陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フィリップ・K・ディック『変種第二号』その1

2009-03-31 23:03:48 | 翻訳
今日からフィリップ・K・ディックのSF短篇「変種第二号」を訳していきます。
ちょっと長いので、二週間ほどかけてたらたら訳していきます。まとめて読みたい人はそのくらいに読みにきてください。

原文は
www.dvara.net/HK/Second_Variety_v1.0.rtf で読むことができます。

* * *

SECOND VARIETY(変種第二号)

by Philip K. Dick(フィリップ・K・ディック)


その1.

そのロシア人兵士は、銃を構えて、荒涼とした丘の斜面をびくびくしながら上っていた。乾いた唇を舌で湿しながら周囲に目をやったが、その顔はひどく緊張している。ときおり手袋をはめた手をあげると、上着の襟元をゆるめて首筋の汗をぬぐった。

 エリックはレオーネ伍長を振り返った。「伍長がやりますか? それともオレが?」照準器を調節し、ロシア兵の顔を画面いっぱいにまで広げた。厳しい、暗い面貌に、深いしわが刻まれている。

 レオーネは考えていた。ロシア兵は接近してくる。それも急いで、ほとんど駆けていると言ってもいい。「撃つな。待て」レオーネは身体をこわばらせた。「お呼びじゃなさそうだ」

 ロシア兵はペースをあげ、灰や積もるがれきを蹴散らしながら進んだ。丘のてっぺんにさしかかったあたりで足を止め、ぜいぜい言いながら、周囲に視線を走らせた。空は灰色の雲が低く垂れこめている。裸木の太い枝が、あちこちから突き出していた。焼け野原と化した大地には、がれきが散乱し、ビルの残骸が、まるで黄ばんだ頭蓋骨のように、そこここに立ったまま朽ちていた。

 ロシア兵は不安げなようすだった。なにか不測の事態が起こっていることに気がついているらしい。丘を降り始める。もう掩蔽壕(※えんぺいごう:斜面や地面を掘り抜いて作った強固な軍事シェルター)まで数歩というところだ。エリックはいらいらした。銃をいじりながら、レオーネに目をやった。

「心配いらない」レオーネは言った。「ここまでは来られりゃしない。あいつらが始末してくれるはずだ」

「ほんとでしょうね? もうすぐそこまで来てるんですよ」

「あいつらは掩蔽壕のすぐそばを徘徊してるんだ。やっこさん、ひどいところに足を突っこむってわけだ」

 ロシア兵はあたふたと丘をすべり降り始めた。ブーツがうずたかく積もる灰のなかにもぐり、何とか銃を高く掲げようとしている。少しのあいだ足を止めると、双眼鏡を持ち上げて顔に当てた。

「こっちを見てますよ」エリックが言った。

 ロシア兵はこちらに向かってくる。彼らには、ロシア兵のふたつの青い石のような目が見てとれた。口を半開きにしている。ひげを剃る必要があった。あごには無精ひげが伸びている。高い頬骨の片方に、四角く切った絆創膏が張ってあり、そのまわりが青くなっていた。真菌性の発疹だ。上着は泥まみれで裂けている。手袋は片方がなくなっていた。

 走るのに合わせて、ベルトのカウンターが身体に当たって上下に揺れた。レオーネがエリックの腕にふれた。「おいでなすったぞ」

何か小さい金属状の物体が、真昼の日の光を浴びて鈍く光りながら、地面を横切ってやってきた。金属の球体である。ロシア兵を追いかけて、丘を飛ぶように素早く動いた。ごく小さな、あいつらのなかでも最小のやつだ。クロー(かぎ爪)を突き出し、ふたつのカミソリの刃のような突起物は、白い刃がぼうっとかすむほどの速さで回転していた。ロシア人の耳にもその音が聞こえたらしい。振り向いて撃った。球体は粉々に砕けた。だが、すでに第二弾が現れ、最初のものに続いた。ロシア兵はもういちど撃った。

 三番目の球体が、カチカチと音を立て、回転しながらロシア人の脚に飛びついた。さらに、肩まで跳び上がる。回転する刃はロシア兵の喉元深く、沈み込んだ。

 エリックは緊張を解いた。「やれやれ、これで終わりだ。まったく、あいつらにはぞっとするな。ときどき昔の方が良かったような気がしますよ」

「もし我々があれを発明していなかったら、向こうの方が発明していただろうな」レオーネがぶるぶる震える手で煙草に火をつけた。「だが、あのロシア兵はなんでまたひとりでこっちまでやって来たんだろう。援護している人間がいるようにも見えなかったが」スコット中尉が地下道を抜け、掩蔽号にそっとすべりこんできた。「どうした? スクリーンに何か見えたか」

「イワン(※ロシア兵)がひとりやってきました」

「たったひとりで?」

 エリックがスクリーンの画像をそちらに回した。スコットはそれをのぞきこむ。いまでは無数の金属球が横たわった死体に群がっていた。鈍く光る金属球は、カチカチいいながら回転し、ロシア人の身体を運び去ろうと、小さく解体しているところだ。「なんて数のクローだ」スコットはつぶやいた。「ハエみたいに群がってくるんだな。あいつらの獲物も、いまはもうたいして残ってない」スコットは嫌悪の表情を浮かべて、スクリーンを押しやった。「ハエみたいに……。それにしてもロシア兵がそこにいたのが解せない。われわれが一面にクローを配置しているのは知っていただろうに」やや大きいロボットが一体、小さな球体のなかに加わっていた。長く尖っていない管の先から接眼レンズが突き出し、あれこれ指図している。もはや兵士の身体はどれほども残っていない。残留物は、クローの群れが丘の斜面を運び降ろしていた。
「中尉殿」レオーネが言った。「もしよろしければ、あそこに出て、ロシア兵をちょっと調べてみたいのですが」

「なぜだ」

「何かを届けにきたのかもしれないと思いまして」

 スコットは考えていた。やがて肩をすくめた。「いいだろう。だが、気をつけるんだぞ」

「自分のタブがありますから」レオーネは手首に巻いた金属のバンドを軽く叩いた。「これで近づけないでしょう」

(この項つづく)





サイト更新しました

2009-03-29 22:41:52 | weblog
サイトに「便利な、不便な話」をアップしました。

そもそもの元ネタは去年の8月に書いた記事なんですが、それをなんとかちがう形にしようと。
何か、後半が書けなくてこまりました。もうちょっと詰めた方がいいような気もするのですが、またそれは今後の宿題ということで。

お暇なときにのぞいてみてください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html


生理的に好き・論理的に好き

2009-03-27 23:16:05 | weblog
以前、わたしに向かって妙に突っかかってくるような物言いをする人としばらく一緒に仕事をしたことがある。ほかの人に対しては、そんな言い方をするわけではなかったから、どうもわたしに対して含むところがあるらしかった。

ところがその原因が思いあたらないのだ。私生活で接触があるわけではないし、何かトラブルがあったわけではない。何となく、わたしの話し方とか、話の進め方とか、言葉の選び方とかが気にくわないのかな、という感じがするだけだった。

気の強い人で、刺激的な言葉を使うことにもためらいがない。わたしに対する反論にしても感情的なものだから、その批判にも応えようがない。いまだったらもう少し考えたかもしれない(ほんとうにそうだろうか……結局同じことをしてしまうかもしれない)が、そのときは、わたしが“意見は聞いた、そういう考えを持っていることは理解した、では話を先に進めよう”、といった態度を取ったために、ひどく気分を害したようだった。

以降、その人と一緒に過ごさなければならない時間はいよいよ苦痛になったばかりではない。困ったのは、その時間が終わっても、その人が言ったこと、自分が言ったことが頭のなかで際限なくリピートされたことだった。もうやめよう、考えないようにしよう、とどれほど思っても、ふと気がつけばいつのまにか、感情でものを言う人はいやだな、とか、もっとはっきり言ってやれば良かった、などと思い返していたのだった。

それから、その人を見るだけで、声が聞こえてくるだけで、後頭部の当たりに重苦しいものがのしかかってくるような気がしたものだ。「生理的な不快感」というのはこのことか、と思った経験だった。


「わたし、あの人が生理的にダメ」という言い方があるが、おもしろいもので、「生理的に好き」という言い方はあまりしない(少なくともわたしは聞いたことがない)。「生理的に…」とくれば、そのあとにつづくのは「きらい」とか「イヤ」とか「好きになれない」とかというネガティブな言葉だ。

おまけに、食べ物の好き嫌い、場所の好き嫌いなどのような、直接身体の「生理」に関わるようなことについても、この言葉はあまり使わない(「わたしはイカの塩辛が生理的に嫌い」とか、「寒い部屋は生理的にイヤ」などとは言わない)。「生理的な嫌悪感」は、どうやら身体生理に直接には関わらないことに使うらしい。

その理由は自分にもうまく説明できない。だが、執拗な嫌悪感はどうしようもない。そんなとき、わたしたちはおそらく「生理的」という言葉を使うのだろう。

だが、好きと嫌いというのは、どこまでいっても「理由」を超えたものだ。
ある食べ物が好きだったり、嫌いだったりするときも、油っこくて、胃にもたれるから、などというはっきりした理由があるわけではない。人によっては、それがおいしく感じられるようなものでも、自分の口には合わない。誰もがそんな好き嫌いがあるのではないかと思うのだが、「自分はどうしてミョウガが好きなのだろう」とか、「アボカドがどうしても口に合わないのはなぜなのだろう」とあまり考えたり、説明を求めたりしない。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、と割り切って平気だ。だから、「ミョウガが好き」「アボカドは嫌い」と言うだけだ。

相手のことをほとんど知らないのに、妙にその人のことが好ましく思えたり、いらだたしくなったりするときには、どうしてなのだろう、と考えてしまう。そんなとき、好きな人はただ「好き」ですむが、きらいな人に対しては、その「きらい」というネガティブな感情を、何とか正当化しようとするのかもしれない。しゃべり方がきらい、言葉の使い方がきらい、偉そうな態度がきらい……。そうして、そんなときに「生理的」という言葉を使う。あの人は、生理的に好きになれない、というふうに。
生理的にきらい、と言ってしまえば、もうそれで説明がつくとでもいうように。

だが、その「好き」と「きらい」は、おそらくほんとうの身体生理とは関係がない。事実、その人を見たら調子が悪くなる……ということがあったとしても、それはその人に対するネガティブなことを考えている自分のせいなのだ。


時間が経ってその人と会わなくなって、わたしの不快感も嘘のように消えてしまった。
こんなことであんなにぐだぐだと考えていたのか、とわかっただけで、プラス「生理的」をちょっとでも「論理的」に整理できて、そのときの経験は、わたしに大きな意味があったように思う。


エレベーターにて(※若干補筆)

2009-03-26 23:05:50 | weblog
寒の戻りというのか、三月の終わりというのに、今日はずいぶん寒い日だった。たまたまエレベーターに乗り合わせたおばあさんに、「今日は寒かったですね」とありきたりのことを言うと、そのおばあさんは「ほんとにねえ、今週いっぱいは寒いらしいですよ」と言ったあと、「今日、初めて人としゃべったわ」と少し笑った。夕刊を取りに行ったらしいおばあさんは先に降りていき、「今日、初めて人としゃべった」おばあさんとは、もうちょっと話せたらよかったなあ、と思いながら、わたしは自分の階までもう少しエレベーターに乗っていた。

いまから十年以上前のことだが、わたしとほぼ同じくらいの年代の女性の隣りに住んでいたことがある。その人とは、時折り、朝の戸口やゴミ捨て場などで顔を合わせるのだが、こちらから「おはようございます」「こんばんは」と声をかけて、口のなかでもそもそと返事が返ってくればよい方で、向こうから歩いてくるようなときは、だいぶ前から傘で顔を隠したり、下を向いていたりして、気がつかないふりをされてしまうのだった。そうなると、うちがやかましいのだろうか、何か気に障るようなことをしてしまったのだろうか、と、多少心配になったものだった。

当時、おそらく心配するようなことはないのだろう、と、考えることにしていたように思う。おそらくあの人は、「顔見知り」ではあっても、自分がつきあいたくない人は、「知らない人」のカテゴリーに入れたい人なのだろう、と。確かに「顔見知り」、どこに住んでいる誰かは知っていても、それ以上何も知らないし、知りたくもないような人とは、挨拶ひとつするのも、人によってはわずらわしいことなのかもしれなかった。

向こうから、あ、隣の人が来る、挨拶しなきゃならないなんて、いやだ、面倒だ、どうしよう……などとぐだぐだ考えるより、「こんにちは」と一声かければすむだけの話のような気もするのだが、小学生のころは、やはりわたしも、同じようなことを考えていたのだと思う。

学校へ行くときだったら、通りの掃除をしている近所のおばさんは、「行ってらっしゃい」と声をかけてくれるから、それに合わせてこちらも「行ってきます」と答えていればいい。だが、そうではないときに、向こうから歩いてくる近所のおばさんに、どのタイミングで「こんにちは」と頭を下げたらいいのだろうか、と真剣に悩んでいた。

母親と一緒に歩いているとき、近所の人に会おうものなら、これは大変だった。こんにちは、ではすまないのである。おとな同士、立ち話をするのなら、いっそ、わたしのことなど忘れてくれればよいのに、何かあるとこちらに水を向けてくる。聞かれたことに、はきはきと答えなかったり、間の抜けた受け応えなどしようものなら、のちのち母親にひどくなじられたものだった。

文房具など自分のものを買うときは、わたしが「ごめんください」と言わなければならない。黙ったまま店に入ろうものなら、あとでまた怒られる。「ごめんください」と引き戸を開けて店に入り、「三角定規をください」と言って、店のおばあさんに出してもらう。あれこれ聞かれると、これまたはきはき答えなければならなかった。ところが、たいてい文房具屋のおばあさんは、聞き取りにくい声で、わたしにはよくわからない、むずかしいことを聞いてくるのだ。いま思うに、ものさしは何センチか、竹のものさしがいいのか、プラスチックのものさしか、ぐらいの質問だったのだろうが、何を聞かれているのかもわからず、母に「こうでしょう」「○○が要るんでしょう、自分でそう言いなさい」と小声で指図されるだけでなく、帰る道々、ずっと小言をくらうのだった。

回覧板もよく持って行かされた。それにも決まりがあって、
「ごめんください。○○です。回覧板を持ってきました。よろしくお願いします」
と玄関口で言うのだ。なにしろ小さい家が軒を並べているのだから、ちょっと大きな声を出せば、隣のわが家にも充分に聞こえる。声が聞こえなかったり、口上をきちんと言わなかったりしたら、待っていたのは「ご苦労さま」の言葉ではなく、小言の方だった。

ほどなく玄関が開いて、隣のおばさんがエプロンで手を拭きながら出てくる。記憶のなかではいつも奥から大根を煮るにおいがただよってくるのだが、持っていったのは、そんな忙しい、夕飯前の時間を避けていたときの方が多かったのではないのだろうか。顔はしょっちゅう合わせていても、子供のわたしにはほとんど縁のない人だった。それでも、わたしにとっては「隣のおばさん」という関係の人だった。

自分から親しくしたいと思う人ではない人とつきあうのは、やはり億劫だし、気後れがしたり、めんどくさかったりするものだ。おそらく「ごめんください」と言って店に入り、自分の希望するものを相手に伝えて、それを出してもらうようなことも、多くの人にとって億劫だったり、気ぶっせいだったりしたからこそ、そんな店は廃れてしまったのだろう。

それでも、当時は、さまざまな親しさや関係のレベルに応じての、人とのつきあい方というのが、おそらくわたしたちの社会にはストックされていた。わたしはしつこく叱られながら、それを身につけさせられたのだ。世の中、身内や友人と、赤の他人の二種類しかいなければ、ある意味、簡単ではある。けれども簡単なことは、わたしたちの毎日を、決して豊かにしてくれるものではないのだろう。

母からくどくどと小言を言われながら育ったことを、今日初めて良かったな、と思った。



何もない一日

2009-03-24 22:57:07 | weblog
「こんな時代だから」、買い物をしても、何となく服やアクセサリも買いにくくて、毎日が楽しくない、という話をしている人がいた。

「こんな時代」というのが実際にどういうことなのか、具体的な出来事があったり、何かをはっきりと把握しているわけでもないだろうに、ただ「買いにくい」という気分になってしまうというのが、まさに「時代の気分」ということなのかもしれない、とも思う。

ただ、服やアクセサリを買っていれば楽しいのか、そもそもそんなものをめったに買うことのないわたしには、あまりよくわからない。あれこれ選ぶのが楽しさというのをまったく理解しないので(いや、タワレコに行ったらそんな気分になるかな。あそこに行くと、セロファンとプラスティックのにおいを嗅ぐだけで、幸せな気分になる)、その時間を持てないのが楽しくない、ということなのだろうか。

だが、もともと毎日というのは、それほど楽しいものではないだろう。これということが何も起こらない、昨日と同じような一日がまたやってきて、やらなければならないことのいくつかが自分を待っていて、それをこなしているうちに終わってしまう、それが日常というもののはずだ。

新聞を見ていると、連日いくつもの事件が起こっている。ドラマでも登場人物は恋愛したり、事件に巻き込まれたり、大忙しだ。だが、実際のわたしたちの日常では、ほとんど何も起こらない。起こると大変だから、起こらないようにあちこち気を配って生きているのだ。

山本周五郎の、数少ない現代小説に『寝ぼけ署長』というものがあるが、これは、しょっちゅう昼寝をしている警察署長“五道三省”を主人公とした連作短篇である。五道三省がいるところ、何も事件が起こらない。それもそのはず、何かが起こる前に、目立たないよう、気付かれないよう、五道三省が気を配っているからだ。

現実に、わたしたちはさまざまな面で、五道三省と同じ気配りを続けている。隣人とのあいだにトラブルが起こらないよう、ゴミ出しには気をつけているし、クラスのなかでももめ事を起こさないよう、譲るべき点は譲る。家族が病気にならないように、食事や衛生に気を配っているお母さんもいるだろうし、車を運転するときには、爽快感を求めて飛ばす代わりに、交通法規を守りながら、周囲に気を配って運転する。

小説でも、五道三省の気配りは、たとえ事件を未然に防いでも、賞賛されることもなければ、感心されることもない。運が良かったから、あんな寝ぼけ署長でも勤まった、などと悪口さえ言われる始末である。

けれど、小説なら、わたしたちの目には、その気配りがどのように実を結んだかは見えてくる。現実のわたしたちには、その果実は見えない。ただ、何もない日々が続くだけだ。

みんなで協力しながら社会を成り立たせているわたしたちは、「何も起こらないよう」、小さな努力を日々積み重ねているのだろう。そのことは、誰かが目立ったり、脚光を浴びたりするような努力の対極にあるものだ。楽しかったりするようなものではないが、それが楽しくないのが、幸福だということなのかもしれない。

新聞やドラマでしか「人生」を知らない十代の子供が、何も起こらない自分の毎日にいらだつのは理解できる。わたし自身、「何でもない」自分に耐え難い時期が結構長く続いた。

それでもいつからか、「これといって楽しいことのない」毎日が、どれだけありがたいことか、そうして楽しみとはほど遠い、ありふれた自分の仕事を、評価とは関係なく、ひとつひとつ丁寧にやっていくことが大切なのだとわかってきた。それが実行できているかとなると、まだまだなのだけれど。

毎日というのはもともと楽しくないものだ、と思ってしまえば、逆に、春の日差しがそれだけでうれしくなってくる。こういうのは、買い物よりもきっと楽しいことのように思える。


わたしの記号、あなたの記号

2009-03-23 22:39:33 | weblog
ロバート・シェクリィの短篇に、『人間の手がまだ触れない』という短篇がある。

短篇のネタバレになってしまうのだが、いまとなっては手に入れにくい短篇なので、まあいいか、と思って取り上げることにする。読んでみようと思われている方は、パスしてください。

餓死寸前のふたりの宇宙飛行士が、未知の星に不時着してドーナツ型の建物を見つける。どうやらそこは倉庫らしい。ひとりの飛行士はそこで、その星とアルムブリギア語の辞書を見つける。幸運なことに、彼はアルムブリギア語を知っていたのだ。その辞書を頼りに、箱に書かれたラベルを読みながら、ふたりは食べ物を必死で探す。

ひとりの飛行士は主張する。
「もし、この惑星に住んでいたのがどんな種類の生物か推定できれば、やつらがどんな食物をたべていたか、そして、それがわれわれにも食べられるかどうかがわかるはずだ」

ところがその星にどんな生物がいるか、情報はほとんどない。
そこで飛行士たちは仮説を立てる。
・彼らの肉(※ここでは食物の意)は、われわれの肉である。
・彼らの肉は、われわれの毒である。
・彼らの毒は、われわれの肉である。
・彼らの毒は、われわれの毒である。

「万人の食用に適す」という書いてある箱を開けてみる。すると、赤くて細長い直方体がでてきた。赤い、ぶよぶよした直方体は、くすくす笑っている。とても食べられそうにない。「万人の飲料」は、襲いかかってきて、ふたりを飲み込もうとする。
ならば、「彼らの毒はわれわれの肉」だろうか。「いかなる場合にも食べてはなりません」と表示のある「充填材」の箱をあける。すると、そこからはいやな臭いの緑色の泡がぶくぶくでてくる。充填材は、部屋一杯になってもふくらむのをやめない。膨張する充填材に追われて、ふたりは別々の方向に逃げ出した。

飛行士は考える。同じ酸素のある星でも、彼らの肉はわれわれの毒、彼らの毒もわれわれの毒、となると、彼らの肉でも毒でもないものを食べれば良いのか。

扉の向こうから、もうひとりの飛行士の助けを求める声が聞こえる。
先ほど、ふたりが「食べ物ではない」とうち捨ててきた「超特性輸送機」が、動物のような臭いの息をさせて襲いかかってきた。
飛行士たちは「彼らの肉でも毒でもないもの」の「肉」だったのだ。

この短篇は「記号論」として読むことができる。

ここでは「記号」の受信者はふたりの飛行士だ。彼らは辞書(コードブック)を片手に、なんとか見知らぬ記号の意味を解読しようとする。

記号はひとつだが、発信者と受信者が同じコードを共有していない場合、昨日の「ミニスカート」の例でもあきらかなように、コミュニケーションは失敗に終わってしまう。
だから、ここでこの飛行士の考える「もし、この惑星に住んでいたのがどんな種類の生物か推定できれば、やつらがどんな食物をたべていたか、そして、それがわれわれにも食べられるかどうかがわかるはずだ」というのは、まったく正しい。

通常のわたしたちは、言葉をあたかもコミュニケーションの便利な道具として、特に意識することもなく使っている。

ところがちょっとしたとき、「コミュニケーションの便利な道具」は、ちがう様相を見せる。

ある人の言葉の真意を知りたく思う。
ちょっとした仕草から、相手の本音を読みとろうとする。
あるひとつのことの解釈をめぐって、どうも考え方がちがうような気がする。
そんなときは、いずれも、わたしの「記号」と相手の「記号」のあいだのずれに気がついた、ということでもある。

このずれは、わたしたちが、相手を「自分とは異なる人」とはっきりと意識するときでもある。このずれを一致させるためにはどうしたらいいか。それは「相手がどんな人かを知ること」なのである。

オセローがもし、イアーゴーがどんな人間か知っていたなら、彼の言葉を信じて妻を疑うこともなかっただろう。

けれど、戯曲の登場人物ではない、身の回りの人びとが、イアーゴーのように、一言で要約できるような人間ではない。同じ人が、状況や場面によって、言うことも考えることも変わっていく。わたしたちに知りうるのは、飛行士が異星人がどんな生物かを推定する程度なのだろう。

結局、ここまできて気がつくのは、わたしたちがほんとうに相手が発信するさまざまな「記号」を、正しく受信できているかどうかは、どうやってもわからない、ということだ。

ずれが生じて初めて、なにかがうまくいってないことに気がつく。
けれども、それは同時に、相手のことをもっと知りたいと願う機会でもある。

わたしたちにできるのは、なんとか相手のいうことを正しく読みとりたい、自分の言うことを正しく伝えたい、と願うことだけなのかもしれない。


コードエラー

2009-03-22 22:24:44 | weblog
こんなニュースを見た。
http://www.j-cast.com/2008/01/16015650.html

そのうちリンクが切れるだろうから、要旨をここに書いておく。

わたしはこの「大島」という人が誰だか知らないのだが、おそらくアイドルなのだろう。
ミニスカートをはいている若いアイドルの女の子(うう、おばさんくさい言い方だ)が、「オジサンにミニスカートから出ている足を見られただけでチカンと思う」と発言したことをめぐって、「チカン」呼ばわりされた男性の側が、「被害者ぶってるけど、そういうことを誘発しているのはそちらでしょ!挑発的な格好をして被害者のふりをするな!!」と怒った、というものである。

この議論のずれは、以前にも感じたことがある。

流行というのは不思議なもので、いまはすっかり目にすることもなくなったが、二年ほど前には若い女の子たちはローライズのパンツ(下着の意にあらず)が多かった。自転車に乗っていて、そんな子の後ろで信号待ちをするようなときは、目の前に素肌の背中というか、腰というかが見えていて、下着ものぞいている。たとえ同性であっても、目のやり場に困るような思いがしたものだった。

ただ、彼女たちはまちがってもそんな場所を人に見せようと思って、そういう格好をしていたわけではないにちがいない。彼女たちは、ただ、そういう格好が「かわいい」「おしゃれ」と思っていただけのはずだ。彼女たちにとって「ローライズのパンツ」にせよ「ミニスカート」は、「いま流行の、かわいくておしゃれな服」を意味する「記号」なのである。

だが、前屈みになれば人目にさらさない方が良いような場所まで丸見えになってしまうローライズや、膝から上がどーんと剥きだしになっているミニスカートをはいている結果、そういう場所に目を向ける男性がいると知れば、「いやらしい」と腹を立てる。彼女たちにとって、ローライズにせよミニスカートにせよ「いま流行の、かわいくておしゃれな服」という解読以外をされるのは、記号の誤った解読、コードエラー以外の何ものでもない。まるで赤信号で直進してきた車を見るように、それ以外の解読をする人に対して、腹を立てる。

そこで腹を立てられた男性の側は、「そんな格好をしておいて!(見せたいからじゃないのか?)」と、非常に不本意な思いをする。
このとき男性にとって「ローライズのパンツをはく女の子」や「ミニスカートをはく女の子」は「肌を見せたがっている女の子」を意味する「記号」なのである。

ここで議論になってしまうのは、双方とも記号の解読の仕方は単一である、と信じているからだ。

助さんだか格さんだかが印籠を取り出すと、先ほどまで水戸黄門を「じじい」呼ばわりしていた悪人どもが、いっせいに、ははーっとはいつくばる。

それは「印籠」の解読の仕方が、悪人であっても虐げられている民百姓であっても、まったく同じだからだ。水戸黄門の登場人物たちは、「印籠」に対して、単一の意味しか読みとらない。だからそこで混乱はおこらない。もし「印籠」というより、「葵の御紋」に対して一切の権威を認めない「南蛮渡来のアウトロー」が登場すれば、黄門様はあっというまに銃弾の餌食となってしまうことだろう。

わたしたちのコミュニケーションは、相互理解の欲求に支えられている。だから、ミニスカートをはく女の子(発信者)は、それを見る相手(受信者)にも、自分のミニスカートを「かわいい」と思ってほしいし、さらにはそれをはいている自分も「かわいい」と思ってほしい。ところがそれ以外の見方をする受信者は、発信者にとっては誤解にほかならない(というか、おそらくおじさんは彼女たちの想定する受信者のなかには入っていない)。

おそらく件のアイドルに対して、感情的に怒りをぶつける人びとは、自分たちが記号を読み違えていることを指摘されたことへの怒りばかりでなく、自分たちの存在が「圏外」扱いされたことに対するいらだちも含まれているのであろう。

だが、双方とも忘れてはならないのは、どこかに「正解」があるのではなく、「記号」というのはさまざまな読み方を可能にするものである、ということだ。そうして「誤解」が浮上してきたときこそ、自分以外の人びと、すなわち〈他者〉がいる、ということが、初めて意識にのぼってくるときなのである。

問題は、自分の見方を唯一の見方として、巡り会った〈他者〉をその読み方に屈服させるか、〈他者〉の存在を織り込んだ上で、ことなった読み方を容認していくか、どちらの方向をわたしたちが取っていくのか、ということなのだ。

そうしていまのわたしたちのコミュニケーションは、記号の同一の読解をしない人びとを、排除しよう、排除しようとする方向に向かっていっているのではないか、ということなのである。

そろそろ次回あたりにまとめたい。

(※すいません。ちょっと忙しくて二日ほど更新できませんでした)


本音はどこにある?

2009-03-19 22:47:33 | weblog
以前、ある会の世話役をやっていたときのこと。
一緒にやっているひとから、「本音が見えない」と言われて、ちょっと驚いたことがある。
わたしはそのときおもに会議の司会をやっていたのだが、議事の進行がつつがなく進んでいくように、無駄口をたたかず、誰かと特別に親しくすることもなく、かといって、義務感からばかりではなく、それなりに楽しんでやっていたつもりだった。

ところが「本音が見えない」と指摘されて、わたしは変な気がしたのだった。本音もなにも、わたしは先に書いた以上の思惑があったわけではない。「本音が見えない」と言われてもなあ、という気分だった。

進め方が少し事務的過ぎたかなあと思って、以来、会議が一段落ついたあたりで、「今日は~でしたね」とか「ちょっとまとめ過ぎちゃいましたか」などというような、ちょっとした「おしゃべり」的な一言を入れるようにしてみた。すると、以前に「本音が見えない」と言った人は、「あなたもだんだん慣れてきて、みんなを信頼してくれるようになったんですね。本音でしゃべっていいんですよ」という。何か、ものすごく奇妙な気がしたできごとだった。すくなくともわたしが差し挟んだ「おしゃべり」は、本音でも何でもなく、わたしの工夫でしかなかったのだから。この場合、「わたしの本音」というのは、わたしの側にはなくて、それを聞き取った側にあったといえる。

たとえばここに一枚のハンカチがある。
歯医者に行くときの必需品だし、暑くなっても必要だ。東京に行った恋人が心変わりして、故郷に残された女の子が、最後に一枚、それを送ってくれ、と頼むものだし(この意味がわかる人は少数だったりして……)、そうしてシェイクスピアの戯曲『オセロー』ではことのほか重要な意味を持つ。
オセロー:(…)あのハンカチーフはおれの母親があるエジプトの女から貰ったものだ。その女は魔法使いでよく人の心を読みあてたものだが、それが母にこう言った。これが手にあるうちは、人にもかわいがられ、夫の愛をおのれひとりに縛りつけておくことが出来よう。が、一度それを失うか、あるいは人に与えでもしようものなら、夫の目には嫌気の影がさし、その心は次々にあだな想いを漁り求めることになろう、と。
(シェイクスピア『オセロー』福田恆存訳 新潮文庫)

オセローは、その母ゆかりの「ハンカチ」を妻に与える。つまり、彼にとってそのハンカチを大切にする妻は「夫の愛をおのれひとりに縛りつけておける存在、手放してしまうことは、すなわち「その心は次々にあだな想いを漁り求めること」を意味するのである。

ハンカチにそんな意味を勝手にこめられても……と思うのだが、オセローにとってはそうなのである。

イアーゴーにとっては、ハンカチは陰謀の道具である。そのハンカチを、デズデモーナがキャシオーと密通した証拠にしようと目論んでいるのである。

このハンカチを手に入れたのはイアーゴーの妻、エミリア。
エミリア:よかった、ハンカチーフが手に入って。(…)早速、模様を写しとって、それをイアーゴーにやりましょう。一体どうするつもりか、私の知ったことではない。

これを見ると、ものの「意味」というのは、そのものがあらかじめ持っているのではなく、それを見る人間の側にあることがわかる。

「本音」というのも、その言葉にこめられた額面通りの意味ではない、別の意味、ということだ。これが「本音」である、と思うのは、受け手の側なのである。

例の缶コーヒーのコマーシャルにしても、「ささいなところに本音は出る」というのは、あくまでも女の子の仕草を受けとった、坂口の息子のそれなのである。もしかしたら女の子は、坂口の息子の手を反射的に避けたのではなく、目の前に飛んできた虫を避けたのかもしれないのだ。

相手の本音はどこにあるんだろう、と考えたくなったら、まずそのことを思い出してみよう。相手の仕草や態度、ちょっとした言葉に「本音」を読みとっているのは、わたしたち自身だ。

もうちょっとこの話を続けます。

見えない本音

2009-03-18 22:31:22 | weblog
もう少し「ささいなところに本音は出る」ことを考えてみたい。

「ささいなところに本音は出る」というのは、逆に言うと、「ささいでないところには嘘が隠されていることもある」ということになるだろう。ささいでないところ、というのは、つまり、意識的な言葉や表情や態度が該当するはずだ。

たとえば、プレゼントをもらって、“あれれ、持ってるよ、これ”と思っても、相手に気を遣って「わあ、こんなのほしかったんだ、うれしいなあ」と、にこやかに笑って言ってみせるような。こうした意識的な言葉や表情・態度が「伝えたいメッセージ」とすれば、それをうっかり持って帰るのを忘れて、つい「本音」が出てしまうと、「伝わってしまうメッセージ」ということになる。「ささいなところに出る」本音なのである。

こんな場合もある。わからない問題だができるふりがしたい。「そんなの簡単にできるよ」と自信満々のそぶりをしてみせる。ところが「じゃ、やってみて」と言われたらどうしよう、と内心ヒヤヒヤしていて、ふと見ると、特に暑くもないのに額に汗をかいている。

こうやって考えてみれば「伝えたいメッセージ」というのは、ほんとうか、うそか、で判定できる、言ってみれば論理的・実証的な内容なのに、「つい伝わってしまう」のは、心情とか感情とかといったもののようだ。

こう考えていくと、受け手はもちろん相手の「伝えたいメッセージ」も受けとるが、相手がかならずしも伝えたくないメッセージ、意図に反して伝わってしまうメッセージも受けとっていることがわかる。
このことを単純に図式化するとこうなるだろう。

メッセージの発信者の伝えたいこと<メッセージの受け手の受け取ること

とくに、相手の反応が自分にとって重要な場合(就職希望先の面接官や、好きな相手や、単位がかかっている指導教官)、わたしたちは相手の言葉以上のメッセージを、語感を総動員して受けとろうとする。

そんなときは、

発信者の伝えたいことの量<<<<<受け手の受けとるメッセージの量

などということもあるだろう。もちろん受け手が受けとったものが正確かどうかは、はっきりしない、ただ鼻の頭がかゆかったために、顔をしかめただけかもしれないのだが。

ところが人間というのはややこしいもので、以前こんな話を聞いたことがある。
彼女は「ダンナが鈍い」とこぼしていた。今度の連休は、(夫側の)実家で過ごそうと提案されたのだが、彼女は「もちろんいいよ」と答えたのだという。ところが鈍い、わかってくれない、と怒るのである。というのも、彼女からしてみれば、本当は嫌なのだが、夫のことを考えてそう答えているので、そのことを察してほしい、と言っているのだ。

ここでは、

発信者の伝えたいことの量>受け手の受けとるメッセージの量

ということになる。
冗談を真に受ける人なども、この場合に当てはまるだろう。
だが、こういうときはコミュニケーションは成立していないので、わたしたちのコミュニケーションにおいては、

メッセージの発信者の伝えたいこと<メッセージの受け手の受け取ること

が「あるべき姿」と言えるだろう。

ここで考えてみたいのが、頻繁にやりとりされるメールやチャットは、この図式が成り立っているのだろうか、ということなのだ。

「あの映画、みたよ」
ということが、現実の会話の場で語られたとする。
聞き手はこれだけで、相手がその映画を観たという情報だけでなく、どんな感想を持ったか、見当がつく。

ところがテキストベースのコミュニケーションであれば、「あの映画、みたよ」は、話者が見たという以上の情報を伝えないのである。

もちろんメールやチャットはその限りではない、それについてどう思ったかの記述が続くわけだから、わたしたちは相手の伝えたいことを受けとることはできる。けれども、わたしたちのコミュニケーションが、受け手の側がつねに送り手の伝えようとすること以上のものを「読みとろう」とするのが常態であるとすれば、これは受け手からみれば、情報の慢性的な飢餓状態に置かれていることを意味する。

メールが頻繁にやりとりされている状況は、一面だけ見れば、活発なコミュニケーションが展開されているといえるだろう。だが、実は、双方、情報不足をなんとか補おうとしているだけだとしたら、どうだろう。何か、不健全な印象を受けてしまわないだろうか。

このことは明日ももう少し考えてみたい。