陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

愚痴について考えた

2006-03-01 22:33:30 | weblog
楽しみにしてくださってる方はほんとうにごめんなさい。
今日はちょっと忙しくて時間がとれなかったので、「雪の中のハンター」アップできませんでした。明日の夜までにはなんとかがんばってアップしますので。

ということで、今日はつなぎの話です。

知人というか、友人というか、まぁそこらへんの人と会って話をしますよね。
シリアスな話題ではない。うわさ話程度のものです。
そういう流れで、相手が「○○は××なのよねー。だから、ほんと、いやなんだー」といったとする。
そんなとき、なんて返事をします?

学生時代はそんなことをいう人に対しては、
「それは△△だから、わたしは~だと思う。だから**って考えたら?」みたいにいってました。

ところがたいていのとき、「だけどそれは……だから、できない」みたいな返事が返ってくる。もちろん、万事にずれているわたしが、的確なアドヴァイスをしているわけもないのですが、それ以上に、相手の期待する受け答えをしていない感じがする。なんとなく相手の不満そうな顔を見て、そういうことに気がつくわけです。どうもコミュニケーションが円滑にいってない。

そういう経験を幾度も繰り返して、そのうち、数人でいるときに、「円滑なコミュニケーション」というものを観察することにしました。

うまくいっている会話というのは、多くの場合
「~なのよねー」
「ほんとよねー」
「でしょ、でしょ。そうなのよー、わかってくれてうれしい」

「××ってやだよねー」
「ほんとにやだよねー。その気持ち、わかるわー」
「そう思ってくれる? うれしいわー」

という具合につづいていく。
当時わたしはそれを「精神的握手」と名付けていましたが、いまならもうちょっと正確に、「言葉によるなぞりあい」と呼ぶかもしれません。ともかく、わたしは、なるほど、と思いました。
こんなふうに、相手のいうことにまずうなづいて見せて、自分はあなたの味方だよ、という立場をあきらかにすることがコミュニケーションを円滑に進めるコツなのか、と。

そうしてわたしは実際に方向転換してみたのですが、実にこれがうまくいく。
「ほんとうに気持ちをわかってくれる」
「聞いてくれて、気持ちがラクになった」
そんなことをずいぶん言われるわけです。以前より、むしろ適当に聞いている、といっていいくらいなのに。

そうなると、愚痴をつぎつぎに聞かされるようになりました。
「なるほどねー。そういうことってあるよねー」と相づちを打ちながら、なんかこれはちがうぞ、とずっと思っていました。

愚痴をこぼしたら、気持ちが軽くなった、ストレスが解消された、ってよくいいますよね。

おそらくそれは、木のうろに向かって「王様の耳はロバの耳」と叫んだら、気分がスッキリした、ということとは根本的にちがっていると思うんです。
愚痴というのは、ただ話したらそれでいい、というものではなく、
・だれかに聞いてもらい
・同意してもらい
・自分は間違っていないのだ、という保証を与えてもらいたい
という心理が働いているのではないか。

だけど、そうしてもらうことに、どれほどの意味があるのだろう、と、どうしても思ってしまうのです。
愚痴を吐き出すことは、必ずしも生産的ではないけれど、それほど悪いことではない、という見方があるのは理解しています。日常というものは、意味があることばかりではなく、それを倍するほどの、無意味なもの、無駄なもの、不必要なものも含めてなりたっているわけだし、そういう余剰というか、アソビというか、そんな部分を削ってしまったら、ほんと、大変なことになる、とも思うんです。

それでも、愚痴っていうのは、なんかまずくないか、と思う。

わたしはあちこちで書いているのですが、パースペクティヴということをいつも考えます。見方をずらす。遠近法を変えてみる。

いやなことがあった。
いやな人がいた。
思うとおりにならない。
うまくいかない。

そういうとき、パースペクティヴを変えてみる。
絶対にできない、そういうわけにはいかない、と思っていたことが、自分の思いこみに過ぎなかったり、別の解決法が見つかったり、そこまでいかなくても、見方を変えることで、少なくとも笑い飛ばせるようになったりできるわけです。

ところが愚痴をこぼす、っていうのは、決まり切った考え方の筋道を、もう一回なぞり直すことになってしまう。

もちろん、人に話すことで、言葉にしてみることで、パースペクティヴが得られるというのは、よくあることです。漠然と、もやもやしている思いを言葉に当てはめるだけで、問題点は焦点化する。けれども、それは愚痴ではないでしょう。

愚痴をいうときは、同じことを何度も何度も、しかも解決しようとする意志さえないままどうせ、情況は変わらないのだから、と思いながらいうんじゃないでしょうか。つまり、同じ思考の筋道を、何度も何度もたどっているということだから、パースペクティヴなんて何千回愚痴を繰り返したところで、得られない。

そんなものを聞いてもらったところで、なぞってもらったところで、なんにもならないだろう。

じゃ、愚痴を聞かされた側はどうしたらいいのか。
これがまたむずかしいことではあります。

話を聞くだけで、圧倒的に限られた情報しかないところで、解決策を提示できるわけがない、というより、それ以上に問題なのが、「こうしたら」ということで、つい、干渉してしまうことなのだ。

以前サイトのなかでも引用したのだけれど、

「……愛する者が自分の望むことや、相手によかれと思うことをしてほしいと願うのは人情だが、人のことはなにごともなりゆきにまかせなきゃいけない。自分が知りもしない人に干渉するもんじゃないのと同様、愛する人に干渉しちゃいけないんだよ」とウォーリーはエインジェルに言い、そしてこう付け加えた。「それにしてもこれはつらいことさ、人はとかく干渉したくなるもんでね――自分が計画をたてる側になりたがるんだな」
(ジョン・アーヴィング『サイダーハウス・ルール』真野明裕訳 文藝春秋社)

アドヴァイスを送る人は、そうしたほうがいい、と思ってそういう。けれども、その通りにしてうまくいくかどうかはだれにもわからないし、うまくいかなかったところで、その責任をとれるわけではない。にもかかわらず、アドヴァイスを受け入れたはずの相手がその通りに行動しなかった場合、不機嫌になる。

つまり、アーヴィングのいう「計画をたてる側になりたがる」。

相手の言葉をただなぞるのではなく、また、「計画をたてる側」になるのでもない聞き方。
つまり、相手がパースペクティヴを得る助けになるような聞き方というのは、どういうふうにしたらいいんだろう。

いまのところ、ときに愚痴を聞かされながら、そんなことを考えているわけです。

さて、明日にはがんばってアップしますから(昨日も書いた)、また遊びに来てくださいね。
それじゃ、また。ぶり返したみたいに寒い日が続きますが、お元気でお過ごしください。