陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

無花果あれこれ

2011-09-23 23:13:28 | weblog
知り合いからイチジクをもらった。
朝採ったばかり、というのをたくさんもらって、食べきれるものではないからお裾分け、と、大ぶりのガラスのボールごと手渡されたのである。ラップ越しに見えるイチジクのうすい皮は、水気を含んでつやつやとしており、割れたところから鮮紅色の果肉が見えた。

イチジクを前に食べてから、もう何年が経つだろう。
子供の頃はあちこちの家の庭に植えてあって、季節になると独特のにおいがして、手を広げたような葉を見なくてもイチジクの木があることがわかった。

その頃でも、あまり好んで食べていた記憶はないのだ。近所の家からもらってきたイチジクは、リンゴやミカンのようなきれいな色をしておらず、表面もなんだかぬらぬらしていて、切り口から白い液体が垂れているのも気持ち悪かった。おいしいよ、食べてみなさい、と母が皮をむいてさしだすのを受け取って、おそるおそる口に入れても、ぐにゃっとした食感がなじめなかった。確かに味は悪くないのだが、また食べたいという気にはなれなかった。おそらくそれが最後ではなかったはずだが、わざわざ買って食べた経験はない。

ところで、イチジクを指す "fig" という英語は、英語圏ではありふれたものだ。わざわざ "dried" と断っていなくても、たいてい乾燥させたもので、パンやケーキに入れて焼いたり、そのままレーズンのようにつまんで食べたりする。

最初、英語の小説の中で "fig" という単語に出くわし、辞書を引いて「イチジク」という言葉を見つけたときは、なんだか妙な気がしたものだ。味といい食感といい、やたらに近所で見かけるところといい、イチジクはてっきり日本産のものだろうと思っていたのだ。やがてそれが中近東が発祥の地だと聞いて、英米で乾燥した状態で出回っているのか理由がわかったような気がした。噛むと、凝縮されたタネが口の中でジャリジャリいうのが気になるのだが、甘酸っぱい味は生のものより食べやすいように思えた。

このイチジクの歴史は古い。古代ギリシャの時代からさかんに食べられていて、本にも出てくる。おもしろいところでは、漱石の『吾輩は猫である』にこんな箇所があるのだ。場面は苦沙弥先生のところに、かつての同級生の鈴木、彼はいま苦沙弥先生の宿敵である金田のスパイとして先生の様子をさぐりに来たところである。調子の良い鈴木は先生にしきりに、そんなに不景気な顔をせず笑え、と愚にもつかない助言をする。それに対して苦沙弥先生、こんな話をするのである。

「昔し希臘(ギリシャ)にクリシッパスと云う哲学者があったが、君は知るまい」
「知らない。それがどうしたのさ」
「その男が笑い過ぎて死んだんだ」
「へえー、そいつは不思議だね、しかしそりゃ昔の事だから……」
「昔しだって今だって変りがあるものか。驢馬が銀の丼から無花果を食うのを見て、おかしくってたまらなくって無暗に笑ったんだ。ところがどうしても笑いがとまらない。とうとう笑い死にに死んだんだあね」
「はははしかしそんなに留め度もなく笑わなくってもいいさ。少し笑う――適宜に、――そうするといい心持ちだ」

『猫』を初めて読んだときから、この箇所が不思議だった。ロバがイチジクを食べている、そのどこが、笑い死ぬほどおかしいのだろう。中学時代、社会科の授業中、わたしの席の後ろのジュンコちゃんが当てられて教科書を読んでいる途中、「マニュファクチュア」がうまく言えなくて、何度か言い直してもやはり言えずに、笑い出して止まらなくなったことがある。戦時中は陸軍将校だったというもの静かな歴史の先生は、困ったような顔をして、その笑いの発作が治まるのを待っていたが、「どうしても止まらない笑い」、言葉を換えれば「笑いのツボにはまってしまったとき」というのは、その中身は意外とよくわからないものなのかもしれない、とまあ、そんなことを考えたものだった。

とはいえ、この箇所を疑問に思ったのはわたしだけではなかったようで、柳沼沢重剛の『西洋古典こぼれ話』には、そもそもこの話がどこから由来しているのか、の考察を含めて、柳沼先生の推測が書いてある。

これはディオゲネスの『ギリシア哲学者列伝』のクリュシッポス(※漱石の「クリシツパス」はクリュシッポスの英語読み)の項目にある話らしい。
「ある人たちによれば、彼は笑いすぎたために発作を起こして、そのために死んだのだとも言われている。すなわち、驢馬が彼の無花果を食べてしまったので、彼は(世話をしてくれている)老婆に向かって、「さあ、その驢馬に、無花果を飲み下してしまうように、水を割らない葡萄酒をやってくれ」と言ったのだが、その時あまりにも笑いすぎたので、そのために死んだというわけである」
(『ギリシア哲学者列伝』『西洋古典こぼれ話』から)

ここから柳沼先生は「思うに、実は驢馬がイチジクを食ったのがおかしいのではなく、イチジクを食った驢馬に人間並に葡萄酒、それも水で割ってないのを飲ませたのがおかしかったのではないか」と考察しているのだが、それもいまひとつピンと来ない。やはり、「ひどい笑いの発作というのは、端の人間には理由がよくわからない」というわたしの説の方が説得力がある……とは言えないか。まあ、ツボにはまった、ということを言っているだけなのだが。

それにしても漱石の読書量の幅広さ、膨大さには驚くばかりである。漱石、鴎外、芥川ばかりではない。坪内逍遙は全世界に先駆けてシェイクスピアの全戯曲を翻訳したし、黒岩涙香は翻案という形ではあったが、おもしろい読み物を次から次へと紹介していった。乱歩の推理小説の中には、外国の作品を下敷きにしたものがいくつもあるし、横溝正史も戦時中に翻訳をしている。昔の人はつくづく勉強家だったのだなあと頭が下がる思いだ。

仮定法過去完了―文法の話ではありません

2011-09-21 23:08:31 | weblog
その昔、英語で仮定法過去完了を習ったときに、洋の東西を問わず、人間というのは似たようなことを考えるものなのだなあ、と思っておかしくなってしまった。例の

" If I had got up earlier, I would have caught the train."
(もしもうちょっと早く起きていたなら、電車に間に合っただろうに)

という、「現実に起こったことと逆のこと」を想定するときの用法である。
当時のわたしはおそらく完了形というと、日本語にはない発想の文型、とばかり思い込んでいたからなのだろう、めずらしく日本語の語感とぴったり一致する用法を新鮮に感じたのだ。

考えてみれば「もしあのとき~していたなら(しなかったなら)」という感慨、というか、もっと言えば、ああしなかったら良かった、こうすれば良かった、という後悔は、人間に普遍的な感情だろう。あることを選択するということは、別の可能性を封じてしまうことにほかならない。手放した可能性が、あとになって光り輝いて見えることもよくある話だ。

ただ、どれほど過去のあるときを取り上げて「あのときこうすれば良かった」と後悔したとしても、多くの場合、わたしたちはどうにか「そうしなかったから出現した現状」と折り合いをつけることができる。「まあ苦い思いをさせられはしたが、考え方によっては良い経験をさせてもらったともいえる」「そのときがあるからいまがあるのだ」というふうに考えることができるようになるのである。

もし折り合いをつけなかったとしたらどうなるだろう。
何かあると「あのとき、ああしなかったら」「あのとき、あれをやってさえいたら」「あのとき、もうちょっとがんばっていたら」「あのときちょっとだけでも助けてくれる人さえいたら」「あのとき、あの人がそこにいなかったら」……と考えてしまうとしたら。

おそらくそんなとき、わたしたちは「現実に起こったことと逆のこと」を「もしそうしていさえしたら」とシミュレーションしているのだろう。うまくいった自分、成功した自分、輝かしい、華々しい自分。けれども、考えてみればそんなときのわたしたちは何と比べて「うまくいった」「成功した」「輝かしい」と考えているのか。
――いまの自分と比べて。
そんなシミュレーションは、いまの自分の境遇をことさらに貶め、損なっているのではないか。

現実にそういうことばかり言う人がいると、周囲の空気はてきめんに悪くなる。
「いやいや、そんなことはないよ、いまのあなたはうまくやってるじゃない?」となだめようとしても、「だけどね、もしわたしがあのとき会社を辞めなかったらいまごろは…」と、「辞めずにうまくいっている自分」の姿を頭の中で思い描いている人には、何の慰めにもならない。だからもう一度繰り返す。何度も何度も繰り返す。そのうち、まわりの人間は離れていってしまう。現在の自分の境遇は、いっそう悪くなっていく。まるで自分がそう望んでいるかのように……。

そう。
この「仮定法過去完了形」の問題は、これを言ったところで、誰にも答えようのない、誰にもどうしようもできない言葉だから問題なのではなく、確実に言う人の現状を悪化させるところにあるのだ。

電車に乗り遅れた、というのは、単にひとつの出来事に過ぎない。それが良くなったり悪くなったりするのは、すべてそれから先に起こっていくほかの出来事との関連だ。それをわたしたちはどこかで切り取って「良かった」とか「悪かった」とか言っているのに過ぎない。

電車に遅れたことをとらえて、「もしもうちょっと早く起きていたなら、電車に間に合っただろうに」と考えて、そのあとに続くのは、「そしたら遅刻しないですんだだろう、そうしたら先生に怒られずにすんだだろう……」と言っても始まらないことだ。
「だから明日は早く起きられるように、早く寝よう」という文章は、「仮定法過去完了形」には続かない。



ゴミは「捨てる」ものか、「出す」ものなのか

2011-09-14 23:18:51 | weblog
その昔、集合住宅で輪番制の自治会の役員をやっていたときのことだ。わたしが書いた「お知らせ」に、クレームがついたことがあった。「ゴミ捨ての注意」という文言が、「不適切」であるというのである。

あらかじめ前任者から、うるさ型の住人が何人かいるので、くれぐれも言葉遣いには気をつけるように、という申し送りは受けていた。だから毎回、念には念を入れ、責任者にも確認を取り、昨年に出されたものにならって慎重に書いてきたつもりだった。そうして大過なく過ごしてきたところに、住人のひとりから「ゴミ捨て」という思いもかけない言葉にチェックが入ったのである。

いわく、「ゴミ」は「捨てる」ものではなくゴミ置き場に「出す」ものである……。
「捨てる」ものだと思うと、出し方もぞんざいになる、「ゴミ捨て場」だと思うと、「ゴミ置き場」を汚くしても平気になる。ゴミの出し方をきちんとしよう、ゴミ置き場をきれいにしようと思うのなら、まずそんな言葉から気をつけるべきだ……。

とまあ、そんなことを言ってきたのである。

おいおい、不要物は「捨てる」ものだろう。「出す」ものではない。ゴミというのは不要物にほかなるまい。ゴミだから、単に家から「出す」だけではなく「捨てる」のだ。辞書を引くと「捨てる」という項目の用法に、ちゃんと「ごみ箱にごみを捨てる」とあるではないか。「ゴミ捨て場」というと、そこが汚くなって、「ゴミ置き場」が汚くならないという主張にいったいどれだけの根拠があるのだろうか。口には出さなかったけれど、わたしは思わずムッとしてしまった。

「直して向こうの気が済むのなら直しますよ」と、訂正と謝罪の文言を次回に掲載したのだが、おもしろくない気持ちはいつまでも残った。

ところがネットで検索してみると、市役所などの公式な文書は、「ゴミ出し」を採用しているのである。「ゴミ捨て」という検索ワードでヒットするのは私的な文章ばかりで、どうやら公式にはゴミというのは「捨てる」ものではなく、「出す」ものらしい。

その言葉を遣っている役所のサイトをいくつか読んでみて、なぜ「捨てる」ではなく「出す」が採用されているかわかったような気がした。

つまり、「捨てる」といってしまうと、そこが終点である。自分から切り離して、ハイ、さようなら、後は野となれ山となれ、というのが「捨てる」の元にある発想だ。ところが現代の「ゴミ」は、そこからリサイクルされて、また新聞紙やペットボトル、ビン・カン類など、わたしたちの下に戻ってくるものも少なくない。その先にさまざまな行き場があるから、「捨てる」ではない。家庭では不要であってもそこから先、それぞれ適切な場所へ持って行くために「出す」ものになっているのだろう。「リサイクル」が前提となっている「ゴミ」は、「捨てる」というより「出す」ものなのかもしれない。

だが、それでもやはり思うのだ。
ゴミの「行き先」でなく、「生活」という角度で考えたとき、やはりゴミは「捨てる」ものではないか。

整理整頓というのは、とりもなおさず「捨てる」ということだ。身の回りのあれやこれやの中から、必要なものを見つけるのではなく、不要なものをより分け、捨てられるもの、捨てた方が良いもの、捨てなければならないものを選り分けていく。その結果、どうしても捨てられないものが残っていくのだ。ときに、早まって捨ててしまったものを後悔し、あるいは冷静に考えればそもそも必要のなかったものを買ってしまったことを後悔しながら、「捨てる」という作業を通して、わたしたちはいまの自分に必要なものが見えてくるのではないか。

ショッピングモールに行くと、さまざまな商品が口々に「これがあればあなたの生活はいっそう快適になりますよ」とわめいているかのようだ。電化製品やパソコンやクルマや靴や服を手に入れれば、良い生活が作っていけるような錯覚に陥ってしまう。

けれどもその錯覚のままに買えるだけのものを買ったとしても、そのほとんどがいずれは「捨てなければならないもの」に変わっていく。その前に「捨てるに捨てられないもの」として、ほこりをかぶった段階を経なければならないかもしれないが。

「買う」のは、やがて「捨てる」ために買うことにほかならない。

こう考えていくと、「生活する」ということは、「不要なものを捨てていく」ということの別の言い方なのだ。

ゴミをどこかに「出し」て、そこから自分にはよくわからないし、詳しく考えたこともないけれど、誰かの手によって「ゴミではないもの」に姿を変え、別の商品になってわたしたちがそれを購入する、というサイクルは、あくまで「モノ」ベースの発想のように思える。

けれども、おおげさに言ってしまうと「自分を知る」ということは、自分が何を捨て、何を捨てられずにいるか、ということではないだろうか。

 


ロバート・シェクリィ「いこいのみぎわにて」その3.

2011-09-14 23:18:51 | 翻訳
その3.


 ふたりはよく荷箱にすわって星を見るのだった。夕食の時間まで話をし、ときには終わりのない夜が更けていくまま、話を続けることもあった。

 やがてマークはもっと複雑な会話をチャールズに組み込んだ。もちろんロボットに自由な選択をさせることはできなかったが、どうにかそれに近いことができるようになったのである。徐々にチャールズの性格というものが現れてきた。ところがそれは、マークの性格とはまったく異なるものだった。

 マークが怒りっぽいのに対して、チャールズは穏やかだった。マークが意地悪な場合でも、チャールズは無邪気だった。マークは皮肉屋だったが、チャールズは理想主義者だった。マークはよく言ったものだ。チャールズ、君は永遠に満ち足りているのだろうな。

 そのうちマークは自分がチャールズに応答を組み込んだことを忘れるようになった。ロボットを歳の近い友人として受け入れるようになったのだ。長い間、一緒にいてくれる友人。

「よくわからないのは、だな」折に触れてマークはこう言った。「どうして君のような男がこんなところに住みたいなんて思うんだね。そりゃ、私にとってはここはいいところだよ。でも、私のことを気に掛けるような人などいないし、私が気に掛けるような相手もいない。だが、どうして君はここにいる?」

「ここでは世界全部が私のものなんです」チャールズは決まってそう答えた。「地球にいるときは、何十億もの人びとと分け合っていたのにね。星だってわたしのものです。地球で見るよりずっと大きくて、明るい星が。私のすぐそばには、まるで静かにたゆたう河のような宇宙空間が広がっているし。なによりも、あなたがいるじゃありませんか、マーク」

「よせよ、私のことで感傷的になるのは」

「感傷的になっているわけではありませんよ。友情のことを言っているのです。愛なんてものはずいぶん前に失われてしまった。マーサという名の娘への愛。わたしたちが一度も会ったことのない娘。まあそれは残念ではあります。でも、友情が残った。そうして永遠に明けることのない夜も」

「おまえさん、どえらい詩人じゃないか」マークの言葉には、いくぶんかの感嘆がこめられていた。
「へっぽこ詩人です」



 星からはうかがい知ることのできない時が過ぎ、空気ポンプはシューシュー、ガタガタと音を立てるようになり、空気漏れを起こすようになった。マークは絶えず修繕を繰り返しているのだが、マーサの空気は徐々に希薄になってきた。チャールズが畑で世話をしていたが、作物に充分な空気が行き渡らず、枯れてしまった。

 マークはいまや疲れてしまい、重力のくびきがないにもかかわらず、体を立てて歩くこともできなくなってしまっていた。ほとんどの時間、寝台から出ることもない。チャールズは錆びつき、きしむ手足を動かしながら、なんとかしてマークに食べさせようとしていた。

「女の子をどう思うかね?」

「これまで、いい女ってやつに会ったことがないんだがな」

「さてね、それはひどくはありませんか」

 マークはひどく疲れていたので、最期が迫っていることにも気がつかなかったし、チャールズにはそんなことは関心がなかった。だが、最期は着実に迫っていたのだ。空気ポンプはいまにも動きを止めそうだった。食物が尽きて数日が過ぎていた。

「どうして君なんだ」空気があえぎ声のような音を立て、息をするのをやめた。

「ここでは世界全部が私のものなんです――」

「よせよ、感傷的になるのは――」

「マーサという名の娘への愛――」

 寝台でマークは最期の星を見た。大きい、見たことのないほど、大きい星が、宇宙空間という静かな河にただよっている。

「星が……」マークが言った。

「何ですか?」

「太陽は?」

「――いまと同じように輝くことでしょう」

「たいした詩人だな」

「へっぽこ詩人です」

「女の子ってのは?」

「以前、マーサという名の娘のことを夢に見たことがあります。たぶん、もし――」

「女の子をどう思うかね? 星は? 地球は?」そうして眠る時間が来た。永久の眠りの時間が。

 チャールズは友のなきがらの傍らに立った。一度、脈をさぐり、やせた手をそのまま下に垂らした。彼は小屋の隅へ歩き、くたびれたポンプのスイッチを切った。

 マークが吹き込んでいたテープはつぶれかけ、もう数センチしか残っていなかった。「あの方がマーサに会えますように」ロボットはしわがれた声で言い、それからテープが切れた。

 錆びついた手足は曲げることもできず、チャールズは固まってしまったかのように立ち尽くし、剥きだしの星を見つめ返した。それから頭を垂れた。

「主はわたしの牧者である」チャールズは唱えた。「わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させる。主がわたしを伴われるのは……」(※「詩編第二十三」)



The End



(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)



 


ロバート・シェクリィ「いこいのみぎわにて」その2.

2011-09-12 22:22:37 | 翻訳
その2.


 マークはチャールズのテープに新しい応答を吹き込んだ。鍵となるいくつかの言葉に反応する言葉を追加したのである。彼が「どんな様子かい?」と聞くと、「なかなか良い調子ですよ」とチャールズは答えるのである。

 はじめのうち、そうした応答は、以前、何年にもわたってマークが延々と言っていたひとりごとと何ら変わりはなかった。だが、徐々に彼はチャールズに新しい性格を与えていくようになったのである。

 マークはいつも女性というものを信用せず、軽んじていた。だがどういうわけかチャールズのテープには、そうした疑念を吹き込まなかった。チャールズの見解は、まったくことなるものだった。

「女の子ってどう思う?」雑用が終わると、マークは丸太小屋の外にある荷箱に腰を下ろして聞くのだった。

「さて、私には何とも言えません。あなたはお似合いの人を見つけた方がいい」ロボットはテープに吹き込まれた通りに、忠実に繰り返した。

「だがこれまで、いい女ってやつに会ったことがないな」マークは決まってそう言った。

「さてね、それはひどくはありませんか。きっと、十分時間をかけてさがさなかったんじゃないでしょうか。男にはかならず似合いの娘がいるもんですよ」

「やれやれ、君ときたらずいぶんロマンチックなやつなんだな」マークは馬鹿にしたようにそう言った。ロボットは少し間をおいて――間が組み込まれているのだ――、含み笑いをもらした。細心に挿入された含み笑いである。

「以前、マーサという名前の娘のことを夢に見たものでした」チャールズは言った。「もし私がちゃんと目を開けていたなら、会えていたのかもしれません」

 そうして眠る時間が来るのだった。だが、ときにはマークがもっと会話を続けたいと思うこともあった。「女の子ってどう思う?」ともう一度聞くのだ。そこから会話はまったく同じ道筋をたどっていく。

 チャールズは古びていった。手足はぎくしゃくしだし、配線の一部が腐食を始めた。マークはロボットの修理に、長く時間がかかるようになった。

「おまえさん、錆びてきたぞ」マークが軽口を叩く。

「あなただってもう若くはありませんや」チャールズもそう応じた。チャールズに返せない返答などなかった。ややこしい返事ではなかったが、ともかくも返答にはほかならなかったのである。

 マーサの上では、夜が明けることはなかったが、マークは時間を午前、午後、夜と区切りをつけていた。ふたりのくらしは単純で、決まり決まったことの繰り返しだった。野菜とマークが蓄えている缶詰の朝食。それからロボットは畑で働き、手入れされるままに植物は育っていた。マークはポンプを修理し、水の供給が滞っていないか確かめ、ゴミ一つない丸太小屋を片づけた。それから昼食。ロボットの仕事はたいてい終わっていた。


(この項つづく)



サイト引っ越しのお知らせとロバート・シェクリィ「いこいのみぎわにて」

2011-09-11 22:58:36 | 翻訳
まず、いくつかのお知らせから。
これまでHPとしてお世話になっていたaaa!cafeがHPサービスを終了することになり、それにともなってサイトを引っ越しすることになりました。

新しいサイトは
http://walkinon.digi2.jp/
になります。どうかみなさま、ブックマークの変更をよろしくお願いいたします。
いま、いくつか新しい翻訳や読み物をアップする準備をしています。またそのときはお伝えしますのでよろしく。


SFの翻訳をひとつ。
ロバート・シェクリィの短篇"Beside Still Waters"です。
原文は
http://www.gutenberg.org/files/29446/29446-h/29446-h.htmで読むことができます。

* * *

Beside Still Waters (いこいのみぎわにて)
by ロバート・シェクリィ



日常の煩わしさから解放されることについて誰かと話しをするようなとき、たいてい思い浮かべるのは西部の広大な原野だ。だが、SF作家が現実に思い浮かべるのは、タイムズ・スクエアの中心かもしれない。未来にあって、孤独を求めたひとりの男が選ぶのは、アンドロメダ星雲から四光年東の、宙に浮かぶ岩盤かもしれないのだ。これは孤独を求めてそんな場所を選択した男の、穏やかで小さな物語である。彼は自分の相手に誰を連れてきたのだろう。それがほかならぬロボットのチャールズだった。


 マーク・ロジャースは鉱山の試掘者で、放射性鉱石や希少金属の探索のために小惑星帯に向かった。何年ものあいだ、小惑星から小惑星へと飛び回ってそうした鉱石や金属を探したが、多くを見つけることはできなかった。やがて八百メートルほどの厚みのある岩盤の上に定住するようになった。

 ロジャースは元来老けた男だったのだが、ある時を境に歳を取らなくなった。青白い宇宙空間の中で彼の肌は白く、かすかに手がふるえていた。ロジャースは自分のいる岩盤のことをマーサと呼んでいた。そんな名前の娘はひとりも知らなかったのだが。

 ちょっとした金鉱を掘り当てたおかげで、マーサの上に数トンの土を敷き、水のタンクをいくつか備えることができた。さらにエアポンプと小屋をしつらえ、ロボットを一体購入した。そうして仕事を引退し、星を見る日々を送るようになった。

 ロジャースが買ったロボットは標準型のあらゆる仕事をこなすもので、記憶媒体が組み込まれ、三十語の語彙を駆使することができた。マークはそれに少しずつ手を加えた。彼はなかなかの修繕の腕を持っており、楽しみながら身の回りのものを改造していった。

 最初のうち、ロボットは「わかりました、ご主人様」「できません、ご主人様」というだけ。そのほかには「エアポンプ稼働中です、ご主人様」「トウモロコシが発芽しています、ご主人様」といった簡単な報告をすることもできた。「おはようございます、ご主人様」と礼儀正しく挨拶することもできた。

 マークはそれを改良した。ロボットの語彙の中から「ご主人様」を消去した。マークの岩の塊の上では、平等が原則だったのだ。そうしてロボットに、自分が会ったことのない父親の名にちなんでチャールズと名前をつけた。

 数年が過ぎ、エアポンプが小惑星の岩の中の酸素を、呼吸に適した空気に転化する作業を少しずつするようになった。空気は大気圏へと拡散していき、ポンプの稼働が少しずつ上昇して行くにつれ、酸素の供給も増えていった。

 小惑星に敷いた黒土は耕され、作物は成長を続けた。見上げれば、マークの目には漆黒の大河のような虚空が広がり、星が点々とその河に浮かんでいた。彼の周囲も、足の下も、頭上にも岩の塊が浮かんでおり、その暗い側から星がまたたくのが見えることがあった。ときおり、火星や金星の姿が一瞬だけ見え、一度などは地球が見えたような気がした。



(この項つづく)



振り込め詐欺対策への提言

2011-09-02 23:39:31 | weblog
銀行で振り込みをしようとすると、「振り込め詐欺」への注意を喚起する文言がやたらと出てくる。(ずっとわたしはこの言葉を「振り込詐欺」だとばかり思っていたのだが、確かに詐欺を働くのは振り込みをする側ではなく「振り込め」と要求する側だから、振り込の方が、文法的には正しいのかもしれないが、なんとなく語呂が悪いような気がする。これは単なる慣れの問題なんだろうか)

「オレオレ詐欺」の話を最初に聞いたとき、なぜそんな電話を簡単に信じてしまうのだろう、と思ったものだ。だが、一度、わたしのところにも「オレだよ」を名乗る電話がかかってきて、考えが変わった。

その電話は詐欺電話ではなく、いわゆるイタズラ電話だったのだ。

「もしもし、オレや、オレ。ずっと会うてへんかったから、どないしてるか思うて、気になって電話してみた」

相手が話し始めた段階から、イタズラだということはわかっていたのだ。それでも、その声によく似た声の人間を知っていて、電話相手がその人のはずがないことがわかっていても、なぜか切ることができなかった。イタズラ電話だと思いながら「どちらさまですか?」と聞き、「オレやがな、オレ」という返事に、ああ、やっぱり、切らなくては、と思いながら、それでも、声がよく似ている、正確に言えば、知っていた頃から十年は経っていて、声だって当然年齢を重ねていなければならないはずなのに、電話相手は当時の相手そのままの二十代らしい声だから絶対にちがう、などと思ってしまって、受話器を置く決心がつかなかったのである。「どちらさまですか」「オレ、オレ」という要領を得ない問答を数回繰り返し、自分でもばかばかしくなって、えいやっと切ったのだが、しばらく変な気がした。

それがもし、自分の子供が遠く離れたところにいて、いきなりひどい目に遭っていると聞けば、おそらくそれは、話し相手が自分の子供ではないとわかっていても、いても立ってもいられない気持ちになるだろう。あるいは、どうせ詐欺に決まっている、と思って、電話を切っても、つぎの瞬間、もしかしたら、という気持ちが起こってくるかもしれない。百パーセント、そんな事実はない、と言い切れないとき、自分がもしかしたらとんでもないことをしてしまったのではないか、という疑念が生じる。いまごろ息子はどうしているだろう、苦しい目に遭っているのではないか、という不安がどんどん胸を満たし、つぎにまた同じ内容の電話がかかってきたら、相手の言うがままにお金を振り込んでしまうものなのかもしれない。

振り込め詐欺に遭ってしまう人は、情報に疎いからそんな詐欺に引っかかっているのではないだろう。「こういう電話がかかってくる詐欺がある」「世の中にはそうやって年寄りを騙す悪い輩がいる」とどれだけ「情報」として知っていても、現実の現れ方は「情報」とは異なる。しかも、人間の声が耳元で窮状を訴えれば、情報があったとしても混乱してしまうだろう。そうして相手(が騙っている人物)に対して、自分には責任があると思えば、「電話を切って何もしない」という行動の選択が取れなくなってしまうかもしれない。目の前の現実は、どんな情報よりもはるかに複雑でわかりにくいものなのだ。

わからないことに直面したときは、誰だって不安になる。お金を振り込むことは、この不安を解消する唯一の手段だ。仮に詐欺だったとしても、電話を切ってしまえば「もしかしたら」という不安はついてまわる。すぐに自分の子供に連絡して確かめられる人なら良いが、それができない人は、いつまでもこの不安を持ち続けなければならないのだ。

そういうふうに考えると、銀行員の制止を振りきっても、振り込んでしまう人の気持ちがなんとなくわかってくるように思う。

おそらく「振り込め詐欺に注意」という看板をどれだけ出したところで、振り込んでしまう人は出てくるだろう。それでも、たとえば「その電話で不安になるのはあなただけじゃないんですよ、わたしも一緒なんですよ」と言ってくれる人がいたら、ずいぶん気持ちは変わるのではないか。もちろん、不安が解消するわけではない。だが、自分だけが不安なのではなく、誰もが同じ不安を抱えている、と思えば、何とか耐えられるのではあるまいか。

それにもうひとつ。「不安」であるということは、幸せなことでもある。誰かのことを考えて「不安」であるというのは、少なくともその相手が生きているから、「不安」にもなれるのだ。

そう考えると、不安のない生活というのは、あり得ない。仮に「不安」をひとつ取り払って、かりそめの「安心」を手に入れたとしても、それはつぎの「不安」が起こるまでのこと。「不安のない状態」を「あるべき状態」とすれば、不安は耐えがたくもなるが、むしろ自分が生きていて、自分が心配する相手も生きているからこそ「不安」が絶えず生まれてくるのだ、と思えば、「不安のある状態」こそが「あるべき状態」とも言えるのだから。

とまあ、こんなことをあれこれと考えたあげく、わたしはひとつ思いついたのだ。
銀行はおばあさんを嘱託として雇って、詐欺電話に振り込みそうな人を見かけたら、声をかけてあげる、というのはどうだろう。自分も同じように、詐欺の電話がかかってきて、これは詐欺だと思って振り込まなかったのだが、それでも不安が完全に消えたわけではない、でも、まあどうにかやっているようだし、便りがないのは良い便り、という言葉もある……、というふうに。
これはそんなサインボードより、よほど効果があると思うのだが。
コストパフォーマンスが悪すぎるだろうか。


「読書感想文」あれこれ

2011-09-01 23:31:25 | weblog
夏休みの宿題というと、決まって出てくるのが「読書感想文」なのだが、あんなものを書かせるよりは、自分が読んだ本を、原稿用紙一枚程度に要約させた方が、よほど意味があるように思う。

たいていの「感想文」というのは、「おもしろかった」という一言を苦心惨憺引き延ばしたようなしろもので、実際におもしろいと思ったのなら、どこがどうしてどのような点を自分はおもしろく感じた、と書けばよさそうなものを、一向にその点が判然としない。おそらくはまともに読んでいないまま、とりあえず最後までページをめくった(ときにそれさえもしていない)というだけで、行間から「書きたくない」「書くことがない」という心情がにじみでていて、書く方が苦痛なだけではなく、読む方もたいそうな苦痛を強いられる。そんな読書感想文を毎年書かせるというのも、つまりあれか、がまん大会に「参加することに意義がある」というやつなのかもしれない。

ともかく、そんな読む方も書く方もうんざりするだけの「読書感想文」より、「この本は何が書いてあるか」を書かせた方が、よほどいいような気がする。

「この本には何が書いてあるか」というのは、すなわちその人が「何を読みとったか」「その本の中から何を汲みとったか」ということにほかならなくて、それは結局、本のことを語りながら、「その人がどういう人であるか」を語っていることにほかならないからだ。

中学生のころ、『赤毛のアン』の主人公アンを、「ほんっとにイヤな子でしょ」と言う子がいて、驚いたことがある。当時のわたしは『…アン』というと、なんとなく女の子の必読書というか、万人に愛される登場人物ではないか、と漠然と感じていたのだ。

彼女によれば、『赤毛のアン』というのは、「やたら明るくてやかましい女の子のおしゃべりの話」なのだった。その話を聞きながら、わたしは世間に広く行き渡っている読み方ではない、大胆な読み方ができる彼女を見て、目を洗われるような気がした。

そうか、何だってありなんだ、と。そうして、アンを「イヤな女の子」と平気で言ってのける彼女はおもしろい子だなあと思ったのだった。

また別の機会には、こんなこともあった。
阿刀田高の『海外短編のテクニック』(集英社新書)では、ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」にふれられているのだが、

「主人公のハリーは結局救助されるのだが」

とあるのだ。この一節を読んだときには、文字通り、あんぐりと口が開いてしまった。
「キリマンジャロの雪」に関しては、ここで私訳を載せているが、どこをどう読んだら「結局救助」ということになるのだろう……と思ったものだ。

だが、その先には「救助が先か、死が先か、スリリングな状況設定の中で、人間の真実と、きらびやかな回想の日々が入り乱れて、充分な読み応えがある」と続いていく。おそらく阿刀田高は「スリリング」な読み物として、この小説を読んだのだ。逆に言うと「スリリング」であるためには、救助が死に瀕した主人公の脳内の映像であっては、それこそしゃれにならない。「救助が先か、死が先か」とハラハラしながら読めるのも、最後には助かるというお約束があるからだ。その意味では、そこに「正解」も「不正解」もない。ただ、阿刀田高が読んだ「キリマンジャロの雪」には、最後のハイエナの場面がないのだな、と思うだけである。

ともかく、同じ小説を読んでも、その人が「その中に何を読んだか」というのは、これほどまでにちがってくるものなのである。

ところでこの夏、旅行に行ったとき、パトリシア・ハイスミスの『変身の恐怖』という小説を読みながら、至福のひとときを過ごした。訳者の吉田健一の名前に引かれて買った本だったのだが、実際読んでいると、どこをどう取っても吉田健一の文章そのもので、でも同時にやはりこれはどんどんと緊迫感が高まっていくハイスミスの小説でもあって、とびきりの料理を、一皿が終わっていくのを惜しむように、一口ずつゆっくりと、すみずみまで味わっていくように読み進めていったのだった。

そうして最後に「訳者あとがき」を読んだとき、そこには吉田健一がどう読んだかが書かれてあった。
この小説の作者については原書の表紙に書いてあること以外に何も知らない。…(中略)…
 しかしこの小説を読んでからというものは初めてだという気がしないところにその特色がある。その舞台は北アフリカの独立したばかりの共和国であるテュニジアで、そこに仕事と見物を兼ねてきているアメリカの小説家だとかデンマークの画家とか、それから殊に実業家が引退したのらしく現に何をしているのか他の登場人物にもはっきりしないアダムスという中年のアメリカ人などはわれわれにとってなじみがあるというものでは決してないが、どこでも場所というのは一度そこと決まればわれわれにそう珍しくなくなるということのほかに、この小説に出てくる人物の心の動きというようなものは少しもわれわれに外国人とか作者の勝手な想像とかいう感じを与えない。そのどれもが人間になっているといってしまえばそれきりである。それよりもその人間になっている具合が前に触れたこの小説の特色なので、そうして人間であるための条件がどこでだろうと結局は同じであるならばその条件の一つに自分が人間であることを感じさせるものがなければ人間は生きていけないということがある。

 それが人間の一人一人にとっての判断の基準とか行動の目標とかというもので、もし一つの社会でそれに属するものの大多数が満足できる程度に発達し史、洗練されたそういう規準や目標があるならば、それを伝統とも文明の正統とも呼んで差し支えない。別な言葉でいえば、それがわれわれにとって人間らしさであることの根本をなしている。そしてあいにくのことに、これはそんなことでかたづけることを許さないもので、この小説の主な人物はいずれも各種の理由で、そうした伝統的なものから切り離されていることに対処しなければならない立場にあり……(パトリシア・ハイスミス『返信の恐怖』「訳者あとがき」より)

とまあ、ここから小説の中に入っていき、もうあとは本を読んでください、と言うしかないのだが、ともかくわたしはこのあとがきを読むまで、この小説が「自分が人間であることを感じさせるものがなければ人間は生きていけない」ことを書いた小説であるとは、実際のところ、夢にも思わなかったのである。

ところがこのあとがきを読んでしまうと、ちょうど暗闇に慣れてきた目が、真っ暗としか思えなかったなかに、少しずつものの形が見えてくるように、そういう小説であるとしか言えないように思えてくるのだ。

ひとつの作品から、ここまで深いものを取り出せる。
ただただすごいなあ、と思い、やはり「読書の楽しみ」というのは、結局のところ、こんな読み方をしている人に出会えるということなのだなあ、と思うのである。