陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

何かを書いてみたい人のために その7.

2006-06-30 22:31:27 | 
7.テクニックの問題

このあいだ、ワールドカップの予選リーグのブラジル-日本戦を見ていて思ったこと。
なんとブラジルの選手は、のびのびと、自由奔放にやっているのだろう。
それにくらべて、日本の選手は、なんと不自由のうちにあるのだろう、ということだった。

これは楽器の演奏にも言えることで、わたしが愛してやまないドラマーのマーク・ポートノイは、あまりに自由に楽しそうにやっているので、テクニックをテクニックと意識することさえないのだけれど、よくよく聴いてみれば、いったいどうしてこんなことが人間に可能なのだろうかと思うほど、おそらく拍子の変更を示す二重線だらけにちがいない複雑な変拍子の譜面に従って、細かくすばやく変幻自在の音をたたき出している。

つまり、テクニックと自由というのは、このような関係にある。

ボールを足で蹴ることも、ドラムを叩くことも、あるいはことばを操ることも、決して自然なことではない。ある種のスキルがあってはじめて、可能になることだ。
つまり、そういうスキルを要求することにおいて、「自由である」ということは、テクニックを持つ、ということと同義なのである。
逆に言うと、その人の持つテクニックの限界が、自由の限界であるということだ。

「自由な発想」という。
けれど、何にもないところで「自由な発想」ができるものだろうか。
発想というのも、一種のテクニックではないのだろうか。

よく子供の発想は自由だ、という。
それは、発想が自由なのではなくて、逆に、知識も経験もおそろしく限られているから、因果関係の組み合わせが、大人とはまったく異なっているという、ただそれだけのことなのである。

決まり決まった発想しかできなくなっている大人の目から見ると確かにそれは新鮮だ。これも異化作用だ。
けれども、それを必要以上にありがたがる必要はない。

それが証拠に、子供の卒業文集の「おとなになった自分」のイメージは、あきれるほど乏しいものでしかない。それは、同時に子供の発想の限界を示してもいる。

自由な発想を可能にするためには、ストックが必要なのだ。

音楽を聴いて、ああ、いいなと思う。
本を読んで、おもしろかった、と思う。
絵を見て、好きだ、と思う。

深く心を動かされて、ことばで表現したい、と思う。
ところがストックのないところで、書けるとしたら、せいぜい「好きだ(キライだ)」「よかった(よくなかった)」「おもしろかった(おもしろくなかった)」ということだろう。
これはほかでもない、わたしたちの感じ方の限界を示している。
ここで「緊張感があった」「悲しみがあった」「透明感があった」といった、いくつかの類型的なことばを当てはめて、逆に自分の感じ方をそちらに押しこめることは当然可能だ。けれどもそれはわたしたち自身が、深く感じることとはなんの関係もない。

そういうとき、それについて書かれたものを読んでみる。
このほかにも、
・別の角度から眺めてみる。
・歴史的な文脈に置いてみる。
・よく似た別のものと対比させる。
・喩えを使って考えてみる。
こういった方法があるだろう。

こうしながら書いていくことで、読むことによるストックだけでなく、自分というフィルターを通したストックも増えていくのだ。



さて、明日はいよいよ最終回。
ちょっとした小技も載せておきますので、お楽しみに。
というか、役に立つかどうかはわかりませんが(笑)。

何かを書いてみたい人のために その6.

2006-06-29 22:31:15 | 
6.個へ、断片へ

その昔読んだきりになっていて、本の方が見つからないのだけれど、カルチャーセンターか何かで教えた山口文憲が、「電車の中でのマナーの話はどうやってもおもしろくないから、絶対に書かない」と言っている部分があった。

おもしろくなりようのない話とは、ことばを換えれば、「自分らしく書きようのない」テーマということだ。それはどうしてなのだろう。

ヴェーユは《ことばは機械的なものであるかぎり危険です。》と言っている。

わたしたちが自分の現在感じている感情に名前をつけるとする。すると、その感情を対象として眺めることができるようになる。反面、そのことばに、逆にわたしたちの感情の方が、引きずられることもある。ヴェーユが「危険」というのは、こういうことばの使い方だ。

ある種のことばは、使われてきた歴史の中で、すでに使われ方が決まっているパターンのことばとなっている。
たとえば、「人のぬくもり」ということばがそうだ。
このことばにはすでに価値判断が含まれている。この価値判断によりかかって、安易に話を展開させることができる。容易に結末がつけられる。ちょっとした具体例をあげて、「人のぬくもりを感じた」とまとめることができる。
もちろん間違ってはいないし、反対もできない(する気にもなれない)。けれども、こうした価値判断を含んだことばというのは、類型化に抗して自分独自の考え方を織り込むことがむずかしい。

あるいは、人を「優しい人」「善人」といった類型化に押し込めてしまう。「無垢な子供」、「守銭奴」、「頭はいいけれど人間味のない人」……。
いったんそういうことばを人に対して当てはめてしまうと、その人をその相でしか見ることができなくなってしまう。そうして人を性格の類型でとらえるとき、わたしたちはその人を具体的に見ることをやめてしまう。

類型的な人間が登場する話は、類型的な物語以外になりようがない。
そういうものは、決して「自分しか書けない」話にはならない。
ヴェーユは言う。

《人間は、一般的なものから個別的なものへ、抽象的なものから具体的なものへと高まっていくものなのです》

新学期になって、新しいクラスに入る。クラスの子は、みんな「クラスメイト」でしかない。男子、女子、眼鏡をかけている、髪が長い……そういうところから始まって、わたしたちは、相手のことを徐々に具体的に知っていく。

「物が抽象から抜けだして具体のなかへ移行するのは、もっぱら感情のおかげです」

わたしたちが、世界にただひとりしかない、かけがえのない相手、と思う対象は多くはない。そうして、そう思う相手が現れたとき、わたしたちはその相手のことを知りたいと思う。それは類型的なことばに押し込めようとすることでも、レッテルをはったりすることでもない。どんなことばでもその人を現すことはできないし、どれほど時間を共にしても、理解できない、もっと知りたい、と思う。

《このように、人がふつう考えているのとは反対に、個々の物について観想するということは、人間を高めることであり、人間を動物から区別することでもあります。》

このヴェーユのことばを実践にうつすとこうなっていく。

 生きている個人を捉えるためには、ある特定の時間と場所における、ある具体的な、表情、行動、服装、会話、その他、もろもろのハプニングにも等しい細部(=断片)を書くことが必要です。具体的な裏づけがあってはじめて抽象的な類型化も読者に対して説得力を持つのです。
梅田卓夫『文章表現四〇〇字からのレッスン』


具体的に見るということはどうやって可能になるのか?
それは、その人の仕草や動作、外見の様子を文章にしてみるということだ。
頭の中で考えれば文章は書けるわけではない。紙の上に書きつけて、あるいはキーボードを叩いて液晶画面に文字として浮かび上がらせて、はじめて文章が浮かび上がる。
断片から書いていく。

「電車の中でお化粧をする女子校生」と書けば、価値判断をつれてくる。
「真剣このうえない顔で、片手持った鏡をのぞきこみながら、もういっぽうの手首を奇妙な角度に曲げて固定して、まぶたのうえに黒い太い線を一気に引いた」と書けば、価値判断からも、類型化からも、自由になることができる。
この断片は、ほかの断片とつながることで、新たな意味を持ち始めるし、全体へ向けての想像を誘うのだ。

(この項つづく)

何かを書いてみたい人のために その5.

2006-06-28 22:13:07 | 
5.自分が宿る文章

ちょっと前に、「「事実」とは何だろうか」という文章を書いたのだけれど、そのなかでわたしは「事実」とは決してひとつではないこと、そうして、コミュニケーションの根本にあるのは、自分にとっての「事実」が、ほかの人にとっても「事実」であるということを確かめたいという欲望なのだ、ということを書こうと思ったのだった(ああ、そういうことだったのか! と思った人は手を挙げて)。

わたしたちが何かを読むということもこの確認作業だし、文章を書こうとするのも、自分が見たり経験したりしたことを、文字に書きつけて、まず自分が確認したい、そうして、それをもとに、コンセンサスを得たい、という欲望だ。

文字に書き表す。
ことばが世界に出現する。
わたしたちは、それを見て、確かめることができる。

紙の上に出現させた「わたしの考え」。

シモーヌ・ヴェーユは『哲学講義』のなかで「人はそれぞれことばを用いることによって、条件反射をこうむりもし(犬のように)、また同時に条件反射を生みだしもします(パブロフのように)」と書いている。

書きつけたことばに、自分自身が条件反射を受けることもある。
好きな人ができて、日記を書く。一日の出来事を思い出しながら、相手のちょっとした仕草を思い出し、ことばに書きつける。
それが楽しいのは、その出来事を、紙の上に、あるいはパソコンの画面に、ことばとしてもう一度出現させることができるからだ。そうして書きつけたことばは、ヨダレを垂らす犬にとってのベルの音、紙の上の文字でしかないのに、相手を思い出させるものとなる。

あるいは、今日食べたカレーがすごくおいしかったので、「おいしかった」と書く。「シーフードカレーでイカとアサリの味がカレースープになんともいえないコクを出していて、全体にサラッとしているのだけれど、スープを飲み終わったときに後口に残る風味が辛いだけじゃなくて余韻があって、どうしてももう一口飲みたくなる」と書いてみる。
これを読んだ人は条件反射のように、ヨダレが口のなかに溜まってくる(でもないか)。

ことばなのに。
実体などどこにもない、ことばでしかないのに。
自分が紙の上に出現させたことばが、自分の外に存在し始める。そのことばが逆に自分や他人に影響を及ぼしていく。

出現させたことばを目で見ながら、このことばでいいんだろうか、これはちょっとちがうな、と手直しする。
そうすることで、自分の考えは、よりはっきりしたものになっていく。深くもなっていく。
だからこそ、できあいのことばを、文章を、連れてきてはいけないのだ。

世に言う「名文」を崇拝してはいけないのは、この点にある。
「名文を書き写して自分のものにする」? 冗談言っちゃいけない。
これは、文章があくまでも脱ぎ着できる衣裳で、自分の考えはしっかりと別にある、という誤解から生まれた妄言でしかない。
自分の考えは、この書いては直し、また読んで書き直す、のプロセスのうちにしか生まれてくるものではない。

「世の中には“名文”と呼ばれるものがある。練達の書き手が残した“奇跡的な”文章である。このような文章は初心者にはとうてい無理だけれども、せめてそれを模範にして、それなりの文章が書けるようになろう」というのが名文崇拝主義です。「ついてはここに、ある人の書いた(と匿名がきます)ダメな文章がある。どこを直したら“名文”に近づけるか考えてみよう」ということばが続くでしょう。

 このような文章指導は、明治以降現在にいたるまで行われてきました。学者や詩人・小説家の文章を“名文”として神格化することによって、初心者や一般人の文章を、無言のうちにおとしめるのです。神格化のために並み並みならぬ努力が強調されます。高名な作家が文章作法修得のためにはらった努力が伝説化されます。「文は人なり」とか「文章に全人格を賭ける」「全身全霊をかたむける」などという大げさなことばが使われるようになります。

 文章と作者その人の混同がおこり、すぐれた文章を書くためには立派な人にならなければならない、人格を研いて初めて立派な文章が書けるといいふらされます。文章を学ぶことが、「文章修行」とか「文章道」とか「修練」などという、まるで仏道修行のようなことばで表されてきました。

 こうして、多くの初心者が脱落していき、それでも残った少数者がやがて“名文”の書き手として君臨するようになるわけです。永年、このような図式が支配してきました。

 でも現在は少しずつ崩れはじめています。文章はもう選ばれた少数者のものではないからです。
梅田卓夫『文章表現四〇〇字からのレッスン』


自分のことばを見つける。自分の組み合わせを見つける。手直しする。別の角度から見る。また書き直す。そのプロセスのうちにしか、自分の文章は生まれないし、自分の考えも生まれないのだ。

(この項つづく)

何かを書いてみたい人のために その4.

2006-06-27 22:21:28 | 
4.「自分だけ」はどこにある?

「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書く」

それを目指して、何を書こうかと考える。
ところが、たいていのことは、すでにだれかが考えてしまっている。何かを言っている。
もはや「自分にしか書けない」ネタなんて、この世に存在しないんじゃないか。
あ、そうか、自分に起こったことを書けばいいんだ。世界に一人しかいない自分に起こったことは、どう考えたって、自分にしか書けないもんな。
そう考えて書いていく。
あれ、おかしいぞ。自分に起こったことのはずなのに、なんでこんなありきたりの展開になるんだろう?

この方法が間違っているのは、「自分にしか書けない」をネタに求めた点にある。
ほとんどの小説は「人が生まれました。生きて死にました」という物語だ。それでも、あれほどさまざまなヴァリエーションがあるのはどうしてだろう? ラブ・コメディものの映画は、ほとんどすべてがボーイ・ミーツ・ガール(男の子が女の子に会う物語)だ。それでもだれも飽きずに見るのはどうしてだろう?
それは、語り方が千差万別だからだ。

「自分にしか書けない」もそういうことだ。
内容が「自分にしか書けない」ものではない。多くの場合、それはすでにだれかが考えてしまっていることだ。
そうではなくて、それを「どのように語るか」なのだ。
ありふれたことばを組み合わせる。その組み合わせには、無限の可能性がある。

現代音楽家のジョン・ケージは、対談のなかでこんなことを言っている。

かつて音楽は、まず人々の――特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。
(ジョン・ケージ『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』青山マミ訳 青土社)

わたしたちが書こうとするのも、これと同じだ。わたしたちはどこかで、書こうとするものが頭の中に存在すると思っている。紙の上に書きつけられて、自分が目で読む以前に、それを知ることができると思っている。
けれども、ほんとうはケージが言うように、あらかじめ頭の中などにはないのではないだろうか。
書きつけた文章を読みなおし、さらに「自分」の気持ちに沿うように、手直しする。そうやってもう一度読む。さらに手直しする。

さらに、ケージのことばはこのように考えることもできる。
わたしたちは、どこかに「確固とした揺るぎのない真実の自分」がいるような気がしている。「自我」と言ってもいいかもしれない。わたしたちの行動は、この自我の思考によって定まっている。
あるいは、「自分探し」ということばにしてもそうだ。どこかに「ほんものの自分」がいると思い、それを探そうとしているのだ。

けれども、「わたし」は孤立して生きているわけではない。
同じ「わたし」が、相手によって、場によって、めまぐるしく変わっていく。言うこともちがえば、言葉遣いだって、動作だってちがう。
それをすべてひっくるめての「わたし」なのだ。
そうした「わたし」を定義づけようと思えば、「○○さんではない」「△△さんでもない」「××さんとはちがう」という形でしか言うことができない。

あらかじめ存在しているわけではない「自分の考え」を、紙の上に書きつけることで、とりあえず世界に出現させる。そこから、「これはちょっとちがう」「これもちょっとちがう」と書き直しつつ、作り上げていく。
そうすることによって、その文章は、しだいに「自分にしか書けないこと」に近づいていく。

(この項つづく)

何かを書いてみたい人のために その3.

2006-06-26 22:31:07 | 
3.「自分」って何だろう

わたしたちが誠実な書き手であろうとすればするほど、この問題がのしかかってくる。

誠実でない書き手というのは、「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」だ。
これは、新聞や雑誌や本で繰りかえし書かれていることを、そのままになぞっているにすぎない。こんな文章は借り物だから、いくらでも書ける。
借り物の文章は、借り物の思想を連れてくる。そうして、いつの間にか、自分の考えであるように錯覚してしまう。「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」の怖ろしさは、そんなところにもある。

わたしたちは、具体的な、顔の見えるだれかにそんなことが書けるだろうか?
この世にたったひとりしかいない相手に、自分を知ってほしい。
できることなら、この自分を好きになってほしい。
そういうときに、わたしたちは「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」は書かない。自分が知ってほしいのは、世界にたったひとりしかいない自分に起こった、そのとき一回限りの出来事だ。

書きたいことはある。そのように感じているのは、この自分だけだ。
それでも、それをことばにしようとするとき、どうしてもその間に「ずれ」が起こる。それはあたりまえだ。どんなに個人的に起こった事件であっても、私的な感情も、わたしたちは辞書に載っている「一般的な」ことばを使うしかないからだ。

けれども、それを文章にするときは、ことばを無限のパターンをもって恣意的に組み合わせることができる。
ありきたりの辞書に載っている一般的なことばが、恣意的な組み合わせによって、命を吹きこまれる。「自分にしか書けない」というのは、この組み合わせを見つける、ということなのだ。

書いているうちに、だんだんわからなくなってくる。
「ほんとうの自分」はどこにいるんだろう?
そんなものは、ことばにはつなぎ止められない。ことばにならないから、自分でもよくわからない。
だから、文章にしてみるのだ。
ちょっとちがうな。手直し。もう少しちがうふうに書いてみよう。やっぱりちがう。手直し。
そうするなかで文章は徐々に「自分にしか書けない」ものに近づいていく。

読み手を決めるというのは、そういうことだ。
読み手のことを意識すればするほど、どうでもいいことは書けなくなる。「自分にしか書けないことを、あなたにだけはわかるように」書こうと思う。
ここで、「書いたもの」は、書き手からはなれ、独立した作品になる。

それがどんな文章であれ、読み手に宛てて書いたものは、作品なのである。
そうして、作品は作品である限り、評価を受ける。

実は、自分が意識していないだけで、日常生活でもわたしたちは評価を受けているのだ。
自分が言ったことに対して、相手が腹を立てた。それは、自分のことばが、「怒り」という評価を引き出したからだ。
自分が相手によかれとやったことに対して、相手は困ったような顔をした。それは、自分の行為が「困った顔」という評価を引き出した、ということだ。
そうして、その評価は、つぎの評価につながっていく。あの人とまた会ってみたい。あの人とはもう話したくない。それはすべて、自分に対する評価ということになっていく。
それは、あいつが勝手にやったことじゃないか。
そう思うかもしれない。けれども、評価というのは、どこまでいってもそういうことなのだ。相手はかならずしも自分に寄り添ってはくれない。相手は、相手の都合で、恣意的に評価する。
そうして、わたしたちも同じことを、相手に対してやっている。
わたしたちのコミュニケーションというのは、つねにこの評価の積み重ねでもあるのだ。

文章もまったく同じだ。
自分が書いた文章は評価を受ける。そうして、読み手は必ずしも自分の意図を正確には読みとってくれないかもしれない。けれども、それを覚悟すること。引き受けること。評価する-される、の関係に身を置くこと。せんじつめれば、それが「文章を人に向けて書く」ということなのだ。

(この項つづく)

何かを書いてみたい人のために その2.

2006-06-25 21:55:40 | 
2.自分にしか書けないもの

「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書く」
目標は決まった。
それではいったい何を書いたらいいのだろう。

「今日、わたしは……」
あれ、おかしい。
自分のことを書いているはずなのに。
まぎれもなく、今日、自分が体験したことなのに。
自分で書いていながら、ちっとも自分のもののような気がしない。

わたしにしか書けないものはいったいどこにあるのだろう。
何を書いたら「わたしにしか書けないもの」になるのだろう。

考えれば考えるほどわからなくなる。

海を見た。日がきらきら反射して、うっとりするほどだった。
だけど、それを書こうとしても、どこかで見たような文章になってしまう。

でも、これはあたりまえのことなのだ。
わたしたちが書こうとしているのは、「ことば」だ。
「ことば」は、「もの」そのものではない。
そうして、「書かれた文字」は、「ことば」そのものでもないのだ。
わたしたちが書いている「ことば」は二重に人工的なものだ。

この「ことば」を使って、わたしたちは何ができるのか。そのことをまず見ておこう。

◆「ことば」にできること

シモーヌ・ヴェーユは『哲学講義』のなかでこのように言っている。

《ことばが操作しうるものである》

《私たちはことばのおかげで、どんなものでも呼びおこすことができます。ことばはこうして私たちを能動的な存在に変えます。》

わたしたちは、現実の太陽や星に対しては、何をすることもできない。けれども「太陽」ということばや、「星」ということばに対しては、どのようにも操作できる。西から昇らせることもできれば、太陽に、だれかを、あるいは何ものかを象徴させることもできる。太陽がなぜ燃え続けているかを説明することもできる。太陽のことを語りながら、まったく別のことを語ることもできる。なんでもできるのだ。

《ことばは私たちに不在であるすべての事物をもたらしてくれます。》

いまは会うことのできない人を、もちろんことばなしで、思い浮かべることもできるけれど、その人がどんな人なのか、過去にどんなことがあったのか、自分はそのときどう思って、いまはどう思っているか、ことばなしでは正確に呼び起こすことはできない。

ことばがなければ、いまのこの思いと、過去の思い、そうして未来を結びつけることもできない。

ことばがなければ、いまあることを結果と見て、過去をさかのぼって原因を探り当てることもできない。

つまり、ことばは世界をつくりなおすことをわたしたちに可能にしてくれるのだ。

ことばは何ら、実体を伴うものではない。
だからこそ、なんでも言える、なんでも書ける、そうして、言わないことも、書かずにいることもできるのだ。

◆なぜ、「ことば」を書くのだろう

そういうことばを書きつけることによって、そこに留めておくために。
別の言い方をすれば、「書く」ということは、もともと読み手を想定しているということだ。たとえ日記でも、それは「未来」の自分に向かって書いている。

『文章表現 四〇〇字からのレッスン』にはこうある。

私たちが書く文章は、本人が自分を他者に向かって〈このように見せたい〉というフィルターにかけて選択した、結果としてのことば(表現)なのです。


◆「だれに向かって書くか」を決めてみる

まずはここから始めてみよう。
「わたし」は誰に向けて書いているのか。
特定の人でもいい。
未来の自分でもいい。
特に思い当たらなければ、「ミステリをかなりよく読んでいる人」、「英語の翻訳を勉強している人」、「明治期の日本の小説に興味のある人」、「試験監督」、だれでもいい、できるだけ具体的に読み手を考える。

意識していなくても、「文章を書く」ということは、読み手をどこかに設定しているということだ。
それをはっきりと自分で定めてみる。
そうすることによって、逆に「書いている自分」の位置が決まってくるのだ。

(この項つづく)

何かを書いてみたい人のために その1.

2006-06-24 22:22:53 | 
わたしたちは、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たり、忘れられないような出来事を経験したりしたようなときには、忘れたくないと思うし、それだけでなく、記録に留めておきたい、そうすることで、繰りかえし味わってみたい、と思う。

おもしろい本を読んだあと、それに触発されて、自分も何か書いてみたい、と思ったり。
何かを読んで、それはちがう、自分はそうは思わない、と思ったり。

特に記録しておかなければならないようなことがあったわけではないのだけれど、単に、何かを書いてみたい、と思うこともある。

ただ、うまく書けない。
どんなふうに書いたらいいかわからない。
何を書いたらいいのかわからない。
書きたい気持ちはあるのだけれど……。
こんなことはだれかほかの人が言ったことの焼き直しじゃないのか。

そういう人のために、さまざまな書くための指南書がある。
感じたままを書く。
5W1Hをはっきりさせる。
天声人語を(あるいは名文とされている文章を)書き写す。
いくつかのきまりを身につける。
ボキャブラリを増やす。

書いてあることは、どれもみな似たようなことだ。

けれども、そんなことをしたって、ちっとも書けるようにはならない。
あたりまえだ。
そんなもので書けたら、苦労はいらない。

わたしはプロフェッショナルの書き手ではないし、文章がたいしてうまいわけでもない、というか、どういうのが「うまい」と言われる文章なのか、「名文」とはどんなものなのか、よくわからない。
自分が書く文章はしょっちゅうねじれるし、意味不明のことも書くし、自分が書いたことなのに、あとになって読み返して、ああ、そういうことだったのか、と発見することさえある。

それでも、書くことによって、逆にさまざまな本を少しでも深く読もうとしてきたし、書くことによって逆に考えを深めていった。わたしにとって、「読む-書く-考える」はひとつながりのことだし、読むことについて考えてきたように、書くことについても考えてきた。

そういうなかで感じるのは、一般に言われる「文章の指南書」なんて、くそくらえ、ということだ。

ならば「好きなように」書いて良いのだろうか。
「自由に」書いて良いのだろうか。

もちろん好きなように書いて書けるのなら、かまわない。
自由に書いて、いくらでも書けるのなら、それでいい。

ここではとりあえず、
・何か書きたい、という気持ちはあるのだけれど。
・既存の「文章指南」はいまひとつピンと来ないのだけれど。
・どういうふうに書いたらいいのかわからない。
という人をおもな対象としようと思う。

おもに依拠することになるのは、梅田卓夫『文章表現 四00字からのレッスン』(ちくま学芸文庫)なので、そっちを読んだ方がてっとりばやい、と思われる方は、どうぞそうしてください。

1.めざすもの

まず、梅田卓夫は前掲書で「よい文章」の定義をこう定める。

よい文章とは
①自分にしか書けないことを
②だれにもわかるように書く
ということを実現している文章。


なんだ、あたりまえじゃん、って思うでしょ。
だけど、これはそんなに当たり前でも、簡単なことでもない。

では、つぎの四つのなかで、一番良いものと、一番悪いものを選び出してみてください。

①だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章。
②自分にしか書けないことをだれにもわかるように書いている文章。
③自分にしか書けないことを自分だけにわかるように書いている文章。
④だれでも書くようなことを自分だけにわかるように書いている文章。

もちろん、目指しているのは②だから、一番良いものは②だ。
じゃ、つぎに良いのは?

一般的に「良い」とされるのは、①だろう。
けれども梅田は「真に問題なのは」①である、という。

これはほかのふたつに比べると、比較的マシなように思える。いわゆる「文章指南」にある「5W1H」なんていうのは、こうした文章を奨励しているようにさえ思えるかもしれない。とりあえず、この①ぐらいの要件を満たすような文章を書きたい、と思っている人もいるかもしれない。

梅田は「このような文章ばかり書いて(書かされて)いると、文章を書くことが嫌いになってくる。楽しくなくなってくる」としか書いていないのだけれど、ここではその理由を考えてみたい。

どうして「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」が駄目なのか。

一番ありがちなのが、新聞の投書欄にあるような文章だろう。

「電車の中でさわぐ子供がいた。親は注意しようともしない。最近の親というのはまったく。」

こういう文章をあなたは読みたいですか?
やだよね。
なんで読みたくない?
それは、読まなきゃいけない理由がないからです。

③の「自分にしか書けないことを自分だけにわかるように書いている文章」、ときには④の「だれでも書くようなことを自分だけにわかるように書いている文章」、これはわたしもよく書いてしまうのだけれど、考えながら書くことをやっていくプロセスでは、不可避的に出てくるものなのだ。こうした試行錯誤は、むしろ大切なことだ。

たとえば、この文章を見てほしい。

文学に於て、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣(こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。
(太宰治 『如是我聞』)

これはおそらく、文章にする前に、あらかじめ太宰の頭の中にあったことがらではない。おそらくこれは口述筆記によるものだと思うのだけれど、ともかく、文学とはどういうものか、語ろうとするうちに、太宰がいきついたのが「心づくし」という言葉なのだ。

文学を「ありがたさ」「うれしさ」という角度から、普通はだれも見たりしない。「心づくし」が「最も大事」というのも、太宰だけだ。
この部分だけとりあげると、、確かに「誰にでもわかる」文章ではない。
それでも、「自分にしか書けないことを自分だけにわかるように書いている文章」として、あっちへいったり、こっちへいったりしながら進んでいるうちに、やがて「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書いている文章」という地点へと続いていく。

それにたいして「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」は、一見、この太宰の言う「心づくし」があるかのような気がするのだけれど、その実、書き手ができあいの考えを右から左へ移しているだけの、「心づくし」のまったくない文章なのだ。「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」は、書き手の顔も見えなければ、読み手である自分のことも、書き手の眼中には入っていない。

「だれでも書くようなことをだれにもわかるように書いている文章」の最たるものが、電化製品の取扱説明書だろう。
どうしてあれがおもしろくないのか。
さらに、もう少し言ってしまえば、読んでもよくわからないのか。
それは書き手の顔も見えなければ、書き手の目に、読み手である自分の姿が映っていないからなのだ。

「自分にしか書けないことをだれにもわかるように書く」
目標は、そこだ。
そこに向けて、しばらく書いていくので、良かったらおつきあいください。

(この項つづく)

日付のある歌詞カード #6 "Lazarus"

2006-06-23 22:44:58 | 翻訳
日付のある歌詞カード #6 "Lazarus"
~ポーキュパイン・ツリーの“ラザルス”を聞いて、エピファニーを思う

音楽を聞くことは、一般に、受け身の行為であるように考えられている。

もちろん、人を立ち上がらせ、踊らせるような、あるいは、鼓舞するような、あるいは、拳を突き上げさせるような音楽もある。そういう音楽は、まったく受け身で聞いていても、はっきりとその意味が伝わる。

けれども、対話のような音楽というものも、確かにあるような気がする。

音楽というのも、やはり本を読んだり、絵を見たり、写真を見たりすることと同じで、結局は、聞き手がその音楽を理解したいと願うことだろう。音や、言葉や、色や、像によって、その作品を理解し、同時に理解しようとする自分を理解するものなのだろう。

明確な意味を伝えようとする音楽は、あまり対話の余地がなくて、一方的にその意味が向こうから来る。演奏者はその意味を、あくまでクリアに、説得力を持って伝えることに意識が向けられる。だから聞き手は、結局はその意味を消費するだけに終わってしまう。だから、聞き手は消費しつくしたら、聞くのをやめてしまうのだ。

けれども、対話としての音楽というのは、聞き手がそれを受け取ってから、自分のなかに落とし、自分の内部で意味のある言葉としてもういちど作り上げていくことを要求する。

この〈ラザルス〉は、大声で叫ぶ音楽ではない。低い声で語りかけるように、聞く人に、もっと中に入ることを呼びかける。

* * *

ラザルス


窓の外を影のような街が流れていく
そのとき、急に霧のむこうから洗い清められたような月が見えた
そうして、ぼくの頭の中に聞こえてきた内側のさまざまな声のなかから、ひとつの声が響いてきた
声が語りかける

「谷へおりるわたしのあとについてきなさい。
さあ、月の光はあなたの魂から流れ出しているのですよ」

ねじ曲がった連中の願いにさからって、ぼくは生き延びてきたのだ
そうして、音を失ったぼくの世界を静寂が貫いていく
声が語りかける

「谷へおりるわたしのあとについてきなさい。
さあ、月の光はあなたの魂から流れ出しているのですよ」

「谷へおりるわたしのあとについてきなさい。
さあ、月の光はあなたの魂から流れ出しているのですよ」

「わたしの友よ、あなたは心配しなくてよいのです
この冷たい世界は、あなたにはふさわしくないのだから

だから頭をわたしにあずけなさい
あなたを抱いてゆくことなどわたしにはわけはないのだから」

(二十年代の亡霊があなたを抱えたまま黄金の夏に舞い上がっていく)

「谷へおりるわたしのあとについてきなさい
さあ、月の光はあなたの魂から流れ出しているのですよ
ラザロよ、いらっしゃい
わたしたちと共に発つ時が来たのです」


http://video.google.com/videoplay?docid=-1398726374972805896でライブ映像を見ることができます。

* * *

見慣れた光景が、どうしたはずみか、不意にまったくちがうように、新鮮でありながら、同時に自分に親しく、まるで自分がその光景の一部であるかのように、あるいはその光景が自分の身の延長にあるように感じられた経験はないだろうか。

あんまりこういうことを神秘体験めかして言うのは好きじゃない。
ごく日常的な体験として、それこそ顔を洗ったり、部屋に掃除機をかけたり、図書館へ行って書棚から本を選んだりするように、もちろん頻度としてはずっと少ないけれど、ごくたまに、世界を身近に、自分の一部のように感じる、そんな経験だ。

そんなときの背景には、自分の心を深く揺さぶるような出来事があったり、自分の本質に関わるような決意をしていたり、といったことがある場合もある。自分が大切に思っている人から、思いがけず好意を告げられたり、あるいは、自分がやったことが認められたり。
そんなことばかりでなく、初めて雪が降ったり、きれいな夕日を見たり、木漏れ日を見たり、深く自分の身に響く音楽を聞いたり。

そんなとき、不意に、世界が新鮮なものに、本来の色と光を取り戻した、鮮やかなものに見える。

これがエピファニーだ。これはジェイムズ・ジョイスが始めた文学上の技法で……、みたいなことは、また別の機会に譲るとして、ここではそんなことが言いたいわけじゃない。

この曲が収められた"Deadwing"(デッドウィング)というアルバムは、だれも言ってなくて、世界中でそう思っているのはわたしひとりかもしれないんだけれど、コンセプトアルバムだ。精神的に痛めつけられた現代社会に生きるひとりの人物が、電車に乗っていて、月の光を見る。そうしてそこにエピファニーを見る、というのが、この〈ラザルス〉という曲なのである。

エピファニーということばには、文学的な意味合いだけではなく、宗教的な意味合いもある(というか、本来はこちらの意味だったものをジェイムズ・ジョイスが使ったのだけれど)。赤ちゃんのイエス・キリストを東方の三博士に「見せる」ということだ。

だからこの曲の詞には宗教的なメタファーがあふれているし、もうひとつ、「光」のメタファーもあふれている。そうして、この「光」のイメージを喚起するのがピアノの音なのである(ベートーヴェンの時代から「月光」とピアノの音色は親和性が高い)。

そうして、この曲をi-podで聞いていたわたしは、不意に、いつかはわからないけれど、未来のことを思ったのだった。この曲を聞いていた「いま」を、その「いつか」は、はっきりと思い出すのだろう、と。自分の胸の内にあるさまざまな思いを、自分の眼に映る街路樹や空の色や、頬に触れる風や、そうして耳元で響くスティーヴン・ウィルソンの声のなにもかもをそのままに、はっきりと思い出す「いつか」が必ず来るのだろう、と。

あなたを何と呼びましょう?

2006-06-22 22:22:42 | weblog
いまの小学校は、男の子も女の子も等しく「名字+さん」づけで呼ぶらしい。だから、子供が家に帰って「~さん」と話しているので、親はてっきり女の子だと思っていたら、男の子で驚いた、などという話を、しばらくまえからずいぶん聞いた。これもいわゆる「ジェンダーフリー」なのだそうだけれど、男の子を「君」づけで呼ぶことに何の問題があるのか、わたしにはよくわからない。

もちろん、人に対する呼びかけというのは、両者が置かれた関係に拘束されるのは言うまでもないのだけれど、逆に、その人との関わりを決めてしまう場合もある。

たとえば、英会話スクールなどに行くと、非常に多くの場合、講師が
"Hi, I'm John. What's your name?"
といきなり自己紹介してくるので、こちらも
"My name is Kinnosuke Natsume."
とでも答えようものなら、その瞬間から「John-金之助」と呼び合う関係になる。
それは、先生-生徒の関係ではなく、ひとりの人間対ひとりの人間という関係を求めている、という側面ばかりでなく、一気に距離を縮めたい、という思惑もあるのだ。

以前、アメリカにいるときに病院に行ったことがあるのだが、診察を受ける前に、やはり同じように
"Hi, I'm John."
と自己紹介され、それからカルテを見て、わたしの名前を確認すると
"* * , what's the matter?"(* *、どうしたの?)
とやおら聞かれたのには、ちょっと面食らった。
相手と対等の立場に立ちたい、相手との距離を縮めたい、と思ったときに、ファーストネームで呼びかけることは、アメリカ人にとっての一番手っ取り早い方法なのかもしれない。

逆に、日本人がどうしても"Mr."や"Mrs."をつけて呼びたがるのを、英会話教室の講師が訂正する場面もよく目にした。
手紙の書き出しで、"Dear Mr.Pitt"と書いてきた生徒に対し、「これではあなたが友だちになりたくないみたいだ」と言うのも聞いたことがある。ただしその相手は映画スターで、その生徒はファンレターの添削を頼んでいたのだけれど。「友だちになりたくないみたい」と言われた生徒の方も、ずいぶんとまどったことだろう。

ただし、ここでわざわざ「アメリカ人」と断ったのは、ほかのヨーロッパ人まで等しくそういえるのかどうかよくわからなかったからだ。
生徒のことを同じようにファーストネームで呼ぶイギリス人講師は、それでも、生徒が年配であった場合は、Mr.や Madame の敬称に、姓の方で呼んでいたし、彼は「アメリカ人のフランクさっていうのは、イギリス人でもちょっと、って思うもの」と言っていた。
あるいは、わたしが教わったアイルランド人は、生徒はすべて敬称付きの名字で呼んでいた。それが高校生のわたしに対しても、だ。

結局は、その人の考え方しだい、というところなのかもしれない。

ただ、英語の場合は、ファーストネームで呼ぶか、ファミリーネームで呼ぶか、はたまた愛称で呼ぶか、ぐらいしかないのが厄介なところでもある。
敬称なしのファミリーネームとなると、ニュアンスはまったく変わってくる。
エド・マクベインの87分署シリーズでも出てくるのだけれど、容疑者の取り調べの最中に、最初はファーストネームで親しげに呼びかけ、途中から敬称抜きのファミリーネームに切り換える、それは一種の威嚇になっていくのだ。威嚇、あるいは叱責、親が子に「ジミー・ブラウン、いったいそれはどういうこと」と、フルネームで呼んだりするのも、根本にあるのは同じ思想だろう。

日本語の場合、夏目様、夏目先生、夏目さん、夏目君、なっちゃん、金之助さん、金之助君、金さん、金ちゃん、金どん、金、まだまだいくらでもヴァリエーションが広がりそうだけれど、相手との関係、場、心的距離感、といったさまざまな場面に応じて、いろんな呼びかけが可能だ。ある場では「先生」と呼び、別の場では「夏目さん」と呼ぶような場合も少なくない。

以前、自分より年上の人に教える機会があって、そのときはちょっとこまった。
わたしはどうも運動もしないクセに、そういうところだけ体育会気質というか、年長者に対しては、敬語とまではいかないにしても、丁寧語でしゃべってしまうところがある。学生時代、浪人していて、同じ学年でも自分より年長の人がいたのだけれど、どうしても丁寧語しか使えなかったぐらいなのだ。
名字プラスさんづけで、敬語でしゃべってしまうと、実際教えてるんだか、教えてないんだか、さらに間違った部分の指摘など、何を言っているのか自分でもよくわからなくなってくるのだ(これはほんとです、一度ためしにやってみてください)。

そんなに疲れることは、しばらくはちょっと勘弁してほしいのだけれど、いまのところ、敬意と、親しみのこもった呼びかけというのは、どんなふうにしていったらいいかなぁ、もうちょっと個性的な呼びかけをしてみたいなぁ、などということを考えたりもしている。

サイト更新しました

2006-06-21 22:18:18 | weblog
先日までここで訳してきたシャーリー・ジャクスン「チャールズ」に手を入れたものをサイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/

「えっ」と思って「あはは」と笑ってくださったら、それにまさる喜びはありません。

短編集に所収されたものは、このままなのですが、もう一方の『野蛮人との生活』では、章分けされていない長編(全編が三部に分けられてはいるけれど)なので、これも前後につながっています。
『野蛮人との生活』では、このローリーと、ここではまだ赤ん坊のジャーニー、この下にふたりの子供がさらに生まれ、ローリーが幼稚園初日に脱ぎ捨てたオーバーオールも、さまざまな子供たちに受け継がれていくことになります。
ちょっと手に入れにくいのですが、古書ではまだ手に入るみたい。
興味がおありでしたら、ぜひご一読を。
とってもおもしろいから。

これはブログで読んじゃったから、もういいや、っていう方はいいですが、そうでない方は、お暇なときにでも、またのぞいてみてください。
ということで、それじゃ、また。