陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

境界の話

2012-09-27 22:46:52 | weblog
ほんの短い間だったけれど、その昔、千葉県市川市の南行徳というところに住んでいたことがある。そこから引っ越して10年あまりが経って、その界隈がやたらと有名になるような事件が起き、自分がその前を何度となく通ったマンションをテレビのニュースで見ることにもなったのだが、それはこの話とは関係がない。

ここは奇妙なところで、行政区分では市川市に組み込まれているのだが、市川市本家(?)は総武線沿線にあり、行徳、南行徳はそこからずいぶん南、東京湾に近い東西線沿線にある。市役所などに用があって、市川市の中心部に行こうと思えば、いったん西船橋まで行って、そこから総武線に乗って戻るしかなく、何でこんな奇妙なことになっているのだろう、と思ったものだった。

南行徳の東京側の隣は浦安市である。浦安の隣は東京都内なので、何となく都内に住む人からは、バカにされていたのだが、もうひとつ向こうの南行徳となると、あまりピンと来なかったせいか、バカにされることはなかった。というか、バカにされることすらなかった、と言った方が正確か。

とはいえ、京葉線がまだ開通しておらず、ディズニーランドといえば、浦安から直通バスに乗るしかなかった時代の浦安は、隣の南行徳に比べれば、西友があったり、ミスタードーナツがあったり、モスバーガーやケンタッキーがあったり(笑)で、商業施設は充実していた(というか、南行徳がなさ過ぎたのである。駅の中にロッテリアが一軒と、ダイエー系のマルエツしかなかった)。近所ではあまりに用が足りなかったので、わざわざ一駅、電車に乗るのも面倒で、何かあれば浦安まで歩いて出かけていた。途中に、当時から蔵書の充実では有名だった浦安図書館があった、ということもあったのだが。

ここに住んでいたときのことで、何よりも強く印象に残ったのが、市川市と浦安市のあいだの「市境」のことだ。住宅街の中を、高さ40センチ、幅30センチほど、レンガを積み重ねて作った植え込みがうねうねと伸びている。ところどころで通り抜けられるように、レンガには区切りができているのだが、わたしなどはわざわざ回り込んだりしないで、レンガをひょいと乗り越えて直進していた。最初のうちは、なんでこんな邪魔なものがあるのだろうと思っていたのだが、あとで地図で確かめると、浦安市と市川市の境界が、そのレンガブロックで示されていたのだった。

高速道路で走っていると、「京都府」とか「大津市」とかの看板が立っている。実際には地面にここまでは大阪、ここからは京都という線が引かれているわけではない。だが、その表示は、そこに目には見えない境界線があることを示している。それを見るたびに、実体のない境界線を、自分がいま「またいだ」のだ、という不思議な感覚にとらわれる。

ひょっとしたらこれは、幼い頃に川端康成の『雪国』の冒頭「国境の長いトンネルを抜けると……」という一節を聞いたことに端を発しているのかもしれない。まだそれがどういう本かも知らないころに、人口に膾炙したその一節だけを耳にして、「国境」、つまり「上野国・越後国の境」の「線」を超えたら、ページをぱたんとめくるように雪が降っていた光景が目に浮かんだものだった。現実にはそんなものなどない「境界線」が、そこを超えると景色が一変する、というのは、なんともいえず不思議で、想像力をかきたてられた。それが、未だに尾を引いているのかもしれない。

浦安と市川の間には、はっきりと目に見えるかたちでその境界線が引いてあった。それも、なんというか、おもちゃのような、子供っぽい、簡単にまたぎ超えられるような、それでもれっきとした「しきり」だった。実際にはどこにもない想像の「境界線」を実体化させるなら、それぐらいで十分なのかもしれない。ものものしい国境の壁やゲート、有刺鉄線でおおわれた塀や銃を持った兵士を「境界」として要求しなければならないような「現実」さえなければ、の話なのだが。


「学歴」の違和感

2012-09-21 23:51:29 | weblog
ちょっと前に自民党の総裁選のニュースを見るともなしに見ていたら、各候補者の顔写真の下に、元ナントカという「経歴」、その下に「学歴」が表示してあった。さらにその下には「選挙区」「派閥」と続いていき、この「経歴」やら「派閥」やらというのはどれほどわたしにとっては関心のないことでも、現在の日本の政治情勢から不可欠(笑)であるのだろうと思ったのだけれど、改めて、この「学歴」というものだけは、何のためにあるのかよくわからないものだな、と思ってしまった。

考えてみれば、選挙の立候補にしても、組閣人事の発表の時も、プロフィールの欄にはかならず「学歴」の項目がある。あることは知っていても、たいていは気にもとめずに流し読みするだけで、記憶にも残らない。これまでずっと、その人がどこの大学を出ていようが、興味を引かれることもなかった。けれど、ニュースの先日のニュースのときに引っかかったのは、おそらく安倍さんの下に「成蹊大卒」という文字があったからにちがいない。

もし、そこに「慶大卒」とか「早大卒」とか「東大卒」と書いてあれば、何で「学歴」の欄があるのだろう、とあらためて疑問に思うこともなかったろう。もしかしたら、カタカナの「ハーバード大院卒」という文字を見て、「おっ、すげえ(笑)」ぐらいのことは思ったかもしれないが。それにしても「学歴」欄の違和感、というのとはちがう。逆に考えれば、政治家の欄にはだいたい「東大」とか「慶応」とかいった名前が書いてあるもの、と、無意識に思い込んでいるからにちがいない。とはいえ、わたしたちはほんとうに政治家にそういう学歴を求めているんだろうか。

政治家と学歴というと、思い出すのは、こんなことだ。
アテネが最も繁栄を遂げた時代の政治家に、ペリクレスという人物がいた。この人は、古代民主制を完成させたともいえる人で、同時に長らく戦争状態にあったアケメネス朝ペルシャと和平を結んだという外向的手腕のもちぬしでもあった。

このスーパー政治家ともいえるペリクレスについて、少し時代が下ってプラトンが、彼が議会政治家として成功することができたのは、哲学者アナクサゴラスの下で、「高遠な思索を十分に吹き込まれ」たからだ、と『パイドロス』でいっている。「高遠な思索」というのは、言葉を換えれば、「教養」、もうちょっと下世話な言い方をすれば、いったい何の役に立つのかよくわからないような勉強をした、ということだろう。つまり、プラトンの考える立派な政治家というのは、単に政治的手腕があるとか、経験を積んでいるとか、実際的な知識を持っているとかだけではなく、こうした非実際的な学問を身につけてこそ、なのである。

プラトンのいうことは、それはそれでもっともだとは思うのだけれど、かといって、わたしたちは政治家に「教養」のしるしとしての学歴を求めるのだ、というわけでもあるまい。「東大卒」「慶大卒」ならば、「高遠な思索を十分に吹き込まれ」ているはずだ、と思うほど、わたしたちはもはやナイーブではないだろうし、そもそも「教養」なるものの価値も、ずいぶん下落してしまっている。以前、とある首相が漢字の読み間違いをしたとかでずいぶん話題になったが、それは「東大卒」とか「早稲田卒」ばかりの大手マス・コミがおもしろがって騒ぎ立てただけで、わたしたちが首相に「教養」を期待しているわけではあるまい。

ただ、そうした大学名が並んでいても、ありがたみすら感じないくせに、見慣れない名前が混ざっていると、「ん?」と思う。まるで、ビールの陳列棚に発泡酒がまぎれこんでいるのを見つけたときのように(ちょっとちがうか。わたしはアルコール類を飲まないので、ここらへんの感じはちょっとわからないのだけれど)。別に自分に不都合があるわけではないのだが、「あれあれ、ここにちがうものが紛れ込んでるぞ」と思うのである。どうも「学歴」という項目は、そうした「異物」のあぶりだしとして、機能しているのではあるまいか。

「学歴」や「教養」の価値を信じているわけでもない。だが、そこに暗然と存在するよくわからない「規準」は知っている。期待はしていないくせに、「規準」に外れた人には気がつく。

なにもペリクレスのような立派な政治家を求めているのではない、もうちょっとましな政治家を求めているだけだ、と思いながら、「東大卒」や「早大卒」ではない学歴に深く考えることもなく違和感を覚えるわたしたちは、ある意味で自分たちにふさわしい政治家を戴いているということなのだろう。


記憶のホコリ(※ちょっとだけ補筆)

2012-09-14 22:38:06 | weblog
確か中学の三年の時だった。
ちょうど、教育実習の時期に当たっていて、教壇には「教生の先生」(わたしたちは実習生をそう呼んでいたのである)が立っていた。

わたしたちの学校は教育学部の附属だったので、年に二回、百人前後の実習生が大学から来ていた。つまり、生徒の側は「教生」など珍しくもないのだ。いまのわたしから見れば、二十二歳の大学生なんてかわいいものだけれど、当時のわたしたちからすれば、来年になればれっきとした先生になる、文字通りの「大人」、別の世界の住人なのである。そんな「大人」が赤くなったり青くなったり、汗をかいたり、手を震わせたりしているのだから、おもしろくもあり、不思議でもあり、そしてまた、しっかりしろよ、といういくぶん保護者めいた気持ちもあったのかもしれない。

「この教生、手が震えるから、って、板書しないけど、そんなんで大丈夫なのかな」
「あーあ、あんなに下ばっかり見てたら、後ろにいる先生のところまで、声、届かないよ」
「この冗談、三組でやって思いっきりコケたのに、ウチのクラスでもやるんだ」
などと、わたしたちは容赦ない目で「先生見習い」たちを観察していたのである。

もちろんそんな緊張でガチガチになっている実習生ばかりではない。バイトで塾講師などを経験しているのだろう、授業の進め方も手慣れたもので、先生と遜色のない学生もいたし、やはり適性というのもあったのだろう。何割かの実習生の授業は、ちっとも教育実習のようではなく、ただの「授業」だった。

その実習生の授業も、そんな「ふつうの授業」だった。すでに何回か同じ内容でこなしていたようで、つつがなく授業を進め、お定まりの冗談がはさみこまれ、生徒に向けて何度か質問をし、わたしたちも無難に返答していた。それが、ちょうど半分ほど終わったあたりで、その実習生が高さ30センチほどの教壇から、脚を踏み外して落ちてしまったのである。

教室の真ん中より後ろにいたわたしは、一瞬、何が起こったかわからなかった。突然、その実習生の姿が消えてしまったのだ。その代わりに、うわばきがぽーんと宙に跳ね上がり、最前列にすわっていた子の机の上に落ちた。

教室にいた全員――四十人ほどの生徒と、後ろで見ている監督者でもある教科担任の先生と、十四、五人の同期の実習生――が「あっ」と固唾をのんでから、一秒ほど経って、その実習生はよろよろと体を起こした。最前列の子が、机の上のうわばきを手渡し、その実習生はそれを受け取った。

こわばった顔で体のほこりを払い、散らばったノートやプリントを拾い集め、実習生は授業を再開したが、そのあとがどうなったか、いたたまれないほどの恥ずかしさ以外は、まったく記憶にない。あまりのことに、誰も笑わなかったような気もするが、そのあとわたしたちはきっとあれやこれや取りざたしたにちがいないのに、そこから先の記憶がないのだ。おかしなことだが、わたし自身が恥ずかしかったのだ。自分のことではなかったのに、自分がしでかしたのとまったくたがわない、視界が暗くなり、体がかっと熱くなり、心臓はドキドキし、呼吸が浅くなり、あとの記憶がなくなる、という事態を経験したのだった(人間の「自我」というものがそのように強固なものではない、とわたしが思うようになったのは、このときの経験がある。なんぴととて一島嶼にあらず、なのである)。

さて、それから後も、ほかならぬこのわたし自身が恥ずかしいことをやらかしたことは何度もある。思い返すたび、「わっ」とか「ぎゃっ」とか叫ばずにはおれないような、寝る前にふっと頭をよぎりでもすると、枕に顔を埋め、枕の端っこをかみしめずにはいられなくなるような、そんな経験も繰り返してきた。忘れたつもりでいても、どうしたはずみか不意に頭をよぎる(わたしはそういう状態を、頭の中で「記憶の埃が立つ」と呼んでいる)。そんなふうに「埃」がもうもうと立ってしまえば、収まるまでじっと羞恥心をかみしめていなければならない。

ただ、そんなとき、どういうわけかその実習生のことも一緒に思うのである。彼はあのときのことを、いまもまだ思い出すだろうか。「記憶の埃」として、羞恥心をかみしめることになるのだろうか。それとも、あんなこともあった、と、ほろ苦さとともに思い出す、ただの「記憶のひとコマ」となっているのだろうか。

自分だけではない、と思ったところで、過去の出来事が帳消しになるわけではない。だが、自分と同じように、そんな「埃」に冷や汗を流す人がいる、というのは、なんとなく心が慰められるのである。

その実習生は、まさか自分がそんな役の立ち方をしているとは、夢にも思っていないだろうが。


※昨夜書いた後でふと思い出した。確か、記憶の埃が立つ、というのは、わたしが編み出した(?)言葉ではなく、中島らもがどこかで書いていたはずだ。おやまあ。歳を取るとこんな恥ずかしさもあるのだ。そのぶん、面の皮も厚くなって、こんなことに「わっ」とも「ぎゃっ」ともしないが。それはそれで、なんだかな、であるのだ。中一のとき、どういうわけかスカートの後ろにガムがくっついていて、ちょっといいなあと思っていた先輩に、「お尻にガムがついてるよ」と言われて、死にたくなり、こんなくだらないことでここまでの恥ずかしさを覚える自分が恥ずかしく、腹立たしく、真剣に「悟りを開きたい」と思ったこともあるというのに。


「体験談」は役に立つか

2012-09-12 22:31:28 | weblog
大津のいじめ事件の影響だろうか、さまざまな人が自分の「いじめ体験」を語る文章を目にする機会が増えた。正確には自分がいじめられた体験だから、「いじめられ体験」というべきなのかもしれないが。

たいていは、それがどのように始まり、自分がどうされ、そのときどのような気持ちだったか、と続いていく。自力で克服した場合もあれば、年長者の助けがあったり、転校や卒業など、環境の変化で終止符を打ったりと、「解決編」はいくつかのバリエーションがあるが、いずれにせよ、いつかの段階でその状況は好転し、最後は過去の自分と同じように、いまいじめられている子供たちへの呼びかけで終わる。「たいていは」と書いたけれど、実際のところ、それ以外のパターンをわたしは知らない。

おそらくこうした体験を掲載している側は、いままさにその渦中にある子が、それを読んで、自分だけじゃなかったんだ、と慰められたり、いつか終わるんだ、自分もこんなふうに語ることができる日が来るんだ、と勇気づけられたりすることを期待しているのだろうけれど、わたしは読むたびに変な気がする。

幸か不幸か、自分も含め、身近にいじめる-いじめられる、という関係がなかった(もしくは気がつかなかった)わたしがこんなことを思うのは的外れかもしれないのだが、こうした「体験談」というのは、しょせんは誰かの「うまくいった」体験にすぎないのではないか。

「体験談」を依頼されるのは、有名人だったり、しかるべき地位にあったりする人なのである。そんなきつい体験があったにもかかわらず、逆境をはねのけ、「いま」があるのだ。そんないわば「勝ち組」の人の、「うまくいった」体験が、どれほど他人の役に立つものなのだろうか。ちょうど、他人の合格体験記が自分の受験勉強の役には決して立たないのと一緒だ。自分を励ましたり勇気づけたりできるものは、いつも自分自身の中にしかない。

もうひとつ奇妙に思うのは、これだけ多くの人が「自分のいじめられ体験」を語っているにもかかわらず、「自分がいじめた体験」を語っている人がいないことだ。これまたわたしが知らないだけなのかもしれないのだが、皆無と言えないまでも、圧倒的に少ないのはまちがいないだろう。

けれども「いじめ」が根本的に、一対多という構造を持っていることを考えると、いじめられた経験を持つ人より、いじめた経験を持っている人の方が、数倍から十数倍はいるはずなのだ。「私は昔、クラスの子全員に無視されたことがあります」という文章の背景には、「私(ぼく)は昔、クラスの子を無視したことがあります」という四十人ほどの体験がなくてはならない。

まあ考えてみれば、それも当たり前のはなしで、いじめた経験は人に聞かせたくなるようなものではないし、大人になっていろいろわかってくればなおさら、できることなら忘れたい、なかったことにしたい過去なのかもしれない。けれども、仮にこうした「体験談」が「いじめ」問題の解決の一助になろうとして「体験談」の掲載を企画しているのなら、「いじめ」に関わっている子供たちの相対的多数、いじめた側や、そこまではいかなくても無視に同調を余儀なくされたり、傍観を余儀なくされたりした側の「体験談」の方が、よほど必要なのではあるまいか。

確かに、いじめた経験や傍観した経験は、いじめられた体験のように、「自分は間違っていなかった」「自分は悪いことなどひとつもしなかった」という文脈では語れない。「仕方がなかったんだ」と思おうとしても、かつての自分を正当化することはできない。愚かな弱い自分を振り返ることは、恥ずかしさや痛みをともなう行為だろう。けれども、その恥ずかしさや痛みこそ、いま、そのさなかにいる子供たち、実際にいじめられている子の数倍はいるであろう同調者や傍観者と共有できるものなのではないのだろうか。