陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

電脳的非日常 その2.

2005-08-31 22:48:54 | weblog
2.いざ交換

実はこの間から時折ハードディスクが音を立てていたのに気がついてはいたのだ。最初のうちはファンが回っているにしては、えらくでかい音だな、と思っていたのだが、そのうちファンではあり得ない音が混じるようになってきた。

これは壊れる前兆であろうか、と師匠に相談すると「五年前のハードディスクなんか明日壊れてもおかしくない」とニベもない返事。「ま、せいぜいバックアップ、しっかり取っとくことやな」

そうした予兆におびえつつ、重要なメールや文書のバックアップは、せっせと取ってはいたのだけれど、まさか実際に、いきなりその日がくるとは思ってもいなかった。液晶の画面が暗くなったりするようなマイナートラブルがいくつか起こったことはあったけれど、この五年半、いわゆる故障らしい故障もせず、ときどき立ち上がり時に固まることを除けば、まずまず順調にきていたのだ。

電源を入れる。
画面は暗いまま。リズミカルにガッガッガッガッとスタッカートを刻んだあと、二分休符、またガッガッガッガッの繰り返しである。

しばらくしてメッセージが現れた。ノーマルモードでの起動、というのを含めていくつかの選択肢が出てくるが、どうやらパソコンはセーフモードで起動させたいらしい。御意、とばかり、セーフモードのボタンを押す。

ところが画面はいっこうに変化が見られない。
こまったことに師匠はいま日本にいないし、とりあえずできるところまでやってみよう、とパソコン関係のマニュアルを押し込んである箱を取り出し、「ソリューションガイド」なるものを引っ張り出してみた。
いきなり「問題の解決」と力強い言葉に気を良くしてそこを開いてみたのだが、なんのことはない、サポートを受けてください、としか書いてない。

サポートセンターに電話をかけてみた。
なかなか繋がらない。待っている間にパソコンの画面がグレーになり、四隅にセーフモードという文字が浮かんできた。これはセーフモードで起動できるか、と一縷の望みが生まれてくる。しかし、四拍子のリズムは相変わらず続いているし、カーソルは動かせるけれど何のメッセージも現れない。

「はい」
サポセンのお兄さんの声が聞こえてきた。型番、症状を告げる。
細かい質問にいろいろ答えながら、サポセン氏の言葉の北関東、おそらく栃木のアクセントがあることが気になってしょうがない。確かめてみたい衝動をぐっとこらえる。

「それはハードディスクがダメになっちゃってますね。とにかくそれは交換しなくてはどうしようもない。方法としてはふたつ。修理に出すか、お客様ご自身でおやりになるかです」
「修理っていうと、日数、かかりますよね」
「そうですね。何日ぐらい、っていうのは、お店によってちがうでしょうが……」
「費用もかかりますよね」
「そうですね、だいたい六万ぐらいはふつう、かかるんじゃないかな」
「交換するのって大変ですか」
「いや、大丈夫です。こちらで引き続きサポートさせていただきます」
「んー、でも、やっぱり不安です」
「大丈夫ですって。じゃ、とりあえずいまのハードディスクをはずしましょう。電源を抜いて、メモリーカードとか、全部抜いてください。それからドライバー、持ってきてください」

栃木弁のサポセン氏は、こちらの不安などおかまいなしに、どんどん話を先に進める。まさか自分がドライバーを持って、パソコンのネジをはずす日が来ようとは、夢にも思わなかった。
「カチッと音がするまでカバーを持ち上げて」
「はい」
「音が聞こえましたね」
「はい」
「じゃ、ハードディスクを取り出しましょう」
サポセン氏は遠隔操作をするがごとく、こちらに指示を繰り出してくる。こちらも「それってこの下っかわにあるやつですか」などと確かめながら、言われたとおりにやっていく。とりあえずハードディスクを出すところまではいった。取り出したハードディスクは、カラカラと音がしている……。

「大丈夫。その調子です」
「じゃ、明日買ってきます。同じものください、って言えばいいですよね?」
「うーん、それだと10GBしかないんですよ、どうせ交換するなら40GBぐらいのにしちゃいましょう」
一万三千円ぐらい、という予期せぬ出費は痛いけれど、パソコンを買い換えることを思えば安いものだ。
「じゃ、あとはまた明日」
その日のミッションはそうして終わったのである。

(この項つづく)

電脳的非日常 その1.

2005-08-30 23:04:42 | weblog
電脳的非日常 その1.

悪夢は一枚のシーツから始まった……。


0.電脳的日常

その昔、世の中にまだワープロもパソコンも普及していなかった頃、おそらくはわたしも手書きで文章を書いていたのだと思う。
だがそんな昔々の大昔、記憶にもないそのころには、いったいどうやって文章を作っていたのだろう。

書いたあと、読み直して直し、音読してみてさらに直し、直してしばらく先へ進んでも、また帰ってきてもとに戻す。それでも気に入らなくて、もういちど変えてみる。

わたしの場合、基本的に文章というのはその繰り返しである。
だからどんなに短い文章でも、簡単にやり直しがきかない手書きは、それが推敲に推敲を重ねた最終稿であっても大変に厳しい。修正液を重ねて、でこぼこになってしまった原稿を提出することになってしまう。

しかも握力が弱いくせに、筆圧が強く、すぐに手首を痛めてしまうのだ。ほんとうにこんなことでは仕事にもなんにもならないのである。

現在わたしは平均すると六時間から八時間、PCの前に座っているのではないだろうか。
文書作成ばかりでなく、ここ数年、Web上の文章を読むことも多い。書籍とWebの比率も、年々変わってきているという実感がある。そのほかにもデータ管理、翻訳とありとあらゆることが「パソコンがなければできない」状態になってきた。

だがしかし、それだけ使っていても、パソコンに詳しいかというと、ちっともそんなことはないのである。

毎日洗濯機を使っているからといって、洗濯機の何も知らなくても不都合がないように、日常決まり決まった作業をするには、たいした知識は必要ないのだ。

ところが、このパソコンというやつ、質実剛健で文句も言わず、日々仕事を黙々とこなす洗濯機とちがって、えらく気むずかしい。
起動ひとつとっても、ときどきイヤだ、と、途中で固まってしまう(そうです、わたしが使っていたのは、不安定と評判の悪いMeだったのです)のだ。

吉田兼好は「よき友、三つあり。一つには物くるる友。二つには医師。三つには知恵ある友」と言ったけれど、やはり今日的バージョンでは、物をくれるよりもなによりも、PCのスキルの高い友、というべきではあるまいか。

わたしにも、パソコンの師匠がいる。
先代機からのつきあいなので、かれこれ十年近くにもなろうか。

この師匠、パソコンのことで何か教えを請うと、眉間にしわを寄せて
「なんでそんなことができない?」
「前、言った」
「一体何をしたらこういう状態になるわけ?」という返事のいずれかが(複数の場合もあり)返ってくる。

とりあえずこちらはその三つさえ我慢すれば、たいがいのことはどうにかなるありがたい存在である。

トラブったパソコンを前にすると、なんともいえない無力感に襲われる。自分が無能になった気がするのである。
こういうとき、決まって思い出すのが、英語の先生の言葉である。

アイルランド人のこの先生は、外国人向けの茶道を習っていた。
あるときなぜお茶を習うのか、と聞かれて、この先生はこう答えたのが、いまでも忘れられない。
"To learn to be obedient."
規律に従う、ということを学ぶため、というあたりだろうか。

その先生が言うには、日本で白人であるということは、たいそう甘やかされることである、と。
白人が少々規律を逸脱していても、日本人はまず迷惑そうな顔すらしない。にこやかに笑って、「仕方ないですよ」と許してくれるのだ、という。
そういうなかで、お茶を始めると、失敗を重ね、自分の不器用さを身をもって知ることになる。そこでは「仕方ないですよ」と許してくれる人はおらず、規則のなかに身を置き、それに従うことを学ぶことができるのだ、といった内容のことを話してくれたように記憶している。

わたしをだれも甘やかしてくれたりはしないのだが、それでもある程度仕事を続けてくると、なにがなし、ヴェテラン意識とまではいかないけれど、それなりの気持ち、まぁ有り体に言えば、自分はそれなりにデキる分野がある、みたいな気持ちが生まれてくるわけである。たまにいい気にもなる。そうした自分のちっぽけな自信を、完膚無きまでにうち砕いてくださるありがたい出来事が、パソコンのトラブルと言えるのではあるまいか。

ただし、たとえ修養にはなったとしても、遭遇して、これほどありがたくない出来事もそうそうはないことなのであるが。


1.行方不明になったシーツ

台風が近づいているらしく、風が強い日だった。ただこの地域に影響は少なく、雨も降らないという。そこでわたしは朝、出かける前にシーツを洗濯して、ベランダに干して出かけたのだった。

帰ってから、いつものようにPCを起動させて、仕事を始めた。なんとなく、目の隅で、何かが気になってしょうがない。
なんだろう、なんだろうと思っていたが、ハッと気がついた。
朝、干したはずのシーツが、ベランダにかかっていない!

パソコンをそのままに立ち上がり、ベランダに出てみた。シーツなど、影も形もない。幅150センチ、長さ200センチ以上の、白いだだっぴろい布きれが、急に消えてしまうはずがない。どこかに引っかかっているにちがいない。

消えたシーツを求め、まずは一階の家へ出向くことになった。
一階に下りていくと、そこの家の住人と思しきおばあさんとおそらくそのご近所なのであろうもうひとりのおばあさんが家の前で立ち話をしている。

おばあさんAとおばあさんBのいずれかが一階の人なのだろうとアタリをつけて、話がとぎれるのを散歩につれていってもらうイヌのように、じっとその場で待つ。ところが「男の人というのはそうしたもの」といった内容の話は、どれだけ実例をあげていっても尽きるということがないらしく
おばあさんA「ほんになぁ」
おばあさんB「そういうことやわなぁ、それがな、わたしらなんか……」と終わる気配もないのである。わたしも中に加わって、新たな実例を二、三あげてもよかったのだが、なにぶん急いでいたので、失礼を承知で頭を下げて、割り込んだ。

「すいません、上の**といいます、こちらのお宅のかたですよね?」
おばあさんA「はいはい。わたしが○○ですが」
「シーツが風で飛んでしまったんです」
(ここでふたりのおばあさん、ともに「ぶっ」と吹き出す)
「そらえらいことですなぁ。すぐに見てみますわ」
おばあさんAが家のなかに消えていくと、興味津々という顔で、こちらを見上げているおばあさんBの視線とぶつかった。

「ほんになぁ。今日はえろう風、吹いてますからなぁ」
「それでも洗濯ばさみと布団ばさみできっちり留めてたんですよね」
「ベランダの手すりにかけたはったんですか」
「ええ、手すりなんです」
「そらあかんわ。アンタ、今日みたいに風が強い日ィは、手すりにかけとったら、何でも飛んでいきますわ。シーツなんかやったら、そらなんぼでも飛びますわ」
なんぼでも飛んでいくんだったら、今日までその経験がなかったのは一種の僥倖だったのだろうか、などとと思っているところにおばあさんAが家のなかから出てきた。

「あれへんでしたわ。隣の庭にも落ちてへんかしら、思て、両方とものぞいて見たんですけど、どっちもあれしまへんでしたわ。もうちょっと上の階のベランダかどこかに、引っかかってるのとちがいますか」

確かに「一階の途中」と範囲を広げると、対象も恐ろしく拡大する。これはわたしが一軒一軒捜索できる範囲を超えている、というわけでもないのだが、見も知らない家のドアチャイムを押して、頭を下げて探してもらう、というのは、考えただけで気が重かった。

そこで頭を下げるのはもう一カ所だけにしようと、そこの家を後にし、管理事務所に言いに行く。
「すいません、ベランダに干していたシーツが、風にとばされてしまって」
(ここで管理人も「ぶっ」と吹き出したあと)
「こちらにはまだ届いていませんからねぇ。届いたら連絡しますね」

よろしくお願いします、と頭を下げて、それにしてもシーツが風にとばされる、と聞くと、どうして人は笑うのだろう、と思いながら、上に帰るわたしであった。

さて、部屋に帰ってみると、そのままにしておいたはずのパソコンの電源が落ちている。
あれ、シャットダウンしていったっけ、と思いながら、電源を入れてみた。
電源は入ったが、暗いまま、ガッガッガッガッ、という、身も凍るような音が聞こえてくるではないか。
わたしの背中を冷たい汗が流れ落ちて行った……。

(この項つづく)

帰ってきました

2005-08-29 22:55:45 | weblog
旅行というとできるだけ身軽でありたいと思うものですが、わたしにはひとつオブセッションがある。
移動中、読むものがなくなったらどうしよう、ということです。

今回、いろいろあって、アイン・ランドの『水源』をこの間に読んでしまおうと思いました。ソフトカバーではあるんですが、1000ページ以上もあるんです。で、予備のために(笑)文庫本を一冊。重かったです。わたしってバカだなー、なんて思いながら、手回り品を詰めたデイパックに、ずっしり重い『水源』を背負っていきました。

まぁその『水源』の感想を書いてもいいんだけど、それはまたの機会に譲ることにして。

向こうでは、ほとんど本を読む時間もなかったのだけれど、なんのかんのと移動する間、1000ページあってもサクサク読める本は、帰り、三島を過ぎたあたりで読み終わってしまいました。
やっぱりスペアを持ってきたのは正解だった、と思いながら、もう一冊の本を出そうとして、なんとなく車窓を眺めていました。

次第に進行方向の空がバラ色になっていました。
沈んでいく夕日を追いかけるようにして、西へ西へと新幹線はひた走ります。
そうしていると日がなかなか暮れず、赤い夕焼けを普段より長く見ることができました。

だんだんに暮れていく空の下、さまざまな風景が流れていきました。
高層住宅が見え、立て込んだビルが見え、駅を過ぎると、次第にビル群もまたまばらになります。
立て込んだ家並みも次第にまばらになり、それから今度は田圃が広がって。そのうち、立ち並ぶ屋根の間に、ふつうの家屋より少しだけ背が高く傾斜も急な、黒い瓦屋根に目がいくようになりました。お寺です。
木立に囲まれているものもあれば、町中の民家に混じるものもある。けれども人が集まって住んでいるところの一角に、かならずその少しだけ背が高い、独特な形の黒い屋根があるのでした。

お寺というのは、人が集まって住むところに必ずあるものなんですね。
これまでそんなこと、考えたこともなかったけれど。

十年以上、新幹線を使って、東西を往復しています。ここ何年かは年間、数えるほどになってしまったけれど、それでも百回以上は目にしているはずの景色です。細かいところはいろいろ変わっただろうけれど、大きくは変わることもない町並みや、田圃だと思います。

それが、一度気がつけば、まるでお寺の屋根ばかりが目に飛び込んでくるようにさえ見えるのを、なんとなく不思議なような、どこか懐かしいような思いで見ていました。

新幹線から在来線に乗り換えて帰ってみると、すっかり日も暮れて。日没時間もずいぶん早くなりました。ああ、今年の夏も終わったなー、っていう感じです。
よく働いた夏でした(笑)。

明日はパソコンの話をちょっと書いて、それから新しい翻訳を始める予定です。
それじゃ、また♪

PC復旧いたしました

2005-08-27 05:42:17 | weblog
隊長!

ブチ壊れたHDD、昨日無事交換し、
ついでにOSのヴァージョンアップも果たし、
再セットアップも約半分完了しました!

本日より二泊三日の任務に出発いたします。
帰還後、この間の報告をする予定であります。
では、そのときに再度お会いしましょう!

 Commander:ミドルネームは「転んだらネタつかまえて立ち上がれ」の陰陽師 

この話したっけ ―ロックしなけりゃ意味がない―

2005-08-25 17:02:49 | weblog
 音楽というものを聴かない日々を、八年半過ごした。
聴かないといっても、耳を塞いでいたわけではなく、たまに無性に聴きたくなったCDを、ほこりをかぶったラックから取り出して、デッキにのせることはあった。
買ったときには結構な値段を払ったスピーカーも、普段聴かないうちに、音の出が妙に悪くなり、ときどきてっぺんをたたいてやらなければならなかった。

 代わりに普段活躍したのは、とあるビンゴ大会で引き当てたCDラジカセだ。音こそ良くないものの、持ち運びには便利で、皿洗いやアイロンかけ、風呂掃除といった、気の滅入るような作業をするときにはもってこいだった。
 別にこうした単純労働がイヤなわけではない。ただ作業をしているうちに、頭のほうは、いま自分がやっていることから離れて、過去に起こった、現在の自分にはどうにもできないことを次から次へと思い出し、現在の光に当てなおしてもういちど、そのときにはどうしようもなかったのだということを、確認しないではいられない、という、はなはだ非生産的なことを始めてしまうという、どうしようもない傾向が、わたしにはあるのだった(暗いなぁ)。
 こういうことをしていると、それこそアイロンをかけ終わるころには、すっかりどうしようもない気分に陥って、そこから気持ちを立て直すのがひと苦労、ということになってしまう。まったくリアルな記憶再生能力を持っている、というのは、なかなかに痛し痒しなのである。

 そういうとき、Pet Shop BoysやR.E.M.の"Out Of Time"は効いた。ところどころで一緒に歌いながら作業をしていれば、気分も盛り上がった。

 音を鳴らして、気分を昂揚させる。音楽を聴くのではない。眠気覚ましにコーヒーを飲むようなものだ。まさか自分がそんなふうに音楽を「使用」するようになろうとは、夢にも思わなかった。

 音楽を聴くときは、ひたすらに聴いていた。ほかの一切を遮断し、耳から入っていく音のひとつひとつに集中し、自分の身の深いところに落としていく。それがそこにとどまり、何度も反芻するなかで、自分のなかに息づくのを待つ。
 それがわたしの聴き方のはずだった。

 だが、それにはおそろしく集中力が必要だったし、体力だって要った。何よりも、一定の間「何もしない時間」を作り出すことが不可欠だった。

 聴かなくなってしまったのは、ひとえに生活が激変したからだ。とにかく自分の時間、本を読み、ノートを作り、文章を一文でも書きつける時間を見つけるのに、血眼にならなければならなかった。三分あれば本を広げ、十分あればさらに辞書を開き、十五分あれば紙と鉛筆を出していた。

 音楽を聴こうと思えば、その間、一切のことを中断させなければならない。一時間もそんな時間を捻出するなど、とんでもない贅沢だったし、思いつくことさえなかったのだ。

 漕ぐことをやめれば、そのまま倒れてしまうしかない自転車のような日々が、少しずつ変わっていったのは、三年ぐらい前からだろうか。やはり経済的なゆとりが、多少なりともできたことは大きかったし、否応なく拘束される時間が、次第に減っていった、ということもあるのだろう。

 それでも音楽を聴こうというところまでは、気持ちは回らなかった。張りつめた気持ちがゆるんで、あたりを見回すことができるようになっただけで、そこから何かがしたい、という欲求など出てこないという状態が、そこからさらに三年ほど続いたことになる。
 聴けるようになるまで、八年半かかった、というのは、かかり過ぎのような気がしないでもない。けれどもわたしの傾向として、ある状態から、もうひとつの状態へと移るまで、言葉を換えれば「機が熟す」まで、ほかのひとより時間がかかるような気がする。

 そんなころ、ある人にあった。
その人が自分のなかでどのような意味を持つのか、どのように位置づけていったら良いのか、いまのわたしにはよくわからない。それでも、自分にとっては、その人との出会いは、とんでもなく大きなできごとだったのは、まちがいない。

 最初に会ったとき、音楽の話をした。そのとき、自分が話す内容をほとんど持ち合わせていないことに気がついた。このとき初めて自分が空白のときを過ごしていたことがわかったのだ。音楽を聴くことのない日々。聴くことすら思いつかない、聴いていないことにさえ気がつかない日々。

 だからといって、その空白を埋めようと、すぐに積極的に動いたわけではない。最初に紹介してもらったピアニストは、どういうわけか手に入らず、かといってamazonで買おうという気にもならず、ただ日を過ごしていたのだ。

 ある日、図書館でふっと教えてもらったバンド名を思い出して、検索にかけてみた。"Dream Theater"、二件ヒットし、一枚は他館だったため、貸し出し可能な残りの一枚を借りてみた。"Images and Words",ヘビメタらしい、コテコテのジャケットがおかしかった。

 家に帰ってデッキにディスクをのせてみた。いきなり、ぶっ飛んだ。なんなんだ、この音は!

 それまで、リズムの正確さ、というのは、限りなく瞬間的な音、まさにその瞬間にヒットする、限りなく点に近い音だと思っていた。たとえば、YesのBill Bradfordのように。
 けれどもそのドラムの音は、わたしが知っていたどんな音ともちがっていた。限りなく重く、そのくせ限りなく自由自在な、聴いたことのない音だった。

 それからベースの音が飛び込んできた。リズムを刻む音は、硬質であるにもかかわらず、鋭角ではない、どちらかといえば温もりのある音だった。これも、わたしの知らない性質の音だ。とにかくめちゃくちゃカッコイイのだけれど、スタイリッシュというのともちがった。

 つぎにギターの音を聴いた。ああ、この人は、小さいときからギターが好きで、好きで好きで、ギターばっかり弾いてて、いまだに好きなんだろうな、と思わせるような、あまりにも自然に身についたテクニックが、自然にこぼれだしていくような、聴いているこちらまで、つぎは何を聴かせてくれるんだろう、と楽しくなってくるような音だった。

 いきなりそんなふうに個々の音が聴こえてくるのも初めての経験だったけれど、めまぐるしい変拍子になっても、ユニゾンの部分も、寸分の乱れもない。聴いていて、自然と胸がドキドキしてくるというのも、初めての経験だった。

 その日から、わたしはせっせとこのCDを聴くようになる。聴けば聴くほど、いろんな音がわかって、おもしろさが増した。

 もちろんその間、ほかの音楽を聴かなかったわけではない。自分が昔から何度となく聴いた、YesやPink Froyd、Zeppelin も聴いた。でも、そうした音楽は、自分の中で、どこか閉じてしまった環のなかの音、というような感じがした。Dream Theaterを聴いているときの、何か楽しい感じ、胸踊る感じが、そこにはなかった。

 それからDream Theaterのアルバムを飛び飛びではあるけれど、何枚か聴いた。無条件に最初から最後まで好きになってしまうものもあれば、部分的に、ここからここにかけて、鳥肌がたつくらい好き、というのもあるし、つい、スキップしたくなる曲もあった。

 そうしてこの間、やっと最新作に追いついた。

 彼らが十年以上かけた道のりを、三ヶ月ほどで全速力で追いかけていったのだ。
驚くことに、最初に聴いたアルバムと、技術的にまったく違うのだった。
あれほどすごい、と思ったのに、いまはさらにすごいのだ。

 最新作を聴いていると、技術というものには無限の段階があるのだ、ということを、思い知らされずにはいられない。「完璧」というのは、一種の虚焦点のかなたにあるのだと。人間は、おそらく、どこまでいっても「完璧」には到達できない。

 それでも、決して到達できない「完璧」へと向かおうとする過程の中で、独創的な技術というものが生まれる。

 音楽の演奏というのは、ひとつの世界を現出させていくことなのだ、と。独創性というのは、技術の向上を目指すたゆみのない訓練のなかから、奇跡のように生まれ出るこの新しい世界のことなのだろう、と。

 わたしが聴き始めたころには、ビートルズはもちろん、イエスも、ピンクフロイドも、ツエッペリンも「終わって」いた。実質的に解散していなかろうが、ときおりリ・ユニオン的にコンサートを開こうが、もはやそこからは何も新しいものが生まれようとしないところだった。

 '90年代の半ばぐらいだったろうか。
R.E.M.のCDの帯に”ぼくらにはR.E.M.がある”というコピーが書いてあったのを覚えている。
このコピーが言わんとすることは、'70年代に生まれ、本格的に聴くようになったのが'80年代の半ばを過ぎていたわたしたちの世代、祭りの後どころか、祭りがあったことを百科事典で知るような世代の人間にとって、ある種の実感のようなものではないか。
 何もかも終わってしまった。もしかしたらロックそのものも終わってしまったのかもしれないけれど、それでもぼくらにはまだR.E.M.が残っている。おそらくそれは、そういう意味だったのだろう。

 R.E.M.もいつのまにかどこかに行ってしまった(行ってないのかな?)けれど、それでもまだ、ロック・ミュージックそのものが終わったわけではない、と思うのだ。

 Dream Theaterは、まだまだ心を深く揺り動かしてくれるし、わたしが知らないだけで、そんなバンドはほかにもあるのかもしれない。新作"octavarium"は、もしかしたら三年先には聴くこともなくなっているかもしれないけれど、いまは毎日聴いていて、楽しい。ここから先に、何かが生まれていくんではないか、と思わせてくれるものがある。ただただ、なんてうまいんだろう、と思いながら毎日聴きながら、ああ、これが同じ時代を生きるということなんだ、と思うのである。

 わたしはリアルタイムのビートルズも知らないし、ウッドストックも、そのあとの世代も知らない。けれども、Dream Theaterを聴いていると、同時代を生きる、というのがどんなものか、漠然と、わかってくるような気がする。

 まだまだ大丈夫。ロックしなけりゃ意味がない。やっぱりわたしはそう思う。

(この項終わり)

※緊急告知:PCが壊れました。現時点で復旧のめどはたっていません。土曜日から出かけることもあって、次回更新は可能なら火曜日ですが、詳しい日程は不明です。ということで、そのころにもういちどのぞいてみてください。

うう、困った…

 


「暑いときにはコワイ本 補筆」をまとめました

2005-08-23 22:26:33 | 
昨日めでたく終了しました「暑いときにはコワイ本 補筆 ―『夢十夜』「第三夜」を考える―」をこちらで読めるようにしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/dream.html

ブログ掲載時よりは多少読みやすくなっているかと思いますが、「円環する時間」とか、「語り」のもんだいとか、十分に展開できていないのが気になっています。できればもう少し手を入れたいと思っています。
わかりにくい、とか、何が言いたいか、よくわからない、とか、ご意見、お聞かせください。
「空白が多い」って、わかりにくいですか?

ほんとにね、これはよくできた作品です。あらためて、つくづくそう思いました。
三遊亭円朝もおもしろいです。
わたしは落語というものを聞いたことがなくて、円朝は、近代口語文の祖、という観点から、筆記本をいくつか読んだことがあるくらい、あとは山田風太郎の明治ものの登場人物として知っているぐらいなのですが、独特の視線というものを感じる。
河竹黙阿弥とか、三遊亭円朝とか、幕末から明治初期にまたがって活躍した人たちというのは、江戸末期に生まれ、明治とともに生きた鴎外や漱石とはまた感じがちがうんです。

ほんと、時代が人間を作るのか、人間が時代を作るのか、とにかく、その時代ならではの人間の型、みたいなものがあって、興味はつきません。

明日あたりにはサイトのほうで読めるようにしますので、またあちらものぞいてみてくださいね。

さて、ここから例によってお定まりの身辺雑記的な話になっちゃうんですが。

今日ね、電車のなかで、実に怪しげなおじさんを見かけました。
カツラって、すぐわかりますよね? 生え際がはっきりしなくて、意味もなく膨らんでるの。
そのカツラをかぶってるおじさんだったのだけれど、カツラがあやしいわけじゃないんです。

そのおじさん、ビジネス書(人を動かすにはどうしたらいいか、みたいなことが書いてあった)を膝の上に広げてるんだけど、明らかにまったく読んでないんです。文字面を目で追うということをしていない。なのに、ページをしきりに繰ったり、指で本を押さえたり、いかにも読んでるふりをしてるんです。
すんげー怪しかった。
何者だろう、なんでそんなことしてるんだろう、と、電車に乗っている間、耳は"octavarium" 聴きながらも、ずっと考えてました。

さて、明日からまた新ネタ、お届けします。
何が出てくるか、お楽しみに(って実は何も考えてないんだけど)。

暑いときにはコワイ本 ―補筆―その5.

2005-08-22 22:24:29 | 
夏目漱石『夢十夜』から「第三夜」その5.

『真景累ヶ淵』にはこのような記述がみられる。

 申続きました新吉お賤は、実に仏説で申しまする因縁で、それ程の悪人でもございませんでしたが、為る事為す事に皆悪念が起り、人を害す様な事も度々になりまする。(『真景累ヶ淵』八十六)

ここでいう「因縁」というのは、どういうことだろうか。
円朝は別の箇所でも「因縁」という言葉を使って、人間同士のつながりの不思議さを説明している。

 深見新五郎がお園に惚れまするは物の因果で、敵同士の因縁という事は仏教の方では御出家様が御説教をなさるが、どういう訳か因縁と云うと大概の事は諦めがつきます。
 甲「どうしてあの人はあんな死様をしただろうか」
 乙「因縁でげすね」
 甲「あの人はどうしてあア夫婦中がいゝか知らん、あの不器量だが」
 乙「あれはナニ因縁だね」
 甲「なぜかあの人はあアいう酷い事をしても仕出したねえ」
 乙「因縁が善いのだ」
 と大概は皆因縁に押附けて、善いも悪いも因縁として諦めをつけますが、其の因縁が有るので幽霊というものが出て来ます。(引用同十一)

『真景累ヶ淵』の世界では、殺人も恋愛も、定められた運命のはたらき、個人にはどうすることもできない「因縁」によって、あらかじめ決定されているのである。

「第三夜」の「自分」が百年前に盲人を殺したのも、あるいはその殺した盲人の怨霊が子供に祟ったのも、やはりこの「因縁」のためなのだろうか。

この部分に、禅の公案を見る解釈がある。
越智治雄『漱石私論』は、『夢十夜』の主題を「父母未生以前」への追求である、とする。
この公案については、漱石は『門』の中で具体的に触れているので、その部分を見てみよう。

 「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向っていった。「父母未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考えて見たら善かろう」
 宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分というものは必竟何物だか、その本体を捕まえて見ろという意味だろうと判断した。それより以上口を利くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た」(夏目漱石 『門』(十八))

これは漱石が27歳で参禅した際に、実際に与えられた公案であるという。
「父母未生以前本来の面目」とは、両親が生まれる以前の「私」とは、だれであるか、ということだ。

 この面前に気力なく坐った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」(引用同)

27歳の漱石も、宗助同様、この公案に答えることができなかった。
けれどもこのときの経験は、後の『門』や、『夢十夜』の中に生かされることになる。

越智は「百年前」の意味を、「『自分』は、百年前、つまり父母未生以前に自分の存在を決定されている」(『漱石私論』)ということだとする。
百年とは、人間の生涯を超える期間、すなわち父も母も生まれる前のことである。百年前に殺した、というのは、当然、現在の「自分」の経験ではない。だが、その時盲人を殺した誰かの生まれ変わりが現在の自分であるとしたら。言葉を換えれば、現在の自分の存在が、過去の事実によってあらかじめ決定されているとしたら。

つまり、自分の存在は、根源的に罪を負ったもの、ということになる。
これは伊藤整の「原罪的不安」と共通する考え方といえよう。

ただし、ここからは「公案」に対して知識もなにもない、かつまた漱石の研究者でもないわたし個人の印象なのだけれど、そもそもこの「公案」を輪廻的世界観に立って考えることに疑問を感じるのだ。「父母未生以前本来の面目」というのは、少なくとも自分の「過去生」を問うものではない、と思うのである。以上をふまえ、この公案から「第三夜」を読み解く解釈には、少なくともいまの時点では、従わない。
ただし、越智のこの指摘には注目しておきたい。

われわれの日常とみえているのもまた、ある祖型の反復にすぎぬかもしれぬではないか。問題は窮極において父母未生以前本来の面目に帰着するのだ。

この「祖型の反復」とは、先にも言った輪廻的世界観である。

現在の「生」は、過去の因縁の結果であり、罪の根拠も過去にある。同時にまた現在は、未来の「生」のありようの根拠でもあるのだ。
「その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている」(「第三夜」)というのは、そういうことではないか。

この物語において時間は円環している。
そう考えると、背中に負った子供から、過去の話を聞くということは、単なる祟り以上の意味を持ってくる。子供は「未来の自分」でもあり、その未来の自分から、過去に犯した罪の話を聞く。そうやって、「現在」の自分が決定されていく。

怪談の枠組みを借りつつ、漱石が提示した世界は、一種の抽象性を持ったものだった。
この「輪廻的世界観」も、円朝の『真景累ヶ淵』の「因縁」と同じものである。けれどもその表現形式は、まったく異なる地平に立っていた。

もういちど、この二種類の文章を較べてみよう。
「新吉お賤は、実に仏説で申しまする因縁で、それ程の悪人でもございませんでしたが、為る事為す事に皆悪念が起り、人を害す様な事も度々になりまする」(『真景累ヶ淵』
「その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている」(「第三夜」)

円朝の描写は、すべてを説明する。それに対して、漱石の描写は抽象的、言葉を換えると、非常に空白が多いのである。

民話などではない近代的な小説では、これほど空白が多い物語は「作品」として成立しがたい。
ただし、物語世界の舞台を「夢」と設定すると、「不思議」が「不思議」のままで、説明がなくとも、納得されてしまうのだ。それは、「夢だから」。なにが起こっても不思議はないから。
事実、夢の中で階段を上っても上ってもどこにもいきつかなかったり、大人のままの状態で小学校に行っていたり、いきなり土の中から手が出てきて足首をつかまれたりするけれど、わたしたちはそのことを不思議には思ったりしない。

笹淵友一は『夏目漱石 ――「夢十夜」論ほか――』のなかで、この「第三夜」がソポクレスの『オイディプス王』と物語構造を同じくしていることを指摘する。
オイディプスはそれとは知らないまま、自分の父である王を殺し、母である王妃を妻として子を設ける。その結果、テバイの都に災厄が降りかかる。『オイディプス王』はこの時点から始まり、災厄の原因が、自分自身の存在にあることを知った時点で物語が終わる。
確かに、この「第三夜」との類似点を指摘することは、可能である。

あるいは「聖クリストフにまつわる伝説」との類似を指摘する研究もある(大浦康介『漱石研究 第八号』1997)。さらに大浦は『ドン・ジュアン』伝説との類似、ゲーテの物語詩『魔王』との類似をも指摘する。

あるいはまた、まったく別の読み方も可能なのである。
「闇」のなかを、「森」に向かう。この「森」は異界ではないのか。
あるいは、突然出てくる「日ケ窪」、「堀田原」という固有名詞は、あるいは「文化五年辰年」は何を意味するのか。
なぜ最後に「小僧」は石地蔵になるのか。なぜ、ただの石ではなく、地蔵なのか。

この「第三夜」の祖先が怪談にあったことは、おそらく間違いはないだろう。
そうして怪談を抽象化することによって、「夢」であるからこそ可能な、空白の多い作品となった。
その空白の多さゆえに、さまざまな解釈が可能であり、どこまでいっても疑問はなくならないのだ。
同時に、抽象的な物語というのは、ある種の普遍相を有した物語でもある。それゆえに、多くの物語との類似を認めることが可能なのである。


さて、蛇足ながら、わたしはこう思う、ということで、このまとまりのない文章に区切りをつけよう。

『夢十夜』のなかには、「こんな夢を見た」ということばで始まる作品と、そうでないものとがある。
この「第三夜」は、「こんな夢を見た」で始まる。

「こんな夢を見た」のはだれか?
「自分」という言葉が文中に出てくるから、この「自分」が語っていると考えられよう。
では、「自分」はだれに語っているのか?
『夢十夜』が発表されたのは、明治41年、西暦では1908年のことである。
文化五年とは1808年。
つまり、文化五年の「百年後」というのは、この作品が発表されたその年、すなわちリアルタイムで読んでいる読者にとって、作品中の「いま」は、まさに読者が読んでいる「いま」である。
語り手である「自分」は、「いま」ここで読んでいる読者に向かって語りかけている。
そうして、語り手である「自分」が、「自分」に話しかける「子供」の言葉――同時に百年前に殺された盲人の言葉を伝えるとき、それは「語り手」でありながら、同時に「聞き手」でもある存在である。
つまり、ここで「自分」は「百年前」と「いま」をつなぐ存在なのだ。
そうして「自分」が背負っている「子供」は、未来の自分でもある。
こうやって、過去―現在―未来という円環する時間のつなぎ目として、語り手である「自分」が、読み手であるわたしたちの前に現れ、わたしたちをその円環する時間のなかに誘うのである。

(この項終わり)

暑いときにはコワイ本 ―補筆―その4.

2005-08-20 22:08:37 | 
夏目漱石『夢十夜』から「第三夜」その4.

三遊亭円朝の『真景累ヶ淵』というのは、実にさまざまな登場人物の因果が絡み合う複雑な噺なのだが、その初めの部分に、こんな場面がある。

まず、按摩で金貸しの宗悦が、貧乏旗本の新左衛門のところに貸した金の取り立てに行くが、新左衛門に手打ちにされてしまう。新左衛門は宗悦の死体をつづらに入れて、下男に捨てに行かせ、首尾良く罪を免れたのだが、奥方の具合が悪くなってしまう。ある晩、通りがかった按摩に針を打たせようとするのだが、その按摩はまだ慣れないために病人の治療はできないという。せっかく呼んだのだから、と新左衛門は肩を揉ませる事にする場面である。


 新「……アヽ痛、これ/\按摩待て、少し待て、アヽ痛い、成程此奴は何うもひどい下手だナ、汝は、エヽ骨の上などを揉む奴が有るものか、少しは考えて遣れ、酷く痛いワ、アヽ痛い堪らなく痛かった」
 按摩「ヘエお痛みでござりますか、痛いと仰しゃるがまだ/\中々斯んな事ではございませんからナ」
 新「何を、こんな事でないとは、是より痛くっては堪らん、筋骨に響く程痛かった」
 按摩「どうして貴方、まだ手の先で揉むのでございますから、痛いと云ってもたかが知れておりますが、貴方のお脇差でこの左の肩から乳の処まで斯う斬下げられました時の苦しみはこんな事では有りませんからナ」
 新「エ、ナニ」
 と振返って見ると、先年手打にした盲人宗悦が、骨と皮許りに痩せた手を膝にして、恨めしそうに見えぬ眼を斑に開いて、斯う乗出した時は、深見新左衞門は酒の酔も醒め、ゾッと総毛だって、怖い紛れに側にあった一刀をとって、
 新「己れ参ったか」
 と力に任して斬りつけると、
 按摩「アッ」
 と云うその声に驚きまして、門番の勘藏が駈出して来て見ると、宗悦と思いの外奥方の肩先深く斬りつけましたから、奥方は七転八倒の苦しみ、
 新「ア、彼の按摩は」
 と見るともう按摩の影はありません。
 新「宗悦め執ねくもこれへ化けて参ったなと思って、思わず知らず斬りましたが、奥方だったか」

呼んだ按摩がいつの間にか宗悦になりかわって喋りはじめる。そこで斬りつけると、それは奥方に変わっている。
第三夜のなかでの背中の子供がいつのまにか盲目になっており、その口調も大人のものになっている、というのは、こうした怪談ものの一種の常套なのである。

ここでもういちど、第三夜の冒頭を見てみよう。

 こんな夢を見た。
 六つになる子供を負ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。


円朝の筆記本と比較してみると、両者のちがいは鮮明である。
怪談が、恐怖感を非常に現実的、具体的に煽っていくために、ある種の肉体的な不快感を感じてしまうのに対して、ほとんど同じような情景を扱っているにもかかわらず、漱石の作品は、幻想的で、肉体的な感覚を一切伴わない。極彩色の絵双紙と、水墨画ほどの差がある。
あるいはまた、按摩の姿が宗悦になりかわっていくのも、それがいつの間にか奥方になっているのも、宗悦の怨霊の仕業であることは疑いの余地もないのだけれど、それに対して漱石の文章には空白が多く、読者に対して想像の余地が広く開けられているのだ。

しかも、「累ヶ淵」のほうでは、物語ができごとの時間軸に沿って語られるために、なぜ宗悦が祟るのか、一切の疑問の余地なく明らかであるのに対し、「第三夜」では、「自分」が百年前に盲目を殺したという記憶は、子供(子供に取り憑いた怨霊)との会話を通して明らかになっていく。そうして、明らかになった瞬間、子供は石地蔵になって(鶴屋南北の歌舞伎『東海道四谷怪談』の最後の場面で、お岩の抱いた赤ん坊が石地蔵に変わる、という場面がある)この作品は終わるのである。

以上のことから、漱石は怪談に題材を取りつつも、時間軸を解体し、構造を転換させて、空白を広げていったのだ、と言うことができる。その結果、描かれた恐怖は、具体的な要素、不快感とも結びつく肉体的な要素は排せられ、抽象的な、一種透明な恐怖となっていったのである。

では、「自分」はなぜ百年前に盲人を殺したのだろうか。

(この項つづく)

暑いときにはコワイ本 ―補筆―その3.

2005-08-19 22:40:16 | 
夏目漱石『夢十夜』から「第三夜」 その3.

笹淵友一は『夏目漱石 ――「夢十夜」論ほか――』のなかで、まず、伊藤整のいう「原罪的」を批判する。

「原罪」というのは、そもそもキリスト教的な概念で、人間の始祖アダムが犯した罪が、子孫である人間全体に帰せられる」というものである。つまり、人間が人間である限り、始祖アダムの犯した罪の責任を負っていく、ということである。
原罪というのは、罪の自覚であり、「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」と言われて「おれは人殺しであつたんだなと始めて気が附いた」という「自分」は、
1.指摘されるまで罪の意識を持っていなかった、という点から考えて、原罪を自覚していたことにはならない
2.「おれは人殺しであつた」という罪意識と、人類の歴史を貫く根源的な罪である原罪とは、異質である
という二点から、「原罪的」という考察を退ける。

ついで荒説の「父親殺し」に関しては
1.確かに漱石自身は父親に対して「おやぢが死んでも悲しくも何ともない」というほど醒めた気持ちを持っていたが、それは憎悪という否定的な情熱でもなかった
2.「父親殺し」の願望を、暗に描いたものであるとするならば、父親の代替がなぜ盲目という肉体的な条件を持っていなければならなかったのか、なぜ文化五年辰年という百年前の過去でなければならなかったのか、という疑問に対する答えがない
として、この「父親殺し」も退けるのである。

「自分」が背負っている六つになる男の子が、「たしかに自分の子」であるにもかかわらず、「不思議な事にはいつの間にか眼が潰(つぶ)れて、青坊主(あおぼうず)になっている」という謎は、「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」という言葉によって解ける。つまり、盲目でなかった子が、百年前に自分が殺した盲目の亡霊にとりつかれて盲目になっていたのであり、子供の盲目は、自分が殺した盲人の祟りのためだった。

そう考えるとこの話の性格が、非常に鮮明になってくる――怪談である。

この「第三夜」は、「近世末期から明治初頭にかけての文学・演劇の一様式としての怪談噺」から着想を得たものではないか、と笹淵は言うのである。
具体的には河竹黙阿弥『蔦紅宇津谷峠』、鶴屋南北『東海道四谷怪談』、三遊亭円朝『真景累ヶ淵』などに示唆を得たのではないか、という相原和邦の指摘(※この具体的な内容に関しては未見のため不明)を紹介している。

即ち第三夜の着想の機縁は漱石自身の夢にあったとしても、構想そのものは戯作者や噺家に負っており、問題はこれを「如何に」芸術化するかにあったにちがいない。周知のように、南北、黙阿弥、円朝らの江戸末期から明治初年にかけての怪談物は頽廃的で陰惨な叙述や描写に傾く。その恐怖感は官能に直接迫り、不快感が混じる。漱石が第三夜において企てたのは、怪談の中からこの不快な不純物を除き去り、官能よりも想像に豊かな余地を残したものを創造することだったと考えられる。


では、ここから「第三夜」のなかに織り込まれたさまざまな「怪談」を、具体的に見ていくことにしよう。

(この項つづく)

暑いときにはコワイ本 ―補筆―その2.

2005-08-18 22:29:43 | 
夏目漱石『夢十夜』から「第三夜」

さて、ここで笹淵の『夢十夜』論に入る前に、この作品全体のアウトラインをたどっておくのは無駄ではないだろう。

第一夜:夢の中で女が百年たったら逢いに来る、と言って死ぬ。「自分」が百年待っていると女が白い百合となって帰ってくる。

第二夜:「自分」は侍である。禅の公案を与えられて悟りを開こうとするが、和尚に罵られる。つぎの刻までには悟り、悟った上で和尚の首をとるか、悟れない場合は自刃しようと考えるが、悟りも開けず自刃の機も逸したまま刻限がくる。

第四夜:「自分」は子供で、白い髯の爺さんを見ている。爺さんは手拭いを蛇にしてやる、と笛を吹くが、手拭いは動き出さない。そのうち爺さんは河の中へざぶざぶ入ってしまって、それきり上がって来ない。

第五夜:「自分」は戦に敗れて、降参を拒んだために殺されることになる。死ぬ前に、一目思う女に逢いたいと願うと、敵将が鶏が啼くまでなら斬るのを待とう、と言う。馬に乗って女の下に駆けつけようとするが、途中、天探女(あまのじゃく)の鳴き真似を鶏とまちがえ、手綱さばきを誤って淵に沈む。

第六夜:護国寺の山門で運慶が仁王を刻んでいるのを、見物人が見ている。「若い男」が、彫刻とは「掘り出す」ことだ、と言うので、「自分」も彫ってみようとしたが失敗して、「明治の木には到底仁王は埋まつてゐない」と諦める。

第七夜:どうも「自分」は大きな船に乗っているらしい。意味もなく西へ向かう果てのない旅に疲れた「自分」は、海に身を投げる。飛び込むが、足は容易に水に届かない。「無限の後悔と恐怖」を抱いた男を置いたまま、船は去っていく。

第八夜:「自分」は床屋の鏡の前に坐っている。鏡に写った女が札を数えているのだが、その札は尽きることがない。椅子から立ち上がってそちらを見ると女の姿がない。外に出ると、床屋が言っていた金魚売りがいたが、金魚売りはまったく動こうとしない。

第九夜:若い母親が三つになる子供をおぶってお百度参りに行き、侍の夫の無事を祈る。ところが夫はすでに浪士に殺されていた。「自分」は「こんな悲しい話を、夢の中で母から聞いた」

第十夜:庄太郎が果物屋の店先にいると、美女が現れ、果物籠を買う。閑人で女好きの庄太郎は、果物籠を持ってやろう、と同行する。行きついた先は断崖絶壁。ここから飛びこんでご覧なさい、と女に言われる。尻込みしていると女は、飛びこまなければ豚に舐められる、と脅す。命には替えられないと思っているところへ、豚がつぎつぎに現れる。庄太郎はステッキで豚の鼻面をつぎつぎ叩いて、断崖から落としていくが、七日六晩目に力つき、とうとう豚に舐められて、絶壁の上に倒れてしまう。

こうして全体を見てみると、漠然とした不安、そこはかとない悲しみ、いくつかの夢に繰り返し出てくる水や、落下のイメージはあるけれど、第三夜を除けば、「原罪的不安」あるいは「父殺し」を読みとるのにはいささかムリがあるような気がする。
おそらくはそうした「原罪的不安」も「父殺し」も、「第三夜」からきたものではないか。

『夢十夜』という作品全体ではなく、そのなかのひとつをことに強調して全体へ敷衍していく、というやりかたは、解釈の方法としてはあまり適切なものではないだろう。

加えて、『夢十夜』を漱石が見た夢の告白である、と受け取ってもよいものだろうか、という疑問がある。

確かに書簡のなかで、自分が忘れていた、過去の「人殺し」を公表されて閉口した、ということを書いていたとしても、これは漱石自身が見た「夢」の告白と理解するよりは、むしろ、「夢」という形式を借りることによって、現実の足かせを外したところの、自由な想像力による創作と考えるべきなのではないか、ということである。
完全な虚構でありながら、リアリティを失わないもの。
むしろそこに筋は必要ない。

彼ら(※写生文家)のかいたものには筋のないものが多い。進水式をかく。すると進水式の雑然たる光景を雑然と叙べて知らぬ顔をしている。飛鳥山の花見をかく、踊ったり、跳ねたり、酣酔狼藉の体を写して頭も尾もつけぬ。それで好いつもりである。普通の小説の読者から云えば物足らない。しまりがない。漠然として捕捉すべき筋が貫いておらん。しかし彼らから云うとこうである。筋とは何だ。世の中は筋のないものだ。筋のないもののうちに筋を立てて見たって始まらないじゃないか。どんな複雑な趣向で、どんな纏った道行を作ろうとも畢竟は、雑然たる進水式、紛然たる御花見と異なるところはないじゃないか。喜怒哀楽が材料となるにも関わらず拘泥するに足らぬ以上は小説の筋、芝居の筋のようなものも、また拘泥するに足らん訳だ。筋がなければ文章にならんと云うのは窮窟に世の中を見過ぎた話しである。(『写生文』


まず、『夢十夜』を漱石の創作であると考えたい。
そこから、漱石個人の「原罪的不安」や「漱石の深淵」は見ない。
これを基本的な立場として、ここから「第三夜」を見ていくことにする。

(この項つづく)