中学に入って驚いたのは、式典であろうが月に一度の朝会であろうが、校長先生の話が異様におもしろかったことだ。
それまで「校長先生のお話」というのは、そのあいだ辛抱するものであって、聞くものではなかった。ありがたいお話というのか、説教臭い話というのか、興味など持てるはずもなく、聞いて思うことは、早く終わらないかな、ということだけだった。
いったいいつからこの先生の話はすごい、と思うようになったのか、よく覚えてはいないのだけれど、森鴎外の『阿部一族』に、犬の散歩をさせる役だった武士が切腹する場面がある、という話だったように思う。内容などほとんど記憶にないのだが、なんとおもしろいのだろう、と急いで図書館へ行って本を借りてきた。ところが漢字ばかりの文章がほとんど読めなくて、ただ『山椒大夫』ばかりがおもしろかったような気がする。
文学の話が多かったけれど、旧制高校のようすや、音楽の話もあった。「小さな親切、大きなお世話」という標語のパロディが、いったいなぜおかしいのか、という考察の回もあった。毎回毎回、その話を一言も聞き漏らすまいと、わたしは息を止めるようにして聞いていたのだった。
その先生が校長だったのは、わたしが中学二年のときまでで、おそらくこれはその二年目の高校の卒業式の話だったのだと思う。
ベートーヴェンの第九交響曲で有名な「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうか、という話だった。
ベートーヴェンが二十代の後半でほとんど聴力を失ったこと。晩年は病気が悪化して、大変な苦しみの日々が続いたこと。苦悩を突き抜けたのちに、歓喜に至ったのだろうか。歓喜とは、死後の世界のことなのだろうか。むしろ、そうではなく、彼にあっては苦悩こそが歓喜だったのではないか。
おそらく、そういった内容の話だったのだ。
わたしはよくわからなかった。わからなかったけれど、そのなかの喩えとして出てきた、山に登る楽しさというのは、山頂に着いて、さわやかな風に吹かれ、眼下の景色を見ることなのだろうか、そうではなくて、苦しいはずの山にのぼっているあいだのことなのではないか、ということは、なんとなくわかるような気がした。
苦しさというのは、歓喜なのだろうか。そのときのわたしにはよくわからなかった。それでもそのときの話は、ずっと心に残って、折に触れて思いだすことになる。
そのつぎの年に赴任してきた校長先生の話は、一転してつまらないものだった。のちの四年間、その先生の話を聞いたことになるが、いったいどんな話をしていたものか、ただの一度も記憶がない。
つぎに記憶にある卒業式は、わたしが高校一年のときのものだ。
その年の二学期に、わたしたちよりふたつ上の女の子が、二年間の留学を終えて戻ってきた。
ふたつ上というだけで、ものすごく年長に思えたし、ダンスを習っていたこともあって、彼女を中心にダンスのグループができていった。
彼女は口数が少ないわけではなかったのだが、それでも自分の思ったこと、感じたことをそのままべらべらしゃべるタイプではなく、ひとつには、まわりのわたしたちがあまりに子供だったということもあったのだろうけれど、そういうところがわたしにはかなり好ましく思え、特に何を話すことはなくても、一緒にいるようなこともよくあった。
その彼女の元同級生、つまり二年上の学年が卒業する年だった。
彼女にはその学年につきあっている相手がいたのだった。
毎年卒業式が終わると、卒業生たちは花道を通って退出する。花道沿いの席は、卒業する先輩のファンの女の子たちが座る場所だった。
卒業生が退去して、式も終わって、在校生が退出するときになって、その花道脇の席で、彼女が泣いているのが目に入った。
上級生にキャーキャー言っている女の子のそれとはまったくちがう、慟哭といえばよいのか、身をもむようにして、全身で泣いていたのだった。
わたしはそれを見て、自分もいつかそんなふうに誰かのことを思ったりするようなことがあるのだろうか、と思ったのだった。
それは、苦悩であり、歓喜なのかもしれない、と。
(この項つづく)
それまで「校長先生のお話」というのは、そのあいだ辛抱するものであって、聞くものではなかった。ありがたいお話というのか、説教臭い話というのか、興味など持てるはずもなく、聞いて思うことは、早く終わらないかな、ということだけだった。
いったいいつからこの先生の話はすごい、と思うようになったのか、よく覚えてはいないのだけれど、森鴎外の『阿部一族』に、犬の散歩をさせる役だった武士が切腹する場面がある、という話だったように思う。内容などほとんど記憶にないのだが、なんとおもしろいのだろう、と急いで図書館へ行って本を借りてきた。ところが漢字ばかりの文章がほとんど読めなくて、ただ『山椒大夫』ばかりがおもしろかったような気がする。
文学の話が多かったけれど、旧制高校のようすや、音楽の話もあった。「小さな親切、大きなお世話」という標語のパロディが、いったいなぜおかしいのか、という考察の回もあった。毎回毎回、その話を一言も聞き漏らすまいと、わたしは息を止めるようにして聞いていたのだった。
その先生が校長だったのは、わたしが中学二年のときまでで、おそらくこれはその二年目の高校の卒業式の話だったのだと思う。
ベートーヴェンの第九交響曲で有名な「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうか、という話だった。
ベートーヴェンが二十代の後半でほとんど聴力を失ったこと。晩年は病気が悪化して、大変な苦しみの日々が続いたこと。苦悩を突き抜けたのちに、歓喜に至ったのだろうか。歓喜とは、死後の世界のことなのだろうか。むしろ、そうではなく、彼にあっては苦悩こそが歓喜だったのではないか。
おそらく、そういった内容の話だったのだ。
わたしはよくわからなかった。わからなかったけれど、そのなかの喩えとして出てきた、山に登る楽しさというのは、山頂に着いて、さわやかな風に吹かれ、眼下の景色を見ることなのだろうか、そうではなくて、苦しいはずの山にのぼっているあいだのことなのではないか、ということは、なんとなくわかるような気がした。
苦しさというのは、歓喜なのだろうか。そのときのわたしにはよくわからなかった。それでもそのときの話は、ずっと心に残って、折に触れて思いだすことになる。
そのつぎの年に赴任してきた校長先生の話は、一転してつまらないものだった。のちの四年間、その先生の話を聞いたことになるが、いったいどんな話をしていたものか、ただの一度も記憶がない。
つぎに記憶にある卒業式は、わたしが高校一年のときのものだ。
その年の二学期に、わたしたちよりふたつ上の女の子が、二年間の留学を終えて戻ってきた。
ふたつ上というだけで、ものすごく年長に思えたし、ダンスを習っていたこともあって、彼女を中心にダンスのグループができていった。
彼女は口数が少ないわけではなかったのだが、それでも自分の思ったこと、感じたことをそのままべらべらしゃべるタイプではなく、ひとつには、まわりのわたしたちがあまりに子供だったということもあったのだろうけれど、そういうところがわたしにはかなり好ましく思え、特に何を話すことはなくても、一緒にいるようなこともよくあった。
その彼女の元同級生、つまり二年上の学年が卒業する年だった。
彼女にはその学年につきあっている相手がいたのだった。
毎年卒業式が終わると、卒業生たちは花道を通って退出する。花道沿いの席は、卒業する先輩のファンの女の子たちが座る場所だった。
卒業生が退去して、式も終わって、在校生が退出するときになって、その花道脇の席で、彼女が泣いているのが目に入った。
上級生にキャーキャー言っている女の子のそれとはまったくちがう、慟哭といえばよいのか、身をもむようにして、全身で泣いていたのだった。
わたしはそれを見て、自分もいつかそんなふうに誰かのことを思ったりするようなことがあるのだろうか、と思ったのだった。
それは、苦悩であり、歓喜なのかもしれない、と。
(この項つづく)