陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その10.

2011-10-28 23:44:32 | 翻訳
その10.


「欲求不満になりそうだな」と私は言った。

「くだらない。欲求不満なんかになるわけがなかろう。欲求もないのに欲求不満になりようがないんだ。なにしろ君は欲求が起こらないのだから。とにかく肉体的な欲求はありえない」

「この世での生活を思い出すことはあるだろうし、そうなるとそこに戻りたくなるかもしれない」

「なんだって? この混乱しきったところにか! 心地よい容器の外に出て、こんな精神病院に戻りたいだって?」

「もうひとつ、聞きたい」私は言った。「君はそいつをどれくらい生かしておけるのかね?」

「脳のことか? そんなことわかるものか。たぶん、何年も何年もだ。コンディションは理想的だ。あらゆる劣化を引き起こす要因も存在しない。人工心臓のおかげでね。血圧はつねに一定に保たれているが、実生活ではそんなことは不可能だ。体温も一定。血液の化学組成も完璧だ。不純物もない、ウィルスもない、バクテリアもいない。もちろんこんな想像をするのはばかげているが、こんな環境下であるなら、脳はきっと二百年や三百年、生き続けるだろうよ。さて、これで失礼する」彼は言った。「明日も見舞いに来るよ」それだけ言うと、私を混乱の極みに残したまま(君にもそれは想像がつくだろう)、足早に去っていった。

 彼が立ち去ったあと、ただちに私の内に起こった反応は、計画全体に対する強い不快の念だった。なんというか、すべてにがまんならなかった。この私が、精神的な能力はそのまま、小さなぬるぬるした丸いかたまりとなって水たまりに浮かんでいるなんて。おぞましく、猥褻で、不道徳だ。もうひとつ、私をうんざりさせたのは、ひとたびランディの手で容器に入れられようものなら、否応なく陥るであろう無力感だった。もはや引き返すことはできない、抗議も、自分の気持ちを説明することもできないのだ。連中が私を生かし続けようと思う限り、そうするしかないのだ。たとえば、もし私が耐えられなくなったら? ひどく痛みを伴うとわかったとしたら? 理性を失ったら? 逃げ出そうにも足がない。悲鳴を上げようにも声もない。何もない。私はただ、二世紀の間、身をさらされるのだ。さらす身もないというのに。だが、この瞬間、奇妙な考えが浮かんできた。



(この項つづく)





ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その9.

2011-10-27 23:50:53 | 翻訳
その9.


「さて、ウェルトハイマーは脳波計によく似た装置を作成した。それも実際の脳波計よりはるかに感度はいいものをね。その彼が主張するには、ごく限られた範囲ではあるが、その装置は脳が現に考えていることを解析するのに役に立つというんだ。その装置は一種のグラフを出力するんだが、そのグラフは言葉や何を考えているかを解析したものなんだ。ウェルトハイマーに来てもらって、何か聞いておきたいことがあるかね?」

「いや、結構」と私は言った。ランディはもうすっかり私が自分の計画を受け入れたものと決め込んでいて、そんな彼の態度が私にはたまらなかった。「帰ってくれ。私をひとりにしてくれ」と私は言った。「私をその気にさせようとしても無理だ」

 ランディは即座に立ち上がり、ドアの方へ向かった。

「ひとつ教えてほしい」と私は言った。

 彼はドアノブに手を掛けたまま立ち止まった。「なんだい、ウィリアム」

「簡単なことだ。君自身、ほんとうのところ信じているのかね。私の脳が溶液のなかにあるのに、いまとまったく同じように私の精神が正確に機能し続けるなどということを。いまできているような考えたり、判断したりすることが、私に可能だとほんとうに信じているのか? そうして記憶力もそのまま残っていると?」

「信じないわけがなかろう」と彼は答えた。「同じ脳なんだぞ。しかも生きている。損傷もない。実際、完全に無傷なんだ。脳膜を開いてさえいないんだからな。もちろん、大きなちがいというのは、脳に通じる神経をすべて――視神経だけは別だが――切断することだが、それはつまり君の思考はもはや感覚器官の影響を受けないということでもある。君は並々ならぬほどに純粋で、孤立した世界に暮らすことになるだろう。何も君をわずらわせることはない。痛みさえもないのだ。君が苦痛を感じることができないのは、それを感じる神経がないからだ。ある意味、そいつは完璧な状態とは言えないだろうか。心配ごともない。恐怖もない。飢えも渇きもない。欲望さえ起こらない。あるのはただ君の記憶と、思考だけだ。それに眼の機能が残っていれば、君は本を読むことができる。ぼくからすれば、かなり楽しい生活じゃないかね?」

「そうかもしれないな」

「そうだ、ウィリアム。とりわけ、哲学博士にとってはね。これはたいした経験だよ。君は何ものにも左右されない、落ち着いた状態で世界を反省することができるのだ。そんな境地に到達した人間がこれまでにいたかね? それにその結果、一体何が起こるのだろうか。偉大な思想や解答が得られるかもしれないのだ。われわれの人生を根底からくつがえすような! 想像してみたまえ。どれほど集中できる状態に自分が置かれるか」



(この項つづく)


ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その8.

2011-10-25 23:39:48 | 翻訳
その8.




「さあ、ここまで来たよ」とランディは言った。「君の脳は今や容器の中にある。もちろん生きていて、これから先、長期にわたって生き続けることができないという根拠はどこにもない。もちろんぼくたちが血液と人工心臓の面倒を見るからこそ、なのだが」

「だが、機能という面ではどうなのかな」

「ウィリアム、そんなことがどうしてぼくにわかる? 君の脳が意識を取り戻すかどうかすらぼくには何とも言えないんだよ」

「もし意識を取り戻したら?」

「そりゃ最高さ! すごいじゃないか!」

「そうなるだろうか?」私は自分でも疑問に思っていたことは認めねばなるまい。

「もちろんそうなるんだ! そこに浮かんだまま思考プロセスがすべて順調に動き出し、君の記憶もまた……」

「ものを見ることも、何かを感じることも、においをかぐことも、音を聞くことも、話すこともできないがね」と私は言った。

「ああ!」彼は大きな声を出した。「何か忘れてると思ってたんだ! まだ目のことを話してなかったな。いいかい。視神経は完全なまま、残しておこうと考えているんだ。もちろん、眼も一緒にね。視神経というのはちっぽけなもので、厚さがだいたい体温計くらい、長さも5センチほどしかないのが、脳と眼の間を渡っているんだ。視神経の利点というのは、実は一本の神経ではない、ということだ。視神経というのは、脳そのものが外側に飛びだした嚢のようなもので、硬膜や脳膜もそれに沿うように伸びていき、眼球とつながっている。だから眼の裏側は脳に隣接していて、脳脊髄液もすぐそこまで流れている。

「何もかもがぼくの目的にかなってるのさ。だから君の眼の片方を温存しておくことができると考えるのも、合理的と言えるだろう。ぼくはね、もう小さなプラスティック・ケースを作っておいたんだよ、君の眼窩の代わりに目玉を収めておくための、ね。だから脳をリンゲル液の中に沈めると、ケースに入った眼球は、溶液の表面に浮かぶんだ」

「天井をにらみながら、な」と私は言った。

「そういうことだ。生憎、眼の周りでそれを動かす筋肉というものがないからな。とはいえ、容器の中にじっと横たわって、おとなしく心穏やかに世間を眺めるというのも、愉快なものじゃないか?」

「最高だね」と私は言った。「耳もひとつぐらい残しておいちゃもらえないのかね?」

「今の段階では耳を試すわけにはいかない」

「耳がほしい」と私は言った。「耳はどうしても必要だ」

「ダメだ」

「バッハが聴きたいんだ」

「君はそれがどれだけ困難なことかわかってない」ランディは静かにそう言った。「聴覚器官――蝸牛と呼ばれる箇所だが――というのは、眼よりもはるかに繊細なからくりなんだよ。なによりも聴覚器官は骨ですっぽりと包まれている。脳とつながっている聴神経の一部も同じだ。無傷のまま骨鑿を使って聴覚器官をすっぽりと取り出すことは、無理な話だよ」

「骨におおわれたままで、その骨ごと容器の中に移すことはできないのか?」

「それはできない」ぴしりとそう言った。「もういまだって充分すぎるくらい複雑なんだから。それに、何にせよ眼が働くのであれば、君の聴覚などたいした問題じゃないよ。いつだって君のために読む物を置いてやろう。実際、何が可能で何が不可能なのか、決定するという作業は、ぼくにまかせてもらいたい」

「そうしてもいいとはまだ一言も言ってないが」

「君はやるさ、ウィリアム。わかってるよ」

「その思いつきがそんなにすばらしいとは思えないがね」

「死んだままでいいのか、これから先ずっと」

「たぶんその方がいいんだろう。まだよくわからないが。口を利くこともできないんだろうね?」

「もちろん無理だ」

「じゃあ、どうやって君と意思疎通ができるというんだ? 私の意識がどうなっているか、君にどうやってわかるというんだね?」

「簡単なことさ、君が意識を取り戻したかどうかを知ることなんて」ランディは言った。「ふつうの脳波計を使えばいいだけのことだ。水の中の君の脳の前頭葉に、直接電極を取り付けたらいいんだ」

「それで実際にわかるのかね?」

「あたりまえじゃないか。どこの病院だってそんなことぐらいやってるさ」

「だが、それじゃ君とコミュニケイトしていることにはならんだろう」

「実を言うと」とランディは言った。「君ならできると思っているんだ。ロンドンにウェルトハイマーという男がいるんだが、彼は思考伝達というテーマで、興味深い業績をいくつかあげている。で、ぼくもずっとつきあいがあるんだ。思考中の脳は放電活動をおこない、かつ、化学物質を放出していることは君も知っているだろう? そうしたものは波動となって放出されている、ちょうど電波のようにね」

「そのことなら多少は知っているつもりだ」と私は言った。


(この項つづく)

ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その7.

2011-10-24 23:49:00 | 翻訳
その7.



「おっしゃるとおりにいたしますよ、ウィリアム。さて、話の続きだが、前にも言ったように、小型電動のこぎりで慎重に君の頭蓋骨全体から頭蓋冠を完全に切り離す。これで脳の上半分、というより脳をおおっている外側の膜が剥きだしになった。君が知っているかどうかは知らないが、脳は三層の膜におおわれている。一番外側にあるのは脳硬膜、あるいは単に硬膜ともいう。真ん中はクモ膜、内側にあるのは軟膜だ。素人はたいてい、頭の中で脳はむきだしのまま、液体に浮かんでいるぐらいに思っている。だが、そうじゃないんだ。三層の膜にきちんとおおわれていて、脳脊髄液があるのは軟膜とクモ膜のあいだのクモ膜下腔という狭い溝を流れているんだ。さっきも言ったように、脳脊髄液は脳で作られて、浸透圧によって静脈組織に排出されていくんだ。

「ぼくの場合はこの三つの膜をすべて残しておくつもりだ――なにしろ素敵な名前だしね。硬膜、クモ膜、軟膜だなんて。手つかずのままにする。そうした方がいい理由ならいくらでもあるんだ。たとえば硬膜の中には、脳内から頸静脈に血液を排出する静脈が何本も走っている、なんてことは、決してささいな理由とは言えないだろう?

「さて」とランディは続けた。「君の頭蓋の上半分を外したところで、膜におおわれた脳のてっぺんが露出された。つぎの段階は慎重な対処を要する。すっぽりと持ち上げることができるように、脳全体を解放してやるんだ。ただし、そこから伸びている四本の供給のための動脈と二本の静脈は、人工心臓にふたたび繋げるように下に垂らしたままにしておく。これはおっそろしく時間のかかる、複雑な仕事で、あちこちの骨を取り除いてやったり、数多くの神経を切断したり、おびただしくある血管を切ったり結びあわせたりするという緻密な作業をしなければならない。うまくいく望みがあるとしたら、骨鉗子でもって残りの頭蓋骨を、オレンジの皮でも剥くように少しずつ削いでいって、脳を下まで剥きだしにする方法しかない。このことにまつわる問題の数々は非常に専門的なので、いちいち説明はしないが、この作業がうまくいくことには確かな手応えを感じているんだ。結局は単に外科的な技術と忍耐の問題になっていくのだから。おまけに忘れないでいてほしいんだが、時間ならこっちが必要なだけ、十分にかけてかまわない。なにしろ手術台の横で人工心臓が脳を生かしておくために、休みなく働いているのだからね。

「まあ想像してみてくれよ。ぼくが君の頭蓋をきれいにそぎおとして、脳の周りをぐるりと囲んでいるものをどかしたところを。そうなると、体とつながっているのは、脳の付け根につづく脊椎と、日本の大静脈、それから給血のための四本の動脈だけだ。では、お次は何だ?

「ぼくは第一頸椎のすぐ上で脊柱を切断する。そこを通っている二本の椎骨動脈を傷つけないよう、最大限の注意が必要だ。だが、そこでは硬膜や他の膜が、脊柱を受け入れるために開いている場所でもあることを忘れてはいけない。つまり、問題はない、ということなんだ。

「ここから移し替えのための最終の準備に入る。テーブルの一方に特殊なかたちの容器を置いておく。これはリンゲル液で満たされている。リンゲル液というのは特殊な液体で、神経外科では潅注法のために使われる。ぼくはまず脳を完全に自由にする。つまり動脈と静脈を切断するんだ。あとはもう自分の手で脳をすくいあげて容器に移すだけだ。血液の流れが止まるのは、前部の工程のなかでこのときだけだ。だが、ひとたび容器に入れてしまえば、すぐに動脈と静脈を人工心臓につなぐことができるんだ」


(※すいません。急用でちょっと間があいてしまいました。あとはもうがんばって最後までやっていきます。

※※このあたり医学用語が多いんですが、使い方や訳語の誤りに気づかれた方は、ぜひご指摘ください。)



ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その6.

2011-10-17 23:29:08 | 翻訳
その6.


「それからどんどん仕事を進めていく。左右両方の頚静脈を切断し、それぞれをまた人工心臓につないで、循環システムを完成させる。いよいよ装置のスイッチをいれるんだ。君の血液型の血液は、あらかじめ準備してある。さあ、スタートだ、ってわけだ。君の脳の血液循環は、こうやって保たれていく」

「ちょうどロシアの犬のようにね」

「そうじゃない。第一に、君は死んだとき、おそらくは意識を失うだろう。そうして、かなりの時間をかけたにしても、最終的に君が意識を回復するかどうかは、かなり疑わしいんだ。だが、意識があるにせよないにせよ、君はかなり興味深い状態にあるのにはちがいないじゃないか。君は冷たい死んだ体と生きた脳を持つことになるんだから」

 ランディは言葉を切ると、このすばらしい見通しを味わうかのような顔つきになった。この男は計画全体に夢中になるあまり、我を忘れてしまっているために、私が彼のようには感じられないなどとは、夢にも思えなかったのである。

「時間の余裕は十分あるんだ」と彼は言った。「実のところ、余裕がなきゃいけないんだよ。まず最初に君をストレッチャーに乗せて手術室に運ばなきゃならん。もちろん装置も一緒に運ばなきゃならないし、装置は休むことなく動かし続けていなくてはならない。で、つぎの問題は……」

「よくわかった」と私は言った。「もう充分だ。細かい話はいいよ」

「おいおい、君には知っておいてもらわなければ」とランディは言う。「自分がどんなことになっているのか、その間の一部始終を正確に知っておくのは大切なことじゃないか。なあ、あとになって君が意識を回復したとき、もし自分がどこにいて、意識がどんなふうになっていたか、克明に思い出すことができたら、君の側から言っても、願ってもないほどの成功なんだから。君自身の心の平安ということだけでも、知っておくべきだろう、そうじゃないかね?」

 私はベッドに横たわったまま、彼のことをじっと見ていた。

「で、次の難題は、君の脳をいささかも損なわないまま、君の死んだ体から取り出す、ということだ。体の方には用はないからね。実のところ、そいつはすでに崩壊を始めているのだしね。頭蓋骨も顔も、必要ない。どちらも足手まといになるだけだし、ぼくには無用なんだ。脳さえあればいいからね、本物の美しい脳、生きた完璧な脳さえあれば。だから、君をテーブルに載せて、のこぎりで、小さな電気のこぎりなんだがね、そいつで君の頭蓋骨の上半分をすっぽりと取り除いてやるよ。そのときはまだ、君に意識はないから、ぼくも麻酔のことを心配する必要もないしね」

「そんなひどいことをするつもりか」

「君はまったく意識はないんだぜ、保証するよ、ウィリアム。自分がその数分前には死んでいることを忘れないでくれよ」

「麻酔もなしに私の頭蓋骨の上をのこぎりで引くなんて、誰にもさせないぞ」私がそう言うと、ランディは肩をすくめた。

「まあ、ぼくにとっちゃたいしたちがいはない。君がそうしてくれと言うのなら、喜んで局所麻酔薬を少量、プレゼントするよ。それで気が休まるのなら、頭部全体、頸部より上をすっぽりとプロカインを注射してやろう」

「それはありがたい」

「まあな」と彼は話を続けた。「ときにはありそうもないことが起こるんだ。つい先週も男が意識がないまま運ばれてきたったんだ。だから麻酔をかけないまま頭蓋を切開して、小さな血腫を切除した。それがまだこっちが頭の中をいじっている最中に、男が気がついて、しゃべりだしたんだ。

『ここはどこだ?』とそいつが言う。

『病院だよ』

『ふうん。そいつは変だな』

『いまやってることのせいで』とぼくは聞いてみた。『何が具合が悪かったりするかね?』

『いいや』と男は答えた。『全然。何をしているんだ?』

『君の脳の中の血腫を切除しているところだよ』

『ほんとか?』

『静かに寝ててくれ。動くんじゃない。もう終わりかけだから』

するとその男は『くそ、頭が痛かったのは、あの野郎のせいだったんだな』だなんて言ったんだぞ。
  
 ランディは言葉を切ると、そのときのことを思い出して笑顔になった。「そのとき男はその通りのことを言ったんだ」そうして言葉を続けた。「ところが次の日になると、そんなことがあっただなんて、思い出すことさえできなかった。おもしろいもんだよ、脳ってのは」

「私にはプロカインを使ってくれ」と私は言った。




(この項つづく)




ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その5.

2011-10-15 23:25:09 | 翻訳
その5.

「そのことから、頭部と脳とを生きながらえさせるために、肉体のほかの部分が付随している必要はないと判断しても、非論理的とは言えないだろう。もちろん酸素を含んだ血液が、適切に供給できるよう、管理されなければならないのだが。

「そのときからだ。この映画からぼく自身の考えが生まれていったんだ。人間が死んだ後でも、その頭蓋骨の中から脳を取り出して、独立した器官として機能を保ったまま、永遠に生かし続ける、というアイデアだよ。たとえば、君の脳だ、死んだ後のね」

「そいつはごめんだな」と私は言った。

「まだ話は途中だよ、ウィリアム。最後まで言わせてくれ。その後の実験結果から、これだけは言えるんだ。脳は特異なほど独立した器官なんだよ。脳は独自に脳脊髄液を作りだす。脳内部で進行する思考と記憶の摩訶不思議なプロセスは、四肢や胴体や頭蓋さえなくとも、いささかも損なわれることはない。むろん一定の条件下で、適量の酸素を含んだ血液を送り込み続けるなら、だがね。

「ウィリアム、ちょっと考えてほしいんだ、自分の脳のことをね。完璧な状態にある。生涯にわたって勉強してきたことが、ぎっしり詰まっている。何十年も培って、いまのそれになったんじゃないか。そいつがいまやっと、最上級の独創的な考えを生み出せるようになったところなんだ。なのに、せっかくの頭脳が、君の体と一緒に死んでいこうとしているんだ。ただ、君のちっぽけな膵臓がガンなんぞに侵された、っていうだけで」

「お断りするよ」私はランディに言った。「そのぐらいにしておいてくれ。ぞっとするような話だよ。仮に君にそんなことができたとしてもだな、まあ、それすらも疑わしいがね、まったく意味のないことだろうよ。しゃべることも見ることもできない、聞くことも、感じることもできないのに脳だけを生かしておいて、いったい何の役に立てようというんだ。私にとっては、不愉快以外の何ものでもないね」

「君ならきっと、ぼくたちと意思の伝達ができるはずだ」とランディは言う。「おまけにある程度なら視力を付与することだってできるかもしれないんだ。まあこれに関しては、おいおい検討してみよう。またあとでこのことは話すよ。ただ、君がじき、死ぬという事実は変わらない。君が死んだ後、勝手にその体をいじろうとかいう計画ではないんだよ。なあ、ウィリアム。真の哲学者というものは、科学のために自分の遺体を貸すんじゃないのかね」

「話がおかしな方へ行ってるな」と私は答えた。「まだ疑わしい点があるんじゃないのかね。君とのつきあいが終わりになるのは、私が死んでからばかりとも限らない、生きてるうちかもしれないんだぞ」

「まあ、そういうことだ」彼はにやりと笑って言った。「確かに君が言うことは正しいよ。でもな、たいして知りもしないうちに、そんなにあっさりとぼくの提案を蹴るのも、どうかと思うぞ」

「だから聞きたくないと言っているんじゃないか」

「タバコはどうだ?」そう言うと、ランディは自分のシガレット・ケースを差し出した。

「私が吸わないのは知っているだろう」

 彼は自分のために一本抜き取ると、小さな銀のライターで火をつけた。シリング硬貨ほどの大きさしかないライターだ。「うちの機器を制作してくれてる連中がプレゼントしてくれたんだ。なかなか精巧なもんだろう?」

 私はライターをためつすがめつ眺めたあとで、返してやった。

「続けていいか?」彼は言った。

「もうその話はいいじゃないか」

「寝っ転がって聞いてくれるだけでいい。君もそのうち興味がわいてくるにちがいない」

 ベッドサイドにブドウを盛った皿があった。その皿を胸の上に載せて、私はブドウを食べ始めた。

「まさに死ぬというその瞬間」ランディは言った。「ぼくは君のそばにいることになる。そうして即座に君の脳を生かしておくための処置に入るんだ」

「つまり頭を切り離すってことだな?」

「第一段階は、そういうことだ。それは避けては通れないからね」

「そのあと、そいつをどこに置くんだ?」

「知りたきゃ教えてやるが、ある種の水盤のようなものの中だ」

「本気でそんなことをするつもりなのか?」

「もちろん。ぼくは本気だよ」

「わかった。で、それからどうするんだ」

「心停止後、脳に新鮮な血液と酸素が補給されなくなると、即座に組織が壊死し始めることは君も知っているだろう。四分から六分のあいだに完全に壊死する。三分後でもある程度は損なわれてしまう。だから、こうした事態を避けるためにも、速やかな処置がなされなければならない。だが、機器の助けを借りれば、一切はきわめて簡単になされるんだ」

「その機器ってやつは、いったい何なんだ?」

「人工心臓だ。うちにはアレクシス・カレルとリンドバーグが開発した人工心臓の改良型があるんだ。それなら血液に酸素を含有させることができるし、血液の温度を正確に維持しながら、適切な圧力で送り込むころができる。それに付随する数々の必要な処置もこなすことができるんだ。ちっとも理解しづらいところはないだろう?」

「死の瞬間、君は何をするつもりなのか教えてくれ」と私は言った。「最初にするのは何だ?」

「君は脳の動脈と静脈がどのように形成されているか、知っているかな?」

「いや、知らない」

「じゃ、聞いておくといい。むずかしいことじゃない。脳は、二種類の大きな動脈によって給血されている。内頸動脈と椎骨動脈だ。そのふたつがそれぞれ二本ずつ、合わせて四本で構成される。ここまではいいな?」

「わかった」

「血液を外へ出す仕組みはもっと単純なものだ。血液は二本だけの大静脈を通って脳の外に排出される。内頸静脈だ。つまり頸部を上っていく四本の動脈と、そこを下りていく二本の静脈がある、ということだね。脳の周囲は、当然いくつもに分岐した血管が走っているが、それは気にしなくていい。我々はそうした血管には絶対にふれないのだから」

「了解だ」と私は言った。「仮にいま私が死んだとしよう。で、君はどうする?」

「即座に君の頭部を切開して、四本の動脈、内頸動脈と椎骨動脈の場所を突き止める。そうしてそれを灌流する。つまり、その一本ずつに中空針を刺してやるんだ。それら四本の針は管を通って人工心臓につながっているわけだ」



(この項つづく)





ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その4.

2011-10-13 23:08:04 | 翻訳
その4.

 ランディが私に向ける無遠慮で研究対象を前にしたかのような、しかも査定でもするかのような、どん欲で奇妙な目つきからすると、どうやら私はカウンターに置かれた極上肉で、ランディはそれを買って包んでもらうのを待っている、といったところらしい。

「私は真剣そのものなのだよ、ウィリアム。この計画を考えてみてはもらえないだろうか」

「何のことを言っているのか、皆目見当がつかないんだが」

「それをこれから話すつもりなんだ。聞いてくれるか」

「話したければ話すさ。聞くだけ損の話かもしれんが」

「その逆だ。君にとっちゃたいした話だよ――とりわけ、死んだあとならね」

 ランディはきっと、それを聞いた私が、びっくりして飛び上がるとでも思っていたにちがいない。だが、私の側はどこかでそれを予期していたのだ。私は平静な気持ちで横になったまま彼をじっと見つめていると、その顔が徐々に笑顔になって白い歯がのぞき、いつものように左上の犬歯に引っかけた部分入れ歯の金色の金具が見えた。

「ウィリアム、これはね、ぼくがもう何年も研究してきたことなんだ。この病院にも手を貸してくれるスタッフがひとりかふたりいる。とくにモリスンという男がいるんだが、ぼくたちは動物実験で何度も成功を重ねてきたんだよ。今となっては、いつ人間に試行してもいい段階に来ているんだ。偉大な着想なんだよ。ちょっと聞いただけじゃ無理な話だと思うかもしれないが、外科的な観点からいけば、多少なりとも実行に無理があるという理由は、まったくないんだよ」

 ランディは身を乗り出し、ベッドの縁を両手でつかんだ。整った顔立ちの、骨格のしっかりした、りりしい顔をしている。外見だけでは医者を思わせるところはどこにもない。君も、いかにも医者という顔を知っているだろう。連中は患者を前にすると、目玉が「あなたを救えるのは私だけ」という、にぶい電気信号を発するのだ。けれどもランディの目は、大きく見開かれ、明るく輝いて、興奮の小さな火花が瞳の奥でまたたいているのだ。

「もうずいぶん前のことなんだが」とランディは言った。「ロシアから届いた短い医学映画を見たことがある。なかなかぞっとするような内容だったが、興味深いものだった。犬の頭が映されているんだが、それが体から完全に切り離されているのだ。だが、正常な血液が人工心臓によって、動脈と静脈を通じて送り込まれている。つまり、こういうことなんだ。犬の頭はトレーの上に載せられたまま、生きていた。脳は機能を続けていたのだ。いくつもの試験がそれを証明していた。たとえば、食物を犬の口の前に持っていってやると、舌が突き出されてそれを舐めるのだ。目は部屋を移動する人間を追いかける。




(この項つづく)





ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その3.

2011-10-10 08:25:28 | 翻訳
その3.

 壮年期にある私に、突如襲いかかった病気のあれやこれやについては、君もよくわかっているはずだ。そんなことで時間を無駄にする必要はないが、同時にこのことだけは認めておかなければなるまい。もっと早く医者のところにいかなかった私は、極めつきのばか者だった。現代の医薬品でも治療できない疾病はいくつか残っているが、ガンもそのひとつだ。あまりに拡がっていなければ、外科手術も可能だが、私の場合は手の施しようがなかっただけでなく、膵臓にまで転移しており、外科手術も、生存も等しく絶望的だった。

 そうしていま、残された命が六ヶ月、ことによれば一ヶ月となって、一時間が過ぎるごとに、どんどん憂鬱になっていった。そんなとき、不意にランディがやってきたのだ。

 六週間前の火曜日の朝早く、君が見舞いに来てくれるよりずっと早い時間だった。ランディが病室に姿を現した瞬間、風と一緒に狂気じみたものが入ってきたのを感じた。ちょうどほとんどの見舞客が、言うべき言葉も知らず、おどおどと決まり悪げに、足音を忍ばせて、つま先立ってこっそりと入って来るのとはまったくちがっていた。力強い足取りで、にこにこしながらやってきて、ツカツカとベッドまで歩いてくると、目をきらきらと輝かせて私を見下ろしながら言ったのだ。
「ウィリアム、完璧だよ。君こそ、ぼくが求めていた人物だ」

 ひょっとしたら私はここで君に説明しておいたほうが良いかもしれない。ジョン・ランディは一度も我が家にやってきたことはないし、君が会ったことがあるにしても、数えるほどのことだっただろうが、私と彼とは少なくともこの九年間はずいぶん親しくつきあってきたのだ。もちろん私は元来哲学の教師ではあるが、君も知ってのとおり、最近では心理学の領域にも、かなり深く関わるようになっていた。それゆえ、ランディの関心事と私のそれはいくぶん重なり合っていたのだ。彼は神経外科医としてはたいしたもので、一流の誉れも高い人物である。ここ数年、その彼が親切なことに、彼の研究成果を私にも勉強させてくれていたのだ。とりわけ、さまざまな型の精神病質者に対する前部前頭葉ロボトミーによるさまざまな影響についてである。そんなわけで、火曜日の朝、突然彼がやってきたときに、私たちが互いをよく知っていたことは、君にもわかってもらえたと思う。

「さて」彼はベッド脇の椅子を引き寄せながら言った。「二、三週間のうちに、君は死ぬ。そうだね?」

 ランディにかかると、こうした問いかけすら、さして心ないものには思えないのだ。こうした忌避されるべき話題をずばっと口にできるほど度胸のある人物の到来は、ある意味では気散じにもなるのだから。

「君がこの病室で呼吸停止したあとは、ここから運び出されて火葬に付されるのだね」

「埋葬してほしいものだな」と私は言った。

「それはもっといけないね。そんなことをしたらどうなる? 天国に行くなんてごたくを信じているのかね?」

「とんでもない」と私は言った。「まあ、そう考えれば慰めにはなるが」

「もしかしたら地獄かもしれないがな」

「いったいどうして私がそんなところに送られなきゃならないのか、皆目、見当がつかないね」

「そりゃ君にはわからないだろうさ、ウィリアム」

「いったい何の話をしているんだ」と私は尋ねた。

「まあ」と彼は口を開いたが、その目が私に注意深く注がれていることがはっきりとわかった。

「個人的な意見を言わせてもらえば、君が死んだ後になって、誰かが君の話をしているのを聞くなんてことは信じちゃいない――あることをしない限りはね……」そうして言葉を切ると、笑顔になって身を乗り出した。「……あること、というのは、だね、君が自分のことをぼくの手に委ねてくれる気持ちがあるかどうか、ってことなんだがね。君はこの提案を考えて見てはくれないだろうか」


(この項つづく)





ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その2.

2011-10-09 23:13:48 | 翻訳
その2.


 ミセス・パールは暖炉の向こうに置いてある、ウィリアムの空っぽの椅子にちらりと目をやった。革張りの大きなアームチェアで、長年、夫が腰を下ろしたせいで、くぼみができている。背もたれのてっぺんの楕円状の黒っぽいしみは、夫が頭を載せていた跡だ。あのひとはいつもその椅子に腰かけて何か読んでいて、その向かいのソファでわたしはボタンをつけたり、靴下の穴をかがったり、あの人の上着に肘当てをつけたりしたんだわ。そしてときどき本から一対の目を上げて、わたしに視線を注ぐのよ。見張るような、奇妙なまでに冷たくて、まるで計算でもしているかのような視線を。あの目がどうにもいやでたまらなかった。氷のように冷たい、小さくて青い目。狭い目と目の間に、不機嫌を絵に描いたような深い縦皺が二本、刻まれていた。今になっても、この家にひとりで生活するようになって一週間が経つというのに、ときどきその目がまだそこにあるみたいに、落ち着かない気持ちになる。戸口や、空っぽの椅子や、夜の窓の外からわたしを目で追いかけているような。

 ミセス・パールはのろのろとハンドバッグに手をつっこみ、眼鏡を取り出してかけた。それから手紙を高くかざして、背後の窓から差す遅い午後の日差しをたよりに、手紙を読み始めた。

 親愛なるメアリー、この手紙は君だけに宛てたもので、私が逝ってから数日後に君の下に届くはずだ。

 手紙に書いてあることを見て、驚かないように。私としては、ランディが私に何をしようとしているのか、どうして私が彼がやろうとしていることを承諾したのか、彼の理論と希望が何であるのか、といったことどもを君に説明するためのひとつの試みにすぎないのだから。君は私の妻であるのだし、こうしたことを知る権利がある。いや、まったくのところ、知っておかなければならないのだ。この数日間というもの、私は何とかしてランディのことを君に話そうとしてきたのだ。ところが君は頑として聞くまいという態度を崩さなかった。こうした態度は、すでに言ったように、きわめて愚かしいもので、しかもある意味、利己的な態度であるとさえ言えるだろう。

だが、君がそんな態度を取ったのも、何も知らなかったせいだろうし、もし一切合切を承知してさえいれば、即座に考え方を改めたにちがいないという確信が私にはある。だからこそ、私がもはや君のそばにおらず、君がいくぶん落ち着きを取り戻した今、君がこの手紙を通して私の言葉に注意深く耳を傾けることに同意してくれるだろうと思っているのだ。断言してもいいが、この話を聞けば、君の嫌悪感は跡形もなく消えて、その代わりに熱中することになるだろう。むしろ私がしたことを、いくばくかは誇りに思ってくれるのではないかとさえ思っている。

 これを読み続けるあいだ、もし許せるものなら私のこの冷淡な書き方を許してほしい。だが、君にはっきりと伝えようと思えば、私にはこの書き方しか思い浮かばないのだ。最期のときが近づいて、感傷的な言葉があふれ出し始めるのは自然なことだ。日ごと、私の物思いは深さを増し、とりわけ夜になると特にそれがひどくなってしまう。なので自分の感情をしっかり見張ってでもいなければ、感情が手紙の端々にまであふれ出てしまいそうになる。

 たとえば、君のことを書いておきたい。私にとって君はこれまでどれほど満足のいく妻であったか。もし時間があれば、そうして私にその力が残っていさえすれば、つぎにそのことを書き留めておくと約束しよう。

 そうしてまた過去十七年間にわたって、そこで生活し、教鞭も執ってきたオックスフォードのことも書いておきたい。そこがどれほど栄光に満ちた場所であったか。そうしてできることなら、そのただなかで仕事ができたことが私にとってどれほど大きな意味があったかについても明らかにしておきたい。私が心から愛したあらゆるものや場所が、この陰鬱な寝室に横たわる私の脳裏に、たえず浮かんでくる。かつての日々と同じように明るく美しいのだが、とりわけ今日はどうしてか、いままでよりもさらにくっきりと見えてくるのだ。ウースター・カレッジの庭園の池の周りの小道、そこではかつて数学者ラブレースがよく散策したものだった。ペンブルク・カレッジの門。マグダレン・カレッジの塔から望む街西部の風景。クライストチャーチの大ホール。セント・ジョンズにある小さな石庭では、私は十二種類以上のホタルブクロを見つけたが、そのなかには稀種であり、なおかつかれんなC.ワルトシュタイナも含まれていた。……ほら、この通り。まだ話を始めてもいないのに、すでに罠に落ちてしまっている。だからいいかげん始めることにしよう。君が悲しんだり、不満に思ったりすることなくゆっくりと読めるように。そうすれば君の理解が妨げられることもないだろう。ここで約束してくれ。落ち着いて読むこと。読み始める前に、冷静で辛抱強い状態になるよう、感情を整えることを。



(この項つづく)






ロアルド・ダール「ウィリアムとメアリー」その1.

2011-10-08 22:24:03 | 翻訳

すいません。しばらく忙しくてこちらまで手が回りませんでした。
またがんばって更新していくので、よろしくお願いします。

今日から何回かに分けて、ロアルド・ダールの短篇「ウィリアムとメアリー」を訳していきます。まとめて読みたい方は一週間後ぐらいにのぞいてみてください。

原文はhttp://www.ceng.metu.edu.tr/~ucoluk/yazin/William_and_Mary.htmlで読むことができます。

* * *

"William and Mary"(「ウィリアムとメアリー」)


By Roald Dahl




 ウィリアム・パールは死後、財産というほどのものは残さなかったし、遺書も簡単なものだった。親戚数人にささやかな遺贈をしたほかは、財産はすべて妻に譲る、としたのである。

 事務弁護士とミセス・パールは弁護士事務所で遺書をあらため、その作業も終わったので、未亡人は帰ろうと席を立った。そのとき弁護士が卓上の紙ばさみから、一通の封ぜられたままの封筒を取り出し、依頼人に手渡した。

「これをお渡しするように、とのお言付けです」と彼は言った。「お亡くなりになる少し前、ご主人が当事務所宛にお送りくださったものです」弁護士は青白くしかつめらしい顔をしている。未亡人の気持ちをおもんぱかって、伏し目がちのまま、頭を少し傾けるようにして話をした。「おそらく『親展』ということでしょう。奥様もお持ち帰りになって、おひとりでご覧になりたいのではございませんか」

 ミセス・パールは封筒を受け取って、建物から通りへ出た。歩道に立ったまま、指先でそれをさわってみる。あの人からのお別れの手紙? たぶん、そんなところね。堅苦しい手紙。形式張って――情のこもらない、型どおりの手紙に決まってる。あのひとは、そうでないふうにはできない人だった。一生涯、打ち解けることがなかった。

 親愛なるメアリー、私がこの世を去るにあたって、さぞかし君を悲しませることになるにちがいない。だが、君のことだから、これからもあの金言を守ってくれると信じている。わたしたち夫婦がともに過ごしてきた日々、君は金言のおかげでうまくやってこれたのだから。何ごとにおいても絶えず努力を怠らず、品位を保つこと。倹約に努めること。くれぐれもみだりに……等々。

 ウィリアムの手紙の典型。ひょっとしたら、いまわのきわになって、ふっと弱気がさして、あいつに何か優しいことを書いてやろう、なんて気にでもなったりして。もしかしたら、すてきな優しい手紙、ラブレターみたいなものかもしれない。自分に人生の三十年間を捧げてくれた女性、百万枚のシャツにアイロンをかけ、百万回食事を作り、百万回ベッドを整えてくれた女性に対する感謝の気持ちをつづった、すばらしい、暖かな気持ちのこもった手紙かも。何度も繰り返して読みたくなるような、一日に一回は読まずにいられないような、そうして大切に箱におさめて、ブローチといっしょに化粧台のひきだしにしまっておきたくなるような。

 死を目前にした人間が、いったいどんなことをするものか、誰にもわかるはずがない。ミセス・パールは独り言を言うと、封筒を小脇に抱え、家路を急いだ。

 玄関を開け、まっすぐ居間へ行き、帽子もコートも取らずにソファに腰を下ろした。それから封を切り、中身を引っ張り出す。罫の入った白い用箋が十五枚から二十枚、左肩をクリップで留めたものが二つ折りにしてある。そのどのページにも、あまりにも見慣れた手書きの文字、小さくて几帳面で、左に傾いた字で埋まっていた。どのくらいの分量がそこに書かれているかわかったとき、しかも四角四面で事務的な調子で書かれていて、最初のページの書き出しの部分さえ、手紙でふつうそうするようなやさしげな言葉で始まっていないことに気がつくと、ミセス・パールの胸の内に疑問が生じた。

 手紙から目を離し、タバコに火をつけた。一服してからタバコを灰皿に置く。

 もしあれが、何を言おうとしているのだろう、と疑うような手紙なら、わたしは読みたくない、と思う。
 
 死んだ人間からの手紙なんて読みたくない、と拒否してもいいのだろうか。

 平気よ。

 でも……。



(この項つづく)