陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

更新情報書きました

2008-03-31 22:45:41 | weblog
こういうことをわざわざアナウンスする必要があるのかどうなのかはなはだ疑問なんですが、ともかく"what's new ver.10" もアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

「価値ある情報」というのは何なのだろうか。わたしたちが「価値」があると思っていることは、ほんとうに「わたし」にとって「価値」があることなんだろうか。
そういうことを考えるきっかけにでもなれば、これほどうれしいことはありません。

昨日からちょっと体調を崩しています。
もしあまり調子がよくなかったら、明日お休みするかもしれません。

ともかく、みなさまはお元気でいらっしゃいますよう。
ということで、それじゃまた。

サイト更新しました

2008-03-29 22:53:38 | weblog
以前「価値ある情報、無価値な情報」という内容でアップしたログに、「噂と宗教」の一部を加え、全体に加筆修正して「うわさ話の値段」としてアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

なぜある種の情報は、「情報価値」があるとみなされ、またちがう情報には価値を認められないのか。わたしたちはその「内容」によって価値が決まっていると思っているけれど、ほんとうにそうなのか。
こういうことについて、ちょっと考えています。

更新情報は明日書きます。
そのころ、またのぞいてみてください。

先日まで連載していた「良い人? 悪い人??」もそのうち加筆修正してアップしますので、またよろしく。


今日はわたしの住むあたりでは「寒の戻り」というやつで、寒かったです。
ぼちぼちほころびはじめたサクラも、「失敗した」と思ったかもしれません。
だけど、こんな寒さも一時のものですよね。

ということで、それじゃ、また。

習慣の奴隷にならないために

2008-03-28 22:33:15 | weblog
インターネットとわたしたちのありようについて、もう少し話を続ける。

昨日、たとえ言葉だけでも、その人のてざわりというか「声」というか、伝わるものがある、ジンメルがいうように「他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っている」ということを書いたのだが、その一方で、こんなことがあったということも書いておこうと思ったのである。

まだ常時接続にして日も浅いころだった。
そういう相手はほとんど初めてだったのだが、面識もなく、仕事やその人の現実の諸関係も知らない人と、定期的にメールのやりとりをするようになった。まだ回数も浅いころ、いきなりものすごくプライヴェートなことを打ち明けられて驚いてしまったことがある。深い悩みを抱えているように思われ、そういうことが言えるのもあなたしかいない、と書いてあったために、わたしはすっかり責任を感じてしまった。どうしたらよいかわからなかったのだが、おそらくわたしにできることといったら、話を聞くことしかないだろう、だが、それで良かったら、わたしはちゃんと聞く、できるだけの誠意をこめて、一生懸命、耳を傾ける、と返事を書いた。

いまこうやって振り返ると、当時の自分のナイーヴさに何とも言えない気持ちになるのだが、まだ個人的にメールのやりとりをする経験も少なく、メールというものが、ときとして人にそういうことを書かせるものだということを知らなかったのである。

日常ではそんなことを打ち明けられた経験はなかった。そんな重要なことを、見ず知らずのわたしに打ち明けなければならないその人の孤独を思うと、こちらの胸まで塞がれるような思いがした。

ところがメール交換が次第に負担になっていった。返事が遅れると、気分を害するようなことを書いたのではないか、と心配するメールが追いかけるように届く。しかも、どれも簡単に返事が書けるようなものではない。メールボックスを開けるのも憂鬱になるような日が訪れた。そのころ、ある出来事が起こったのである。

非常に奇妙な出来事で、わたしには何でその人がそういうことをしたのか、未だによくわからない。まあ簡単にまとめてしまえば、その人がメール交換をしている相手はほかにもいて、その相手よりもわたしの方を重要視している、ということを非常に凝りに凝ったやり方で教えてくれたわけだ。

その出来事をめぐって、いくつか要領を得ないメールのやりとりが続いて、わたしはすっかり嫌気がさしてしまった。ひとつには、わたし以外にもメール交換をしている相手がいるのなら、わたしが手を引いても大丈夫、という思いがあったことは否定できない。ともかく、わたしはもうメールを続けることはできない、申し訳ないがやめさせてくれ、と送信したのだった。

それでもしばらくは、新聞を開くのが怖かった。わたしのメールが引き金になって自殺でもされたらどうしよう、と思ったのである。

そのあともあれやこれやあって、いろいろわかったことを総合するに、まあほんとうにわたしはなんとナイーヴだったことか、ということにしかならない。その人が打ち明けてくれた「ものすごくプライヴェートなこと」は決して嘘ではなかったのだろうが、「あなただけ」と書いた相手はわたしひとりではなかったろう。そうやって、会う人ごとに作為を重ねながら、その人は次から次へと人のあいだを渡り歩いていたのではないか、といまのわたしは思っている。

そういうことをして、いったい何が楽しいのか。人を、やがて離れていくとわかっていても、しばらくのあいだだけでも、自分の思い通りに動かすことができれば、楽しいのだろうか。わたしにはよくわからない。

でも、少なくともわたしは最初にその話を聞いたときは、非常に重く受け止めたし、どうするのが自分にできる最善のことか、真剣に考えたのだ。だから、いまだにその人物に関しては怒りを覚えているし、だからこのログも、もちろんそういうバイアスがかかっているはずだ。

creatures of habit という言葉がある。Soul Asylumの曲のことではない。「習慣の奴隷」、人間は習慣の奴隷である、みたいに使う。
わたしたちは同じようなパターンの行動を繰りかえしている、という見方は、たとえばアガサ・クリスティのミステリなどにもずいぶん出てくるように思う。たとえばつまらない男に引っかかる女は、つぎも同じようにつまらない男に引っかかる、こういうのは「だめんずウォーカー」というのだったっけ。相手変われど、あるいは、ところ変われど、やっていることは同じ、という人は、わたしたちの身の回りでも見かけることができるし、自分では気がつかなくても、自分の行動にもそういう見方を当てはめることもできるのかもしれない。そういうことをしがち、という傾向まで含めれば、さらに当てはまる要素は多いだろう。

わたしたちの思考は、わかりきったことに関しては、どんどん省略していくという傾向がある。毎日通る道であれば、あたりの風景に目をやることもないし、決まり決まったことに注意を向けることもない。わたしたちは自分が何に目を向けるか、何に注意を向けるか、ふるいにかけている。もしこういうことをせず、すべてのことに目がいき、注意が向けば、わたしたちはすぐに疲れ切ってしまうだろうから。こうした省エネは、わたしたちの能力のひとつなのだ。

人に対しても決まり決まったつきあい方しかできなければ、わたしたちのつきあいも、それこそ「習慣の奴隷」、同じようにしかつきあえない。あれやこれや作為を働いて、相手を自分の思い通りに動かすようなことを「習慣」にしてしまえば、だれに対してもそういうことをするだろう。

けれど、相手はそのたびにちがうのだ。
相手さえきちんと見ていれば、同じことができるはずがない。
にもかかわらず、同じことを繰りかえしてしまうのは、その人が、いかに相手を見ていないかの証明でしかない。だから人は離れていくのだ。

こう書いているわたし自身が、人に対して「省エネ」でつきあっている部分があるのだろう。
まず、自分に向けられた言葉に関しては、その向こうの人の声に耳を傾けたい。習慣の奴隷から脱することができるとしたら、そこからしか始まらないような気がする。

伝わるもの、伝わってしまうもの

2008-03-27 22:55:45 | weblog
昨日の話と関係のあるようなないような話を続ける。

以前だったら考えられないことだけれど、インターネットのおかげで、会ったこともない、日常生活を送っているだけなら決して知ることもなかったであろう人とも、メールやコメント欄への書きこみを通じて、知り合うことができるようになった。
それは100パーセント、言葉だけのやりとりなのだが、不思議とその人の「てざわり」というか「声」というか、言葉にはならないのだが、何かしら伝わってくるものがある。
人間の全交流は、より明瞭でない微妙な形式において、つまり断片的な萌芽を手がかりとして、あるいは暗黙のうちに、各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っているということに基づいている。しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである。このことは、個人的な意味においては無配慮とみなされるかもしれないが、しかし社会的な意味においては、生きいきとした交流が存続するための条件として必要である。
(ゲオルク・ジンメル『社会学』居安正訳 白水社)

ここでジンメルが言っているのは、もちろん従来の人間の対面をベースとしたコミュニケーションのことである。ただ、ジンメルがここで言っている「伝えよう」とその人が思っていることとはちがうことが「伝わってしまう」のは、その人の外見や表情、動作といった要素だけではないように思えるのだ。

日常のつきあいを考えてみれば、朝、顔を合わせたその瞬間に、相手の調子も、虫の居所も、仕事の進捗具合もわかってしまっても不思議はない。その点、言葉だけのやりとりというのは、伝達される情報は、完全に自分のコントロールのもとに置くことが可能のはずだ。対面では不可能な、相手にこう受けとってほしい、と思う自分のイメージを、言葉に託すことも可能なのである。

だが、やはりわたしたちは相手が「他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っている」のではないか。それを進んで確かめることはないかもしれない。それでも、さまざまな言葉や文章から、わたしたちはその書き手のイメージを、本人が「こう受けとってほしい」のとはちがう形で受けとっている。言葉の意味内容そのものが、本人の意図を超えて伝わってしまう側面を持っているのだ。
だからこそ、たとえ同じ言葉が並んでいても、「誰が書いたか」によって、受ける印象はまるで変わってしまうのである。

たとえやりとりしているのは言葉でしかなくても、わたしたちがコミュニケーションをしているのは、その向こうにいる人間なのである。

ところが、ときどきそれを忘れているのではないか、と思う人を見かけてしまうのだ。
昨日も書いたような、コメント欄に攻撃的な書きこみをする人ばかりではない。自分の情報を完全に自分でコントロールできている、と思っている人も、相手の存在を忘れてしまっているように思える。

姿かたちを備えた他者は、わたしたちに相手が自分ではない存在であることを片時も忘れさせてはくれない。自分の思い通りにしようと思っても言うことを聞いてはくれないし、自分の意見を押しつけようとすれば、背を向けて去っていくかもしれない。
だからわたしたちは対面する相手には、言葉を慎むし、自分のわがままも抑えようとする。

けれども顔を合わせたこともない、見えるのは液晶画面に浮かぶ文字だけ。
その向こうに他者を感じ取れる感受性がなければ、相手は「単なる読み手」、自分のパフォーマンスに拍手喝采してくれるはずの「観客」となる。
単なる観客に過ぎないのだから、対面では言えないようなことも言えるし、拍手してくれなければ、別のハンドルネームで別の役柄を演じればすむ。そこが気にくわなくなれば、別の舞台を探せばいい。

だがそう思っていることもまた、まちがいなく伝わってしまうのである。

確かにインターネット上の空間は、日常とはまたちがう世界ではある。けれども、わたしたちが現実とインターネット上に書きこんだ自分の言葉をリンクさせる筋道を確保しておく努力を続けるならば、そこはおそらく豊かな世界となっていくはずだ。
そうして、その第一歩が、自分が書いている相手を意識するということなのだと思う。

自分に向けて書いているのではない。
自分のパフォーマンスを披露するために書いているのでもない。
わたしは、わたしの思い通りには決して読んでくれない、気にくわなければどこかへ行ってしまう「あなた」に読んでほしいから、書いているのです。

空想と現実と

2008-03-26 22:49:06 | weblog
見に行った先のブログで、たまに奇妙なコメントが書きこんであるのを見かけることがある。それが一度や二度でなく、同一人物が攻撃的な書きこみを繰りかえしているのを見ると、見ているだけでなんとなくいやな気分になるし、そこの管理をなさっている人が気の毒になる。

たまに、そういう書きこみにも忍耐強く相手をしている人を見ると、尊敬してしまうのだが、相手の方は自分の意見にしがみついたまま、自分に対する批判に対しても、もっぱら言葉尻だけをとらえて攻撃する。当人はそれで反論しているつもりなのだろうが、単に揚げ足取りにしかなっていない。それでも自分の論理がたとえ手詰まりになっていようが、破綻していようが、どんな反論にも言い返せると、当人は良い気分でいるのかもしれない。

だが、こういうことを続けている人は、ほんとうに楽しいのだろうか。

日常生活で、たとえば会議などでこういうことをやろうとすれば、かならず大きな抵抗に遭う。具体的に何かをやっていこうとする人々のなかにあって、そのように言葉をもてあそぶだけの人間は邪魔なだけだ。言葉だけなら一万歩だろうが、百万歩だろうが、一歩も踏み出さないで、いくらでも言うことができるが、現実に百歩歩こうと思えば、一歩から歩き始めて、百歩、歩き続けなければならない。

ところが、こうしたインターネット上では、ともに言葉のやりとりだけになるので、仮に片方が現実に足場を持ちながら、自分の考えや言葉をそれになんとかリンクさせていこうとしていても、そうした努力は一切インターネット上には現れない。
現実に、なんとか百歩歩こうと努力している人に対して、それだけしか歩けないのか、と、嘲笑を浴びせかけることも可能なのである。しかも、一歩も踏み出すことなく。

だが、百万歩歩く、と言葉で言うだけで、楽しい人間などいない。

こんなところでこんな文章を思い出すのは筋がちがうのかもしれないが、わたしはどうしても小林秀雄の西田幾多郎を評したこんな言葉を思い出すのである。
 西田氏は、ただ自分の誠實といふものだけに頼つて自問自答せざるを得なかつた。自問自答ばかりしてゐる誠實といふものが、どの位惑はしに充ちたものかは、神様だけが知つてゐる。この他人といふものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤獨が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外國語でも書かれてはゐないといふ奇怪なシステムを創り上げて了つた。氏に才能が缺けてゐた爲でもなければ、創意が不足してゐた爲でもない。
(小林秀雄「學者と官僚」『小林秀雄全集第七巻』所収 新潮社)

西田があの時代、ひとりきり「誠實な思索」を積み重ねてた、というのは非常に厳しいことだったろう。だが、いまはそういう意味での「孤獨」はありえないように思う。たとえたったひとり、自分の部屋にいても、そこには仮想的な「他者」に取り巻かれている。

空想の中でケンカしても、恋愛しても、楽しくはないだろう。だが、それを見ている人がいるとわかると、もはや空想ではない。「仮想的な現実」が単なる空想とちがうのは、証人がいる、ということでもある。観客がいるから、そこに「仮想的な現実」が成立してしまう。それが現実でない、と何よりも本人が知っていても、その本心を隠して、架空のケンカや恋愛を続けていくことになる。
観客はそれを見て、賞賛したり罵倒したりする。そのことによって、いよいよ「仮想的な現実」は強固なものになる。

虚構は虚構なのだ。帰っていく実体はどこにもない。
にもかかわらず、そこから憎悪や快楽すらもが生産されていく。こうなってくると、もうそのなかにいる人は、自分が楽しんでいるのか、苦しんでいるのかすらわからなくなってくる……。

言葉は言葉でしかないのだ。現実と、自分の言葉をリンクさせる筋道を、どこかに持ち続ける。少なくともその努力だけは続けていかなければならないだろう。

良い人? 悪い人??その7.

2008-03-25 23:27:03 | 
その昔、高校の授業で、森鴎外の『舞姫』を習った。習ったあとで、それぞれに読んで感じたことを発表したのだが、生徒のほぼ全員が主人公の太田豊太郎を、身重の女性を捨てて、日本に帰国して、出世街道を歩んだひどい男だといった内容のことを書いていたように思う。かくいうわたしもそのひとりで、「責任を伴わない優しさなどというのは無意味だ」と書いたことだけ(忘れてしまいたいのだが)いまだにはっきりと覚えている。

けれども、登場人物を道徳的基準に当てはめる、しかも当時とでは留学の意味も、教育を受けることも意味もちがう現代の尺度に当てはめて、それで作品を評価するようなやり方で作品を読んでしまえば、ほとんどそれは『舞姫』を読んだことにはならないだろう。

けれど、そういう時期を過ぎ、さらに多くの本を読むことを通じて、わたしたちはいつからか、登場人物やその行為を、道徳的に評価するような読み方は、稚拙な読み方だと思うようになっていく。
「この人、人を殺すから悪い人だよ」という感想を聞いたりすると、なんとも単純な読み方だなあ、と思ってしまう。
人を殺すからって単純に悪いかどうかわからないじゃないか。悪い、とそこで決めつけてしまって、その人がどういう情況に置かれていたか、どのように考えていたかを見てないんだから、というふうに。

わたしたちは「良い人-悪い人」という判断をいったんカッコに入れ、あるいはこの行為は「良いか悪いか」もカッコに入れて、動機を推測し、情況や歴史的経緯に思いめぐらす。そうやって、作品を深く理解していこうとする。

けれど、それだけにはとどまらない。その行為は良いことなのか、それとも悪いことなのか、が考えられなければならないような作品が、確かにあるのだ。この登場人物を、自分は良いと見なすのか。この人物の行為を、自分は悪とするのか。そう考える自分は、いったいなぜそう考えるのか。いったんカッコに入れた「良い-悪い」を、もういちどはずして、考えなければならないような作品がある。

昨日少しふれたティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』もそんな作品のひとつだ。
たとえば私はみなさんにこういうことを語りたい。二十年前に私はミケ近郊の小道でひとりの男が死んでいくのを見ていた。私が彼を殺したわけではなかった。でも私はそこに存在したし、言うなれば、私がそこにいあわせたこと自体が十分罪悪なのだ。私は彼の顔を覚えている。それは可愛い顔ではなかった。というのは彼の顎は喉の中にめりこんでいたからだ。そして私は自分が責任と悲しみを感じたことを記憶している。私は自分自身を責めた。そしてそれはまあ当然のことだった。何故なら私はそこにいあわせたのだから。
 でもいいですか、実はこの話だってやはり作りごとなのだ。
 私は君に私の感じたことを感じてほしいのだ。私は君に知ってほしいのだ。お話(ストーリー)の真実性は、実際に起こったことの真実性より、もっと真実である場合があるということを。

 今から話すのが実際に起こった真実だ。
 私はかつて兵隊だった。そこにはたくさん死体があった。本物の顔のついた本物の死体だ。でも当時私は若かったし、それを見るのが怖かった。おかげで二十年後の今、私は顔を持たぬ責任と、顔を持たぬ悲しみを抱えている。

 ここからがお話の真実だ。彼はすらりとした、華奢といってもいいような二十歳前後の青年だった。そして死んでいた。ミケの村の近くの赤土の小道の中央に横たわっていた。彼の顎は喉の中にめりこんでいた。彼の片目は閉じられ、もう片方の目は星形の穴になっていた。私が彼を殺したのだ。

 私は思うのだけれど、お話(ストーリー)の力というのは、物事を目の前に現出させることにある。
 私はそのとき見ることのできなかったものを今見ることができる。私は悲しみや愛や哀れみや神に顔を賦与することができる。私は勇敢になれる。私はもう一度それを身のうちに感じることができる。

「お父さん、ホントのことを言ってよ」とキャスリーンが言う、「お父さんは人を殺したことがあるの?」そして私は正直にこう言うことができる、「まさか、人を殺した事なんてあるものか」と。
 あるいは私は正直にこう言うことができる。「ああ殺したよ」と。
(ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』村上春樹訳 文春文庫)

わたしたちは考える。おそらく最初はこのキャスリーンの問いかけと同じところから始まるはずだ。けれど、作品を読みながら、わたしたち自身が逆に問われていることに気がつく。最初に立っていた「良い-悪い」という基準とは、まったくちがう位置に立って、これが良いことなのか、それとも悪いことなのか、考えていることに気がつくはずだ。何もわからない、どう考えて良いのかもわからない、それでも、その不安に向き合いつつも、何とか自分で答えを出していかなくてはならない。

わたしたちは、さまざまな場面で「良いか悪いか」の判断を繰りかえしている。そのとき、依拠するのは、多くの場合、社会通念であると言っていいだろう。自分で考えているように思っているが、実際には、自分というより、そういう慣習に沿っているだけと言った方がいい。そうした慣習からどうやって自覚的に考えていけるのか。言葉を換えて言えば、社会通念から自分を引きはがし、そうではない言葉をどうやって見つけていけるのか。そのことにかかっているのではないか。

おそらくは、登場人物を道徳的基準に当てはめる、その行為を道徳的に評価する、そうした読み方がかならずしも誤っているわけではない。当てはめようとしている道徳的基準はいったい何なのか、それはほんとうは単なる慣習なのではないか。慣習に当てはめて、良い-悪いと考えているだけなのではないか。

本を読む、判断する、それは同時に、自分自身の道徳的な基準を作り上げていくことでもあるのだ。

良い人? 悪い人??その6.

2008-03-24 22:34:30 | 
その6.カッコに入れたりはずしたり

本を読むわたしたちは、働き者だ。ページをめくり、活字を追いながら、たえずこの人はどんな人だろう、と考えている。その行動を頭の中で組み立てながら、これはどういうことだろう、と動機を推測し、これからどうなっていくのだろう、と先を予想する。

わたしたちは予期しない登場人物の行動にとまどうことはあっても、これには理由があるはずだ、と結論を先送りし、納得できない行動があったにしても、そのうち納得できる説明があるにちがいない、と考えて、早急に断罪することはない。

ところが説明も何もない、いきなり放りだされてしまうようなとき、違和感は違和感のまま残っていく。
アーネスト・ヘミングウェイの「白い象のような山並み」などはその好例だろう。
「まあ」男が言った。「いやだったら無理をすることはないんだ。君が望んでもないのにそうしろって言ってるわけじゃない。だけど、ごく簡単なことなんだ」
「で、あなたはそうしてほしいのよね?」
「そうするのがいちばんいいんじゃないか。でも、きみがほんとうはそうしたくないんなら、やってほしくない」
「もしわたしがそれをやったらあなたは幸せになるし、なにもかも前みたいになるし、そうしてわたしのことは、好きでいてくれる?」
「いまだって好きさ。君だってぼくが君のことを愛してることはわかってるだろ?」

登場人物の背景も、関係もわからない。ただわかるのは、この若い女性が現在妊娠していて、おそらくは近いうちに堕胎手術を受けるだろうということだけだ。
わたしたちの日常をそのまま切り取ったような繰り返しの多い会話は、むしろ静かな調子で続く。

ところが「堕胎」という出来事を扱っているために、
 この二人の会話の調子が異様である。女が沈黙の苦痛に耐えかねて話題をつくり、男がその話題を破壊してゆく。男はそうした空虚な話題を突きぬけて迫らねばならぬ「問題」があり、女は可能なかぎりその問題を遠ざけねばならない。この気分のくい違った会話は……〔褐色で乾ききっている〕自然の背景と適合して、肉欲の清算であり同時に愛の破滅でもある「堕胎」にむけて着実に進むのである。そして愛の破滅を知った女のヒステリックな絶望の喘ぎとあきらめが、男の異様に執拗なセルフィッシュネスと共に強烈にもりあがってくる。
(瀧川元男『アーネスト・ヘミングウェイ再考』 南雲堂)

という読まれ方をされることもある。だが、この短編のどこに「異常性の地獄」や「肉欲の清算」があるのか。「堕胎」という出来事に、引きずられているだけではないか。登場人物の思想や行動を、作品から切り離し、倫理観に照らし合わせて評価しているのではないか。

ミラン・クンデラはそんな見方を批判する。わたしたちが現実に交わす会話、ドラマや戯曲などでは決して再現されない、ありのままの会話、それをもとに、美しい旋律を造り上げていった、という。
ヘミングウェイは現実の対話の構造を把握したのみならず、それから出発して、『白い象のような山々』に見られるような、一つの形式、単純、透明、清澄な、美しい形式を創りだすことができた。
(ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』西永良成訳 集英社)

クンデラはこの短編を「対話の旋律化」と呼ぶ。ピアノから始まり、「お願い、お願い…」でピークに達し、そこからピアニシモで収束するひとつの旋律だと。
この出来事の道徳的判断をカッコに入れることによって、美しい旋律に耳を傾けることができるのだ。


だが、作品によっては、カッコに入れた道徳的判断をはずすことを求められることもある。
自らもヴェトナムにおもむいた作家ティム・オブライエンは一貫してヴェトナムのことを書きつづける作家である。そのオブライエンの連作短編『本当の戦争の話をしよう』に所収されているごく短い短編は、こんな書き出しで始まる。
 九歳のときに、娘のキャスリーンが私に尋ねた。お父さんは人を殺したことがあるのかと。彼女はその戦争について知っていたし、私が兵隊であったことも知っていた。「お父さんって戦争の話ばっかり書いているじゃない」と娘は言った。「だから誰か殺したはずだって思うの」。私は困ってしまった。でも私はそうするのが正しいと思うことをやった。つまり、「まさか、殺してなんかいないよ」と言って、娘を膝の上にのせて、しばらく抱いていたのだ。私はまたいつか娘が同じ質問をしてくれたらいいなと思う。しかしここでは私は娘をきちんとした成人であると仮定して扱ってみたい。私は実際に起こったことを、あるいは私の記憶している起こったことを彼女にすっかり話してしまいたい。君が正しかったんだよ、と言おう。そう、それこそが私が戦争の話を書きつづけている理由なのだ。
(ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』村上春樹訳 文春文庫)

わたしたちは「人を殺すのは悪いことだ」と思っている。戦争中なら仕方がない、という考え方は理解はできても、わたしたちの道徳観は、どこまでいってもそれに否を言うだろう。だからこそ、「私」は「戦争の話を書きつづけている」のだという。
登場人物の思想や行動に対する倫理的な評価を、まずはカッコに入れなければきちんと読むことはできない。それでも、入れたカッコを、はずすことをオブライエンは求めているのではあるまいか。

カッコをはずすということを明日は最後に考えてみたい。

「鶏的思考的日常vol.18」を更新しました

2008-03-23 22:42:29 | weblog
今日はちょっと忙しかったので、続き物の文章を書くことができませんでした。

その代わりといっては何なんですが、「鶏的思考的日常vo.18」をアップしました。去年の9月から10月にかけて書いたつなぎの記事に、かなり手を入れています(なかにはほとんど変化のないのもありますが)。

またお暇なときにでも読んでみてください。

  http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

「良い人? 悪い人??」はたぶんあと二回で終わります。もう少し、おつきあいください。

* * *

今年のお彼岸は雨でした。

毎年、春のお彼岸というと、わたしは西の山に夕日が沈んで行くのをみながら、折口信夫の『死者の書』を思い出すんです。山の彼方に姿を現した滋賀津彦と、それを見て、引かれるように家を出た中将姫のこと。
耳面刀自。おれはまだお前を……思うてゐる。おれはきのふ、こゝに來たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれはもつと/\長く寢て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ續けて居たぞ。耳面刀自(ミヽモノトジ)。こゝに來る前から……こゝに寢ても、……其から覺めた今まで、一續きに、一つの事を考へつめて居るのだ。

ほんと、声が耳に聞こえるような文章ですよね。闇の底から響いてくる声。

でも今年のお彼岸は冷たい雨が降って、西の空には灰色の重たい雲がたれこめ、山も霧にけぶっていました。

はてさて、肌寒いお彼岸も終わって、いよいよ春めいて来ました。
あれはなんなんでしょう。ところどころに咲いている気の早いサクラの木も見ることができます。今日は一本だけ、そっと咲いている真っ白なサクラの木を、薄暮の中で見上げて、今年初の「お花見」をしました。

ということで、それじゃまた。

良い人? 悪い人??その5.

2008-03-22 23:09:37 | 
その5.あのころは悪くなかったのに……。

『時計仕掛けのオレンジ』のような悪いやつの物語では、「ほんとうの悪」ははっきりしている。わたしたちは語り手である「悪いやつ」たちの話に、ときに反発しながら、それでも耳を傾けるうち、自分がいままで「悪い」と思い込んでいたものよりもさらに悪いものがあることに気がつく。わたしたちが善悪の判断のよりどころにしている社会規範は、ほんとうに正しいんだろうか、疑ってかかることも必要なのではないか、と思うようになっていく。つまり、こういう「悪いやつの物語」は、たとえ通常の善悪とは逆転しているように見えても、実は善悪の概念は、はっきりしているのである。
そういう世界で悪いのは、人々を意のままに操ろうとする独裁者であったり、私腹を肥やす独占企業家だったり、さまざまではあるのだが、主人公の「悪いやつ」は、たったひとりでこの世界と社会規範に反逆を企て、しぶとく生き延びる。
読み終わったあとのわたしたちの世界を見る目は、少し変わっている。

だが、この「良いこと-悪いこと」というのは、ときに変わっていったりもする。

ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』には続編があるのをご存じだろうか。
『あしながおじさん』の正編は女子大を舞台にしている。そこで孤児院出身のジュディは、オールド・ニューヨークの血筋を引くジュリア(上流階級の象徴)、ニューイングランドの製造業者の娘であるサリー(中流階級の象徴)とルームメイトになる。そこで、自分を大学にあげてくれた「あしながおじさん」(実はジュリアの叔父さんにあたる)人物とジュディは結婚することになるのだが、続編では、サリー・マクブライトが主人公となって、孤児院の経営に当たるのである。

続編の原題は "Dear Enemy" 、これも正編と同じく書簡集の体裁をとっている。その手紙の宛先は、ジュディ、もうひとり、「親愛なる敵さん」という書き出しで、孤児たちの診察にあたる小児科医。孤児たちの面倒をみながら、孤児院経営にまつわるさまざまな難題にぶちあたるサリーの日々が手紙を通して浮かび上がる。

ところがこの『続 あしながおじさん』は正編にくらべて圧倒的に無名である(続編があるのを知らなかった、という人もいるでしょう?)。
それは、この作品の中には優生学的な内容があるからなのだ。

実は、今日、この本を図書館で借りてきたのだけれど、その箇所が見つからないのだ。「完訳版」とありながら、子供向けの本にはその箇所がどうやら削除されているらしい。

今日では厳しい批判にさらされた優生学だが、この作品が発表された1915年当時、アメリカでは優生学は広く受け入れられ、実際にいくつかの州では断種法が成立している。作者のジーン・ウェブスターは、当時、言ってみれば流行だった思想を、そのまま作品に取り入れたにすぎない。それでも、今日から見れば、「アルコール中毒者や犯罪者が大勢生まれた家系」という見方は受け入れがたいものである。

あるいは戦争をめぐる記述などでもそのようなことがあるだろう。

たとえば太宰治の「作家の手帳」という小文にはこんな箇所がある。
 アメリカの女たちは、決してこんなに美しくのんきにしてはいないと思う。そろそろ、ぶつぶつ不平を言い出していると思う。鼠を見てさえ気絶の真似をする気障な女たちだ。女が、戦争の勝敗の鍵を握っている、というのは言い過ぎであろうか。私は戦争の将来に就いて楽観している。

その時代の見方、考え方がある。わたしたちがいまの基準で「良い-悪い」という判断をしているものも、未来の時点から見れば「あの時代はああいう考え方をしていたのだ」という評価をされるものもあるだろう。

こういうものをなかったことにしてしまうのか。
こういう部分はこういう部分として、「良い-悪い」ではなく、そういう見方があったこと、そうしてまたどのような経緯でそういう見方がされなくなったかは見ていかなければならない。

子供向けの『続あしながおじさん』でその箇所を削除するのは仕方がない……ことなのかなあ。やはり子供向けであっても、その考え方は、遺伝子も発見されていない頃の見方で、という注釈付きで、きちんと書いておいた方がいいのではないのか、と思うのだが……。

(この項つづく)

良い人? 悪い人??その4.

2008-03-20 22:37:35 | 
その4.悪いやつらの物語

とりあえずこのふたつの作品の冒頭を見比べてみてほしい。
(A) その日は散歩に出かけられなかった。それでも朝のうちに、私たちは一時間ばかり葉がすっかり落ちた植え込みの中を歩きまわりはしたのだったが、昼の食事のあとで冬の寒い風が吹き出して空が曇り、冷たい雨が降り始めたので――リード夫人は客がなければ昼の食事を早くすませた――、もう外に出ることは考えられなくなった。
 それは私にとってはありがたいことだった。私は長い散歩が好きではなく、ことに寒い日の午後はそうだった。

(B) 「よう、これからどうする?」
 おれ、というのはアレックスだ。それにおれのドルーグ(なかま)たち三人――ピートにジョージーにディムだ。このディム、その名前みたいに、ほんとに少しウスラデイム(ぼけ)てやがんだ。そのおれたち〈コロバ・ミルクバー〉に腰すえて、今晩これから何やらかそうかって、相談やってたとこ。

作品(A)はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(吉田健一訳 集英社文庫)の冒頭。作品(B)はアントニイ・バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』(乾信一郎訳 ハヤカワ文庫)の冒頭である。

このふたつを比べてみて、(B)の作品の語り手が、いきなり「おれは悪いやつだぞ」と登場しているのがはっきりわかるのではないだろうか。(A)の語り手は、彼女がいったいどんな人物か、これだけではほとんどわからない。寒いのがきらいなのかなあ、と漠然と思うぐらいだ。いわば、彼女は自己紹介を焦ってはいない。それに比べて(B)の語り手は、ほんの数行で読者にできるだけ強い印象を与えよう、それもまちがっても良い印象を与えまいと、できるだけの努力をしているようだ。第一印象が肝心、と彼らは思っているのである。読者というやつらは、放っておけば、すぐおれの言うことを信用するんだからな。おれが正しくて、いいやつだ、と思いたいんだ、と。

読み手は、何の情報も与えられていなければ、語り手を、ばくぜんと常識的な人間、自分とさほど変わらない人間と予想する。そうして、「悪い主人公」はそのわたしたちの先入観をうち砕くべく、矢継ぎ早に自分がどれほど悪い人間であるかを教えてくれるのである。

なぜそんなことをするのだろうか。
『時計仕掛けのオレンジ』では、このあとアレックスは捕らえられ、矯正プログラムを受けることになる。
そこでおれは、やつの首へ一発ひどいのをくらわしてやろうと、両方のげんこつをふり上げたのだが、やつはそこへ倒れてうめいているか、それともバタバタと逃げ出すかして、おれは腹の底からよろこびが湧き上がってくるのをおぼえるはずなのだが、何とその時、例の吐き気がまるで波のように起きてきて、ほんとに死ぬんじゃないかと、すごくこわくなってしまったんだ。おれは、よろめくみたいにしてベッドへもどると、ゲク、ゲク、ゲクとやった。

薬物と矯正プログラムのために、暴力的な衝動を感じると、強烈な吐き気に襲われるようになる。そのためにアレックスは暴力を封じられてしまうのである。
わたしたちはこのアレックスを導き手として、善悪の問題を厳しく問われることになる。暴力というのは、封じ込めさえすればいいのか。強制的に封じ込めるということも、同じ暴力ではないのか。それが個人のレベルではない、国家のレベルでなされるとしたら、個人のレベルの暴力などとはくらべものにならないほど恐ろしいことになるのではないか。

わたしたちの善-悪の固定観念にゆさぶりをかけるために、あらかじめ、わたしたちが依拠している既成概念に沿った「悪」を体現する存在として、「悪い主人公」は登場するのである。

目に見えている世界はほんとうの世界ではない。いま見えているのは、ゆがめられ、大切なことは隠されている。
これを正しい主人公、すべてを知った主人公が説明していくとどうだろう。おそらく耐えられないほど説教臭い、退屈な小説になるにちがいない。

悪いからこそ、わたしたちは彼に驚かされもし、彼とともに世界を発見することができるのである。

(この項つづく)