近所に小さなお寺がある。
入り組んだ、昔はあぜ道だったにちがいない、くねくねとした細い道を入っていくと、やがて大きなクスノキにでくわす。樹齢二百年、と立て札が出ているのだが、木そのものは高い塀の内側に生えているために、上の方しか見ることはできない。その高い塀がお寺で、それほど広くはないらしいお寺の、ちょうどその塀が切れたところから、くねくねした道は、これまた細い、一方通行の道と合流する。ところがこの道は渋滞抜け道マップに載っているらしく、そこからは自動車が引きも切らない。道の端を通っていても、ええい、邪魔邪魔、とばかりにクラクションを鳴らされたりする。
わたしがそこを通るのは、さまざまな事情で一週間に一度なのだけれど、そこを通るたびに楽しみにしていることがある。
そのお寺の門の横に掲示板があって、白い和紙に毛筆で「今週のことば」が出ているのである。
「今週」とあるが、必ずしも毎週新しくなっているわけではなく、一ヶ月近く同じものが出ていたかと思うと、頻繁に別のものに変わっていたりする。こういうのも「更新」と呼んでしまって、いいものなのだろうか。
書いてある内容は、「わたしが、わたしになる」とか、「かけがえのない、いのち」とか、間に読点を入れるのは、おそらくそこのご住職の好みなんだろう、わたしがこれまで目にした限り、いつもひらがなで読点入りだ。文言は、例の「みつを」というサインが入っているあれみたいだけれど、あんなふうに崩した字ではなく、几帳面な楷書で書かれている。どっしりと整った字は、見ていて楽しい。といっても自転車を降りて鑑賞するわけではなく、通りすがりに目に留めるだけなのだけれど。
習字というのは、小学校、中学校と授業で教わったこともあるけれど、あまり良い思い出はない。だいたい、半紙や硯、筆や文鎮が入った習字の道具を、普段の荷物にプラスして持っていくのは大変だったし、実際、雨でも降った日には、目も当てられないことになった(だいたいわたしは未だに傘をさすのがヘタクソで、雨の中を歩くとどういうわけかずぶ濡れになってしまい、人から「傘、持ってなかったの?」と聞かれる羽目になる。
筆を使うのもむずかしく、肘が下りている、とよく先生から注意された。自分の肘に意識が向いてしまうと、手の先がお留守になる。指に力を入れると、肘を忘れて、下がり、また叱られる。とにかく体勢がつかめず、不自然なところに力を入れているために、すぐ、息苦しくなった。習字というのは、身体全体が痛くなるものだと思った。
中学のとき、後ろの席の子が、墨汁がしみこんだ筆を、うっかりわたしの制服のブラウスの袖口に押しつけてしまったこともある。それからあと、その日は一日中、なんでこんなに気分が塞ぐんだろう、と思うほど、憂鬱になった。
家へ帰って母に告げると、いろいろ試したらしい母は、「昔の人の知恵っていうのは、たいしたもんね。ごはんつぶできれいにとれたわ」と言って、きれいになったブラウスを見せてくれた。何がそんなに気を塞がせたのだろう、と思うぐらいあっさりと、かすかに一部分、グレーの丸が残るだけの、白く戻ったブラウスを見ていると、気持ちはすうっと晴れた。
毛筆の字も、お世辞にもうまいとは言えず、普段はマンガ字しか書かないクラスメートが、うってかわってどっしりした重厚な字を書くのを、信じられないような思いで見るだけだった。
普段の硬筆でも字が下手、というコンプレックスはあったのだけれど、それが抜きがたいものになったのは、おそらくこの書道の授業のたまものである。
ところで、つい先日、新聞のニュースで、作家の村上春樹の自筆原稿がオークションに出された、というものを読んだ。その背景には、オークションに出した編集者と村上春樹との軋轢みたいなものがあったようだが、わたしが思ったのは、こういう字を書くんだ、ということだった。
これも一種のマンガ字というのか、小さく丸まった、およそしかるべき年代の男性の字とは思いがたい字である。
ふと、作家に悪意があったらしい編集者が、こいつはこんな字を書くのだ、と、晒しものにしたいような思いがあったのではないか、と思った。
書いた側は、そんなことなどおよそ脳裏をよぎったこともなかっただろう。そこまで、字そのものには何の意識も向かっていない字だった。
字は、人を表さない。
それは確かだ。
けれども、あらゆる作品は、絵であれ、音楽であれ、文章であれ、少なからず機械が介在するはずの写真であれ、作り手の一部がそこに注入されたものであることを考えると、たとえ意識が向かっていなくても、書きつけられた字は、まぎれもなくその人のある部分を反映する。
こういう字を書こう、という意識を持っている人の字は、一種のまとまりがあるし、指向性を持っている。
その指向性がまったくない人もいる。
それはいい、悪いということとは関係がないことだ。
字を書く経験がどんどん減っているなかで、筆を持って、習字をやってみたい、という気持ちが、わたしのなかにある。
いまのあわただしい生活の中で、そんな余裕などないのだけれど、筆で、書を書いてみたい、と思う。あのころよりは、身体も思うように扱えるのではないか、と思うのである。
書をなさっている方、
どうか、わたしに教えてください。
入り組んだ、昔はあぜ道だったにちがいない、くねくねとした細い道を入っていくと、やがて大きなクスノキにでくわす。樹齢二百年、と立て札が出ているのだが、木そのものは高い塀の内側に生えているために、上の方しか見ることはできない。その高い塀がお寺で、それほど広くはないらしいお寺の、ちょうどその塀が切れたところから、くねくねした道は、これまた細い、一方通行の道と合流する。ところがこの道は渋滞抜け道マップに載っているらしく、そこからは自動車が引きも切らない。道の端を通っていても、ええい、邪魔邪魔、とばかりにクラクションを鳴らされたりする。
わたしがそこを通るのは、さまざまな事情で一週間に一度なのだけれど、そこを通るたびに楽しみにしていることがある。
そのお寺の門の横に掲示板があって、白い和紙に毛筆で「今週のことば」が出ているのである。
「今週」とあるが、必ずしも毎週新しくなっているわけではなく、一ヶ月近く同じものが出ていたかと思うと、頻繁に別のものに変わっていたりする。こういうのも「更新」と呼んでしまって、いいものなのだろうか。
書いてある内容は、「わたしが、わたしになる」とか、「かけがえのない、いのち」とか、間に読点を入れるのは、おそらくそこのご住職の好みなんだろう、わたしがこれまで目にした限り、いつもひらがなで読点入りだ。文言は、例の「みつを」というサインが入っているあれみたいだけれど、あんなふうに崩した字ではなく、几帳面な楷書で書かれている。どっしりと整った字は、見ていて楽しい。といっても自転車を降りて鑑賞するわけではなく、通りすがりに目に留めるだけなのだけれど。
習字というのは、小学校、中学校と授業で教わったこともあるけれど、あまり良い思い出はない。だいたい、半紙や硯、筆や文鎮が入った習字の道具を、普段の荷物にプラスして持っていくのは大変だったし、実際、雨でも降った日には、目も当てられないことになった(だいたいわたしは未だに傘をさすのがヘタクソで、雨の中を歩くとどういうわけかずぶ濡れになってしまい、人から「傘、持ってなかったの?」と聞かれる羽目になる。
筆を使うのもむずかしく、肘が下りている、とよく先生から注意された。自分の肘に意識が向いてしまうと、手の先がお留守になる。指に力を入れると、肘を忘れて、下がり、また叱られる。とにかく体勢がつかめず、不自然なところに力を入れているために、すぐ、息苦しくなった。習字というのは、身体全体が痛くなるものだと思った。
中学のとき、後ろの席の子が、墨汁がしみこんだ筆を、うっかりわたしの制服のブラウスの袖口に押しつけてしまったこともある。それからあと、その日は一日中、なんでこんなに気分が塞ぐんだろう、と思うほど、憂鬱になった。
家へ帰って母に告げると、いろいろ試したらしい母は、「昔の人の知恵っていうのは、たいしたもんね。ごはんつぶできれいにとれたわ」と言って、きれいになったブラウスを見せてくれた。何がそんなに気を塞がせたのだろう、と思うぐらいあっさりと、かすかに一部分、グレーの丸が残るだけの、白く戻ったブラウスを見ていると、気持ちはすうっと晴れた。
毛筆の字も、お世辞にもうまいとは言えず、普段はマンガ字しか書かないクラスメートが、うってかわってどっしりした重厚な字を書くのを、信じられないような思いで見るだけだった。
普段の硬筆でも字が下手、というコンプレックスはあったのだけれど、それが抜きがたいものになったのは、おそらくこの書道の授業のたまものである。
ところで、つい先日、新聞のニュースで、作家の村上春樹の自筆原稿がオークションに出された、というものを読んだ。その背景には、オークションに出した編集者と村上春樹との軋轢みたいなものがあったようだが、わたしが思ったのは、こういう字を書くんだ、ということだった。
これも一種のマンガ字というのか、小さく丸まった、およそしかるべき年代の男性の字とは思いがたい字である。
ふと、作家に悪意があったらしい編集者が、こいつはこんな字を書くのだ、と、晒しものにしたいような思いがあったのではないか、と思った。
書いた側は、そんなことなどおよそ脳裏をよぎったこともなかっただろう。そこまで、字そのものには何の意識も向かっていない字だった。
字は、人を表さない。
それは確かだ。
けれども、あらゆる作品は、絵であれ、音楽であれ、文章であれ、少なからず機械が介在するはずの写真であれ、作り手の一部がそこに注入されたものであることを考えると、たとえ意識が向かっていなくても、書きつけられた字は、まぎれもなくその人のある部分を反映する。
こういう字を書こう、という意識を持っている人の字は、一種のまとまりがあるし、指向性を持っている。
その指向性がまったくない人もいる。
それはいい、悪いということとは関係がないことだ。
字を書く経験がどんどん減っているなかで、筆を持って、習字をやってみたい、という気持ちが、わたしのなかにある。
いまのあわただしい生活の中で、そんな余裕などないのだけれど、筆で、書を書いてみたい、と思う。あのころよりは、身体も思うように扱えるのではないか、と思うのである。
書をなさっている方、
どうか、わたしに教えてください。