陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・チーヴァー 「とんでもないラジオ」 3.

2006-03-20 22:26:09 | 翻訳
その3.

 その晩、ジムはひどく疲れて家に帰り、風呂に入って着替えをすませてから、リビングに入ってアイリーンのそばに来た。ちょうどラジオをつけたとき、女中が夕食の準備ができたことを言いに来たので、つけっぱなしのままアイリーンと一緒に食卓に着いた。

 ジムはジムで、疲れすぎていて愛想良く振る舞うことも苦痛らしく、アイリーンも料理などたいして気にもかけていなかったために、意識は食べているものからさまよい始め、キャンドルにこびりついている磨き粉に意識が向かい、やがてほかの部屋から聞こえてくる音楽に向かった。ショパンのプレリュードが数分間流れていたが、いきなり男の声が割りこんできたのでひどく驚いた。「いいかげんにしてくれよ、キャシー」と、その声が言った。「おれが家に帰ってくると、なんだっていつもピアノを弾かなきゃならないんだ」音楽は唐突に終わった。「いましか弾けないのよ」女性の声が答えた。「一日中会社にいたんだもの」「それはこっちだって同じだ」男の声が続けてアップライト・ピアノについてなにやら口汚くののしると、バタン、とドアを閉める音がした。情熱的でもの悲しい音楽がふたたび始まる。

「いまの、聞いた?」アイリーンがたずねた。

「何を?」ジムはデザートを食べている。

「ラジオよ。音楽の最中に、男の人が何か言ってたでしょ? 汚い言葉遣いで」

「たぶんドラマだろう」

「ドラマなんかじゃないわ」

 ふたりは食卓を立つと、コーヒーを持ってリビングに戻った。アイリーンは、ほかの局に変えてみて、と頼んだ。ジムがツマミを回す。「おれの靴下止めを知らないか?」男の声がした。「あたしのボタン、留めてよ」女の声が答える。「おれの靴下止めは?」「あたしのボタンを留めちゃってよ、そしたら見つけてあげるから」ジムはちがう局に変えた。「灰皿にリンゴの芯を捨てるのをやめてもらえないだろうか」男の声がした。「臭いがいやなんだ」

「変だな」ジムが言った。

「でしょ?」

ジムはもういちどつまみを回した。「“コロマンデル海岸に、初物カボチャが実る場所”」イギリス訛りの女の声がした。「“森のまんなかに、ヨンギー・ボンギー・ボーが住んでいた。二つの古い椅子と、半分になったロウソク、取っ手のとれた古いマグカップ……”」

「なんてこと!」アイリーンが大声を出した。「スウィニーの乳母だわ」

“ヨンギー・ボンギー・ボーがこの世で持っている物は、これでおしまい”

「ラジオを消して」アイリーンが言った。「たぶん向こうもこっちの声が聞こえてるはずよ」ジムはスイッチを切った。「いまちっちゃな子に絵本を読んでやってるのよ。17のB。アームストロングの奥さんとは、公園で話したばかり。奥さんの声ならよく知ってるもの。このアパートのほかの人たちの声を聞いてるんだわ」

「そんなことはあり得ない」ジムが言った。

「それでも、あれはスウィニーの乳母だった」アイリーンは興奮していた。「声だってよく知ってるんだもの。向こうにこっちの声が聞こえてるのかしら」

ジムはスイッチを入れた。最初は遠くから、それから、近くへ近くへ、まるで風に運ばれてくるように、まちがいなくスウィニーの乳母のアクセントが聞こえてきた。「“レディ・ジングリィ、レディ・ジングリィ、かぼちゃが実るところに座っている。こっちへ来て嫁になってはくれんかね? ヨンギー・ボンギー・ボーはそう言った……”」

ジムはラジオに顔を近づけ、大きな声でスピーカーに向かって「もしもし」と言った。

「“ひとりで暮らすのはあきあきだ、この海岸は荒れ果てるし、石ころだらけ、いまの暮らしはうんざりだ。こっちへ来てお嫁さんになってくれりゃ、おれの生活も落ち着くのに……”」

「向こうには聞こえてないみたいね。ほかの局も聞いてみましょう」

 ジムが別の局に合わせると、リビングにカクテル・パーディの喧噪、それもたけなわを過ぎたあたりの感じがあふれだしてきた。誰かがピアノを弾きながら“ザ・ホイッフェンプーフ・ソング”を歌っていて、ピアノの周りを熱っぽく楽しげな声が取り囲んでいた。「サンドイッチをもっと食べてよ」と、甲高い女の声がする。笑いさざめく声や皿か何かが床に落ちて割れる音が響く。

「フラーさんのお宅だと思うわ、11-Eの。フラーさんのお宅ではお昼からパーティらしいから。酒屋で会ったのよ。これってすごいわね? ほかにも聞いてみましょう。18-Cの人たちが入らないかしら」

(この項つづく)