陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話、したっけ ~卒業の風景 その3.

2007-02-28 22:28:55 | weblog
中学に入って驚いたのは、式典であろうが月に一度の朝会であろうが、校長先生の話が異様におもしろかったことだ。

それまで「校長先生のお話」というのは、そのあいだ辛抱するものであって、聞くものではなかった。ありがたいお話というのか、説教臭い話というのか、興味など持てるはずもなく、聞いて思うことは、早く終わらないかな、ということだけだった。

いったいいつからこの先生の話はすごい、と思うようになったのか、よく覚えてはいないのだけれど、森鴎外の『阿部一族』に、犬の散歩をさせる役だった武士が切腹する場面がある、という話だったように思う。内容などほとんど記憶にないのだが、なんとおもしろいのだろう、と急いで図書館へ行って本を借りてきた。ところが漢字ばかりの文章がほとんど読めなくて、ただ『山椒大夫』ばかりがおもしろかったような気がする。
文学の話が多かったけれど、旧制高校のようすや、音楽の話もあった。「小さな親切、大きなお世話」という標語のパロディが、いったいなぜおかしいのか、という考察の回もあった。毎回毎回、その話を一言も聞き漏らすまいと、わたしは息を止めるようにして聞いていたのだった。

その先生が校長だったのは、わたしが中学二年のときまでで、おそらくこれはその二年目の高校の卒業式の話だったのだと思う。

ベートーヴェンの第九交響曲で有名な「苦悩を突き抜け歓喜に至れ」という言葉は、いったいどういう意味なのだろうか、という話だった。
ベートーヴェンが二十代の後半でほとんど聴力を失ったこと。晩年は病気が悪化して、大変な苦しみの日々が続いたこと。苦悩を突き抜けたのちに、歓喜に至ったのだろうか。歓喜とは、死後の世界のことなのだろうか。むしろ、そうではなく、彼にあっては苦悩こそが歓喜だったのではないか。

おそらく、そういった内容の話だったのだ。
わたしはよくわからなかった。わからなかったけれど、そのなかの喩えとして出てきた、山に登る楽しさというのは、山頂に着いて、さわやかな風に吹かれ、眼下の景色を見ることなのだろうか、そうではなくて、苦しいはずの山にのぼっているあいだのことなのではないか、ということは、なんとなくわかるような気がした。
苦しさというのは、歓喜なのだろうか。そのときのわたしにはよくわからなかった。それでもそのときの話は、ずっと心に残って、折に触れて思いだすことになる。

そのつぎの年に赴任してきた校長先生の話は、一転してつまらないものだった。のちの四年間、その先生の話を聞いたことになるが、いったいどんな話をしていたものか、ただの一度も記憶がない。

つぎに記憶にある卒業式は、わたしが高校一年のときのものだ。
その年の二学期に、わたしたちよりふたつ上の女の子が、二年間の留学を終えて戻ってきた。
ふたつ上というだけで、ものすごく年長に思えたし、ダンスを習っていたこともあって、彼女を中心にダンスのグループができていった。

彼女は口数が少ないわけではなかったのだが、それでも自分の思ったこと、感じたことをそのままべらべらしゃべるタイプではなく、ひとつには、まわりのわたしたちがあまりに子供だったということもあったのだろうけれど、そういうところがわたしにはかなり好ましく思え、特に何を話すことはなくても、一緒にいるようなこともよくあった。

その彼女の元同級生、つまり二年上の学年が卒業する年だった。
彼女にはその学年につきあっている相手がいたのだった。

毎年卒業式が終わると、卒業生たちは花道を通って退出する。花道沿いの席は、卒業する先輩のファンの女の子たちが座る場所だった。
卒業生が退去して、式も終わって、在校生が退出するときになって、その花道脇の席で、彼女が泣いているのが目に入った。
上級生にキャーキャー言っている女の子のそれとはまったくちがう、慟哭といえばよいのか、身をもむようにして、全身で泣いていたのだった。

わたしはそれを見て、自分もいつかそんなふうに誰かのことを思ったりするようなことがあるのだろうか、と思ったのだった。
それは、苦悩であり、歓喜なのかもしれない、と。

(この項つづく)

この話、したっけ ~卒業の風景 その2.

2007-02-27 22:24:11 | weblog
小学校四年で引っ越すことになって転校が決まった。先生がみんなの前でそれを告げたら、泣きだした子がいたので驚いた。その子は同じ班になったこともあるけれど、それほど親しかったわけではなかったし、一緒に何かした、という記憶もそれほどなかったのだ。
わたし自身は、寂しいとか悲しいとかという気持ちなどほとんどなかったように思う。「転校」という言葉の響きはドラマティックだし、自分がミステリアスな「転校生」になれるというのもうれしくて、とにかく新しい家、新しい学校で頭はいっぱいだったのだ。
出ていく方に較べ、残された方はそれだけで寂しい思いをする、ということをわたしが知ったのは、それからずっとずっとあとのことだ。

春休みが終わると、新しい学校だった。
制服がなくなって、私服で行く、というのもめずらしい経験だったし、クラスに男の子がいる、というのも初めての経験だった。
「ミステリアスな転校生」として、いろんな子に「同じ班になろう」「一緒に遊ぼう」とモテモテだった時期はどのくらい続いたのだろう、ともかく、その時期がはかなく過ぎて「転校生」から「クラスの一員」に降格されてしまうと、こんどは逆に周囲との齟齬を感じるようになった。

どうやらわたしの言葉遣いが、ほかのクラスメイトとずいぶんちがっているらしかった。わたしが何か話していると、すぐに「英語はやめて」と遮られるようになる。
「英語じゃないよ、日本語だよ」
「チンプンカンプン、ワカリマセーン」
どうやらわたしの話がみんなは聞きたくないらしいことに気がついて、もっぱら聞き役になった。話したい、聞いてほしい、という子の方が圧倒的に多かったから、それはそれで悪い状態ではなかった。

たぶん六年生になってからのことだったと思う。
学校の国語の授業で、ザラ紙に印刷してあった記憶があるから、たぶん教科書ではなかったと思う、ともかく『リア王』の朗読をやったのだった。翻訳は木下順二だったことははっきりと覚えている。『夕鶴』の人だ、と思ったから。

ともかく教材になったのは冒頭部分、領地分配の一幕一場だけだった。それでもわたしはそのおもしろさに夢中になった。それからあとどうなるのだろう、と、図書館へ行って続きも読んだ。道化のせりふや狂気に陥った王が彷徨する場面など、ほとんどわからなかったが、せりふの向こう側に人の心の動きが見えるというのも初めての経験で、言葉というのはこんなにもおもしろいものなのか、と、来る日も来る日もテキストを読んで、一幕一場をすべて覚えてしまった。

クラスで朗読会をやることになっていた。何班かに分けて、ひとり必ずどの役かが振り分けられる。わたしはくじびきで次女リーガンを引いた。なんだってかまわない、この中のひとりを演じることができる、というだけでうれしかった。それからまた本を読んで、リーガンというのは、姉のゴネリルとどうちがうんだろう、と考えた。姉の真似をするのだ、この妹は。姉のやることをじっと見ていて、そこから自分がどうしたらいいか考える。そういう女なのだ、と。

家でも繰りかえし練習した。家族はみんなほめてくれた。そうして、意気揚々と当日に臨んだのだ。
ところがわたしが読んでいると、クラスの子がくすくす笑い始める。かまわず読み続けると、そのうちその笑いは伝染し、クラス中が大爆笑になってしまった。やめなさい、まだ続いているのよ、と止めに入った先生も笑いをこらえているのにわたしは気がついた。
つまり、わたしはふさわしくない行動をとったのだ、と気がついた。体中が、屈辱でかっと熱くなった。悔しくて、涙がこぼれそうだったけれど、わたしは奥歯を食いしばってそれをこらえ、そしらぬ顔で最後まで続けた。後半はおそらくその場にふさわしい棒読みだったのだろうが。

わたしはそのとき、自分の行動は評価を受ける、そうして、その評価は自分の希望とは、そうしてまた努力や熱意とも何の関係もないのだ、ということを身にしみて知ったのだ。正当とか不当とかということも関係ない。ただ、人は評価するし、その評価は自分にはどうしようもないのだ、と。

そのときわたしが理解したことを言葉にしようとすると、おそらくそうとしか言いようがない。
わたしは自分が何か悪いことをやったとは思わなかったし、自分が引かれたものは、すばらしいものだ、という確信もあった。ただ、まわりに対して不適切だっただけだ。
以来、自分の話したいことを話すのではなく、まわりの子に合わせて、一種の翻訳・編集作業を経て、外に出すようになる。

レイ・ブラッドベリ の『何かが道をやってくる』のジムとウィルが一夜にして大人になったように、わたしもそのときを境に大人になったのだと思う。
ジムとウィルが将来のことを思って、いまの楽しみをあきらめ、回転木馬を破壊したことで大人になったように、わたしは自分が大切に思っていることを笑われて、それでも自分が大切に思っていることは、たったひとりで守っていかなければならないのだ、と、覚悟を決めた。

わたしはそうして十一歳のその日に、大人になった。

(この項つづく)

この話、したっけ ~卒業の風景 その1.

2007-02-26 22:03:45 | weblog
一番古い「卒業」の記憶は、幼稚園の卒園式だ。母がめずらしく着物姿で、裾にきらきら光る縫い取りのある黒い羽織を着ていた。金糸銀糸の鶴か何かの刺繍はなんともきれいで、特に一箇所だけのターコイズブルーが眼を奪われるほど、いい色だった。こんなにきれいなんだもの、すそではなくもっと目立つ場所にあったらいいのに、と思った。

式のことはほとんど覚えていないが、そのあと、講堂にみんなが集まった。それが「しゃおんかい」であるということはなんとなく知っていたのだが、どういうわけかわたしは「しゃおんかい」というのは音楽会の一種なのだろうとずっと思っていて、ふだんは教室で使っている机と椅子が、箱形に並べてあったので、ちょっと驚いた。そこに母と並んですわったのだった。小柄な母だが園児用の椅子はさすがに小さかったのだろう。そんな場所に母と並んで座るような経験もなかったので、着物姿で窮屈そうに腰をおろしている母の姿をいまでもよく覚えている。

音楽会などまったくなく、先生やシスターや来賓の話が延々と続く。さっき卒園証書と一緒に箱に入った紅白饅頭をもらったのを知っていたわたしは、おまんじゅうなんてふだんは食べたいとも思わないのに、すっかりお腹がすいてしまって、それでもいいから、食べられないかな、と思っていたのだった。そこへ、どうぞみなさん、お弁当をお食べください、と言われてうれしかった。
紐をほどいてピンク色の薄い和紙を取り、蓋を取ると、折り箱の杉の匂いがぷんとした。
覚えているのはそこまでだ。

幼稚園と小学校は同じ敷地のなかにあったから、小学校にあがっても、いつも幼稚園の傍らを通っていた。それがある日、どういうわけか友だち4~5人で幼稚園に遊びに行ったのだった。

園庭には色とりどりの遊具がある。その中に、ピンク色の滑り台があったのだが、昇っていく部分がアーチ型のはしごになっていて、てっぺん近く、水平になった鉄棒を二段ほど超えていかなければならない。アーチを昇っていくところまでは大丈夫だったのだが、そこからよつんばいになって先へ進むのが怖くて、わたしはどうしてもそこで立ち往生してしまうのだった。

それが小学生になって、友だちと遊びに行ってみると、てっぺんといっても何のことはない高さなのである。
思いきって昇ってみると、怖いどころではない。立ったまま滑り台のてっぺんまで歩いていける。いったい何でそんなに怖かったのか不思議だった。元幼稚園児たちは、そこで走りまわって鬼ごっこをやったのだった。

幼稚園の先生にも会いに行った。
玄関ホール側からではなく、廊下の外で靴を脱ぎ、ひらがなの名札がついたペパーミントグリーンの靴箱を横目で見ながら職員室に向かう。かつて自分の名前が書いてあった場所に、ちがう名前が入っているのを見て、胸がちくっとした。教室のドアも、記憶にあるのより少し小さく、天井も低いような気がする。
卒園してから半年ほどしか経っていないというのに。
何かヘンだ、と思いながら、わたしたちは靴下のまま階段をあがっていった。

職員室の入り口で先生を呼ぶと、先生はうれしそうな顔でわたしたちを応接室に案内してくれた。応接室に入ったのは、たぶんそのときが初めてだったのだと思う。壁にはめこまれた木の十字架や、額に入った写真が並んでいるのをめずらしげに見ていると、先生はお菓子とジュースを出してくれた。

「あ、お誕生日のお菓子」
幼稚園では毎月お誕生会があったのだが、その月にお誕生日がある子はクッキーがもらえるのだ。お誕生日でない子はラムネ菓子だったか、飴だったか、とにかく明確な差別待遇があって、わたしたちは自分のお誕生月をいまかいまかと待ったものだった。
そのクッキーがもらえた。わたしたちはたいそう喜んだ。
ところが、記憶していたほどおいしくはなかったのだ。こんな味だっただろうか。これをわたしたちは11ヶ月も待っていたのだろうか。わたしたちはこっそり顔を見合わせたのだった。

先生は小学校は楽しいか、とひとりずつ聞いてくれて、わたしたちは口々に学校の話をした。そうしていると、急に幼稚園の子が「××せんせい」と呼びに来たのだ。
「どうしたの、もとこちゃん」
その言い方に、はっとした。わたしたちが知っている話し方はそれだった。腰を落として、相手と同じ目の高さでしゃべるそのやり方。小学生になったわたしたちに対するのとは、まったくちがう話し方。

もう先生はわたしたちの先生ではないのだ。
幼稚園という時代が終わったことを知ったのは、卒園から半年ほどがすぎた、夏の終わりの日だった。

(この項つづく)

言葉で話す

2007-02-25 22:28:23 | weblog
今日電車に乗っていたら、ドアのところに高校生ぐらいの女の子がふたり向かい合って、楽しそうに笑い合っていた。見ると手がひらひらと動いている。指が伸びたり、掌が波うったり、片時も休むことなく動き続けているのだった。最初はごくふつうに話をしていると思ったのだけれど、ふたりは手話を使っていたのだ。

以前、女子プロレスラーへのインタビューをもとにした『プロレス少女伝説』(井田真木子 文藝春秋社)という本を読んだことがある。
かなり昔に読んだ記憶のまま書くのだけれど、そのなかに、小学生の頃に中国から日本にやってきたレスラーの女の子が出てきた。
彼女は日本語もわからなくて、毎日TVばかりを見ていて、そのTVに出てきた女子プロレスにひかれ、そこからレスラーになった。
忘れられないのは、インタビュアーである筆者が、日本語より中国語の方が話しやすかったら、通訳を呼ぶけど、と申し出るのに対し、そう言われた女の子は泣き出すのだ。
自分は、日本語も十分に話せない。中国語も忘れてしまった……。

話をしようと思えば、話ができる相手が必要だ。
TVを先生に言葉を覚えた彼女にとって、とりあえず、聞いて理解できる語彙としての日本語は身につけることができても、自分の気持ちを探り当てるための言葉も、共感する言葉も、あるいはケンカする言葉も、涵養していく相手はいなかった。
いなかったからこそ、身につけることができなかった。
そういう言葉を持たないことが、どれほど孤独でつらいことか、それを読んでいてわたしは胸がつまるように思ったのだった。

わたしたちはふだん、当たり前のように言葉を使っている。無色透明の道具のように、自分が何かを言えば、通じることの不思議さを思うこともなく、あるいは、自分の気持ちと言葉のどうしようもないずれをもどかしく思うようなこともそれほどないのかもしれない。

けれど、話ができるということは、受け手がいるということなのだ。
わたしの話を聞いてくれる人がいる。
わたしの話を理解してくれる人がいる。
だから、わたしも話ができるのだ。
それは、わたしとあなたが同じ言葉を使っているということだ。
これは、考えてみると、すごいことだ。
言葉がわかって使えるというのは、それだけで孤独ではないということなのだろう。

ときどき、それがどれだけすごいことか、忘れてしまいそうになる。
日本語を使うのに慣れすぎて、粗雑に使っているんじゃないだろうか。
書くとか、読むとかのことを考える、なんていいながら、あの、手話で話していた女の子たちのように、喜びを持って使っているんだろうか。

(※明日から新しいことを始めます。またよろしく)

サイト更新しました

2007-02-25 09:21:11 | weblog
先日までここで連載していたH.G.ウェルズの「水晶の卵」、推敲ののちサイトにアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

日付が昨日になってるんですが、それはあらかたできてたんだけど、何箇所か気に入らなくてやり直してたら、眠くなった(笑)ということです。
今朝改めて修正して、なんとかアップしました。

ところでね、「水晶の卵」なんですが、いったいどういう仕組みになっているんでしょう。
or else that it had some peculiar relation of sympathy with another and exactly similar crystal in this other world, so that what was seen in the interior of the one in this world, was, under suitable conditions, visible to an observer in the corresponding crystal in the other world; and vice versa. At present, indeed, we do not know of any way in which two crystals could so come en rapport, but nowadays we know enough to understand that the thing is not altogether impossible. This view of the crystals as en rapport was the supposition that occurred to Mr. Wace, and to me at least it seems extremely plausible. . .

これが原文で、わたしはこの部分を
となるともうひとつの推理だが、それぞれ別の世界にある、互いにそっくりなふたつの水晶のあいだには、何か特殊な共鳴関係があって、こちらの水晶の内部に見えるものは、相応の条件のもとでは、これと対の別の世界の水晶の観察者にも見えているのではないか、というもの。当然、逆もまた同様であろう。目下のところ、実際、ふたつの水晶がどこまで「共鳴」しあうものか、わたしたちに理解するすべはないが、そういうことがまったく不可能ではないと考えても良いのではあるまいか。ふたつの水晶の「共鳴」という推論を立てたのはウェイス氏だったが、わたしには、少なくともそれはきわめてもっともらしいことのように思われるのだ……。

としました。「共鳴」というふうにカッコにいれたのは、この部分原文でフランス語「en rapport」が当てられているからなんですが。

ブログの頃は「感応」としていたのですが、「共鳴」のほうがいいかなあ、共鳴というと、やっぱり音みたいになるから感応のほうがいいんだろうか。

受信機と送信機が一体となったシステムを想像したらいいんでしょうか。
とにかくよくわからないんですが。
なにか意見、思いついたことがあったら、どうかぜひ聞かせてくださいね。

たぶん、今日の夜はもういちど、更新すると思います。
だからまた遊びにきてみてください。
それじゃ、また。

あがる話

2007-02-23 23:06:06 | weblog
中学・高校時代、毎年、教育実習生がやって来る時期があった。
こちらは毎年のことなので、「教生」にもすっかり慣れているが、向こうは初めてである。もうオトナとコドモ(つまり中学生が教生慣れした「オトナ」、初心者である大学生たちが「コドモ」)ぐらいの差があって、後ろでクリップボード片手に授業を見ている教科担任と同じく、わたしたちも「教わる」のではなく、評価してやるぐらいの気分だった(なんて生意気な中学生たちだ!)。

緊張している教生は多かった、というか、ごくたまに例外的にまったく緊張していなさそうに見える人を別にして、たいていが緊張していることはよくわかった。
声がうわずっている人、汗をやたらかいている人、咳払いばかりしている人もいたし、生徒の方がまったく見られない人もいたし、仕込んできたジョークがまったく受けなくて、しどろもどろになってしまった人もいた。

見ていてこちらが正視しにくくなるほど、あがっていた人もいた。
顔面蒼白で、指がわなわなと震えるのが止められない。声もふるえている。自分でもなんとかしなければ、という焦りがあったのだろう、それが事態をいっそう悪化させている、という状態だった。最初はうぶな教生をおもしろがっていた生徒たちも、だんだんそんな感じではなくなっていったのだった。

そのときは化学の授業で、実験に使う金属ナトリウムを小型ナイフで切ろうとして、あまり手が震えるので切るに切れない。自分でも「アルコールが切れたみたい」と冗談を言おうとしているのだが、痛々しいというかなんというか、誰も笑うどころではなく、結局教科担任が前へ出てきて、小さく切っていったのではなかっただろうか。

彼にしてみればその五十分はどれほど長かったことだろう。おそらくわたしたちが受けたのが、彼にとっての初めての授業だったのだろうが、それ以降はどうだったのだろう。二回目を受けた記憶がないのだが、それはわたしが忘れてしまったのかもしれない。

そうして、こんどはわたしの方が人前で話す機会が増えていった。塾のバイトを始めると、十五人程度の小・中学生を相手にすることになった。そうなると、やはり緊張するのである。震えたりすることはなかったけれど、やはり通常の精神状態ではいられない。突然、何を言って良いかわからなくなってつまったりしたこともある。準備してきたはずのことが半分もいかない内に終わってしまって、立ち往生したこともあった。そういうことがあってから、いつも時間をかけてしっかりと仕込みのノートを作るようになった。逆に緊張するからこそ、準備もできるし、そのために勉強もできる。

単に人前で話をするだけではない。舞台の上にあがるとなると、いったいどれほど緊張することだろう。

以前、アメリカ人ダンサーの知り合いがいたのだけれど、この人は舞台が始まる前になると、神経過敏になってちょっとの物音でも飛び上がる。さらには指先が一種のチックのように、ひきつったような震え方をするのだった。舞台では先ほどまで震えていたのが嘘のように、ダイナミックに踊るのだけれど、よく見ると、やはりときおり、しゃっくりのように指は変な動きを続けていた。
その状態は、舞台を下りても続く。その人が言うには、舞台があるときは、夜もなかなか眠れない、ということだった。あがりきったテンションは、クールダウンするにも時間がかかるということなのだろう。

大勢の目にさらされることで、緊張感を高めていき、その結果、パフォーマンスの質は、練習場にくらべてはるかに高いものになっていく。いわゆる「平常心」では決して不可能なパフォーマンスが可能になっていくのだろう。

おそらく人前に立つと、さらに舞台に上がるとなると、誰もが「あがる」のだろう。
話をするにしても、ふだん、仲間うちで何の緊張感もなく話すことと、人前で話すことはまったくちがっているのは当然であって、それは話の内容ということよりも、話し手のそうした精神状態によるところが大きいように思うのだ。逆に、普通に話すようなことを、わざわざ改めて聞こうとは思わないだろう。
「あがる」ことに問題があるわけではないのだ。

あがった、シマッタ、なんとかしなければ、そう思うと、悪循環にはまるような気がする。
みんなあがるんだ、いままでだってあがったけれど、なんとかなったじゃないか、失敗したこともあったけれど、それでもどうにかなったじゃないか、ぐらいの気持ちを忘れなければ、どうにかなる。
あの手をわなわなとふるわせていた教育実習生も、きっといまごろはいい先生になって、クリップボードを持って教室の後ろに立っているのかもしれない。

洗濯機の法則

2007-02-22 22:21:31 | weblog
ときどき思うのだけれど、いまや洗濯というのは家事のうちに入らないのではないだろうか。
全自動だと洗濯機に洗濯物を入れてボタンさえ押しておけば、あとは全部やってくれて、干しさえすればよい。朝の陽を浴びて洗濯物を干すのは気持ちがいいし、まあ取りこんだあと畳むのはめんどくさいのだけれど、それくらいは文句を言わずにやろうと思っている。

洗濯機の置き場と家賃のあいだには相関関係があるように思う。
わたしが大学の寮を出て最初に生活をするようになったアパートは、入り口のドアの横が洗濯機の置き場だった。大荷物を下げて帰ってきて、よく洗濯機の上に買い物袋をのせて、部屋の鍵をカバンから取りだしていたのを覚えている。うっかり部屋の中に入れ忘れて、どこへおいたのだろう、とさんざん探した挙げ句、もしや、と思って外を見たら、しっかりそこに置いてあった、ということも何度かあった。一度などはアイスクリームを忘れてしまってどろどろにしてしまったこともある。

そのころの洗濯機は、先輩から3千円で譲り受けた小さな二層式のものだった。もともと中古の洗濯機だったらしく、ずいぶん昔の製造年のシールが裏の方にはってあった。
朝起きて、とりあえずアパートの外に出られるくらいの格好に着替えて、サンダルを履いて外に出て、洗濯を始めるのだ。冬はふきさらしの廊下は寒くて、上着を着てマフラーを巻いて、手袋まではめてやっていた。洗剤を入れて10分ほど回すと、まず軽く脱水をして、それから水を張って、すすぎを二回、それから脱水、と何回も出入りしなければならない。
廊下を人が通ることより、下の道から丸見えなのがイヤだった。

やがてそこを出て、もう少し広くて日当たりの良い、家賃も二割ほど高いところに移った。今度は洗濯機の置き場は、ベランダになっていた。
ベランダに置いた洗濯機は、洗濯がすむとすぐそこに干せるのはありがたかったし、玄関脇よりはずいぶんマシだったが、それでもやはり下を通る道からは見えるし、洗濯をしようと思ったら、パジャマのまま、という訳にはいかない。
洗濯をするためには、それなりの身支度が必要なのだった。

それから数年が経過して、つぎには「マンション」と呼ばれるところに入った。英語でいう mansion の、たとえば敷地内にある使用人のための小屋よりも、敷地面積はさらにせまかっただろうが、それまでに住んでいたところよりは、格段に良かった。
そうして、ついに専用の洗濯機置き場が、風呂場の外、脱衣場のわきにあったのだった。
薄いベージュ色のプラスティックでできた排水口付きのちゃんとした洗濯機置き場に、えらく古い二層式、しかも玄関脇やベランダと雨風にさらされた洗濯機はプラスティックの部分が、黄色がかったグレーというのか、グレーがかった黄色というのか、なんともいえない面妖な色に変色していて(元は白かったのだ)まったく似つかわしくなかったのだが。

そこに移って間もなく、洗濯機は壊れた。ベルトが切れて、ドラムが回転しなくなったのだ。譲り受けてから六年ほど経っていた。そのころやたらあちこちで見かけるようになった家電量販店に行ってみると、全自動は思ったよりずっと安かった。かえって、端に追いやられた二層式の方が高いくらい。迷わず小ぶりの全自動を買ったのだった。
さすがにそれは洗濯機置き場に、ぴたりとおさまった。

いまや洗濯をする前に、上着を着こみマフラーを巻く必要もないし、何度もふたをあけて手を突っこんで、洗濯物を取り出したり移したりする必要もない。洗う前にネットに入れたり仕分けして洗濯槽に入れさえすれば、あとはボタンを押せば、全部やってくれる。考えてみれば、ずいぶん便利になったものだ。
便利になればなったで、ボタンひとつ押すのがめんどくさいこともあるのだけれど。

ともかく、いま払っている家賃のうちには、そうした便利さの価格も含まれているのだろうと思うのである。

「音楽堂」更新しました

2007-02-21 22:10:58 | weblog
「陰陽師的音楽堂」に「日付のある歌詞カード~〈Layla〉」、大幅に加筆してアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

* * *


今日は暖かかったですね。
仕事を届けるために行かなくちゃならなかったのですが、電車を使うと三つ先の駅、それでも歩いたりすることを思えばうっとうしかったので、15㎞ほどありましたが、自転車に乗って行くことにしました。

地図をプリントアウトして、ママチャリに乗って。
少し遠回りでしたが、幹線道路を避けて、川沿いの道を行くことにしました。

もうすっかり日差しは春のもの。水面をきらきらとまばゆい陽が反射しているのを、横目で見ながら走っていくうち、論語のことにふれた本をこのあいだ読んだのを思いだしたりしていました。

古文・漢文苦手だったわたしは、論語もちゃんと読んだことがないのですが、このあいだ吉田秀和の全集を読んでいたら、論語にふれられていたんです。

そこからの孫引きなんですが、こんな話でした。
ある日、孔子が弟子たちに、君たちが思い通りにできるとしたら、何がしたい、と聞いた。大国にはさまれ、飢饉に苦しめられるような小国でも、三年経ったら、方(みち)を知らせてやろう、と言う弟子を始め、みんなそれぞれにもっともらしいことを言う。ただ、中のひとりがこう言ったのだそうです。

春の暮れに、春服になって、従者や子供をつれて川をのぼってゆき、心ゆくまで歌ってきたい。

そう言った弟子に、孔子は心から同調したのだそうです。

春になったら、どういうわけか、心の底にふっとうれしい気持ちが芽生えてくる。特に、理由などなくても。

そういえば、チェホフの『三人姉妹』でも、冒頭は春なのでした。

まだ悲しみも苦しみも知らないイリーナは、出てきていきなり、「教えてちょうだい、なんだってあたし、今日はこんなにうれしいんでしょう?」と言う。

春というのはそういう季節なんでしょう。
自分で自分の状態がうまくつかめなくて、それでも、心が浮き立つ。からだがはずんでくる。わからないまま、「うれしい」という言葉を当てはめるしかないような。

例年だったら、まだ寒さに首をすくめている頃なのに、暖かい春の日差しの中をそんなことを考えながら、走っていきました。

「水晶の卵」、明日はきっとむりだろうな。なんとか金曜日にはアップしたいと思っています。それじゃ、また。

苦労は買ってでもしろ、というけれど

2007-02-20 22:27:17 | weblog
このあいだ、新聞を見ていたら、つい「悩み相談」に目が留まって読んでしまった。

相談者は四十二歳の女性(主婦)で、これまでさしたる苦労もせずに生きてきたけれど、これから大きな不幸が降りかかってきたときに耐えられる精神力があるかどうか自信がないから、いまから少しずつ苦労に慣れておいた方がいいのだろうか、「はしかと同じように、苦労も年齢が進むほどダメージが大きいと思いますが……」(2007年2月16日付け 朝日新聞)というもので、なんとなく相談者のずれっぷりがおかしくなって笑ってしまったのだった。

回答者の室井佑月は苛立ちを隠せないようすで「『世の中には大変な人たちもいるのね、自分は違うけど』。あなたのいっていることには、そんな選民意識の高いイヤらしさを感じざるを得ない」と書いていたけれど、まあ、何を言ってもわからない人にはわからないわけで、これがでっちあげたものでないのだとしたら、相談者の方はいったい自分がなぜ怒られているのか、見当もつかないだろう。

逆にこういう人が「幸福」と思うのはどんなことなのだろう、と聞いてみたくなったりもする。
たとえば親の/配偶者の年収であるとか、学歴・職歴であるとか、全部、数値と名詞で説明できる自分の外側のモノサシなんじゃないのだろうか。そうして、その外側の規準には「平均値」のところに赤い印がついていて、ああ、自分はだいたいどれもその上をいっている、だからシアワセなんだ、って、そんな雑な感じ方しかできないのではないだろうか、と思ってしまうのだ。

「苦労」というのは、結局は、いまの自分では対処できないことに対処するよう求められる、ということだ。いまのままでは対処できないから、なんとか「いまの自分」を作りかえることで、それに応えなくてはならない。うまくいくこともあれば、いかないこともあるけれど、どちらにしても、「いまの自分」という限界をつきつけられ、そこを乗り越えようとする試みであることには変わりはない。
もちろん外から求められるばかりでなく、自分から進んで限界を乗り越えていこうとすることもある。こういうときはあまり「苦労」とは言わない、やはり「苦労」というと、外から強いられるものという側面はどうしてもあるから、必然的に、そのときはつらいことでもある。

自分を作りかえるというのは、実際、並大抵のことではないし、うまくいかないことも多いし、また、時間だってかかる。
だからこそ、「苦労」の記憶はその時期をうまく乗り越えられることができさえすれば、充実感をもって振り返ることができるのだし、他人の苦労話は、関係のない人間にとっては、どうしても自慢話に聞こえてしまう側面を持つ。

苦労をしたことがない、というのは、つまりはその人の限界を超えるように求められたこともなければ、自分から求めていったこともない、ということで、つまりはその人がどこかで大きく成長したり、何かを克服した、という経験がない、と、自分から認めているわけだ。
それでも、何かひとつでも真剣にやろうとしたことがある人なら、まちがってもそんなことは言えないのではないだろうか。

年末にやった件の「陰陽師的2007年占い」でも書いたのだけれど、わたしは「幸福な出来事」や「不幸な出来事」というものがあるとは思わない。自分自身に起こる出来事でも、それが幸福か不幸かということなど何とも言いがたいし、そのときはどれほどつらい出来事であっても、そこから何かを学び、生みだすことができるなら、その人にとってはきわめて大きな意味を持つ。それを「幸福か不幸か」とレッテルを貼ることに、何の意味もないと思うからだ。

苦労は不幸を意味しないし、かといって、逆に、苦労の経験がないことが不幸であるとも思わない。その人がどう感じるか、というだけだ。

失敗した経験は、その人が届かないことをやってみようとした経験でもある。
届かない思いは、たとえ届かなかったとしても、それだけの人に会えた、という経験でもある。
問題は、その経験を通して、その人が何を感じるかということであり、そこから何を引き出し、自分のなかに意味づけていくということだ。

苦労というものは、その女性が考えるように、来るべき「不幸」に備えて、少しずつ体を慣らしておく免疫ではないだろう。
それにしても、その人はふだんから周囲に無自覚にそんなことを言って、あの人はああいう人だからしょうがない、という目で見られているのかもしれない。そういうのはわたしから見たら、かなりキツイ事態のように思えるのだけれど。

H.G.ウェルズ 「水晶の卵」最終回

2007-02-19 21:11:07 | 翻訳
「水晶の卵」その7.

この非常に奇妙な話のあらましは、このくらいにしておこう。こうしたこと一切を、ミスター・ウェイスの巧妙な作り話として退けるのでなければ、ふたつのうちのどちらか一方を信じなければならない。まず、ミスター・ケイヴの水晶は、ふたつの世界に同時に存在している、という推測である。ただこれは、一方の世界ではあちこち持ち運ぶようなことがあっても、他方の世界では同じ状態で変わらない、ということになって、これはまったく不合理な話である。となるともうひとつの推理だが、ミスター・ケイヴの水晶は、別の世界にあるそっくりのもうひとつの水晶と、何か特殊な感応関係にあって、こちらの水晶内部に見えるものは、相応の条件のもとでは、別の世界にあるこれと対応する水晶の観察者にも見えているのではないか、というもの。当然、逆もまた同様であろう。目下のところ、実際、ふたつの水晶がそこまで「感応」し合うのか、わたしたちに理解するすべはないが、そういうことがまったく不可能ではないと考えても良いのではあるまいか。ふたつの水晶の「感応」という推論を立てたのはミスター・ウェイスだったが、わたしには、少なくともそれはきわめてもっともらしいことのように思われる。

さて、この別の世界はどこにあるのだろうか。この点においても、ミスター・ウェイスは活溌な頭脳を働かせ、光明を投げかけたのである。日没後、空はすみやかに暗くなり――実際、夕暮れどきはことのほか短かった――、星が瞬きはじめる。星は、わたしたちが見ているものと同一であることは、はっきりしていて、星座の配列も同じだった。ミスター・ケイヴは大熊座、プレアデス星団、アルデバラン、シリウスを認めた。ということは、この別の世界は同じ太陽系のどこかで、わたしたちの地球から、せいぜい数億キロのところにあるにちがいない。この手がかりをさらに追求したミスター・ウェイスは、深夜の空が、地球での真冬の空よりもさらに青いこと、そうしてまた太陽はいくぶん小さいことを突きとめた。しかも、小さな月は、ふたつもあった! 「地球の月のようだが、それよりも小さく、しかも著しい相違が見られ」、一方は他方より目に見えて速く動いている。こうした月は、天空高くまで昇ることなく、現れたかと思うとほどなく消えていく。すなわち、ふたつの月は惑星にあまりに接近しているために、自転のたびに蝕を起こしていたのである。これらすべてを完全に満たすのは、ミスター・ケイヴにはわからなかったが、火星の状況以外にはあり得ないのである。

確かに、この水晶をのぞきこむミスター・ケイヴが、実際に、火星と火星の居住民を見ている、ということは、きわめてありうることのように思われる。それが事実であるならば、はるか彼方の情景のなかで、空に明るく輝く星は、ほかならぬわが地球ということになるのである。

しばらくは火星人たちも――彼らが火星人であるならば、ではあるが――ミスター・ケイヴが観測していることを知らないようだった。一度や二度、のぞきにやってきて、すぐにほかのマストに移ったのだが、それは映像が満足すべきものではなかったためらしかった。そのあいだは、ミスター・ケイヴもこの翼を持った人々の行動を、彼らの注意を引かないままに観察できて、その報告も、やむを得ず曖昧で断片的ではあったが、それでも十分に教えられる点は多かった。考えてもみてほしい、厄介な準備の手順を踏んで、相当に目に負担をかけて、セント・マーティン教会の尖塔のてっぺんからロンドンをのぞく、それも一度にせいぜい四分かそこらで、火星人が観察する人間はどんな印象を与えていたか。

ミスター・ケイヴには突きとめることができなかったのだが、翼のある火星人と、舗装道やテラスをぴょんぴょんと跳ねている火星人は同じ種族で、後者も翼を任意に取りつけることができるのかもしれない。よたよたと二足歩行する、いささかサルを思わせる、白くて部分的に透き通った生き物を見かけることもあった。地衣におおわれた木々のなかで何か食べていたが、一度、群れのうちの何匹かが逃げ出したこともあった。例のぴょんぴょん跳ねる頭の丸い火星人が一匹現れたのである。火星人は触手で一匹つかまえたのだが、そのとき映像が急に消え、ミスター・ケイヴは暗闇でいても立ってもいられない思いをしたのだった。巨大な物体が現れたこともあり、ミスター・ケイヴは最初それを巨大な昆虫であると考えたのだが、運河脇の舗装道を、ものすごい速さで進んでいくのだった。近づくにつれて、それじゃ金属の光沢を持つきわめて複雑な構造の機械であることがわかった。もういちどよく見てみようと思っているうちに、視界を過ぎてしまった。

やがてミスター・ウェイスは火星人の注意を引くことを思い立ち、つぎにあの奇妙な目玉が水晶に近づいてきたときに、ミスター・ケイヴは大声をあげて飛びのき、すぐに光を当てて、信号を送るような動作を始めた。だがミスター・ケイヴがふたたび水晶を調べると、火星人の姿は消えていた。

こうして十一月の初めには、観察はここまで進み、ミスター・ケイヴは水晶に対する家族の疑念も薄らいできたように感じたので、水晶を携えて行ったり来たりするようになった。昼夜を問わず、機会があるごとに慰めを得ようとしたのである。こうして水晶は、ミスター・ケイヴの人生でただひとつ、かけがえのないものと思えるまでに急速に成長していったのだった。

十二月になると、ミスター・ウェイスの仕事は試験が近づいてきたために忙しくなり、いまやっていることは残念ながら、一週間ほど中断せざるを得なくなった。そうして十日か十一日ほど――正確には覚えていないが――ミスター・ケイヴに会わないまま過ぎた。やがてミスター・ウェイスはどうしても調査を再開したくてたまらなくなり、季節ごとの仕事も収まってきたので、セヴン・ダイヤルズ街に出向いたのだった。角まで来ると、小鳥屋の窓はよろい戸がおりているのが見え、さらに靴屋も同様だった。ミスター・ケイヴの店は閉まっていた。

ミスター・ウェイスがノックすると、喪服に身を包んだ義理の息子がドアを開けた。息子はすぐにミセス・ケイヴを呼ぶ。ミスター・ウェイスは観察しないではいられなかったのだが、夫人は安っぽいくせにごてごてと派手な模様の喪服を着こんでいた。ミスター・ウェイスはさほど驚くこともなく、夫は亡くなって、埋葬もすませたというミセス・ケイヴの言葉を聞いたのだった。涙を流し、多少、声も沈んでいる。いましがたハイゲート共同墓地から戻ってきたところなんです、と言った。自分の行く末と、どれだけ立派な葬儀をあげたかで、夫人の頭はいっぱいらしかったが、それでもミスター・ウェイスは、なんとかケイヴが亡くなったことの詳細を聞き出すことができた。早朝、店で遺体となって発見されたのだ。ミスター・ウェイスのところを訪れたつぎの日で、石のように冷たくなった両手で水晶を握りしめていたという。うちのひとはほほえんでるみたいでした、鉱物の標本の裏張りにするヴェルヴェットの布が足下の床に落ちてましてね、とミセス・ケイヴは話した。おそらく見つける五、六時間前に死んだんでしょうね。

これはウェイスにとって大変な衝撃だった。老人の体調が悪化していることは明らかな徴候があったのにそれを無視したのだ、と、激しく自分を責める気持ちも起こってきた。だがなによりも気になったのは水晶のことだった。きわめて慎重にその話題にふれようとした。というのも、ミセス・ケイヴの性格はよくわきまえていたからだった。売ってしまった、という返事を聞いて、呆然とした。

遺体が二階に運ばれるとすぐ、ミセス・ケイヴは衝動的に、水晶に五ポンド出そうと申し出た変わり者の牧師に、見つかった旨、手紙を書こうとした。だがどれだけ必死になって探しても、娘も手伝ってくれたのだが、住所を書いた紙は、見つからず、とうとうあきらめないわけにはいかなくなったのだった。一家には、昔ながらのセヴン・ダイヤルズ街の住人が求める、形式に則った葬式と埋葬のための費用がなかったので、グレート・ポーランド街に住む親しい同業者に泣きついた。同業者は親切に、店の在庫の一部を見積もった上しかるべき値で引き取ってくれたのである。見積もりも同業者がおこなったのだが、そのなかにあの水晶の卵も含まれていたのだった。

ミスター・ウェイスは、その場にふさわしいお悔やみの言葉を、いくぶんおざなりに口にしたあと、グレート・ポーランド街に急いだ。だがそこでわかったのは、水晶の卵はすでに、灰色の服を着た、長身で色の黒い男が買ってしまったということだった。この奇妙な、少なくともわたしにとってはきわめて示唆に富む話の重要な部分は、ここでいきなり断ち切られることになる。グレート・ポーランド街の古物商は、灰色の服を着た、長身で色の黒い男がだれか知らなかったばかりか、どのような外見をしているか詳しく説明できるほど、注意深く見るようなこともなかった。店を出て、どちらの方向へ行ったのかさえ見ていなかったのである。しばらくのあいだミスター・ウェイスは店に残って、見こみのない質問で店主をわずらわせながら、憤懣やるかたない気持ちをまき散らした。だが、ついに自分の手から何もかもが滑りおち、夜の幻のように消えてしまったことを認めないわけにはいかなくなって、自分の部屋に戻ったのだった。そうして、自分が記録したメモが、乱雑な机の上にのったまま、手でふれることも、見ることもできるのを見て、いささか奇異の念に打たれたのである。

ミスター・ウェイスのいらだちと落胆は、当然ながら、深いものだった。グレート・ポーランド街をもう一度訪ねてみることもした(そうして同じように何の収穫もなかった)し、骨董品の収集家が好んで手に取りそうな雑誌に広告を打つこともやってみた。《デイリー・クロニクル》や《ネイチャー》という新聞や雑誌に手紙を書いてもみたのだが、どちらもでっちあげではないかと、活字になる前に、再考を求められた。このような奇妙な話を、残念ながら物証の裏づけもないまま発表すると、彼の科学者としての評判を損なうことになるかもしれません、という助言まで受けたのである。さらに、本業のほうから求められる声も、差し迫っていた。そこで一ヶ月ほどすると、古物商のいくつかに定期的に問い合わせるほかは、しぶしぶ、水晶の卵の探索を断念せざるをえなくなったのだった。そうして、その日からいまに至るまで、水晶の卵は見つかっていないのだ。だが、ときおり、ミスター・ウェイスはわたしにこんなことを言い、わたしもその通りなのだろうと思っている。ぼくはね、求める気持ちに身を焼かれるような気がするんです。差し迫った仕事を投げ出して、探しに出かけてしまうんですよ。

水晶がまだどこかにあるか、何から何までことごとく、永久に失われてしまったか、いずれにせよ、いまのところはどちらとも考えられる。現在のもちぬしが蒐集家なら、ミスター・ウェイスの問い合わせが古物商を通じて届くことも期待できる。ミスター・ケイヴの店に現れた牧師と「東洋人」も見つかった――ジェイムズ・パーカー師と、ジャワ国のボッソ=クニ王子だったのである。わたしはくわしいことを聞かなければならなかった。王子が水晶をほしいと思ったのは、単純に好奇心からだった――それに、贅沢ということもあった。どうしてもほしくてたまらなくなったのは、ケイヴの売り惜しみする態度が奇妙だったから、ということだった。同様に、二度目の場合でも、たまたま買ったというだけ、蒐集家とは縁もゆかりもない可能性だってありうるし、水晶の卵がもしかしたらいまこの瞬間にもわたしからほんの数キロ先にあって、応接間を飾ったり、文鎮として使われていたりするのかもしれない――その特筆すべき機能など知られないままに。事実、そんな可能性もあると考えたこともあって、わたしはこの体験を、一般の物語の読者の目にふれるように、こうしたかたちで明らかにしたのである。

この出来事についてのわたし自身の見解は、ミスター・ウェイスのそれとほとんど同じである。わたしは火星のマストのてっぺんにある水晶と、ミスター・ケイヴの水晶の卵は、物理的な、だが現在では未だ説明できないような方法で、感応しあっているのだと考える。さらに、地球上の水晶は、――おそらくははるか昔に――火星からこちらに送りこまれたものにちがいない。火星人たちが、わたしたちの出来事を身近で観察する、という目的で。おそらくはほかのマストのてっぺんにある水晶に感応する水晶の卵もまた、地球上にあるのだろう。一時的な幻覚では、この出来事をとうてい説明できないのである。

The End



(※近日中に推敲ののちサイトにアップします。お楽しみに)