陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トマス・ハーディ「アリシアの日記」その5.

2010-05-30 22:40:12 | 翻訳
その5.


八月十六日

 今日は興味深い知らせがあった。あの子が言うには、シャルルさんがふたりの結婚式を、来年挙げるぐらいなら今年に挙げたってかまわないんじゃないか、と言い張ったらしい。そうしてどうやら母もそちらの方向へ改心させてしまったようなのだ。

わたし自身は先送りする理由はみつからない――父のような立場にある人が、いままで相手の人となりや挙式の時期などのことがらに関して、意見を表明する機会が一度もなかったことをのぞけば、なのだが。お父さんは、自分の運命を静かに受け入れている。ともかくお母さんとキャロラインは、わたしたちと話し合うために帰国することになった。どうやらキャロラインも意見を変えて、わたしに会うまでは具体的に話を進めないことに決めたようだ。

キャロラインは書いている。お姉さんとお父様が認めてくださるのなら、結婚式の日取りは三ヶ月後の十一月にするつもりです、式はこの村で挙げて、もちろん花嫁の付き添い役にはお姉さんにお願いします……。ほかにもあれやこれやの細かいことを。

うちの古い教会の祭壇で、ロマンティックな式を挙げれば、村の人たちはさぞかし感銘を受けるにちがいない、あの子が思い描いているのは、そんな絵のない絵本だ。主役を演じるのは自分――外国の紳士が、ちょうど神様が天から降りてきたようにあの子を見つけだし、勝ち誇ったようにさらって行く、という筋書きだ。

あの子は、わたしが悲しいのは、たったひとつ、お姉さんと離ればなれになることだけれど、それもお姉さんが来て、何ヶ月も滞在してくださればいいのよ、と書いている。かわいらしいおしゃべりを読んでいると楽しくもなってくるけれど、キャロライン、わたしはそのことを考えただけで悲しくなるのよ。成り行きからすれば当然なのだけれど、わたしはもうあなたのガイドでも、カウンセラーでも、誰よりも親しい友だちでもなくなってしまうの。

ムッシュー・ド・ラ・フェストは、キャロラインのように感じやすい、傷つきやすい子の保護者として、願ってもない人物なのだろう。そのことをわたしはありがたいと思っている。それでも、わたしはまだ、あの子の目を通してのあの方しか知らないことを忘れないようにしなくては。あの子のために、どうしてもあの方にお会いして、大切な宝物を自分のものにしようという人がどんな人か、よくよく見定めておかなければならない。婚約をかわしたのは、確かにいささか焦りすぎた。この点に関しては、父とわたしは意見を一にしている。それでも、幸せな結婚生活のなかには、ほとんど期間もないままあわただしく約束が交わされたこともあるだろうし、母もすっかり満足しているのだから。



八月二十日

 今朝、恐ろしい知らせが入り、わたしたちはひどく心を痛めている。この時間になるまで――いまは夜中の十一時半過ぎだ――、自分の考えをまとめることもできないでいた。こうしてなんとか書こうとしているのも、どうにも落ち着かなくて、何もしないではいられないからだ。いまはただひたすら待つこと以外に、何もできないでいる。

母がヴェルサイユで重篤な病に倒れたのだ。ふたりは今日明日の内に、帰国の途に着くはずだったのだが、いまとなってはそれも延期しなくてはならない。動かせるような状態ではないのだから。母のように体重が過重傾向にある女性が出血するというのは、良くないことにちがいない。しかもキャロラインにせよ、マーレット家の人びとにせよ、決して大げさに伝えてきたわけではないだろう。

手紙を受けとるや、お父さんは即座に母の下へ駆けつけることに決めた。そうしてわたしは一日中、その出発準備に追われた。数日間家を空けるとなると、出立前に手配しておかなければならないことがいろいろある――何よりも、今度の日曜日の礼拝を執り行ってくれる人を捜さなければならなかった。なにしろ日がないことなので、探すのも並大抵の苦労ではなかった。それでも最後には、すっかりお年を召されてしまったダグデイルさんにお願いできることになり、聖書の朗読は、ハイマンさんが手伝ってくださることになった。

 わたしとしては、できることならお父さんと一緒に行きたかった。そうすれば母を待つ不安な思いから逃れることができるだろうから。けれども誰かが残らなければならないし、となると、わたしが一番融通がきいた。ジョージが駅まで父を送っていき、最終列車に乗ることができた。そこから真夜中に出帆する船に乗り、明朝にはアーヴルに着けるだろう。お父さんは海がお嫌い、とりわけ夜の渡航がお嫌いだ。不快な思いをなさらないまま、向こうへお着きだとよいのだけれど。お父さんはふだんはいつも家にいらっしゃるし、ちょっとした厄介ごとにもなかなか立ち直れない方だから、心配だ。なにしろこうした用件なのである。たとえつつがない旅であろうと、悲しいことには変わりない。わたしが母の下へ向かうべきだったのだろうか。


八月二十一日

 昨夜はひどく気分が重く、書きものをしながら、眠り込みそうになってしまった。お父さんはいまごろパリに着いたにちがいない。たったいま、手紙が来たらしい……。

追記

 手紙は、切迫した調子で、お父さんの出立を訴えている。気の毒なお母さんは具合が悪くなっているのではないか、とみんな心配しているのだ。キャロラインはどうしているのだろう。ああ、一目母に会うことができるなら。どうして一緒に行かなかったのだろう。

追記

 椅子から立ちあがり、窓から窓へと歩き回ってから、また戻ってきて手紙を書く。もしお母さんが亡くなったら、かわいそうなキャロラインの結婚はどうなるのか、わたしには想像もできない。お父さんが間に合って、お母さんと話ができますように。そうして、キャロラインとまだお父さんもわたしも会ったことのないムッシュー・ド・ラ・フェストについて、どうしたらいいか方針を聞けますように。緊急事態で何かと働けるわたしが、宙ぶらりんのまま、待つしかない状態でいる。


八月二十三日

 父からの手紙には、悲しい知らせが書かれていた――母の御霊が天に召されたのだ。かわいそうなキャロラインは、うちのめされてしまっている――わたしなどよりあの子の方がずっと、母のお気に入りだったから。慰めになるのは、お父さんは間に合って、母の口から、あの子の式をできるだけ早く挙げてやってくれ、という懸命の願いを聞き届けることができたことだ。ムッシュー・ド・ラ・フェストのことを、母はすっかり気に入っていたようだ。いまとなってはおそらく、お父さんも批判などをせず、あの方を義理の息子として受け入れるのが、尊い義務であるように思う。


(この項つづく)




トマス・ハーディ「アリシアの日記」その4.

2010-05-29 07:43:05 | 翻訳
その4.


第二章 興味深くも重大な知らせ

八月五日

 手紙の束が届く。一通はキャロラインから。もう一通は母から。それぞれ父宛にも。

 あの子からの手紙のどれを読んでも、こうなることはわかっていた、それが現実となったのだ。婚約、というか、それに近いものがキャロラインとムッシュー・ド・ラ・フェストのあいだでかわされた。キャロラインはこの上ないほど幸せでいるし、お母さんもすっかり満足している。もちろんマーレット家もそうだ。マーレット家の人たちもお母さんも、その青年のことは何もかもご存じらしい。わたしにも、もう少し知らせてくれてもよさそうなものだ。わたしだってキャロラインの姉なのだから。父の気持ちもわからないではない。ひどく驚いているだけでなく、わたしにははっきりわかるのだけれど、かならずしも喜んでいるわけではないのだ。本決まりになる前に、ただの一度も相談がなかったのだから。良い人だから、はっきりそれを口に出すようなことはしないけれど。

わたしはなにも、わたしたちがとやかく言って、せっかくの良いご縁を滞らせるつもりはないのだ。もしほんとうに良いご縁なら、の話だけれど。でも、その知らせはあまりに急ではないのだろうか。

お母さんであれば、こうなることはもう少し前からはわかっていたのだし、キャロラインだって、“マーレット家の知り合い”であるとか、最近の手紙にあったように、名前さえ書かないようなことをするかわりに、もっとはっきりと、ムッシュー・ド・ラ・フェストが自分の恋人だと教えてくれればよかった。

父は、別にフランス人だからといって、はっきりと反対しているわけではないが、「義理の息子になるんだったら、イギリス人か、さもなければもう少し分別のある国の人間だったら良かったな」と言っている。それには、わたしはこう答えておいた。人種や国や宗教のちがいなど、きょうび、廃れつつあるし、愛国心などは一種の悪徳ともいわれていますよ、結局のところ、このような場合には、その人、その人の性質だけを、考えていれば良いのではないでしょうか、と。それにしても結婚式を挙げたあと、相手は引き続き、ヴェルサイユに住むつもりなのだろうか、それともイギリスに来ることになるのだろうか。


八月二日

 追加の手紙がキャロラインから届く。わたしの不審な点を先回りして答えている。あの子は「シャルル」と書いているのだが、いまはヴェルサイユに自宅はあるけれど、そこでどうしても仕事を続けなければならないというのでもないらしい。思想や芸術や文化の中心からあまりに離れるのでなければ、あの子が望むところに住むつもりだという。

母も妹も、式は来年まで挙げるつもりはないらしい。シャルルさんは風景画や運河の絵を毎年展覧会に出品しているのだそうだ。おそらく彼は知名度も高く、ふたりが安楽に暮らしていけるほど、十分な収入もあるのだろう。もしそうではないのなら、きっと父があらかじめ考えていたのより、遺産をいくぶん増やしてやればいいのだし、そのぶん、わたしの遺産を削れば良いだけの話だ。まあ、わたしの方が先にそういう必要がでてくるはずだったのだが。

「愛嬌のある仕草、魅力的な容貌、人格者であること」というのが、わたしの質問――いったいどういうひとなの――に対するあの子の答えである。ずいぶん曖昧な説明で、わたしとしては、ひとつでもはっきりとしたもの、肌が白いか日に焼けているか、とか、声の感じとか、癖、考え方でもいい、そんなことが知りたかったのに。

けれど、あの子ときたら、まあそれも仕方がないのだろうけれど、個々の具体的な特質を見きわめるような目を持っていないのだ。あの子は、相手のありのままを見ることなどできはしない。まばゆいばかりのきらめきに照らされた相手の姿しか目に入らない。いままでも、これから先も、外国人であろうが、イギリス人であろうが、植民地生まれの人であろうが、もうどんな人にもそんな光は当たらないだろうけれど。

それにしても、わたしよりふたつ下、性格的には五つ下といってもいいほど子供っぽいキャロラインが、わたしより先に婚約するなんで。とはいえ、そんなことはわたしたちが知っている以上に、世間ではありがちなことなのだろう。


(この項つづく)


(※昨夜はルーターの不調でアップできませんでした。うまく接続しなおせたと思うので、たぶん今日の夜はつぎの日の日記をお届けできるかと思います。)



トマス・ハーディ「アリシアの日記」その3.

2010-05-27 23:19:59 | 翻訳
その3.

七月二十一日

 キャロラインより手紙。
疑問。「わたしたちとマーレット家の友人」とあの子が今回、秘密めかして書いていたのは、これまでの手紙にあった「ムッシュー・ド・ラ・フェスト」と同一人物なのだろうか。おそらくそうにちがいない。職業を見ると。もしそうなら、いったいどうして急に言葉の調子が変わってきたのだろう? 

……わたしときたら、ここまで書いたところで十五分以上、ぼんやり考え込んでしまっていた。わたしの愛する妹が、その若い男と恋に落ちたのだとしたら――もはや彼の年齢には疑問の余地はあるまい――あの子にとってはずいぶん困った、危ないことではないか……。お母さんが事の成り行きに目を光らせていてくれると良いのだけれど。ところが、お母さんときたら、 話の流れには一向に目が行かないひとだから。ほんとうのところ、お母さんときたら、実際のところ、キャロラインに対しては、わたしほどにも母親らしく振る舞えないのだから。もしわたしがあちらにいるなら、油断なく当の男を観察し、もくろみを暴いてやるのだが。

わたしはキャロラインより気性が強く生まれついている。これまでどれだけあの子を支えてやってきただろう。些細な厄介ごとであれ、大きな悲しみに見まわれたときであれ。あの子はこれまで知らなかった不思議な感情にすっかり興奮してしまったのではないだろうか。

だが、わたしの方が、何の証拠もないのに、あの子が恋にのめり込んでいる、と決めつけてしまっているのかもしれない。その人だって、ごく気軽な友人に過ぎず、もう二度と名前も口にされない男かもしれない。


七月二十四日

 思ったとおり、彼は独身だった。「もし、ムッシュー・ド・ラ・フェストが結婚されるのであれば」等々。あの子はそんなことを書いているのだ。明らかにふたりは親密さの度合いを増している。おまけに「わたしの整髪料は、あの方のくちひげの先を整えるのに具合がいい、っておっしゃったのよ」などと、無邪気にも書いている。こんなことを書けば、ふたりの親密さもお見通しになるというのに、それにもまったく気がつかないらしい。

それにしても、母も母だ――いったい何をしているのだろう? このことを知っているのだろうか。もしそうなら、どうしてお父さん宛の手紙でそれを知らせてあげないのだろう。

……いまちょうど、キャロラインのポニーの様子を見てきたところだ。ポニーがきちんと面倒を見てもらっているかどうか、毎日かならず見てきてほしい、と繰りかえし約束させられたのに、従ったのだ。出立前にはあんなに気にかけていたポニーなのに、いまはかわいそうな馬のことなど、ただの一度も手紙でふれることもない。ペットの姿は、何かに置き換えられてしまったようだ。


八月三日

 ポニーで生じたキャロラインの健忘症は、当然のことながら、そこで収まるはずもなく、姉であるわたしのところにまで及んでしまった。もう十日間も手紙が来て折らず、お母さんからの手紙がなければ、あの子が生きているのか死んでいるのかもわからない。


(この項つづく)


トマス・ハーディ「アリシアの日記」その2.

2010-05-26 23:16:53 | 翻訳
その2.

七月十五日

 本日、キャロラインより手紙。なんだかおかしなことに、わたしが予想していたようなことは何一つ書いてなかった――どうでもいいようなことばかり。どうもパリの華やかさに目がくらんだようだ――行き当たりばったりで、それもちらっと眺めるだけだから、実際よりもいっそう華やかに見えるのにちがいない。住んでみれば、あの子にだってパリの裏側も見えてくるのだろうが。

マーレット家がここまで顔が広いとは、わたしも知らなかった。お母さんが言うように、もしあの人たちがヴェルサイユに移ったのが経済的な理由だとしたら、その面ではちっとも移住の甲斐はなかったにちがいない。なにしろあの人たちはたまたま近所に住んでいるというだけの知り合いを、始終もてなしているのだから。おまけにもてなしているのはイギリス人だけではないし。キャロラインが、お母様がとっても興味をお持ちだった、と書いてきた、ド・ラ・フェスト氏というのはいったいどういう人なのだろうか。


七月十八日

 キャロラインから再度手紙。この書簡にて、ミスター・シャルル・ド・ラ・フェストという人物は、マーレット家のあまたいる友人のひとりにすぎないことがわかった。生粋のフランス人ではあるが、そうしていま、一時的にヴェルサイユにい住んでもいるのだが、もう何年もイギリスで暮らしている、とのことだった。景色や海の絵を描く才能に恵まれていて、パリのサロンに出品している、という話だったので、おそらくロンドンでもそうしていると思われる。彼のスタイルや題材は、パリにあってはいささか奇異なもの、どちらかというと、大陸風というよりイギリス風であると見なされているらしい。

わたしはまだこの人の年も知らなければ、独身か既婚かということもわからない。あの子の書いている調子や言葉の調子を見ていると、ときどき中年の、家族持ちのようにも思えるが、別の時には、そっくりそれとは反対のようにも思える。さすらい人的な傾向から判断すると、独身と考えてもよさそうだけれど。あちこちを旅し、見聞を広めていることもあって、あの子が言うには、自分より英文学について詳しい、とのこと。

(この項つづく)





トマス・ハーディ「アリシアの日記」その1.

2010-05-25 23:23:04 | 翻訳
「クレメンティーナ」の手直しをしたり、ほかの文章を書いたりしてなかなか時間がとれません。どうしたらいいかなあ、と考えて「日記」を載せることにしました。日記と言ってもわたしの日記じゃありません。アリシアという人の日記です。19世紀のイギリスの小説で、作者はトマス・ハーディ。いったいこの日記には何が描かれていくのでしょうか。

原文はhttp://darlynthomas.com/alicia.htm
で読むことができます。

* * *

Alicia's Diary (アリシアの日記)

by Thomas Hardy




1.妹が恋しい

七月七日

 わたしときたら、耐えがたいほどの寂しさを抱きながら、家の中を歩き回っている。というのもかわいい妹のキャロラインが母と一緒に旅行に出かけたせいで、これから数週間というもの、あの子に会うことができないのだから。母と妹は、もう何度も招待されていたお宅に、ついに出かけていったのだ。マーレット家とうちのつきあいは長いのだけれど、あの人たちはいま、そちらに住む方が安く上がるから、という理由でヴェルサイユに住んでいる。そうして母はキャロラインにフランスやパリを少しは見せておくのもいいだろうと考えたのだ。

だけど、ほんとはわたしはあの子を行かせたくはなかった。あの子の子供っぽく天真爛漫なところや優しさが失われてしまってはこまるから。そういうところこそ、あの子があの子らしいところなのだし、喧噪から離れたここでの生活がつちかった性質なのだから。出立前にあの子が自分のポニーを気遣うようすは、ひどく胸を打つものだった。おかげでわたしは毎日馬小屋に出向き、ポニーにどこも問題はないかどうか確かめる、という約束をさせられてしまったのだけれど。

 キャロラインが外国へ行き、わたしがここにいるなんて! ふだんはその反対なのに。それが運が良いのか悪いのか定かではないけれど、出かけるのはわたしの方だといつも決まっていたのに。

母もきっと、キャロラインが若さにまかせて熱中するのには、音を上げることだろう。どこへもかしこへも連れて行ってくれ、とせがむにちがいない。もちろんパリへは日参することになるだろうし、そのほかにも歴史に目がない人がかならず出向くような名所旧跡や、宮殿や牢獄。歴代王の墓に共同墓地や美術館、それに王族が猟をしたという森へも。

お気の毒なお母様。そういう場所へはもう何度も行っているのだから、たぶんキャロラインほどそぞろ歩きに胸躍らせることもないだろう。わたしも一緒に行けたら良かった。わたしならキャロラインを喜ばせるために足を棒にしたってかまわないのだから。

ともかくこんな愚痴を言っても始まらない。もちろんわたしが行けるはずもないのだから。お父さんを家にひとり残していくなんて。教区の人たちが家にたずねてくるかもしれないし、お父さんにお茶を入れてあげる人だって必要なのだから。


(この項つづく)


自分に正直に

2010-05-24 23:33:29 | weblog
ドラマなどで女主人公が突然「わたしは自分に正直に生きたいの」と宣言する。つぎに彼女がやることは、妻子持ちの男性に、好きだと言うことだったりするのだが、ここでは周囲や社会的関係に斟酌しないことが、「正直に」生きる、ということらしい。

それとは別の、不良高校生を主人公とするドラマや映画では、不良高校生たちは、落ちこぼれで勉強はできないけれど、彼らは「本音」で生きている、ということになっている。つまり、勉強をしたり親の言うことを聞いたり、というのは、自らの「本音」を押し殺すことで、彼らは自分の気持ちに「正直」に生きたいがゆえに、周囲との葛藤を引き起こす。

こうしたドラマでは、「正直に生きる」「本音で生きる」というのは、周囲から押しつけられた「こうするべき」という役割を拒否して、「本来の自分」として生きることを指す。たいていは彼らのアンチとして、周囲から押しつけられた役割を小器用にこなす人物も出てくる。主人公の不器用さに対して、アンチがうまく世渡りをしていくのにともなって、わたしたちは主人公にいよいよ感情移入する。しかも若く甘い顔をした役者がそれを演じ、ドラマを通して視聴者は彼ら彼女らに共感し、賛同するような作りになっている。

こんなドラマが量産されているのは、作り手が、視聴者の側がそのようなドラマを求めている、と考えているからだろう。

視聴者の多くは、周りから押しつけられる役割を、たとえいやだと思っていても、受け入れざるを得ないし、自分の気持ちを押し殺したり、期待に応えるために、やりたくもないことをやらざるをえない……、と。だからこそ、彼らの気持ちを代弁するような主人公をドラマに据える、そんな思惑が働いているのだろう。
日常では悪い奴を成敗できないから、時代劇ではヒーローが悪を叩き斬るように、正直に生きられないわたしたちのために、正直に生きる主人公が最後にハッピーになる、これこそが視聴者の求めているドラマだ、とばかりに。

だが、ほんとうにそんな主人公たちの生き方は、うらやましくなるようなものなのだろうか。

自分の気持ちに正直、という女主人公は、実は「年上の社会的ステイタスの高い男性にあこがれる女性」という役割を演じているだけではあるまいか。
不良高校生は、いわゆるステレオタイプの「不良高校生」を演じているだけではあるまいか。

こう考えると、彼らは、社会が求める「役割」を演じない代わりに、それとは別の役割を演じているだけ、とも言える。ドラマの主人公たちは、自分が言い張るほど、正直でも何でもないのではないか。だとしたら、それはどこまでうらやましいことなのだろうか。

わたしたちが社会や周囲が求める役割を演じていて、どうもちがう、と感じ、苦しくなってきたら、どうしたらいいのだろう。

ひとつには、自分を曲げてでも周囲が求める役割を続ける、という方法がある。だが、これは苦しいし、そのまま続けていくといよいよそれは耐えがたいところまで行ってしまうかもしれない。

もうひとつは、ドラマや映画に出てくるやり方だ。つまり、別の役割に切り換えるのだ。だが、もしかしたらそれも、実際にやってみたら、自分にはそぐわないものだった、ということになるかもしれない。不倫相手は、実際につきあってみると、王子様とはほど遠い、ただのおじさま、というか、おっさんだったりするかもしれない。「不倫の恋に身を焦がす若い娘」という役割も、どうも苦しい。ではそこからまたつぎの役割を探そうか。そうやってつぎの役割、つぎの役割と、どんどん役割を取り替えた結果、その人は何も身に付かず、親しい人もできないままかもしれない。

それ以外に方法はないのか。
あると思うのだ。

それは、単なる役割じゃないか、と思う方法だ。
周囲が「優等生」という役割を押しつけてくる。期待されるほど、「優等生」の役目をうまく果たせるわけではない。だが、そこで、「優等生」という役割を降りて、「不良」という役割を演じるのではなく、こんなのはしょせん役割ではないか、と割り切るやり方だ。自分はもうダメだ、と頭を抱える必要はない。自分は確かに「優等生という役割を演じる」という面ではさえない役者かもしれないが、自分の存在が否定されたわけではない。

役割を押しつけられたら、役割として果たす。果たす以上は、評価にさらされる。もちろん評価がさえなければ、気分も暗くなるけれど、それはあくまでその役割において、であって、自分がさえない人間だからではない。逆に、たかだか役割なのだから、自分の好きなように変えることもできるだろう。こうやったらもう少しおもしろくなるのではないか、と工夫する余地もあるだろう。

ほんとうの自分、というのは、押しつけられた役割を、少しずつ自分の望む方向にカスタマイズしていく、そのささやかなカスタマイズの内にあるのではないだろうか。



習慣の話

2010-05-22 23:45:48 | weblog
小学生の頃、学校からもらってくる保護者宛のプリントに、「勉強をする習慣をつけさせてください」とよく書いてあって、適当なことを言うものだ、と思っていたような記憶がある。勉強というものは、やらなければいけないからするので、習慣などでやっているわけではないだろうに、と。

一日、二十分でもいいから、かならず机の前にすわること。あるいは、本を読む習慣、という文言もよく見たように思う。だが、机の前にすわることも、ピアノの練習をすることも、本を読むことも、当時から毎日かならずしていることはあったが、自分が「習慣から」それをしている、とは、夢にも思ったことがなかった。

習慣というのは、理由の如何にかかわらず、考えなくても体が自然にそれをやるようなことで、たとえば寝る前に歯を磨くことのように、たまたま何かの拍子に忘れて寝床に入っても、何だか妙に気持ちが悪くて、起きあがって磨きに行く、そういう行動を指すのだと、当時は思っていた。

それに比べれば、何で勉強しなければならないか、よくそんなことを考えていたわたしは(もしかしたら実際に自分が勉強する時間より、そういうことを考えていた時間の方が長かったかもしれない)、その年齢相応の幼い理屈ではあったろうけれど、じぶんなりに勉強することの理由を見つけていた。習慣だからやっているわけではない、と思ったのだ。ピアノにしても、直接的な理由は、きちんと練習せずにレッスンに行って、先生に叱られるのがいやだったからなのだろうが、自分なりに練習する必要を理解していたように思う。読むのが好きでたまらなかった本を、習慣で読む、などということは、本に対する冒涜だ、ぐらいに思っていたにちがいない。

だが、成長するにしたがって、さまざまな人に会うようになる。似たような生活を送っている人間に囲まれていた学生時代を終えると、自分の「当たり前」が、人にとっては「当たり前」でもなんでもないことに気がつく。

たとえば本を開いても、ものの十分も読み続けられない人がいることに気がついた。自分なら、時間さえ許すものなら、何時間でも読み続けることができるが、それは自分にその能力がある、ということではなくて、これまでの習慣の力によるものだろう。

逆に、一時間、二時間、一定のペースで走り続けられる人からみれば、十分も走ると音を上げてしまうようなわたしは、まったく鍛えられていない、ということになる。そんな人の目には、「走る習慣をつけていない人間が、いきなり走ろうとしたって、むりなことだ」というふうに映るのではあるまいか。

長時間、集中力を欠くこともなく将棋盤の前に坐っていられるのも、大勢の観客の前で一糸乱れぬ踊りを踊ることができるのも、そうしたい、という意思があるだけではどうにもならないものである。

日々、やるかやらないかを左右するのは意思であっても、それが十年二十年と続いていくと、その人の習慣になっていく。そうして、そんな習慣こそがその人を形作るものなのだろう。習慣というのは、何も「考えずにやること」、決められたことに従うことばかりが習慣ではないのだ。

そうしてさらに考える。
小学生時代のわたしは、自分が勉強するのは自分でやらなければならないと考えたからだ、と思っていたが、そもそも初めに勉強したのはどうしてだろう。親によってやらされたからだ。ピアノにしてもおなじこと。最初は外部の力によって強制されていたのだ。昨日も、今日も、明日もそれが続いて、続いていくうちに自分の中に続けていく「意思」が生まれる。

確かに、最初に誰かが軌道に乗せてやらなければならないのである。

いまわたしがここにいるのは、その誰かがいてくれたおかげだし、もしその誰かの代わりに別の誰かがいたなら、いまごろはマラソンの選手になっていたかもしれない、ということは間違ってもないだろうが。

更新情報書きました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html


サイト更新しました

2010-05-21 23:29:48 | weblog
更新しました、というほどの記事ではないのですが、「この話したっけ」の入り口をちょっと変えました。

こういうことは、時間がかかるわりには、見てもらっても、「だから?」ぐらいのものだと思うんです。それでも、何か、楽しい(笑)。日曜日に、ボトルシップを作るお父さんみたいな感覚でしょうか。
明日はwhat's newもアップします。ぼちぼちやっている「クレメンティーナ」も、いま書きためている記事も、どんどんアップします。
ブログの更新もちゃんとやっていきます。

こうやって書いて、自分を追い込んでるんですが(笑)。
いや、かけ声だけでも元気に! というところです。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

しゃっくりの話

2010-05-20 23:36:46 | weblog
お芝居で、酔っぱらいの役をやる人が、千鳥足になって「ウィ~、ヒック」とやってみせるが、実際に酔っぱらうと「ウィ~、ヒック」などと言うのものなのだろうか。

さらに疑問なのが、その「ヒック」というのは、しゃっくりしているところを示しているのだろうか。「ヒック」というのはしゃっくりの擬音として定着しているように思うのだが、酔っぱらうとしゃっくりが出やすくなるのだろうか。

英語で「しゃっくり」は "hiccup" 、発音すると「ヒカップ」、英米人はしゃっくりの音を「ヒカップ、ヒカップ」と聞いているのかと思うと、なんとなく楽しくなってくる。

小学校のころ、授業中に先生に指名されて立ちあがったところ、その子が突然「ヒック、ヒック」としゃっくりを始めたことがあった。時ならぬ愉快な音に、教室は爆笑に包まれたが、その子の方は、真っ赤な顔になっても止まらずに、泣きそうな顔をしていたことを覚えている。

しゃっくりは、端で聞いていると滑稽でもあるのだが、当人にしてみれば苦しいものだ。深呼吸する、水を啜る、おどかすとさまざまに止める方法はあるが、いつも効果があるとは限らない。経験的に一番効くのはくしゃみだろうか。ティッシュペーパーでこよりを作って、鼻の穴を刺激する。あまり人前でやることではないが、こうやってくしゃみをすると、止まらなかったことがない。ただ、人にこれを勧めたところ、その人はどうやってもくしゃみが出なくて、鼻が痛くなった、と言っていたから、これも効果があるかどうかは人次第なのだろうか。

このくしゃみでしゃっくりを止める、という話がプラトンの『饗宴』に出てきたときは驚いた。アリストパネスが話をしようとするのだが、しゃっくりがとまらない。議論の進行役を務めていた医者のエリュクシマコスが、息をしばらく止めているか、それがだめならうがいをする、それでも止まらなかったら何かで鼻をくすぐってくしゃみをする。アリストパネスはそうやってくしゃみをして、しゃっくりを止めたのだ。今から二千五百年ほど前のギリシャ人も、おなじことをやっていたのだ。

ご飯をごくんと丸飲みすればよい、というのも聞いたことがあるし、コップの反対側から飲む、というのも聞いたことがある。どれも小さい頃に聞いた覚えがあるのだが、子供の方がしゃっくりというのはしやすいのだろうか。

慌てて食べている人がいて、そんなに急いでいると……と思うと、案の定、ひっく、ひっく、としゃっくりが始まることはよくある。急に緊張したりすると、しゃっくりが出る、という話も聞く。いずれにせよ、出てほしくないときに出てくるものなのだろう。

しゃっくりは苦しいし、端の者も聞いていれば耳障りで何とか止めさせてやりたくなる。だから、ああしろ、こうしろと指図をすることが多い。しゃっくりの最中の人も苦しいから早く止めたい。そこでいよいよ気持ちもたかぶって、逆に、そうなれば止まるものも止まらなくなってくるだろう。

しゃっくりが三日止まらなかったら死ぬ、という話を聞いたことがある。そう思っていたら、太宰治の「春の盗賊」という短篇には「しゃっくりが二十四時間つづくと、人は、死ぬそうである。けれども、二十四時間つづくことは、めったにないそうである。だから、人は、しゃっくりでは、なかなか死なない。私は、朝の八時から、黄昏どきまで、十時間ほど、しゃっくりをつづけた。危いところであった。」とある。三日と一日では多少ちがうが、実際、続いているときは苦しいだけでなく、一時間以上にもなれば、ほんとうに収まるのだろうか、という気にもなってくるだろう。

記憶しているなかで、わたしが一番長く続いたのは、二時間ほどだっただろうか。二十分ほど続いて、なんとか収まるのだが、またしばらくしてぶり返す。水を飲んだり、深呼吸したり、くしゃみをしたりで、なんとか収まっても、また始まる。しまいには、しゃっくりが止まっても、いつぶり返すだろう、と気が気ではなかった。おそらくそんなにぶり返したのは、しゃっくりを気にするあまり、息が浅くなっていたのが原因だったのではあるまいか。

意識がしゃっくりにばかり向いているから、ちょうど自転車に乗っているときに、前方の石を気にしながら走っていると、いつのまにかそちらの方へ向かっていってしまうように、しゃっくりが出やすくなっているのではなかったか。

以前、しゃっくりというのはお母さんのお腹の中にいる胎児が呼吸の練習をするためにやるのだ、という話を聞いたことがある。羊水に包まれて、栄養も酸素もへその緒で体に送り込まれている胎児は、お母さんのお腹の中でときどきしゃっくりをする。お母さんにもその振動は伝わる。ああ、いましゃっくりをしているのだ、と、トントンと叩いてやるうちにそれは収まる。それが、そうやってその子が外へ出る準備をしているのだ、と考えると、不思議なような、楽しいような気がしてくる。


居場所を求めて

2010-05-18 23:00:46 | weblog
もう少し「居場所」の話を続ける。

物理的な文字通りの居場所はある。自分のやるべき仕事もある。にもかかわらず、やはり「居場所がない」と感じることもある。もう少し正確にいうと「居場所がない」というより、「ここは自分のほんとうの居場所ではない」という意識だ。

以前、マンションの自治会の役員をやったときのこと。
中に、妙に協調性のないおじさんがいた。ひどく高圧的な物言いで、会議中、誰かが発言していると、平気で遮って自分の意見を口にするくせに、人がちょっと話に口をはさもうものなら、「オレの話が聞けんのか」と大きな声を出す。どうやら数年前に会社を定年になったようで、「あの人は未だに重役気分が抜けない」と陰で噂する人もいた。

そう言われてみれば、「自分の話はみんなが耳を傾けて当然」「自分の提案を実行すれば、万事まちがいがない」という態度は、人に話を聞かせ慣れている人のそれで、いきなり腰を折ってまでするような話か、と思うこともあったが、その人はそれで通用するほどのポジションにいたのだろう。わたしなどはてんで「女の子」扱いで(そんなに若くはなかったが)、「パソコンは女の子にやってもらったらいい」などと顎で使われて、もっと人当たりの柔らかい、人間の練れた人に「すまんなあ」と頭を下げられたりもしたのだった。

その人の態度はまさに「ここは自分のほんとうの居場所ではない」「自分はこんなところにいるような人間ではない」といったもので、「ほんとうの居場所」の話もよく聞かされた。自分はそこで、どれだけバリバリと仕事をこなしていたか。年間、どれだけの金を動かしていたか。自分の一声で、どれほどのことが決まっていったか、などと。

それでも、その人はマンションの自治会、という居場所を、決して不快には思っていなかっただろうし、自分の居場所がない、とも思っていなかっただろう。ただ、そこにいるわたしたちに、「自分が何者であるか」を説明しようとしていた。すなわち、いまある自分の姿、仕事を定年退職して、ポロシャツを着てコットンのズボンをはいている自分の姿ではなく、スーツをばりっと着込んで、「××社」という大手企業の看板を背負った自分を見て欲しかった。自分を「××社重役」として見て欲しかったのだ。

だが、自分が仕事がどれだけできたか、自分にどれほどの能力があるか、と説明すればするほど、その人の姿は滑稽に見えた。自分は頭が良かった、大学はどこそこを何番で卒業した、と力説すればするほど、気の毒な話だが、馬鹿に見えた。

これは、わたしたちが日常的に経験することだけれど、自分が頭がいい、という人は、例外なくたいしたことはない。自分が美人だ、と公言してはばからない女の子は、多少かわいいにせよ、自分で思っているほどではないし、自分には特別な才能があると言う人のそれは、概してたいしたものではない。

それはなぜか。それは、その人が生まれつきの素質や頭の良さだけで処理できることしかやってこなかった、そういう狭い場所にしか身を置いてこなかった、ということを、証明しているに過ぎないからだ。

何かをやっていれば、かならず壁にぶちあたる。自分のできなさ、頭の悪さをかみしめなければならないことになる。広い世界に身を置けば、自分よりはるかにきれいな人、スタイルも良く、頭脳も優秀で、高度な技術で楽器が弾けたり、語学に長けていたりする人を、いくらでも目の当たりにすることになる。自分のぶちあたった壁を軽々と乗り越えていく人を、痛みと共に眺めるしかない経験をしなくてはならなくなる。

そうやって、歯がみをしながら、なんとか壁を乗り越えても、またつぎの壁が待っている。自分の前には、つねに「自分のできないこと」が待っている。

同時に、たとえ何かができるようになったとしても、ほとんどの場合、自分の努力などほんのちっぽけなもので、自分を助けてくれる人がいたり、引き上げてくれる人がいたり、自分とは関係のない、「たまたま」によって、それが可能になったことを知るようになる。それができない人とできる自分の差など、自分のあずかり知らない「たまたま」のせいでしかないことがわかってくる。自分がこれまで後生大事に抱いてきた「セルフイメージ」が、どれほどちっぽけなものであったか、骨身にしみてわかってくるのだ。

そうやって、壁をいくつも越えて、やがて気がつくのは、いまの「自分」を作り上げたのは、生まれつきの「頭の良さ」でも「素質」でもなく、自分がやってきたことであり、出会った人びとである。だからこそ、自分が何者であるかを誰かに知ってほしければ、共に過ごし、一緒に何かをするしかないことがわかってくるのだ。そうして、いま自分がいる場所が「自分の居場所」だということも。

人は、自分のことをさまざまに評価する。それは、自分の望む像であることの方が少ないだろう。その像の食い違いに気がついて、自分の「セルフイメージ」を相手に押しつけようとしても、それは無駄な話だ。あなたの目の前にいる自分は、ほんとうの自分ではない、と言っているのにほかならないのだから。説明のために、かつての居場所や数字などを「客観的な証拠」として持ち出したところで、それがいったいどれほどの役に立つことだろう。その元重役と同じで、力を込めて言えば言うほど、人はその人から距離を置いていくだろう。

それでも、わたしたちは、ほかの人にいてもらわなければならない。「自分の居場所」であるためには、そこに自分以外の人がいてくれなければならないからだ。誰もいないところでは、「自分」は存在できないからだ。

だとしたら、人が自分に対して評価する通りに、ふるまうしかなくなるのだろうか。ほかの人の見る自分の像が、自分が「こうありたい」「こうやりたい」「こう生きていきたい」と思うものとまったく異なっていたとしたら、わたしたちにとってそれは受け入れがたいし、そういう人たちに取り巻かれていると、そこは「自分の居場所」とは呼べなくなる。

だから、そのときは闘うのだ。自分の居場所を作るために。
自分がどういう人間か、焦って言葉で説明する代わりに、共に経験を重ねるのだ。

――あなたにそこにいてほしい。
だって、ここはわたしの居場所だから、と。