前にちょっと書いた「三角坐り」の本が見つかったので、今日はこの三角坐りについて。
みなさん、三角坐りはできますね?
床に腰をおろす。膝を立て、ぴったり揃える。それを両腕で抱え込んで、手は組み合わせる。
ところで、この坐り方は、学校で習いませんでしたか?
もともとは日本にはなかった坐り方だという。多田道太郎の『しぐさの日本文化』にも『からだの日本文化』にも出てこない。竹内敏晴の『思想する「からだ」』を見ると、「1960年代の初め頃までに小学校に在学した人々……以上の人々にとってはほとんど経験がない姿勢なのだ」とある。
ですから三角坐り(もしくは体育坐り)などという坐り方など知らない、学校で教わったこともない、という方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。
わたしのころは、小学校では体育の時はかならずそれで坐ることになっていた。それだけではなく、遠足など校外に出たときも、「腰を下ろせ」と言われたときは、その体勢になっていたように思う。
わたしたちの動作やしぐさ、体勢や姿勢はすべて時間をかけてその形になってきたものだ。姿勢にせよ、歩いたり、しゃがんだりする動作にせよ、たまたまそうなったのではなく、わたしたちの環境やライフスタイルや仕事、あるいは体型からくる必然から生まれたものであり、それが変わっていくにつれて少しずつ変わっていくものでもある。
この三角坐りに一番近いのが、膝を抱えてうずくまる姿勢である。
わたしたちはどんなときに膝を抱えてうずくまるか。
それはかならずひとりのときだ。ひとりで、なおかつ自分の内に閉じこもりたいようなとき。同時にこの姿勢が一番近いのは、胎児かもしれない。
思いが屈するとき、思うようにいかないとき、自分自身の思いのなかにどっぷりと浸りきりたいとき。人はそうやって胎児の姿勢に戻るのかもしれない。
こういう姿勢が必要なときは確かにあるのだ。
ここから顔を前に向ける。それが「三角坐り」だ。顔を前に向けただけで、ひとりきりの姿勢から外に出られるものなのだろうか。
昨日見た跪坐は、用があったらいつでも立てるような「待機の姿勢」だった。正坐はそこから落ち着いたもの。それでもすぐに立ってつぎの体勢に移れる姿勢には代わりはない(痺れさえきれなければ、ではあるが)。
この三角坐りはいったいどういう姿勢なのだろう。
膝を抱えてうずくまる姿勢が、深く自分の内に返っていく姿勢であるが、前を向いていなければならない三角坐りでは、自分の内に返ることもできない。竹内の言うように、自分を縛りつける姿勢、管理される姿勢なのだろうか。
もういちどこの言葉を思いだしてみよう。
「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。」(多田道太郎『からだの日本文化』)
三角坐りによってわたしたちは、たとえ聞きたくなくても、聞いていなくても、前を向いてじっと聞いているふり、そこにじっとしていたくなくても、自分自身をじっとさせる姿勢を訓練してきたのかもしれない。
地べたや電車の床に腰を下ろすのも、やはりその延長だとわたしにはどうしても思えてしまうのだ。
学校という空間で生き延びるためにその姿勢が必要であっても、そこを出たらもうその姿勢になるのはやめよう。
どのような意味でもその姿勢は生徒には必要ではない。生徒でなくなれば、なおさらだ。坐ることが訓練なら、自分の生活、自分のライフスタイルに必要な坐り方を自分で考えていく必要があるのではないか。
自分の部屋で坐るときの自分の姿勢をちょっと見直してみません?
みなさん、三角坐りはできますね?
床に腰をおろす。膝を立て、ぴったり揃える。それを両腕で抱え込んで、手は組み合わせる。
ところで、この坐り方は、学校で習いませんでしたか?
もともとは日本にはなかった坐り方だという。多田道太郎の『しぐさの日本文化』にも『からだの日本文化』にも出てこない。竹内敏晴の『思想する「からだ」』を見ると、「1960年代の初め頃までに小学校に在学した人々……以上の人々にとってはほとんど経験がない姿勢なのだ」とある。
ですから三角坐り(もしくは体育坐り)などという坐り方など知らない、学校で教わったこともない、という方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。
わたしのころは、小学校では体育の時はかならずそれで坐ることになっていた。それだけではなく、遠足など校外に出たときも、「腰を下ろせ」と言われたときは、その体勢になっていたように思う。
この姿勢が学校に取り入れられたのは一九五八年に文部省が、児童を戸外で坐らせる場合はこのやり方がよろしかろうと通達したのが初めらしい。まだ体育館なども少なく、体育といえば運動場で行っていた時代のことだ。ところが、一九七〇年になってみると、この坐り方は全国の公立小学校に広がっていた。戸外でも床の上でも時と場所を問わず、子どもが集合する場所にはすべてこの坐り方が適用される、と言っていいほどになった。なぜこの坐り方がわずか十年ほどのあいだに全国的に定着したのか。特に疑問にも思っていないらしい教員たちに、竹内は押してその理由を問う。(竹内敏晴『思想する「からだ」』晶文社)
その第一は、手遊びをさせない、で、第二は位置を移動させない、である。私があっけにとられたのは、教員の話に集中させるため、という返事がかなりの数の人から出た時だった。どういうことか私には一瞬わけが判らなかった。子どもが無言で不動でいさえすれば集中していると見なしてやっと安心する、ということなのだろうか?…(略)…
古くからの日本語の用法で言えば、これは子どもを「手も足も出せない」有様に縛り付けている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐ気づく。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは、「息を殺している」姿勢である。手も足も出せず息も殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。
わたしたちの動作やしぐさ、体勢や姿勢はすべて時間をかけてその形になってきたものだ。姿勢にせよ、歩いたり、しゃがんだりする動作にせよ、たまたまそうなったのではなく、わたしたちの環境やライフスタイルや仕事、あるいは体型からくる必然から生まれたものであり、それが変わっていくにつれて少しずつ変わっていくものでもある。
この三角坐りに一番近いのが、膝を抱えてうずくまる姿勢である。
わたしたちはどんなときに膝を抱えてうずくまるか。
それはかならずひとりのときだ。ひとりで、なおかつ自分の内に閉じこもりたいようなとき。同時にこの姿勢が一番近いのは、胎児かもしれない。
思いが屈するとき、思うようにいかないとき、自分自身の思いのなかにどっぷりと浸りきりたいとき。人はそうやって胎児の姿勢に戻るのかもしれない。
こういう姿勢が必要なときは確かにあるのだ。
ここから顔を前に向ける。それが「三角坐り」だ。顔を前に向けただけで、ひとりきりの姿勢から外に出られるものなのだろうか。
昨日見た跪坐は、用があったらいつでも立てるような「待機の姿勢」だった。正坐はそこから落ち着いたもの。それでもすぐに立ってつぎの体勢に移れる姿勢には代わりはない(痺れさえきれなければ、ではあるが)。
この三角坐りはいったいどういう姿勢なのだろう。
膝を抱えてうずくまる姿勢が、深く自分の内に返っていく姿勢であるが、前を向いていなければならない三角坐りでは、自分の内に返ることもできない。竹内の言うように、自分を縛りつける姿勢、管理される姿勢なのだろうか。
もういちどこの言葉を思いだしてみよう。
「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。」(多田道太郎『からだの日本文化』)
三角坐りによってわたしたちは、たとえ聞きたくなくても、聞いていなくても、前を向いてじっと聞いているふり、そこにじっとしていたくなくても、自分自身をじっとさせる姿勢を訓練してきたのかもしれない。
地べたや電車の床に腰を下ろすのも、やはりその延長だとわたしにはどうしても思えてしまうのだ。
学校という空間で生き延びるためにその姿勢が必要であっても、そこを出たらもうその姿勢になるのはやめよう。
どのような意味でもその姿勢は生徒には必要ではない。生徒でなくなれば、なおさらだ。坐ることが訓練なら、自分の生活、自分のライフスタイルに必要な坐り方を自分で考えていく必要があるのではないか。
自分の部屋で坐るときの自分の姿勢をちょっと見直してみません?