる。
やがてもう少し大きくなると、「ごっこ遊び」も変化する。
ままごとで「お母さん役」「お父さん役」「お姉さん役」「赤ちゃん役」とさまざまな役割を設定し、演じることによって、家庭という最小単位での社会が、それぞれの役割を持つ人によって維持されていることを認識する。お店屋さんごっこでは、売り手と買い手に分かれることで職業の役割を意識し、おもちゃの銀行券をやりとりすることで貨幣の役割を知る。
つまり、人間は「模倣」を通じて人間となっていくのである。
だが、わたしたちにとってそれほど本質的な行動である「模倣」であるが、一方で、わたしたちは「物真似」「コピー」をオリジナルに較べて劣ったものと見なす。真似をする人間を「独創性のないもの」として軽蔑するし、「あなたの考えはどうなの?」と、あたかもその人独自の「考え」なるものがどこかにあるように思っている。だが、ことばというものが本質的に模倣であることを考えると、模倣ではない考えなど、どこにもありはしないのだ。
わたしたちはなんとなく、自分の奥深くにひっそりと、「ほんものの自分」がいる、と思っている。周囲とは関係のない、揺るぎのない、たったひとりしかいない純粋な自分。
おそらく「模倣」と「独創」や「オリジナリティ」を対置し、前者より後者を尊いものとする考え方は、そういうところから来ているのだろう。
だが、わたしたちは実際はそんなに揺るぎのない確固とした存在としてあるわけではない。さまざまな関係において、さまざまな役割を果たし、さまざまに移ろいゆくのがわたしたちだ。模倣によって、役割を学び、社会の一員となっていくわたしたちは、どこまでいっても「模倣」から自由にはならない。模倣ではない考えなどどこにもないように、模倣ではない行動も、どこにもない。
だがここまでで見てきた小説に描かれる「真似」「模倣」は、いずれも暴力と結びついている。
これはいったいどういうことなのだろうか。
『同居人求む』では、アリの外見をそっくり真似たヒルダは、アリの恋人を横取りし、さらには暴力的にアリに成り代わろうとする。
『リプリー』でも、最初は愛情からディッキーを模倣したトムは、トムが決して自分を受け入れてくれないことを知り、ディッキーを殺す。
『ローマ熱』では、しばらくのあいだグレイスに引っ込んでいてもらうために、アライダはグレイスを「ローマ熱」(マラリア)に罹らせようと策略を巡らせる。
『こころ』では、「先生」がKを自殺に追いこんだとまでは言えないかもしれないが、自分とお嬢さんの婚約が、Kにどれほどのダメージを与えることになるか、少なくとも「先生」は十分に知っていたはずだ。
『名人伝』では、飛衛に学んだ紀昌は、自分こそ天下第一の射手である、として、師を殺そうとする。
『駆け込み訴え』では、ユダはイエスを売る。
どうしてこんなことが起こるのだろう。
これらの小説ではいずれも真似ている人物は、ある段階にいたると、ライヴァルとなるのである。ライヴァルは排除しなければならない。自分が真似をしていた痕跡を消し、今度は手本になるために。
だからこそ、模倣は一種の暴力性を帯びてくる。
これは真似をする人間が不可避的に陥ってしまう陥穽なのだろうか。
だが、『名人伝』でには暴力と無縁の関係も出てくる。
紀昌は飛衛を殺そうとした。飛衛は、そのような事態を避けるために、自分よりさらなる弓の名人である甘蠅を紹介するのである。この甘蠅のもとで修行に励んだ紀昌は、どうなっただろうか。
彼が名人であるかないかは、それを判定する人の存在が必要になってくる。彼の腕を認める人がいなくては、ほんとうの名人かどうかはわからない。だが、弓を射る技術に関していえば、承認はまったく無関係のことである。極め尽くした紀昌にとっては「天下一の名人であること」など認めてもらう必要はなかった。そこで彼は模倣の暴力性から免れるのである。
これは小説だ、いま、わたしは別に誰かの模倣をしようとしているわけではない、と思う人の方が多いだろう。だが、ほんとうにそうなのだろうか。
コマーシャルや雑誌の広告の多くは、製品だけをクローズアップするのではなしに、俳優やスポーツ選手や有名人が手にしているところを映し出す。それはどうしてか。
連日マスコミにはさまざまな「有名人」が登場する。「その人なら何を選ぶか」の指針を与えてくれるのがそうした「有名人」なのである。「有名人」は多岐に渡る。わたしたちはそのなかから「ほんとうの自分」「自分がなりたい自分」の手がかりを与えてくれるようなモデルを選び出す。そうしてそれぞれのモデルを模倣していると意識もしないまま、模倣していくのである。
同じモデルを模倣している人も多い。
それを絆に結びつくこともある。
わたしたちにとってこの「モデル」は「遠い」人々で、ライヴァルになることはないが、「エビちゃんのファッション」をモデルとしているA子とB子のあいだにはライヴァル意識が生まれていく。このとき、A子とB子はともに「エビちゃん」を模倣しているのだが、この模倣が意識されていないとき、何かのきっかけで(たとえば先にその靴を買ったという理由で)A子は「B子が自分を真似ている」と考えるかもしれない。自分が「近い」相手を模倣している、ということは、自尊心が許さない。そこで、近い関係にあっては、「模倣される」のはつねに自分、「模倣している」のは自分ではない誰か、ということが起こる。そうやって、「わたしの真似をするのはやめて」と怒りを爆発させることになる。
真似をする相手を許せなく感じ、排除したくなる。
わたしたちは自分が世界にたったひとりしかいない人間、かけがえのない人間であると承認してほしいと思って、日々を生きている。
これをすると、そうなれるのではないか。
これができれば、そうなれるのではないか。
何をするにしても、結局はこの承認を求めている。
けれども、わたしたちは模倣をすることで、人間となっていったのである。
まず、わたしたちが何か「自分だけ」の側面を持っている、という考え方を改めよう。
そうして、模倣を創造とを対置させて考えるのもやめよう。模倣の要素のない創造などありえない。「独創的な考え」は「模倣の組み合わせ」だ。
そうして、わたしたちそれぞれの「かけがえのなさ」というのは、物や量ではない。物や量なら所有したりも喪失したりもする。そうではなくて、わたしたちがさまざまな局面で築いていく関係のなかで、かけがえのない存在になることができるものなのだ。
模倣をしながら生きていく自分が、同じように模倣をしながら生きいく相手を認めること。
相手を排除するような関係に陥らないためには、それしかないのではあるまいか。
(この項終わり)
わたしたちは、言葉も知らず、立つことも、歩くこともできない状態で生まれてきた。
赤ん坊は話をしている両親を見て、懸命に真似をしようとして喃語を口にする。食べている大人を見て、なんとか自分も食べてみようと手を伸ばし、口に入れる。
やがてしゃべったり、歩いたりが自由にできる幼児になってくると、今度は「ごっこ遊び」を始める。両手を広げて走っている子供は、飛行機になったつもりだし、ワンワンと鳴きながらイヌになる子もいる。
やがてもう少し大きくなると、「ごっこ遊び」も変化する。
ままごとで「お母さん役」「お父さん役」「お姉さん役」「赤ちゃん役」とさまざまな役割を設定し、演じることによって、家庭という最小単位での社会が、それぞれの役割を持つ人によって維持されていることを認識する。お店屋さんごっこでは、売り手と買い手に分かれることで職業の役割を意識し、おもちゃの銀行券をやりとりすることで貨幣の役割を知る。
つまり、人間は「模倣」を通じて人間となっていくのである。
だが、わたしたちにとってそれほど本質的な行動である「模倣」であるが、一方で、わたしたちは「物真似」「コピー」をオリジナルに較べて劣ったものと見なす。真似をする人間を「独創性のないもの」として軽蔑するし、「あなたの考えはどうなの?」と、あたかもその人独自の「考え」なるものがどこかにあるように思っている。だが、ことばというものが本質的に模倣であることを考えると、模倣ではない考えなど、どこにもありはしないのだ。
わたしたちはなんとなく、自分の奥深くにひっそりと、「ほんものの自分」がいる、と思っている。周囲とは関係のない、揺るぎのない、たったひとりしかいない純粋な自分。
おそらく「模倣」と「独創」や「オリジナリティ」を対置し、前者より後者を尊いものとする考え方は、そういうところから来ているのだろう。
だが、わたしたちは実際はそんなに揺るぎのない確固とした存在としてあるわけではない。さまざまな関係において、さまざまな役割を果たし、さまざまに移ろいゆくのがわたしたちだ。模倣によって、役割を学び、社会の一員となっていくわたしたちは、どこまでいっても「模倣」から自由にはならない。模倣ではない考えなどどこにもないように、模倣ではない行動も、どこにもない。
だがここまでで見てきた小説に描かれる「真似」「模倣」は、いずれも暴力と結びついている。
これはいったいどういうことなのだろうか。
『同居人求む』では、アリの外見をそっくり真似たヒルダは、アリの恋人を横取りし、さらには暴力的にアリに成り代わろうとする。
『リプリー』でも、最初は愛情からディッキーを模倣したトムは、トムが決して自分を受け入れてくれないことを知り、ディッキーを殺す。
『ローマ熱』では、しばらくのあいだグレイスに引っ込んでいてもらうために、アライダはグレイスを「ローマ熱」(マラリア)に罹らせようと策略を巡らせる。
『こころ』では、「先生」がKを自殺に追いこんだとまでは言えないかもしれないが、自分とお嬢さんの婚約が、Kにどれほどのダメージを与えることになるか、少なくとも「先生」は十分に知っていたはずだ。
『名人伝』では、飛衛に学んだ紀昌は、自分こそ天下第一の射手である、として、師を殺そうとする。
『駆け込み訴え』では、ユダはイエスを売る。
どうしてこんなことが起こるのだろう。
これらの小説ではいずれも真似ている人物は、ある段階にいたると、ライヴァルとなるのである。ライヴァルは排除しなければならない。自分が真似をしていた痕跡を消し、今度は手本になるために。
だからこそ、模倣は一種の暴力性を帯びてくる。
これは真似をする人間が不可避的に陥ってしまう陥穽なのだろうか。
だが、『名人伝』でには暴力と無縁の関係も出てくる。
紀昌は飛衛を殺そうとした。飛衛は、そのような事態を避けるために、自分よりさらなる弓の名人である甘蠅を紹介するのである。この甘蠅のもとで修行に励んだ紀昌は、どうなっただろうか。
甘蠅師の許を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙(けむり)のごとく静かに世を去った。その四十年の間、彼は絶えて射を口にすることが無かった。口にさえしなかった位だから、弓矢を執っての活動などあろうはずが無い。(中島敦『名人伝』)
彼が名人であるかないかは、それを判定する人の存在が必要になってくる。彼の腕を認める人がいなくては、ほんとうの名人かどうかはわからない。だが、弓を射る技術に関していえば、承認はまったく無関係のことである。極め尽くした紀昌にとっては「天下一の名人であること」など認めてもらう必要はなかった。そこで彼は模倣の暴力性から免れるのである。
これは小説だ、いま、わたしは別に誰かの模倣をしようとしているわけではない、と思う人の方が多いだろう。だが、ほんとうにそうなのだろうか。
コマーシャルや雑誌の広告の多くは、製品だけをクローズアップするのではなしに、俳優やスポーツ選手や有名人が手にしているところを映し出す。それはどうしてか。
近代に特有で、流行として組織されている模倣=競争は、他人が持っているモノを持とうとする努力としてだけではなく――あるいは、まったくそのようなものとしてではなく――、他人のスタイルを模倣しようとする努力として、特徴づけることができる。伝記というものは、主人公にはけっして見えなかったような形でその人の人生全体を見せてくれるからこそおもしろいのだが、それとほとんど同様に、他人のスタイルは、一つの全体を構成しているので、人を惹きつけうるのである。スタイルが自然に見えれば見えるほど、またそうするための努力が少ないように見えれば見えるほど、それは魅力的になりうる。なぜかというと、わけても、私たちが自分自身のスタイルを考えだそうとして、「自然な」自分の姿を思い浮かべようとしても、非常に難しいからである。…
ブランメル(※19世紀に紳士服の流行をリードしたボー=ブランメル)とウォーホルが自己陶酔しているように見せかけたのは、自分自身を売るため、つまり彼らのスタイルが他者の目に望ましいものに映るようにするためであったが、ファッションモデルは身につけた衣裳や装飾品を売るためにポーズをとっている。実のところはしかし、それらはまったく同じことなのだ。流行の宣伝は、宣伝一般の多くがそうであるように、写真に写っている個々の商品だけでなく、消費のスタイルも売り出しているのである。今日の自分自身を売物にする人々は、とりわけ芸術家がそうだが(…)売るべき作品も持っている。だが、それを売るためには、まず自分という人間について触れ回るのである。(ニコラス・クセノス『稀少性と欲望の近代 豊かさのパラドックス』北村和夫・北村三子訳 新曜社)
連日マスコミにはさまざまな「有名人」が登場する。「その人なら何を選ぶか」の指針を与えてくれるのがそうした「有名人」なのである。「有名人」は多岐に渡る。わたしたちはそのなかから「ほんとうの自分」「自分がなりたい自分」の手がかりを与えてくれるようなモデルを選び出す。そうしてそれぞれのモデルを模倣していると意識もしないまま、模倣していくのである。
同じモデルを模倣している人も多い。
それを絆に結びつくこともある。
わたしたちにとってこの「モデル」は「遠い」人々で、ライヴァルになることはないが、「エビちゃんのファッション」をモデルとしているA子とB子のあいだにはライヴァル意識が生まれていく。このとき、A子とB子はともに「エビちゃん」を模倣しているのだが、この模倣が意識されていないとき、何かのきっかけで(たとえば先にその靴を買ったという理由で)A子は「B子が自分を真似ている」と考えるかもしれない。自分が「近い」相手を模倣している、ということは、自尊心が許さない。そこで、近い関係にあっては、「模倣される」のはつねに自分、「模倣している」のは自分ではない誰か、ということが起こる。そうやって、「わたしの真似をするのはやめて」と怒りを爆発させることになる。
真似をする相手を許せなく感じ、排除したくなる。
わたしたちは自分が世界にたったひとりしかいない人間、かけがえのない人間であると承認してほしいと思って、日々を生きている。
これをすると、そうなれるのではないか。
これができれば、そうなれるのではないか。
何をするにしても、結局はこの承認を求めている。
けれども、わたしたちは模倣をすることで、人間となっていったのである。
まず、わたしたちが何か「自分だけ」の側面を持っている、という考え方を改めよう。
そうして、模倣を創造とを対置させて考えるのもやめよう。模倣の要素のない創造などありえない。「独創的な考え」は「模倣の組み合わせ」だ。
そうして、わたしたちそれぞれの「かけがえのなさ」というのは、物や量ではない。物や量なら所有したりも喪失したりもする。そうではなくて、わたしたちがさまざまな局面で築いていく関係のなかで、かけがえのない存在になることができるものなのだ。
模倣をしながら生きていく自分が、同じように模倣をしながら生きいく相手を認めること。
相手を排除するような関係に陥らないためには、それしかないのではあるまいか。
(この項終わり)