その5.
だからミセス・ヘイスティングスも、夫に向かっては、すばらしいことだわ、とか、わたしも鼻が高いわ、とか、孫たちにはきっと一生忘れられない思い出になりますよ、などと言わないわけにはいかなかった。
だがそのころは、あのひとも昔からの手慣れた品目を上演するにちがいない、と考えていたのだ。それなら大丈夫だと。観客も夫の外見や、フレデリックの父親であることをかんがみて、おそらくは夫を愛してくれるだろう。
ミセス・ヘイスティングスは夫のスーツに自分でアイロンをかけた。何週間も前から。練習のつもりで何度となくかけた。それから手持ちの服の中から、夫を讃えるのにもっともふさわしい一枚を探した。結局、一番飾り気のないドレス、黒いコットンの半袖のドレスを選んだ。いかにも年寄り向けのデザインではあったが、一切の装飾を斥け、自分が高い地位にあることをわきまえた、歳を重ねた女性にふさわしいドレスだった。長い髪は銀色のリボンで束ねることにした。
だが、数週間ほどが過ぎたころから、ミセス・ヘイスティングスは徐々に落ち着きを失っていった。水がじわじわと漏れていくように胸の内の暖かみが失せていき、ちょうど洞穴に入ったときのような、冷え冷えとした空気がそこを満たしていった。夫がやろうとしていたのは、前々からやってきたような、目をつぶってもできるような手品ではない。もっと新しい、複雑なものをやろうとしている。夫が出してくれという小物から、そのことがわかった。ひもではなくリボンを、木綿のハンカチーフではなくてスカーフを。
いままでのように、本番前に妻の前で演じたときも、ミスター・ヘイスティングスの手つきはぎこちなく、いろんなものを落とした。見えないせいで、手順通りにいかないのだ。だけどあのひと、ときどき、失敗したことさえ気がついてない……。トランプの札はしばしばちがうものだったし、スカーフの色もまちがっていた。そうした夫の滑稽で、いかにも老人らしい姿を見ていると、ミセス・ヘイスティングスの体中の生気という生気が喉のあたりに集まってきて、平たいかたまりになるような気がするのだった。
だが、夫には言わなかった。どうしてもそんなことはできなかった。あのひとには言えない。あなたの人生の最高の時は終わってしまったのよ。あなたはひとりの老人なのよ、などとは。
もっと簡単なものをやってはどうかしら、と言うことさえできなかった。そんなことはできない。そんなことはこれまで、一度も言ったことはなかったから。夫が何をしようとしているのかも、彼女にはわかっていたから。夫は滑稽に見える危険を押してまで、観客からありったけの驚きと、いまだかつてないほどの愛を得ようとしているのだ。
その前夜、ミセス・ヘイスティングスは眠ることができなかった。夫のいとおしい、白い身体を見つめていた。白くなった胸毛の生えた胸は、結婚当時の若者のまま、広く、たくましかった。翌日、ミセス・ヘイスティングスは熱湯を指にかけてしまい、包帯を巻いて見に行かなければならなくなった。フレデリックはそれを見て、いらだたしげに言った。
「お母さんもわざわざ今日、そんなことしなくてもいいのに」
(この項つづく)
だからミセス・ヘイスティングスも、夫に向かっては、すばらしいことだわ、とか、わたしも鼻が高いわ、とか、孫たちにはきっと一生忘れられない思い出になりますよ、などと言わないわけにはいかなかった。
だがそのころは、あのひとも昔からの手慣れた品目を上演するにちがいない、と考えていたのだ。それなら大丈夫だと。観客も夫の外見や、フレデリックの父親であることをかんがみて、おそらくは夫を愛してくれるだろう。
ミセス・ヘイスティングスは夫のスーツに自分でアイロンをかけた。何週間も前から。練習のつもりで何度となくかけた。それから手持ちの服の中から、夫を讃えるのにもっともふさわしい一枚を探した。結局、一番飾り気のないドレス、黒いコットンの半袖のドレスを選んだ。いかにも年寄り向けのデザインではあったが、一切の装飾を斥け、自分が高い地位にあることをわきまえた、歳を重ねた女性にふさわしいドレスだった。長い髪は銀色のリボンで束ねることにした。
だが、数週間ほどが過ぎたころから、ミセス・ヘイスティングスは徐々に落ち着きを失っていった。水がじわじわと漏れていくように胸の内の暖かみが失せていき、ちょうど洞穴に入ったときのような、冷え冷えとした空気がそこを満たしていった。夫がやろうとしていたのは、前々からやってきたような、目をつぶってもできるような手品ではない。もっと新しい、複雑なものをやろうとしている。夫が出してくれという小物から、そのことがわかった。ひもではなくリボンを、木綿のハンカチーフではなくてスカーフを。
いままでのように、本番前に妻の前で演じたときも、ミスター・ヘイスティングスの手つきはぎこちなく、いろんなものを落とした。見えないせいで、手順通りにいかないのだ。だけどあのひと、ときどき、失敗したことさえ気がついてない……。トランプの札はしばしばちがうものだったし、スカーフの色もまちがっていた。そうした夫の滑稽で、いかにも老人らしい姿を見ていると、ミセス・ヘイスティングスの体中の生気という生気が喉のあたりに集まってきて、平たいかたまりになるような気がするのだった。
だが、夫には言わなかった。どうしてもそんなことはできなかった。あのひとには言えない。あなたの人生の最高の時は終わってしまったのよ。あなたはひとりの老人なのよ、などとは。
もっと簡単なものをやってはどうかしら、と言うことさえできなかった。そんなことはできない。そんなことはこれまで、一度も言ったことはなかったから。夫が何をしようとしているのかも、彼女にはわかっていたから。夫は滑稽に見える危険を押してまで、観客からありったけの驚きと、いまだかつてないほどの愛を得ようとしているのだ。
その前夜、ミセス・ヘイスティングスは眠ることができなかった。夫のいとおしい、白い身体を見つめていた。白くなった胸毛の生えた胸は、結婚当時の若者のまま、広く、たくましかった。翌日、ミセス・ヘイスティングスは熱湯を指にかけてしまい、包帯を巻いて見に行かなければならなくなった。フレデリックはそれを見て、いらだたしげに言った。
「お母さんもわざわざ今日、そんなことしなくてもいいのに」
(この項つづく)