陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「座る」ことを考える おまけ篇

2008-01-31 22:33:58 | weblog
前にちょっと書いた「三角坐り」の本が見つかったので、今日はこの三角坐りについて。

みなさん、三角坐りはできますね?
床に腰をおろす。膝を立て、ぴったり揃える。それを両腕で抱え込んで、手は組み合わせる。
ところで、この坐り方は、学校で習いませんでしたか?

もともとは日本にはなかった坐り方だという。多田道太郎の『しぐさの日本文化』にも『からだの日本文化』にも出てこない。竹内敏晴の『思想する「からだ」』を見ると、「1960年代の初め頃までに小学校に在学した人々……以上の人々にとってはほとんど経験がない姿勢なのだ」とある。
ですから三角坐り(もしくは体育坐り)などという坐り方など知らない、学校で教わったこともない、という方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。

わたしのころは、小学校では体育の時はかならずそれで坐ることになっていた。それだけではなく、遠足など校外に出たときも、「腰を下ろせ」と言われたときは、その体勢になっていたように思う。
 この姿勢が学校に取り入れられたのは一九五八年に文部省が、児童を戸外で坐らせる場合はこのやり方がよろしかろうと通達したのが初めらしい。まだ体育館なども少なく、体育といえば運動場で行っていた時代のことだ。ところが、一九七〇年になってみると、この坐り方は全国の公立小学校に広がっていた。戸外でも床の上でも時と場所を問わず、子どもが集合する場所にはすべてこの坐り方が適用される、と言っていいほどになった。
(竹内敏晴『思想する「からだ」』晶文社)
なぜこの坐り方がわずか十年ほどのあいだに全国的に定着したのか。特に疑問にも思っていないらしい教員たちに、竹内は押してその理由を問う。
その第一は、手遊びをさせない、で、第二は位置を移動させない、である。私があっけにとられたのは、教員の話に集中させるため、という返事がかなりの数の人から出た時だった。どういうことか私には一瞬わけが判らなかった。子どもが無言で不動でいさえすれば集中していると見なしてやっと安心する、ということなのだろうか?…(略)…

 古くからの日本語の用法で言えば、これは子どもを「手も足も出せない」有様に縛り付けている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐ気づく。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは、「息を殺している」姿勢である。手も足も出せず息も殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。


わたしたちの動作やしぐさ、体勢や姿勢はすべて時間をかけてその形になってきたものだ。姿勢にせよ、歩いたり、しゃがんだりする動作にせよ、たまたまそうなったのではなく、わたしたちの環境やライフスタイルや仕事、あるいは体型からくる必然から生まれたものであり、それが変わっていくにつれて少しずつ変わっていくものでもある。

この三角坐りに一番近いのが、膝を抱えてうずくまる姿勢である。
わたしたちはどんなときに膝を抱えてうずくまるか。
それはかならずひとりのときだ。ひとりで、なおかつ自分の内に閉じこもりたいようなとき。同時にこの姿勢が一番近いのは、胎児かもしれない。
思いが屈するとき、思うようにいかないとき、自分自身の思いのなかにどっぷりと浸りきりたいとき。人はそうやって胎児の姿勢に戻るのかもしれない。
こういう姿勢が必要なときは確かにあるのだ。

ここから顔を前に向ける。それが「三角坐り」だ。顔を前に向けただけで、ひとりきりの姿勢から外に出られるものなのだろうか。

昨日見た跪坐は、用があったらいつでも立てるような「待機の姿勢」だった。正坐はそこから落ち着いたもの。それでもすぐに立ってつぎの体勢に移れる姿勢には代わりはない(痺れさえきれなければ、ではあるが)。
この三角坐りはいったいどういう姿勢なのだろう。
膝を抱えてうずくまる姿勢が、深く自分の内に返っていく姿勢であるが、前を向いていなければならない三角坐りでは、自分の内に返ることもできない。竹内の言うように、自分を縛りつける姿勢、管理される姿勢なのだろうか。

もういちどこの言葉を思いだしてみよう。

「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。」(多田道太郎『からだの日本文化』)

三角坐りによってわたしたちは、たとえ聞きたくなくても、聞いていなくても、前を向いてじっと聞いているふり、そこにじっとしていたくなくても、自分自身をじっとさせる姿勢を訓練してきたのかもしれない。
地べたや電車の床に腰を下ろすのも、やはりその延長だとわたしにはどうしても思えてしまうのだ。

学校という空間で生き延びるためにその姿勢が必要であっても、そこを出たらもうその姿勢になるのはやめよう。
どのような意味でもその姿勢は生徒には必要ではない。生徒でなくなれば、なおさらだ。坐ることが訓練なら、自分の生活、自分のライフスタイルに必要な坐り方を自分で考えていく必要があるのではないか。

自分の部屋で坐るときの自分の姿勢をちょっと見直してみません?

「座る」ことをさらに考える

2008-01-30 22:54:48 | weblog
「居ても立ってもいられない」という言い回しがあるが、この「居る」は「座る」という意味である。気ぜわしくて、心が座ろうが立とうがどうにも落ち着かない、という意味である。つまり、「居る」というのは、本来、座るという意味だったのである。

昔の人はどんなふうに座っていたのだろうか。
柳田国男の『明治大正史 世相篇』にはこうある。
本当の貴賓ならば正座の人はみな平坐であり、これに対する者はみな跪坐であった。日本では両膝を合わせて下に突き、足は指先のみを揃え付けているのが、長者の前に侍する者の常の作法であった。すなわち御用とあらばすぐに立てるという形なのである。この形は受ける側にも、いくぶんか気ぜわしなく感ぜられるゆえに、女性だけにはいま少し打ちくつろいだ現在のような坐り方があったが、男が主客ともに前面は膝まずき、後は指を伸ばして足の甲を下に附けるようになったのは、全くこの款待の拡張からであった。すなわち客もあぐらをかくに忍びず、亭主もかしこまっているにも及ばぬというほどの交際が、最も発達した結果と言ってよいのである。こういう坐り方には板敷はことに不便であったろう。とにかくに客間は座敷ともいうほどで、はやくからこの座の畳が敷きつめてあった。しかもその他の部分も、廊下・勝手以外は、ことごとく畳を敷くべきものと思うようになったのは明治である。いわば畳のもと敷物であったことを、忘れていこうとする過程である。
(柳田国男の『明治大正史 世相篇』中公クラシックス)
文中の「正座」は「せいざ」ではなく「しょうざ」、正客がすわる正面の席のこと。そのお客様の席に通される人は、平坐、つまりあぐらだったのである。この貴賓に対して礼を取る側は、拝跪の姿勢を取っていた。昨日見た「待つ姿勢」というのは、「御用とあらばすぐに立てる」という待機の姿勢だったのだ。そこからやがて正坐が生まれていく。あぐらと跪坐が双方から歩み寄り、結果、ともに正坐になる、というプロセスであったというのである。あぐらはリラックス、跪坐は待機の姿勢、その中間である正坐は、敬意を抱きつつ、同時に落ち着く、という姿勢ということになるだろうか。

ところで、椅子の生活が多くなった現代でも正坐をしている人というと、思いつくのがお茶やお花の先生、お坊さん、そうして棋士である。TVでやっている将棋番組などでも、たいてい棋士は正坐をしている。その棋士である先崎学八段は正坐とあぐらについて、こんなふうに書いている。
 対局中は正座か胡座でというのが不文律である。非礼でもあるので、怪我でもしない限り他の姿勢をとる棋士はいない。割合を見ると、朝は九対一で正座の勝ち。昼過ぎから夕方は半分半分。夜は七対三でやはり正座の勝ちといったところだろうか。要するに、気合いを入れて、気を抜いて、そしてまた集中するのである。
(先崎学『浮いたり沈んだり』文藝春秋社)
さらに別のところで。加藤一二三九段が長考に入ったときのこと。
 加藤九段は胡座のうちは絶対に着手しない。指す時は常に正座である。だから、正座になられる度に、よしと気を込める。が、また座り直されてガクッとなる。
棋士が気合いを入れたり、集中したりするには、正坐という姿勢が必要ということなのだろうか。
 跪座でもアグラでもなく、正座がそれこそ正常な姿勢として定着したのは、一つには、足を折りたたんでおく、という点にあったのではないか。話が少しとぶようだが、武家の座敷はすべての道具、日用品がとり片づけられているのが良しとされる。いわば「無」である。この「無」はじつは待機の姿勢であって、いったん緩急あるときは、納戸、なげしから必要なものが即座にでてくる。余計なものは一切置いてない。ちり一つとどめぬ座敷を良しとするのは、無用の物を片づけておく待機の姿勢を良し、美しとするからである。
 足は歩行には必要だが、座談には不必要である。これを腰の下に「片づけておく」姿勢が、やはり待機の美学、待機のモラルにかなったのではなかろうか。アグラのほうが楽なことは言うまでもないが、アグラでは無用のものを放りだしたようなみっともなさがある。
(多田道太郎『しぐさの日本文化』筑摩書房)

こう考えると棋士が正坐を基本的な姿勢としているのもうなずける。「待つ」姿勢。相手のつぎの一手を待ち、自分の指すべき一手を待つ。つまり、この姿勢は、相手の存在を前提とする姿勢でもある。

こう考えると、もうひとつ、あぐらと正坐のちがいがあるような気がするのだ。
あぐらは背中が丸まる。正坐は背筋がのびる。人と話そうとするとき、まず何よりも声を出さなくては成らない。声を出すとき、体の深いところから声を出そうとするとき、背筋はしっかりと伸びていなければ、声が相手に向かっていかない。相手と話すという面からも、正坐は理にかなう坐り方のように思える。

いまのわたしたちは、椅子での生活の方が圧倒的に多くなってきて、足を「片づけておく」こともしなくなった。その結果、やはり集中とか、力を込めるとか、そういうレベルでも変わってきているように思うのだ。
正坐を復活させようとまでは言わないけれど、椅子に座るにしても、もう少し「座る」ことそのものを意識しても良いような気がする。おそらく、そのことを意識するだけで、わたしたちの同席する人への対し方も、仕事の仕方も、少し、変わっていくような気がするのだ。

「座る」ことを考える

2008-01-29 22:34:17 | weblog
さて、もう少し「座る」話を続ける。

「座る」と言っておいていきなり「立つ」話から始めるのだが、近所に立ち話の好きな人がいる。わたしもつかまらないよう、つねづね警戒を怠らないようにしているのだが、たいていわたしが通りかかったときは、獲物? を捕獲したあとで、すでに立ち話に余念のない状態である。

買い物に行くときに、こんにちは、と、話の邪魔にならないように、頭だけ下げて、横を通りすぎる。そうやってしばらく歩いてスーパーに着き、そこで買い物をすませて戻ってくる。たいてい行くときと同じ場所でそのふたりは立ったまま話を続けている。

こんなこともある。朝、洗濯物を干す。ベランダからひょいと下をのぞくと、その人がまたちがう誰かと話している。洗濯物を干し終わり、ざざざっと部屋の掃除をすませ(四角い部屋を丸く掃く、のではなく、四角い部屋の空いた場所だけ、丸く掃除機をかける)、ゴミを集めて、さあ、遅くなったと身支度をすませて下へ降りていくと、やっぱり同じ場所で立ち話は続いている。

さらには休みの日、図書館に行く。自転車置き場付近で立ち話をしているその人に挨拶し(「どこ行くん?」「ちょっとそこまで」「わたしもはよ行かなあかんねん」)、図書館へ行き、本を選び、ついでに銀行へ行き郵便局へ行き、買い物までして戻ってくる。すると「はよ行かなあかんねん」と言っていた人は、まだそこにいて、戻ってきたわたしの顔を見て「あら、うっかり話しこんでしもたわ」とあわてて出かけていったこともある。

いまの時期、外で立ち話は寒かろう。現に、その人も相手の人も肩をすぼめ、自分の体に自分の腕を巻きつけて、足踏みしながら話している。寒さで白っぽい顔色にさえなっているのだ。

なんで外で立ち話なんだろう、と思うのだが、わざわざ相手を家へ呼んで、腰を落ち着けてじっくりする話などではないのだろう。

立ち話をするのは日本人ばかりではないらしい。『からだの日本文化』にはこんな箇所がある。
 スペインの港町バルセロナにランブラスという繁華街がある。大通りの真ん中に緑の安全地帯があり、花屋とか新聞のキオスクとかが点在している。このあたりで、人がたむろして立ち話をしている。私が大通りに臨むホテルの窓から観察していると、夜中の二時、三時になっても、人は立ち話をやめない。なかには、数時間ぶっとうしで、ふたり、しゃべっていた中年婦人もいた。
 見ている方も根気のいることであったが、結論――この人たちは立っているのが好きなのだなあ。
(多田道太郎『からだの日本文化』潮出版社)
ヨーロッパ人が立っているのが好きかどうかは知らないのだが、立ち話はおそらく立っていなくては成立しない話なのである。立ち話は座談には昇格しない。そしてまた、昇格しないからこそ、一方でそろそろ終わらなければ、と思いながら、いつまでもずるずると続いていくのだろう。ちょうど、試験の前になるとマンガの本が読みたくなるように。そろそろ終わって勉強しなくては、と思いながら、長編マンガのコミックスを一巻から読み直しはじめ、あと一巻、あと一巻と思いながらだらだらと読み続けるように。

腰を落ち着ける、という言い方があるように、座ることは「座ってじっくり取り組むこと」でもある。
小学校での学級崩壊というのは、高学年と低学年ではその性格がちがうという。高学年の学級崩壊が、担任に対する反抗という性格であるのに対し、低学年、とくに学校に入学して間のない一年生あたりでは、四十五分間、席について人の話を聞く、ということができないことから来るものらしい。先生が話していても、そういう子供たちは、平気で席を立って教室のなかをうろうろする。そういう子が何人も出てくれば、確かに授業は成立しないだろう。

彼らも、遊びたいとか、友だちと話がしたいとかの目的があって教室のなかをうろうろしているわけではないだろう。ただ一定の時間、座るということができないのだ。うろうろするような子供が相手では、話を聞かせることができないばかりか、ノートに字を書かせることも、何かをさせることもできない。椅子に座らないというだけで、学校ですることのほとんどは不可能なのである。

そういう子は学校という空間でなければ、座ることができるのだろうか。家でなら、四十五分、座って親の話を聞いたり、本を読んだり、絵を描いたり、粘土で遊んだりすることができるのだろうか。TVやビデオなら座って見ることができるのだろうか。
先生の言うことも聞かず、目的もないまま、まるでブラウン運動をしている花粉のように、教室をうろうろとしている子供のことを思うと、あらためて多田道太郎のこのことばが思い出される。

「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。」

こう考えていくと、このブラウン運動の対極にあるのが、禅の言葉の「只管打坐」のように思えてくる。あまり知りもしないことを言うのは気が引けるのだが、この言葉は「ただひたすら坐る」ということであるとわたしは理解している。もちろんこのときの「坐る」は「坐禅」ということだが、この「坐禅」の宗教的意味は別として、腰を落ち着けて集中して、自分の中のいらないものをどんどん取り払っていくプロセスなのではないかと思うのだ。つまり、もっとも純粋な、夾雑物のない「座る」がここにはあるように思う。


長時間座って仕事をしたことがある人なら誰でも知っていると思うが、立つことにくらべて、座るという姿勢は必ずしも楽なことではない。だが、立つという状態が、すみやかにつぎの動作に移ることができる体勢であるのにくらべて、座っている状態では、つぎの行動に移るのはむずかしい。何かひとつのことに集中することと、座ることのあいだには、あきらかに関係があるように思われる。

多田道太郎の『しぐさの日本文化』には、座ることがこのように考察されている。
 落ち着く、ということだけで、坐の意味を考えるのはまちがっている。坐は、臥と立の中間にある姿勢である。臥にくらべれば坐はより生命的、根元的である。臥にくらべれば坐はより社会的であり、立にくらべればより生命的、根元的である。栄久庵憲司氏は「臥・歩・坐」をそれぞれ生命的根源、動物的根源、人間的根源の姿勢と呼んだ。私はこれを少しずらして考えたい。臥が生命的根源であるという拙には異論がない。…ただし、「歩」あるいは「立」は、動物的というよりはむしろ社会的姿勢なのだと私は考えたい。社会という集団組織を組むための姿勢である。「坐」は、人間的というより、むしろ待機の姿勢である。社会と生命の根源のあいだにあって、待つ姿勢である。
(多田道太郎『しぐさの日本文化』筑摩書房)
この「待つ姿勢」という指摘は非常に興味深い。
この角度から、もう少し座ることを考えてみたい。

とんび座りの記憶

2008-01-27 23:17:09 | weblog
昨日ちょっと書いた「とんび座り」についてもう少し。

わたしは「とんび座り」という呼び方を多田道太郎の『からだの日本文化』ではじめて知ったのだが、要は正座の状態から両足を曲げたまま外にずらし、腰をじかに床につける座り方である。
 とんび座り、またの名前を亀居ともいう。カメが両足を甲から出している格好に似ているからであろう。とんびはもちろん鳶である。鳶が枝にとまって、羽を広げている姿に似ているからだろうか。この命名の由来、自信がない。

 昔――といっても戦前のことである。畳の上では正座というのがきまりであった。特に食事時、特に女性は厳しくしつけられた。横座り、とんび座りは「だらしない」としかられた。……

 戦前の女の子は、友達同士笑い興じているときなど、初めの正座が崩れてだんだん足が出てくる。横座りの子もいたが、多くはとんび座りになった。ひざを合わせ、おしりをべったと畳につけ、足の裏をカメのように出す。

 子ども心に私はおさないエロティシズムを感じた。優美だと思った。なんとかまねて女の仲間入りをしたいと思い、やってはみたが足が痛くて辛抱しきれなかった。
(多田道太郎『からだの日本文化』潮出版社)

ここで多田道太郎は「足が痛くて辛抱しきれなかった」と書いているのだが、わたしの記憶では、小学生の頃、体育の時間に先生がやってみて、とクラスの全員にさせたことがあるのだ。男子がいたということは小学校の五年か六年ということになるのだが、男子の半分以上はふつうにできていたような気がする。残りの半分より少ない、三分の一ぐらいだろうか、ともかく男の子たちが、いたた……、とか、腰を浮かせたまま、これより下にはおろせない、とかと言っているのを、わたしたちはおもしろがって眺めていた。確かに女の子で「できない」と言っていた子はひとりもいなかったように思う。

ただ、わたしの頃は、畳で食事を取ることもまれだったし、自分の部屋は畳敷きではあったが、机と椅子があった。畳に座って本を読むときは、背中を壁にもたせかけ、足を投げ出して座っていたように思う。この「とんび座り」というか、わたしはこの座り方を特に呼ぶことはしなかったのだが(「お嫁さん座り」というのはいったいどこで、誰から聞いたのかまったく記憶にないのだが、変な言葉だなあ、と思ったことをはっきりと覚えている)、わたしにとって楽な座り方ではなかった。腰骨や大腿骨が痛むというようなことはなかったのだが、ともかくうまく腰が落ち着かない。正座をするとすぐに足が痺れるが、この座り方だってやはり足が痺れた。

たまによその家に行って、それも友だちの家とかではない、しかるべき家に出かけていって座敷に通され、「足を崩していいですよ」と言われても、横座りをすると、腰がねじれる感じが気持ちが悪い、とんび座りも落ち着かない。となると、いちばん楽なのは正座なのである。「お行儀の良いお嬢さんですね」と言われて気をよくしていたら、立ち上がったときに足の感覚がなくなって、そう言ってくれたそこの家の奥さんの肩に、思いっきり倒れ込んでしまったこともある。

この「とんび座り」に多田道太郎は小さい頃からえらくエロティシズムを感じていたようなのだが、このなかで本の中に高見順の『いやな感じ』にふれている箇所がある。
「大森あたりの水商売の女が、鏡の前にべたりと座り込むくだりが印象的だった。たしか、ハマグリの貝から舌が出るように、女のしりから足が出ている感覚描写だった、呼んで私はうなった。子どもの時の記憶がよみがえった。」とあるのだが、いまさっきざっと読み返してみても見つからない。かなり丁寧に見返してみたのだが、見つからないのだ。今度もういちど最初から読んでみよう。
ともかく、わたしはこの座りかたにはちっともエロティシズムを感じない。わたしの記憶に強烈に残っているこの座りかたをしていた子は、エロティシズムなんてものではなかったからである。

中学の修学旅行に行ったときのことだ。そのときの修学旅行は行く先々で、夕食はテーブルでの食事ではなく、学年全員が入れるほどの広い座敷に、一人ずつ足つきのお膳が出るものだった。わたしの隣の丸谷さん(仮名)は、非常に女性的な体型、というか、十五歳にして中年女性のような、もしくは土偶のような、きわめてどっしりとした腰つきのもちぬしだったのである。彼女がすわるだけで、ざぶとんはいっぱいになるほどだったのだが、その彼女がそうやって足を崩すのである。そうでなくても大きなお尻だったのに、そこからさらに足が出る。いくら広い座敷といっても、学年全員が詰め込まれているのだから、ざぶとんは隙間なくしきつめられている。必然的に、彼女のざぶとんからはみでた太い足は、わたしの座布団へと進出してくるのだった。当時わたしが彼女と並んで歩いていると、団子と串、あるいは鉛筆と消しゴムと称されていたのだが、その串もしくは鉛筆の方が感じる窮屈さというのは並大抵のものではなかった。ジャージに包まれた彼女のやわらかなふくらはぎが、正座しているわたしのそれにぎゅっと押しつけられ(というのも、彼女の足は、さらに領土拡張を図っていたのである)、なんともいえないその肉感的な感触に、食欲も失せる思いだったのである。

五泊六日の北陸旅行だったが、何よりはっきりと記憶に残っているのは、永平寺でも東尋坊でも兼六園でも黒部ダムでもなく、やたらに窮屈だった食事時間、毎回毎回押しつけられたふくらはぎの感触である。

しゃがんだり座ったり

2008-01-26 23:30:15 | weblog
ひところ、駅の階段や電車のなか、コンビニの前などで、「地べた」にべたーっとすわるティーンエイジャーのことが話題になったことがある。「地べたりあん」などという、半ば揶揄するような呼称は、果たして普及したのかしなかったのか。
ともかく、一時期にくらべると、端で見ていると気になってたまらなくなるような、地面や床に直接すわりこむ人間の姿は、ずいぶん減ってきたように思う。

その前はコンビニの前で、ヤンキー(アメリカ人の意にあらず)と呼ばれる人々は、「ヤンキー座り」という独特な座り方をしていた。だが、このヤンキー座り、要は腰を地面にべたっとつけない、いわゆる「しゃがむ」姿勢だったように思う。なんでそれを「しゃがむ」と言わずに、わざわざ「ヤンキー座り」さらには「ウンコ座り」などという言い方もあったような気がするのだが、そういう言葉を使っていたのだろう。
だれかご存じだったら、教えてください。

ともかく、しゃがむ、という体勢は、ひと昔前の日本人なら人前で取っても、さほど恥ずかしい体勢ではなかったのである。

あれは弟が生まれるときのことだから、わたしがたぶん三歳だったときの記憶なのだが、祖母につれられてバス停でバスを待っていたのだ。ところがバスがなかなか来ない。すると祖母は腰をおろしてしゃがむ体勢になった。そうして、わたしにもそうしろと言ったのである。わたしは目の前を車や人が行ったり来たりするなかで、そんな体勢を取るのが恥ずかしく、しかもしゃがんでしまえば足首が痛くなり、すぐに立ち上がった。立ち上がって、上から見下ろす祖母の、白髪交じりの髪の毛が薄く、地肌が見えていたことをいまでもよく覚えている。
腰を地面につけて座って、汚い、やめなさい、と叱られたのは、同じときの記憶だったのだろうか。ともかく、腰を直接つけるのは汚い。だから腰を浮かせたまま、休むのである。

そういう体勢になっていると、わたしはずっと足首が痛くなると思っていたのだが、腰が痛くなるものであるらしい。
多田道太郎の『からだの日本文化』(潮出版社)には、鶴見俊輔の『生き方の流儀を求めて』から、「低いところにその本があったので、それをとってしゃがんでよみはじめ、読み終わったときには日がくれていた。トゥルゲネフの「ルーディン」という本で、そういう出会い方をする本は、もうこれからはないだろう。腰が痛くなるから」と引用されている。

これを読んで、確かに低いところにある本は、しゃがんだまま取り出し、そのまましばらく読み続ける、ということに気がついた。さすがに最後まで読んだりはしない。ほんの数ページめくって、もっと本格的に読みたいときには立ち上がる。めでたく「立ち読み」の体勢になって、そこから腰を落ち着けて(と、これはレトリック)読みはじめる。人生で少なからぬ本を、本屋で立ったまま読んできたわたしにとって、書棚の前に立って読むことは、なじみの動作なのである。足が疲れてきたら、重心を交互に移動させたりもするが、熱が入ったら、そうして時間さえ許せば、そのまま一冊読んでしまうこともある。しゃがんだままだと、足首に負担がかかって、一冊どころか十ページも読めない。
多田道太郎も書いている。「しゃがむと腰にこたえるのか。いや、しゃがむこと自体よりも、しゃがみつづけること。これがいけないのだ」

そんなふうに、かつては日本人にあたりまえだった「しゃがむ」という体勢が、やがて「ヤンキー座り」という特殊な呼び方をされるようになり、当時、そのヤンキーさえもが地面に腰をつけることには抵抗があったのに、のちの少年少女たちはその抵抗さえも乗り越えた。地面に直接腰を下ろすのは、禁忌でも何でもなくなったのである。

とはいえ、わたしはこれも学校教育のたまものであるような気がしてならない。
学校というところは、地面に腰をつけてすわらせるところなのである。それも「三角座り」(一部では「体育座り」とも呼ぶらしい)という座り方で。
その呼称は曲げた脚が三角形になるところから来たのだろう。以前、竹内敏晴が、あれは抵抗を封じる座らせ方、子供の呼吸を困難にするようなとんでもない姿勢を強いるものである、とどこかで書いていたのを読んだ記憶があるのだが、いったいいつから定着したのか、小学校ではまずこの座り方を教わるように思う。そうやって、体育館では床に、校庭では地面に、腰をつけて(たいていは体操服なのだが)べたっとすわるのである。

学校という空間だけならまだしも、京都駅の駅頭などでは、修学旅行の中学生たちが、一斉に床に直接腰を下ろして座っている。最初に見たときはぎょっとしたのだが、立っているとふらふら歩いていく子が出るかもしれない、中腰だと落ち着かない、そういうときに直接座らせるというのは、ごそごそしやすい子供を動かさない、という一点に限れば、効率がいいことなのかもしれなかった。

そういうことをやらされていれば、地面に直接すわることに抵抗が薄れてくるのも当然なのである。その証拠に、電車の床に腰を下ろしている人間の座る格好は、もちろん正座ではなく、かといってあぐらでもなく、例の三角座りから腕をとりはらったものだ。

いまではトイレも洋式がほとんどで、しゃがむ体勢でトイレを使うことができない子供も増えているらしい。だから小学校入学時には、和式トイレが使えるように、家庭で教えて置いてください、という通達があるらしい。
外に出てしゃがむどころではない。わたしたちの生活の中から「しゃがむ」ことがどんどんなくなってきているのだ。

その『からだの日本文化』のなかにはこうも出てくる。
「からだの技法の基礎はやはり訓練である。訓練なくては、座ることもままならないのだ。」

しゃがむ。正座する。正座を崩す座り方をする(この本には正座から両足をお尻の下からはずして横に出す座り方を「とんび座り」と書いてあるのだが、あれはどういう呼び方が一般的なのだろう。わたしはあれを「お嫁さん座り」と聞いたのだが)、あるいは、脚を崩す、あぐらをかく。
昔は時と場合、対座する人との関係に応じて、さまざまな座り方があった。
三角座りというのも、きわめてその関係から要請された座り方なのだろう。だが、ほかの座り方が、椅子が入ってきたことでどんどん機会が減ったのにくらべて、三角座りだけは、学校空間の中では、椅子のない時の唯一の座り方となっていったのだ。

この本の中には、どの体勢が、椎間板への内圧が一番少ないかが記されている。
 姿勢による椎間板の内圧の変化――
 寝ているとき、いちばん内圧が低いのは当然として、起きているときには、正座の姿勢がいちばん低く、平方センチ当たり、2.1キログラム。ところが、あぐらをかくと、5.1から5.8キログラムにおよぶという。……

 いすに座った姿勢では、2.3キログラム、立った姿勢では2.1キログラム、はるかに楽なのである。

正座の訓練をするべきなのかもしれない。
いまのところ、わたしは十分が限界です。

噂と宗教

2008-01-25 23:38:08 | weblog
(※タイトルのわりにたいした話ではありません。)

キッチュ、とわたしの頭の中にはインプットされているので松尾貴史と書くとイマイチしっくり来ないのだが、そのキッチュ、というか松尾貴史の『業界用語のウソ知識』の「宗教」という項目には、こう説明書きがしてある。
【宗教】
芸能人が関わったときのみ、犯罪のように扱われてしまう活動、または団体。「カツラ・植毛」「ホモ・レズ」に並んで、本人のいないところでは、大いに噂される題材の一つ。
(松尾貴史『業界用語のウソ知識』小学館文庫)

芸能人ばかりではない。一般人であっても、一昨日も書いたような、いわゆる「ここだけの話」としてヒソヒソと取りざたされる話、「役にはまったく立たないのだが、秘密という価値だけがある話」の内容は、宗教、「カツラ・植毛」「異性関係」(同性関係というのは、ちまたではそんなにあちこちに転がっている話ではないので、噂されるのはこちらのほうだ)の三つが大きな柱と言えるかもしれない。

それも、あの人は熱心なクリスチャンで、毎週日曜日になると教会に通っているとか、DSで般若心経を写経しているというたぐいの宗教ではない。いわゆる「新興宗教」というやつである。新興宗教の信者という「情報」はなぜか価値のある情報として、声を一段落として「だってあの人は××だもの」「ええっ、そうなの?」となって、わたしたちのあいだをかけめぐる。

わたしたちはどこで線引きしているのだろう。
ある種の「信者」は別に秘密でもなんでもなく、別の「信者」は秘密になってしまう。
秘密にはならない方の信者に対しては、いまのような時代に信仰を持っている人として、どちらかといえば尊敬の念を抱くのに対し、声を潜めて噂する信者に対しては、キッチュの定義ではないが、「犯罪のように扱」ってしまうのである。

確かにそういう人からは、新聞を取ってください、と頼まれたり、今度選挙があるのでよろしく、と言われたりすることはあるし、その手の勧誘も度重なると、わずらわしいものではある。だがそれも近所づきあいの一環として割り切って「ああ、新聞、読まないんですよ」としらじらしく答えたり、「ああ、選挙ですね、はい、わかりました」とまったく心にもない返事をしておけば、大きな被害があるわけではない。

一方の新興がつかない方の信者に対しては、いまのような時代に信仰を持っている人として尊敬の念を抱く。
その信仰している中身の方を知らないことにかけては一緒なのである。
だが、一方は、よくわからないけれど、なんとなく良いもの、他方はよくわからないけれど、なんとなく怖いもの、悪いもの、とわたしたちはとらえている。
考えてみればこの線引きも、奇妙な話ではある。


その昔、大学の合格発表を見に行ったときのこと。
掲示板に自分の番号を確認して、とりあえず一箇所だけでも行き場はできたわけだ、と思いながら帰ろうとしたら、化粧っ気のない、地味な格好のお姉さんに「合格おめでとうございます」と声をかけられた。何でわかったんだろう、と思って立ち止まると、そのお姉さんは、学部はどこですか、とか、どこからいらっしゃったんですか、とかと当たり障りのないことを聞いてくる。この人は何でこんなことを話すんだろう、と思ったら、いきなり「幸福ってどういうことだと思います?」と聞かれた。何と答えたか、まったく記憶にないのだが、知りもしない相手にそんなことをいきなり聞くような人間がまともなはずはない、これは何かの勧誘にちがいないと気がついて、とっとと逃げ出したのである。

以来、めでたく大学生になってから、その手の勧誘には何度も遭遇したが、少しのあいだだけでもまともに相手をしたのは、その最初の一度だけ。あとはクリップボードやリーフレットを持って立っている人間を遠くからみるだけで、視線をそらし、話しかけられても足をゆるめることもなく、とっとと行き過ぎたものだった。

もちろんそういういくつかの団体による勧誘には注意するよう、大学の側からの通達もあった。だが、そういうものは、本来、向こうから接触してきたときに注意すればいいだけの話ではないのだろうか。
とくにそういうことをされたわけでもないのに、たまたま信者であることを知っている身近な人のことを「あの人は××なんだってよ」などと噂として広めるのは、なんだか変な話のように思ってしまう。
つきあいたくないならつきあわなければいい。
だがそういうことと、「本人のいないところでは、大いに噂」することは、いささかちがうことのような気がするのだ。
少なくとも、その人が何を信じようが、その人の勝手なのだから。

以前、医院をさがして、いくつか検索して、比較的近くで良さそうなところがあった。そこで電話をかけて症状を話したら、そのときの対応も大変感じのいいもので、住所を確かめてそこへ向かったのである。入ってみて、いきなり某新興宗教の本が受付の横に並んでいたのだ。わたしは一瞬、そのまま帰ろうかと思った。

それでもお医者さんと症状の話をし、治療を受け、それがわたしにとってはたいそう良いものと感じられた。だからわたしはそこをかかりつけにしたのだ。

もちろん、わたしのなかに、やっぱりそうした宗教に対する違和感はあるし、その一部はもしかしたら偏見と呼ばれるようなもの、差別意識と呼ばれるようなものも絶対に含まれていると思う。それでも、そうした気持ちをもちながらも、一方で、これまで受けてきた治療から、患者として、その人をお医者さんを信頼している。そうして、そんな関わり方はわたしは間違っているようには思えないのだ。
たとえば勧誘されるとか、何かの講読を勧められるとか、それで具体的な問題が起これば、それはそのときまた考えればいいと思っている。

偏見とか、差別意識とか、そういうものを自分の中からなくすのは、ほんとうのところは不可能なんじゃないか、と思ってしまう。ある種のものをいやだと思う気持ち、知らないことを遠ざけようとする気持ち、自分の好みに合わないものを排除しようとする気持ち。
かえって偏見も差別意識もない、と言い切っている人の方が、なんだかうさんくさいような気もする。
それでも、そういう気持ちを持ちながらも、一方で、それをできるだけ行為に出さないような方法は可能なのではないかと思うのだ。
それはたぶん「こうすべき」というやり方ではなく、相手との関係でそのたびごとに決まってくるような、個別具体的なものなんじゃないんだろうか。

「がんばれ」の代わりに

2008-01-24 23:21:28 | weblog
ひところはだれもが挨拶代わりに「がんばって」だの「がんばれ」だのと言っていたような気がするのだが、近頃ではめっきり耳にすることも少なくなった。

そのころ、相手が受験生だったりすると、「それじゃがんばって」という言葉にも切実さがこもったのだろうが、それ以外の相手であっても、特に具体的に何かをがんばってほしい、という願いをこめるようなことは全然なく、まあいろいろあるけどがんばってね、ぐらいの軽い調子で使っていたように思う。

「がんばってください、って英語ではどういうの?」と聞かれることも多かった。当時は映画スターにファンレターを書く子も周囲には少なくなかったのだ。いまの子はどうしているのだろう? 個人サイトを持っている人だったら、そこ宛にメールが出せるようになっているのだろうか。ともかく、わたしはたいてい「アメリカ人やイギリス人ってがんばらないからがんばれ、っていう言葉はないんだよ」と答えていたのだが。

当時知っていた外国人のなかには、この「がんばって」というのは、日本人特有の心的傾向をあらわした言葉である、と言っている人もいた。
彼はつねづね、現代日本はファシズムの段階は脱したが、未だ民主主義は定着していない段階である、というのが持論で、この「がんばって」という激励も、あきらかに上下関係に基づくものである、と言うのだった。

つまり、「がんばれ」とは、かならず目上の人間から目下の人間に向けて言われる。目上の人間が、その力関係を確認する(相手にも確認させる)ために、「がんばれ」と言うのである、と言っていたのだ。
Good Luck! にしても、God bless you! にしても、「がんばって」と同じように、もはや慣用表現となってしまって、誰もその意味を深く考えたりはしないが、それでも根本にある「相手に祝福を贈る」という性格だけはまだ残っている。だが、「がんばって」の根本にあるのは、相手に「励め」「努力せよ」と命じる言葉であるから、はっきりと上下関係があるのだ、と言うのだった。

日本がファシズムの段階を脱し、民主主義の途上にある、という見解は、なんだかおかしいぞ、そのうち丸山真男でも読んで論破してやろう、と思っていたのだが、丸山真男を読まないうちに、その人とも会うことはなくなってしまった。だが「がんばれ」が命令形で、そこに上下関係がこめられている、という指摘は、なるほど、と感心したのでいまでもよく覚えている。

わたしたちの周囲からこの言葉がいつのまにか消えていったのは、いくつか理由があるのだろうが、そのひとつには、「鬱の人にはこの言葉は禁句だ」ということが定着したこともあるだろう。

いったい誰が、どういう状況の下で、どのような言い方で言うかによってものすごく印象も変わってくるように思えるこの言葉が「禁句」と言えるほど、いかなる場合でも不適切なのかどうかは知らない。
ただ、そういわれることも、なんとなくわかるような気もする。


以前「バイバイ」と人から言われると泣き出す、という子がいた。一歳前ぐらいではなかったかと思う。とにかく、「バイバイ」というと、その人はいなくなってしまう。だから、その子は寂しくなって、泣き出してしまうのだ。
「だからウチの子にバイバイは禁句なの」と、お母さんは苦笑しながらそう言っていたが、そのぐらいでも因果関係という考え方はするのだなあ、と思ったものだった。

また別の子で、もう少し大きい、四歳ぐらいの子だったが、その子の家に行って、一緒に遊んでやって、帰り際に片づけようとすると、その子のお母さんが大慌てで「片づけなくていいの」と言う。お客さんが片づけ始めると寂しくなって、その子は泣いて暴れるのだそうだ。お客さんだって帰らなくてはならない、ということは理解していても、帰る態勢に入っていくのを見るのがつらいらしい。だから、いきなり帰ってくれ、と頼まれたのだった。

自分の前から人がいなくなろうとするのを見るのがつらい、寂しい、という気持ちはよくわかる。さすがにわたしたちは、それで泣いたり暴れたりはしないし、一緒に楽しいひとときを過ごして、名残惜しい、寂しいという気持ちはあっても、いまはお互い気持ちよく別れ、またつぎに会うときを楽しみにする、というふうに気持ちを持っていこうとする。

ただ、そんなふうに気持ちのコントロールがうまくいくときばかりではない。特に、精神的に参っていたりすると、やはり人がいなくなるつらさをうまく処理できないこともある。

そんなとき、「じゃ、がんばって」と言われると、「あとはあなたひとりでやりなさい」と突き放されたように思うのかもしれない。
それまで親身になって自分の話を聞いてくれていた人が、てのひらを返したように「じゃ、がんばって」。これは精神状態によっては、かなりきついことかもしれない。

そうして、逆に、それまでしんどい話を聞かされた側も、どこかで「やれやれ、これでこの話から解放される」と思ってしまうかもしれないのだ。何にせよ、他人のしんどい話を聞かされる側もやはりしんどいものだ。しんどい気分は伝播するし、聞く方も、どうしても巻き込まれてしまう。そういうとき、どれだけ親身になって聞いてあげていた人でも、どこかでそこから離れられることを喜んでしまっても、それはだれにも責められないように思う。そういうとき、つきはなす気持ちはなくても、ごく軽い調子で「じゃ、がんばって」と言ったとしたら、相手には、意図以上のショックを与えることになるのかもしれない。

いまでは「がんばって」の代わりに、どう言うのが一般的なのかどうかはよくわからないのだが、やはり別れ際には「これが最後じゃないんだよ、いまは離れるかもしれないけど、また会えるんだよ」というニュアンスをどこかで残したいものだ。また会える→それまでお互い、元気でいようね、ということが、祝福を贈ることにもなるのではあるまいか。

だから、別れ際には、わたしはこんなふうに言うことにしている。ささやかな祝福を感じ取ってください。

じゃ、また。

価値ある情報、無価値な情報(※補筆)

2008-01-23 23:28:03 | weblog
SF小説はそれほど読んでいないのだが、それでも高校時代の一時期、フィリップ・K・ディックやレイ・ブラッドベリなどの超有名どころの作品をせっせと読んでいたころがある。そうなると、自分も何か書いてみたくなるもので、いつもああでもない、こうでもないと頭の中でさまざまな「近未来」を空想していた。

ひとつ思いついたのが、「情報」が通貨の代わりになる社会である。
個々人が入手するさまざまな情報を、それを査定してくれる場所に持っていけば、情報のランクに応じて物品と交換してくれるのである。
どうでもいい情報なら、最低ランク。
「秘密情報」は高いランクがつくが、なかでも有名人のスキャンダルとなると、最高級ランク、ヨットが買えるほどである。

当然そうした「情報」に高い価値の置かれる社会であるから、人々の情報の取り扱いは慎重をきわめる。それでも洩れ出す情報に、高い値がつくのである。
そうしたなか、どうかした拍子に国家機密を知ってしまった主人公、命をねらわれることになり、ピンチにつぐピンチなのだが、最後にそれを新聞社に無事持っていく。それでめでたしめでたし、となるのだ。
最後の「新聞社」のくだりは、スティーヴン・キングの『ファイア・スターター』のパクリだ(笑)。

そこまで考えたのだが、国家機密をどうするか、一般人である主人公がどうしてそんな国家機密を知ってしまうのか、さらには「情報の査定」というのは、いったいだれがするのか、などと、考えてもそこから先はいっこうに具体化せず、結局は頭の中でひねるだけで終わってしまった。
ただ、そのころから「情報」は価値がある、というか、情報は一種の力となりうると考えていたのだ。


そうした時期を過ぎ、やがてSFもほとんど読まなくなってしまったころ、あらためて情報の持つ力のようなことを考えたことがあった。身近に、ふとしたことから「上」の人間の不行跡を知った人物が出てきたのである。
その人物はそれを知るやいなや、「大変! 大変!」とわたしも含めた仲間内にふれまわり、いったいどうしたらいいものだろう、と喧々囂々、大騒ぎになったのである。

大騒ぎ、というか、もう少し正確に言うと、その不行跡(良識的には多少問題ではあっても、刑法的な罪にあたるようなことではない)をしかるべき筋に訴えるべきかどうか、しかるべき筋というのは具体的にどこが適切なのか、訴えるとしたら、どういう方法を採ればよいのか、と、本業そっちのけで寄るとさわるとそういうことばかり言い出す連中が出てきたのである。

こういう書き方が公平ではないのはわかっている。
当時のわたしはそういうことを言っている連中が、ものすごくいやだった。わたしにはそのことは、あくまでその人のプライヴァシーに属することのように思えて、どう考えても立ち入る必要を感じなかったのである。
だが、そう考えなかった人たちもいて、彼らはこういう不行跡はわたしたち全体の問題だ、倫理的に許せることではない、と強く主張した。だが口先ではそう言いながら、わたしの目には、彼らは自分たちが入手した情報をいったいどう料理しようか、と舌なめずりせんばかりにいるように見えて、彼らと同じ部屋にいることすら耐え難い思いだった。わたしには、彼らが不正だの倫理だのと言いながら、実際には力の感覚を楽しんでいるように見えてならなかったのだ。

たとえ秘密の情報であっても、自分が握っているだけでは、情報は何の価値も持たない。自分以外の人間に、自分がそのことを知っていることを知らせなければ、秘密は価値とはなっていかないのだ。だからその情報を入手した人物は、周囲の親しい人間と共有することにする。けれどもそれだけでも、まだその情報の価値はごく狭い間でしか通用していない。その情報を広く公開していけば、その「上」の人間の進退問題に関わるかもしれない。ひとりの人間の進退を、自分が握っている。そういう力の感覚である。

もしかしたらこれは、ひどくねじ曲がった見方なのかもしれない。彼らはただ不正を正そうとしていただけなのかもしれない。それでもわたしはわたしの見方でしか、事態を眺めることはできなかったし、いま振り返っても、その見方はそれほど変わっていない。

本来なら一同に範を示すはずの「上」にある人間が、このような不行跡をなしているとさらに「上」に訴えて、しかるべき処置をしてもらおう、と主張する人間が少なからずいた。
だが、自分たちが訴えたことが、件の人物にわかって、自分たちへの評価となって返ってくるようなことは避けたい。となると、密告の手紙を書くのが一番ローリスクハイリターンではないか、という、わたしの目から見るとひどくおぞましい意見が、危うく通りかけたのである。まあいろいろ経緯があって、そうはならなかったのだが、わたしの知らないところで、実際に何らかの行動に出た人間もいたのかもしれない。

ともかくそれ以降、その「上」の人間に対して、目立つ形での処分のようなものはなかったし、その人物の行動にも目立った変化はなかった。つまり、情報が、ごく狭い範囲の外にまで、価値を持つことはなかったのである。
おそらく彼らはさぞ失望したことだろう。品性の卑しいわたしは、しばらくいい気味だと思っていた。


以前「秘密の話」でも書いたことがあるのだが、人が知らない情報というだけで価値があるわけではない。あるいは、役に立つ情報というだけで、価値があるわけでもない。たとえば「掃除をするときの重曹の使い方のコツ」というのは、重曹で掃除をしようと考えているたい人にはたいそう有意義な情報であるが、掃除にはマイペットを使う人や、掃除してくれる人を雇う資力のある人や、そもそも掃除をしない人にはなんら価値のある情報ではないのだ。

価値のある情報とは何か。
それは、多くの人が知りたいだろう、と思う情報なのである。
誰もが知っている人の、人には知られていないこと。
人は情報を入手した段階で、これはおそらく多くの人が知りたいと思うにちがいない、と考える情報を、「価値あるもの」と考える。

だが、それをひとりで抱え込んでいるだけでは、言葉を換えれば知っていることを誰かに知ってもらわなければ、価値にはなっていかない。だから、人にそれを知らせなくてはならない。
知っている人から知らない人へ送り出される。
「ここだけの話なんだけどね……」
「へえ、知らなかった。そうだったんだ」
そのときの、知らない人から寄せられる賞賛の目。つまり情報と交換に、人は力の感覚を得る。それを原動力に、その人はまた別の人にもその情報を送り出す。

そもそも「価値がある」という判断は、情報の受け手が受けとって初めて下すことができる判断のはずなのだが、人から人へと渡っていく情報は、送り出す段階で、「みんなが知りたい情報」として、あらかじめその価値が決定しているのだ。「これは秘密」「ここだけの話」「わたしだけが知っている」として「価値あるもの」と送り出され、情報の受け手はさらにそこから「みんなが知りたい情報」を送り出す。

おそらくそのときわたしの感じた嫌悪感というのは、まずなによりも、わたしが知りたくもない情報を、「あなたも知りたいでしょう?」とばかりに手渡されたことにあったように思うのだ。送り手の欲望と聞き手の欲望が一致しなかったのだ。

ともかくそういう天の邪鬼はさておいて、「秘密」というのは「人が知りたい情報」であって、その人の役に立つ「知識」ではないのだから、人から人へと動いていかなければ、何の価値もない。狭い範囲の人間しか知らなければ、まだその情報の価値は限られている。自分の送り出した情報の価値をさらに高めるためには、もっとそれを伝播させていかなければならないのだ。広範な影響力を持つ人間が知るところとなれば、さらにその「情報」は、そこから広がっていく。

やがて、その情報が具体的な影響力を持つのが見たいと思う。情報は見えない。だが、その情報の価値が具体的なかたちになって現れるのが見たいのだ。

ところが情報には、知りたい人と知らせたい人の欲望のバランスがつりあう時点というピークがある。そこを越えると情報の価値が下落し、全員に行き渡れば、もはや知りたい人はいなくなって、その役目をおえる。
『ファイア・スターター』でも最後に主人公が新聞社に駆け込むのも、新聞で報道してもらって、国家機密という情報をあまねく人の知るところのものとして、情報価値を無化させることによって、自分を救おうとするのである。

何かの拍子に、多くの人が知りたいだろう、と思う情報を入手した人は、くれぐれもその取り扱いに気をつけた方がいい。いっとき、力の感覚を楽しむことができるかもしれないが、いつかはかならずその価値は下落するのだし、あとで「金棒引き」(ああ、これは死語だろうか)という汚名だけが手元に残るかもしれない。

それにしても、情報を通貨として使うというアイデアは、なかなか悪くないような気がする。だれかこのアイデアを使いたい人は、ご連絡ください。アイデアの使用料に関しては相談の上で(笑)。

サイト更新しました

2008-01-22 23:11:55 | weblog
いろいろ苦労しながら書き続けた有島の記事ではありません(あれは煮詰めたい部分がいくつかあるので、もうちょっと先になりそうです)。

なんと去年の七月から九月の初めにかけてのつなぎの記事を、やっと「鶏的思考的日常vol.16」としてアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

いやはや、まったくこんなことを書いていたなんて、ちっとも頭にありませんでした。自分が書いたはずなのに、実に新鮮に読み返してしまいました(笑)。

背景画像は、ブログで八月に使っていたひまわりで、ずいぶん季節はずれになっちゃってるんですが、いろいろ書き直したり、まとめたりする記事があったために、放っておいてしまってたんです。
もうひとつ、まとめたい記事もあって、それもずいぶん前から頭を悩ませているのですが、なんとか近いうちにまとめることができたらと思っています。

近日中(笑)引き続きvol.17もアップする予定ですので、またお暇なときにでも読みに来てくだされば幸いに思います。

ということで、それじゃ、また。

有島武郎と共同体

2008-01-21 23:25:41 | 
ドナルド・キーンは「太宰治の文学」(『日本の作家』所収)のなかで、太宰治の「走れメロス」や「駆け込み訴え」「新ハムレット」の作品のように、外国人を登場人物に置いた作品に関して、「異人の登場人物は、完全に日本人にしたくなかったかのように、それでいてまことしやかな異人の人物を作り上げることができなかったように、二つの世界の間に不安定にぶらさがっているように思われる。……ちょうど外国の作家が日本人について書いた小説が(日本の読者の目で見る限りでは)何かこう誤っているように思われるように、これらのヨーロッパ文学の翻案物は私の心を動かさない」と書いている。確かに、メロスにしても、ユダにしても、キリストにしても、西洋人の目から見ると、不自然なのかもしれない、というのはなんとなくわかるような気もする。

だが、同じそのキーンが、有島武郎の処女作『かんかん虫』に関しては「外国の中に外国人を登場させるという思いきった手法は、西欧を完全に理解したと信じる有島の信念を間接的ながら物語るものであった。そして有島のその信念は、決して誤りではなかった」(『日本文学の歴史 11 近代・現代篇2』)と評価している。有島の描いたロシア人は、アメリカ人であるキーンが見て、不自然さを感じない、太宰のように「二つの世界の間に不安定にぶらさがっているよう」ものではなかったのだ。

1903年から1906年にかけて有島はアメリカのハヴァフォード大学で修士学位を取り、さらにそののちハーバードに移っている。単に外国生活の経験があるということにとどまらず、語学の能力もずいぶんあっただろうし、また勉強量もものすごかっただろうことは想像に難くない。さらに彼は精神病院で看護師として働いた時期もある。

ただ、同じ経験を積んだとしても、「西欧を完全に理解したと信じる」ことができるようになるかどうかはわからない。外国を舞台に、外国人を主人公にして描くとき、その外国人になりきれる資質のようなものがあるような気がする。
わたしはロシアのドゥニバー湾に降り注ぐ夏の日差しはしらないし、船底で働く仕事のことは、『かんかん虫』を読むまで知らなかった。けれども、まるで主人公と同じように、船底を叩くやかましい音を聞くことができるし、その場の熱を感じることもできる。

あるいは、わたしは北海道の冬を知らない。それでも松川農場のはずれの掘っ建て小屋のなかで、すきま風の吹きこむ暗闇の中で、三枚の塩煎餅を争う仁右衛門とその妻の空腹も、必死の思いも理解できるし、赤ん坊を間にはさんでわらにくるまって眠るその凍えるような寒さも、寒さの中で、それでもしだいに人の体で暖まってくる熱も感じることができる。

前田愛の『近代文学の女たち』のなかでは、『或る女』のこんな場面が引用されている。葉子が自分が産んでから乳母にあずけている子供の定子のところへ行こうとして、取りやめ、行けなくなったという手紙とまとまったお金を人力車夫に頼んで乳母のところへ届けさせる。行くのをやめたくせに、つい定子のいる乳母の家の近くまで、ふらふらと行ってしまう場面である。
葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のある軟らかい触感を感じていた。葉子の膝はふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角の朽ちかかった黒板塀を透して、木部から稟けた笑窪のできる笑顔が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。
赤ん坊の重さも感触も、体が覚えている、という場面である。
この部分に関して、前田はこのように言っている。

 この『或る女』というのは女性が書いた小説ではなくて、まちがいなく男性が書いた小説です。しかし男性がこういう女性の描写をするのは非常に難しいんです。たとえば乳房ひとつ書くにしても、それはたくさんの作家が書いているけれども、女性になりかわって乳房の感じを書くのは難しい。(…略…)

 有島の場合には、女性の体にかかわる想像力というものがことのほか豊かであったということです。これは実生活でもそうだったらしい。有島が外国から帰ってくるのは明治四十年ですけども、フランスから船に乗りまして、インド洋を経て日本に帰ってくる。その途中で『アンナ・カレーニナ』を英訳で読んでるんですが、そのときに船中で音楽会が催される、ある中年の女性がバイオリンを弾いている。そうすると有島はその曲を聴きながら、自分がバイオリンになったような気がするんです。弓が私の弦に触れるたびに心臓が震えだすと。私がその女性の中に入ってしまった。それで私の中に彼女がいる。そういうふうに書いています。そういう想像力のはたらきを、有島はもっていた人だと思うんです。
(前田愛『近代文学の女たち ―『にごりえ』から『武蔵野夫人』まで』 岩波書店)

なにしろバイオリンにまでなれるぐらいなのだから、女性であろうが、ロシア人労働者であろうが、農夫であろうが、ミッションスクールに通う小学生であろうが、そのなかに容易に入って行けたのだろう。相手に感応して、自分と相手の境を消してしまい、相手のなかに入っていくというのは、「想像力のはたらき」というのとは多少ちがうように思える。こうした自他の境が曖昧になる感覚というのは、言葉ではなかなか説明できないのだが、確かにわかるような気がする(わからない人にはわからないだろうという気もする)。おそらくは有島の場合、この感応力がことのほか高かったのだろうと思う。

有島の作品の登場人物たちは、いずれも前田の話に出てくる「バイオリン」、自分がその中に入り、自分の中にその人物がいるような登場人物たちである。だから、独特の存在感があり、血の暖かさのようなものを感じるのだろう。


わたしたちは共同体のなかに生まれる。自分自身を意識するようになるより前に、子供として、家族の一員として、人のなかにいることをあたりまえのようにとらえている。
家族を意識するようになるのは、おそらくは幼稚園や学校にあがってから、もうひとつの共同体にも属するようになってからだ。
わたしたちはただそこにいるだけのときは、そこにいる、ということにさえ気がつかないのだ。家の外に出ていかなければ、家の中が世界のすべてである。だから家族を家族と見ることもできないし、自分と家族の関係を考えてみることもない。つまり、わたしたちはいったんそこから離れてみて、そこを外から眺めることができるようになって、あるいは別のものと比較することで、初めて自分が所属している共同体のことを意識するようになる。

それと前後して、「自分」ということを意識するようになる。ほかの人間ではない自分。自分がやりたいように行動すると、家族のほかの人間と、あるいは学校のほかの子供とぶつかるようになる。周囲との衝突によって、自分が自分であるという意識は強いものになっていく。束縛があるから自由の意味がわかるし、命令されるから抵抗の意識も生まれるのだ。

『或る女』の主人公、早月葉子は「自分」であろうとした。そうして力の感覚を味わい、自分が支配できる相手を求めたり、捨てたりしてきたのである。けれども、そうした力は彼女がほんとうに求めているものではなかった。共同体が認める相手ではなく、自分が愛するに足る相手を見つけ、そうして全身全霊をかけて愛そうとした。

ある時期が過ぎてしまうと、わたしたちの多くは、自分というものを厳しく問いつめることをやめてしまう。とくに共同体に対して責任を負う側になっていくと、自分のことよりも、共同体を守るほうに意識は向かっていくのである。

外部から、共同体に対して攻撃をしかけてくるような敵。
内部にいる異分子。いつまでも「自分」の意志ばかりを主張し、調和を乱すような人間。
そうした異質な者は排除しにかかる。排除することで、結束を固めようとするのである。

「女性転落小説」の
・地位も資産もある、美しく魅力的な若い女性が
・徐々に転落していき
・最終的に死ぬことで作品が終わる
というのは、共同体の側からすれば、
・共同体の一部に場所が用意されているにもかかわらず
・その位置に不満を言い、抵抗を続け
・一員になろうとしないので排除する
ということでもあるのだ。

もちろん、人間はひとりでは生きていけない。何らかの価値を求めて、いくつかの共同体に属していく。共同体は、そのなかで人を育て、保護していくものでもある。

個人を包み込み、秩序と規範の内に置くもの。秩序と規範に従わない者に関しては排除するもの。
有島は共同体のそうした両面を、さまざまなかたちで問題にしていった作家であるように思う。
共同体の中心ではなく、やや、あるいは大きくはずれた位置にある人間の中に入り込みながら、あるいは自分の中にその人物を生かしながら、彼らを鏡のようにして共同体を描いていったのである。