陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

意思と恩返し

2009-09-30 23:32:28 | 
引き続き、「意思」の話。

あなたは意思が強いですか、と聞かれたら何と答えるだろう。
あのとき自分はああしたから、意思が強いと言えるな。
仮に、こんな情況であれば、自分はどうするだろうか。そういう自分は意思が強いといえるだろうか……。
おそらくわたしたちはそんなとき、過去、実際に自分が取った行動や、起こりうる場面で自分がどうするかを想像して、結論を出すだろう。

では、どういう行動が「意思による」行動なのだろうか。

菊池寛の短篇に「恩を返す話」というものがある。

主人公の甚兵衛は島原の乱で戦った際に、敵の一撃を受けて昏倒してしまう。そのとき彼は、兵法の同門である惣八郎に命を助けられる。

甚兵衛と惣八郎はかねてよりライバルだった。奉納試合で一度、甚兵衛が負け、その雪辱を晴らそうとしても、惣八郎は手合わせを避けていた。そのことから甚兵衛は惣八郎に助けられるくらいなら、殺された方がましだ、と思っていた。

その屈辱はいかにして晴らすことができるだろうか。自分が受けた恩を、返してやればいいのだ。そう考えた甚兵衛は、何とか惣八郎に恩を返そうと、そのことのみを考えるようになる。

ところがその機会は訪れないまま、二十六年が過ぎた。そのとき、藩の家老から甚兵衛に対して惣八郎を討てという命令が下される。上意討ちの命が下されるのは大変な名誉である。そうして、何よりも、彼が待ち望んだ「恩を返す機会」がついに訪れたのである。

どうやれば恩を返すことができるか。
彼はさんざん迷ったあげく、惣八郎に、藩を捨てよ、逃げよ、と手紙を送る。そうして惣八郎の家に向かう。

ところが惣八郎は切腹の用意をして待っており、甚兵衛に介錯を頼むのである。
 甚兵衛は茫然として立ち上り、茫然として刀を振った。
 しかし、打ち落した首を見ていると、憎悪の心がむらむらと湧いた。報恩の最後の機会を、惣八郎のために無残にも踏み躙られたのだと、甚兵衛は思った。

甚兵衛は、主君にも背かず、友人を切腹させることで友人の名誉をも守った、として、たいそう高い評価を周囲から受け、しかも五十石の加増までも受けた。「彼はその五十石を、惣八郎から受けた新しい恩として死ぬまで苦悶の種とした。」という。

菊池寛は、最後に惣八郎の覚え書きを書き添えて、惣八郎の側は、かつて甚兵衛を助けたことなど、恩を施したつもりはまったくなかったことを明らかにする。恩を感じていたのは、甚兵衛の側ばかりだったのである。

さて、ここで「意思」である。
甚兵衛は何とかして恩を返したい、という「意思」を抱いていた。だが、その意思は、行動となって結実したのだろうか? 甚兵衛自身は、恩を返すことができなかった、と死ぬまで苦悶する。だが、現実には彼は行動していたのである。彼の行動は、惣八郎を助けるものだった。周囲はその行動を友情によるものと評価した。甚兵衛は惣八郎の名誉を救うことなどまったく考えていなかったのだが、彼の行動は、そうしたものとして、高い評価を得た。

ここからふたつのことがわかってくる。
ひとつは、意思が行動を起こさせるわけではないということ。そうしてもうひとつは、行動となってあらわれないかぎり、周囲からは意思とみなされないということである。

「わたしは意志が弱い」という人がいる。
そういう人に理由を聞いてみると、勉強しようと思ってもできないし、初めても三日坊主で終わってしまうから、という。
けれども、一週間後に試験があって、仮に60点を取らなければ学校をやめさせる、というのっぴきならない事情があれば、その人は意思の強弱にかかわらず、必死でやることだろう。
なにもそのような条件がなくても、毎日勉強できる人というのは、意思とは別の理由でそれが可能なだけなのである。

意思は、人に何もさせることはない。人に行動を起こさせるのは、その人の周囲がその人にそうさせるからなのだ。

意思と仇討ち

2009-09-29 22:57:57 | 
以前、志望校選択を前にした高校生の男の子が、「まだ自分の人生を決めろ、と言われても、どう考えたらいいかわからない」と言っていた。「十七やそこらで人生が決められるわけがない」とも。

まず、理系にするか文系にするかで、おおざっぱな自分の進路を決める。そこからさらに、大学か、専門学校か。これに回答を出そうと思えば、将来医療方面に進みたい、とか、先生になりたい、とかのおおまかな自分の将来の青写真が必要になってくる。とりあえず大学に行っておけば何とかなる、という同級生もいるが、この就職難、とりあえず大学に行けば、すぐに就活、結局サラリーマンになる、ということと同じだ。それも何だかちがうような気がする、というのである。

かといって、何かやりたいことがあるわけではない。医者になるには成績が良くないし、そこまで熱意はない。先生も大変そうだし、公務員になれたら安泰かな、とも思う。こんな考えしか出てこない自分が、自分でもなんだか情けない。自分の意志というのは、いったいどこにあるのだろう……。

「意思」という言葉を聞いて、わたしが思ったのは、この「意思」というのはいったい何なのだろう、ということだった。

わたしたちは、自分の人生は、自分の意志によって決めることができる、と思っている。ところがこの自分ときたら、自分の意志を自分に問うても、一向にわからないのだ。自分が何がしたいのか、自分に何ができるのか、自分で自分がわからない。そんな自分が情けなく、ふがいなく思えてくる。

なかには、早くから医者になる、弁護士になる、画家になる、音楽家になる、と志望する職業を決め、それに向かって邁進するような子もいる。だが、多くの子は(わたしもそうだったのだが)、そこまで深く考えることなく、もうちょっと先で……と問題を先送りして、さしあたって決めなければならない志望校や学部を、何となく、あるいはエイヤっと決めているような気がする。

つまり、この問いは、真剣に考えれば考えるほど、わからなくなってくるものなのではあるまいか。

ひところ「自分探し」なる言葉を頻繁に耳にした。これも煎じ詰めれば「自分はいったい何がしたいのか」という問いでもあっただろう。当時「自分探し」をした人がほんとうにいたのかどうかは知らないが、「自分」なるものを探した結果、いったい何が見つかったのだろうか。もしほんとうに「自分探し」をした人がいたのなら、その結果を聞いてみたいような気がする。

だが、そのような「意思」など、まるで問題にならないような情況に生まれていたらどうだろう。生まれる前からすでに人生のレールが引かれているような情況である。

たとえば菊池寛の仇討ち小説のひとつに、「ある敵討ちの話」というものがある。(青空文庫ではまだ「作業中」なのだが、個人のサイトで読めるところがあるので、興味のある方はタイトルで検索してみてください)

主人公の八弥は十七歳のときに仇討ちの旅に出ることになる。自分の生まれる前、父親を殺した敵(かたき)を討ち取らなければならない。

なにしろ生まれる前の出来事なのである。八弥はその敵の顔も知らなければ、父親に会ったことさえない。元服するまで母親はそのことを伏せており、さまざまな面で幸せに育った八弥は、相手に対する憎しみもばくぜんとしたものだ。だから「彼は自分が少しも関知しない生前の出来事が自分の生涯を支配して居るという事実を、痛切に感ぜずには居られなかった。」

それでも彼には大きな目的がある。果たすべき目的を前にして「彼は復讐という事に多少の不安が伴ったものの、全体としては、華やかな前途に、多くの勇ましい事と美しい事があるような気がした。復讐という事がどんなに困難であるかは知らぬが然しそれは華やかな、人間としてやり甲斐のある仕事である事は確だと思った。彼の心は自分の仕事に可なり熱狂する事が出来た。」

ところが現実にはそうはいかない。なかなか敵には巡り会えない。讃岐訛りと、ほほのほくろだけをたよりに、日本中を歩き回る。なにしろ敵討ちを果たすまでは国許には帰れないのだ。

四年目のある日、前橋で泊まった八弥は按摩を頼む。揉んでもらいながら、話を交わすうち、その按摩が讃岐の人間、しかも元は武士であることを聞く。見れば、唯一の手がかりであるほくろが相手の頬にある。

八弥は相手の本名を呼び、自分の名を相手に告げる。盲人も「拙者も之で死花が咲き申すわ。」と討たれることを覚悟している様子である。八弥はそこで初めて、生前の父と彼とは友人であったこと、父の名をなつかしげに呼ぶさまを聞く。しかも盲人である。敵愾心を持とうにも、持つことができない。自分を討て、という盲人の言葉に、応えることができないのである。

彼がどうしたか。
菊池寛はその点をあきらかにすることはない。ただ、そこには首のない盲人の死体、どうやら切腹したらしい腹の傷のある死体が残っていた、とするだけである。

八弥は首を下げて帰郷し、加増を得る。だが、やがて浪人して藩を出、江戸に出て剣客としてその名をとどろかしたのが彼であるらしい、と消息を読者に告げたところで、この短篇は終わる。

この短篇は、「自分の意思」というのは、自分が決められるものではない、ということを教えてくれる。自分がこれに対してどのような態度を取るかを迫られる局面は、かならず来る。だが、それは個人が決められることではないのだ、と。八弥の仇討ちは、彼とその「敵」による共同作業として遂行された。そうして藩に首を持ち帰ることで、社会的に意味づけられたのである。

こう考えていくと、「自分の意志」とは、自分に問いかけてみれば、答えが出てくるようなものではない、ということがわかる。「自分の意志」なるものは自分の内部にストックされているのではなく、むしろ周囲との諸関係のなかで決められているものといえる。そのなかで、具体的なやりとりをしていく他者との共同作業によって、作り上げられていくものである、と考えることができないだろうか。

ランチタイムの楽しみ

2009-09-28 22:35:08 | weblog
先日、出先で昼食を取った。行ったことのない場所で、ファーストフードも見当たらない。しょうがないので、目に付いた店に入ることにした。イタリアの国旗が店の前に立てかけてあるのがちょっと不安だったが、入り口の小さな黒板には、Aランチ、Bランチとあって、それぞれ値段が書いてある。わたしが昼食にかけたい金額よりを大幅に上回っていたのだが、たまにはいいか、と思って入ることにした。

ところが扉を押して一歩入るや否や、店構えからは信じられないほどの喧噪が耳に飛び込んできた。一瞬、わたしが開けたのはどこでもドアで、開けた先にあるのは中学の校門、下校時にどっと中学生が吐き出されてきたところか? と思ったほどだ(含嘘)。

それほど広くない店はほぼいっぱい、二十人ほどの客は全員見事なまでに女性である。おっと、ちがった、何人か走り回っている小さな子供たちのなかに男の子がいる。ドアに手をかけたまま、このままきびすを返して外に出ようかと一瞬思った。

そうしなかったのは、バイトとおぼしき店のウェイトレス(そういえば最近はあまりこの言葉も聞かないが、もっとユニセックスなスタッフという呼称の方が好まれるのだろうか)と目がばしっと合ってしまったからだ。彼女はきびきびとした仕草でドアを引いてくれ、お一人様ですか、こちらへどうぞ、とわたしを招じ入れた。わたしは出るタイミングを失ってしまった。

隅の二人がけの席に通される。覚悟を決めて、しばらく辛抱することにした。どうやら団体客というわけではなさそうだ。いずれもカジュアルな格好をした主婦とおぼしき人たちである。いわゆる「ママ友」というのか、三人から四人の仲良しグループのようだ。

それにしてもやかましい。確かに店が狭く、テーブルそれぞれで話をしていれば、隣りの声に混ざらないよう、徐々に話し声は大きくなっていくのかもしれない。店内がやかましいため、自分の話がかき消されないよう、声を張り上げる。その声が店内のやかましさを倍加させている。とはいえ、川をはさんでしゃべっているわけではないのだ。自分の目の前にいる相手に話をするのに、そこまで大きな声を出すものだろうか。耳がわんわんしてきた。耳栓は置いてないかしらん。

もしかしたら、大きな声を出すことで、ストレスを解消させようとしているのかもしれない。ただのおしゃべりにしては、なんだか妙に必死な感じもする。

おそらく、こんなふうに主婦が誘い合わせてランチに出かけるということは、おそらくはそれほど頻繁なことではないのだろう。週に一回か、月に一回かは知らないけれど、その日を楽しみにしてきたのだ。だからこそ、こんなにテンションが高いのだろう。

不意に隣の席の女性の声が耳に飛び込んできた。「このところ手抜きが続いてたから、おいしくておいしくて……。」すると、その向かいにいた人は「そうそう、昼なんかまともに作れへんよね。昨日の昼は卵かけやったわ」「勝った! わたしはふりかけ」そこでどっと笑い声が上がる。

自分以外の人に食べさせるために、せっせせっせとご飯を作る生活を続けていると、自分ひとりの食事となると、フライパンを使う目玉焼きを作ることさえいやになるのだろう。ときには母でもなく、妻でもなく、ひとりの人間として食事に行きたくなる……その気持ちはなんだかとてもよくわかるような気がした。

そうしたときの行き先は、吉野屋やマクドナルドであってはならないのだろう。ちょっと気取った店でも、ランチならたかが知れている。そうやってイベントにして、予定表に書き込むのだ。

それでも「あーちゃんママ」「ゆうちゃんママ」と互いに子供の名前にママをつけて呼び合って、どれだけにぎやかにしゃべり合っても、子供を介在させた人間関係に気を遣いながら話し続ける。なんというか、それはそれでしんどいことのように思えた。

高校時代、ときに母親の作る弁当を、教室でみんなで食べるのがいやで、たまに売店で焼きそばパンと牛乳を買って、空き教室でひとりで本を読みながら食べていた。その静かさと、化学室のなじみのないにおいと、そこから見る普段とちがう空はいいものだった。

いまの主婦にそんなふうな昼食の場所はないものだろうか。
そんなことを思ったのである。


家庭の幸福

2009-09-26 23:19:52 | weblog
太宰治の最晩年の短篇に、「家庭の幸福」というものがある。

この作品はさほど有名なものではないのだが、太宰の言葉「家庭の幸福は諸悪の本(もと)。」という言葉を聞いたことがある人も多いかもしれない。

戦争が終わって、徐々に人びとの生活が落ち着きを取りもどしたころである。太宰の分身とおぼしい小説家の語り手が、寝床でラジオを聞いている。ラジオでは「民衆」と「官僚」が街頭で討論している番組を放送している。

官僚につめよる民衆、それを余裕たっぷりにいなす官僚。それを聞きながら作家は、自分がその場にいたらどう言うだろう、と考える。
「あなたは、さっきから、政府だの、国家だの、さも一大事らしくもったい振って言っていますが、私たちを自殺にみちびくような政府や国家は、さっさと消えたほうがいいんです。誰も惜しいと思やしません。困るのは、あなたたちだけでしょう。何せ、クビになるんだから。何十年かの勤続も水泡に帰するんだから。そうして、あなたの妻子が泣くんだから。」
面罵の言葉があとからあとから出てきて、いよいよ腹を立てながら、やがて眠りにつく。

主人公は官僚になっている。官僚として、自分が出演した討論番組を家族と一緒に聞く。家族は誇らしげな顔で自分の話を聞いている。
家庭の幸福。誰がそれを望まぬ人があろうか。私は、ふざけて言っているのでは無い。家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。最後の勝利かも知れない。
 しかし、それを得るために、彼は私を、口惜し泣きに泣かせた。

官僚の幸福は、人びとの涙の上に成り立っているのではないか。

そののち作家は眠れないままに短篇を構想している。主人公は、官僚から役所勤めの役人に自分の戸籍名である「津島修治」という名前を与える。
役場の戸籍係である「津島修治」は、時間外に出産届を出しに来た妊婦を、けんもほろろに追い返す。幸せな家族の下に、一刻も早く帰りたいからだ。妊婦はそれが原因で玉川上水に飛び込むことになるというのに。
そこから作家はこのような結論に至る。
曰く、家庭の幸福は諸悪の本。

ほどなくこの作中人物と同じ最期を太宰治は迎えることになるのだが、ここで注目しておきたいのは、「家庭の幸福は諸悪の本。」という部分である。この言葉は、短篇の最後にぽつんと置かれている。

いまになってみると、「家庭の幸福は諸悪の本。」という言葉は、ひどくわかりにくいように思う。というのも、この言葉が逆説として成立するためには、「家庭の幸福」に大きな価値が置かれていなければならないからだ。

結婚しない人も増え、家庭の価値が相対的に低下したような昨今である。とくに女性は「家庭の幸福」を求めるより、自活し、社会に参加していくことの方が、はるかに重要である、という考え方の方が一般的になりつつあるのかもしれない。「家庭の幸福」がさほど重んじられなくなったところで、「家庭の幸福は諸悪の本」と言われても、ピンと来ない。

だが、この作品は、貧困が日常的で、その日その日を生きていくのもやっとだった時代のものだ。なんとか子供を飢えさせまいと父は汗を流し、母も頭を下げる。そうやっても幼くして死んでしまう子供たち。なんとか「家庭の幸福」を手に入れようと、人びとは死にものぐるいなのだ。

人びとが官僚を責めたのも、今日のような官僚批判とはおよそ性格がちがうのだろう。太宰が書くように、官僚が家庭の幸福を得るために、わたしたちは(生活のために苦しみの)涙を流すのだ、という実感があったのだろう。

官僚の幸せな家庭の幸福が、多くの人びとの涙の上に成り立っている。つまり、幸福とはエゴイズムのことなのだ、その批判がこの言葉にはこめられている。

家庭の価値が相対的に低下したいま、わたしたちはこのエゴイズムから自由になっているのだろうか。
百年に一度の不況、という言葉が、職を失った人をのぞけばもうひとつピンと来なかったのは、わたしたちの周囲には相変わらずものが豊富にあったこともあるだろう。売り場にはあり余るほどのものがあり、コンビニでは賞味期限が過ぎた食べ物はどんどん捨てられる。そんなものを目の当たりにしながら、「百年に一度の不況」は将来に対する漠然とした不安以上のものにはなりようがないのではあるまいか。

とはいえ、ものがどれだけ豊富にあっても、わたしたちはやはり幸福であるようには感じられない。個々の人びとは、やはり満たされず、幸福は家庭のなかにはありそうもない。

「家庭の幸福は諸悪の本。」
この言葉はいまならさしあたり、「自分の幸福は諸悪の本」とでも言いかえるべきなのだろうか。


"what's new ver.14" 書きました。
お暇なときにでものぞきに来てください。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

サイト

2009-09-24 23:16:23 | weblog
先日までここで連載していたシャーリー・ジャクスンの「ある晴れた日に落花生を持って」を「なんでもない日に落花生を持って」と改題し、手を入れたのち、サイトにアップしました。更新情報はまた明日書きます。

お暇なときにでものぞいてみてください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

ということで、それじゃ、また。

菊池寛『下郎元右衛門―敵討天下茶屋』

2009-09-22 23:07:42 | 
「抽象画はわからない」と言う人がいるが、そういう人に、じゃあ誰ならわかるのか、と聞いてみると、たいていゴッホだとかセザンヌだとかという。けれど、もう少し踏み込んで、たとえばゴッホの何が「わかる」というのか、と聞いてみると、「ひまわり」の絵がひまわりを描いていることが「わか」ったり、テーブルの上の静物がリンゴだったりオレンジだったりするのが「わかる」と言っているだけで、なぜ「ひまわり」なのか、ひまわりのどこを見なければならないのか、背景や花瓶の質感がひまわりとどう関係しているのか、その他もろもろのことをいろいろわかった上で「わかる」と言っている人はそれほど多くないような気がする。そんな具合にじっくりと見るならば、ゴッホだってセザンヌだって、めっぽう難解であることには変わりはないだろう。

小説だっておなじことで、「何が書いてあるかわかる」(つまり、物語の筋が追える)小説がわかりやすく、「何が書いてあるかよくわからない」小説が難解であるかのように受けとられることが多いけれども、実際には何が書いてあるかを理解することと、その小説を理解することはちがうように思う。

わたしが菊池寛を最初に読んだのは小学生のときだった。ストーリーは起承転結がくっきりしているし、テーマ小説といわれるだけあって、「何についての話か」もよくわかる。しかも小学生の目にも、人間の心理というのがよく描かれているように思えて、わたしはそのころ菊池寛とアガサ・クリスティをせっせと読んで、「人間とはこんなものなんだ」と考えていたような気がする。

さすがにアガサ・クリスティには戻らなかったけれども、菊池寛はそれから四半世紀近くを隔てて、またおもしろく読むようになった。小学生のころ読んでいた初期の代表作よりも、いわゆる「大衆小説」に分類される後期の仇討ちものの方がおもしろい。

なかでもわたしが好きなのは、『下郎元右衛門―敵討天下茶屋』である。
これは実際にあった天下茶屋の仇討という事件に材を取った、というより、歌舞伎の演目『敵討天下茶屋聚』を下敷きにした作品である。歌舞伎では端役にあたる元右衛門という人物を、菊池寛は中心に据え、そこから話を作り直しているのだ。

残念ながら青空文庫ではいまだ「作業中」ということなので、少し詳しくあらすじを書いてみる。興味のある人はぜひ『仇討小説全集』を読んでみてください。
「菊池寛『仇討小説全集』」

弥助と元右衛門は兄弟(歌舞伎では元右衛門が兄なのだが、菊池版では元右衛門は弟になっている)そろって林家の中間を勤めている。ところが林家は現在、当主が當麻(たいま)三郎右衛門という武士に殺されたために、断絶の憂き目にあっている。いまの目で見ればなんとも理不尽な話なのだが、仇討ちを果たすまで、家は断絶というのが、当時のしきたりであったようだ。

この仇討ちの主役となるのは林家の嫡男重治郎と次男源次郎。家が断絶されているために、ふたりは浪人で、したがって林家に仕える弥助や元右衛門も、いまでは中間ではない。

中間というのはもちろん武士ではなく、単なる奉公人だから、別に家に縛られているわけではない。別の口があれば、別の家へ移ることも可能だ。だが、主人にあたる重治郎は足が悪くて助太刀なしではとても仇討ちもできそうにないために、代々中間を勤めてきた弥助は、家が断絶されたからといって、重治郎を見捨てるわけにもいかない。

とはいえ、弟の方は年季奉公である。弟の元右衛門こそ、よそに移ってかまわない。だが元右衛門も、兄だけ見捨てて主家を出るわけにはいかない。そこでふたりの兄弟は、わらじを編んだり、ときには自分の布子(いまでいう綿入れ)を質に入れて、主人兄弟の米を買ったりして養っている。

ところが元の主人である林兄弟の方は、元中間たちの苦労に気がつこうともしない。兄の方はほとんど寝たきり、弟の方はそれでも百姓や町人たちを集めて漢文の講義をやっているが、それで授業料を取ってはいるものの、弥助ひとりがわらじを作って売った代金にも及ばない。それどころか、わらを打つ音がやかましいといって、講義のあいだはわらじ作りもしてはならないと申しつける始末である。

弥助・元右衛門兄弟は、敵討ちが首尾良くいけば、林家も家老に返り咲くこともできるし、そうなれば自分たちも士分に取り立てられると考えて、なんとか辛抱を重ねている。ところが仇とねらう當麻三郎右衛門がどこにいるかさえもわからない。仇を捜して三年目にもなると、仇討ちということが、四人に重くのしかかるようになっている。

元右衛門はある日、わらじを問屋に納めた帰り、食事をするつもりで店に入る。ところがその店ではちょうどそのとき賭場が開帳されているところで、元右衛門は店の女に言われるままに、ばくちに手を出すことになった。

ビギナーズラックというのもあるもので、元右衛門は運良く一両ほどを手に入れた。いい気分で家に帰り、兄に渡すと、それもまた元主人たちを養う米に消える。だが、元右衛門は初回の勝利に味を占め、賭場に入り浸るようになる。女とつきあい、酒も飲む。だが、そうなると賭のつきには次第に見放され、それでも負けた分は女が立て替えてくれた。

どうやらこの女はおれに気があるらしい、と思うと、もう家に帰るのがいやになる。女と所帯をもてたらどれだけ幸せであろうか。そんなことを考えていたある日、兄の弥助に問いつめられることになる。兄の方は最初の日に一両持って帰ったときから気がついていたのだ。

問いつめる弥助の声を聞いて、主人である重治郎が声をかけてきた。足の悪い重治郎は、寝床に腹這いになったまま、元右衛門を諭そうとする。
「いろいろ苦労をかけ世話になっている。よく働いてくれる。それは、よく判っている。しかし、元右衛門! 不正なことをした金で、助けて貰おうとまでは思わぬぞ。いいか、わしら兄弟は、尾羽打ち枯しているが、人に恥を受けんだけの用意はある。弥助なり、その方なりが、居なくなるとか病気になるとか、万一の時には、これ――」と、云って、敷蒲団の下から、財布を出した。そして、
「小判で、三十両。これが、武士の嗜みと申すものだ。働ける間は、働いてくれるといい。万一の時には、餓えんだけの用意はしてある――」
元右衛門にしてみれば、これほど腹の立つ話もない。
 元右衛門は、身体中が赤くなる位に、腹立ちと憎みとが、起って来た。
(一通りや、二通りの苦労かい。手にゃ、ひびが入るし、足にゃ、あかぎれが出来るし、昼飯も抜いたり、布子を脱いだり、――それを知っていて三十両も、せめてその中の五両でも出したって、罰も当るまい。出来ん辛抱をしている人間を、さんざん働かせておいて、三十両も、のめのめとかくしている。こちとらを牛か馬とでも思っているのか……)
 元右衛門は、三十両の大金をかくして、一言も話さなかった重治郎の態度に、心から憎悪が起って来た。
重治郎は元右衛門の気持ちなど一向に斟酌することもなく、こんなことまで言うのである。
「金と申すものは、一両出すと、すぐ二両が出る。あると思うと、気がゆるむ。まして、敵を討つ身として、いよいよとなれば、晴の仕度もせねばならぬ。林の家の伜として、先祖の顔を潰すようなことも出来ぬ。わしは、幾度かこの金を出そうと思ったか知れぬ。その度に、いやいやと思って、ひっこめた。源次郎にさえ、この金のことは明してない。可哀そうなと思う,こともあるが、心を鬼にして、今日までか<していた。だが、お前が、不正なことしてまで、金を作るような気になったとすると打ち明けずに居られなくなった。わしの貧乏は、ちゃんと心がけがあっての貧乏だ。お前に不正なことをして貰ってまで、餓を凌ごうとまでは思っていないのだぞ。武士の貧乏は、心得のないそち達下郎の考えるものとは違うぞ。」
その晩、元右衛門は腹が立って眠れない。
(三年越、こちらに養われて来て何の下郎だ。宇喜多の家老の息子と家来なら、それでいいが、浪人して此方の厄介になって居れば、同じ人間同志ではないか。それも弥助のように、親代々の小者ならいいが、わしは給金目当の仲間奉公だ。それだのに、男の意地と情誼で、三年も辛抱してやっているのに。三十両もしまい込んで置いて、下郎不正な金では世話にたりたくないと、何が不正な金だ。俺達を、こんなに不当に働かしながら、貯めて置く金こそ、不正の金ではないか)
隣では弥助がぐっすりと眠っている。重治郎も眠っているらしい。弟の源次郎は留守だ。元右衛門は考える。三十両あれば、女と江戸へ逃げて所帯が持てる……。

ところが重治郎は、実はそんな金など持ってはいなかったのである。わざわざそんなことを元右衛門にいったのは、「金が無いと思うと、人間と云うものは、心細くなって、つい道を踏み外す事もあるが、万一の場合三十両あると思うと、却って安心をして、つらい辛抱も出来るであろう」と考えてのことだった。実は元右衛門に見せた財布には、自分たち兄弟が返り討ちにでもなった場合、回向料としての三両しか入っていなかったのだ。

夜半、重治郎の布団に手がかかる。重治郎は起き直り、坐ったままで刀をふるったが、賊は逃げてしまった。隣の部屋へいくと、自分の脇差しで切られ、息絶えようとしている弥助の姿があり、隣の元右衛門の寝床はもぬけのからだ。重治郎は弥助を介抱しようとしたが、そのまま弥助は息絶えた。

一方、財布を奪った元右衛門は、まっすぐ女の下にかけつける。江戸へ逃げて、所帯を持とう、ここに三十両ある。さしだした財布を女が改めると、そこから出たのは「回向料」と書かれた薄い紙包み。女からは「わしはお前さんの、初心な所が好きだが、惚れるとか夫婦になるとか、それは別だよ。――こんな所にいる女が、一寸のことで、惚れたり、夫婦になったりしちゃ、商売にならないじゃないの。」と言われてしまう。

元右衛門は「腸(はらわた)がねじれるような気がした」。
(どうして、三十両などと、嘘をついたのだろう――弥助が、組みついて来たので、手に持っていた脇差で突いたが――どうしたか、死んで呉れなけりゃいいが。俺は、一体何をしたと云うのだ。――この女は惚れていたいし)

元右衛門は酒を飲んだあげく、店を出る。そこで四、五人の伴(とも)を連れた立派な武士に呼び止められる。なんとそれは當麻三郎右衛門だった。當麻に「林兄弟はどこにいる」と聞かれる。隠すと命はないぞ、と脅され、正直に言えば三十両やろう、とまで言われるのである。三十両あれば、あの女に軽蔑されないですむ、と考えた元右衛門は、當麻三郎右衛門の手引きをすることになる。

かつての主人の家までの道を歩かせられながら元右衛門は考える。
(どうして、俺はこんなひどい悪人になってしまったんだろう。別に、おれは特別悪人に生れついたとは思えないんだが、なぜ俺がこんた大それた男になったんだろう。敵討、貧乏、女、賭変、忠義、人情、そんなものが妙に、こんぐらがってしまったんだ。そして、俺がいつの間にか、こんな悪人になってしまっているんだ。俺は悪人じゃないが)

この短篇は、ここですぱりと切り落としたように終わってしまう。このあとどうなるか、歌舞伎を知っていれば話はわかるが、菊池寛はその先を言わない。読者であるわたしたちも、元右衛門と一緒に、暗い道をひたすら歩き続けるしかないのだ。そもそも自分は悪い人間ではなかったはずなのに、どこで足を踏み外してしまったのだろう、と考えながら。まるで醒めない悪夢のように、この話はどこへも行き着かない。

子供のころに

2009-09-20 23:18:41 | weblog
小学生の頃、福本豊の伝記を読んだことがある。
たぶん本ではなく、学研の「科学」と「学習」という学年向け雑誌の、「学習」のなかの記事のひとつだったような気がする。

小学校三年かそこらに読んだ記事のことを、記憶だけを頼りに書いているので、かなり事実と反することをわたしは書いているにちがいない。くれぐれもあやふやな記憶によるいい加減な記述であることをふまえて、読んでいってほしい。

ともかくそのなかに、子供時代の福本は、家があまり裕福ではなく、野球道具を買ってもらえなかった。そのために、草野球のチームの一員になることができず、外野のさらに外側で球拾いをやっていた。遠くまで飛んだボールが川に落ちたときは、川にざぶざぶ入ってそれを拾った。それでも、遠くに飛べば飛ぶほど、自分が長いことボールにさわることができる。遠くまで投げることができる。そう思って、試合を見ながら、球がこっちに飛んでこい、飛んでこい、と願っていた、というエピソードがあったのだ。

当時ピアノを習っていた、というか、心情的には限りなく「習わされていた」に近いのだが、ともかくわたしはピアノを弾くのが決して楽しくはなかった。毎日毎日何時間も練習しなければならないし、ちょっと手を抜けば、即座に母親の叱責が飛んでくる。レッスンに行けば行ったで、さらに厳しい批評にさらされ、ヘタをすれば手の甲に物差しが飛んできて、手の甲には目盛りの跡がくっきりと刻印される。

もういやでいやでしょうがなくて、そのくせいやいややっていると「音を聞けばいやいややっているのがすぐにわかる」と叱られる。そんなとき、母はいつも「誰もがピアノが弾きたいからといって弾けるわけじゃない」「自分がどれだけ恵まれているか」「弾きたくても弾けない子の分までがんばりなさい」と決まって言うのだった。いまから思えば、「弾きたくても弾けない子」はかつての母で、だからこそ自分の娘にはなんとしても習わせたかったのだろうが、当時はそんなことはわからない。わたしにとっては「弾きたくても弾けない子」というのは想定のはるか外の存在で、母がよく言う「一日練習をさぼれば、三年分後退する」という脅し文句(三日練習したら、わたしは零歳児並みということになるではないか)のようなものだろうと思っていたのだ。

そこへ、福本少年の話である。ボールにさわりたい一心で、外野のまた向こうで球が飛んでくるのを待っている、という話は、ピアノが「弾きたくても弾けない子」と結びついた。ああ、そうなんだ、やっぱりそんな子がいるんだ、と思ったのだった。

それから練習に身が入ったかというと、全然そんなことはなくて、相変わらず、練習なんていやだ、もっと遊びたい、本が読みたい、と思いながら練習をさせられていた。それでも、ピアノを弾きたくても弾けない子と、福本少年のイメージがわたしのなかにはひとつになって、自分のためじゃなくて、その子のために、わたしはがんばらなきゃいけないんだ、といった意識が芽生えていったような気がする。だらだらやってたら、そんな子に申し訳ないじゃないか。

ともかく、わたしは「福本豊」というと、世界の盗塁王でもなんでもなくて、「弾きたくても弾けない子」が、のちにものすごく立派な野球選手になった、という、どこかおかしな理解をずっとしていたのだった。

先日、イチロー選手が「メジャーリーグ初の9年連続200本安打達成」した、という記事を新聞で読んだ。その記事のなかに、彼が小学生時代、自分は絶対プロ野球の選手になる、なぜかというと、こんなに練習しているのだから、ということを作文で書いていた、というエピソードが紹介されていた。

「こんなに練習しているのだから」というのがどれほど練習しているのか、「あんたほど練習をしない子は見たことがない」と毎日叱られながら四時間ほどピアノに向かっていたわたしにはなんとなく想像がついて、胃のあたりが重たくなるような、なんともいえない気分になった。

きっとイチロー少年は、いやいややらされていたわたしとは異なって、みずから進んで、目的意識的に取り組んでいたにちがいない。そうやって日々の努力を積み重ね、成果を着々とあげていくのは、苦しくはあっても、楽しい、満足できる日々だったにちがいない。

けれど、それが外野のその向こうで、ボール、こっちへ来い、こっちへ飛んでこい、と願っていた男の子がボールにふれたときの歓びとは、およそちがうもののように思えるのだ。

近所にも野球やサッカーをやっている小学生たちがいる。本格的にやる子は、小学生のころから、学校や地域をベースにした、誰でも参加できるようなチームではなく、選抜されたチームに所属しているらしい。プロ選手の多くは、高校野球で活躍するどころか、小学生のころからすでに名を知られ、注目されているのかもしれない。

どちらがいいとか悪いとかいうことを言いたいのではない。もし福本少年がいまの時代に生まれていたら、優れた指導者の目に留まり、おそらく小学生のころからそんな選抜チームに所属しているのかもしれない。あるいは逆に、イチロー選手が福本少年の立場であれば、同じ歓びをもって、川に落ちたボールを取りに行ったにちがいない。人は生まれてくる時代や環境を選べないし、人より抜きんでる人は、どのような時代や環境であっても、かならずそこから抜きんでる人になるのだろう。

「メジャーリーグ初の9年連続200本安打達成」したイチロー選手の向こうには、同じように小学生の頃から注目され、練習に練習を積んだけれども、何かが足りなくて、あるいはケガをしたりして、プロになれなかった大勢の元小学生がいたはずだ。

いずれかの段階でイチロー選手と道が分かれた人が、それでも、いまでも白球が弧を描いて飛んでくるのに胸を躍らせ、ボールを歓びをもってふれることができていればいいと思う。そのときの経験が、いまなお野球を愛する気持と結びついていればいい。ほんとうにそうであればいい。


答えがひとつしかない質問

2009-09-19 23:14:00 | weblog
「わたしって~でしょう?」もしくは「おれって××だろう?」という質問が、会話文のなかには存在する。

この「~」や「××」には、ブスだとか頭が悪いとか勉強ができないとか太っているとか足が太いとかスタイルが悪いとか字が汚いとか文章がヘタだとか、とにかく自分に関するネガティヴなことが入る。「わたし」の代わりに「わたしの家」や「ウチの車」、「わたしの彼氏」や「ウチのイヌ」と、自分を中心にして多少範囲が広がることもある。

ネガティヴといっても、たとえば虫歯が痛くてご飯が食べられないとか、水虫で足が痒くてしょうがないとか、借金がどれだけあるとか、単位が足りなくて留年しそうだ、などといった具体的で解決を必要とするような問題が入ることはない。
「わたしっていまアゴが外れてるでしょう?」
という質問があり得ないのは、アゴが外れているかどうかは相手の承認を待つまでもなく、事実だから、わざわざ聞くに及ばない(もちろんアゴが外れているようなときに、そんなことは言えない、ということもあるのだが)。

「わたしって~でしょう?」という文脈で語られるネガティヴなことというのは、そうとも言えるしそうでないとも言えるようなことなのである。「わたしって目が悪いでしょ」というのは、相手に答えを求めている質問ではない(眼科で視力検診をしてくれた検眼士さんに聞くときは質問だろうが)。単なる事実言明に過ぎないが、「わたしってメガネがにあわないでしょ?」というのは、相手に返事を求める質問である。だが質問でありながら、「にあわない」という返事は求められていない。

そうなのだ。この質問がやっかいなのは、実は聞いた相手には、「そんなことないよ」と返事をする以外の選択の余地がないということなのである。

わたしは昔から「わたしってバカでしょ?」と言った子に、「だから勉強しなきゃ駄目じゃん」とついうっかり返事をしてひどい目に遭ったり、「この服、わたしには似合わないでしょ?」と聞かれて「大丈夫」と答えて身も凍りそうな視線を浴びたり、「彼氏ってわたしにはもったいないような人だと思わない?」と聞かれて、「そう思うんなら別れたら?」と答えて「ひどいことを言われた」と泣かれたり、人生においてずいぶんムダな苦労を背負い込んでしまった。これらの質問にはすべて

「そんなことないよ」

と一語で片をつければよかったのである。

ただ、世の中には「そんなことないよ」と否定したくないようなケースも少なからずある、というか、実はそっちの方が多いのかもしれない。そもそも本人が自信がないから、相手に自分の不安をうち消してもらうことを求めて、「わたしのレポート、全然駄目だったでしょ?」と質問しているのだ。自信がまるっきりないわけではない。でも、大丈夫とも思えない。だから「そんなことないよ」の一言がほしい。

だが、それで安心できるんだろうか。
自信がなければ、自信が持てるところまで持っていくしかないのではないか。

もちろん、それができないこともあるだろう。時間が足らなくて、満足できるところまでいかなかったようなとき。自分でも不満足なまま、やっていかなくてはならないとき。
「そんなことないよ」の一言があると、どれだけ心強いか。

だが、自分の不十分な現状を、仮に誰かが認めてくれたとしても、それでその現状がどうにかなるわけではない。その責任は自分にある。だから「そんなことないよ」と他人に言わせることに意味はない。

そもそも「そんなことないよ」と言ってほしいんだろうなあ、と思いながら、その言葉を口にする人は、大なり小なり、内心忸怩たる思いでいるはずだ。
こまったなあ、返事にこまるよ、まったく……。
相手にそんな思いをさせてまで、十分間ほどしか保たないような安心感を手に入れて、いったいどうするというのだ。

「そんなことないよ」という一言がほしくて、「わたしって~でしょう?」と言いそうになったら、その前に、相手の顔がうしろめたそうに変わるところを頭のなかでシミュレーションしてみるといいかもしれない。相手を困らせてまで、自分は安心したいのか。

それなら、駄目なものは駄目と開き直って、いっそはったりでもいい、堂々としていようではないか。少なくとも、答えがひとつしかない質問をして、相手を困らせるよりその方がずっと良くはないか。



愛されない子供

2009-09-17 23:12:42 | weblog
似たような話を続けるが、自殺しようとする子供といって思い出すのは、ジュール・ルナールの『にんじん』である。

いまも『にんじん』は子供向けの全集などに所収されているんだろうか。
『にんじん』というと、「赤毛でそばかすだらけのお母さんから「にんじん」と呼ばれている男の子の物語」と思うのは、読んだことのない人だけだ。確かにそうにはちがいないのだが、そんなことは要約にもなんにもなっていない。

わたしは小学生のときにちょっと読んで、すぐに気持ち悪くなり、最後まで読んだのはおとなになってからだった。読んでしばらく、出口のないような気分になったものだったが、未だにどう読んで良いのかよくわからないところがある。

とにかく、上のふたりの子供を偏愛する母親が、にんじんをすさまじく虐めるのである。たとえばにんじんがおねしょをしたシーツをスプーンでこそげて、それをスープに混ぜて、スプーンをにんじんの口につっこんで、はきだせないよう喉の奥にたらす。そうしてそれを兄と姉にも見せて、一緒に笑う、そんなエピソードがつぎからつぎへと出てくるのだ。

そうしてまたにんじんという子も、しゃこの頭を靴でふみつぶし、もぐらを縊死にたたきつけ、猫の額を銃で撃つ。母親の顔色をうかがい、だまし、なんとか裏をかこうとする。この子がこんなふうになったのも親が悪いからだ、とか、子供というのは残酷なものだ、などとわかったような口をたたこうにも、そうした決まり文句をすりぬけるような、一種の過剰なものがある。その意味で名作なのだろうけれど、子供向けの本ではないような気がする。

さて、このにんじんは、少なくとも三度、自殺を図っている。

一度目は
 事実、にんじんは、水をいれたバケツで自殺を企てる。彼は、勇敢に、鼻と口とを、その中へじっと突っ込んでいるのである。その時、ぴしゃりと、どこからか手が飛んできて、バケツが靴の上へひっくり返る。それで、にんじんは、命を取り止めた。
(ジュール・ルナール『にんじん』岸田 国士訳 岩波文庫)

これはまだ遊びの延長のようなものだ。だが二度目に語られる自殺は、はるかにこれよりシリアスである。
にんじん――「そんなら、もし僕が、自殺しようとしたことがあるっていったら、どうなの?

ルピック氏――おどかすな、やい。

にんじん――嘘じゃないよ。父さん、昨日だって、また、僕あ、首を吊ろうと思ったんだぜ。

「また」と言っているところを見ると、それ以前にも首を吊ろうと思ったにちがいない。だから、少なくとも三度なのである。

この『にんじん』の過酷な情況にくらべると、昨日あげたフィリップの「アリス」は、ずいぶん恵まれている。だが、ともに愛されていないことをふたりは知っている。アリスの場合は、自分が望むほど、という注釈がつくのだが。

弟がまだ母におぶわれているころのことだ。まだうまく回らない舌で、毎日毎日、「ぼくが、うまれたときは?」と聞いていた。母に対して何度も自分が産まれたときがどうだったか、聞くのである。そうして、その話のなかで、たとえば母が「その日は金曜日で」であるとか、「朝の十一時」だとかのディテールがたったひとつでも欠けるようなことがあれば、自分から「あさだった?」と聞いて、その部分を母の口から言わせる。いつもいつも完璧に同じ話でなければ気が済まないのだった。

わたしはそれを横で聞きながら、おなじ事ばっかり何で聞くのだろう、と不思議でならなかったのだが、いま思うに、そうやって「自分の始まり」を確認していたのだろう。

自分で自分の始まりがわからないというのは、確かに不安なものではないか。
わたしたちはしばしば「これはいつから始まったのだろう」と振り返って確かめないではいられない。いつのまにかある集団に属していて、いつのまにかみんなと顔見知りになっているようなときでも、「いまうまくやっているのだからそれでいいじゃないか」とはなかなか思えない。始まりが定かでないと、「いま自分が確かにここにいる」ということすらも揺らぐように思えるのではあるまいか。

そうして「自分の始まり」を確かめるということは、同時に、自分が望まれて生まれてきたことの確認でもある。弟がしつこく要求した話のなかにも、父が何を言い、母が何を言い、姉が何を言ったかが含まれていた。自分はその始まりから愛されていたこと、世界の中心として生まれてきたのだということを、何度でも周囲の口から聞くことで確認したかったにちがいない。

にんじんにはこの確信を持つことはできなかった。アリスもまた、世界の中心の座を小さな弟に奪われることで、確信を失ってしまった。

大人になれば、「一番」以外の関係がありうることも理解できる。時間の流れのなかで、関係が深まったり、遠ざかったり、優先順位が変わっていったりすることも理解できる。つまり、言葉を知ることで、世界の切り分け方が多面的・重層的になっていくのだ。

子供は大人より単純なわけではない。だが、ほんの少しのボキャブラリしか持たない。そのために子供の世界は、混沌を余儀なくされる。「知っていること」と「知っていること」を結びつけた結果、大人には予想もつかない結論を出すことになる。

子供の自殺というのは衝撃的で、大々的に取り上げられることが多いけれど、もしかしたら子供の自殺というのは、あれぐらいですんでいるのが不思議なくらいのことなのかもしれない。