陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト更新しました

2006-01-31 22:11:40 | weblog
昨日までこちらに連載していた「ヴァレンタインの虐殺」、手を入れてサイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/
昨日はうまく入らなかったエピソードをひとつ、追加しています。
おもしろかったらいいんですが、どうだろう。

* * *

Gonzaro Rubalcabaの"At Montreux"を聴きました。

アマゾンで買ったんだけど、届いてから毎日、駅へ行くときも、電車の中でも、昼ご飯を食べてる間も、家へ帰って雑用をしている間も、寝る前のちょっとの時間も、聴いて、聴いて、聴き倒すくらい聴きました。

なんていうんだろう、もう恋に落ちちゃって、どうしようもない、に近い感じ。

何を見てもルバルカバって、「超絶技巧」とか書いてあって、これまでちょっと不満でした。うまいのはわかってるから、もうちょっとマシなこと書いてよ、みたいに。
だけど、これを聴いたら、そう書かずにはいられない、っていうのが、よくわかった。

技術っていうのは、ここまで人を魅了するんですね。
圧倒的な技術を前にしたら、もうそれに賛嘆の声をあげるしかない。もう、好きになるしかない。

ただね、この人は、ピアノの「音」を持ってる人だと思うんです。

ピアノっていうのは、とりあえず音を出すことに苦労はいらない楽器です。だからわりと「音」を作るまえに、「音楽」の演奏になっちゃう場合が多い。っていうか、ルバルカバを聴く前は、あんまりこんなことを考えたこともなかったんですが。考えてみれば、そんな気がする。

"Diz"を聴き、"Inner Voyge"を聴き、三枚通して聴いて、はっきり思ったんですが、この人は、技術よりも音楽よりも前に、おそらくは意識的に「自分の音」のイメージがあって、それに向けて音を作っていった人のような気がするんです。そうして、いまも核にあるのが、「音」なんだと思う。

この「音」っていうのは、「音楽」じゃない。だから、なんというか、言語化を拒む部分がある。だからうまく言うのがむずかしいのだけれど、そういう部分があって、そのうえに「音楽」とか「技術」みたいなものがあると思った。

だから"Diz"はとっても好きなんだけど、"Inner Voyge"の方は、もちろんあれだけ生き生きとしたピアニシモを演奏できるのは、ほんと、この人しかいない、とも思うんだけど、何か、そっちの方へ行っちゃうのかな、みたいな、つまり、「リリシズム」みたいな、音楽の領域、もっと言っちゃうと、わかりやすい解釈の領域に行っちゃうのかな、みたいなところがあるなー、って思ったんです。何か、そんな方には行ってほしくないぞ、みたいな。

もしかしたら、また変なことを言っているのかもしれません。
ああだこうだ、って、たいしていろんな人を聴いてるわけじゃないんですけどね。

これを聴いてみたら、この人を聴いてみたら、っていうのがあったら、また教えてください。

ということで、それじゃ、また。
明日から、新しいことを始められたらいいなぁ、と思っていますが、もしかしたら、つなぎかもしれません(汗)。

この話、したっけ ~ヴァレンタインの虐殺 最終回

2006-01-30 22:45:41 | weblog
その3.17歳のころ

高校二年のとき、姉が突然、今年は「手作りチョコレート」にする、と言い出した。

わたしは昔からこの「手作り」というのには、たいそう疑問があった。別にチョコレートを作るわけではない。チョコレートを湯煎にして溶かして、別の型に流し込むだけではないか。それを「手作り」と称するのは、誇大表現ではあるまいか。

どうせ作るのなら、もっとちがうもののほうがいいよ、ブラウニーを作ろうよ、とわたしが図書館でレシピを探してきて、一緒に作ることにした。

溶かしたチョコレートに小麦粉と卵とつぶしたマカダミアナッツを加えてオーブンで焼く。焼き上がりはクッキーとケーキの中間ほどの食感で、とてもおいしかった。

ところがずいぶんたくさんできてしまい、一番きれいなところを選んで、姉の彼氏用にラッピングしても、ずいぶん残ってしまう。そこで父親と弟にもあげることにしたが、それでもまだ余ったのだ。

せっかくわたしも力を貸したことだし(というか、姉がやったのは、小麦粉をふるっただけで、あとはずっとわたしにやらせたのだ)、せっかくのヴァレンタインだ、わたしもだれかにあげようかな、という気になった。

さて、誰にあげよう、と考えて、図書館にもおいてない個人全集を貸してくれていた国語の先生を思いだした。そうだそうだ、先生がいた。先生にあげよう。

箱に入れてラッピングし、手紙を書いた。
当時、ちょうどフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んだばかりで、デイジーが住む対岸の灯を見ながら、ギャツビーが身を震わせるシーンを引用しながら、いろんなことを書いた。そのうち、なんというか、すっかり気分が出てしまい、やたらと感傷的なことを書いたのだと思う。

いま考えると、顔から火が出る思いだけれど、そのときは自分の書いた文章にすっかり酔って、いい気持ちでブラウニーの箱と一緒に袋に入れた。

翌日、颯爽と先生に渡しに行った。

ところが数日後、担任に呼ばれた。
「おまえなぁ、どのくらい本気だ?」
「へ?」
「××先生が言ってたぞ。嫁も子供も捨てるわけにはいかないし、って」
「へ??」
担任からは怒られはしなかったけれど、自分が責任を取れないようなことは書いてはいけない、と懇々と諭された。

わたしはそれまで書くことは好きだったけれど、自分の書いたものに読み手がいる、ということを考えたことがなかったのだ。おもしろがって、友だちのラブレターの代筆をしたこともあった。けれども、それを読む人間のことは、考えたことがなかった。読み手のことなどいっさい眼中になく、ただおもしろいもの、自分が書きたいことを書いていただけだった。

自分が書いたものは、自分から離れて読み手のところへ届く。そうして、それは読み手を動かすのだ、と。
わたしが読み手のことを意識した、その原点にはこのときの恥ずかしい経験がある。


ちょうどおなじころ、わたしたちが「川越のおばさん」と呼んでいた人が亡くなった。
直接の血縁はないのだが、親戚筋にはあたる人で、姉は高校のときこの人に習っていたこともあった。
退職後は近所の子供を相手に、自宅で小さな塾を開き、ひとりで暮らしている人だった。

そのおばさんのお葬式に、は学校があるわたしはいかなかったのだけれど、準備も含め、数日そちらに行っていた姉は、帰ってくると、話したくてたまらない、といった調子でこんな話を教えてくれたのだった。

お葬式のときに、お悔やみを言いに来たひとりの男性が、遺品を少し分けてもらえないか、と言ったのだという。後日連絡する、ということで、住所と名前を控えておいたところ、そのおばさんの部屋から、差出人がその男性の名前の手紙がたくさん出てきた。

引き出しには何年分もの手帳があって、日記形式のその手帳の左半分には、授業や来訪者の記録、右半分には暗号のような記号。どうやら電話があった記録らしい、と姉は言うのだった。

おばさんは、ほんの数日のつもりで入院したところ、そのまま帰らぬ人となったのだとか。だからおそらく、そんなものもそのままになっていたのだ、と姉は言った。そうした手紙や手帳をまとめて、「遺品」としてその男性に返すのだ、と。

おばさんにはそういう、だれも知らない生活があったのだ。わたしたちは、てっきり小説のなかでだけだろう、と思っていたような話が身近で起こったことに、すっかり興奮してしまい、相手のことをいろいろ想像したり、実際のところどういう関係だったのか、あれこれ言い合ったりした。

「わたしもそんなふうに、たとえどうにもならなくても、ひとりの人をずっと思うっていうのがいいな」とわたしが言うと
「何言ってんのよ、うまくいくほうがいいに決まってるじゃん」と姉にこづかれた。

「おばさんの部屋にバラのドライフラワーがあったの。あれ、その人から贈られたものかもしれない」
まだ「ホワイトデー」も一般化する前だったが、一ヶ月後の三月十四日にはちゃっかりお返しのクッキーをもらった姉は、わたしに少しだけ分け前を寄越しながらそう言うのだった。
「ああ、こんなクッキーより、バラのほうが良かったなぁ」

なんとなく、わたしにはそういうことは絶対起こらないだろう、という確信めいたものをそのときに感じたのを、いまでもはっきり覚えている。人には向き不向きというものがあるように、わたしには絶対にバラは似合わない……。

残念ながらこの確信は当たったようだ。

(この項終わり)

この話、したっけ ~ヴァレンタインの虐殺

2006-01-29 22:23:10 | weblog
2.ハートチョコレートとジョルジュ像

中学に入ってもしばらくの間は、同じ学年の男の子というのは、てんでガキだと思っていた。行った学校が中高一貫だったため、12歳から18歳までいるのである。まるで大人のようにも見える18歳と較べると、12や13の男の子が子供に見えるのも無理はなかった。

ヴァレンタインに女の子からチョコレートをもらっても、照れ隠しなのだろうが、ムスッとした顔で、お礼さえ言わない。もちろんそうした同級生の「有象無象」にチョコレートなんぞもったいない、と思っていたわたしではあったが、事象としては興味深く、その結果どうなるか観察だけはしっかりしていた。

当時はまだ「義理チョコ」などということが一般化する前のことで、男の子に渡す、というのは、真剣も真剣、清水の舞台から飛び降りるほどの決心が必要だったような気がする。ところが渡そうか、渡すまいか、と悩みに悩んで、わたしなども「どうしたらいい?」とイヤになるほど聞かれ、挙げ句の果ては「ひとりで行けないからついて行って」と頼まれて、「鈴木君、渡辺さんが話があるんだって」と呼び出しまでさせられたが、ほとんどの場合、どうにもならないのだった。女の子のほうも、渡してしまえば、達成感があったのか、それで気が済んだようなところもあったのではないだろうか。

それが証拠に、渡す前、「どうしたらいい?」とあれほど悩んでいた女の子たちが、終わってしまえば憑き物が落ちたがごとく、当の男の子の名前さえ口にしなかったのだった。

そうした流れが徐々に変わってくるのが、中三ぐらいからではなかったか。
それまでヴァレンタインなんていやがっている、とばかり思っていた男の子たちが、その年頃になると、朝から妙にソワソワし、用もないのに放課後まで教室に残っていたりして、「今年はナシかなー」などとこちらにチラチラと物欲しげな視線を送ってくるのである。

わたしは、なるほどなー、と思ったのだった。
そういえば、中一の頃はフォークダンスで女の子と手をつなぐのを恥ずかしがって、終わると逃げだすようにその場から離れていた男の子たちが、このあいだの文化祭のあとでは、もっと踊りたい、と言っていたっけ。
こうやってみんな大人になっていくのだな、と、しみじみ思ったのだった(相変わらず、自分もその一員であるという自覚はなかったのだが)。

そうしてこの頃から、徐々に「つきあっている」と言われるカップルも誕生し始めたのだった。「つきあう」と言ったところで、せいぜいが一緒に帰るぐらいだったのだけれど。

さて、人の話ばかりでなく、自分のことも書いておこう。

わたしが生まれて初めてチョコレートをあげたのは、中学二年の時である。
ただ、これをヴァレンタイン・チョコと言っていいのかどうなのか、多少疑問があるのだが。

この年は自分たちの教室の他に、美術室の掃除をすることになっていた。
三学期に入って、美術室の掃除当番がまわってきたとき、部屋にはいると石膏デッサンをしている上級生がいた。邪魔にならないよう、立っている場所や石膏像が置いてある棚を避けて、わたしたちは静かに掃除をした。うわさ話を聞きこんでくるのが早い女の子が、あの人は今度美大を受ける人だ、だからここで昼休みと放課後、そのための準備をしているのだ、と教えてくれた。

イーゼルにクリップで留めてあるデッサンは、もうずいぶん描きこんであって、これ以上線を加えるところもなさそうなのに、それでも毎日石膏像を睨んでは、少しずつ手を入れていく。こちらも毎日見ているうちに、線が加わったり、消されたりする部分に気がついた。
そうなるとおもしろくなって、自分の掃除当番が終わっても、見に行くようになった。

放課後、カバンを持って、美術教室の後ろから入っていく。
前の方で描いている上級生の邪魔にならないように、一番後ろの席にそっと腰をおろす。

それまで絵といえば、美術の授業で描かされるものでしかなかった。最初のうちはおもしろくても、ちっともイメージ通りには描けないし、気に入った色も出ない、そのうちに飽きてきて、どうでもよくなってしまう。こんなに毎日毎日、どう考えてもおもしろみのある題材とはいいがたい石膏像を前にして、少しずつ線を足しては引いていく。描いていくうちに、そのデッサンは、少しずつ奥行きが増し、質感を加えていく。絵というのはこういうものなのか、と思った。

一月も終わろうとする頃、いつものように絵を見に行くと、その上級生がイーゼルを畳んでいるところだった。明日から学校に来なくなるから、と言って、わたしにそのデッサンをくるくる丸めて「これ、あげるよ」とくれたのだ。

もうこれで終わりなんだ、と思うと、急に何かしなくては、という気になった。咄嗟にカバンのなかにチョコレートが入っていたのを思い出した。非常食ではないけれど、おなかが空いたときのために食べようと、ずいぶん前に買っておいてそれっきりになっていた、不二家ハートチョコレートである。たしか、80円かそこらだったような気がする。それを、「これ、お礼です」と言って、差し出したのだ。

「ヴァレンタインの代わり?」と言って、その上級生は受け取ってくれた。ああ、そうか、もうすぐヴァレンタインデーなのか、と言われて初めて気がついた。

結局その上級生の名前も聞かず終わってしまったのだったけれど、そのジョルジュ像のデッサンは、そのあとしばらく、わたしの部屋に貼っていた。ときどき隅にあるイニシャルは、何の略なのだろう、と思いながら。

やがてわたしは電話帳で美術教室を探し、自分で何軒か回って、石膏デッサンを教えてくれるところを見つけ、親と交渉して、習いに行くようになる。

ときに、「××を始めたきっかけは?」「△△が好きになったきっかけは?」という類の質問があるが、わたしはこれは相当な愚問ではあるまいか、と秘かに思っている。

少なくとも自分に関しては、百パーセント、それが言える。たいてい何かを始めたきっかけ、というのは、かくのごとく、くだらないものなのである。問題は、始めたことではなく、たとえくだらない理由から始めたとしても、その後、投げ出してしまうことなく十年、二十年続けてきたものであって、そういうことに関しては、ふりかえってみるに、続けてきた必然性のようなものが必ずある。自分のなかに、その必然性を形成することになる、重要な出会いがあったり、導き手にめぐり逢っていたり。

だから、どうせ聞くのだったら、きっかけではなく、なぜそれを続けてきたのか、を聞いたほうが、おもしろい話が聞けるんじゃないだろうか。

(この項つづく)

この話、したっけ ~ヴァレンタインの虐殺

2006-01-28 22:56:20 | weblog
1.女心はアテにならない

わたしは小学校五年のときに転校した。それまで私立の女子校にいたので、クラスに男の子がいる、という状態がめずらしく、しばらくは大変興味深かったのをよく覚えている。

だが、入念に観察して、クラスメイトの男の子たちというのは、「てんでガキじゃん」という結論にたどりつくまで、おそらく一ヶ月もかからなかっただろう。
大半の男の子というのは、休憩時間になると、教室の後ろでうわばきをバット代わりに野球もどきをやり、TVか何かのくだらない真似をしては、下品な声で笑い、なかには失礼極まりないことに、隙を見せればスカートをめくるヤツまでいる。文字通り、「かえる、かたつむり、子犬のしっぽ」(マザーグース)でできている連中だった。

ところがそういうなかで、女の子の人気を一身に集めている男の子がいた。
その佐藤君(仮名)という男の子は、整った顔立ちをしているだけでなく、ドッジボールもうまいし跳び箱も、鉄棒もうまい、おまけに勉強もよくできて、けっこうおもしろいことも言う。多くの子が五年にもなると、ランドセルをやめて、スポーツバッグやショルダーに切り替えていたのだが、きちんとランドセルは背負い、ジーンズなどはかず、きちんとした格好で学校に来る。休憩時間は大勢の男の子とは一線を画し、ほかの勉強がよくできる、とされるふたりと一緒に「孤高の三人組」を形成していたのだった。

数年前、実家に行った際に、自分の部屋を整理していたら小学校のときの卒業文集が出てきた。将来の夢、というタイトルで、みんなさまざまなことを書いていたのだが、男の子の約半分は、プロ野球選手、あとは「ガンのとっこうやくを発明してノーベル賞」とか、「学校の先生」とか、なかには「漁師」になりたい、という子もいて、おもしろかった。その佐藤君の夢は、なんと「社長」で、それも小さい会社を自分で作りあげて、少しずつ大きくしていきたい、という、いまのベンチャー企業を先取りするような作文を書いていた。

下品なことは言わない、スカートめくりなんてとんでもない、礼儀正しく、先生のウケもいい、となると、女の子の間で圧倒的な人気を博する、というのも、まったく不思議はない。

わたしが最初に仲良くなったアヤ子ちゃん(仮名)という子も、やはりその佐藤君が好きで、どちらかといえばおとなしく、地味だった彼女は、ほかの女の子のように「積極的にアタック」することもなく、せつない気持を切々とわたしに訴えたものだった。わたしからすれば、所詮小学生じゃないか、そんな子供のどこがいいんだろう(そう考える自分も同じ小学生、という視点は、未だ形成されていなかったのである)と、そんな気持ちなんてちっとも理解できなかったのだけれど、その佐藤君が近くに来れば、赤くなって急に態度がぎこちなくなる、そんなアヤ子ちゃんの態度の変化は見ていて非常に興味深かった。

その年のヴァレンタインデーは、その佐藤君が圧倒的にたくさんのチョコレートをもらったことは言うまでもない。

クラス替えもないまま、わたしたちは六年生になった。
六年になって、間もないころ、美也(仮名)ちゃんという、髪の毛にパーマをあて、いつも小学生とは思えないような格好をしていた大人っぽい女の子が、急にヨシ君(仮名)が好き、と言い出したのである。

ヨシ君、というのは、わたしのカテゴリーでいくと「有象無象の一員」、だいたい無口で下品なことも言わないのは感心だったが、野球しか頭にないような男の子のひとりで、それ以外にはこれといって目立つところもない子だった。
そのヨシ君のどこが良かったのか、とにかくことあるごとに美也ちゃんは「ヨシ君がスキ!」とあたりかまわず公言する。隣りに来ては「ヨシ君一緒に理科室に行こう」「ヨシ君一緒に帰ろう」という彼女に、何とも言えず困った顔をして、おそらくどうしていいかわからなかったのだろう「うるさい!」と言って逃げ回っていたのを覚えている。

ところが「ヨシ君のこんなところがカッコイイ」「ヨシ君のこんなところがスキ」という、美也ちゃんの派手な宣伝が功を奏してか、次第にクラス全体に「ヨシ君、いいかも」という空気が生まれてきたのである。

ついこの間まで、佐藤君、佐藤君、と言っていた多くの女の子たちが、しだいにヨシ君、ヨシ君、と言い出したのだった。
静かに、せつない胸の内をわたしにうち明けてくれたアヤ子ちゃんなら、よもやそんなことはあるまい、と思って、ヴァレンタインが近づいた二月のある日、わたしは聞いてみた。
「今年はチョコレートの競争者が少なくて良かったね?」
「今年はわたし、ヨシ君にあげたいの……」

わたしは人気というのは、このように形成されていくものなのか、と、このとき学んだのだった。この年、ヨシ君のスポーツバッグには、圧倒的多数のチョコレートが詰め込まれたのは言うまでもない。

つくづく、女の子の「スキ」なんていうのは、アテにしちゃいけないんだな、と思ったのだった。

(この項つづく)

今日の出来事

2006-01-27 21:47:26 | weblog
【今日の出来事】

暮れの忘年会のとき、一応のおつきあいも終わり、座がばらけてきたころ、ひっそりと隅で四、五人と話していた。そのときどういう流れか、悲惨な誕生日の話になった。

カードローンの返済をATM機でしたところ、出てきたレシートに「お誕生日おめでとうございます」と書いてあってそれで初めてその日が自分の誕生日だったことを思い出した、とか、朝起きた瞬間にギックリ腰になって、そのまま数日間、ベッドからでられなかった、とか、言った本人含め、みんなで笑ってしまうような話ばかりで楽しかった。

わたしも「これがお母さんからの誕生日プレゼントよ」と言って、母親に頬をひっぱたかれたことを初めとして、結構悲惨な話はいくつかある(ああ、なんという親だろう…)。けれど、過ぎてしまえば何もないまま終わってしまう一日より、悲惨なできごとが起こったほうが、後になって笑える。もちろんうんとシリアスな出来事はそうはいかないけれど、日常起こるたいていのことというのは、そのときはショックだったり落ち込んだりするようなことでも、時間の経過やその後の流れとともに、その質が変わっていくからだ。とりわけ誕生日のように切り取りやすい一日だと、「悲惨な」という括りで眺めることによって、「楽しいはずの誕生日」とのギャップが生まれて、おかしくなってくるのだ。

だって、ただギックリ腰になって数日間動けなかっただけの話だと、「それは大変だったね」で終わりだけれど、二十代最後の誕生日がそれだった、と聞くと、やはり笑ってしまうでしょ?

実は、記憶に残るようなことが何ひとつ起こらない、誰からも忘れられている誕生日が何よりも「悲惨」なのだけれど、それでは笑い話にすることさえできない。いろいろなことがあるから楽しいんだし、時間がたてば、たいていのことを笑い飛ばせるようなメンタリティというのは、わたしは相当にカッコイイと思うし、そうでありたいと思うのだ。

ただ、ある程度年齢を重ねてくると、やはり誕生日はうれしいばかりではなくなってきてしまう。最近は十代の女の子が、二十代なんかになったら「もう終わり」と思うらしいし、それどころか小学生でさえ、「幼稚園のころは良かった」と思うらしいんだけど、そういうのはさすがによくわからない。「成熟」というものが、いまの時代、ここまで意味を失ったのか、と驚くしかないのだけれど、やはり三十路を過ぎると、「うれしいばかりではない」の中身も、ずいぶん現実的・具体的になってしまう。それでも楽天的なのか、それとも想像力に欠けるのか、「いま」ではないある時期に戻りたい、とはあまり思わない。やっぱり「いま」の状態の自分は、過去のどの自分よりも、ほんのすこしだけではあっても、確実に成長しているはずだし、忘れてしまっていることがどれだけたくさんあったとしても、その間に積み重ねてきたことだって、間違いなくあるからだ(足し算引き算した結果がマイナスになっていたらどうしよう……)。だから、鏡を見て、ウッ、と思うことがあっても、ま、いいじゃん、と思うことにしている。

それにくらべて、自分が大切に思う人の誕生日は、単純に、すごくうれしい。
その人が、この世にうまれてきたことを、それがだれだか、あるいは何者だかよくわからないけれど、その何だかよくわからない人だかものだかに、感謝したくなってしまう。
その人がいなかったら、世界はどんなに寂しいものになっていただろう、と思うから。

今日はモーツアルトの誕生日で、ちょうど生誕二百五十周年にあたる。わたしは「クラシックが好き」と言ってはばからない人が、キライなのだけれど(だって「クラシック」なんてそもそも英語じゃないし(英語では"classical music")、「マンション」だとか「ナイーブ」だとかの和製英語を聞いたとき同様、居心地が悪くなってしまう。おまけに「クラシックが好き」と言ったって、それに象徴されるようなステイタスというか、知的なイメージが好きなだけで、実は音楽なんてロクに好きでさえないような人がけっこういるからだ)、おまけにモーツアルトだってそれほどよく聴いているわけではない(というか、滅多に聴かない)けれど、“フィガロ”のカヴァティーナとか、“魔笛”で怪物につかまりそうになったパパゲーノが鈴を振るときの曲(タイトル忘れた)とか、クラリネット協奏曲とかの音楽が、もし世界になかったら、ほんとうに寂しい、基本色が一色ないぐらい寂しいことじゃないのか、と思ってしまう。

こんなふうに「モーツアルトの誕生日」なんていうと、なんでもない、1月27日という日が、特別なものになる。それもステキだ。

ところで、モーツアルトの誕生日ははっきりしているからいいのだけれど、昔の人の中には、それがはっきりしない人が結構いる。代表的なのは、二葉亭四迷で、本を探すのが面倒だから、曖昧な記憶のまま書いてしまうのだけれど、確か、幕末の混乱で戸籍がはっきりしてなくて、二月説と三月説のふたつがあったと思う。本人はもちろん知っていただろうに、それについてまったく書き残していないせいだろう。二葉亭にはことのほか愛着を感じているわたしとしては、できることなら二葉亭の誕生日も、「生誕記念日」として記憶に留めておきたいのだけれど、はっきりしない、というのは、たいそう不便なものである。今後の研究を待ちたいものだ、というところなんだけれども、誕生日なんてだれも調べないんだろうか。

Walk on  ――U2

2006-01-26 22:21:09 | weblog
Walk on  ――U2


 やっぱり愛ってのは簡単なことじゃない
 君が持っていけるただひとつの荷物だけど……
 愛は簡単なことじゃない……
 それでも持っていけるただひとつの荷物なんだ
 あとには残していけないただひとつのもの……


もしぼくたちを引き離す暗闇があったとしても
もし日の光のもとではそれがどんなに遠く思えたとしても
振り向いた瞬間に
君のガラスの心にはひびが入ってしまうかもしれないけれど
だめだよ、強くならなくちゃ

歩き続けるんだ
君は手に入れなきゃ、やつらに盗めやしないものを
歩いていくんだ
今夜はここで安らかに過ごしたとしても


君はだれも行ったことのない場所に行くための荷造りをしているところだ
信じられなければならない場所、見えるようにならなくちゃならない場所に
君は飛んでいくことだってできたのに
扉の開いた鳥籠で歌っている鳥のように
自由を求めてまっすぐに飛んでいくことだって

歩き続けるんだ
君が手に入れたものは、やつらに否定なんかできない
売ることもできないし、買うこともできないのだから
歩き続けるんだ
今夜はここで安らかに過ごしたとしても

それが痛みをともなうことはわかってるさ
心が張り裂けそうなことも
時間をかけるほかないよ

歩いて行けよ
歩き続けるんだ

ホーム……
持ったことがない人間にはわかることじゃない

ホーム……
どこにあるかなんて言えないけれど、自分がそこへ向かっているんだっていうことはわかる

ホーム……
心が痛むところ

それが痛みをともなうことはわかってるさ
心が張り裂けそうなことも
時間をかけるほかないよ
歩き続けるんだ

置いていけばいい
あとに置いていかなくちゃ
君が築くどんなものも
君がつくり出すどんなものも
君が壊すどんなものも
君が試すどんなものも
君が感じるどんなものも
そんなものはどれもあとに残していける
君が判断したことも
(愛はぼくの心の中にあるたったひとつの感情だ)

君が気がつくどんなものも
君が計画するどんなものも
君が飾り立てるどんなものも
君が見てきたどんなものも
君が作るどんなものも

君が毀すどんなものも
君が憎むどんなものも

* * *


十代のころ、非常に荒んだ一時期を過ごした。

荒んだ、といっても、別に万引きをしたわけでも、不純異性交遊をしたわけでも、スカートを長くして(若いみなさん、そのころ「不良」というのは長いスカートをはいていたんですよ)いたわけでも、夜遅くまで繁華街を徘徊していたわけでも、シンナーを吸ったわけでも、お化粧をしていたわけでもない。

普通に学校に行って、勉強はしなかったけれど、授業中、椅子にすわってはいたのだ。

それでも何もかもが苛立たしく、自分も含め、周囲のあらゆる人間がバカげて、低俗なように思え、何かしなくては、と焦慮にかられ、何をしていいのかもわからず、眼に映る世界は粒子の粗いモノクロ写真のように見えていた。

何というか、その時期をどうにもならずに過ごせたのは、やはり運が良かったと言うしかないような気がする。とにかく、まわりの誰も信用していなかったから表面には一切出さなかったけれど、一種、普通ではない精神状態にあったのだと思う。

その時期にひたすら聴いていたのがU2のWARだった。
わたしが持っているのはLPで、再生するのも大変なので、最近CDを図書館で借りて、i-Podに入れ直して聴いてみたのだが、何か少しちがうような気がする。
なんというか、もっと閉塞感のある、ザラザラしているような音だったような気がするのだ。

歌詞の意味など、考えたこともなかった。"Sunday Bloody Sunday"が北アイルランド紛争を背景にしていることも、"New Year's Day" のビデオに「連帯」のワレサが出てくることも知らず、ただ、その当時の気分は、これ以外のどんな音も受けつけないような気がしていたのだ。

それからいろいろなことがあって、とにかくその時期をわたしは脱し、"The Joshua Tree"は好きでよく聴いていたけれど、次第にU2を聴くこともなくなっていた。なんというか、"Pop"なんて、悪意に満ちた冗談のようにしか思えなかったのだ。

さらに時代がくだって、つい先日のこと。
さっきも書いたように、"WAR"をもう一度聴いてみよう、と思って、図書館に借りに行って、一緒に借りてきたのが"All That You Can't Leave Behind "だった。

成熟というのは、こういう音なんだ、と思ったのだ。

"Stay safe tonight"っていうのは、どういうことなんだろう、と思って検索してみたら、この曲はアウン・サン・スー・チーに捧げられた歌だという。
だから、Homeも、当然「母国」ということになるのだろうけれど、なんというか、ほんとうにこんな聴き方はよくないのかもしれないけれど、わたしはひとつのテーマだとか、思想だとか、政治信条とかを持った歌というのは、どうもうさんくさく感じてしまうのだ。

この歌も、もちろん自由と民主化のために闘うアウン・サン・スー・チーさんに捧げられているのは、それはそれですばらしい。けれど、この歌がもっとすばらしいのは、この歌自身がそういうテーマをやすやすと乗り越えて、もっと普遍的な、「決してあとに残せないただひとつのもの」を歌っているということにあるのだと思う。

軟弱な言い分だと非難してもらってかまわない。
U2の聴き方として、「間違ってる」のかもしれない。
それでも、これはほかの何もかもを捨てたあとでも、残していけないたったひとつの荷物を歌った歌だと思う。そうして、どこへ行くのかわからない、ホーム、故郷でもあり、家でもあり、国でもあるホーム、自分と切っても切り離せないけれど、ときにしがらみでもあり、厄介なものでもあるホーム、そこへ向かおうとしているのか、そこから出てきたのか、それともそんなものがあるのかないのかさえよくわからないホーム、そこに向けて、あるいはそこを出て、歩いていこうとする歌なのだと思う。

サイト更新しました

2006-01-25 22:34:21 | weblog
先日までここで連載していた「女か虎か」の翻訳、手を入れた後、http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/にアップしました。

* * *

今日は職場の近くのモスバーガーで、遅めのお昼を食べました。
近くに工事現場があるらしく、交通整理をしているおじさんが、窓の外に見えました。

あの仕事は警備員と呼んでいいのでしょうか。
通行止めにしている道に、工事車両を誘導したり、出てくる車両のために、道路の車や歩道の人を通行停止させたりする仕事をしている人です。

見るともなしに見ていると、その人の動作が大きく、手だけでなく、全身を使って誘導し、停めていることに気がつきました。単に大きくてわかりやすいだけではない、熟練しているだけでなく、仕事を隅から隅まで知っていて、しかもそれを楽しんでいる人の動き、一種ダンスのように流麗で、軽やかさをもった動きでした。

わたしは食事の間、ずっと見ていたのですが、見ていて見飽きるということがありませんでした。

わたしが経験や観察から導き出したセオリーに、「一生懸命やらない仕事は辛い」というものがあります。

落ち込むようなことがあっても、気分を腐らせるようなことが起こっても、わたしは仕事に向かうときは、できるだけ気持を立て直して、いまやっていることに集中して、できるかぎり一生懸命やってこようとしました。もちろんうまくいくときも、いかないときもありましたが、逆にそれでずいぶん自分が救われてきたのだと思います。

いわゆるニートと言われる人たちがいますが、そういう人はほんとうに辛いだろうなと思います。自分の抱えている正体不明のものに、日長一日、向かい合っていなければならない。ほかのものに集中して、気持を切り替えることもできないのだから。

コンビニでもスーパーでも、いかにもいやそうにやっている人も見かけますが、その人たちも辛いだろうと思います。嫌々やっているのだから、上達や熟練とも縁がない。

ああ、なんだかお説教じみてきちゃいましたね。
だけど、パートであろうがバイトであろうが、熟練した人の動きは美しいものです。
楽しそうに仕事をしている人の姿は、見ているこちらの心まで暖めてくれます。

――こんど、あなたがお仕事をなさっているところを見せてください。――

フランク・ストックトン 「女か虎か」 最終回

2006-01-23 21:57:31 | 翻訳
 さて、この話の肝要な点はここである。扉から現れたのは、虎だったのか、それとも女だったのか。

 この問題は、考えれば考えるほど、答えるのがむずかしくなってくる。人間の心理に対する考察を含んでいるからである。人間の心理はわたしたちを感情の入り組んだ迷路に連れて行く。この迷路のなかで出口を見つけるのは容易なことではない。賢明なる読者諸氏、この問題を、自分自身に委ねられた問いに対する決断としてではなく、煮えたぎる血が流れる、半ば野蛮の王女の立場、心は絶望と嫉妬が混ざり合う、白熱した炎に炙られる王女であるとして、考えていただきたい。王女は恋人を失った。だがその彼を得るのはだれなのか?

 目覚めているときも夢のなかでも、恋人が獰猛な牙を持つ虎のいる側の扉を開けるさまを思い浮かべ、いったいいくたび王女は激しい恐怖に襲われ、両手で顔をおおったであろう。

 だが、王女がそれよりもなお頻繁に思い浮かべるのは、恋人がもう一方の扉を開く場合である。女がいるドアを開いて、その顔に、天にも昇るかのような喜びの表情が浮かんでいくところを思うと、歯がみし、髪をかきむしるのだった。王女の胸は苦悶にさいなまれる。女のもとへ駈け寄る恋人が見える、女の頬は上気し、その眼は勝ち誇ったようだ。恋人は女の手を取って歩いていく。命が助かった喜びで、身体中が燃え上がっている。群衆の喜びのどよめきと、祝福の鐘がにぎやかに鳴り響く音がする。喜ばしげな表情を浮かべた侍者をはべらせた神父がふたりの前に歩み出て、自分の目の前でふたりを新郎新婦とする。ふたりは一緒に花を撒いた道を歩いて去っていく。群衆の歓喜の声は、自分の絶望の悲鳴など、かき消してしまうのだ!

 若者にとっては、瞬時の死を受け入れ、半ば野蛮な人々のための来世、祝福された場所で王女を待っているほうが良いのではあるまいか。

 だが、あのおぞましい虎を、悲鳴を、血を考えても見よ!

 王女の決断は、瞬時に示された。けれどもそれは連日連夜にわたる苦しみ抜いた熟慮の末に出されたものである。自分が問われるであろうことは、王女にもわかっていたので、すでに答えの決心はついていた。そうして一瞬のためらいもなく、王女は手を上げて、右を指したのだった。

 王女の決断がどうであったか、という問題は、軽々しく扱われてよいものではないし、わたしがこれに答えることのできるただひとりの人間である、とうぬぼれるつもりもない。そこでわたしはそれを読者にゆだねることにする。開いた扉から出てきたのは、どちらだったのだろう――女か、それとも虎だったのか?

(この項終わり)

フランク・ストックトン 「女か虎か」 その4.

2006-01-22 21:20:21 | 翻訳
 闘技場に歩み出た若者は、作法にのっとり、振り返って王に一礼する。だが王のことなど頭をチラとも掠めはしなかった。その目は父王の右手に坐る王女に据えられていた。王女の性質のうちにある、相半ばする野蛮さがなければ、おそらくは貴婦人の身として、このような場所に来ることはなかったろう。だが、王女は激しい、燃えたぎる魂のもちぬしであったがために、いてもたってもおれないほど気がかりな事態に立ち会わずにいるということはできなかったのである。

審理の命令が下り、恋人が王の闘技場でみずからの運命に決着をつけなくてはならないことが決まったその瞬間から、王女の頭のなかは、ただひとつ、昼も夜も、この容易ならぬ出来事とそれに携わるさまざまな家臣のことだけになったのである。これまで誰も持ち得なかった権力と、影響力、そして手段を兼ね備えていた王女は、これまでのだれもがなし得なかったことをやってのけた――扉の秘密を入手したのである。ふたつの扉に続く部屋のどちらに口の開いた虎の檻があるか、どちらに女が待っているのか、王女は知ったのだった。頑丈なドアの向こうには、毛皮のカーテンが重くたれこめていて、中のいかなる物音も気配も、掛け金を外すために近づく者には聞こえない。だが、黄金と女の意志の力は、王女にその秘密を明かしたのである。

 さらに王女は、どちらの部屋に女が、それも頬を染めて顔を輝かせ、扉が開いて出ていくときを待ちかえているのかを知ったばかりではなく、その女が誰なのかも知ったのだった。身の程を知らぬ思いに胸を焦がしたために罪に問われた若者が、晴れて無罪であることを証明した暁に、その報奨として与えられるのは、王宮のなかでも並ぶ者がないほど美しく愛らしい娘だったのである。王女はこの娘を憎んでいた。これまでにも何度となく、この美しい娘が自分の愛しい人にあこがれの眼差しを向けるのを見た、あるいは、見たように思い、あまつさえ折々にはこの眼差しが受け入れられ、ときに返されることさえあったように思えたのだ。

 ふたりが話しているのを見かけたこともある。ほんの一瞬ではあったけれど、どんなに短いひとときであっても、多くを語るには十分である。たとえ些細なことがらであったかもしれないけれど、王女にどうしてそのことがわかろうか。愛らしい顔をしながら、王女の想い人に向かって眼をあげるようなことをやってのけたのだ。まったく野蛮そのものであった先祖の血を幾代にも渡って受け継いできたその激しさで、王女は静寂の扉の向こうで、頬を染め、震えている娘を憎んだ。

 振り返って王女を見つめた若者は、並み居る憂慮に満ちた面もちのなか、ひときわ蒼白な顔で腰をおろしている王女の眼をとらえた。魂の相寄るふたりだけが持つ一瞬の以心伝心の能力でもって、王女がどちらの扉の向こう側に虎が身をかがめ、どちらの扉の向こう側に女が立つか、知っていることを認めた。そうであってくれたら、と、かねてより望んでいたとおりに。

 若者は王女の性質を理解していたために、あらゆる人々から隠されている、王さえも知らないこの秘密を暴くまで、安閑としているはずがない、と確信していたのである。若者にとってのただひとつの望みは、王女が首尾良くこの扉の謎を解き明かせるか否かにかかっていた。そうして、王女の眼を見た瞬間に、王女が首尾良くやってのけたことを理解したのだった。心のなかでは、王女ならできないはずがない、とわかっていたのだが。

 めざとい、不安げな眼差しが問うた。「どっちだ?」あたかもそこから若者が大声で尋ねたかのごとく、王女にははっきりわかった。一刻の猶予もならぬ。問いは、一瞬のうちに発せられた。答えはつぎの一瞬でなければ。

 王女の右腕は、クッションのついた手すりにのせられている。手を上げて、ほんの少しだけ、素早い仕草で右を示した。若者以外、それを見た者はない。あらゆる人々の目は、彼を除けば、闘技場のなかの若者に注がれていたのである。

 若者は向きを変えた。毅然とし、颯爽たる足取りで、何もない空間を横切っていく。あらゆる人々の心臓も呼吸も停まった。あらゆる眼が、若者の上に釘付けにされたまま、動けなくなっていた。わずかな躊躇もなく、若者は右の扉へ向かい、開けた。

(明日いよいよ最終回。刮目して待たれよ!)

フランク・ストックトン 「女か虎か」 その3.

2006-01-20 21:33:53 | 翻訳
 この半ば野蛮の王には、ひとりの娘があった。その姿のあでやかなること、王のきまぐれの華々しさに劣ることなく、その心は王そのままに、情熱的かつ尊大なものであった。こうした場合にありがちなことであるのだが、王女は父の掌中の玉であり、だれよりも愛されていたのである。一方、家臣のなかに一人の若者がいた。ロマンス小説で王家の娘に恋をする主人公にありがちなことであるが、この若者も由緒ある血筋ではあるけれど、身分は低かったのである。

王女はこの恋人にたいそう満足していた。というのも彼は王国では並ぶ者がないほどの美丈夫で、しかも勇敢だったからである。王女は燃えるような思いで若者に焦がれ、野蛮な血がなおのこと思いを熱く激しくたぎらせるのだった。ふたりの恋は数ヶ月の間は幸せに続いたが、ある日、王の知るところとなったのである。王は先に述べた義務を遂行することに、いかなる躊躇も動揺もなかった。若者は即刻獄舎につながれ、王の闘技場における審理に付される期日が定められた。当然のことながら、これはことのほか由々しい事態であった。そうして王もまた人民と同じく、この審理のなりゆきと結末に、多大なる関心を抱いたのである。

 このような事件がかつて起こったことはなかった。臣下の身でありながら、王の娘に恋をしようなどというものがこれまでにあったためしがなかった。時代が下れば、このようなできごとも比較的起こりやすくもなったのであるが、当時の人々にとっては、あだやおろそかなものではない、前代未聞の驚愕するようなできごとだったのだ。

 王国内の虎が飼育されている檻をさがし、このうえなく凶暴で残忍な虎が求められた。そのなかから闘技場のために、血に飢えた怪物をよりすぐったのである。あるいはまた、運命が彼に特別の運命を与える決断をいやがった場合に備えて、若者にふさわしい花嫁を娶らせるために、国中あまねく巡って、若く美しい娘が、有能な審査官によって、慎重に検分された。

当然、この若者に咎のあることは、だれもが認めていた。彼は王女を愛し、若者も、王女も、あるいはだれひとりとしてその事実を否定するものはなかったのである。だが王は、このようなことがらが、法廷の審議にいささかなりとも障害となりうるとは決して思わなかった。審議は王にとって、きわめて大きな喜びであり、満足であったからである。その結果がどうなろうと、若者は裁かれるのだ。そうして王は美的な喜びを味わいつつ、若者が王妃に恋をするなどという過ちを犯したことの当否が決せられるまでの一連の出来事を眺めることになるのである。

 定められた日になった。遠方から、近場から、人々は集まり、闘技場のおびただしい数の桟敷席は、人波で埋まった。入りきれなかった群衆が、闘技場の外壁にたむろする。王と家臣団は所定の場所、ふたつの扉の真正面の席に着いた。運命の扉、恐ろしいほどまでにそっくりなふたつの扉の真正面に。

 準備万端が整った。号砲が鳴る。王族の席の真下の扉が開き、王女の恋人が闘技場に歩み出た。背はすらりと高く、美しく、金色の髪、その登場は、感嘆と憂慮の低いささやきで迎えられた。観衆の半ばは、国の中にこのような眉目麗しい若者がいたとは、思いもよらなかったのである。王女が恋したのもむりはない! あの場所にいなければならないとは、なんとむごいことであろうか!

(この項つづく)

【今日の出来事】
昨夜晩ごはんを食べた後、この「女か虎か」を訳している最中に、突然歯が痛くなってしまった。ナロンエースを飲んで、冷湿布をしながら、なんとか予定まではいかなかったけれど訳文をアップして(だから昨日の訳文の半分は、ナロンエースと涙でできているのです)、すこし治まったものの、苦しい眠りについた(鎮痛剤を飲んでいたせいで、眠りが変だった)。
朝になってとりあえず痛みはなくなっていたけれど、歯医者に夕方の予約を入れて仕事に行った。

今日の仕事先は二箇所、移動その他に時間を取られ、お昼ゴハンを食べ損なう。そのまま帰りに歯医者に寄る。

ところが歯医者の寝椅子に横になって、まず歯科衛生士さんに歯の具合をチェックしてもらっている最中に、とつぜんおなかがぐうぐう鳴り出したのだ(トホホ……)。
寝椅子に横になっているものだから、おなかの音が響き渡る……。もうすんごい恥ずかしかった。

レントゲンも撮ってもらったのだけれど、虫歯でもなく歯石が溜まっているわけでもなく、歯茎の腫れもない。おそらく肩凝りとか目の使いすぎとか、そっちのほうだね~、と言われた。とりあえず鎮痛剤を飲んで(鎮痛剤は胃を荒らすから、ゴハンを食べた後に飲んでね、と言ってお医者さんは少し笑っていたので、きっとおなかの音は、隣で治療していたお医者さんのところにまで聞こえたのだと思う)、ちょっと様子を見ましょう、もういちど週明けに来てみてください、ということになった。それだけで二千円近くが飛んでいって、悲しかった。まるでお腹の鳴る音を聞かせに行ったようなものだ。
それにしても、肩凝りとはね……。いまは歯は痛くないよ。