7.テクニックの問題
このあいだ、ワールドカップの予選リーグのブラジル-日本戦を見ていて思ったこと。
なんとブラジルの選手は、のびのびと、自由奔放にやっているのだろう。
それにくらべて、日本の選手は、なんと不自由のうちにあるのだろう、ということだった。
これは楽器の演奏にも言えることで、わたしが愛してやまないドラマーのマーク・ポートノイは、あまりに自由に楽しそうにやっているので、テクニックをテクニックと意識することさえないのだけれど、よくよく聴いてみれば、いったいどうしてこんなことが人間に可能なのだろうかと思うほど、おそらく拍子の変更を示す二重線だらけにちがいない複雑な変拍子の譜面に従って、細かくすばやく変幻自在の音をたたき出している。
つまり、テクニックと自由というのは、このような関係にある。
ボールを足で蹴ることも、ドラムを叩くことも、あるいはことばを操ることも、決して自然なことではない。ある種のスキルがあってはじめて、可能になることだ。
つまり、そういうスキルを要求することにおいて、「自由である」ということは、テクニックを持つ、ということと同義なのである。
逆に言うと、その人の持つテクニックの限界が、自由の限界であるということだ。
「自由な発想」という。
けれど、何にもないところで「自由な発想」ができるものだろうか。
発想というのも、一種のテクニックではないのだろうか。
よく子供の発想は自由だ、という。
それは、発想が自由なのではなくて、逆に、知識も経験もおそろしく限られているから、因果関係の組み合わせが、大人とはまったく異なっているという、ただそれだけのことなのである。
決まり決まった発想しかできなくなっている大人の目から見ると確かにそれは新鮮だ。これも異化作用だ。
けれども、それを必要以上にありがたがる必要はない。
それが証拠に、子供の卒業文集の「おとなになった自分」のイメージは、あきれるほど乏しいものでしかない。それは、同時に子供の発想の限界を示してもいる。
自由な発想を可能にするためには、ストックが必要なのだ。
音楽を聴いて、ああ、いいなと思う。
本を読んで、おもしろかった、と思う。
絵を見て、好きだ、と思う。
深く心を動かされて、ことばで表現したい、と思う。
ところがストックのないところで、書けるとしたら、せいぜい「好きだ(キライだ)」「よかった(よくなかった)」「おもしろかった(おもしろくなかった)」ということだろう。
これはほかでもない、わたしたちの感じ方の限界を示している。
ここで「緊張感があった」「悲しみがあった」「透明感があった」といった、いくつかの類型的なことばを当てはめて、逆に自分の感じ方をそちらに押しこめることは当然可能だ。けれどもそれはわたしたち自身が、深く感じることとはなんの関係もない。
そういうとき、それについて書かれたものを読んでみる。
このほかにも、
・別の角度から眺めてみる。
・歴史的な文脈に置いてみる。
・よく似た別のものと対比させる。
・喩えを使って考えてみる。
こういった方法があるだろう。
こうしながら書いていくことで、読むことによるストックだけでなく、自分というフィルターを通したストックも増えていくのだ。
さて、明日はいよいよ最終回。
ちょっとした小技も載せておきますので、お楽しみに。
というか、役に立つかどうかはわかりませんが(笑)。
このあいだ、ワールドカップの予選リーグのブラジル-日本戦を見ていて思ったこと。
なんとブラジルの選手は、のびのびと、自由奔放にやっているのだろう。
それにくらべて、日本の選手は、なんと不自由のうちにあるのだろう、ということだった。
これは楽器の演奏にも言えることで、わたしが愛してやまないドラマーのマーク・ポートノイは、あまりに自由に楽しそうにやっているので、テクニックをテクニックと意識することさえないのだけれど、よくよく聴いてみれば、いったいどうしてこんなことが人間に可能なのだろうかと思うほど、おそらく拍子の変更を示す二重線だらけにちがいない複雑な変拍子の譜面に従って、細かくすばやく変幻自在の音をたたき出している。
つまり、テクニックと自由というのは、このような関係にある。
ボールを足で蹴ることも、ドラムを叩くことも、あるいはことばを操ることも、決して自然なことではない。ある種のスキルがあってはじめて、可能になることだ。
つまり、そういうスキルを要求することにおいて、「自由である」ということは、テクニックを持つ、ということと同義なのである。
逆に言うと、その人の持つテクニックの限界が、自由の限界であるということだ。
「自由な発想」という。
けれど、何にもないところで「自由な発想」ができるものだろうか。
発想というのも、一種のテクニックではないのだろうか。
よく子供の発想は自由だ、という。
それは、発想が自由なのではなくて、逆に、知識も経験もおそろしく限られているから、因果関係の組み合わせが、大人とはまったく異なっているという、ただそれだけのことなのである。
決まり決まった発想しかできなくなっている大人の目から見ると確かにそれは新鮮だ。これも異化作用だ。
けれども、それを必要以上にありがたがる必要はない。
それが証拠に、子供の卒業文集の「おとなになった自分」のイメージは、あきれるほど乏しいものでしかない。それは、同時に子供の発想の限界を示してもいる。
自由な発想を可能にするためには、ストックが必要なのだ。
音楽を聴いて、ああ、いいなと思う。
本を読んで、おもしろかった、と思う。
絵を見て、好きだ、と思う。
深く心を動かされて、ことばで表現したい、と思う。
ところがストックのないところで、書けるとしたら、せいぜい「好きだ(キライだ)」「よかった(よくなかった)」「おもしろかった(おもしろくなかった)」ということだろう。
これはほかでもない、わたしたちの感じ方の限界を示している。
ここで「緊張感があった」「悲しみがあった」「透明感があった」といった、いくつかの類型的なことばを当てはめて、逆に自分の感じ方をそちらに押しこめることは当然可能だ。けれどもそれはわたしたち自身が、深く感じることとはなんの関係もない。
そういうとき、それについて書かれたものを読んでみる。
このほかにも、
・別の角度から眺めてみる。
・歴史的な文脈に置いてみる。
・よく似た別のものと対比させる。
・喩えを使って考えてみる。
こういった方法があるだろう。
こうしながら書いていくことで、読むことによるストックだけでなく、自分というフィルターを通したストックも増えていくのだ。
さて、明日はいよいよ最終回。
ちょっとした小技も載せておきますので、お楽しみに。
というか、役に立つかどうかはわかりませんが(笑)。