ある匂いをかぐと、特定の記憶がよみがえってくる、というのはよく聞く話だ。
あまりに人口に膾炙しているために、引用するのも気が引けるくらいだけれど
と、みかんの花が咲いているだけで、かつての恋人のことをありありと思い出すわけなのだ。
嗅覚というのは、脳のなかでも情動をつかさどる扁桃体や視床下部に直接影響を与えるから、視覚、聴覚にはない、エモーショナルな反応というのが生まれるのだそうだ。
ただ、この「視覚、聴覚にはない反応」というところがどうなのかな、と思ったりする。そんなに嗅覚だけが特別に情動反応と結びつくんだろうか。
音楽のある一部分を聞いただけで、まえにそれを聞いたときの出来事を思い出すこともよくあることだ。ある時期に繰りかえし聴いた曲なら、その時期のこと、あるいは当時の心的状況などを思い出さないわけにはいかない。そういうときの記憶のよみがえり、というのはまぎれもない情動的な反応ではないんだろうか。
あるいは、よくわからないけれど、急に不安感に胸をさいなまれたりする。
なんでだろう、と考えてみると、一瞬目にした光景が、記憶の中の光景と結びつき、当時の心情がフラッシュバックされてしまう。
こうした意味で、記憶というのは、匂いであれ、光景であれ、音であれ、きっかけさえあれば、ぱっとよみがえってきて、わたしたちの身体を、勝手に乗っ取ってしまうものなんじゃないだろうか、と、わたしはそんなふうに思ってしまうのだ。
わたしの場合、本を読み返すと、最初に読んだ場所がありふれた場所ではなく、変則的なところだったりすると、読んだ場所の空気の匂いやあたりのざわめきまでよみがえってくる。
とくに、「声」が聞こえてくるような文章だったりすると、読む、というか、わたしはその文章を耳で聞いているので、そういうときはたいていその「声」を身体に刻み込んで記憶している。そうした「声」は、ほかの情景までいっしょに連れてくるのだ。
たとえばわたしがピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を初めて読んだのは、都電荒川線の中だった。いまでもあの本のベージュの背表紙を見ると、わたしの頭の中では日本語をしゃべるエディパの、少し甘い、低めでやわらかな声が、ゴトゴトという都電の音をB.G.M.に話かけてくる。そうして、あの電車独特の匂いがよみがえってくる。
ところが記憶というのは、よみがえらせようと思ってもうまくいかないことのほうが多い。
あのときはどうだったっけ、と考えるより、望む、望まないに関係なく、不意にこちらを捕まえるようなときのほうが、ずっとリアルに感じられる。
あのときのことを思いだそう、と思って、引き金になるようなあるものの匂いを嗅いだところで、望むような記憶がよみがえってくるわけではない。
こんなふうに考えると、記憶というのは、わたしたちが「所有」している、とはいいにくいような気もする。やはり記憶は「所有」するものではなくて、ともにあるものなんだろう。
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「とんでもないラジオ」、今日は最後まで手を入れられなかったので、明日になります。
細かいところ、ちょこちょこ直しているので、ブログ版よりは読みやすくなってるかな、って思います。
また明日くらいに見てみてください。
今日はほんとうにいいお天気でしたね。
春になったんだなぁ。
アイスクリームを食べなくちゃ。
ということで、それじゃ、また。
あまりに人口に膾炙しているために、引用するのも気が引けるくらいだけれど
五月まつ 花たちばなの 香をかげば むかしの人の袖の香ぞする
と、みかんの花が咲いているだけで、かつての恋人のことをありありと思い出すわけなのだ。
嗅覚というのは、脳のなかでも情動をつかさどる扁桃体や視床下部に直接影響を与えるから、視覚、聴覚にはない、エモーショナルな反応というのが生まれるのだそうだ。
ただ、この「視覚、聴覚にはない反応」というところがどうなのかな、と思ったりする。そんなに嗅覚だけが特別に情動反応と結びつくんだろうか。
音楽のある一部分を聞いただけで、まえにそれを聞いたときの出来事を思い出すこともよくあることだ。ある時期に繰りかえし聴いた曲なら、その時期のこと、あるいは当時の心的状況などを思い出さないわけにはいかない。そういうときの記憶のよみがえり、というのはまぎれもない情動的な反応ではないんだろうか。
あるいは、よくわからないけれど、急に不安感に胸をさいなまれたりする。
なんでだろう、と考えてみると、一瞬目にした光景が、記憶の中の光景と結びつき、当時の心情がフラッシュバックされてしまう。
こうした意味で、記憶というのは、匂いであれ、光景であれ、音であれ、きっかけさえあれば、ぱっとよみがえってきて、わたしたちの身体を、勝手に乗っ取ってしまうものなんじゃないだろうか、と、わたしはそんなふうに思ってしまうのだ。
わたしの場合、本を読み返すと、最初に読んだ場所がありふれた場所ではなく、変則的なところだったりすると、読んだ場所の空気の匂いやあたりのざわめきまでよみがえってくる。
とくに、「声」が聞こえてくるような文章だったりすると、読む、というか、わたしはその文章を耳で聞いているので、そういうときはたいていその「声」を身体に刻み込んで記憶している。そうした「声」は、ほかの情景までいっしょに連れてくるのだ。
たとえばわたしがピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』を初めて読んだのは、都電荒川線の中だった。いまでもあの本のベージュの背表紙を見ると、わたしの頭の中では日本語をしゃべるエディパの、少し甘い、低めでやわらかな声が、ゴトゴトという都電の音をB.G.M.に話かけてくる。そうして、あの電車独特の匂いがよみがえってくる。
ところが記憶というのは、よみがえらせようと思ってもうまくいかないことのほうが多い。
あのときはどうだったっけ、と考えるより、望む、望まないに関係なく、不意にこちらを捕まえるようなときのほうが、ずっとリアルに感じられる。
あのときのことを思いだそう、と思って、引き金になるようなあるものの匂いを嗅いだところで、望むような記憶がよみがえってくるわけではない。
こんなふうに考えると、記憶というのは、わたしたちが「所有」している、とはいいにくいような気もする。やはり記憶は「所有」するものではなくて、ともにあるものなんだろう。
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「とんでもないラジオ」、今日は最後まで手を入れられなかったので、明日になります。
細かいところ、ちょこちょこ直しているので、ブログ版よりは読みやすくなってるかな、って思います。
また明日くらいに見てみてください。
今日はほんとうにいいお天気でしたね。
春になったんだなぁ。
アイスクリームを食べなくちゃ。
ということで、それじゃ、また。