陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

読むこと、聞くこと、思い返すこと その2.

2008-09-28 22:30:53 | weblog
たまに何を言っているかわからない人がいる。
「何がどうした」という情報に自分の思惑やまわりの人の意見、そのほかさまざまなことが渾然一体となって、「あんたの話はわけがわからん」と何度となく指摘されるような人だ。そういう人が「ごめんね~、わたしの話はわかりにくくて」と言うことも聞いたことがある。その人自身、たび重なる指摘を受けて、気にはしているのだろうが、一向に改まる気配はない。

それでも、そういう人がいつもかならずコミュニケーションに失敗しているかというと、かならずしもそうではない。きちんと情報を伝えなければならないような場面で、周囲をイライラさせるような人であっても、日常のおしゃべりでは会話のやりとりに一向に支障を来している様子はない。

たとえそういう話がとっちらかったような人でも、「これはこういうふうにやるのよ」などと、動作で見せて説明したりするような場合では、うまく通じたりもする。

日頃顔を合わせている家族であれば、その話から聞くべき情報を引き出すこつも飲み込んでいるだろうし、年代や性別、生活環境が近ければ、遠い人より通じやすいだろう。その人のことを普段から「何を言っているかわからん」と突き放して見ている人にはわかりにくい話でも、恋人にとってみれば実によくわかる話なのかもしれない。

つまり、その人の話がわかりにくい、というのは、その人の話し方や内容によるというよりは、聞き手によると言うことができる。

聞き手は、相手の話を周囲の状況や個人的な経験などと結びつけて「何がどうした」という物語に構成しなおして理解する。そうして「何がどうした」という再構成がうまくいけば「話がわかった」と思うし、うまく再構成できなければ「どういうこと?」となるのである。

ところで、以前にも書いたことがあるのだが(「読むことと見ること」)、星新一のショートショートを小学生が演じる劇で見たことがある。

穴がある。誰かが隠れているのだろうか、と「おーい、でてこーい」と呼んでも、返事はない。石を投げてみても、底に届いた音がしない。ものはいくらでも吸い込まれていくようだ。一種のブラックホールのようなものなのだろうか。そう思った人びとは、いろんなものをその穴に捨て始める。死体だの、廃棄物だの、ありとあらゆるものを捨てる。やがてある日、上の方から「おーい、でてこーい」という呼び声がして、石が降ってくる……。

ショートショートはここで終わっていて、結末の鮮やかさがいかにも星新一らしい話なのだが、なんとその劇ではそのあとに、「このあと、町の人たちが捨てたものが、あとからあとから降ってきたのでした」というナレーションがつけ加えられていたのである。

最初、この蛇足に腹を立てていたわたしも、実際に劇を見たとき、この蛇足の必要性を理解した。最後の場面で石が落ちてきて、幕が下りたところ、あたりは「え? いったいどういうこと??」という疑問でざわざわし始めたのだ。そこへナレーションが入った。するとあちこちから、ああ、そういうこと、という安堵の声が聞こえたのだった。

本を読むことと、朗読を聞くことは同じではない。さらに、それを劇やドラマ・映画などで演じられるのを見ることは、また全然ちがってくる。

原作をほぼ忠実に映画化したといわれる「エイジ・オブ・イノセンス」と原作をくらべてみよう。イーディス・ウォートンの小説『エイジ・オブ・イノセンス』で、エレン・オレンスカが作品に初めて登場する場面。
それはほっそりした若い女性で、メイ・ウエランドよりほんの少し背が低く、褐色の髪をこめかみのあたりでぴったりしたカールにして細いダイヤモンドの紐で押さえている。この髪飾りのおかげで、どことなく「ジョゼフィーン・ルック」という感じをただよわせていたが、その感じは、胸の下でちょっとわざとらしく大きな旧式の留め金をつけた濃い青のベルベットのガウンのスタイルにも表われていた。このめずらしい服を着た女性は、みんなの注目を集めていることにはまったく気づかないように見えたが、一瞬、ボックスの真ん中に立ち止まり、ウエランド夫人は正面右端の隅の自分の席を譲ってくれると言うのを、遠慮しようと少し押し問答をした末、ついに折れてかすかな微笑を浮かべ、もう一方の隅にすわっていたウエランド夫人義姉、ラヴァル・ミンゴット夫人と並んですわった。
(イーディス・ウォートン『エイジ・オブ・イノセンス』大社淑子訳 新潮文庫)

ここに出てくる「ジョゼフィーン・ルック」と出てくるのは、おそらくナポレオン・ボナパルトの妻ジョゼフィーヌのことだろう。そうしておそらくこの絵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Josephine_de_Beauharnais,_Keizerin_der_Fransen.jpg
のような髪型をしているのだ、と言っているように思う。

さて、これに対応するシーンは映画「エイジ・オブ・イノセンス」のなかではこのように描かれる。4分11秒あたりを見てほしい。
http://jp.youtube.com/watch?v=IZlI2fUm05U&feature=related
一瞬なのである。
物語の鍵をにぎるエレンだが、原作では冒頭から非常に魅力的だが、少し普通の女性とはちがう、注目を集める女性、という印象を与える描写になっている。だが映像では、言葉で書かれたようなことを「読みとる」ことはできない。せいぜい、青い服を着ているぐらいではあるまいか。

百聞は一見に如かずという。確かに「ジョゼフィーヌ・スタイル」(日本語にするなら、「ジョゼフィーン・ルック」よりこちらの方が適切だろう)というのは、参考URLを見なければ、いまのわたしたちにはピンとこない髪型である。
言葉をどれだけ費やしても、絵で見るほどはっきりとはわからない。

だが、逆にこのジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの肖像画を見ても、その言葉がなければ、おそらく彼女の髪型に意識が向くことはないだろう。言葉は見るべき点を示すし、映画などであれば、映像はたちまちのうちに流れていってしまう。つなぎとめる言葉がなければ、わたしたちの内で像を結ばないのである。

映画を観てはっきり意味がわからない部分があって、あとで解説を見て「ああ、そういうことだったのか」と思うこともある。
人の話を聞いて「何がどうした」という形で話を自分の頭の中で構成し直して理解するように、わたしたちは映画を観ても同じことをしているのだ。

わたしたちはすでにいくつかの物語のパターンを知っている。恋愛映画なら、ふたりは恋愛し、その恋愛がうまくいくか別れるかする。サスペンスなら、主人公は犯人を追いつめるか、逆に犯人に追いつめられるかして、最後に犯人を捕らえることになる……というふうに。ところが知っているパターンにあてはまらない映画は、「ちっともわからなかった」ということになる。

映画を観るわたしたちは、いま自分が見ている映像をいくつかのパターンに当てはめながら、その物語のパターンを特定しようとしている。パターンが特定できなければ、「わからない」とストレスがたまるし、パターンが特定されて、先のことごとくが予想がついてしまうと、なんとなくつまらなくなってしまう。最後に犯人を捕らえることになるだろう、と思って見ていて、逆に主人公が殺されてしまったりすると、裏切られたような、何か傷つけられたような気持ちになってしまう。『シックス・センス』のような、最後の最後で頭の中に思い描いていた物語の前提をひっくり返されてしまうような映画には、深い衝撃を受けてしまう。

小説を読むときも、人の話を聞くときも、映画やドラマを見ているときも、わたしたちは自分の頭にあるいくつかのパターンをもとに、「これから〈これ〉はどうなっていくか」を予測しつつ、いま自分が聞いたり見たりしたものを判断材料に、予測を修正する。そうして最後までいって振り返り、「何がどうした」という形で理解するのである。

人の話を最初から聞かないで「結局どういうこと?」と結論だけを聞きたがる人は、バラエティ番組に出る字幕をあまり厭うことはないのではあるまいか。
つまり、その途中のプロセスを自分でやる代わりに、最後の「何がどうした」という情報だけがほしいのである。

さて、明日は最後に情報と「物語」がどうちがうのかを考えてみたい。

読むこと、聞くこと、思い返すこと その1.

2008-09-26 22:56:31 | weblog
TVを見ていて、そこに出ている人の言葉が字幕として出るのは、もうめずらしいことでも何でもなくなった。出演者の言葉がほとんどそのまま字幕として出るのは、おそらくは耳を傾けなければならない時間より、与えられた文字情報を把握する時間の方が短くてすむからだろう。おそらくわたしたちは耳を傾ける時間も惜しいのだろう。

レコードからCDに変わって、おそらく音楽を聴くということも劇的に変わったように思う。レコードの時代は、少々退屈な曲があろうがどうだろうが、基本的にアルバムの最初の曲から始めて、最低限片面を聞き終わるあいだの時間は、ずっと耳を傾けているものだった。つまりその時間、聴き手は送り手に拘束されていた。

それが、CDになって、曲をスキップしたり、順番を変えて聴きたいように聴くことが可能になったのだ。送り手が考えた構成とは無関係に、聴き手は好きなように聴く。拘束されるのも、一曲の時間にまで短縮された。それだけではない。アルバムの中に置かれた一曲は全体とのかねあいの中で、聴き方も拘束される。事実、シングルカットされた曲をアルバムのなかで聴いてみて、ああ、こういう曲だったのか、と思うことも少なくない。だが、聴きたくない曲をパスして、好きな曲だけ聴くようになると、その拘束を受けることもない。

人の話を聞くというのは、アルバムの片面を最初から最後まで通して聴くことと似ているかもしれない。こちらの都合で、途中で端折ったりすることはできないし、相手が言葉を切るまで、こちらは耳を傾ける以外のことはできない。もちろん音楽とはちがって、途中で「え? それどういうこと?」とか「だれのこと? わからない」と話し手に聞くことはできるし、そこをもう一回教えて、と頼むこともできる。けれど、基本的に聞き手の時間は話し手に拘束されている点は一緒だ。

高いお金を払って、ライブ、もしくはコンサートに行く人は、おそらくそのあいだ、一瞬たりとも気を抜かず、集中して聴こうとするだろう。
映画にしても、映画館と家でDVDを観ることの何よりも大きなちがいは、映画館では一瞬で映像も、音も流れ去ってしまう、ということだ。一旦停止も巻き戻しも不可能で、見逃してしまえば、話の脈絡を失ってしまうかもしれない(最近の映画はとてもわかりやすいものが多いので、あまりこういう心配はする必要がないのだが)。

だが、耳を傾けて話を聞こうとするのは、語られたことを覚えておこうとすることだ。メモをとるのも、その記憶の助け、思い起こそうとするときの助けにしようとする。
映画館を出た人は、たったいま観た映画を思い返す。自分の頭のなかで、もう一度映画のストーリーを最初から組み立て直し、細部を、あれはどういう意味だったのだろう、と考えながら補強していく。そうすることで、実際に映画を観ていたときは見落としていた細部に思い至ることもある。
同じように、これは大切だと思った話や、自分が大切だと思っている人の話は、その人と別れても何度も思い返す。思い返し、その時間を自分の中で再現する。自分がその時間をもう一度生き直す。

こういうふうに考えていくと、字幕を出す側というのは、この人の話は耳を傾ける必要がないのですよ、と言っていることと変わりない。一瞬で文字情報を把握して、つぎへ進んでください、それで十分ですよ、と。思い返す必要なんてないんです。一瞬で忘れてくれていいんです。

作り手が粗末にしているような番組を、人に見せていいんだろうか、という気もするが、まあそれはそういう人が考えればいいことだ。
むしろ問題は、こういうものに対する需要があることのように思う。
明日はそのことを少し考えてみたい。

(この項つづく)

サイト更新しました

2008-09-25 22:57:33 | weblog
先日までここで連載していたサキの短編集三つを「サキ・コレクション vol.5」としてサイトにアップしました。更新情報も書きました。
昨日ちょっと間に合わなかったので、少し時間をとってゆっくり書くことができました。
またお暇なときにでのぞいてみてください。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

さて、今回は「狼たち」というくくりでサキの短篇を選んでみた。

狼というと、ヨーロッパの昔話や童話では、人や動物を食い殺そうとする飢えた獣として描かれるが、アメリカ・インディアンでは、なんと狼が世界の創造主なのである。
 そのインディアン説話によると、或る日、いたずら者ウィサガトキャクが巨大な穴熊を罠にかけるために小川を堰きとめるダムを造ったという。夕暮れどきになって穴熊が近づくと、いたずら者は待ちかまえていた。ところが麝香鼠がいたずら者をかじったので、彼は穴熊を見失ってしまった。翌日、いたずら者はダムを撤去した。すると他の穴熊たちが復讐せんものと水を溢れ流したので、しまいには全土が水中に没して、どこにも大地はなくなった。二週間のあいだ水嵩は増しつづけた。あの麝香鼠は水の深さを測るために跳びこみ、そのまま溺れてしまった。一羽の渡り鴉が偵察に飛び立ったが、陸地は発見できなかった。とうとうウィサガトキャクは狼に助けを求めた。狼は苔の球をくわえて筏のふちを走り回った。苔の球はやがて大きくなり、その上に陸地が形成された。狼がそれを降ろすと、すべての動物がこぞって踊り回り、強力な呪文を唱和した。こうして大地は次第に大きくなり、筏の上にまで拡がった。それでも大地は大きくなるのをやめず、遂には全世界が出来あがったのである。
(アンソニー・マーカタンテ『空想動物園 神話・伝説・寓話の中の動物たち』中村保男訳 法政大学出版局)

なんとなくこの創世神話は、ノアの箱船に出てくる洪水を思わせないでもないのだが(水嵩が増し続けた間、ほかの動物はどうしていたのだろう?)、ここでは狼は地球を創造した「創造主」なのである。

アメリカ・インディアンは狼に特別な地位を与えていたのだ。それはおそらく彼らが狩猟民であったことと関係があるはずだ。獲物を狩る狼は、同じ狩猟者である彼らの理想であったのかもしれない。

さて、日本語のオオカミは「大神」から来ているのだという。つまり、日本でも狼というのは聖なるものであったのだ。

このように見ていくと、狼のことを残忍な殺戮者とみなすのは、地域的な見方であったことがわかる。そのヨーロッパでさえも、ローマ建国の祖、ロームルスとレムルスは雌狼に育てられたことを考えると、時代的な見方であるともいえるのだ。

わたしたちの漠然と抱いている狼のイメージは、ヨーロッパの比較的新しい時代のイメージである。本になった「三匹の子豚」や「狼と七匹のこやぎ」などの昔話やお伽噺で築き上げられたものなのだ。

一方、日本には狼を祀った神社もあるというし、日本の伝説・昔話で狼はどんな扱いを受けているのだろうか。日本の昔話でも有名なものがあれば、西洋的な狼イメージに対抗できるようにも思うのだが。

また調べてみることにして、もしご存じの方がいらっしゃったら、教えてください。

はまりこんだペダル

2008-09-23 22:41:32 | weblog
先日、図書館のホールに腰かけて、本を読んでいたところ、しばらく前から続いているらしい声高な話し声が、どうにも耳について耐えがたくなってきた。声のする方を振り返ってみると、おじいさんが公衆電話を使っているのだった。

しきりにアパートの隣にはTVがある、と主張している。TVがあるのに受信料を払っていない、毎日朝からTVの音が聞こえる、なのに受信料の徴収員が来たときは、TVを持っていないと言うのだ、と、それだけのことを執拗に繰り返しているのだった。

おそらく隣の家のTVの音が聞こえるぐらいだから、自宅から電話をかければ、自分の声も隣りに聞こえるのではないかと危惧して、わざわざ図書館までやってきたのだろう。同じことをくどくどと繰り返す声を聞きながら、隣の人が受信料を払っていようがいまいが、自分の懐が痛むわけではあるまいに……と、こちらまでいらだたしい気持ちになってしまった。

一度気になってしまった声は、もう無視することもできなくなってしまって、帰ることにした。そこで自転車置き場に行くと、なんとわたしの自転車の前輪のスポークの部分に、隣りの自転車のペダルががっちりとはまりこんでしまっていて、出そうにも出せない。持ち上げたら出せるか、ペダルの方を引っ張った方がいいか、いろいろやってみたが、どうにもらちがあかない。すると、そこへ通りかかった初老の男性が、悪戦苦闘しているわたしに気がついて、どうしたのか、と聞いてくれた。

ここにはまりこんでしまったんです、と説明して、すいませんがちょっとこっちの自転車を押さえててもらえませんか、わたしこっちを引っ張ってみます、と助けを求めた。おじさんは二つ返事で引き受けてくれて、今度はふたりでああでもない、こうやったらどうだろう、と試行錯誤を続けた。それでもはまりこんだペダルはびくともしない。

そこへ、さらにもうひとり同じような年格好のおじさんがやってきた。そのおじさんも、どれどれ、とのぞきこみ、よし、わしはこっちをこう押さえとくから、あんた、ここをこう引っ張れ、あんたはこっち、と今度は三人でいろいろやってみた。

つぎに、さきほど公衆電話でNHKに隣人を密告(?)していたおじいさんまで加わったのである。四人がかりで押さえたり引っ張ったりしてみたが、どうやってもペダルを出すことができない。こらあかん、ここを切らなあかん、と、人の自転車だから簡単にそんなことを言うおじさんまで出てくる始末である。わたしが、入ったものは出るはずです、ときっぱり主張すると、NHKに電話をしていたおじいさんは、「そら、理屈やな」と同意してくれた。そこにもうひとり、おじさんが通りかかり、事情を聞くと、「わし、図書館の人を呼んでくる」と駆けていった。

おじさんのひとりがわたしの自転車を押さえ、もうひとりが二本のスポークを少し広げ、べつのおじさんがもう一台の自転車を支え、さらにわたしがペダルを引き出す、という役割分担を決め、「せーの」で呼吸を合わせ、やっとのことで自転車を分離することができた。ベトちゃんとドクちゃんの分離手術に成功した医師団のごとく、充実感いっぱいで、やった、やった、と喜んだのだった。ちがっていたのは、わたしたちはお医者さんの使う手袋をする代わりに、両手を真っ黒にしていたということだけだったかもしれない。

そこへ図書館の警備員の人と呼びに行ったおじさんがやってきたが、もはやしてもらうことはない。わたしはほんとうにありがとうございました、と、みんなにお礼を言って頭を下げて、無事、自転車に乗って帰ってこれたのだった。

自転車に乗りながら考えた。
NHKのおじいさんも、電話をかけていたときはあんなにとがった声を出していたのに、自転車を引き離すときは、全然語調がちがっていた。うまく引き離せたときは、みんなが自分のことのように喜んでくれた。
自分が誰か、あるいは何かの役に立てているという実感は、人を少し、幸せにするのかもしれなかった。

事実は小説より奇ならず、か?

2008-09-22 23:22:16 | weblog
W.V.クワインの『哲学事典』の「濫用」の項目には、こんな文章がある。
山に登るより降りる方が疲れる、としつこく言われた人は多い。燃えさかっている石炭は焔より熱いと聞かされた人もいる。暑い日にアイスクリームを食べるのは、まずい考えだと聞かされたことがある。内部が冷えるのと戦うために身体が熱くなるからというのである。「暑い日に熱い飲物をとるのは、いいことだ、なぜなら、汗をかき、その汗が蒸発して涼しくなるから」ということを聞いた人も多い。「暑い日には厚着をするのがいい。それだけたくさん汗をかくから」というのさえ、聞いたことがあるかもしれない。なぜ、人々は本当のことを話したがらないのだろう。

 答えはわかっていると思う。事実は作り話ほど不思議ではないからだ。そうして不思議、あるいは、驚異には人をひきつけるところがあるからだ。ついでながら、この推論のおかげで、上記の五つに加えて六つめのでたらめを思い出した。「事実は小説よりも奇なり」といわれているではないか。
(クワイン『哲学事典 ―AからZの定義集』吉田夏彦・野崎昭弘訳 ちくま学芸文庫 2007)

わたしが暑い日にアイスクリームをあまり食べない方がいい、と聞かされた理由は、クワインが聞いた理由ではなかったのだが、ここではアイスクリームの話がしたいのではない。

ここでクワインは、事実は作り話ほど不思議ではない、だから、自分の話は聞く価値がある、と、人に印象づけるために、半ば無意識のうちに話を誇張させてしまう、という脈絡でこの話をしているのだが、一方つぎのような話を聞けば、これはそんなに単純なことではないように思えるのだ。

ゲオルク・ジンメルの短いけれど印象的なエッセイに「いかなる意味でも文学者ではなく」というものがある。それはこんな話だ。

ジンメルがあるとき馬車で小さな村を通りかかった。そこの通りの真ん中に、火事で焼けた廃屋があった。そこには腕のいい鍛冶屋が、美人で評判の女房と住んでいたという。

その鍛冶屋のところに、これまた腕のいい弟子が来た。最初は喜んでいた鍛冶屋だったが、やがて弟子の方が自分より仕事ができることがわかってしまった。

そのうち親方は、自分より優れた弟子が身近にいることに耐えられず、女房に相談した。すると、女房は弟子など殺してしまえ、という。亭主が尻込みすると、それなら目をつぶしてしまえ、とそそのかす。とうとうある夜、鍛冶屋は寝ている弟子の目をつぶすことにした。
『ぐっすり寝てるよ。仕事がきついからね。いま、こっそりあいつの部屋に入っていこうよ。あたしが松明で手元を照らしてあげるからさ』…

『やりな』
と女房がささやくと、亭主のほうは、ヤッとばかりに寝ている弟子の目を突き刺しました。

 そのときでした。弟子は残ったもう一方の目を見開いて、親方の女房をじっと見据えたのでした。その瞳には深い心の痛みと熱い想いとがあって、それを見た女房は、あっと叫んで松明を投げ捨ててしまったのです。松明は寝台の藁に落ちて、あっという間もなく火がつきました。
(ジンメル「いかなる意味でも文学者ではなく」『ジンメル・コレクション』北川東子編訳・鈴木直訳 ちくま学芸文庫 1999)

こうしてその家は燃え尽きてしまい、三人は焼死したという。この話の語り手である御者自身が「この話は作り話かもしれませんがね。それを見ていて証人になれる人間は、いなかったわけですからね」と言っているのだが、これは確かにその通りで、三人の登場人物のうち、三人ともが死んでしまえば、端の者にわかるのは、「腕の良い鍛冶屋とその弟子と美人の女房が焼死した」ことでしかない。単なる事故かもしれず、そこに嫉妬や憎悪や秘められた思いや絶望があったかどうかは、誰にもわからない。

というか、御者が語って聞かせてくれた話も、クワインの言うとおり、みんなが自分の話を聞く話がある、と思わせるために、少しずつ「誇張」させてしまった結果、事実とはかけ離れた「おもしろい話」を作り出してしまったのかもしれないのだ。「賢い聞き手は、眉に唾をつけることになる」と言っているクワインであれば、この話を聞いても、まちがっても「事実は小説より奇なり」などと言うことはないだろう。

だが、この話を聞いたジンメルはそうは思わなかった。
 御者のこの話は、私には宿命となった。当時、私は、自分は文学者だと思っていた。御者の話は、それ自体が文学作品の可能性を秘めた素材であった。…

女のイメージは、何度も私の心を占めた。自分が敵だと思った男を片づけようとしたそのときに、男の愛が自分に向かってやって来て、それまで憎しみの仮面をかぶっていた愛の感情があらわとなった、あの瞬間の女のイメージがである。

 同じひとつの揺らめく炎が、一方で魂にぐいと食いこみ、同時に、他方で身体を焼きつくす。私は、女の心のなかで天国と地獄が出会った残酷な瞬間を、何度もありありと感じることができた。その瞬間は私をしっかりと捉えてしまい、私は瞬間を超え出て、その縺れを、ひとつの平らな形象に置き換えることができなかった。…
そのとき、私は悟った。現実は私にとってあまりに強すぎる。私は文学者ではない、いかなる意味でも文学者ではない、と。

ジンメルの話を読むと、クワインの定義でいうところの「誇張」が、「あまりに強すぎる」現実としてとらえられていることがわかる。

ここに至って何をもって現実というのか、あるいは、人間は何を人間の真実として定義しているのか、そういうことは、そう思うところにある、つまり向き合うその人の態度を離れてはないということになる。
「事実は小説より奇なり」ということが果たして言えるのか、言えないのか。
結局それは、その「事実」と呼ばれるなにものかをその人がどうとらえ、どのように向き合うのか、ということになるのかもしれない。

サキ「物置部屋」(後編)

2008-09-21 22:24:12 | 翻訳
(後篇)

 だが、そこにはほかにもおもしろい、興味を引くようなものがいろいろあって、ニコラスはすぐに夢中になった。ヘビの形をしたとぐろをまいた燭台、アヒルをかたどった中国製の茶瓶、これはくちばしの隙間からお茶がでるようになっているのだろう。これにくらべたら子供部屋のティーポットなんて、話にもならないくらい、つまらない、不格好なものなのじゃないか。

彫刻を施された白檀の箱のなかには、いい匂いの脱脂綿がぎっしり詰まっていて、綿と綿の間には真鍮製の小さな人形が入っていた。背中に瘤のあるウシや、クジャクや小鬼を眺めたりさわったりしてニコラスは心ゆくまで楽しんだ。見たところは何の変哲もない、地味な黒い表紙の大きな四角い本があった。ところが手にとって中をのぞいてみると、色とりどりに描かれた鳥がいまにもあふれだしそうだ。その鳥ときたら! 庭や散歩にでかける小道で、ニコラスも鳥を見かけたことはあった。だが大きな鳥といってもせいぜいが、どこにでもいるようなカササギやモリバトくらいのものだ。ところがここに描かれているのは、アオサギやノガン、トビ、オオハシやズグロミゾゴイ、ツカツクリ、トキ、キンケイといった、想像さえできないような鳥が勢ぞろいしている。

ニコラスがオシドリの色にうっとりとしながら、この鳥はいったいどんな一生を送るのだろうと考えていたときだった。スグリの果樹園の方から、ニコラスの名前を大声でわめく伯母さんの声が聞こえてきた。姿が見えないので怪しみだした伯母さんが、ライラックの茂みを目隠しにして、その向こうの塀を乗り越えたにちがいない、と当たりをつけたのだろう。そこでせっせとアーティチョークやラズベリーの茂みを探すという無駄骨を折っているのだ。

「ニコラス、ニコラス!」伯母さんは叫んだ。「すぐに出ておいで。隠れようったってムダだよ。最初からちゃんと見えてるんだからね」

 おそらく過去二十年間で、この物置部屋の中で誰かがにっこりしたのはこのときが最初だったにちがいない。

 そのうちニコラス、ニコラスと怒って繰り返す声が、きゃあっという悲鳴に変わった。誰か、すぐに助けに来て、と言っている。ニコラスは本を閉じると、注意深く元あった隅に戻し、近くにある古新聞の束に積もっていた埃をふりかけた。それから抜き足差し足で部屋を出ると、ドアに鍵をかけ、その鍵は自分が見つけた元の場所に正しく戻しておいた。伯母さんはまだ表の庭から、ニコラス、ニコラスと呼んでいる。

「ぼくを呼んでるのは誰?」ニコラスは尋ねた。

「わたしですよ」塀の向こうから声がする。「わたしの声が聞こえなかったのかい? スグリの果樹園であんたをさがしてたら、足が滑って雨水タンクに落っこったんだよ。幸い、水はなかったんだけどね、縁がつるつるしてて出られやしないんだ。桜の木の下に小さい梯子があるから、行って取ってきておくれ」

「スグリの果樹園には入っちゃいけないって言われてるんだ」すかさずニコラスはそう言った。

「確かにそう言ったけどね、いまは入ってもいいんだよ」雨水タンクのなかから、じれったそうな声が返ってきた。

「なんだか伯母さんの声とちがうぞ」ニコラスは言い返した。「おまえはきっと悪魔だな。ぼくをそそのかして、言いつけを破らせようとしてるんだ。伯母さんはいつも言ってる。ぼくは悪魔にそそのかされて、いつでもその誘惑に屈してるんだって。今日こそは絶対に誘惑されたりしないぞ」

「ばかなことを言うのはおよし」タンクの中の囚人は言った。「さっさと梯子を持って来るのよ」

「晩ご飯のときにいちごジャムを出してくれる?」ニコラスはとぼけて聞いてみた。

「出してあげますとも」伯母さんは言ったが、密かに、こんな子に絶対に出してやるもんか、と心に誓った。

「ほーら、おまえは悪魔だ、伯母さんなんかじゃない」ニコラスはうれしそうに叫んだ。「昨日、ぼくらが伯母さんにいちごジャムが食べたい、って言ったら、伯母さんはないって言ったんだ。戸棚に四つあるのをぼくは見つけて知ってたけど、そう言うことは、おまえも知ってるんだな。けど、伯母さんは知らない。いちごジャムはない、って言ったぐらいだからね。おい、この悪魔め。自分でしっぽを出したな!」

 伯母さんを悪魔呼ばわりできるなんて、滅多にない最高の気分ではあるが、ニコラスは子供なりに判断力を備えていたから、それもやりすぎてはいけないことをわきまえていた。そこで足音高くその場を去ったのだった。伯母さんを雨水タンクから助け出したのは、パセリを探しに来た台所女中だった。

 その日の晩ご飯の食卓は、恐ろしいまでの静けさに包まれていた。子供たちがジャバグラの入江に着いたときは、ちょうど満潮に当たっていて、遊べるような砂浜などなかった――伯母さんが見せしめのための遠出をあわてて計画したという事情なのだから、仕方がない。ブーツがきつかったボビーは、午後いっぱい不機嫌だったし、ほかの子供たちも、とてもではないけれど、楽しかった、などと言えるような気分ではなかった。伯母さんは氷のような沈黙を守っていた。なにしろ、不当にも、三十五分間に渡って雨水タンクの中に閉じこめられるという不名誉な目に遭わされたのである。

ニコラスはどうかというと、彼もまた沈黙のうちにいた。考えなければならないことに心を奪われていたのである。こういう可能性もあるな。ニコラスは思った。あの狩人は、オオカミたちが射抜かれたシカをむさぼり食っているあいだに逃げたかもしれない。


The End



※後日手を入れてサイトにアップします。

サキ「物置部屋」(中)

2008-09-20 22:22:57 | 翻訳
(中)

 ニコラスにはひどくずさんな理屈のように思えた。罰を受けることとスグリの果樹園に入っていくことは、完璧に両立可能であるように思われる。彼の顔に、いかにもきかん気らしい表情が浮かんだ。伯母さんには、まちがいなくスグリの植え込みに入るつもりでいるらしい、それも「いけないと言われた」という「だけ」の理由で、というニコラスの決意が手に取るようにわかった。

 ところで、スグリの果樹園には入り口が二箇所あって、一方から入ると、ニコラスのような背の低い人間は、アーティチョークやラズベリーの枝、果物の低木の陰にすっぽりと入り込んで、見えなくなってしまうのだ、そこで伯母さんは、午後からいろいろ用事があるにもかかわらず、一時間か二時間、花壇や植え込みに陣取って、たいして必要もない庭仕事に精を出した。それもひとえに、禁断の園に通じる二箇所の入り口に目を光らせていることができるためである。伯母さんはあまり知恵のある方ではなかったが、集中力にかけてはすばらしいものを持っているのだ。

 ニコラスは一、二度、表の庭へ出ていくと、いかにも人目をはばかっているというように、あっちとこっち、両方の入り口をそわそわとのぞきに行ったが、伯母さんの油断のない目は一瞬たりとも欺くことはできない。ほんとうのところはスグリの果樹園に入るつもりなど毛頭なかったのだが、伯母さんにはそう思わせておくと、これほど都合の良いことはないのだ。そう信じてくれるから、伯母さんも午後のほとんどの時間を、見張り番という役目を遂行してくれるのだから。

伯母さんの懸念をしっかりと裏付け、確固たるものにしておいてから、ニコラスはそっと家に忍びこんで、かねてより胸の内に暖めていた計画を、さっそく実行に移すことにした。書斎の椅子に乗れば手が届く棚の上に、分厚い、いかにも大切そうな鍵が置いてある。見かけ通り、実際に大切な鍵なのである。これは物置部屋の秘密を守り、許可なく詮索しようとする者を締めだすためのものなのだから。そこに入って良いのは伯母さんたちを初めとする特権階級の人びとだけである。

ニコラスは、鍵を鍵穴に差しこんで回して開けるという経験があまりなかったから、数日間に渡って、教室のドアで鍵を開ける練習を積んで置いた。幸運だの偶然だのを、あまり信用しないことにしているのだ。鍵を差しこむと、錠は固かったが、なんとか回すことができた。扉が開き、ニコラスは見たこともない世界へ足を踏み入れた。ここに比べれば、スグリの果樹園にどれほどの価値があろう。単に物質的な楽しみに過ぎないではないか。

 これまで何度も何度も、ニコラスは物置部屋のなかがどうなっているのだろうと頭の中に思い描いてきた。子供たちの目から慎重に隠し、何を聞いても返事は返ってこないあの場所は。

そこは彼の期待していた通りだった。第一に、そこは大きくて薄暗い、高いところに窓がひとつ――その窓が面しているのは、例の禁断の庭である――、それがただひとつの明かり取りである。第二に、そこには想像したこともないような宝物がしまいこまれていた。自称伯母さんときたら、物というのは使えば痛むと考えて、埃と湿気に任せることを保存と呼ぶ手合いのひとりなのである。家の中のニコラスがあきあきするくらい知っている場所などは、殺風景で陰気なのに、ここには目を楽しませるすばらしいものがいくつもある。

まずなによりも、枠に収められたタペストリーで、どうやら暖炉の前に置く衝立てらしい。だがニコラスにとって、それは、生きている、まさに息づいている物語にほかならなかった。彼はくるくると巻いた、埃の下から鮮やかな色がうかがえるインド織りの壁掛けに腰を下ろして、タペストリーに綴られた絵を、すみずみまでじっくりと眺めた。はるか昔の時代の狩猟服を着た男がひとり、たったいま、鹿を矢で射止めたところだ。鹿はほんの一歩か二歩しか離れていないので、射るのは難しいことではなかっただろう。絵には、密集した茂みも描かれているので、草をはんでいる鹿のそばにも、簡単に忍び寄ることができたのだ。ぶちの犬が二匹、一緒になって追いかけようと、いまにも飛び出しそうになっているのだが、どうやら矢が放たれるまで、主人についていくように訓練されているらしい。絵のその部分は、おもしろいことはおもしろいが、ごくありきたりなものだった。だが、この猟人は、ニコラスが気がついているように、四頭のオオカミが森を抜けて自分の方へひた走ってくるのに気がついているのだろうか? もしかしたら、四頭だけでなく、木立の陰にもっといるのかもしれない。いずれにせよ、四頭のオオカミに襲われれば、猟人と犬は切り抜けることができるのだろうか。矢筒に矢はもう二本しか残っていないし、片方、いや、両方し損じてしまうかもしれないのだ。わかっているのはただ、彼の腕というのは、大きな鹿を滑稽なほど近い距離から射ることぐらいなのだ。ニコラスはこの情景がどうなっていくのか、さまざまに思いめぐらして、すばらしいひとときを過ごした。オオカミは四頭なんかではすまないんじゃないだろうか。だからこの男と犬は、追いつめられてしまうのだ。

(この項つづく)

サキ「物置部屋」

2008-09-19 22:10:47 | 翻訳
今日からサキの第三弾 "The Lumber Room" を訳していきます。
原文は
http://haytom.us/showarticle.php?id=78
で読むことができます。

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「物置部屋」

(前編)

 子供たちは特別な好意によりジャグバラの砂浜に連れていってもらうことになった。ニコラスだけは仲間はずれだ。みせしめのためである。というのも、その日の朝、ニコラスは滋養豊かなパンがゆを、このなかにカエルが入っている、などと、どう考えても突拍子もない理由で、食べたくないと言い張ったせいなのである。知恵もあれば品行も正しい大人たちが、パンがゆにカエルが入ってるなんてこと、あるはずがないじゃないか、バカをお言いじゃないよ、と言って聞かせても、ニコラスはしつこくでたらめを言い続け、カエルの色だの、ぶちがどうしただのと、いやに話が細かくなっていく。驚くなかれ、パンがゆの入ったニコラスのボウルには、ほんとうにカエルがいたのだ。ぼくが入れたんだもの、知る資格がぼくにあるのはあたりまえじゃないか、とニコラスは思っていた。庭でカエルをつかまえて、それを滋養豊富なパンがゆに入れるなんて、なんといけない子でしょう、と長々とお説教をくらった。とはいえ、ニコラスの胸の内では、一連の事態で何よりもはっきりしたのは、知恵もあれば品行も正しい大人たちが、絶対にまちがいない、と言っておきながら、結局はすっかりまちがっていたことが明らかになった、という点だった。

「伯母さんはパンがゆのボウルにカエルなんているはずがない、って言ったじゃないか。だけど、そこにほんとにいたんだからね」ニコラスはくりかえしたが、その執拗なことといったら、有利な地点では一歩も引かない老練な策士さながらである。

 そうした事情で、いとこの男の子と女の子、ニコラスのちっともおもしろくない弟は、その日の午後、ジャグバラに連れて行ってもらうことになり、ニコラスだけが家で留守番しなければならない羽目になったのだった。いとこたちの伯母さんが――この人は、実際には伯母でもなんでもないのだが、想像をたくましくして、ニコラスの伯母さんでもあるかのように振る舞っていた――急にジャグバラへの遠出を思いついたのは、ニコラスに楽しいことを見せつけて、自分が朝食の席で悪いことをしたことを後悔させようとしたからである。これが伯母さんのいつもの手口で、子供が悪いことをするとかならず、何かおもしろいことを急いででっちあげ、悪いことをした子をきっぱりと閉め出すのである。子供たちみんなが等しく悪いような場合は、いきなり隣町にサーカスがやってきた、などと告げるのである。そのサーカスときたら、もう世界で一番おもしろくて、数え切れないほど象もいるんだよ、悪いことさえしなかったら、今日、連れて行ってあげようかと思ったのにねえ、と。

 遠出の時間になれば、ニコラスの目から涙の数滴でも流れ落ちるだろうと思われていた。ところが実際には泣き出したのは、いとこの女の子で、馬車に乗りこもうとして、段で膝小僧をすりむいたせいだった。

「すっごい泣き声だったね」ニコラスは楽しそうにそう言ったが、出ていった方は遠出にはつきものの、興奮したり上機嫌になったりするようすもなかった。

「すぐ泣きやみますよ」と自称伯母さんは言った。「こんなにすばらしいお天気の日に、きれいな砂浜を駆け回ることができるんだからね。あの子たち、どれほど楽しい思いをするだろうねえ」

「ボビーはそんなでもないかもね。駆け回ったりもできないと思うよ」とニコラスがクスクス笑いながら言った。「ブーツが痛いんだってさ。きつすぎて」

「あの子、なんで痛いって言わなかったのかしら」いささかぶっきらぼうな口調で伯母さんは言った。

「二回も言ったよ、だけど、伯母さんが聞いてなかったんじゃないか。伯母さんってときどきぼくらが大切なことを言っても聞いてないことがあるよね」

「スグリの植え込みに入っちゃいけませんよ」伯母さんは話題を変えた。

「何で?」ニコラスが聞いた。

「だってあんたは罰を受けてるとこなんだからね」伯母さんは尊大ぶってそう言った。

(この項つづく)

サキ「セルノグラツの狼」(後編)

2008-09-17 22:36:31 | 翻訳
(後編)

 じっと耳を傾けているうちに、犬を怯えさせたり怒らせたりしたものの正体が、人間にもはっきりわかってきた。長く尾を引く、もの悲しい遠吠えが、高く、低く、あるときは五キロも先の方から聞こえたかと思えば、雪原をひとっとび、館の外壁の根方あたりから聞こえて来るようにも思われる。凍った世界のなかでの飢えと寒さ、惨めさ、野生の生き物の、容赦ない飢えに苛まれた激しい怒りが、絶望と、言葉にならない悲しみのこもった歌声に混じり合って、むせびなくような遠吠えになったようだった。

「狼だ!」男爵が叫んだ。

 狼の合唱が四方八方から聞こえてきた。

「何百頭もの狼だ」想像力の豊かなハンブルグの商人が言った。

 自分でも説明のつかない衝動にかられて、男爵夫人は客から離れ、家庭教師の狭い、陰気な部屋へ向かった。そこでは年老いた家庭教師はもう何時間も横になったまま、一年が終わっていくのを見守っていたのだった。身を切るような冬の夜気のなかで、窓を開け放している。もう、いったいなんてことをしているの、と大声で言いながら、男爵夫人はあわてて窓を閉めようとした。

「開けておくのです」老女は弱ってはいるが、男爵夫人がこれまで一度も聞いたことのない、有無を言わさぬ調子で言った。

「でも、この寒さで死んでしまうわよ」男爵夫人はいさめた。

「わたしはもう長くはありません」とその声が答えた。「だからわたくしはあの子たちの声が聞きたいの。あの子たちは、わたくしの一族が死ぬときの歌を歌いに、みな遠くの方から集まってくれたのです。みんな、ほんとうによく来てくれました。フォン・セルノグラツ家の一族がこの古い館で死ぬのもわたくしでおしまい、だからみんなわたくしのために歌うために来てくれたのですね。ほら、なんと大きな声で呼んでいること!」

 狼たちの遠吠えは、静かな冬の空気をふるわせながら切り裂き、長く尾を引いて、館の塀を取り囲んでいた。老女はベッドに仰向けに横たわったまま、とうとう幸せになれた、とでもいいたげな表情を浮かべている。

「さがりなさい」男爵夫人にそう命じた。「わたくしはもうひとりではありません。誇り高い一族の一員なのですから……」

「もう長くはないと思うわ」男爵夫人は客の集まっているところに戻ってそう言った。「お医者を呼びにやったほうがよさそうね。それにしてもいやな遠吠えね! どれだけお金を積まれても、あんな末期の歌なんてゴメンだわ」

「あの歌は、どれだけ金を積んでも聞けやしないよ」とコンラッドが言った。

「ちょっと待て! あの音は何だ?」何かがめりめりと裂けるような音を聞きつけた男爵が尋ねた。

 荘園で立木が倒れたのだ。

 ぎこちない沈黙がたれこめた。やがて、銀行家の妻が口を開いた。

「ひどい寒さですものね、木も裂けるんでしょう。狼があんなに大勢集まってきたのも、寒さのでいですわよ。これほど寒い冬は、ここ何年もありませんでしたもの」

 男爵夫人も勢いこんで、これもみな寒さのせいにちがいありませんわ、と同意した。家庭教師が医者の診察も受けることなく、心臓麻痺で亡くなったのも、寒さのなか、窓を開け放していたせいだ、ということになった。だが、新聞の死亡記事だけはずいぶん立派な体裁のものとなった――。
十二月二十九日、セルノグラツ城
アマリー・フォン・セルノグラツ逝去。多年にわたりグルエベル男爵ならびに男爵夫人の大切な友人であった。


The End



サキ「セルノグラツの狼」(中編)

2008-09-16 22:07:47 | 翻訳
(中編)


「非礼にもほどがる」と吐き捨てた男爵は、憤懣やるかたない、という顔つきで目をぎょろりと剥きだした。「この家の食卓であんな話を始めるなんて、たいした女のつもりらしい。我々がそこらへんの馬の骨か何かのように言うんだからな。嘘八百もいいところだ、ただのシュミット、それだけだ。どうせ小作人からでもセルノグラツ家の話を聞きこんできて、来歴や言い伝えをひけらかしているのだろう」

「自分のことをたいそうな人間だと思わせたいんですわ」男爵夫人は言った。「そろそろ仕事も辞めなくてはならないでしょうしね、だから同情でも引くつもりだったのでしょうよ。わたしの祖父が、なんてねえ」

 男爵夫人にも世間並みに祖父がふたりいたが、ついぞ自慢などしたことがない。

「もしかしたらこの館で配膳係りか何かやっていたのかもしれないな」男爵はクックッと嗤いながら言った。「ひょっとすると、そのぐらいはほんとうかもしれん」

 ハンブルクの商人は何も言わなかった。思い出を大切にしていると言った老婦人の目に涙が浮かんでいるのを見たのである――もしかしたら、単に想像力豊かなおれがそう思っただけかもしれないのだが。

「暇を出すつもりです、新年のお祝いが終わったらね」と男爵夫人が言った。「それまではあの人に仕切ってもらわないと、わたしも困りますからね」

 だが、それでもやはり男爵夫人はアマリー抜きでやっていかなくてはならなくなったのだった。クリスマス後に襲った寒気のために高齢の家庭教師は病に伏し、部屋から出られなくなってしまったのだった。

「ほんと憎らしいったらないんですのよ」暮れも押し迫ったある晩、男爵夫人は客人と一緒に暖炉を囲んでいる席でその話を始めた。「あの人がうちへ来てからというもの、これまでずっと病気で寝込むようなこともなく来たんです。自分の部屋を出て仕事もできないほどの病気というのはね。それがどうでしょう、お客様が大勢お見えになって、いろいろやってほしいときになって、寝込むんですからね。それは確かに気の毒なことは気の毒なんです。すっかりやつれて、縮んでしまったみたい。そうはいってもほんとうに困ることには変わりはありませんものね」

「それはたいそうお困りのことね」銀行家の妻が、わかりますよ、といわんばかりにあいづちを打つ。「きっとこの厳しい寒さのせいでしょうね、確かに年寄りにはこたえますから。今年は例年よりもなおのこと寒いですからね」

「十二月にここまで霜が降りたのも、ここ数年ではなかったことですな」男爵も言った。

「まあ確かに年も年ですからね」男爵夫人が言う。「もっと前に暇を出しておけばよかったと思っているのですよ、それだったらこんなことになる前にいなくなっていたでしょうから。あら、ワッピー、どうしたの?」

 小さな毛むくじゃらの小型犬が、急にクッションから飛び降りると、ぶるぶると身を震わせながらソファの下へもぐりこんだ。そのとき館の中庭で犬が一斉に怒りの吠え声をあげ始め、遠くの方からも犬がやかましく吠え立てる声が聞こえてきたのである。

「あいつらは何を騒いでいるのだろう」男爵が言った。

(この項つづく)