陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

感情的になりそうになったら

2009-01-31 23:19:21 | weblog
似たような、多少ちがうような話を続ける。

わたしは感情的になってこちらに相対してくる人が苦手だ。というのも、感情的な対応をされると、こちらも感情がかき乱され、つい感情的に答え返してしまいがちになってくるからなのだ。
そうなると、相手はわたしの受け答えに対して、さらに感情を爆発させる。その結果、お互いに言う必要のないことまで口にしてしまい、あとで後悔する羽目になる。

それがわかっているから、相手にしないように、かわすようにしようと思っても、やはりしばらくは不快な気持ちは澱のように溜まっていく。

ただ、おそらく誰だってそうなのだろうと思う。
端から見れば、行く先々でトラブルを引き起こしているような人ですら、自分からは決して争いごとを望んでいるわけではないのだろう。おそらく、彼ら・彼女らにしてみれば、自分ではそんなつもりがあるわけではないのに、どういうわけかそういうことになってしまう、と思っているにちがいない。現に、そういう人が「わたしはどういうわけかトラブル・メーカーを引きつけるところがあるらしい」と言っているのを聞いて、人間というのは、ここまで自分のことがわからないものなのか、と思ったものだった。そう言っているわたしがそんな人物でないという保障はどこにもないのだが……(この前もめ事をおこしたのはいつだっけ?)

だが、端で見れば明らかなトラブル・メーカーも、本人としてみれば、いつだって「被害者」なのだ。正しくない、望ましくない行為をする人間がいて、自分はその被害に遭った。だからそれに抗議した。あくまでも非があるのは相手だ、相手が悪いのだ。その気持ちがあるから、つい、感情的になる。感情的になってもかまうものか、わたしは苦しいのだ、わたしはつらいのだ、それで泣いて、怒って、何が悪い? 

だが、見方を変えれば感情的になってもめ事を起こしているのは、その人なのだ。
感情的になるのは、なる理由があるのだろう。だが、理由があるからといって、何をしてもいい、ということにはならないし、自分の味わわされた苦しみを、そのまま相手にぶつけたところで、事態の解決にはつながっていかない。

苦しみのなかにいる人は、おそらく事態の解決を望んでいるというよりは、同じ苦しみを相手に味わわせたいのだろう。感情的になることの背景には、報復の気持ちがあるにちがいない。そうして、現実に、感情的な人に相対する人は、その人の望み通り不快な気持ちを味わうことになる。悪循環は続いていく。

だから、自分がある人が原因で酷い目に遭っている、と思ったときは、少し見方を変えてみるといいかもしれない。
感情というのは、ある程度まではどうにでもなるものだ、ぐらいに思っておいた方がいい。

女は感情的か

2009-01-30 23:08:07 | weblog
ときどき「女というのは感情的で……」といった物言いを耳にすることがある。もちろん生物学的には女性に分類されるわたしとしては、そういう物言いは決してうれしくはないのだが、ともかくそういう相手の真意を確かめてから反応しても遅くはあるまいと思っている。

相手はわたしにケンカを売ろうとしているのか、そう言いたくなるような出来事があったのか。相手の含意している「女」が、わたしを指しているのか、わたし以外の具体的な誰かが想定されているのか、あるいは「女」一般を指しているのか。さらに、相手がふだんから女性蔑視的な発想をしている人物であるとか、ステレオタイプ的な物の見方考え方をしがちな人物であるとか、ふだんのその人としてはむしろ異質な発言であるとか。たまたま虫の居所が悪かったのかもしれないし、偏頭痛がひどかったのかもしれない。まあ考慮に入れておかなければならないことはたくさんあるだろう。

なによりも、即座に反応してムッとすれば、それこそ相手の思うつぼではないか。

「女」というくくりも雑な話で、「女は~」といういい方をされると、同じ女であっても、藤原紀香の考えていることより、男である自分の弟の考えていることの方がわかるぞ(もうずいぶん顔を合わせてないが)、と思う。
ただ、性別を除けばほとんど共通点のなさそうな藤原紀香はさておき、日常のつきあいのある知人関係でいくと、相手が女性であれば、「ああ、その感じは説明されなくてもわかるな」と思うことはある。逆に男性であれば、自分のまったく予想しなかったような反応が返ってきて、ああ、男の人というのはこんなふうな考え方をするものなのか、と思うことも。

けれどもそれは、たとえば背が高い人と背が低い人の発想が異なり、その人の経済状態によって発想が異なり、国籍・人種によって発想が異なり、その人がたどってきた生育歴によって発想が異なり……といった、おびただしい要素のひとつでしかないだろう。

「男/女」というのも、その人の基本的な感じ方・考え方や行動を決める要素のひとつであることにはまちがいない。では、「女は感情的」という傾向はほんとうにあるのだろうか。

中学のころ、こんなことがあった。
ある女の子がわたしの行動に対してイチャモンをつけたのである。わたしはそれが単なる言いがかりでしかないことを、時系列に沿って指摘していった。すると彼女は泣き叫びながら、「そんなこと理屈じゃない!」とのたもうたのである。つくづく、感情的な女はいやだと思った経験である。

だが、そういうわたしも、いっときの感情にまかせて、あとでほぞをかむようなことを何度もしでかした。そのたびに、またやってしまった、自分はなんでこんなに学習能力がないのだろう、と屈辱をかみしめたものだ。

だが、わたしが感情的になったのは、わたしが女だからだろうか。
わたしはそうは思わない。

たとえば会議などの席で、少しでも批判的な意見がでると、噛みつくような反応を見せる男性は「感情的」ではないのか。すれ違いざま、肩が触れただけでケンカを始める男たちは「感情的」ではないのか。電車のなかでかけている電話を注意され、いきなり怒り出す男性は「感情的」ではないのか。

確かに、さまざまなできごとのなかで、「女は感情的」と言いたくなるようなことがあったのだろう。けれども「女は感情的」という言葉が生まれ、その言葉によって、今度は逆に出来事が説明されるようになる。自分は女だから感情的になるのだ、あいつは女だからすぐ感情的になるのだ。そうして、いつのまにかそれが「真実」ということになってしまう。

だが、わたしたちが人と話をするのは、結局のところ、話すことによって相手と合意を形成することにあるのではないだろうか。
自分の考えばかりを押し通すのではなく、相手の反対を受け入れながら、少しずつ見方を変えていく。対話のなかで、それぞれが知らなかったことを見つけ、形成していくために対話を重ねているのであるとすれば、それはできるだけ筋道の通ったものでなければならないだろう。たとえ感情のことを話題にしているときでも、自分ではない相手の感じ方を知るためには、感情にまかせていては、話はどこにも行き着かない。

感情のある人は、ということは、つまり誰だって感情的になりうる。だが、要は、感情的な自分をどう扱うか、という問題なのではあるまいか。

火事の思い出(後編)

2009-01-28 22:53:51 | weblog
わたしの避難していた場所からは、煙だけで火が見えることはなかった。放水はすべてベランダ側から行われたのだ。鎮火してから玄関の扉を開けたのだろう、水が非常階段を伝って滝のように流れていた。わたしは自分の部屋が気になって、ホースを巻いたりして後かたづけに入っている消防士さんに、上の階の者ですが、もう部屋に入って大丈夫でしょうか、と声をかけた。

わたしが尋ねた消防士さんは、指揮者とおぼしき人に確認をとると、その人は、火は治まったから入れるだろうが、煙がまだ残っているので、窓は決して開けないように、あと、頭が痛くなったりしたら、すぐ退出するように言われた。それだけでなく、消防士さんがひとり、部屋までついてきてくれた。

部屋に戻ると、窓を閉めていたはずだったのに、なかは煙が充満している。いそいでわたしはマスクをかけ、換気扇を回し、廊下側の窓を開け、玄関を全開にして、押入から扇風機を取り出して、家の煙を外に出すことにした。なにしろ二時間もしないうちに仕事に出なければならないのだ。わたしは忙しく働いた。

窓はすすで真っ黒だし、網戸が熱でべろりと溶けている。窓ガラスは熱で一部にひびが入り、ベランダには真っ黒なすすが積もっていた。部屋の中にもすすが入り込んでいるのだろう、白い靴下をはいていたのに、気がつけば黒くなっている。なにより、床が温かい。断熱材が使われていなかったら、と改めて怖ろしくなったのだった。

そうしていると、つぎからつぎへと来訪者がある。隣のおばあさん、おじいさん、管理人と、それだけではない。顔も知らないような人が、どうなったか、とのぞきに来たのには、うんざりだった。そうしているうちに、消防署の現場検証が始まった。

最初に火事を発見したことからいきさつを話し、下の部屋は全焼したが、ほかに類焼はなかったこと、火元は留守で、幸い、けが人もなかったこと、出火原因はまだわからないことなどを聞いた。

一緒にベランダに出てみると、ベランダ全体がすすだらけで真っ黒、下から吹き上がった細かな燃えかすが隅にうずたかく積もっている。ベランダに置いた鉢植えも、きれいに焼け焦げていた。避難するときに窓を閉めて出たのがよかった、開けていたらカーテンが延焼して被害が拡大したかもしれなかった、と言われたときは、実際は煙のことしか考えていなかったのだが、改めて運がよかったと思わずにはいられなかった。窓ガラスは熱で弱くなっているはずだから取り替えた方がいい、と言われたが、実質的な被害はその程度。火事のあった部屋の真下は天井からの漏水で、部屋は水浸しになったらしかった。

まだ洗濯機のなかに入ったままだった洗濯物を部屋の中につるし、床に散っているすすを掃除機で吸って、そのあいだも床が暖かいのを気持ち悪く感じた。一部分、はっきりとそこだけ熱い場所があり、おそらくこの真下が火元だったのだろうと思った。

それから仕事に行くためにアパートを出ると、世界はまったくいつもと変わらない。風は冷たかったが、日差しは明るく、さっきまでのことが現実味を失ったような気がした。確かに目で見、臭いも嗅ぎ、怖ろしい思いもしたのだが、そこから離れ、別の世界に身を置くと、まるでほんとうのことではなかったように思えるのだった。

いつものように電車に乗り、いつものように仕事をして、いつものように戻ってくると、やはりそこは火事の現場だった。きな臭さの残るなかで、薄暗い非常階段に座り込んで、壁に背をもたせかけたまま、放心したような顔をしている人を見た。見たこともない人だったのだが、おそらくこの人が下の階の人なのだろう、と思った。「焦点が合わない目」というのはレトリックではないのだ。じろじろ見るのも申し訳ないような気がして、わたしはすぐに目をそらした。

部屋に戻ると、きな臭さは相変わらずで、窓を開けて換気扇を回しても、目も喉も痛い。ひどい咳が出て、マスクをかけてもおさまらない。腹立たしい思いでいるところに、ドアフォンが鳴った。また野次馬か、と不機嫌な顔をしていたのだと思う。さきほど非常階段で見かけた男の人が立っていた。
「すいませんでした」と頭を下げたが、目が泳いでいる。
この人にとっては、これからが大変なのだ。大きな被害を受けたわけでもないわたしが、いったい何の非難ができよう。
わたしは言うべき言葉も見つからず、「どなたもおけがはなかったんですよね。それだけは不幸中の幸いでしたね」といった、ほとんど意味のないことを言うことしかできなかったのだった。

のちに出火原因はコンセントとプラグのあいだに溜まった埃が原因だと聞いた。あわてて家中のコンセントを点検し、プラグを掃除したのは言うまでもない。

火事を起こしたのがわたしだったかもしれない、とそれから何度も思った。そのたびに薄暗いなか、放心したように非常階段にすわっていた人の姿を思い出した。
周囲の人から、よかったねえ、一歩間違えば死んでいたかもしれなかったのに、と何度も言われたが、そういう気持ちは不思議と起こらなかった。運がよかった、とも言われたが、運がよかったのは、火事を出さなかったことだ、と改めて思ったのだった。




火事の思い出(前編)

2009-01-27 23:02:16 | weblog
火事に遭ったことがある。
当時、わたしのいたアパートの真下の部屋から火がでたのである。

冬の朝、洗濯物を干そうとベランダに出たところで、物が焦げるような臭いに気がついた。外を見ると、下の部屋から少し灰色がかった白い煙が上がってくる。一瞬、バルサンを焚いているのかと思ったが、バルサンは部屋を閉め切って焚くものだし、焚き終えて換気をしているのなら、あんなに出るものではあるまい。第一、この臭いは明らかに何かが燃えている臭いだ。火事だ!

すぐさま管理人室に電話をかけた。ところが通じない。部屋を飛び出すと、下から盛んに煙が上ってくるのが見える。ベランダの比ではない。隣のドアフォンを鳴らして「下の部屋が火事です」と知らせた。当時の隣の人は、そこのアパートの世話役をやっていたおじいさんだったのだ。非常ベルを鳴らし、「わたしは消防署に電話をかけます」といって部屋に戻った。隣のおじいさんは下へ降りた。

消防署に電話をかけた。住所を告げているあいだにも、煙の色はどんどん濃くなり、部屋のなかから見えるほど、煙の勢いは盛んになってくる。部屋にも煙がどんどん入ってきた。なんだか足の裏も温かくなってきた、と思ったら、パリーンと窓ガラスの割れる音がした。電話をし終えて、まず、開けたままになっていた窓を閉めようと窓ガラスに近寄ると、真っ黒い煙とすすが上ってくる。わたしはあわてて窓を閉め、携帯と現金と上着とパソコンのUSBだけを持って、出がけに電気のブレーカーを落として外に出た。

部屋を出ると、非常階段から上がってくる煙が真っ黒く、一寸先も見えない。口を袖口で押さえ、涙をぽろぽろながしながら、アパートから外へ出た。するとそこで隣の家の奥さんの方が、「主人は、主人はいませんか」と探している。ご主人が消火活動をしようとして、煙に巻かれたのではないか、と心配していたのだ。うわ、わたしだけ逃げ出したみたいになっちゃったんだ、どうしよう、と焦りだしたところで、やがて隣のおじいさんを含めて数名の人が、そこの家は無人で、玄関に鍵がかかっていたのだが、玄関脇の風呂場の窓を割って、そこから消火器を何台も突っ込んで、消火しようとしていたことがわかった。ただ、煙があまりひどいので、あきらめてそこを離れ、みんなが避難している場所に戻ってきたのだった。

消防車が来た。救急車も来た。ところが玄関の扉が開かない。合い鍵もない。消防車が来てから、階段を上がったり降りたり、ホースをのばしたり、消火栓に接続したり、忙しく立ち働く人は大勢いたのだが、実際に消火活動がなかなか始まらない。わたしはガスの元栓を閉めなかったことを思い出し、閉めに戻ろうか、と思ったのだが、非常階段からの煙がひどく、そちらには近寄ることもできない。いや、ガスが問題になるとしたら、ウチより先に下の階のはずだ、とあきらめることにした。自分の部屋は気になったが、そこから見ている限り、ウチの方から煙が吹き出してはいないので、大丈夫だろうと思うことにした。

あとはただ、見ているしかない時間が続いた。

そのとき、わたしはこれは何かのメタファーみたいだなあ、と思ったのだった。
自分の足のすぐ下で、窓ガラスが熱で割れるほどの火事が起こっている。
なのに自分は何もできない。することがなくて、ただ見ているしかない。
おそらく断熱材のおかげで、ウチの部屋が類焼することはないだろう。だから、被害といってもそれほどのことはないだろう。
いま怖いけれど、どこかで自分は安全なんだ、とも感じている。これはいったい何のメタファーなんだろう、と、ずっとそんなことを考えていたのだった。

煙の色も変わり、やがてそれもあがらなくなった。仕事に行けるのだろうか、と時計を見たら、三十分もたっていなくて、もっと時間が経過したと思っていたわたしは、少し驚いたのだった。

(後編へ)

畳屋の記憶

2009-01-26 22:54:40 | weblog
ドアベルが鳴ったので出てみたら、「畳屋ですが。御用はございませんか」と言われた。とっさに、畳替えをする予定はないので、と断ったのだが、ドアを閉めたとたんに、子供の頃、商店街からはずれて住宅街の一画にあった畳屋の情景と、新しい畳の匂いがよみがえってきた。一畳分の畳がいくらか知らないが、一部屋全部を畳替えするのは、安くすむものではないだろう。おまけに棚だのスピーカーだのテレビだの、置いてある家具を全部どかして、畳を替えるなど、考えただけでも大仕事だ。それでも長く嗅いだことのない畳の匂いは、不思議なほどはっきりと鼻に残っていた。

小学校のころ、学校帰りに畳屋の前を通りかかると、ときどき畳屋の引き戸が開いて、作業をしているのが見えたものだった。そんなときは立ち止まって、作業をしているところを飽きず眺めたものだ。台の上に置いた畳に、店の人が太い針を刺しているのを見ることができた日は、何か得をしたような気がした。

そのころ、畳屋ばかりでなく、商店街のなかにも男性用のスーツだけを仕立てる店や、包丁研ぎの店、帽子屋、お茶屋、氷屋(冬には焼き芋も売る)、数珠屋など、ひとつのものだけを扱う店が何軒かあった。そういう店はたいていひっそりとしていて、店先に客がいることもまれだったが、氷屋であれば氷を切っているところを見ることができたし、珠数屋の軒先には、巨大な数珠がぶらさがっていて、そこのほかにはどこにも見られない不思議なものがいくつもあった。

帽子だけ売って、包丁研ぎだけで、商いが成り立つのだろうか。小学生のわたしにさえ、それは不思議だった。それでも、畳屋にしても研ぎ屋にしても、店は同時に仕事場で、子供にも、そこが何をしているところかだけでなく、どういうプロセスで包丁が研がれ、畳ができていくのか見ることが、外から見ることができたのだ。クリーニング屋の窓の向こうでは、おじさんが汗を流しながら、見事な手際でワイシャツのアイロンがけをしていたし、店の奥で判子屋のおじさんが判子を彫っているのも見えた。

気がつけば、わたしたちの身の回りから、そんな店が消えていった。
子供の「将来なりたい職業」のなかに「ケーキ屋さん」というのは定番だが、それはケーキという単品を扱い、奥で店の人が白衣とエプロン姿で作っている、というわかりやすさがあるのだろう。

明治初期に日本を訪れた外国人たちが失われゆく日本のさまざまな風景を書き残した文献を縦横に援用しつつ、当時の日本のようすをわたしたちの前に見せてくれるのが、渡辺京二の『逝きし世の面影』である。そのなかに、こんな一節がある。
 イザベラ・バードは明治十一年訪れた新潟の町の店々について、その旅行記にとくに「ザ・ショップス」という一章を設けて詳述している。…
「桶屋と籠屋は職人仕事の完璧な手際を示し、何にでも応用の利く品々を並べている。私は桶屋の前を通と、必ず何か買いたくなってしまうのだ。ありふれた桶が用材の慎重な選択と細部の仕上げと趣味への配慮によって、一個の芸術品になっている。籠細工はざっとしたのも精巧なのも、洪水を防ぐために石を入れるのに使われる大きな竹籠から、竹で編んだみごとな扇にくっつけられているキリギリスや蜘蛛や甲虫――こいつは目をあざむくほどうまくできていて、思わず扇から払い落としたくなるほどだ――に至るまで、ただただ驚異である……」…

 バードの記述でおどろかされるのは、それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。羽織の紐だけ、硯箱だけ売って整形が成り立つというのは、何ということだろう。もちろん、店の規模はそれだけ小さくなる。ということは一定の商品取引量の養える人口が、その分大きいということを意味する。つまりここでは生態学的に、非常に微細かつ多様な棲み分けが成立しているわけだ。細民のつつましく生きうる空間がここにあった。それだけではない。特定の一品種のみ商うというのは、その商品に対する特殊な愛着と精通をはぐくむ。商品はいわば人格化する。商店主の人格は筆となり箸となり扇となって、社会の総交通のなかに、満足と責任をともなう一定の地位を占める。それが職分というものであった。しかも彼らの多くは同時に熟達した職人でもあった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。商品は仕事場でもあった。
(渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー)

その多くが明治初期に失われたとしても、わたしが子供時代を過ごした昭和四十年代には、それでもまだそのいくぶんかは残っていたのだ。

わたしのところに畳の注文がないか聞きに来た畳屋さんの店は、いったいどこにあるのだろう、と思った。わかったところで、畳の注文ができるような余裕はないのだが、昔見たように、引き戸を開けて、通りから見えるような場所で作業をしているのなら、その様子がまた見てみたいと思うのである。


サイト更新しました

2009-01-25 22:25:59 | weblog
先日までここで翻訳していたロバート・シェクリィの「危険の報酬」、手を入れてサイトにアップしました。更新情報も書きました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html


翻訳の入り口のページも、ずいぶん下にのびちゃったのでちょっと変えるつもりだし、鴎外も、あと「鶏的思考」も、そのほかにちょこちょこ書いた文章も、なんとかもう少しまとめていきたいと思っています。
しばらくせっせとサイトを更新していきますので、またあちらの方ものぞいてみてください。

ということで、それじゃまた。

半世紀前のやらせ(後編)

2009-01-23 23:29:45 | weblog
(承前)

1950年代、テレビの最大の売りは、「視聴者が生の現実に立ち会う」ということだった。
ラジオは音声はあっても画像がない。映画は画像はあるが、リアルタイムで進行する現実には立ち会えない。いくらドキュメンタリー・フィルムやニュース映画であっても、編集の手を経ているし、出来事が起こってから時間が経過していることは避けられない。

その点、テレビはライヴ映像はうそをつかない。「ありのままの現実」を目の前で繰り広げてくれる、それがテレビだ、といわれていたのである。

ところが1959年に発覚した「クイズ・ショー・スキャンダルズ」は、「ライヴ番組」と思われていたクイズ・ショーが、台本があり、リハーサルがなされて、実際にはドラマと何ら変わりのないものであることがあきらかになったのだった。

当時のクイズ番組の司会者となったジャック・バリーは、のちにこのように語っている。
最初の何週間かは、われわれはこうした工夫(答えを事前に回答者に教えること)をしませんでした。しかし、三、四週間やってみて、ほとんど全部の問題にまったく答えられない解答者が二人ほど出てきました。それは酷いものでした。スポンサーと広告代理店が電話をかけてきて「二度とこんなことを繰り返すな」といってきました。
(『テレビの夢から覚めるまで ―アメリカ一九五〇年代テレビ文化社会史―』)

当時、スポンサーは番組の放送に立ち会っていた。スポンサーとしてみれば、ラジオとは較べものにならないほどの巨額の広告費を支払っているのである。自分たちに口を出す権利は十分あると考えていたのである。

一方、制作者の側も、より多くの視聴者に喜んでもらうために、演出は必要だと考えていた。

ところが制作され、スポンサーのついた番組を放送するネットワークは、そこまで開き直るわけにはいかない理由があった。先にもあげたようなテレビにしかない機能「視聴者が生の現実に立ち会う」ということをつねづね主張してきたのはネットワークだったからである。さらに、スキャンダルが公序良俗に反するものと見なされるならば、放送免許の更新を拒否される可能性もあったのだ。

クイズ・ショーで不正を告白したチャールズ・ヴァン・ドーレンは、証言の後、大学を解雇された。番組プロデューサーたちは不正を認めたが、「業界の常識」であると主張した。そのうえで、スポンサーの関与は否定した。というのも、指示があったと証言すれば、今後、テレビの世界で仕事をすることなど、望めなくなってしまうからだった。
当然、スポンサーは不正操作への関与を否定した。
さらに、ネットワークは軒並み、クイズ番組を放送中止にし、番組プロデューサーとの契約を破棄し、「とかげのしっぽ切り」を進めたのである。さらに、悔悛の情と再発防止の熱意を示すために放送コードを定め、番組の自己検閲のシステムを強化した。そうするなかで、番組制作をスポンサー主導から、ネットワーク主導へとシフトしていったのである。
この三年間の人生の軌跡を変えることができるなら、私はなんでも差し出すでしょう。私は、自分のいったこと、したことを取り返すことはできません。だれにとっても過去は変わらないのです。しかし、少なくとも、過去から学ぶことはできます。……私はこの三年間に、とくにこの三週間に、多くを学びました。私は、人生について、多くを学びました。私は、私自身について、そして人間が他の同胞に果たすべき責任について、多くを学びました。私は善と悪について、多くを学びました。それらは必ずしも見かけと同じものではありませんでした。私は詐欺に深く関わりました。そして、私もまたかなり騙されていたという事実があっても、私がその詐欺行為の最大の犠牲者だということにはなりません。なぜなら、私がその象徴的存在そのものだからです。

チャールズ・ヴァン・ドーレンは公聴会でこう証言したが、実際にはこの「クイズ・ショー・スキャンダルズ」が暴いたのは、結局のところ、ドーレンが回答できたのはあらかじめ仕組まれていた、という以上のものではなかったのだ。

だが、この半世紀前の事件を本で読みながら、わたしは奇妙な気がしてならなかった。
番組を盛り上げるための「やらせ」、つまり台本・演出・リハーサルにしても、スポンサーの問題にしても、視聴率のことにしても、わたしたちが今日テレビの問題として思いつくことは、すべて半世紀前に出尽くしているからだ。

本書の最初の方で筆者は、1951年のクリスマスに放送されたコマーシャルをふまえて、このように書いている。
このコマーシャルからもわかるように、1950年代の初めにおいて、テレビ受像器はアメリカ人の夢を叶える機械だった。……このコマーシャルを見て、何百万人ものアメリカ人がこう思ったに違いない。……テレビは、神からのプレゼントだ。われわれは、このプレゼントを手にして、娯楽のことばかり考えるのではなく、人類への善意と地上の平和のことを、そして、それをいかに役立てるかをも考えなければならない。テレビを通じて、いかにひとびとの蒙を啓き、偏見を根絶し、理解を深めるかに心をくだかなければならない。テレビこそ、その未来を開いてくれるだろう。

クイズ・ショー・スキャンダルズが起こったのが、それからわずか8年後の1959年である。そのあいだに問題になったことは、いまも解決されることなく持ち越されているのだ。

テレビに人びとが夢見たということは、少なくとも、テレビにそれだけの可能性があったということだろう。それは、可能性だけで潰えてしまったのか。それとも、まだ「蒙を啓き、偏見を根絶し、理解を深める」ためのツールでありうる可能性は残っているのか。

それはなによりも、視聴者であるわたしたちの問題であるのだろう。


半世紀前のやらせ(前編)

2009-01-21 23:02:32 | weblog
「やらせ」という言葉がある。
テレビや新聞などで、あらかじめ筋書きが用意してあるにもかかわらず、それが何の手も加えられていない事実であるかのように放映・報道されるものである。

「危険の報酬」をサイトにアップするために、1950年代のアメリカのテレビの本を読んでいたら(有馬哲夫『テレビの夢から覚めるまで ―アメリカ一九五〇年代テレビ文化社会史―』国文社)、1950年代の終わりには、このやらせをめぐって大きな問題が起こっていたことが書かれていた。今日はその話。

《クイズ・ショウ》という1994年の映画をご存じだろうか。ロバート・レッドフォードが監督し、《シンドラーのリスト》で主演したばかりのレイフ・ファインズが主演した映画である。コロンビア大学助教授のチャールズ・ヴァン・ドーレンが、クイズ番組『トウェンティー・ワン』で事前に答えを教えてもらって勝ち続けた、というやらせをめぐる映画である。

ドーレンは1959年、下院立法監視委員会・連邦通信委員会合同の公聴会で、そのときの模様をこのように証言している。
 ……彼(『トウェンティー・ワン』のプロデューサー、アルバート・フリードマンは、二人だけで話せるように寝室(フリードマンのアパートの)に連れていきました。そして、今のチャンピオンのハーバート・ステンペルは不敗の回答者だ、なぜなら物事を知り過ぎるくらいよく知っているからといいました。ステンペルは不人気で、番組がだめになるまで対戦者を右に左になぎたおしていると彼はいいました。彼は、彼に対する好意として、私が彼と取り決めをして、ステンペルと互角に渡り合い、それによって番組の価値を高めてはくれないかといいました。私は助けを受けずに、正直に番組でやらせてほしいと頼みました。彼はそれはできないといいました。ステンペルは知り過ぎるくらい物知りだから、私が彼を負かすことはあり得ないだろうと彼はいいました。彼はまた、番組はエンターテイメントに過ぎず、クイズの対戦者に手を貸すのは普通に行われていることだし、ショー・ビジネスの一部に過ぎないといいました。もちろん、そういうことは事実ではなかったのですが、私はたぶん、彼のいうことを信じたかったのです。
(『テレビの夢から覚めるまで ―アメリカ一九五〇年代テレビ文化社会史―』)

証言でドーレンが言うように、ほかのクイズ番組でも同種のことは普通に行われていたのだ。この問題を追求されたプロデューサーであるフリードマンは、ほとんど罪悪感を感じることもなく、このように証言している。
国家の重責をになう人物たちが、たいてい「ゴースト・ライター」を雇っていて、自分の演説を書かせたり、多くの場合、本さえ書かせたりしているとわかったとして、それはショッキングなことでしょうか。

クイズ番組の送り手の側は、あくまでもショーと考えていた。ショーであるならば、台本があり、演出があり、リハーサルをしていて、何の不都合があろう、というわけである。ところが視聴者はそう思っていなかった。だからこそ、政府機関まで巻き込んだ大問題になったのである。

そもそもクイズ番組というのは、ラジオの放送時間の延長にともなって、その穴埋めのために急増したという経緯がある。低予算で簡単に作ることができるクイズ番組は、制作側から見れば大変お手軽なものだったが、みんなで答えを考え、一体となって参加できることから、聴衆には人気があったのだ。

50年代半ばになって、テレビでもクイズ番組の制作が検討されるようになった。視覚的要素に乏しいクイズをどうテレビで制作するか。
それに解決を与えたのが『六万四千ドルの問題』である。これは当時ラジオで人気のあった『六十四ドルの問題』のやり方をそのまま踏襲した。最初の対戦で勝つと賞金が1ドル、以降勝ち残るたびに賞金が倍になり、最終的に七度勝ち抜くと64ドルを手に入れる。そうしてその賞金を千倍にしたのである。ニューヨーク周辺に中間所得層向けの住宅が三、四軒建つほどの金額だった。スタジオでは回答者をブースに入れるなど、視覚的効果も高めた。そうして話題性のある挑戦者を参加させた。ラジオ番組時代はただのクイズ番組だったのだが、それに演出とシナリオを加えてショーに仕立てたのである。

問題は、そのシナリオに、人気の出そうな出場者だけでなく、競り合いになるように相手にも何問かの答えを教え、最後には人気を得た出場者を勝ち残らせる、ということまで含まれていたことだ。

この『六万四千ドルの問題』は最高視聴率をおさめる番組となった。そうして他のネットワークもそれにならって同様の番組を作り始めたのである。

制作者の側からすれば、演出はどうしても必要だった。
一般の出場者が、初めてテレビに出る。極度に緊張して、簡単な質問にさえ答えられなくなる。答えも聞かされず、リハーサルもなかったら、出場者はほとんど答えられないだろう。実際、そうなって、スポンサーの側からクレームがついたこともあったらしい。
 大切なのは、視聴率だ。番組の視聴率が高ければ、番組のあいだに挿入されるコマーシャルを、それだけ多くの人に見てもらえる。そうすれば、スポンサーの宣伝する商品の売上げが上がる。視聴率を上げるためには、視聴者をひきつける娯楽が必要だ。視聴者は、よほど興味深いものでない限り、生の現実など見たいと思ってはいない。現実などあまり面白いものではない。視聴者が見たいのは、むしろ現実を忘れさせてくれるようなショーだ。テレビとは、ショー・ビジネスなのだ。ショー・ビジネスならば、演出は当然のことだ。

いまから半世紀前、いわば創生期の時代から、番組制作の基本的な姿勢がまったく変わっていないことに驚くほどだ。

明日はこのクイズショー・スキャンダルズ(ひとつの番組のやらせではなかったために、「スキャンダルズ」と複数形になっているのだ)の結末がどうなったか。

もしかしたら「危険の報酬」をアップするのに忙しくて、明後日になるかもしれませんが。

(この項つづく)

冬の朝

2009-01-20 23:05:28 | weblog
小学校のあれは何年だったのだろうか。
たぶん理科の授業だったと思うのだが、月に一度、なんでもでもいい、季節が感じられるものを見つけてそれを書きなさい、ということを、一年間続けた。ちょうど絵日記のように、紙の上半分に絵が描けるような枠があり、下には罫が引いてあって文章を書くようになっている。そこに毎月、桜が咲いた、鯉のぼりを見た、あじさいの花の色が変わった……などと書いていったのだろう。

自分が何を書いたかまったく覚えていないのだが、学年の終わりにみんなでそれをまとめて発表会をやった。自分のことはもちろん、ほかにどんな発表があったかも記憶にはない。たったひとつ覚えているのは、その発表会を見に来た副校長先生の講評だ。

みんなは季節の移り変わりといったら、自然現象ばかりだと思っているのではないか、スーパーの店先だって、街のショウ・ウィンドウにだって、道を歩く人にだって季節はあるのだ、もっといろんなところにある季節にも目を向けてほしい。そんな内容の話だった。

こうやってみると、自由な発想というのは、かならずしも子供のものとは言えなさそうだ。「理科の授業でやる」ということから、自然現象のなかから探さなくてはならない、というふうに思いこんでしまったのだから。

おそらく毎月苦労して書いていたのだと思う。チューリップやあじさいなどのように、即座にむすびつく花が見つかる月ばかりではない。図鑑を見ながら、あまりよく知らない植物の絵を描いたこともあったような気がする。

だが、副校長先生の話を聞いて、しまった、そんなにむずかしく考えないでいいんだった、もっと自分の身の回りに目を向ければ良かったんだ、と思った。図鑑の絵では実感のあろうはずがない。だが、日常のなかに自分が「ああ、冬だ」と思えば、そこにほかならぬ自分の「実感」がある。そんな機会でもなければ流れていってしまうような些細な「実感」でも、つなぎとめておけば自分の「歳時記」だ。

もちろんそのとき、そんなことまで思ったわけではないだろう。それでも、季節の移り変わりが自分の実感として刻まれるようになったのは、その出来事がきっかけだったように思う。

ピアノの鍵盤にふれて、指先からしみわたってくる冷たさ。動かすたびにどんどん指がかじかみ、動かなくなっていく。手を離し、息を吹きかけ、こすって暖め、凍えて堅くなった指をほぐしてから、また鍵盤にのせる。それを繰りかえすのが、当時のわたしにとっての冬だった。

あるいは、朝、目を覚まして部屋を出ると、ぷんと灯油のにおいが鼻をつく。そのにおいのおかげで、ストーブのある部屋の暖かさが、部屋に入るより先にわたしの身の内に起こるのだった。蒸気でくもったガラス窓とストーブの上で湯気をあげているやかん。

学校へ行くとき、近道をするために空き地を横切る。運動靴の下のざくざくいう感触が楽しくて、霜柱のあるところを選んで歩いた。

寒がりのわたしが、寒い、寒い、と言っていると、いつも「肩の力を抜いてごらん」というクラスメイトがいた。寒いときには体が縮こまって、肩に力が入っているものだ。そこで肩の力を抜くと、かえって寒くなくなるよ。その子は口癖のようにそう言っていたのだが、肩の力を抜くと、首筋がスースーして、やはり寒かった。

ひとりで暮らすようになって、冬を実感するのは、結露だ。毎朝カーテンを開けて、びっしょり濡れた窓ガラスを拭く。朝一番の仕事を、11月の終わりぐらいから3月の終わりぐらいまで、四ヶ月間、毎朝続けていく。

例外は雨の朝で、雨がふることで明け方気温が下がらないせいか、結露は生じないのだった。冷たい雨のなか、出かけていかなければならないことを思うと、雨はうれしくはなかったが、カーテンを開けて、めずらしく濡れても曇ってもいない窓から外が見渡せるのはうれしい。窓が濡れているのではなく、窓の外が濡れている。アスファルトの路面に、まばらな街灯が反射し、真っ暗な外は夜中か朝かわからない。それでも新聞配達のバイクの音が、普段より近く聞こえ、早朝であることを教えてくれる。
雨の朝に愛着がもてるのは、この季節だけだ。

メロスの疑問

2009-01-19 23:09:52 | weblog
太宰治に『走れメロス』という作品がある。確か中学の教科書にも載っていたし、子供向けの児童文学でも定番だ。つまり、鴎外の『山椒大夫』や漱石の『坊っちゃん』芥川龍之介の『鼻』や『芋粥』などのように、小中学生にも理解できる文学とみなされているのだろう。

だが、わたしはどうも『走れメロス』をどう読んだらいいのか、いまだによくわからないのだ。まさか友情を扱った話? のわけがないように思えて。

わたしが気になるのは単純であまり知恵が回るとは思えないメロスより、その親友であるセリヌンティウスである。メロスのせいで、あやうく死刑になりかけるセリヌンティウスは、最後でメロスに向かって「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」というのだが、ほんとうに一度だったのだろうか。

走っているメロスの方は、実際、ああだこうだ考える暇もなく、ひたすら走り、自分の行く手をふさぐあれやこれやを片づけなければならないのだから、まだいい。

ところが、セリヌンティウスときたら、死刑を目前に、なにひとつすることもなく、獄舎につながれている。そんなとき、考えることといえば、メロスのことばかりだろう。

メロスが来るか来ないか。
考え出すとさまざまな疑念が去来するはずだ。
メロスはふだんからはた迷惑なやつだった。
メロスはおれのことを親友だとかなんとか言っているが、どこまでほんとうにそう思っているのだろう。

やがて些細な事実がよみがえってくるはずだ。ちょっとした言葉の端々、ちょっとした表情。これまでそんなことを覚えていたことさえ気がつかずにいたような記憶がどっと出てくる。セリヌンティウスが獄中にあって考えていたことは、それだけだったような気がする。怖ろしい疑念に七転八倒していたセリヌンティウス、戻ってきたメロスを見て、うれしさのあまり、興奮してそんなことを口走ったのだろうが、以降のふたりが同じようにともだちづきあいを続けていけるものかどうか、わたしとしてはかなり疑問に思える。

「瓜田に沓を納れず李下に冠を正さず」ということわざがあるが、実際のところ、何か疑わしい行動を取ったから疑われる、というケースはまれなのではないか。
逆に、疑う気持ちがあるからこそ、頭は自分の記憶を検索し、洗いざらい調べ上げ、本人さえ記憶していることを忘れていた(?)ような記憶を引っ張り出してくる。

シェイクスピアの『オセロ』では、オセロに密かに悪意を持っているイアーゴーが、オセロに対して妻デズデモーナの貞節に疑いを吹きこむのだ。そういえば、とオセロは考える。キャシオーのやつが、自分がデズデモーナに与えたハンカチを持っていた……。

ヒッチコックの映画にも《疑惑の影》というものがある。
ハイティーンの女の子、チャーリーが暮らす平和な一家に、彼女と同じ名前の叔父さんが訪ねてくる。この叔父さんが、殺人犯なのではないか。叔父さんが新聞を破り捨てたのはどうしてなのだろう、そこには何が書いてあったのだろう。チャーリーの疑惑は、いくつもの証拠をつなぎ合わせる。

ポイントは、事実があって疑念が生じるのではない。逆に、疑念が「事実」を集めてくるのだ。

疑惑が生じる。この疑惑はほんとうだろうか。そう考えた人は、なんとかその証拠を集めようとする。疑惑をうち消すような証拠が見つかったとき、その人の疑惑はほんとうに解消するのだろうか。うち消すような証拠をうち消すような反証を、また探そうとするのではないか。そしてまた疑惑を裏付けるような証拠が見つかると、そこからさらにそれをうち消すような……、と、際限のない問いの連鎖にからめとられてしまうように思うのだ。
その疑惑の連鎖は、事態を決着させるような事柄に至るまで、ジェットコースターから降りれないように、止むことはない。

こう考えていくと、おそらく疑惑というのは、何か根拠があって生じるのではない、ということだ。思いがけず獄に繋がれることになったセリヌンティウス、ムーア人でありながらヴェニスで高位に就くオセロ、平和な家に叔父さんが来たことで微妙に家のなかの空気が変わってしまったチャーリー、いずれも自分を取り巻く周囲と自分とのあいだに、不調和を感じる、そんなときに、どこからともなく胸の内にきざすものなのである。

いったん疑惑が生じると、それがどれほど怖ろしい真相であっても、というか、自分が考えて怖ろしいと思われることを「真相」として、そこへ向かってひたすら突き進むもののようだ。

こう考えていくと、メロスと殴り合っただけで、セリヌンティウスとメロスの友情がいっそう固いものとなる、というのは、あまりに夢のような話に思えるのだ。
またセリヌンティウスが不安になるような事態が生じると、あのときメロスは……と思い始めるのではないか。
まああれはお伽噺のようなもの、そんな話にいちゃもんをつけるのは……、という気もしないではないのだが。