陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

陰陽師的2006年占い

2005-12-31 21:25:31 | weblog
わたしは占いがキライだ、と、昨年ここで書いた。
いまでももちろん好きになったわけではないのだが、考えてみれば日常的に似たようなことをやっているのである(「はぁん……。この文章じゃちょっと××は辛いなぁ」)。ここでやってみるのも一興だろう。

一応星占いの分類に従っているけれど、これは一切占星術とは関係ない。
以下の占いは、わたしの観察の結果、導き出されたものである。
各星座のキーワードが、おそらくは来年のあなたを救ってくれることもあるかもしれない可能性は決して否定できないはずである。


【牡羊座】2006年のキーワード:親切は必ずしも報われるわけではない
とても親切なあなたは、目の前の困っている人を放っておけません。ところが電車で目の前に小さなおじいさんがきて、席を譲ろうとすると「わしはそんな歳じゃない! 失礼な!」と怒鳴られることがあるかもしれません。そういうとき、このキーワードを思い出してください。降りるとき一緒におじいさんをかついでホームに放りだしたくなる衝動は十分に理解できますが、実行してはいけません。

【牡牛座】2006年のキーワード:モノを捨てる
あなたの家はものでいっぱいです。もちろんです。それはすべてあなたが生きてきた証です。でも周囲を見回してください。詰め込みすぎて開かなくなった引き出し、うずたかく積み上げられていまにも崩れそうな雑誌、空き瓶のなかの輪ゴムやペーパークリップ、冷凍庫の中には正体不明のタッパーウェアはありませんか? 2006年には新しいモノをひとつ持ち込む際には、古いモノをふたつ捨てることにしてください。1月1日から、それがムリなら2日から……少なくとも、12月31日までには。

【双子座】2006年のキーワード:モノを大切にする
世の中は新製品のニュースでいっぱいです。新しい型の車。新しいデザインのブーツ。新しいパソコン。iPodだってつぎつぎニューバージョンが出ます。でもちょっと待って。最新型はあっというまにつぎの最新型に取って代わられます。その「最新型」は、つぎに改良される前の、出来の悪い「つなぎ」かもしれません。どうせ中身はたいして変わりはしないのです。「新製品? まだそんなことを言ってるの? フッ」と肩をすくめて笑って、いま使っているモノを大切にしましょう。

【蟹座】2006年のキーワード:蓄財の精神に目覚める
ほしい、と思うものは、まちがいなく必要のないモノです。ほんとうに必要なモノなら、あなたはすでに買っているはずだからです。耳元で買え、買えと囁く物欲番長に屈してはなりません。お金には「使う」「払う」よりほかに動詞があることを学びましょう。「作る」、「稼ぐ」、「貯める」、「使わない」(「払わない」は犯罪に結びつく可能性が高いので、やめておきましょう)。

【獅子座】2006年のキーワード:神は細部に宿る
あなたの家の冷蔵庫をよく見てください。捨てるには惜しいけれど、いざ食べるとなるとちょっと、という残り物や半端物がずいぶんありませんか? 冷凍庫になると、さらにそれは「そこにしまう」ことが目的となっている可能性があります。あなたがもし神の存在を信じているのなら、このキーワードを思い出してください。神はおそらく三ヶ月前のガチガチに凍ったひじきの煮付けの残りのなかに宿りたくはないはずです。冷蔵庫のモノの出入りのチェックはお忘れなく。

【乙女座】2006年のキーワード:細かいことにこだわらない
長年使っているモノに対しては、あなたは、必要以上にそのモノに愛着を抱いていませんか? いつも身近にあり、それが同じモノ、あるいは同じブランド、同じ型であれば、人生に連続性が与えられるような気がします。だから、もしかしたらあなたはお気に入りの消しゴムを(あるいはヘアブラシを、靴クリームを)見つけるたびに買ってくるので、家にはそれが17個あるかもしれません。でも、大丈夫。あなたの人生に連続性を与えているのは、あなた自身です。MONO NONDUST消しゴムが手元になくなったからといって、世界が終わるわけではありません。

【天秤座】2006年のキーワード:自分が知らないことを他人が知っているわけではない
Webの検索機能のおかげで、おどろくほどさまざまな情報を容易に知ることができるようになりました。「マルホランド・ドライブ」をたとえぼけーっと見ていて店の裏の一瞬のショットを見逃したとしても、検索すればあらましを知ることができます。それでも「父方の叔母さんの結婚相手の“ヒロシ”という漢字は弘だったか博だったか宏だったか」という疑問に他人が答えてくれる可能性は限りなく低いことを知りましょう。

【蠍座】2006年のキーワード:自分が知らないことをみなが知らないわけではない
自分が知らないことは他人も知らない、自分が読めない漢字は他人も読めない、自分が書けない英語のつづりは他人も書けない、ということは、決してありません。それどころか、それを知らないのは、もしかしたらあなただけかもしれません。人に聞いて恥をかくまえに、辞書を引きましょう。
「グッドタステ? これ、どういう意味?」
「知らへん」
「新製品ちゃうの? よいタステ」
隣で聞いている人間が辞書をぶつけてやろうかと思っているかもしれません。(ちなみに実話。紙コップに書いてあったのは"good taste"という文字)

【射手座】2006年のキーワード:うまい話に注意
「全品売り尽くしセール」と書いてあったら、それはたいしたセールではありません。件名に女性名の書いてあるメールはスパムで、儲け話はマルチ商法です。自分が儲けることに一生懸命な人は、あなたのことを誘ってはくれませんし、あなたを誘ってくれる人は、あなたと楽しみたいから、もしくはあなたから金をはき出させたいからで、儲けさせてあげたいわけではないのです。

【山羊座】2006年のキーワード:忘れ物に注意
何か忘れているのではないだろうか、と思ったら、まちがいありません。必ず何か忘れています。忘れていないかどうか考えることさえ忘れるかもしれません。ですからこのキーワードは熟読しておいてください。歯は磨きましたか? 鍵は持ちましたか? ちゃんと靴をはいてますか? メールを出さなければならない人を忘れていませんか? 思い出したら、即実行。あとでやろう、は禁物です。まちがいなく、また忘れてしまいます。

【水瓶座】2006年のキーワード:新しいことを学ぶ
指を折らずに数を数えるとか、ペルシャ語でスイカはヘンダワネというとか、椅子に坐ってぼんやりとするとかの新しいことを学ぶのがいいでしょう。こうしたことは、一見無駄にも見えますが、けっしてそんなことはありません。たいせつなのは、人生にできるだけの新鮮さを加えることです。高い山に登ることやインドを放浪することも、生きるすばらしさを思い出させてくれるでしょうが、新しい画家をひとり知ることも、負けないくらい人生を豊かにしてくれます。

【魚座】2006年のキーワード:経験から学ぶ
あなたが選んで並んだレジは、一番遅いレジで、同じ失敗は何度でも繰り返します。誤ったことをして、あとで謝罪しても、それをなかったことにすることはできません。あなたはこうしたことをすでに経験から学んでいるはずです。経験は、たいがいのことに「答え」などないことを教えてくれますが、それでも答えを知っているかのようにふるまうことが大切です。

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明日はせっかくのお休みなので、ネコのように怠惰にすごすつもりです。"Live at Budokan"のDVDも買ったし、DVD見て、あとは本の整理をしていたら出てきたディックの『ユービック』でも読んで、ほかはなーんにもしないつもりです。

ほんとはリリアン・ヘルマン、部分的にずいぶんおかしなことを書いているし(なんで書いてるときは視野狭窄になってるって気がつかないんだろう)、書き直さなきゃいけないとも思ってるんですが。まぁそれはまた後日、ということで。

ということで、みなさま、よいお年を!
「陰陽師的日常」は、2日からまた再開します。

みなさまにとって、2006年がすばらしい年でありますように。

 椎茸と昆布で年越しそばのだしをとりながら
  陰陽師 拝

サイト更新しました

2005-12-30 22:48:35 | weblog
先日までここで連載していた「リリアン・ヘルマンについて」、「リリアン・ヘルマン――ともに生きる」として、加筆・修正してサイトの方にアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/

大変でした(また言ってしまった)。
なんとか今年中に仕上げようとがんばりました(「どうということはありません」とカッコよく言える日は来るのか?)。
もう頭は絞りかすで、ついでに換気扇の油汚れを性根を入れて取ったもんだから、握力までありません。

明日、今年最後の記事は、わたしからのささやかな贈り物ですので、どうかまた遊びに来てください。
それじゃ、また。


今日はつなぎ、ということで

2005-12-29 22:37:58 | weblog
ありがたい話

文句を言ってはいけない。仕事があるだけでありがたいと思わなければならない。
それでもわたしは31日まで仕事だ。そして、来年は2日から仕事だ。
それでも元日は休みだ。ありがたいと思わなければならない。

今日あたりから世間は冬休みになったらしく、朝の電車がぐっと空いていた。それは大変ありがたいことだ。席は見つからなかったけれど、それでも電車の中でゆっくり本が読めたのはありがたかった。

ずっと治らなかった風邪が、今日あたりからなんとなく抜けてきた。咳のしすぎで全身が筋肉痛なのだが、咳も徐々におさまってきたことを思うと、これもありがたいと思わなくては。

仕事に行ったら、向かいの席の人が怒っていた。
昨夜車に乗っていて、信号が赤に変わった瞬間、急いで交差点を渡ったら、後ろを走っていたパトカーに停められたのだという。
「急に停まったら危ないやないですか」
と主張したのだが、まったく聞き入れられなかったのだそうだ。
「みんなやっていることやないですか」とさらに言い募り、「年末やから、あんたらもノルマ、あるんでしょう」とまで言ったら、交通違反の切符を切られたのだそうだ。
真後ろにパトカーがいて、そういうことをやったんですか、ずいぶん大胆ですねーとわたしが言ったところ「ええ気持ちで音楽聴いとって、気ィつかへんかった」という答えがかえってきた。
この人の同乗者でなくて、ほんとうにありがたいことだった。

昼休みに銀行へ行った。四十五分の昼休みのうち、銀行へ往復するのに要する時間が八分、さらに十七分並んで待ったため、昼休みの半分以上がなくなってしまった。あらかじめ、二時間待たなければならない、というのであれば、それなりに予定も立てられるし待つ間の準備もできる。そうでなくて、ただ列に並んで待つ十七分というのは、まったく楽しいことがない。しかも、それがいったいいつまで続くのか、待っている間というのは、わからないのである。わたしは待つのがものすごくきらいで、それだけに人を待たせることがどうしてもできない。待ち合わせすると、いつも余裕を持って出かけることにしているのだけれど、不慮の事態で遅れそうになると、相当に動揺してしまう。そうしたわたしから見ると、人の全財産を預かっておきながら、平気で待たせるという銀行の神経は理解しがたいものがある。ただ、待っている間、「いつまで待たすねん」と警備員のおじさんにずっと文句を言い続けているおじさんがいた。無関係の人に八つ当たりするというのは、見苦しいものだということがよくわかった。これもありがたいことだった。

かくしてわたしの精神修養は、日々着々と進行しているのである。
銅像が立つ日も近い、かもしれない。

***
明日には、リリアン・ヘルマン、アップできると思います。いま、せっせと手を入れているところです。ということで、明日また。

リリアン・ヘルマンについて 最終回

2005-12-28 23:03:19 | 
ダッシュとリリー

大学三年の時、とあるパーティで出版社の副社長と知り合ったヘルマンは、そのまま編集者としてリブライト社で働くようになる。そこでは自身の弁によると、ほとんどまともに仕事もできず、1920年代のフラッパーらしい、パーティに明け暮れる生活だったようだ。やがて若い作家/劇作家のアーサー・コーバーと知り合い、結婚、彼がハリウッドに招聘されたのを機に、ヘルマンもハリウッドに移る。そこで台本の下読みなどをしていたヘルマンは、ハメットに会う。ヘルマンは25歳(生年を1905とすると)、ハメットは36歳だった。
 ハメットに会ったとき……(中略)……わたしはひつようとしていたものに行き会ったのだった。彼のきまりはわたしのとはちがっていた。でも、わたしにとってもっと大事だったのはそのことではなく、ハメットの拒絶であった。どんな危険、どんな誘惑があろうとも、自分の決めたルールからそれることを拒む彼の態度である。わたしは、自分を固持する人、自分自身である人を見つけたのだった。(リリアン・ヘルマン『三』:『子供の時間』あとがきからの孫引き 小池美佐子訳 新水社)

のちにふたりはこの出会いの日をあてずっぽうに1930年11月25日、と決めることになる。そのときハメットは、生涯に書くことになる長編小説のうち四作を書き上げており、ハリウッドでもニューヨークでも、人気の的だった。貧しく無名のころをともにした妻とふたりの娘はサンフランシスコにいたけれど、思いつきで小切手を送るほかは寄りつかず、ハンサムで有名で金離れが良く酒浸りのハメットのまわりには、気楽な関係の女が大勢いた。

ヘルマンは1932年、アーサー・コーバーと「波風も立てず」(『ダシール・ハメットの生涯』による。ヘルマン自身による回想録にはいっさい離婚に関する記述はない)離婚し、ハメットとふたりで東部で暮らすようになる。ここでハメットは、探偵小説はこれで最後、と『影なき男』を完成させた。

ヘルマンはこのときをふりかえって、こう書いている。
 半分書き上がった原稿を読めと渡され、わたしがノラだと教えられたときはとてもうれしかった。自分がノラで、ニック・チャールズと結婚しているだなんて! おたがいに相手が大好きで、一緒にたのしい時を過ごすカップル。近代文学の中でも、こんな結婚をしている男と女はざらにはいない。だけどすぐにわたしはおちこんでしまった。この小説の中のバカな女やあばずれもきみのことだと、ハメットに言われたのだ。ただの冗談だったのかもしれない。が、あの頃のわたしは、そういわれてすごく不安になった。彼によく思われたかった。たいていの人が同じことを願った。(『未完の女』)

作家になることを半ばあきらめかけていたヘルマンに、もう一度だけ努力してみるよう薦め、「堅固な土台」として、スコットランドで起きた事件の裁判の記録を使うよう助言した。「もたつきながらも頑固に粘り通した一年半」ののち、ヘルマンは戯曲『子供の時間』を書き上げる。これはブロードウェイで691回連続公演という華々しいヒット作となり、ヘルマンは一躍時の人となった。
 1934年のクリスマス。ハメットの年収は八万ドルを超す巨額に達した。が、物書きとしては終わっていた。このあと、さらに二十六年の人生が残っていた。(『ダシール・ハメットの生涯』)


ヘルマンは、「わたしの書いた十二の戯曲のうち十篇がハメットと関わりがある」としている。1951年に書き上げた戯曲『秋の園』のなかのこの台詞は、どうしても書き上げられなかったヘルマンに、ハメットは部屋から出て一時間したら戻ってくるようにと言い、戻ってみるとハメットが書き上げていたというものである。
 だから、どのような時にせよ、その時は君がそれまで生きてきた集大成なんだ。それを支える小さな時の積み重ねなくして重大な時に到達することは出来ない。決断のための重大な時、人生の転換期、過去のあやまちをにわかに拭い去ろうと待ちかまえている日、今までしたこともない仕事をしたり、考えたこともないやり方を思いついたり、持ったこともないものを持ったりする――その日はいきなりやってきはしない。それを待っている間に君は自分を鍛えておいたんだ。そうでなければ君は君自身をつまらぬことに使い果たしてしまったんだ。僕がそうだったんだ、グロスマン。(『秋の園』ピーター・フィーブルマン『リリアン・ヘルマンの思い出』より孫引き)


こののちほどなくハメットは投獄され、ヘルマン自身の身辺も、きな臭くなってくる。
「リリー、角まで来たら、きみは決心しなければいけないよ。ぼくはぼくの道を行かねばならないんだから。きみは、いってみれば、ぼくにひとかたならずよくしてくれたが、現在では、ぼくはきみの悩みの種であり、重荷になっている。もし、きみがいま、ぼくにさよならをいったとしても、ぼくは責めはしない。だが、もしきみがそういわないのなら、もう、ぼくたちは二度とこの話をもちだしてはならないんだ」

 街角まで来ると、わたしは泣き出した。彼も泣きださんばかりのようすだった。わたしが口をきけないでいるので、彼はわたしの肩に触れ、それから下町のほうへ歩いていった。わたしは、彼が見えなくなるまで町角に立っていたが、しばらくして駈けだした。やっとのことで追いつくと、ハメットがいった。

「ぼくはこのところ一杯やりたいと思ったことがなかったが、ひとつやりたいね。とにかく、きみにおごろうじゃないか」(『未完の女』)

やがてハメットが愛し、ヘルマンが終の棲家と定めたはずの農場を手放さなければならない日がやってくる。ニューヨークへ戻ったふたりは、しばらく別々に暮らしていたが、ほどなくまた一緒に生活するようになる。ハメットの体調は、意地を張り通せなくなるほど悪化していたのだった。

1960年、ハメットの死がそう遠くないころに思われたヘルマンは、「二人のこれまでの付合いは、すてきだったと思わない?」と聞いてみる。「すてきという表現は、ちょっと大げさすぎるな。たいていの連中よりはましだった、という程度で満足していいのじゃないか」と答えたのだった。

『未完の女』をハメットの回想で締めくくるヘルマンは、書いている「現在」の心境をこのように記している。
これを書いている現在でも、わたしはいまだに、なにごとも自分の思いどおりにしなければ気のすまなかった彼のことが、腹立たしくもあり、また愉快に思ったりもする。つい二、三分前にも、わたしはタイプライターの前から立ちあがり、まるであのひとと相対しているような調子で、そういう強情さをののしったばかりである。いまでもわたしは、十八歳のころと同様、ロマンチックな恋愛がどういうものであるかほとんど知らないが、持続する関心のもたらす深いよろこびや、相手がなにを考え、どういう行動をとるかを知りたいという、胸のときめき、実際にやったり、計画しただけでやらなかった悪戯のかずかず、短い紐が歳月とともにつながって一本のロープとなり、わたしの場合には、彼の死後ずっとそれが中途はんぱでぶらんと垂れたままになっている悲しみ、そういうものは味わったつもりでいる。ハメットがこの回想録のほかの部分を読んだら、どんな気持を抱くだろうか、はっきりとはわからないが、いまになってもわたしが腹を立てていると知ったら、あのひとのことだから、きっと愉快がるだろうことは、これはわたしにも断言できる。(『未完の女』)

ヘルマンのすごいところは、ハメットの死後、回想録を書いて人生の「残りのとき」を過ごしたわけではない、というところだ。二年後、二十五歳年下ののピーター・フィーブルマンと、自身の生涯が終わるまで、ともに暮らしている。三冊の回想録を書き上げたあとも、中編小説(これは自身を思わせる語り手が登場するが、フィクションである)を発表、さらにフィーブルマンと共著で『一緒に食事をー回想とレシピと』(小池美佐子訳 影書房)を出す。エッセイの間にレシピが入るもので、晩年までおいしい物が好きで、生きることにどん欲で、「おもしろい」人間でありたがったヘルマンの姿が浮かび上がる。

ヘルマンは『未完の女』をこの言葉で締めくくっている。
 けれどもわたしは、現在よりも過去を大切に思うほど、年をとってしまったわけではない。感じる必要がない苦しみや、過去にしでかした、そうしてこれからも、しでかすにちがいないわたしの愚かしさを考えると、しばらくのあいだ悲しくなってしまう夜があることも確かだけれど。〈真実〉や〈意味〉を見いだそうとして、人生のきわめて多くの時間を費やしてしまったことには後悔している。〈真実〉とはどういうものか、結局はわからなかったし、〈意味〉も見つけることはできなかった。つまり、わたしはあまりにも多くの時間を無駄にしてしまったために、依然として、あまりにも未完成なままであるのだ。だがしかし……。(この箇所私訳)


ヘルマンは〈真実〉や〈意味〉を見いだそうとして、過去を回想した。けれども、振り返っても、どこまでいっても、〈真実〉や〈意味〉は判然としない。そこでヘルマンは、未完成の自分をかみしめつつ、それでも「だがしかし」と前を向くのである。

わたしはやはり、ここに自分の声を聞くように思う。

リリアン・ヘルマンについて その6.

2005-12-27 22:44:03 | 
ならず者の時代 後編

ピエール・バルマンの新しいドレスを着て、怯えながらも昂然と出頭したヘルマンに対する聴聞会は、一時間余という短時間で終わり、法廷侮辱罪に問われることもなく、訴追されることもなかった。子供のころ、乳母から「何を食べようと、どんなに気分が悪かろうと、吐かないんだよ」と言われたヘルマンは、その日の午後遅くから二日間、嘔吐しつづけたけれども。

ヘルマンが罪に問われなかった理由は、実のところ、よくわからない。
彼女は、他人の名前をあげるよう強制されたときにのみ第五条を使うつもりであると書き送ったのだが、そうすることで、第五条を「正当に」つまり自己防衛のために使おうとしなかったことになる。彼女は侮辱罪に問われかねず、事実、彼女が侮辱罪を宣告されなかったことに驚いた人もいた。『タイム』誌は、彼女がそれを免れたのは出頭の際、弁護士のジョゼフ・ラーウが手紙のコピーを配布するという演出のおかげだ、と暗にのべている。
ギャリー・ウィルズ『ならず者たちの退場』(『眠れない時代』所収)

ヘルマンは、自分でも繰り返し述べているように、「政治的な人間」ではなかった。人間としてのディーセンシー(ここでは「品位」と訳すことにする)で闘おうとした。これは、非米活動委員会の三十年間の歴史のなかでも「画期的」であり、後の証言を拒否していくやりかたに道を拓くものとなったのである。

1953年、「赤狩り」と「セイラムの魔女裁判」を重ね合わせた戯曲『るつぼ』を発表したアーサー・ミラーは、翌年ヨーロッパ公演のために渡航手続きをした際に、国務省からパスポートの発行を拒否され、さらに56年、非米活動委員会の喚問を受ける。このときヘルマンの弁護士でもあったラーウが担当、同じく「わたしの良心は、誰か他の人の名前を使うことを許しません」と述べて答弁を拒否したが、侮辱罪に問われ三十日の実刑を受けている(上訴し、後、無罪)。

ヘルマンやミラーのように証言を拒否した者は多くはなかった。ほとんどの者が委員会の命じるまま、あるいは志願して、共産党との関わりを供述し、反省し、友人の名をあげた。なかでも有名な「友好的証人」は、映画監督のエリア・カザンだろう。いったん証言を拒否しながらも、やがて翻意し、交友関係の詳細を名前をあげながら証言したのである。こうした「友好的な証人」の口から漏れた名前によって、三百人以上がハリウッドを追われることになった。そのなかには、もちろんハメットも、ヘルマンも、ミラーも含まれる。あるいはまたチャップリンのように、非米活動委員会の召喚を拒否してヨーロッパに渡り、再入国の道を断たれた者もいた。この「ブラックリスト」に名前が載れば、地位も名声も収入も奪われたのである。

罪にこそ問われなかったものの、ヘルマンの生活はまるで変わってしまう。「ブラックリスト」で追放され、農場は手放さなければならなくなり、またハメットの収入は差し押さえられた。一時は偽名で、デパートでパートタイムの仕事に出たこともある。後、ニューオーリンズに住む叔母から、思いがけない遺産が入ったり、戯曲『屋根裏部屋のおもちゃ』の成功で、マーサズ・ヴィンヤード島に別荘を借りることができるようにまでなった。ヘルマンはそこでハメットを看取ることになる。

ヘルマンがこの時代を回想した『眠れない時代』は、発表後、たちまち大変な論争を巻き起こした。当時「手をこまねいていた」とされる人々が、書評やさまざまな場面で一斉に反論を始めたのである。時代や事実の不整合を指摘する者や、なかには「英雄気取りのスターリニスト」という誹謗、メアリー・マッカーシーのように「"and"や"the"に至るまですべてデタラメ」という批判まであった。

わたし自身は、その批判の当否を云々できるような知識はないのだが、それでもこのヘルマンの作品は「あなたはそのときどこにいたの? 何をしていたの?」と、当時生きていたひとりひとりに問いかけるものであったのだと思う。それぞれの立場は決して均一ではなかったし、直接的な攻撃にさらされたハリウッドと比較すれば、雑誌や新聞などは、比較的影響は少なかったようだ(参照:R.H.ローピア『マッカーシズム』)。

マッカーシズムの嵐が吹き荒れるさなか、激しい怒りにかられたレイ・ブラッドベリは『華氏451度』を著した。疑問を抱き始めた「焚書官モンターグ」に対して、上司はこのようにいう。
「わかるだろうな、モンターグ? これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめからそんな工作はなにひとつしなかった! 工業技術の発達、大衆の啓蒙、それに、少数派への強要と、以上の三者を有効につかって、このトリックをやってのけたのだ」

ときに、わたしたちは、取るべき態度を迫られることがある。

非常に個人的な出来事を、ここで持ち出すのは意味がないのかもしれないけれど、わたしは先頃このような経験をした。
思想信条というほど大げさなものではなくても、日ごろ自分のなかで、「生きていくうえでのルール」としていることがいくつかある。ところが、あるできごとがあって、相手から求められたわけでもないのに、単に自分が「悪く思われないため」に、自分からすすんでこのルールを破ろうかと思ったことがあった。結果的にわたしはそのことをしなかったのだけれど、このことをめぐってはあとあとまで考えることになった

悪く思われたくない、というのは、自分が排除されたくない、という意識だ。排除されないために、自分の「ルール」を破り、自発的に服従しようとする。こうした心理的な流れが自分の中にはっきりとあった。
ヘルマンと同じ時代、同じ場所にいたら、自分はどうしていただろう。

十四歳のとき、家出をしたヘルマンは、その経験から「有用で危険なこと」を発見した、という。「つまり、よろこんで懲罰を受ける覚悟さえあれば、闘いはもう半ば終ったも同然だということだった」(『未完の女』)
確かに、これはひとつの真実であると思う。ときにその懲罰が不当なほど大きいときもあるけれど。


さて、この「赤狩り」問題も、入り込んでいくととめどもなく深い領域なのだけれど、体調はずっとよくないこともあって、体力が続かないので、この問題はひとまずこれでケリをつけ、明日、最後にヘルマンとハメットのことにふれて、この項を終わることにしよう。

リリアン・ヘルマンについて その5.

2005-12-26 22:55:31 | 
ならずものの時代 中編 

 ――わかるだろうな、モンターグ? これはけっして、政府が命令を下したわけじゃないんだぜ。布告もしなければ、命令もしない。検閲制度があったわけでもない。はじめからそんな工作はなにひとつしなかった!
レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(宇野利泰訳 ハヤカワ文庫)


多数の人間が30年代に共産党員であったのは、彼らの見方しだいで進歩党員(シオドア・ローズヴェルトが1912年に結成した)であったり、“平和と自由”運動に投票したのと似たようなものだった。ところが40年代には、過去の行為を悔いたり、波風が立つことをおそれるなら、人々は歴史を否定し、調査し、罵り、修正しなければならなかった。脱党して共産党員ではなかったふりをするか、党員だったことを認めたうえで、それはまちがいだったと後悔してみせるか、あるいは、その二つを奇妙に組みあわせて取りつくろわなければならなかった。

かつての友人を密告して共産党員を追いつめ投獄させなければ、職を失うとわかっていた。以前は公平だった裁判官たちも、いまでは、共産党が“はっきりとした眼前の脅威”であると信じているようだった。というか、信じているふりをしていた。追いつめられた共産党員たちはハリウッドや政府、陸軍、国務省でもみつけだされた。彼らがかつてのギャングや詐欺師の常套手段であった憲法修正第五条(※「何人も刑事事件において、自己に不利益な供述を強制されることがない」というもので、通常、黙秘権の行使を保証する条項と解釈される)を楯にとったので、まともな人たちさえ共産党員たちをその同類とみなした。
ダイアン・ジョンスン『ダシール・ハメットの生涯』小鷹信光訳 早川書房)

ダシール・ハメットは1937年(あるいは8年)、共産党員となる。当時の多くの人々がそうだったように、社会的不正義の是正、ファシズムとの闘う場を、そこに求めたのである。
ヘルマンは、それ以前からハメットと恋愛関係にあったが、直接には聞いたことがなかった。
いってみれば、けっして一つの主義を奉じることのできない女が、すでに主義者となっていた男と対決していたのである。ハメットは後年みずから明らかにすることになったように、社会主義の信条をみずからの生き方としていたのである。ただし彼は、多くのマルクス主義思想と、その過去から現在にわたる実践者たちにはきわめて批判的で、肩をすくめてとりあわなかった。わたしは、それと知らずに彼の信条をうち砕こうとし、それができないとわかると、尊敬したり、そねんだり、怒ったりしたのだった。
引用は『未完の女』

1951年、ダシール・ハメットは、共産党員の保釈基金の管理者を起訴しようとする裁判で、憲法修正第五条を楯に証言を拒んだため、法廷侮辱罪に問われ、刑務所に送られる。
そうして1952年2月、こんどはヘルマン自身が下院非米活動委員会の喚問を受けることになる。

下院非米活動委員会委員長
ジョン・S・ウッド殿

 ウッド殿――

 ご存じのように、1952年5月21日、わたしは貴委員会に出頭するよう召喚状を受けております。

 わたしは、自分にかんするご質問には何なりと喜んでお答えするつもりでおります。貴委員会に隠すことは何もありませんし、自分の人生で恥ずかしく思うところもありません。憲法修正第五条に則り憲法が保障する権利として、政治的信条、活動、交際についての質問には、自分の不利になるようなら答えなくてよいと弁護士にいわれておりますが、わたしはこの権利を主張しようとは思いません。わたしたちの政府の代表のまえで、自分の信条と行動にかんしてなら、たとえみずからに不利な結果を招こうとも、わたしは進んで証言するつもりでおります。

 ところで、もしわたし自身にかんするご質問に答えるのなら、ほかの人たちにかんするご質問にも答えなければならず、それを拒否すれば侮辱罪に問われてもやむをえない、と弁護士は申します。自分自身について答えると、わたしは修正第五条で保障された権利を放棄することになり、他人についての質問にも答えるよう法律上強要されるのだ、と弁護士は言うのですが、これは素人にはどうにも理解しかねます。

しかし、ひとつだけわたしにも理解できる原則があります。それはわたしとの過去のつき合いにおいて、不誠実とか破壊的であるような言動のまったくなかった人たちに災いをもたらすようなことは、いまもこの先もしたくないということです。破壊行為や不誠実はいかなるものであれ、わたしは好みません。もしそういうものを見つけたら、当局に届け出るのがわたしの義務だ、と考えております。しかし、自分を救うために何年も昔の知己である無実の人たちを傷つけるなどということは、非人間的で品位に欠け不名誉なことに思われます。わたしは、良心を今年の流行に合わせて切断するようなことはできませんし、したくありません。自分が政治的な人間ではなく、政治団体のなかでは居心地が悪いという結論に、もうずっと以前から達しているにもかかわらずです。(……略……)

 わたしは自己負罪を拒む権利を放棄し、自分の見解や行動について、ご希望とあれば何なりとお話するつもりでおりますが、それは貴委員会が、ほかの人たちの名をあげるよう、わたしに要求しないと同意して下さるならばです。もし貴委員会からこの保障を頂けないのでしたら、わたしとしては公聴会で修正第五条の権利を主張せざるを得ないことになりましょう。

 お返事お待ちしております。
リリアン・ヘルマン

引用は『眠れない時代』から

この手紙は拒絶されたが、法廷で読み上げられた。けれども内心でヘルマンはウッドにこういいたかった、という。
「共産主義の脅威などというものは、この国には存在しないし、それはあなたもご承知のはずです。あなたがたは臆病者を嘘つきにしてしまった。汚いですね。そしてわたしには、あなたがたの権力を認めるような手紙を書かせたのです。わたしは委員会で名前と住所だけ言って、あとは出てきてしまうべきでした」

(この項つづく)

リリアン・ヘルマンについて その4.

2005-12-25 20:29:47 | 
ならずものの時代 (前編)


 わたしには昔から変わったところがあり、当時も今も、わたしを罰したあの時代の指導者たちに反感を持てない。マッカーシーとマッカラン両上院議員、ニクソン、ウォルター、ウッド各下院議員は、みながみな、ああいう人たちであった。必要とあればでっちあげをし、必要でないときにまで悪意を示した人たち。かれらが口では何と言っていたところで、本気だったとは思えない。アメリカは新しい波を迎え入れる機が熟していた。かれらはその波に乗り、人であれ物であれ自分に都合の良い武器にして、政治家としてのチャンスをつかんだまでなのだ。…略…

 だが、こういう人たちはわたしには興味がない。下院非米活動調査委員会に出頭したあのいやな朝でさえ、とくに心を乱されはしなかったし、その気持は今も変わらない。かれらはかれらであり、わたしとは血のつながりもなく、バックグラウンドも無関係な人たちだ。(悪人と言うことなら、わたしの家系には別種のもっと興味深い悪人がたくさんいる。)

 まえにも書いたように、わたしのばあい、ショックと怒りは、わたしと同じ世代の人だと信じていた人たちにたいして向けられた。たいていは名前でしか知らない人たちだ。わたしは1940年代末まで、教養のある知識人というものは信念に従って生きていると思っていた。信念とはつまり、思想と言論の自由、自分なりの信念を持つ権利、迫害されそうな人たちへの口約束以上の援助などである。しかし、マッカーシーとその手下が現れたとき、かれらにたいして指一本でもあげたのは、ほんの一握りの人だけだった。ほとんどすべての人たちが、直接手を下すかただ手をこまねいてみているかのちがいはあるが、マッカーシイズムに力を貸した。かれらはパレードの先頭を行くバンドワゴンには乗せてもらえなかったので、あとを追ってついて行ったのである。
リリアン・ヘルマン『眠れない時代(原題:Scoundrel Time ならずものの時代)』(小池美佐子訳 ちくま文庫)


第二次世界大戦中、アメリカ国内のファシスト支援者を監視する目的で、非米活動委員会が設立された。そもそもファシズムをさす言葉だった「全体主義」が、第二次大戦以降、共産主義を指すようになるその流れと軌を一にするかのように、この委員会も、戦後、米ソの冷戦を背景に、その矛先を共産主義者とその運動に向けるようになる。

1947年、委員長J.パーネル・トマスは、「映画産業における共産主義の浸透」を調査する非公開の聴聞会を開いて、多数の俳優や脚本家、監督を喚問した。

「『大部分の映画労働者は愛国的で忠実なアメリカ人だと確信するが』と始められた証人喚問は、最初の証人ジャック・L・ワーナーの証言とともに、共産主義者を告発し排除する魔女裁判の様相を呈する。」(蓮實重彦『ハリウッド映画史講義 ―翳りの歴史のために』筑摩書房)

証人として出頭する人々に対しては、映画人の内部で広範な支援と擁護の組織が作られ、合衆国憲法「第一修正条項」に基づいて、個人の政治的信条にたいして、国の介入は倫理的に許されない、という「第一修正条項委員会」が発足し、五百人の署名も集まった。共産党員であるか否かの証言を迫られ、憲法上の権利をもとに、証言を拒否して、脚本家、監督、俳優ら十人が投獄される(いわゆる「ハリウッド・テン」)。

そののち、第二次聴聞会が四年の時を隔てて1951年開催される。ところが、この四年の間に情勢は大きく変わっていた。


 ウィスコンシン州選出米上院議員、故ジョゼフ・R・マッカーシーは多くの点でアメリカが生んだもっとも天分豊かなデマゴーグだった。われわれの間をこれ程大胆な扇動家が動きまわったことはかつてなかった――、またアメリカ人の心の深部にかれくらい的確、敏速に入りこむ道を心得ている政治家はなかった。
(R.H.ローピア『マッカーシズム』宮地健次郎訳 岩波文庫)

1950年2月9日、ひとりの上院議員が、国務省内に共産党員が大勢はいりこみスパイ網をつくっている、と爆弾発言をおこなった。ただちに調査のための上院委員会が設けられる。発言は信憑性に乏しく、具体的にその名前をあげることもできなかったけれど、その発言は注目を集め、彼は急速に脚光を浴びることになる。

ワシントン・ポストの漫画家が、さっそく「マッカーシズム」という言葉を作った。最初は悪口だったこの言葉が、やがてアメリカ全土を席巻するようになる。

「農民、労働者、経済人にとって真の問題は唯一つ――政府の中の共産主義の問題である」と、1950年代初頭にあって、ソ連や中国の脅威よりも、「国内の陰謀との闘争」を訴えたマッカーシーには、思想もなければ組織も持っていなかった。にもかかわらず、トルーマンとアイゼンハワーのふたりの大統領を「捕虜にし」(『マッカーシズム』)、とりわけアイゼンハワーの勝利には、大きな役割を果たした。1954年末には彼は政治の表舞台を去ることになるのだが、それでも同年初頭の世論調査では、国民の50%が大体においてマッカーシーについて「好感」を持ち、21%が意見なし、そうして「よくないと考える」のはわずか29%だった。同時代の人々がマッカーシーを極度に怖れたのは、そうした背景があったのだ。

マッカーシーの登場を追い風に、非米活動委員会は「非アメリカ的」「アメリカに非友好的」として、さまざまな団体の運動に介入し、あるいは大学教員や知識人に対して「共産主義者」のレッテルをはって社会から追放した。この委員会は、マッカーシーが失脚した55年以降も存続し、69年に国内治安委員会と改称されたのち、廃止されるのは75年を待たなければならない。

(この項つづく)

リリアン・ヘルマンについて その3.

2005-12-24 22:32:54 | 
 リリアン・ヘルマンに関しては、おもしろいことがひとつある。実は彼女の生年がはっきりしないのだ。自叙伝とされる『未完の女』は、このような書き出しで始まる。
 わたしはニューオーリンズの生れである。母ジュリアは旧姓をニューハウスといって、アラバマ州でもポリスの出身であり、わたしの父のマックス・ヘルマンと恋におちて、生涯かわらぬ愛を捧げることになったのであった。父の両親は、1845年から48年にかけてのドイツからの移民として、ニューオーリンズに住みついた人びとだった。
リリアン・ヘルマン『未完の女』(稲葉明雄・本間千枝子訳 平凡社)

ところがこの父と母の簡単な出自にふれたあとはいきなり「けれど、まずわたしの脳裡に浮ぶのは、ニューヨークの多く名アパートに住んでいた母方の家族…(略)…のことである」と、話は一気に幼い日の思い出に飛ぶのである。

多くの本の後付に載っている1905年、という生年は、遺作となった『メイビー・青春の肖像』(小池美佐子訳 新書館)の訳者によるあとがきでは、非米活動調査委員会に出頭した際の宣誓に準拠したものだと書かれている。ヘルマン自身が協力したというR.ムーディの伝記では1906年、ヘルマン自身の手による『アメリカ人名年鑑』の記述では、年によっては1907年生まれとなっているらしい。

ヘルマンの自伝のなかでもこうした年月日の記述の不正確さ、不整合は随所に見られ、"a few years"とある部分が、実際には十五年ほどの経過がある場面もある。そうしてこの「不整合」が、のちに彼女の自伝に対する格好の攻撃材料となっていく。

ただ、ここでわたしが思うのは、ヘルマンの生年が不明なのも、彼女自身が意図的に曖昧にしたというより、彼女が独特の歪んだ時間感覚を持っていたためではないか、そうして、彼女の主観的な時間感覚では、自分の生年が1905年だろうが、6年だろうが、7年だろうが、重要ではなかったのではあるまいか、ということなのだ。彼女にとって「記憶」とは、自分の内的時間に従うものであり、いわゆる「現実」、多くの人がそれに従っている時間軸とは別個の、主観的な時間軸が、彼女の記憶を貫いているのではないか、と思うのだ。そこで思い出すのが、このエピソードである。

ピーター・フィーブルマンがヘルマンの誘いに応じて、彼女と一緒に暮らすようになって間もないころのエピソードを、このように描いている。
 ヴィンヤードをよく知らない僕には、海へ続いている家の前の湾は、どことなくよそよそしく、なじめなかった。…略… 僕は方向感覚といったものがほとんどないので、リリアンに地図を見せてくれと頼んだのだが、それは島の全貌を見れば、自分がどこにいるかということより、むしろどこにいないかが示されて、おおよそのことが分かるだろうというあてにならぬ望みのためだった。彼女が台所から古ぼけたガソリンスタンドの地図を見つけてきたので、二人してそれをテーブルの上に広げ、しっかり眺めてみようと腰をおろした。

 マーサズ・ヴィンヤードという島は、マサチューセッツの南岸から数マイル離れた大西洋上にあり、長さ20マイル、幅はその一番広い所で10マイルばかりの島である。飛行機から見ると、島は入り江や湾、それに塩水、淡水の大小の池に浸食されてゆがんだ三角形のようだった。リリアンは目の前の地図を見て眉をしかめた。彼女は僕にもまして方向音痴だったが、その混乱ぶりたるや僕の比ではなく――、一種の宇宙分裂――で、二人はしばらくは無言のまま地図を見つめていた。僕たちは台所のテーブルに隣あって座っていたのだが、地図はどこかおかしかった。

「これはノーマン島かエリザベス諸島のどれかよ」ややあってリリアンは言った。「どうみたってヴィンヤード島には思えない」
僕は道路の名前を読もうとしたが読めなかったので、眼鏡をかけた。「さかさまじゃないか」しばらくたってから僕は言ってみた。
「どうして?」
「さかさまだってこと」
「あなたすごいじゃない。よく気がつく人って大好き」とリリアンは言い、僕は気がつくなんてものじゃないよ、二人とも気は確かかなと言った。
「もうこの話はしたくない」リリアンが言った。
ピーター・フィーブルマン『リリアン・ヘルマンの思い出』筑摩書房)

わたしたちが地図を見るのは、自分がいる位置を知る俯瞰的な視点を得るためだ、ともいえる。けれどもヘルマンのこのエピソードは、自分がいまいる場所を、俯瞰することなどしてみようとさえ思わなかった彼女のありようを物語るもの、とは言えないだろうか。

わたしたちは過去の記憶をたどるとき、あれは何年に起こったこと、と一種の編年体にして記憶から取り出すことが多い。あるいは「あれはちょうど第一次湾岸戦争が開戦したすぐあとだったから'90年の1月」「あれは阪神大震災の年だから'95年」というふうに、ほかの出来事と自分の個人的な出来事を関連づけながら、歴史の一コマのように記憶していることも少なくない。つまりこれは、自分に起こったできごとを、外部のモノサシによって編集し直し、時間軸に沿って、相互に関連づけながら並べ替えようとする。これはつまりは俯瞰しようとする試みともいえる。

***

わたしは車に乗る機会がほとんどなく、カーナビというものも、これまでにたった一度しか見たことがないのだけれど、ものすごくおもしろくて、いまだにそのときの感動をよく覚えている。わたしはカーナビの何がおもしろいと思ったのだろう。これはそのあとしばらく、折に触れて考えた。

つまり、地図を見るとき、というのは、自分がいる場所を俯瞰して見ることにほかならない。「自分」を離れ、外側から、高い位置から、自分を見る視点を獲得するということだ。けれども、通常の地図は動くことはない。自分の向きが変わることによって、場所を移動することによって、地図がつぎつぎに移り変わっていく、その光景がものすごくおもしろかったのだ。自分の前に伸びていく道路が、目を転じると、自分の目の前の光景が衛星の位置から俯瞰され、二次元の地図として表示され、自分が進むにつれてその地図も流れていく。

それがおもしろかったのは、変な言い方だけれど、衛星写真ではなく、極端に簡略化された地図だったからだと思う。地図というのは、言い換えると、俯瞰する視点というのは動かないものだ。どこかにそうした思いこみがあったのだと思う。

この外部の歴史は動かないから、モノサシとしての用を足す。けれども、これがカーナビの画面のように、自分の向きや場所にしたがって動いたとしたら(もしかしたら変なことをくどくどと言っているかもしれない。実はいま風邪を引いていて多少熱もあって薬を飲んでいるので、頭がぼーっとしているのです)。

何が言いたいかというと、地図を見る必要を感じたことがなかったヘルマンは、「何年」というモノサシより、はるかに主観的時間を重視したのではなかったか、ということなのだ。

『ペンティメントのなかに、このような箇所がある。
 当時のわたしは、頭に浮かぶことをなんでも口にした。それも脳裡に形作られていく考えや言葉をそのまま出す、というやり方で。(実際、自分自身の過去を書くというのは奇妙なことである。「当時」と私は書き、これはそのまま紙の上に残っていくが、結局は「当時」というものが、歳月の経過によって変わったとはとうてい信じられない。いままでずっと、自分のなかで好きになれない性質というのは変えられるものと信じてきたし、事実そうしたこともある。けれどもよく考えてみると、それは、いくつかの修正や変化ではあったかもしれないけれど、ほんとうの改善といったものではなかったような気がする。そういうわけで、わたしは過去の多くをそのままに引き受けているために、過去と現在がひどく異なっている、と考える権利など、ないのだ)。(この部分私訳)

わたしたちは、過去の出来事を振り返るとき、「いま」から振り返っているにもかかわらず、一種俯瞰的な視点から見ているように錯覚していないだろうか。過去というのは、動かないもの。平面的で、リアルさを多少欠く、地図のようなもの。

「当時のわたしは~だった」
これはいったい誰がいっているのだろう? それは、現在、振り返っている「わたし」だ。そのわたしが、「いまとはちがう」と、どうして言えるのか。その視点自身が、カーナビで見る地図のように、くるくると向きを変え、場所を移動しているのだとしたら、いったいどうやって「過去」と「いま」を比較することができるのだろう。

いわゆる自伝三部作の最後『眠れない時代』(小池美佐子訳 ちくま文庫)は以下の言葉で締めくくられる。
 わたしの生活は仕事とお金にかんしては元通りになった(※注:赤狩りで仕事も財産も失ったけれども、『未完の女』が圧倒的な好評で迎えられたことを指す)。あるいはもっとよくさえなっている。しかし書き終えたいま、わたしの心は書き出しとほとんど同じ状態だ。ショックからは部分的にしか回復していない…略…。

 わたしはさっき元通りになったと書いた。いわゆる世間的な意味で言えばそうなのだが、じつはわたしは回復ということは信じない。過去というものは、喜びも報いも罰も愚かさもともどもに、永遠にわれわれが背負っていくべきものなのだ。

 さて、わたしの人生のこの不愉快な部分について書いてきた。終わりにあたり、わたしは自分に言いきかせている――これは過去のことであり、いまは現在がある。そのあいだには歳月があり、当時と今はひとつのものなのだ、と。(引用 前掲書)

過去の回想の多くが、現在の視点からなされているにもかかわらず、そこを曖昧にし、俯瞰的な、動かない視点を獲得したかのような書きぶりでなされることが多い。

ヘルマンは、過去を回想する。それは、俯瞰的なものではなく、動く「いま」の視点で。
フィーブルマンはヘルマンの方向感覚のことを「一種の宇宙分裂」と愛情をこめて称しているけれど、おそらく時間と空間の感覚が相当に歪んだヘルマンにとっては、擬似的な定点観測ではない、「当時といま」をひとつのものとして見ることが特別なことではなかったような気がする。

明日は「赤狩り」について、書けるところまで書いてみたい。

リリアン・ヘルマンについて その2.

2005-12-23 22:08:06 | 
作家についてのレポートなら、いくつも書いたことがある。略歴も、短い評伝も書いた。その作品を理解するためには、その作家の経歴や、当時の背景事情は、やはり必要な情報だろう。

ただ、わたしはヘルマンについて、そういうことはあまり書きたくない。

1905年に生まれ、1984年に亡くなったこと。生涯に十二本の戯曲を書き、アメリカのリアリズム演劇を代表する劇作家のひとりであること。
「ハードボイルド」というスタイルを確立して、以降のミステリばかりでなく文学表現にも大きな影響を与えたダシール・ハメットと、三十一年にもわたって恋愛関係にあったこと。
1952年、非米活動委員会に喚問され、「自分を救うために、何年も昔の知己である無実の人たちを傷つけるなどということは、非人間的で品位に欠け不名誉なこと」(リリアン・ヘルマン『眠れない時代』小池美佐子訳 ちくま文庫)とし、有名な
I cannot and will not cut my conscience to fit this year's fashions.
(わたしはその年の流行に合わせて、自分の良心を裁断することなどできないし、しようとも思いません:私訳)

という台詞を証言台で述べたこと。

そういうことは、ここで書きたいとは思わない。

いわゆる「書評サイト」というものがある。
もちろん本の紹介をきちんとしているところもあるけれど、どこをどう読めばそうした「感想」が出てくるのか、目を疑いたくなるような「感想文」を「書評」と称して載せているところも少なくない。

こういうのは、本を消費することだ。一冊の本を消費し、「おもしろかった」「おもしろくなかった」「よくわからなかった」と適当なレッテルを貼り、そうして次の本に手を伸ばす。

本を読むことは、あるいはそれが映画でも、絵でも、書でも、音楽でもそうなのだけれど、何かを鑑賞する、ということは、おそらくその作品を理解することと、自分を理解することを同時に含んでいるのだと思う。

さらに言えば、「作品を理解しようとする自分」があらかじめいるのではなく、作品に向かい合うことで、作品を理解しようとしている自分が形作られていく。その形作られていくプロセスを理解することが、自己理解ということではないのだろうか。そうして、読む、あるいは鑑賞する、というのは、そうしたものであると思うのだ。

ヘルマンはいくつかの回想記を書いた。ハメットからは、「ハメットという名の友人がときどき出てくるだけのリリアン・ヘルマンの自伝」と揶揄されながら、あるいは、メアリー・マッカーシーに「ヘルマンが書いた言葉はすべて嘘。"and"から"the"にいたるまでね」(ディック・カヴェット・ショーでの発言)と毒づかれながら、その回想記は、他者や「ならずものの時代」を理解することを通じて、自分を理解していこう、自分の生きてきた日々を理解しよう、という試みだった。

わたしはヘルマンについて、何が書けるのだろう。
 リリアンについてぼくが主に言いたかったのは、彼女は自分を粗末には扱わなかったということだ。いつもできるかぎり全力をつくしてきた人だ。ある時は成功し、ある時は成功しなかったが、彼女はつねに自分の人生を前向きに歩んできた。つまずくにも何か大きな音をたてなければならなかった人だ。その音は自らを叩きのめす音だったが、やがてそこから立ち上がってまた歩き続けたのだ。自分の道を抜け出すだけでも大がかりなことが必要だった。

 けれどもこれらのことはそんなふうに言ったり示したりすることは出来ない――大きなものをとばして、もっとも小さなことに細心の注意を払う。つまり多くの者にとって小宇宙が大宇宙なのだ。普遍性を語る人は、意味することを伝えるのにほとんど成功したためしはないが、誰の人生にせよ細部をとりあげて間近に見るならば、その中に全生涯を見ることができるのだ。ちょうど訓練された目が単細胞の中に組織体を、生命の中に進化を、一滴の水の中に宇宙を見ることができるのと同じである。
ピーター・フィーブルマン『リリアン・ヘルマンの思い出』筑摩書房)

わたしの理解したヘルマンについて、彼女が書いたもの、彼女について書いたものを紹介しながら書いてみたい。それはおそらくわたしが自分自身を見つけるプロセスでもあるのだと思う。

(この項つづく)

サイト更新しました

2005-12-22 22:19:21 | weblog
サイト更新しました。

先日までここで連載していた「ペンティメント ~亀」をアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/
連載時よりこなれた日本語になっていると良いのですが。

***

実は今日は引き続きリリアン・ヘルマンについて書くつもりだったのである。だが晩ご飯を食べたらもう眠くなってしまって、しんどい文章を書きたくなくなってしまったのである。
ということで、例によって、ラク~にだらだらと書いていくのである。

わたしが一日に最低一回は必ず考えているのは、本と、アイスクリームのことである。もちろんほかにもあるような気がするが、ここまで確実ではない。

さらに正確に言えば、アイスクリームのことというのは、冷蔵庫(の冷凍室)に入っているハーゲンダッツを食べるべきか、どうすべきか、ということである。

わたしは甘いもの全般があまり得意ではなく、ケーキは一年に二回、多くても四回も食べればいい方だ。いわゆるお菓子というのもあまり食べないし、「羊羹」という字面を見ると、胃のあたりが重くなってしまう。デザートというのは、なくてもいい類の人間である。

ただしアイスクリームだけは別格だ。アイスクリームというのは、わたしの人生のなかで極めて重大な意義を持ったものなのである。

アイスクリームを初めて作ったのは、中学の物理の実験だった。わたしは力学というものが基本的に理解できないのだが、この熱力学だけは別で、非常によくわかった。

まずアイスクリームの原料(生クリーム、牛乳、卵、砂糖、ここでわたしはぜひバニラビーンズを入れたいところだが、中学の時はそんなものは入れなかった)をよく溶かす。
これを金属容器に入れ、まわりに塩をまぶした氷を入れておく。そうしてボールの中身をひたすらかきまぜていると……。アイスクリームのできあがりなのである。

わたしはこの原理も知っている(いまだに覚えている、というべきか)。氷は溶けて水になっても、塩があるためにその温度は下がらない。けれども水になるためのエネルギー(熱)はかならず消費される。そこでそのエネルギーは、金属容器のなかの混合物から引き出される。熱が出ていくために、この混合物は凍ってしまうのである。

学校でこの実験をやったときの感動は、いまだに忘れられない。いまなお、アイスクリームを食べるときの喜びの何パーセントかは、このときの記憶から引き出されているのにちがいない。

学校でこの実験をやったあと、家でもさっそくやってみた。非常にうまくでき、母親以外の家族からは好評だったのだけれど、洗ったはずの泡立て器に、乾いた卵や牛乳の滓がこびりついていたり、流し台に塩が落ちていたりするのに我慢がならなかったらしく、そののちアイスクリーマーを買ってくれた。これは非常に便利で簡単だったのだが、名前が気に入らなかった。

その名は「どんびえ」。
なんでこんな名前にしたのだろう。命名の秘密を聞いてみたいような気がする。

それはともかく、この「どんびえ」は材料を放り込んで、ぐるぐる回せば、それだけでおいしいアイスクリームができるのである。わたしはこれでどのくらいアイスクリームを作っただろうか。人生でこれまで消費した牛乳の80パーセントは、まちがいなく「どんびえ」でかきまぜたものにちがいない。

一方、外で食べるアイスクリームは、ハーゲンダッツにめぐり逢うまでは、サーティワン・アイスクリーム(アメリカ名バスキン・ロビンス)のチョコレート・ミントを愛していた。家で食べるのはもっぱらバニラであったため、外で食べるのは、ちがうものが食べたかったのだと思う。人によっては歯磨きペーストの味がする、とも言うのだけれど、苦みのあるチョコレートとペパーミントのマッチングがすばらしく、また、アメリカを思わせるような毒々しい色合いも好きだった。

ここでアメリカを思わせる、と書いたのは、アメリカのケーキだのお菓子だのが、80年代の話だけれど、信じられないような色が平気でついていたのである。ホームステイ先でわたしが帰る、ということで、ケーキを焼いてくれたのだが、それは四角いケーキに塗ったクリームは青空を示すために真っ青に着色されていた……。

ハーゲンダッツとめぐり逢ったのは、さらに時代は下る。行列に並んで食べた子の話は、ずいぶん早くから聞いたことはあったけれど、流行とは無縁のわたしが食べたのは、もっとずっとあとだった。
そこでバニラのほんとうのおいしさに目覚めるのである。

いま、わたしが食べるのはほとんどバニラであるけれど、たまに特売日など、抹茶を買おうか、ロイヤルミルクティーを買おうかと迷うこともある。これほど幸せな迷いも、人生にはそれほどあるまいと思われる。

先日、勤労奉仕をしたあと、お礼に懐石料理を食べにつれていってもらった。
料理が終わり、デザートに陶器に盛ったアイスクリームが出てきたのだ。ひとくち食べて、わたしはすぐにわかった。
「あ、これはハーゲンダッツのバニラだ」

思わずそう言ったわたしを、仲居さんは恐ろしい目つきで睨んだ。

だけど、わたしは褒め言葉のつもりで言ったのだ。
フレンチやイタリアンのレストランに行って、ハーゲンダッツが出てきたら、それはちょっと悲しいけれど、懐石料理のデザートである。果物とハーゲンダッツで良いではないか、と思うのだけれど、やはりバラしたのはまずかったのだろうか……。