陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ものを食べる話 最終回

2006-03-07 22:28:29 | weblog
5.「死」と「食べる」

 土曜の午後に彼女は車で、ショッピング・センターの中にあるパン屋にでかけた。そしてルーズリーフ式のバインダーを繰ってページに貼りつけられた様々なケーキの写真を眺めたあとで、結局チョコレート・ケーキにすることに決めた。それが子供のお気に入りなのだ。彼女の選んだケーキには宇宙船と発射台と、そしてきらめく星がデコレーションとしてついていた。反対側には赤い砂糖でつくられた惑星がひとつ浮かんでいた。スコッティーという名前が緑色の字で惑星の下に入れられることになった。パン屋の主人は猪首の年配の男だった。来週の月曜日でスコッティーは八つになるんです、と母親が言っても、パン屋の主人は黙って聞いているだけだった。
(レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役に立つこと』村上春樹訳 中央公論社)


レイモンド・カーヴァーの『ささやかだけれど、役に立つこと』という短編は、このような滑り出しで話が始まる。

その誕生日、スコッティーは学校に行く途中、車にはねられる。歩いて家に帰ってきたものの、そのまま横になって目を閉じてしまう。母親が急いで病院に連れて行くが、目を覚まさない。医師は軽い脳しんとうだというが、それでも目が覚めない。
「昏睡ではありませんよ」の言葉に、ずっとつきっきりだった両親は、家に帰ることにする。

まず父親が帰る。無人の家に電話が鳴っている。急いで出てみると「ケーキを取りに来ていただかないと」と電話の相手が言う。動転している父親には話の脈絡がつかめない。がちゃんとそのまま切ってしまう。そこから、電話が繰り返されるようになる。

両親が交代で帰る。家に戻るたび、電話が鳴り、「スコッティーのことを忘れちゃったのかい」とだけ言って切れることが繰り返される。ふたたび病院に戻ると、子供の容態は変わらないものの、病院側の処置はそのたびに深刻の度合いを増している。にもかかわらず、医師は「昏睡ではない」と言い続ける。

とうとうスコッティーは、目を覚まさないまま死んでしまう。
家に帰ってきたふたりを迎えたのは、またしても「スコッティーのこと忘れたのかい?」という電話。

やがて母親は気がつく。ショッピング・センターのパン屋だ。
ふたりは真夜中のショッピング・センターに出かけていく。


「本当にお気の毒です」とパン屋は言った。彼はテーブルの上に両肘をついた。「なんとも言いようがないほど、お気の毒に思っております。聞いて下さい。あたしはただのつまらんパン屋です。それ以上の何者でもない。昔は、何年か前は、たぶんあたしもこんなじゃなかった。でも昔のことが思い出せないんです。あたしが一人のちゃんとした人間だったときもあったはずなのに、それが思い出せんのです。今のあたしはただのパンを焼くパン屋、それだけです。もちろんそれで、あたしのやったことが許してもらえるとは思っちゃいません。でも心から済まなく思っています。あんたのお子さんのことはお気の毒だった。そしてあたしのやったことはまったくひどいことだった……あたしには子供がおりません。だからお気持ちはただ創造するしかない。申し訳ないという以外に何とも言いようがない。もし許してもらえるなら、許して下さい」……

「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べて下さい。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、物を食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」

 彼はオーブンから出したばかりの、まだ砂糖が固まっていない温かいシナモン・ロールを出した。彼はバターとバター・ナイフをテーブルの上に置いた。パン屋は二人と一緒にテーブルについた。彼は待った。彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。「もっとたくさんあります。いっぱい食べて下さい。世界中のロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」

 二人はロールパンを食べ、コーヒーを飲んだ。アンは突然空腹を感じた。ロールパンは温かく、甘かった。彼女は三個食べた。パン屋はそれを見て喜んだ。

レイモンド・カーヴァーの短編は、怖い。表面に現れる、現れないにかかわらず、暴力のにおいに満ちている。この作品でも、「死」というものが、まったく理不尽に襲いかかってくるものであること、さまざまなできごとが、まったく無関係に積み重なっていき、登場人物はそのなかで脈絡を見つけることができないさまが描かれる。

「死」は恐ろしい。結局は、理解することはできない。
だからわたしたちはできるかぎり、「死」を忘れよう、遠ざけようとしている。
けれども、わたしたちが身体を持っている限り、わたしたちは「死」から逃れることはできない。だからわたしたちは、自分が身体を持っていることさえ、忘れようとする。

身体は欠乏を訴える。喉が渇いた。おなかがすいた。
こうして、わたしたちは自分が身体を持っていることを思い出す。

けれども、わたしたちが、自分ではない他者を理解できるのは、身体があるからだ。相手の身体を通して、相手の存在を感じ、想像し、理解することができる。

他者が自分と同じように、空腹を感じること。
ともに食べて、同じように「おいしい」と感じること。
だからパン屋が言うように「何かを食べるって、いいことなんです」なのだろう。
言葉は、誤解もするし、人も傷つけるけれど、ともに食べることで、身体は言葉を超えて響き合う。食べることは、おそらくこの身体が交流する、ということなのだ。

「何かを食べるって、いいことなんです」

(この項終わり)