陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

メアリー・ゴードン「手品師の妻」その5.

2011-01-31 22:49:10 | 翻訳
その5.


 だからミセス・ヘイスティングスも、夫に向かっては、すばらしいことだわ、とか、わたしも鼻が高いわ、とか、孫たちにはきっと一生忘れられない思い出になりますよ、などと言わないわけにはいかなかった。

だがそのころは、あのひとも昔からの手慣れた品目を上演するにちがいない、と考えていたのだ。それなら大丈夫だと。観客も夫の外見や、フレデリックの父親であることをかんがみて、おそらくは夫を愛してくれるだろう。

ミセス・ヘイスティングスは夫のスーツに自分でアイロンをかけた。何週間も前から。練習のつもりで何度となくかけた。それから手持ちの服の中から、夫を讃えるのにもっともふさわしい一枚を探した。結局、一番飾り気のないドレス、黒いコットンの半袖のドレスを選んだ。いかにも年寄り向けのデザインではあったが、一切の装飾を斥け、自分が高い地位にあることをわきまえた、歳を重ねた女性にふさわしいドレスだった。長い髪は銀色のリボンで束ねることにした。

 だが、数週間ほどが過ぎたころから、ミセス・ヘイスティングスは徐々に落ち着きを失っていった。水がじわじわと漏れていくように胸の内の暖かみが失せていき、ちょうど洞穴に入ったときのような、冷え冷えとした空気がそこを満たしていった。夫がやろうとしていたのは、前々からやってきたような、目をつぶってもできるような手品ではない。もっと新しい、複雑なものをやろうとしている。夫が出してくれという小物から、そのことがわかった。ひもではなくリボンを、木綿のハンカチーフではなくてスカーフを。

いままでのように、本番前に妻の前で演じたときも、ミスター・ヘイスティングスの手つきはぎこちなく、いろんなものを落とした。見えないせいで、手順通りにいかないのだ。だけどあのひと、ときどき、失敗したことさえ気がついてない……。トランプの札はしばしばちがうものだったし、スカーフの色もまちがっていた。そうした夫の滑稽で、いかにも老人らしい姿を見ていると、ミセス・ヘイスティングスの体中の生気という生気が喉のあたりに集まってきて、平たいかたまりになるような気がするのだった。

だが、夫には言わなかった。どうしてもそんなことはできなかった。あのひとには言えない。あなたの人生の最高の時は終わってしまったのよ。あなたはひとりの老人なのよ、などとは。

もっと簡単なものをやってはどうかしら、と言うことさえできなかった。そんなことはできない。そんなことはこれまで、一度も言ったことはなかったから。夫が何をしようとしているのかも、彼女にはわかっていたから。夫は滑稽に見える危険を押してまで、観客からありったけの驚きと、いまだかつてないほどの愛を得ようとしているのだ。

 その前夜、ミセス・ヘイスティングスは眠ることができなかった。夫のいとおしい、白い身体を見つめていた。白くなった胸毛の生えた胸は、結婚当時の若者のまま、広く、たくましかった。翌日、ミセス・ヘイスティングスは熱湯を指にかけてしまい、包帯を巻いて見に行かなければならなくなった。フレデリックはそれを見て、いらだたしげに言った。
「お母さんもわざわざ今日、そんなことしなくてもいいのに」





(この項つづく)



メアリー・ゴードン「手品師の妻」その4.

2011-01-30 22:33:16 | 翻訳
その4.

 ミセス・ヘイスティングスは、夫がものを奇妙な具合に、たとえば新聞をずいぶんおかしな角度で持っていることに気がつくようになった。最近では地下室でかんしゃくを起こして鼻を鳴らし、職場でならこれまでにも口にしたことはあったかもしれないが、家の中では聞いたこともなかった言葉で毒づくのを、たびたび耳にするようになった。

なにより悪いのは、ものを落とす音が何度となく聞こえてくることだった。夫がほうきやちりとりを探しに来ても、ミセス・ヘイスティングスはいつも縫い物にかがみこんだり、本を読んでいるふりをした。

 医者は、進行をくい止めることはできません、と言った。事実、時とともに夫のできないことはふえていった。だが驚いたのは、夫が決して腹を立てたりしないことだった。わたしだったら、絶対に腹が立ってしょうがないのに。夫は自分にできることがひとつずつ失われていくことを受け入れるのだった。ちょうど食事が終わるのを受け入れるように。

ついにある晩、ミスター・ヘイスティングスは妻に言った。
「いまはきみがぼくのたったひとりのお客さんだ。コウモリみたいに何も見えなくなっちまったからね。失明同然の手品師なんて、世間じゃ誰も相手にしてくれやしないのさ」

 わたしは、あのひとがわたしだけを相手に、リビングで手品をやってみせてくれた方がうれしいのだろうか。それとも観客席にすわって、思いもかけないところから、いろんなものを取り出すのを目を丸くしている大勢の観客の顔を眺める方が好きなのだろうか。

たいていは、びっくり仰天している顔や、うらやましげな顔を眺める方が好きだ、と思うのだった。そちらを好ましく思うのは、もともと自分がそういう人間だからなのだろう。彼女は夫のように、根っから良い人間ではなかった。ミスター・ヘイスティングスという人は、妻が五百回見ても決して見飽きることのない手品をやったあとで、妻の手を取り、「いまのは君だけのためにやったんだよ」というひとだった。ほとんど何も見えなくなったいまの自分の目を、妻への贈り物に、自分が吹いて磨いた完全なガラス細工に変えてみせるひとだった。

 * * *

 七月四日にそんなことをするだなんて、何もかもフレデリックが悪いんだわ、とミセス・ヘイスティングスは思った。そもそも言い出したのは孫たちであることも十分に理解していたのだが。

夫はときどき孫たちを連れて地下室に降り、手品道具を見せてやっていた。そんな折りには、初心者同然だったころの、いまとなっては目を閉じたままでできるような手品を披露してやることもあったのだ。孫が手品にも、夫その人にも夢中になるだろうことは、ミセス・ヘイスティングスにとって想像に難くないことだった。なにしろ優しくて、秘密の技をあとからあとから繰り出す完全無欠のお祖父ちゃんである。孫たちが見せびらかしたくなるのも当たり前だ。こんなお祖父さんはどこを探してもいないのだから。

理解できないのは、フレデリックが子供たちのばかげた思いつきに同意したことである。どんなときでも分別臭いのが、フレデリック最大の長所ではなかったのか。いったいどうして自分に一言の相談もなく、父親にあんなことをさせようとするのだろう。

 孫が結束してお祖父ちゃんを見せびらかそうとした。ぼくのおじいちゃんは手品師なんだよ、と友だちに教えてやるために、七月四日の独立記念日、町の見本市でマジック・ショーをやってよ、とせがんだのである。あげくのはてにフレデリックまでそれに加わったのだ。

 最初はミセス・ヘイスティングスも、それを話す夫の顔を見ながら、それもいいだろう、と思っていた。というのも、どうして夫がそんな顔をするのかわかっていたからである。夫の目の前にひろがるのは、身内ではない人びとがあっと驚く顔だった。いまや自分からは失われ、何も埋め合わせることができないもの。妻でさえ、差し出すことはできないものだった。リビングにすわってたったひとりの観客となり、誇らしさで胸を一杯にしていようと、どれほど愛していようと、自分はもう何度も見て、すべてを知っていた。




(この項つづく)


メアリー・ゴードン「手品師の妻」その3.

2011-01-28 23:40:59 | 翻訳
その3.

 どうして寂しいなどということがあろう。台所にいるときでも、地下室で箱やトランプ、リボンなどを相手に、手品の練習を繰りかえしていることを知っているのだから。ミセス・ヘイスティングスには手に取るようにわかっていた。愛する男が、たったひとり、自分には見えない場所で、何度も何度も練習をしている。自分があっと驚くだけではない。自分たちのことを知っている人間が誰もみな、肝をつぶすような手品だ。キッチンで一緒に食卓に着いて、お金のことや食べるもののこと、誰がいつ何を着ていたなどという会話を交わす方がいいなどということがあるだろうか。

ミセス・ヘイスティングスはもうずっと、夫がたいして好きでもない修理工の仕事を続けてくれているのは、人柄が立派で、思いやりのある性格だからこそだ、と考えていた。夫は、もう仕事なんかやめてしまって、手品一本でいこうか、と、ごくたまに言うこともあった。そのたびに彼女の胸の内で不安の小さな火がともる。あたかも誰かが肋骨の奥でマッチをすったかのように。けれども口に出す言葉は決まっていた。
「あなたはなんでもやりたいことをしてちょうだい。わたしはついていくから」
そうは言っても、彼女が本当に願っていたのは、昼間はよその夫と同じように仕事に出かけ、夜の自分の時間に手品をやって過ごすことだったのだが。

彼は意気揚々と階段を上がってきて、毎晩、妻を求めた。なにしろきみは世界で一番、とびきりすてきな奥さんだから、と言うのだ。彼女もまた夫を求めた。自分の幸運が信じられなくて。夫にくらべたら、自分なんてどこにでもいる、とるに足らない人間だと知っていたから。



 歳月は流れ、ヘイスティングス夫妻もほかの人びとと同様、歳を重ねたが、彼女だけはほかの人とはいくぶん異なっていた。彼女の日々には、誕生や加齢、子供たちに関連する式の数々だけでなく、夫の技術の向上もまた織り込まれていたのだ。たとえば1946年というと、ミスター・ヘイスティングが卵とロープを手放し、スカーフとコインに取り組むようになった年だった。

仕事からの引退も、夫からすればいささかも怖れるものではなかった。ほかの男たちのようにぶらぶらしたり、一時間でできる雑用に一週間かけるような真似をすることもない。ミセス・ヘイスティングスもほかの女のように「そばでうろうろしないで、って言ってもムリなの。自分が何をすればいいんだか、わかっちゃいないのよ」と方々で愚痴をこぼすこともなかった。子供たちの母親であることを決して愛さなかった彼女は、そのぶん、引退した夫の妻であることを愛したのだった。

夫が地下室を端から端まで大股で歩いていく足音を聞くのが好きだった。夫がじっと立ち止まっている「音」に耳を傾けるひとときさえ愛していた。夫が集中しているのが、地下室の天井を通して聞こえてくるように、眼に見える熱の波として床板を立ち上ってくるように思えたのである。

彼女は決して、どういうことがあっても決して、夫の邪魔をすることはなかった。だが、練習が終わる瞬間は、かならずわかるのだ。やがて階段を上がってくる足音が聞こえ、声が聞こえる。
「ビールはあるかな?」
そうして彼女もそれに応える。「ちゃんと用意してあるわよ」
そのときが、彼女の人生のなかで、もっとも幸福な時期だった。夫が早くに退職した、その後の数年間が。



 やがて夫の視力が衰え始めた。最初のうちは、霧がかかったような瞳は、かえって美しく見えたほどだった。なんだかまるで、と彼女はひとりごとを言った。まるで夜が明けたばかりの湖みたい。目が休まるからという医者のすすめで、夫は分厚い、ピンクがかったレンズのメガネをかけるようになった。ほかの男がかけたら、ばかみたいに見えるようなメガネも、あかぬけて姿勢の良い夫にはよく似合った。その歳になっても、夫の外見は、ほかの女たちがミセス・ヘイスティングスをうらやましがるほどで、夕刻、一緒に散歩していると、女たちが自分を見るそのまなざしから、自分が妬まれていることをありありと感じるのだった。




(この項つづく)



メアリー・ゴードン「手品師の妻」その2.

2011-01-27 23:25:23 | 翻訳
その2.

 ミスター・ヘイスティングスは、一度ルーズベルト家の前で手品を披露したことがある。それは1935年のこと。ルーズベルト大統領の孫のひとりがはしかに罹り、その回復期の出来事だった。

おぼっちゃまはたいそう退屈しておられるのですが、お気を紛らわせるようなものがございません、と召使いのひとりが伝えにきた。その召使いは、ラインバック郡品評会の余興に登場したミスター・ヘイスティングスを見ていたのだ。

その晩の悪天候のことは、ミセス・ヘイスティングスもよく覚えている。雷が鳴り響き稲妻が光って、電灯がついたり消えたりしていた。電話が鳴り、女性の声で、もしさしつかえなければ、ハイドパークにお越しいただいて、病気の子供のためにちょっとした手品を見せていただけないでしょうか、と告げたときは、何かの冗談にちがいないとみんな思ったものだった。夫も子供もしばらく本気にはしてくれなかった。そりゃね、うちのひとなら大統領の前で余興をしたってちっとも不思議じゃないわ。車が、それも制服姿のお抱え運転手つきの大きな黒い車があのひとを迎えに来たって、全然おかしくない。

ミセス・ヘイスティングスにとって、運転手と話している夫の姿は、決して忘れられるものではなかったろう。あのひとったら、まるで召使いにあれこれ指図しながら大きくなったみたいじゃないの、と思ったのだ。交わした言葉も、すべて覚えていた。夫は制服を着た運転手に目をやるでもなく、自分の足下に目を落とすわけでもなく、まっすぐ前を見ながら、こう言ったのだ。
「家内を連れて行ってもかまいませんか」

すると運転手は答えた。「どうぞご随意になさってください」
そう言って、ドアを開けてくれたのだ。夫のものおじしないところがよく現れていた。妻がフランクリン・ルーズベルトとエリノアとに会うことができるよう、はからってくれたのである。エリノアの外見は、写真通り、あまりあか抜けなかったし、声はこちらがきまり悪くなるほどのガラガラ声だった。だが、ファースト・レディのふるまいは、のちにミセス・ヘイスティングスがみんなに告げたとおりだった。
「わたしたちにとってもよくしてくださったの。正真正銘のレディだったわ」



 ミセス・ヘイスティングスの人生における輝かしいひとときには、かならず夫の手品が花を添えていた。ルーズベルト家での出来事だけでなく――もしミスター・ヘイスティングスと結婚していなければ、自分の一生に、ルーズベルト一族に会うなんてことが起こっただろうか?――だれしもが経験する、ありふれた毎日のなかで起こるような、はなやかなひとときのことである。自分の誕生日や結婚記念日、子供たちのひとりひとりの大切な日を、かならず手品は盛り上げてくれた。

昔、フレデリックがふくれっつらで、こう言ったことがある。
「ぼくのパーティなんだよ。なのにみんな、お父さんばっかり見てるじゃないか」
そこで彼女は言ったのだった。
あなた、とっても運がいいんだから、感謝しなくちゃ。ほかの子のお父さんなんて、お皿を洗った後の水みたいにつまらないじゃない。手品ができるお父さんと取り替えてくれるなんて言われたら、自分の宝物とだって交換したがるわよ。

するとフレデリックは――この子はこの目をどこで拾ってきたのだろう。濁った茶色の、おりこうさんの目だ。わたしのとも、お父さんのともちがう――こう言った。
「だってそれがどういうことなのか、ほんとのことは知らないんだから」

 フレデリックは父親のようなハンサムとはほど遠かった。とりわけ手品を演じているときの父親のような。ミセス・ヘイスティングスは、髪を後ろへなでつけ、ひげを整えて正装した夫の姿を、いつでも思い出せた。彼には気品があった。ちょうど映画俳優のウィリアム・パウエルのように。町に住む女がみんな、夫のことで自分を妬んでいることを知っていた。整った外見と洗練された物腰、人をわくわくさせるような人物と結婚していたるのだから。

一度、ミセス・デイリー、牛乳屋に嫁いだデイリー夫人が言ったことがある。
「大変でしょうね、旦那さん、暇さえあれば地下室で手品の練習をしてるんでしょ?」

一番下の子供が生まれてからこちら、デイリー夫妻がずっと寝室を別にしているのは、有名な話だった。ミセス・ヘイスティングスは、いつかの晩、夫がベッドの中で見せてくれた手品のことを教えてやろうかと思った。あのひと、わたしのナイトガウンの胸元から、真珠をひとつぶ取り出して、自分の口に入れたかと思うと、花を取り出したのよ、と。

だが、ミセス・デイリーが聞きたがっていたのは、ほかならぬそうした内輪の話だったし、ミセス・ヘイスティングスは金輪際、そんな餌は与えてやるつもりがなかった。そこで、ミセス・デイリーに向かって、もったいぶった声で――この声を聞くと夫は「かしこまりました、伯爵夫人」という――「うちのひとは、練習している手品はひとつ残らず見せてくれるのよ」と言った。

ただしこれは、半分しか本当ではなかった。完全に習得するまで、夫は決して人に見せようとはしなかったのだから。だが、たとえ半分の真実でも、ミセス・デイリーのように窓辺に置いたシングルベッドでひとり寝をかこっている人間に対しては、顔色なからしめるには十分だったのである。




(この項つづく)




メアリー・ゴードン「手品師の妻」

2011-01-26 23:24:18 | 翻訳
何か新しいものが訳してみたくなったので、1987年の作品をひとつ訳していきます。
Mary Gordonというアメリカの作家の短編です。

一週間くらいで訳せると思います。
まとめて読みたい人は、またそのくらいに見に来てください。

原文はhttp://www.shortstory.by.ru/gordon/magician/index.shtmlで読むことができます。




* * *

The Magician's Wife
(手品師の妻)

by Mary Gordon


 ミセス・ヘイスティングスの場合、友だちの多くがそう考えているように、自分のことを何をおいても子供たちの母親であるとは考えていなかった。というのも、ミスター・ヘイスティングスの妻であることに、かぎりない誇りを抱いていたからである。

ふたりが老境にさしかかったころ、世間では夫が“建築家フレデリック・ヘイスティングスの父”として知られるようになったが、夫人はそのことにはむしろ腹立たしさしか感じなかった。息子ときたら、男ぶりの面でも、意外性という意味でも、父親の足下にも及ばないのだから。

確かにフレデリックはビルをいくつも建てたし、あちこちの市役所の前では市長と、州庁舎の前では州知事と一緒に写真を撮った。夫人はフレドリックを誇りに思うべきだったろうし、実際のところ、自慢の息子にはちがいなかった。両親に対しても、非の打ちどころのない子なのだから。息子がいなければ、とうてい現在の暮らし向きを維持することはできなかっただろう。だが、ミセス・ヘイスティングスの息子に対する評価は、自分の料理の腕前や、実際に用意した食事に対する評価と同じようなものだった。もっとも料理の腕前は、というと、結婚してからこちら、さほどの成長は遂げなかったのではあるが。

 夫には、定期的な給与のほかに、手品師としての収入があった。給料だけで満足な暮らしが営めなかったというわけではない。それでも、夫が手品で得る収入がなければ、日々の暮らしはもっとつましいものになっていただろう。

そもそもどうして手品など、始めることになったのか。ミセス・ヘイスティングスと姑は、よくこのことについて議論した。姑は、昔からあんな子だったのよ、と言うのだった。子供の時分から納屋で手品ショーをやってみせてたんだから。

けれどもミセス・ヘイスティングスは、きっかけがそんなものではなかったことを、よく知っていた。新婚旅行がそもそもの発端だったのだ。

ふたりはシカゴでボードビルショーを観たのだが、そこに“驚異のミスター・カズミロ”という手品師が登場し、鳥を出してみせた。その晩、ホテルへ戻る途中、ミセス・ヘイスティングスは夫が何ごとか考えこんでいるのに気がついた。考えに没頭しているときの夫の目は、どんよりと曇って石ころのような色になる。新妻には夫が頭の中で考えごとを転がしているのがわかった。ちょうど虫歯が痛むときに、口の中で飴玉をあちこち転がすように。

朝になって夫が(パジャマを着ている彼があまりに魅力的だったので、ミセス・ヘイスティングスは軽い衝撃を受けた)「メイ、買い物に行こう」と誘った。ふたりは劇場の裏手の奇妙なものばかり売っている店が並ぶ通りを歩いた。平べったい小さなブリキ缶に入ったドーランや、道化師やプリマ・ドンナがかぶるカツラ、コメディアンの小道具。ミスター・ヘイスティングスが最初の手品の道具を買ったのは、そのうちの一軒だった。

ボールで何やらするものと、輪とニセモノの底がついている木の杯だったのを、夫人はよく覚えている。それまで手品の道具を間近に見たことがなかった――ただの一度も、一瞥したことすらなかった。手品の道具は驚くほど高かった―― 十ドルもした ――が、夫には何も言わなかった。なにしろ新婚旅行なのだから。

だが、支払いに口出しすることはなくても、どうしてそんなに高いの、とは聞いてみた。すると夫は、細工には腕が必要だからだよ、手品道具は職人の仕事なんだ、と教えてくれた。ともあれ夫はそうやってスタートを切ったのだと、彼女ははっきりと記憶している。新婚旅行の四日目だった。姑が何を言おうと、夫の手品は結婚前の生活とはなんの関係もない。





(この項つづく)



お知らせと「宇宙戦争」

2011-01-23 23:31:45 | weblog
まず、お知らせです。
翻訳をiPhoneで読むことができるようになりました。

ミラーサイトの管理をしてくださっている方が、翻訳をiPhoneで読めるように変換してくださっています。

わたしはスマートフォンを持っていないので(笑)、まだ見たことはないのですが、なかなか読みやすいとのことでした。
電車の中や、ベッドの中でも読めます。
いつも手元に“ghostbuster's book web.”を。
iPhoneをお持ちの方はぜひ、このページからお試しください。

http://www.freewebs.com/vocalise/gb/annex.html

こんな新しい機能も導入したのだから、翻訳も頑張っていかなくちゃ。
長く時間のかかったフィッツジェラルドの短編も、明日にはアップできる予定です。


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昨日、テレビで『宇宙戦争』を放映していたので、H.G.ウェルズの話を書いていたのだが、終わらなくなったので、今日になりました(笑)。

ということで、H.G.ウェルズの話。

ウェルズはこれまでに
「水晶の卵」
「魔法の店」
の二本の翻訳をやっているが、どうもわたしが感じるウェルズの魅力というのは、まだ脳みそがチーズのようだった頃にむさぼるように読んでしまった『シャーロック・ホームズ』の影響のせいか、十九世紀末のロンドンの風景がまず浮かんでくるのだ。そぼふる雨、霧にけぶった街、石畳を蹴る馬のひづめの音、行き交う馬車。通りに沿って立ち並ぶ店のショー・ウィンドウ。薄暗い店の奥がぼんやりと見える。もっと見ようと扉を開けると、そこに広がるのがウェルズの世界なのである。

実はウェルズ自身がそんな店の徒弟として、十代の日々を過ごしてきている(※以降の記述はおもに小野寺健『英国的経験』による)。

H.G.ウェルズは1866年、ロンドン郊外の小さな町で、植木職人と、彼が出入りするお屋敷の女中の間に生まれた。

ウェルズが社会に出たのは十三歳、生地屋に奉公に出たのが始まりだった。
十三歳というと、いまでいうと小学校卒ということになる。だがそれまでにウェルズが通ったのは、商店主や召使いといった下層中産階級に属する人びとのなかでも教育熱心な人の子供が通う私塾で教育を受けていた。すでに彼はきちんとした文章が読め、書けるばかりでなく、初歩の微積分の知識あたりまで身につけていたという。

上流中産階級の子供なら、高級私塾に進み、そこからパブリック・スクールへ、さらにオクスフォード、ケンブリッジの大学に進む。だが、下層中産階級では、基礎的な読み書きと算術ができるようになったら、奉公に出るのがふつうだったのである。

だが、ウェルズは勉強が続けたかったせいか、奉公先の仕事に身が入らなかった。短い間に奉公先をつぎつぎと代わり、やがて薬屋に移った。ところがこれが大きな転機になったのである。

薬屋というと、処方箋を読まなければならない。だが、処方箋はラテン語の知識が必要だった。そこで、彼は一時寄宿生としてグラマー・スクールに通うことになった。ウェルズ十五歳のときである。

グラマー・スクールでウェルズはめきめきと頭角をあらわした。ところが、そうまでしてラテン語を修めたものの、薬剤師になるためには試験を受けるなどの費用が必要である。その費用を捻出できなかったウェルズの母親は、ふたたび彼を生地屋に奉公に出すことにした。

そこでウェルズは二年辛抱したが、学問に対する情熱は抑えがたく、ラテン語を学んだグラマー・スクールに手紙を書き、助教員にしてくれと頼み込む。そうして生徒を教えながら、夜は自分も生徒として科学の勉強したのである。

時代も彼に味方した。十九世紀末のイギリスは科学振興策を取っており、そのためには科学教師の養成が、ぜひとも必要だった。新設された科学師範学校は、まさにウェルズのための学校だったともいえる。十八歳でそこに合格したウェルズの前には、奉公から商人になる以外に、新しい道が開けていた。

ところが、そうまでして進んだ師範学校に、ウェルズはかならずしも熱心ではなかったらしい。当時、すでにウェルズは本を読み、書くことに目覚めていた。文筆の世界で生きていく希望を持ち、さらに社会主義にも興味があった彼にとって、科学の教師になるための勉強は、さほど魅力はなかったのかもしれない。

卒業して、各地の小さな学校で教師をしながら、ウェルズは作品を書いていく。それが結実したのが1895年の『タイム・マシン』だった。

『英国的経験』の中でウェルズの生涯を素描しながら、筆者の小野寺健は、ウェルズのことを「時代の子」と呼ぶ。
 ウェルズが勉強をつづけて世に出た事情は、話がうますぎるほど、英国社会の転換期と深くかかわっています。もし、彼の成長期に英国政府が科学教育を盛んにする必要性を痛感していろいろ新しい手を打たなかったら、ウェルズは一生を商人として送り、天からあたえられた思想家としての才能を発揮できなかったかもしれません。むろん、彼ほどの才能や発展の原動力になったかもしれませんが、蓄財に努力するだけの人になっていた可能性もなくはないでしょう。

 どんなに詳しい伝記でも、一人の人間の人生を左右した小さな事実を、すべて拾い上げることはできません。ウェルズのばあいでも、どういう偶然が彼のような人間を育てたのか――断定的なことはだれにも言えませんが、両親から受け継いだ性格、才能、家族全体の歴史、それをとりまいていた時代と社会の環境、こういった、ほとんど無限にちかい要素が複雑微妙にからみあって彼を育てたのだと言うことはできるでしょう。
(小野寺健『英国的経験』 筑摩書房)

昨夜、テレビで放映していた「宇宙戦争」は、ウェルズが1898年に発表した作品を、一世紀あまりを経て、2005年、スティーヴン・スピルバーグが監督した作品である。

墜落した旅客機の映像や倒壊したビルなど、2001年9.11のイメージを喚起させながら、「宇宙戦争」は文明のもろさを強烈に描きだす。不気味な音を立てて破壊し尽くすトライポッドの前に、たった二日で街は壊滅する。さまざまな映画で無敵のヒーローを演じるトム・クルーズは、ゴムのマスクのような動きのない表情を浮かべてもたもたと不格好に逃げ回るだけだし、ダコタ・ファニングのすわった目と神経に障る悲鳴は、「これは映画さ」と、高みで眺めようとするわたしたちの心の奥の不安を引きずり出そうとする。

主人公がなすすべなく逃げまどう映画を観ながら、十代の初めに読んだウェルズの原作にも出てきた火星人の圧倒的な強さを、わたしはあらためて思い出していた。

この作品が書かれたのは、科学技術が日の出の勢いだった時代だ。ウェルズもその申し子として、科学教師となるための教育を受けたのである。大規模な世界戦争も、さらには原爆という大量殺戮兵器も、登場する前の時代だったのである。

だが、ウェルズは、そのようなものが登場することを、この作品の中ではっきりと予見している。「両親から受け継いだ性格、才能、家族全体の歴史、それをとりまいていた時代と社会の環境、こういった、ほとんど無限にちかい要素が複雑微妙にからみあって」、ひとりの作家の頭の中に、こんな世界を描きださせたのだろうか。



雅号と本名

2011-01-21 23:59:28 | weblog
MySpace のおかげで、音信不通になっていたアメリカ人の友だちと、またメールのやりとりができるようになった。

なんのことはない、相手の名前でググッてみたら、「あなたの探している Abcd Efghij さんですか」というページがヒットして、記憶にあるのよりいささか横に成長(?)したご当人が、マスティフの首を抱いてにっこりとほほえんでいたのだ。

そこから相手の元へ、わたしのこと、覚えてる? とメールを送ると、距離も時間も吹き飛ばすかのように即座に返事が戻ってきた。なにしろ十五年以上の空白があるものだから話すことには事欠かない。あれから何をしていたか、誰はどうしているかと、太平洋を挟んでメールが行き交った。

最初のうちは、毎週のように手紙をやりとりしていたのである。ところがこちらも相手も次第に返事は遅れ、手紙の間隔が開いていき、やがてクリスマスカードとバースディ・カードだけになってしまった。双方とも住所が頻繁に変わるせいで、宛先のところに訂正シールが毎回のように貼られるようになり、やがて宛先不明で戻ってきて、それっきりになっていた。

それが、まさかいまこんなふうにやりとりができるとは思ってもみなかった。MySpace というのもありがたいものだ、と思った出来事である。

とはいえ、相手のMySpace には、写真とフル・ネーム、もちろんメールが直接送れるだけでなく、住んでいる場所や職業や収入、趣味や友だちになりたい人、参加目的や外観、はては「恋愛タイプ」(つまり同性愛者か異性愛者かということだ)までが書かれている。「友だちからのコメント」欄には写真入りで、「どうしてる?」だの「なんでメールくれないのよ」だの、はては「今度そっちへ行くんだけど、泊めてくれない?」などという書き込みまでが並んでいる。こんなことまで晒していいの? と思わずひるんでしまった。

実際に、相手に聞いてみた。顔も実名もさらして大丈夫なの? 危険なことはない? 平気なの? と。
すると、「自分だとわからなければ、やっている意味がない」という返事だった。もちろん犯罪には巻き込まれないように(現実に、MySpace がらみで特に十代の子供が被害者となるような犯罪も起きている)気をつけているし。それより、あなたのブログやサイトにはどうして名前が書いてないのか、と逆に聞かれてしまった。あなたのことを大勢の人に知ってもらうチャンスなのに。

そこからあれこれと話は続いたが、結局はブログやサイト、あるいはMySpace などのSNSを何のためにやっているかがちがうのだ、ということで話は落ち着いた。現実の生活の可能性を広げるために実名を公開しているアメリカと、一定度、実生活とは離れ、自由に自分の考えていることを書いたり知らせたりしたいために匿名をむしろ好む日本、という傾向があるようだ。

こんなことを書いているうちに、ふと、雅号、ということを思い出した。
正岡子規は、子規のみならず獺祭書屋主人、竹の里人など五十四種類にものぼる雅号を持っていたことを『筆まかせ』で書いているが、漱石も鴎外も内田魯庵も幸田露伴も坪内逍遙も、つまりは明治も初期の文人の多くは、たくさんの雅号を使い分けていた。

雅号というのは、筆名とは似て非なるもので、「それを名乗ることで現実の身分や地位を離れる」という意味合いが強い。だからこそ明治期の、たとえば軍医であった森林太郎が、その職を離れ、鴎外という名で作家活動をおこない、劇評始め雑文を書くときは、さらにそのほかの雅号を使ったのである。

だが、それ以降になると、作家を専業とする人びとが増えたばかりでなく、個人主義が西洋から入ってきたことも相まって、「首尾一貫した自分」であろうとすることが理想とされるようになった。大正期以降の作家の多くは本名だし、「太宰治」という筆名を使うにせよ、「自分の作品」は首尾一貫してその名前で書かれていく。

日本で個人的にブログやサイトを運営している人の多くは、匿名を使う。それは、実社会での自分の職業や諸関係を離れ、自由に思いを書き記したいという「雅号」の名残りなのかもしれない。

ただ、覚えておいた方が良いのは、実際にはネット社会で匿名を貫くことはむずかしい、ということだ。その気になって探せば、どこかからかならず足が着く。

事実、アメリカばかりでなく、日本でも、個人名を検索窓に入れれば、その人の社会的ステイタスに応じて、さまざまな情報を入手することができる。もう何年も前に何かの大会に出たときの記録であるとか、ずいぶん前にもらったささやかな賞の受賞記録であるとか、とんでもないものが出てくることがあるのだ。つまり、ネットは忘れてくれない。人の噂は七十五日でも、ネットには半永久的に記録されているのだから。

確かに雅号にしても、別人になってしまうわけではなく、ここから先は別の人間、ということを、双方了解した上でのお約束だった。結局は、どこまでいっても、自分が書いたものには、自分で責任を取るしかない、ということか。



柿食えば

2011-01-20 23:23:40 | weblog
暮れに柿をもらった。贈答用の柿は、スーパーなどで売っているのよりひとまわり大きく、手に載せるとずっしりと重く、ぴんと張った皮は鮮やかな橙色の立派な柿である。

毎年、秋の終わりから冬にかけて食べるのは、もっぱらリンゴで、柿などまず買うこともない。口にするのはいったい何年ぶりだろう、ということで、珍しさも手伝って、しばらくは喜んで食べていた。実際、おいしい柿だった。

それでも一日一個、頑張っても二個、というペースでは、一箱ぶんの柿は容易に消費できない。柿は表面が柔らかくなったころが甘さも増しておいしいという話も聞くが、そこまで甘くなると、ちょっと口の中が気持ち悪くなってしまう。なんとか硬いうちに食べ終えてしまいたい。

しかたがないので、知り合いにどんどんあげた。ところがおもしろいもので、柿、というと、みんなちょっとありがた迷惑そうな表情が浮かぶ。いや、ほんとにおいしいから、と、三個ぐらいなら、さほど負担にもなるまいと思って、ちょっと遅れたサンタクロースよろしく、配って回ったのである。数日後、ああ、あれ、おいしかった、どうもありがとう、と、なかなか好評ではあったけれど、わたしと同じで、柿なんて食べたのは久しぶり、と言う人も多く、どうやら柿というのは、いつのまにか、あまり人気のある果物ではなくなってしまったらしかった。

ところで、柿というと思い出すのは

  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

という句だろう。俳句の中でも有名な句のひとつだ。

「現代俳句データベース」によると、明治二十八年十月、前書きには「法隆寺の茶店に憩ひて」とあるが、実際はすこしちがっていたようだ。

このときのできごとを、子規は「くだもの」というタイトルのエッセイに書いているのだが、ともかくこのエッセイ、子規の食いしん坊ぶりに笑ってしまう。

「くだもの」という言葉の語源から話が始まり、つぎに「くだもの」というカテゴリが定義される。気候、大小、色、と思いつくままあれこれと考察し、どういうのが旨いか、もっとも多くの人に好まれるのは何か、と寄り道(?)しながら、いよいよ自分のくだもの好きに話が移っていくが、まあそれがすごいのである。
二ヶ月の学費が手に入って牛肉を食いに行たあとでは、いつでも菓物を買うて来て食うのが例であった。大きな梨ならば六つか七つ、樽柿(たるがき)ならば七つか八つ、蜜柑ならば十五か二十位食うのが常習であった。

「二ヶ月の学費」というのは、子規の出身である旧松山藩では、以前藩主であった久松家が優秀な郷里の学生に対して奨学金を出し、子規はその給付を受けていたことを指す。二ヶ月ごとに奨学金が出ると、すきやきを食べて、くだものを買って帰っていたというが、どうやらそれはすべてすきやきのデザート、みかんなら「十五か二十位」一気食いしていたようだ。その証拠には、子規の友人漱石が後年、『三四郎』の中で、「ある時大きな 樽柿を十六食ったことがある。それでなんともなかった。自分などはとても子規のまねはできない」と広田先生に言わせている。漱石も子規のナントモハヤという食欲を懐かしみ、いとおしんでいたことがうかがえる。

さて、その法隆寺のエピソードが出てくるのは、最後の「○御所柿を食いし事」という箇所である。

明治二十八年、子規は新聞記者として、日清戦争の舞台である遼東半島へ赴く。ところがすぐに戦争は終結してしまい、子規も折り返し帰国することになる。その戦中で喀血し、そのまま神戸の病院へ入院した。そののち松山へ戻り、当時松山にいた漱石の下宿で二ヶ月ちかくを過ごし、そこから帰京する、その途上で、大阪に遊び、さらにそこから奈良まで脚を伸ばした。

奈良に着いた子規は、奈良のひなびた風景と柿の林の取り合わせを趣あるものと感じ、「余はこの新たらしい配合を見つけ出して非常に嬉しかった」という。そうして、その晩、泊まった宿で、ふたたび柿に巡りあう、というか、女中さんに頼んで、持ってきてもらうのだ。
余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛て来た。さすが柿好きの余も驚いた。それから下女は余のために庖丁を取て柿をむいでくれる様子である。

余は柿も食いたいのであるがしかし暫しの間は柿をむいでいる女のややうつむいている顔にほれぼれと見とれていた。この女は年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる。生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた。

やがて柿はむけた。余はそれを食うていると彼は更に他の柿をむいでいる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた。

食いしん坊の子規が、柿よりも女中さんのようすに目を奪われているのがおもしろい。というより、このときのことを何度も思い返すうち、柿と、鐘の音と、夜の静けさとがあいまって、宿の女中さんは記憶の中でどんどん美人になっていったのかもしれないが。
彼女は、オヤ初夜が鳴るというてなお柿をむきつづけている。余にはこの初夜というのが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるという。

初夜というのは、午後の八時頃につく鐘のこと。東大寺の鐘の音をわたしは聞いたことはないのだが、なにしろ大きな鐘である。「すぐ其処」でそんな鐘が鳴るのを聞けば、「ボーン」というよりよほど大きな音のような気もするのだが、木立を通して聞く音というのは、いろんなものに吸収されて、深い余韻とともに聞こえるのかもしれない。

低く、長く続いていく鐘の音。千年の昔から続いている鐘の音。暗い空、そうして橙色の柿。口の中に広がっていく甘味。こうして柿と鐘の音が、奈良という場所のなかでひとつに溶けあった。





子規と試験

2011-01-16 22:31:48 | weblog
正岡子規というと、明治初期に松山から東京に出て帝大に進んだ人で、大学進学者もまだ少なかった当時にあって、大変なエリートという印象が強いが、『墨汁一滴』を読んでいると、決してそうではなくて、おもしろい。
余は昔から学校はそれほどいやでもなかつたが試験といふ厭な事のあるため遂には学校といふ語が既に一種の不愉快な感を起すほどになつてしまふた。(六月十四日)

ただ、これを読んでいると、子規は試験がきらい、というより、勉強していないせいで学力にはなはだ問題があり、単に試験ができなくてきらいだった、ということのような気がする。

というのも、上の文章に続いてこんなエピソードが続くからなのだ。
子規は明治十七年に大学予備門の入学試験を受けた。まだ十七歳、旧制中学の二年ということもあって、実力はない、用意もしないままに、ただ場慣れするためだけに受けてみたのだ。
科目によっては簡単なのもあったが、英語はさっぱりわからない。そもそも単語がちっともわからないから、問題文を読もうにも読めないのだ。とはいえ、当時の試験はいまとちがってずいぶん鷹揚だったようで、友人がみんな隅に固まってすわり、わからないところは教え合う約束をしていたらしい。そこで、何かあると隣の友人が教えてくれていた。

その友人というのも、かなりいい加減で、ある単語のことを「幇間(ほうかん)」だと教える。英文にタイコモチはおかしいと思ったが、わからないのだからしょうがない、そのまま書いた。あとになって聞いてみたら、どうやら数人先の友人が教えるのを、口づたいに隣りに教えているうちに、「法官」が「幇間」になったものらしかった。

そんなありさまだから、どうせダメに決まっている、と思っていたのだが、「意外のまた意外」、なんと驚いたことに子規は受かってしまったのだ。ところが教えてくれた友だちは、みんな失敗している。気の毒ではあったが、「この時は試験は屁の如しだと思ふた」のだそうだ。

ところが受かったのはいいが、もとより実力がないのだからたまらない。英語はもちろんだが、数学、特に幾何ができない。幾何というのは、なにぶん、日本に伝統がないものだから、「コンヴアース、オツポジト」などと、肝心のところが英語なのである。英語がわからなければ、結局幾何学もわかるようにはならず、幾何学の点数が足りなくて、落第してしまった。

それでも、なんとか子規は予備門から帝大哲学科に進学した。ところがここでも英語はついてまわる。
余にはその哲学が少しも分らない。一例をいふとサブスタンスのレアリテーはあるかないかといふやうな事がいきなり書いてある。レアリテーが何の事だか分らぬにあるかないか分るはずがない。哲学といふ者はこんなに分らぬ者なら余は哲学なんかやりたくないと思ふた。それだから滅多に哲学の講義を聞きにも往かない。

こんな状態だったが、それでも試験はなんとかごまかした。もっとも先生は落第点をつけない人という噂もあったようだが。

やがて子規は哲学から国文に転科する。そうして俳句の世界に没入するようになっていく。結果的にますます勉強はおろそかになる。
試験があると前二日位に準備にかかるのでその時は机の近辺にある俳書でも何でも尽(ことごと)く片付けてしまふ。さうして机の上には試験に必要なるノートばかり置いてある。そこへ静かに座をしめて見ると平生乱雑の上にも乱雑を重ねて居た机辺(きへん)が清潔になつて居るで、何となく心持が善い。心持が善くて浮き浮きすると思ふと何だか俳句がのこのこと浮んで来る。ノートを開いて一枚も読まぬ中(うち)に十七字が一句出来た。何に書かうもそこらには句帳も半紙も出してないからラムプの笠に書きつけた。また一句出来た。また一句。余り面白さに試験なんどの事は打ち捨ててしまふて、とうとうラムプの笠を書きふさげた。

ここらへんの感じは実によくわかる。句作こそしなかったけれど、勉強を初めてみると、本が読みたくなるし、映画が観たくなるし、部屋の掃除までしたくなるのだ。未だにその癖は抜けなくて、どうもやらなければいけないことや書かなければならない文章があると、つい、本を読んだりDVDを見たりYou Tubeを見たり、ついでに部屋の掃除や風呂掃除、トイレの掃除に精を出してしまう。そうして、ぎりぎりになって、ああ、どうしようもない、という状態になるまで、ズルズルと引き延ばしてしまうのだ……。

結局子規は落第を続けた。そうして明治二十五年の落第を機に、漱石らの反対も押し切って大学もやめてしまった。
 これが試験のしじまひの落第のしじまひだ。
 余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ。(六月十六日)

そうして子規は大学中退後、新聞記者になり、また精力的に句作に励むことになる。落第も、というか、英語ができなかったことが、子規を生んだ、のかもしれない。

ただ、『墨汁一滴』では、さりげなく「明治二十二年の五月に始めて咯血した。その後は脳が悪くなつて試験がいよいよいやになつた。」とふれられているだけだが、大学時代に子規は発病しているのだ。当時、結核が死病であり、子規自身も「余命十年」と思っていたことを考え合わせると、試験どころではない、大学どころではない、といった気持ちの方が強かったのかもしれない。十一月、十二月の残り少ない日めくりを、一枚、一枚めくっていくような子規の日々を思うと、胸がつまる。

それでもなお、病床にあってさえ「学校の夢」は「困しめられる夢」というのも、おかしいような、悲しいような話である。