陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

金魚的日常リターンズ その8.

2005-06-30 21:58:07 | weblog
――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

8.ノアールはお嬢様

ノアールは外に出ないネコだった。

チビにしてもヴァーミヤンにしても、オスだったせいか、自分の領土の見回りを、日々欠かすことはなかった。日が暮れてからのことが多かったけれど、土砂降りでさえなければ、かならず外に出て、近所をぐるりと歩いて回っていた。
近所の知り合いも多かったらしく、ほかのネコといるところにも何度か行き合ったことがある。そんなとき、チビにしても、ヴァーミヤンにしても、こちらと眼を合わそうともせず、そしらぬ顔をしているのが常で、ネコの社会でもいろいろあるのだろう、と想像しておかしかったりした。

ところがノアールはたまに庭先に出るだけで、塀から外に出ようとはしない。
人間としか接することのないネコは、自分をネコと認識しないのではないか。ノアールを見ていると、どうもそのように感じられてならなかった。

うわぁわぁ(ほんとうにこのように聞こえた)と大騒ぎしているので見に行くと、縁側にクモがいたりする。ヴァーミヤンであれば、目にも留まらぬ速さで捕獲し、あっという間にバラバラにしながらなぶって遊んでいただろうに、ノアールは騒ぐだけで、自分からは手出しをしようとしない。
そのくせ、こちらが逃がしてやりでもしたことなら、あとをついていって、いつまでもうわぁわぁと鳴いているのだった。


一歳になるまえに、ノアールは避妊手術を受けた。チビのことがあったので、こんどは病院選びも慎重に、父も職場で問い合わせたりして、評判の高いところにかかった。そのせいか、それともチビの側にもともと何らかの原因があったのか、ノアールの手術はチビのときとはちがってあっけないほど簡単に終わり、術後もすぐに元気になった。

それでも春が来ると、庭先にいろんなネコがやってくるようになった。
ところが自分がネコだという自覚に欠けるノアールは、塀の上に近所のネコの姿を見つけでもすると、黒い弾丸のように家に飛び込んできて、ガラス戸の内側で毛を逆立てて威嚇する。そして、追い払ってくれ、と、わたしたちに向かってうわぁわぁ鳴くのだった。

ある日ノアールが、ガラス戸越しに、庭先の一点を見つめているのに気がついた。視線の先を追うと、コデマリの植え込みの下に丸くなっているネコがいるのだった。薄いグレーの、光線の角度によっては銀色にも見える、大型の威風堂々としたネコだった。ノアールの気を引きに来るネコたちが、鳴いたり、うろうろと家のほうへ近づいてきたりするのに対し、そのネコはただ、そこにやってきて、昼寝をして帰るだけなのだ。

その美しい毛並みと風格から、わたしはそのネコをT.S.エリオットに倣って、マンカストラップ三世と呼ぶようになった。三世がやって来ると、二階で遊んでいても、ノアールは縁側に下りていく。そうしてガラス戸から外へ出るわけでもなく、じっとマンカストラップ三世の姿を見ている。頭を高くあげ、尻尾をぴんと立て。それは、できるだけ美しい姿勢を保っているようでもあった。

三世のほうはノアールを見ているのかいないのか、お気に入りの場所にやってきてはうずくまり、昼寝をして、そのうち帰っていく。わたしたちは三世が帰ったことを、遊びにあがってきたノアールの姿を見て知るのだった。
そのうちに新学期が始まって、わたしたちはノアールとマンカストラップ三世の恋の行方を見届けることもなく忘れてしまうのだが、人為的な操作が双方になされたネコの、淡い、言ってみれば不自然な恋を思い出すと、やはりなんともいえない気がする。

確かに手術をすることは、人間と一緒に暮らしていくためには必要なことなのかもしれなかった。ただそれが、ネコにとってはどういうことなのか。考えてもわかることではないことを、考えるのは、意味のないことなのかもしれない。それでもそのとき、懸命にガラス戸の外を見つめていたノアールの姿は、いまでも忘れられないでいる。

(次回最終回)

金魚的日常リターンズ その7.

2005-06-29 22:11:13 | weblog
――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

7.ノアールがやってきた

ヴァーミヤンが出て行ってから、もうネコは飼いたくはなかった。ふらりと戻ってきたときに、わたしがちがうネコと遊んでいたら、ヴァーミヤンはどう思うだろう。もう二度とわたしのところへは戻ってきてくれないかもしれない。

ところが一ヶ月ほどして、父がネコを連れて帰ってきた。ペットショップで頼んでおいたのだという。父のコートの懐から、マフラーにくるまって出てきたのは、生まれてからやっと二週間ほどが過ぎたばかり、てのひらにのるくらいの大きさで、足を踏ん張ると後ろ足がぶるぶる震えるような、小さな小さな黒ネコの赤ちゃんだった。

淡い水色のうるんだ大きな目で見つめられると、愛おしさがこみあげて、好きにならずにはいられなくなる。そうして家中が子ネコに夢中になったのだった。
弟が例によっておそろしくむずかしい、発音しにくい名前を提案したが、姉がノアールにしよう、と言い、母も朔太郎の詩みたい、と言って賛成した。そうしてこの子ネコの名前はノアールになった。家で初めての雌のネコだった。

わたしももちろんノアールはかわいかった。
それでも、ヴァーミヤンの記憶がノアールのそれに置き換わっていくようで、それが辛かった。たくさん撮った写真をどれほど見ても、ヴァーミヤンを近くに感じられない。一緒にいたころの記憶が、すこしずつ薄れていく。
わたしが忘れてしまったら、ヴァーミヤンはほんとうに帰ってこなくなるような、弟が言ったように、死んでしまうような気がしたのだ。

あるとき、父にその話をした。
父は、自分が小さい頃に飼っていた犬の話をしてくれた。白かったから、シロ、という名前をつけたこと。学校へ行こうとしても、ついてきて困ったこと。散歩に連れて行くと、大きな体の割に臆病で、小さい犬に吼えかかられて、足をすくませていたこと。そうしてシロは、あるとき車に跳ねられて死んでしまったこと。

父はいまでもよく覚えている、と言った。学校から帰ってくると、シロがどんなふうに飛びかかってきたか、シロの息がどんな臭いだったか(「臭かったんだ」と言って父は笑った)。
十歳だったけれど、シロのことは忘れちゃいない、と。
それは、そのときと同じようには覚えてはいない。同じように感じることもできない。人間は、レプリカントじゃないから、そういうことができるような構造にはなっていないんだ(そういえばその後何度となく観た『ブレードランナー』、一番最初は父に連れられて映画館に見に行ったのだった)。
それでも、そのときと同じように覚えていないからといって、それは忘れてしまった、ってことでもないんだ。お父さんは、シロのことはおそらく一生忘れないだろう。そういうもんなんだ。

ヴァーミヤンのことは、わたしも一生忘れないんだ。記憶が薄れていくことと、忘れてしまうことはちがうんだ。
そう思ったら、ずいぶん気持ちが楽になった。

父のことばは正しかった。
いまわたしはこうしてヴァーミヤンのことを書いているのだから。

(この項続く)

金魚的日常リターンズ その6.

2005-06-28 21:14:16 | weblog
――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

6.ヴァーミヤンとの別れ

中学受験組だったわたしが、人生で一番勉強したのは、小学校六年生の夏休みから、年明けにかけてだった。がんばればがんばっただけ模擬テストの順位が上がる、という経験も、このとき限りだったし、成績上位者に名前が載って、誇らしい思いをすることができたのも、このときが最後だ(どうやらわたしはこれで燃え尽きたようだ)。

ヴァーミヤンが勉強しているわたしの膝の上に乗ってくる。左手で喉元をくすぐってやったり、耳元を掻いてやったり、背中を撫でてやったりしながら、わたしは勉強を続ける。

ヴァーミヤンは膝の上でそのまま眠りこけたり、飽きると遊びにでかけたりするのだった。それでもわたしが飢えることのないように、かならず食料を捕獲してきてくれる。いちどなどは、ネズミでもない、ハムスターでもない、なんだろう、と思ってみたら、モグラだった。まだ暖かみの残っている死骸を目の前に置かれるときは、内心「ああ、またか」とため息のひとつもつきたくなるのだが、ヴァーミヤンはわたしがちゃんと受け取るかどうか気になるのだろう、じっとこちらから目を離さずにいる。仕方がない、覚悟を決めて、両手でありがたく押し頂くまねをする。そうすると、ヴァーミヤンも安心して、その場を離れるのだった。

受験の時、たまたま広い教室で、暖房が入っていても寒かったのをいまでも覚えている。
カイロで指先を温めても、すぐに冷たくなった。
ヴァーミヤンがここにいてくれたら。膝に乗っていて、その背中や頭を撫でることができたら。
わたしは膝の上に、そこにはいないヴァーミヤンの重さを感じ、暖かさを感じながら試験を受けていたような気がする。

運良く中学に合格し、わたしの生活は変わった。
電車通学を始めてしばらくは、満員電車ですっかり気疲れしてしまい、よく帰ってから昼寝をしていた。
そうしたときは、起きろよ、遊ぼうぜ、と起こしにくるのだった。
ぼんやりした頭で、ボールを投げたり、おもちゃにしていたハタキをふってやる。そうすると、飛びかかっていくのだが、いつもチラッとこちらを見る。わたしが楽しそうにしているかどうか、見ているのだ。
どうやらヴァーミヤンのほうが、わたしを遊んでくれているつもりだったようだ。

相変わらず、ヴァーミヤンはメイヴィスさんの家と我が家を行ったり来たりしていた。
家族とも慣れて、母や父の手にあるエサを直接食べるようなこともしたが、どうやらわたしだけは、自分の養い子と思っていたようだった。
家族で食卓を囲んでいるときなど、入ってきて、わたしのほうを考え込むような目をして見ていたことが何度もある。
こいつはここで何をしているのだろう、迷惑をかけているんじゃないだろうか、と心配していたのかもしれない。

メイヴィスさんの話によると、家に来た当座のヴァーミヤンは、すでに5歳にはなっていた。人間でいうと、だいたい45歳ぐらいである。それから三年ほどたつころには、さすがに往事のジャンプ力も俊敏さも失っていたが、それでも、気配を消す瞬間の鮮やかさは、見ていて見事だった。
父も、まったく気配を消して部屋に入ってきて、気がついたら本棚の上にいた、と驚いていたことがよくあった。

去勢手術は小さい頃にすませていたが、それでもたまにふらっと出ていったまま、一週間ほど帰らないこともあった。そんなときは、メイヴィスさんの家にも行っていない。どこに行ったのだろう、と心配していると、また出ていったときと同じように、ふらっと戻ってくる。多少砂をかぶったりしていても、それほど汚れていたり、やつれていたり、怪我をして帰ってくるようなこともなかった。さすらいの旅に出ているのだろうか、とよく想像したものだった。

帰ってきたヴァーミヤンの手を取り、後ろ脚で立たせ、目をのぞき込む。
澄んだ緑の宝石のような目を見ながら、その目にはどのような景色が映っていたのだろう、と考えた。

ヴァーミヤンが家へ来て、ちょうど三年が過ぎたころだった。
いつもどおり、わたしの部屋の窓から外へ出ようとして、振り返って、すこし長くにゃー、と鳴いた。
わたしもいつものように、にゃー、と鳴き返そうとして、ふいに、行ってしまう、と思った。ヴァーミヤンは行ってしまおうとしている。もう帰ってこないつもりなんだ。
「行っちゃだめ」
と言うわたしに、ヴァーミヤンはもういちど、
「にゃー」と鳴いた。

そうしてこちらに尻尾を向けると、ひょい、と本立てを飛び越えて、屋根におりた。
そこでもういちど振り返った。
そうして、こんどは鳴くこともせず、そのまま行ってしまった。
慌てて窓に近寄ったが、あっという間にヴァーミヤンの姿は消えてしまった。
それが、ヴァーミヤンの姿を見た最後だった。

数日後、いなくなったヴァーミヤンを家族総出で探し回った。張り紙もした。
わたしはヴァーミヤンが帰ってこないことを知っていたような気がする。
それでも、自分の部屋の窓を叩くヴァーミヤンの手の影が、磨りガラスに映るのを、何度となく夢に見た。夜中に窓を叩く音を聞いたように思って、ハッとして目をさますことも数度ではなかった。
胸を高鳴らせて起き上がり、窓に急ぐ。
開けても夜の戸外がひろがるだけだった。

ネコは死期を悟ると出ていくんだ。
何かの本で読んだ弟はそう言ったが、わたしはそうは思わなかった。
どこか、新しい場所に行きたかったんだ。
どこか、新しい場所でヴァーミヤンは生きている。
わたしはいまでもそう思っている。

(この項つづく)

金魚的日常リターンズ 番外編

2005-06-26 21:53:46 | 翻訳
The Naming of Cats  T.S.Eliot
 ネコに名前をつけること


The Naming of Cats is a difficult matter,
 ネコに名前をつけるのはラクじゃない、 
It isn't just one of your holiday games;
休みの日の気晴らし、というわけにはいかない。
  
You may think at first I'm as mad as a hatter
 いまのところはこんなことを言うやつを、いかれてる、と思っているようだが
When I tell you, a cat must have THREE DIFFERENT NAMES.
 こころして聞きたまえ、ネコにはどうしたって三つの名前が必要だ。

First of all, there's the name that the family use daily,
 まずなによりも、家族が毎日呼ぶ名前、
Such as Peter, Augustus, Alonzo or James,
たとえばピーター、オーガスタス、アーロンツォ、ジェイムズ、
  
Such as Victor or Jonathan, or George or Bill Bailey -
 はたまたヴィクター、ジョナサン、ジョージ、ビル・ベイリー、
All of them sensible everyday names.
どれもみな、実用的だがありふれた名前だ。
 
There are fancier names if you think they sound sweeter,
 もっとステキな響きの名をご所望ならば、こんな洒落た名前もある、
Some for the gentlemen, some for the dames:
紳士諸君に淑女のみなさま。 
 
Such as Plato, Admetus, Electra, Demeter -
 たとえばプラトン、アドメートス、エレクトラ、デメートル、
But all of them sensible everyday names.
だがどうしたって実用的な、ありふれた名前さ。
 
 
But I tell you, a cat needs a name that's particular,
 思うに、ネコにはとびきりの名前が必要なんだ、  
A name that's peculiar, and more dignified,
一種独特、そしてなにより威厳に満ちた名前だ、
  
Else how can he keep up his tail perpendicular,
でなければ、どうして尻尾を垂直に立ててみたり、
Or spread out his whiskers, or cherish his pride?
ひげをピン、と張りつめてみたり、誇り高くいられるだろうか?
  

Of names of this kind, I can give you a quorum,
 こうした名前なら、よりすぐりのものをいくつかあげてみよう、  
Such as Munkustrap, Quaxo, or Coricopat,
たとえばマンカストラップ、クウェイゾー、コリコパット、
  
Such as Bombalurina, or else Jellylorum -
 はたまたボンバルリーナ、そうでなければジェリローラム…… 
Names that never belong to more than one cat.
こうした名前は、たったいっぴきだけのもの。
 
 
But above and beyond there's still one name left over,
 さてこのほかに、まだひとつだけ、残っていた、
And that is the name that you never will guess;
これはだれにもわからない。
  
The name that no human research can discover -
 人間の研究も及ばない名前だ……。
But THE CAT HIMSELF KNOWS, and will never confess.
だが、ネコだけは知っている、だが決して打ち明けてくれはしない。
 
 
When you notice a cat in profound meditation,
 君も知っているだろう、ネコが深くもの思いにふけっているのを、
The reason, I tell you, is always the same:
教えてあげよう、そのわけはいつも同じさ。 
 
His mind is engaged in a rapt contemplation
 ネコはこころを奪われているんだ
Of the thought, of the thought, of the thought of his name:
自分の名前を、考えに、考えに、考えているんだ。 
His ineffable effable
ことばであらわすことなどできないような、できるような 
Effanineffable
できるようでできない、できないようでできる
 
Deep and inscrutable singular Name.
深くて微妙で世界にひとつ、これこそ名前、はないものか、と。

(次回ふたたびヴァーミヤンの話)

金魚的日常リターンズ その5.

2005-06-25 21:29:27 | weblog
――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

5.ヴァーミヤン、二代目に

電話を受けた母が大慌てで姉を呼んだ。
「外人さんよ、外人さんから電話がきたわ。あんた高校生なんだから、英語ぐらいできるでしょ」
「ええっ、冗談じゃないよぉ、わかるわけないじゃん、電話の英語ってむずかしいんだよー」
「じゃ、お父さんが帰ってからかけなおすから、って、電話番号、聞いておいてよ」
「そんな英語、わかんないよー」
「とにかく、早く出てよ」
ひきつった顔で下りていく姉を、わたしは階段の上で見守った。ヴァーミヤンの飼い主にちがいない、と思ったのだ。
「ハ、ハロー」まるっきりカタカナでそう言った姉の顔が、つぎの瞬間、急に笑顔になった。
「イ、イエス……はい……、はい……、そうです。ええ、***はウチの妹です(と、階段の上でのぞいているわたしを手招きする)。わかりました。すぐ替わります」

「もしもし……」
「あなたが***サンね。手紙を読みました。わたしはメイヴィスといいます」
あきらかに日本人ではないアクセントの、深く柔らかな女性の声だった。
「キャリコゥをかわいがってくれてどうもありがとう。あなたはヴァーミヤンという名前をつけてくれたのね」
「その名前は、弟がつけました」
「いい名前ですね。わたしたちは彼をキャリコゥと呼んでいます。いちど、遊びにいらっしゃい。弟さんもいっしょにね」

そのメイヴィスさんの家というのは、家から2キロほど離れた住宅街の一角にあり、弟と一緒に自転車に乗って、大通りから入り組んだ細い道に入っていき、番地を確かめながら、うねうねと進んでいった。

番地が近くなると自転車を降りて、門のところにバラのアーチがある家、という目印を探して、一軒一軒確かめながら歩いていった。やがて、アーチがあるだけでなく、庭全体にバラがいっぱい咲いている家を見つけた。門には、普通の日本人名の表札がかかっている。ドアチャイムを押すと、白髪交じりで赤っぽい茶色の髪、明るいグレイの眼をした背の高い女性が出てきた。ヴァーミヤンを抱いている。
わたしが「にゃー」と挨拶すると、いつものように、ヴァーミヤンはわたしの肩に飛び乗ってきた。
それをメイヴィスさんは、オゥオゥ、と言いながら目を細めて見ている。わたしになついているのをいやがっていない、と思ってホッとしたのを、いまでもよく覚えている。

わたしはヴァーミヤンを肩に載せたまま、ふらふらしながら家の中に入っていった。普段はおとなしいくせに、こういうときは物怖じしない弟は、メイヴィスさんにどこの国の人か、名字はなにか、と矢継ぎ早に質問していた。お母さんの名前はなんですか、お父さんの名前は、アイルランドには先祖代々住んでいるのですか、ゲール語は使いますか……。

通された部屋には、もう二匹、ネコがいた。ヴァーミヤンを肩に載せているわたしを、じろじろと見定めている。やがて飽きたのか、二匹ともが出ていった。わたしは肩からヴァーミヤンを降ろして胸に抱きかかえると、ソファにすわった。

メイヴィスさんは、これまでネコを飼ったことがあるか、と聞いた。チビを飼っていたこと、つい先日、去勢手術がうまくいかなくて死んでしまったことを話した。わたしが家に帰ったときは、すでに小さな箱に入っていた、というところまでくると、ハンカチを鼻に当て、涙を流した(のちに白人は泣くとき、ハンカチを鼻に当てることを知るようになるが、このときはまだそれを知らなくて、その仕草がひどく不思議だった)。

「あなたたちだったら、キャリコゥをかわいがってくれるでしょう。キャリコゥ、ではなくて、ヴァーミヤンね、あなたは今日から***さんのお家のネコになるのですよ。良い子にするんですよ」
わたしはそのままヴァーミヤンを連れてかえりたかったのだが、寝床や、専用のキャットフードを一緒に車で届けてあげる、という。両親にも挨拶がしたいし、ということだった。

わたしが、じゃ、あとでね、という気持ちをこめて、にゃー、とヴァーミヤンに挨拶すると、ヴァーミヤンも、にゃー、と答えて、わたしの腕や髪の毛に身体全体をこすりつけてきた。

こうしてヴァーミヤンは正式に二代目のネコとなった。
ただ、父はヴァーミヤンという名前が気に入らなかったらしく、バー公、バー公と呼ぶのだった。

(この項つづく)

金魚的日常リターンズ その4.

2005-06-23 22:16:42 | weblog
――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

4.狩猟ネコ、ヴァーミヤン

 ドラとチビを飼い始めたころは、ネコというものが、ここまで個性豊か、それぞれにちがう生き物だとは思いもしなかった。ヴァーミヤンはこの二匹とはあまりにもちがっていたのだ。

 ヴァーミヤンは天性のハンターだった。気配を消すのがうまいのだ。わたしの投げるボールに飛んでいって、じゃれていたかと思うと、パッと離れ、身を低くする。全身に緊張感がみなぎり、尻尾がぴん、と立つ。ここでよく見ていると、ふっと気配を消す瞬間というのがわかる。その体勢のまま、五分やそこらは平気でいる。と、つぎの瞬間には、庭先で何かをついばんでいたスズメに襲いかかっているのだ。

チビもドラも、わーわー大騒ぎしながら、ゴキブリやヤモリをなぶっていることがあったが、ヴァーミヤンの場合は、あきらかに狩猟だった。そうやって、首のところにふたつ、小さな穴のあいたスズメをくわえて、わたしのところに持ってきてくれる。これを食べるように、という顔をしてじっとこちらを見る。泣きたくなるような気持ちをぐっとこらえ、未だ温かいスズメを手に取ると、ヴァーミヤンは安心して去っていくのだった。どうやらわたしはヴァーミヤンにとっての養い子だったらしい。

一度、かなり大きなハトをくわえてきたことがあった。これはさすがに困った。ヴァーミヤンの手前、ありがたくいただいたけれど、これだけ大きいと、スズメやヤモリの死骸のように、袋に入れてゴミに出すわけにはいかないような気がする(オーウェルの『象を撃つ』のなかで、大きい動物を殺す方が罪悪感も増す、という記述があったが、その気持ちはやはりよくわかる。蚊なら叩いても平気だが、ゴキブリになると、叩くときに嫌悪感は増す。さらに大きな鼠になると、叩き殺すことはできない)。庭に埋めてやろうと穴を掘っていると、母に見つかり、冗談じゃない、虫が湧いたらどうするの、とひどく怒られ、このときは市役所に連絡して引き取ってもらったのではなかったか。

このできごとをきっかけに、ヴァーミヤンの存在は、母の知るところとなった。チビをそれはそれはかわいがっていた母としては、新しいネコを飼う気にはなれなかったのだろうし、しかもヴァーミヤンは首輪をしていて、毛艶といい、栄養状態といい、よその家の飼い猫、しかも相当大切にされているらしいネコであることは明らかだったのだ。母は、たまにやってくるヴァーミヤンに煮干しやカツオ節をやるくらいならいいけれど、あまりかまわないように、と言った。もちろんその場では、わかった、と返事はしたけれど、わたしは、なんとしてでもヴァーミヤンをうちのネコにしたい、と、強く願うようになっていたのだった。

どうしたら飼い主を知ることができるだろう。出ていったヴァーミヤンを追いかけようとしたこともあったけれど、塀や屋根を軽やかにかけていくヴァーミヤンのあとは、とてもではないけれど、追いかけられるものではなかった。そこで、頭をしぼって手紙を書いて、細く畳んで首輪に結びつけたのだ。
「ヴァーミヤン、うちの子になりたかったら、それを取らないで、ちゃんと持って帰るんだよ」
そう言い聞かせると、ヴァーミヤンは、にゃー、と鳴いた。

その手紙には、おそらくこんなことを書いたのだと思う。
「このネコは、わたしの家に遊びに来ます。
わたしたちはヴァーミヤンと呼んで、とてもかわいがっています。
うちで飼ってやりたいのです。
良かったら、ゆずってもらえませんか」

翌日、家に電話がかかってきた。
(この項つづく)

金魚的日常リターンズ その3.

2005-06-21 22:31:48 | weblog
――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

3.ヴァーミヤン

 ある日、学校から帰ってみると、わたしの机の本立ての上に、見たこともないネコが丸くなってこちらをじっと見おろしていた。

 全体に灰緑がかったキジネコで、深い緑の目をしている。つけている首輪から、どこかの飼い猫のようだった。美食がすぎて、全体にぼってりしていたチビにくらべて、頭もひとまわり小さく、丸くなっていてもどこか精悍な印象があった。
 
 そこはチビのお気に入りの場所だった。わたしが机の前にすわって宿題をやったり、本を読んだりしていると、そこでそうやって昼寝をしていたのだった。そのネコは、チビのにおいにつられて入ってきたのだろうか。どうやら屋根づたいに窓から入り込んだらしかった。

 手をのばすと、わたしの指先のにおいをちょっと嗅いで、にゃー、と鳴いた。
わたしも、にゃー、と答えた。どうやらそれで自己紹介は完了したようだった。そこからいきなりひょいとわたしの肩の上に飛び乗ってきたのだ。六年生にはなっていたが小柄なほうだったわたしは、びっくりしたこともあって、危うくひっくり返りそうになった。
 
 そのネコは、しきりにわたしの頭に自分の頭をこすりつけてマーキングをした。キャットフードは残っていただろうか、などと考えはしたけれど、なによりも肩に乗るネコの暖かみがうれしくて、胸はずっとドキドキしていた。やがてそのネコは気が済んだのか、そのまま窓枠へ飛び移り、一度こちらを振り向いてから、そのまま出ていった。慌てて窓からのぞいてみると、すでに隣の塀の上から道路の方へ飛び降りるところだった。

 つぎの日の朝、また来てくれるように、と、皿に煮干しを入れて本立ての上に置いておいた。学校から走って帰ってみると、ネコの姿はなかったけれど、煮干しもきれいになくなっていた。やっぱりあのネコは来てくれたんだ、と思った。

 弟にその話をすると、ぼくも見たい、という。だからわたしは弟に、塾に行ってる間にもし来るようなことがあったらいけないからここで待ってて、と頼んだ。せっかく遊びに来てくれたのに、留守ばかりしていては申し訳ないと思ったのだ。

 だが、その日は来なかったが、数日後、弟とわたしが一緒にいるときに、ふたたびそのネコはやってきた。わたしたちはカツオ節をやって、しばらく紙の玉を投げたりして一緒に遊んだ。
やがて弟が、名前をつけてやろうよ、と言い出した。
チビ、なんて名前より、もっとずっといい名前がいいよ。

 弟は小さい頃から「名前」というものが大好きで、新聞を広げては、ちいさな記事から外国のめずらしい名前を拾ってきて、“タチアナ・カザンキナ”だの、“ルターン・コチシュ”だのという不思議な響きの名前を大量にストックしていた。その名前の興味は地名にも及び、地図帳を開いて、聞いたことのない地名を集めるのに余念がなかったのだ。
弟は“ヴァーミヤン”がいい、という。アフガニスタンのほうじゃなくて、イランのほうだ。“ヴァ”だよ。

「今日から“ヴァーミヤン”だよ、いいね」
そう言うと、“ヴァーミヤン”は、にゃー、と鳴いた。こうしてヴァーミヤンとわたしたちの交流が始まった。

(この項つづく)

金魚的日常リターンズ その2.

2005-06-20 22:41:31 | weblog
――キンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

2.チビとの別れ

 もともと我が家のネコではなかったチビは、元の自分の家とうちの庭先を自由に行き来していることが多かった。それでも夜、散歩から帰ってくると、縁側の隅の籐カゴに丸まって眠るか、気分によって、だれかのふとんにもぐりこむ。姉もわたしも弟も、「ゆうべ、チビが来て目が覚めちゃった」と朝食の席で報告しあったが、邪魔くさそうなくちぶりをしながらも、どこかチビに選ばれたことがうれしいのだった。

 ところがある晩、チビが帰ってこなかった。翌日の夕方、全身傷だらけ、耳などはなかばちぎれかけた状態になって戻ってきたときは、みんな驚いた。いやがって暴れるチビをすぐさま箱に入れ、母が大急ぎで病院へ連れて行った。すると、そこでチビはまだ去勢手術を受けていないこと、発情したメスのところへ行って、そこでライバルにやられたのではないか、と言われたのだ。

 手術を受けさせることに母は最初から反対だった。家の中から外へ出ないようにしてやればいい、と言うのだ。去勢手術というのがどのようなものか想像もつかなかったけれど、確かにそれも怖いような気がする。受けなくてすむのなら、それに越したことはない。わたしたちは協力して、窓も開けないように、出入りをするときは、かならずベルを押して、だれかがチビを抱いているようにして、家から出ないようにした。

 それでもなんとかして外へ出たがるチビは、悲痛な声で鳴き、まるでわたしたちに抗議するかのように、家のあちこちに、目が痛くなるようなオシッコをかけて回った。

 ある日、高校受験を控えていた姉が「もうがまんできない」と言い出した。あの声を聞いていたら、気になって勉強もできない、寝ることもできない。去勢手術を受けさせようよ、そのほうがチビのためだよ。

 チビのため。何がいったいチビのためなのか、どうしたらほんとうにチビにとって良いのか、わたしたちにわかるはずもなかった。それでも、「その時期」が去ることを待ちながら、身をよじって鳴くチビを、家のなかに閉じ込めておくのは、わたしたちのだれもが辛かったのだ。

 そこで駅前の病院に連絡を入れた。ところがそこは、予約がいっぱいで、二週間先でなければ受け付けられない、という。しかたなく電話帳で調べて、隣の駅の獣医に手術を頼むことにした。

 箱のなかで鳴き続けるチビを、父の背中が見えなくなるまでわたしたちはずっと見送った。
病院で一泊したチビがつぎの日、帰ってくる。わたしは学校から走って帰った。籐のかごのなかで寝ていたチビが、普段よりも高い、うわずったような声で鳴いていたのを、いまでもよく覚えている。
 
 ところがその晩から、チビの様子は急変する。最初は下痢をしているのかと思ったが、そのうち赤い粘膜のようなものが出るようになった。夜間だったけれど、急いで病院へ連れて行く。熱もあったので、即座に入院ということになった。

 つぎの日から、学校から帰ってランドセルを置くと、弟と一緒にチビのお見舞いに行くようになった。顔を見せると、にゃー、とうわずったような、弱々しい声で鳴く。点滴に繋がれているのが痛々しかった。それでも毛もふっくらとしていて、そのうち帰って来る、とわたしも弟も疑ったことはなかった。
病院では、水もエサも受けつけない、という。だから点滴をはずすわけにはいかないのだ、と。それでもわたしたちがスポイドで水をやると、それは飲んだし、そのうち食べられるようになるのだ、とも思っていた。

 ある日、いつものようにお見舞いに行って、調子が良さそうだったので、抱かせてもらった。チビはそれで連れて帰ってもらえると思ったらしく、ケージに戻そうとしても、足を踏ん張って、絶対に入れさせまいとする。看護婦さんが、あとはやるから、と、わたしの手から、チビを引き取った。
「食べられるようになったら、帰れるからね、がんばって食べるんだよ」
そう言うと、チビは悲しそうな声で鳴いた。

 そうして、それが最後だった。
 つぎの日の午前中、様態が急変した、という電話が病院からあり、母が行ったときはもう間に合わなかったのだという。

 しばらく、息をするのさえ辛い日が続いた。
チビが爪を立ててボロボロにした敷物。チビのミルク皿。籐の籠。いつの間にかチビに取られてしまったカシミアの毛布。家中、チビの痕跡に満ちていたのだ。

 ところが、そのチビと入れ替わるかのように、ふらりとネコがやってきたのだった。

(この項つづく)

金魚的日常リターンズ その1.

2005-06-18 18:52:05 | weblog
――わたしがキンギョ飼いになるまえの日々、あるいはネコ的日常だったころ――

0.序章 

 以前も書いたように、わたしの家にはネコがいた。実家がいまの家に移った十歳頃から、高校を卒業して家を出るまで、八年ほどをネコと一緒に暮らしたことになる。

 ネコも三代を数えた。最後のころ一緒に過ごしたノアールも数年前に死んでしまい、いまも実家にいるネコは、わたしがあまり知らない四代目だ。人見知りするネコで、たまに帰省すると奥の部屋に閉じこもったまま、出てこない。だからいまだに見たことがない。

 この三代のネコのことを、まずは書いてみようと思う。

1.初代(チビとドラの話)

 わたしたちの一家がその家に越してきたとき、隣の家はすでに空き屋も同然だった。たまに人がいることもあったが、荷物を取りに帰るだけかなにからしく、物音がしていてもすぐ気配はなくなる。ただ、そこの家の庭を我が物顔に行き来する、二匹のトラ猫の姿があった。

 まずそのネコをかまいだしたのは姉ではなかったか。皿にミルクだか煮干しだかを入れて、生け垣の隙間から、隣の庭に差し出したのだ。家にひとがいないのが寂しかったのか、二匹のネコは、すぐにわたしたちの方にやってきて、おとなしく撫でられるままになっていたような記憶がある。

 ある日、いつものようにネコを呼ぼうと庭に出てみると、隣の庭に中学生ぐらいのお兄さんがいて、大きなおにぎりを二匹のネコに与えていた。ネコたちは、まずそのおにぎりのカツオ節のところだけをよって食べ、それからコメのところを食べ始めるのだった。一緒に食べたほうがおいしいだろうに。そう思ったわたしがちょっと笑うと、隣の家のお兄さんは、大きい方が母親で、ドラ、小さい方がその子どもでチビというのだ、と教えてくれた。

 わたしの目には子どもといってもずいぶん大きく、母ネコとそれほど大きさも変わらないように思えた。もうチビじゃないね、と言ったかもしれない。
 そこの家は親が「りこん」することになって、そのお兄さんはいまはお母さんと一緒に住んでいるのだ、と言った。そこはマンションで、ネコは飼えないから、ここの家に残して、ときどきこうやって、様子を見ているのだ、と。
「いつもエサをやってくれてるの?」
うん、というと、これからも、ときどきエサをやってくれないか、と頼まれたような気がする。

 家に戻ったわたしは、なによりも「りこん」という言葉が気になって、父親に聞いてみた。
いつも本を読んでいて、わからない言葉に出くわすと、父親に聞くのが常だったのだ。
「ばいたんはふたばよりほうしい、ってどういうこと?」
「ばいたんではなく、せんだん、と読む。ほうしい、ではなく、かんばしい。“氏より育ち”の逆」
たいがい、こんなふうな問答で、結局、辞書を引かなければならなくなるのだったが。

 だが、その日の父の態度は、普段とちがうものだった。ちょっと驚いたような顔をして、わたしに聞き返した。
「なんでそんなことを聞く?」
わたしはついさっき聞いたばかりの話を、そのまま父に受け売りした。
「子どもにとってはお父さんとお母さんでも、そのお父さん、お母さんにとってみれば、生まれたときからずっとそうだったわけじゃない。大人になって、知り合って、結婚するまでは、赤の他人だったんだ。その結婚が、うまくいかない、となって、別れることもある。そうなることが、離婚だ」
わたしはそれを聞いて、ひどく心配になった。
「じゃ、お父さんとお母さんもりこんする?」
このとき、父が何と答えたのか、わたしにはその記憶がない。ただ、その後もさまざまなことがあり、自分自身大人になって、結婚ということを考えたとき、そのとき父の胸に去来したものがなんだったか、考えずにはいられない。そうして、それを聞くわたしのことを、どう思って見ていたのだろう、と。

 ただ、そのときのわたしは、そんなことまで思いを巡らせられるはずもないのだった。おそらく父の返事で安心したのだろう、気がかりだったネコのことを聞いてみた。
「お隣のネコ、家にあげてもいい?」
「お母さんに聞いてみなさい」

 生き物がキライだ、と普段から言ってはばからなかった母は、案の定、イヤな顔をした。家中、ノミだらけになる、トイレの世話はどうする、病気は……。
 姉が、わたしたちが世話をするから、病院へ連れて行くから、と言って、どうにかそれで決着したのではなかったか。だが、結局、二匹の世話はほとんど母がすることになり、間もなく母も二匹、というより、特にチビのほうを、こんなに賢いネコはいない、と溺愛するようになる。

 ある日、学校から帰ってみると、ドラのほうの姿がなかった。母が言うには、隣の人が戻ってきて、一匹だけ連れて帰ったのだ、という。見ると、隣は完全に引っ越しを済ませたらしく、雨戸も閉まり、表の扉にも、電気メーターの数字を記した紙がくくりつけてあった。

 こうしてドラはあっけなく、別れの挨拶をすることもなく、わたしたちの前から姿を消した。ただ、チビの方は、いつも一緒だったドラがいなくなったことにすぐ気がついたらしく、あちこちを探しているのだった。その探している姿は、ずいぶんあとまで見たような気がする。学校の帰りがけ、家までまだだいぶ距離があるあたりで、よその家の植え込みに頭を突っ込んだり、塀の上をきょろきょろ見回しながら歩いたりしているチビの姿は長く記憶に残った。

 このチビに、誰よりもメロメロになったのは、当初ネコをいやがっていた母だった。
学校から帰って、冷蔵庫を開けてみると、甘エビが入っている。てっきり晩の食卓にあがるもの、と思って楽しみにしていると、豚の生姜焼きだったりする。
「冷蔵庫にあったエビは?」と母に聞いてみると
「あれは、チビの」と涼しい顔をして答えるのだ。

「チビは贅沢だから、エビとか、カニとか、そんなものしか食べやしないんだから」とうれしそうな顔をして言う母を見ながら、カツオ節のおにぎりをガツガツ食べていたところを見ていたわたしは、なんともいえない気がするのだった。

 ただし、チビは、後に家に来たネコたちと較べると、独立独歩、というか、それほど誰のところにも寄っていくということがなかったように思う。ドラをよそへやったわたしたちを許さなかったのだ、などと考えるのは、あまりに擬人化が過ぎるだろう。
 それでもたまに、だれもいない隣の家の、草ぼうぼうになった庭先で、もの思いにふけるような顔をして寝そべっているのを見たときなど、ドラと一緒に過ごした日々を思い起こしているのだろうか、と思わないでもないのだった。

(この項続く)

シャーウッド・アンダーソン 『グロテスクな人々についての本』その2.

2005-06-17 22:35:13 | 翻訳
 年取った作家は、あらゆる人々と同様、長く生きるうちに、それはそれはたくさんの考えを頭に詰め込んできていた。昔は非常にハンサムだったので、多くの女性と浮き名を流したこともある。それからもちろん、人々のことを知っていた、多くの人々を、普通の人間が知っているのとはちがう、奥深くまで踏み込んだ独特の理解の仕方をしていたのだ。少なくとも作家が考えていたのはそのようなことであり、そう考えることは作家の気に入っていた。とまれ、その頭にあることをめぐって老人と言い争って、いったいなんになるというのだ。

 ベッドのなかで、作家は夢うつつの状態でいた。眠くはなっていたのだが、まだ意識はあり、人々の姿がまぶたに現れてくる。作家の内にあるなんとも形容しがたい、みずみずしい何かが、目の前の人々の群れをつぎつぎに追い立てているのだ、と思った。

 この幻影のおもしろいところは、ひとえに作家の眼前を過ぎゆく人々の姿だ。みながみな、グロテスクなのだった。男も女も、かつて作家が知っていた人々がみな、グロテスクになってしまっていた。

 そのグロテスクさ、というのは、等しくおぞましいというわけではない。楽しくなるようなものもおれば、美しいといってかまわない姿もあり、ひとりの女性などは、容姿が崩れて、作家を痛ましい気持ちにさせる。彼女が通り過ぎていくときは、作家は子犬がクンクン鳴くような声を立てた。この部屋に入ってくる者がいたら、老人が悪い夢を見ているか、消化不良でも起こしているのだ、と思ったことだろう。

 グロテスクな人々の行進は、一時間かけて老人の目の前を行き過ぎていった。そうして、ベッドから降りるのはたいそう苦痛だったけれど、なんとかそこから這いだして、書き始めたのだ。グロテスクな姿のひとつに深い印象を受け、なんとかことばにしたいと考えたのである。

 一時間、作家は机に向かった。とうとう一冊の本を書き上げ、それを『グロテスクな人々についての本』と呼ぶことにした。出版されることはなかったが、わたしはかつてそれを読み、ことばにしがたいほどの感銘を受けた。その本の中心的な思想は、大変奇妙なもので、ついぞわたしの心を去ることはなかった。その本を思い起こせば、それまで理解し得なかった人々やものごとが理解できるようになった。その思想というのはひどく込み入ったものなのだが、簡単にまとめてみると、おおよそ次のようになるだろう。

 この世界が始まったばかりのころ、おびただしい思想が存在してはいたが、真実、というようなものはなかった。人間が自分なりの真実というものを作り上げたのだ。真実はどれも、おびただしい、漠然とした思想の寄せ集めだった。 こうして世界中あまねく真実が存在するようになり、そのどれもが美しいのだった。

 老人は、自分の本のなかで、何百もの真実を列挙した。ここでそのすべてをあげるつもりはない。処女性についての真実もあれば、情欲についての真実もあり、富の真実があれば、貧困の真実もある。節約の真実と浪費の真実、無頓着の真実、奔放の真実もあった。何百、さらにもう何百という真実があり、そのどれもが美しい。

 それからある人々がやってきたのだ。ひとりひとりが現れるや、ひとつの真実をつかんだ。極めて強いものたちは、十個以上つかむこともあった。

 その人々をグロテスクにしたのは、そうした真実だった。老人はそのことに関してはたいそう精密な理論をうち立てていた。彼の考えでは、そうしたうちのひとりが、真実を自分のものに取り上げた瞬間、これはわたしのものだ、と宣言した瞬間、そうして、それにもとづいて自分の人生を生きようとした瞬間に、彼はグロテスクな人間になってしまい、彼が抱きしめている真実も、うそっぱちになってしまう、というのである。

 その老人は、生涯にわたって書き続け、ことばでいっぱいになっているような人間であったから、このことについて何百ページも書いただろう、と想像するものがいても不思議ではない。この主題が頭のなかであまりにも膨れ上がり、作家自身がグロテスクとなる危険もあった。だが、彼はそうしなかったのだ、とわたしは思っている。というのも、彼はその本を決して出版しようとはしなかったのだから。老人は、彼の内にあるみずみずしいものによって救われたのである。

わたしが作家のベッドを直した年寄りの大工にふれたのは、わたしたちが「普通の人々」と呼ぶような人々と同様に、その大工も、作家の書いた本に現れるグロテスクな人々のなかで、理解でき、愛することもできる存在に、かぎりなく近いからにほかならない。

(この項終わり)