陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「あれ」でもなく、「これ」でもなく

2013-04-10 22:52:48 | weblog
お昼ごはんを食べていたら、隣の席で女性がふたり、例の洗脳された芸能人がテレビ復帰すべきか否かについて、ずーっと語り合っていた。おかげでわたしもすっかりその情報に詳しくなったのだけれど、その芸能人の話ではなく、洗脳の話でもなく、それをきっかけに気になったことがあったので、今日はそのことを。

考えてみればおかしなことだけれど、わたしたちは自分に利害関係はまったくなくても、ふたつのことが対立する構造にあると、つい、どちらかに肩入れしてしまう。占い師による洗脳がまだ続いていようがどうだろうが、わたしたちにとっては痛くもかゆくもない話だ。でも、それを話している人は、そのことに対して自分の意見を持ち、相手にも同意してもらおうと、さまざまな情報で裏付けながら、熱をこめて話をしていた。そうして、その人と何の関係もないわたしまでも、すっかり説得されてしまって(笑)、洗脳と依存と友情のあいだに線を引くのは意外とむずかしいものなのかなあ、などと思ってしまったのだ。

たとえ自分に何の知識もなく、興味もなく、まったく関係がなくても、わたしたちはつい、「あれかこれか」と考え、「あれ」よりは「これ」の方が好ましい(正しい)、と考える。というより、自分には関係ないから、そのことはよく知らないから、興味がないから、と、どちらにも肩入れせず、等しく距離を置くことは、思っているよりずっとむずかしい。

ところで、最近では学校の授業で「ディベード」を扱っているのはご存じだろうか。この「ディベード」のおもしろいところは、論者が自分の立つ側を選ぶのではない、という点だ。

「原発か脱原発か」「死刑制度は廃止すべきか否か」「小学生に携帯(ゲーム機)を持たせるべきか」「高校生のアルバイト」「救急車を有料化すべきか否か」……など、まず論題が与えられると、それについて各人がどう思っているかとはまったく無関係に、「Yes」の側と「No」の側に割り振られ、それに従って資料を集め、自分の意見を作り上げ、それに対する批判点を予測し、批判に対する回答を準備していく。

そうしていくうちに、たとえそれまでそんなことを考えたことがなくても、割り振られたことによって自分の考えができていく。ディベードに勝つために始めたことが、自分の考えを方向付け、やがてそれが自分の意見になっていくのである。

このことを考えると、わたしたちが日ごろばくぜんと、「自分の意見」と思っていることは、ほんとうに自分自身が考え、選び取ったものなのだろうか、という気がしてくる。「あれかこれか」とふたつ立場があるうちの、その一方を、さしたる根拠もなく肩入れした結果、いつのまにかそれが「自分の意見」になってしまってはいないだろうか。

シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』に、こんな場面がある。
ブルータスがシーザーを暗殺する。例の「ブルータスよ、おまえもか」である。なにしろ当時のシーザーときたら、ローマ市民の英雄だったから、市民たちは黙ってはいない。ブルータスにどうしてそんなことをしたのか、公開の場で説明してくれ、と要求する。

ブルータスは言う。自分がシーザーを刺したのは、シーザーを愛さなかったためではない、独裁者となって、市民を奴隷としようとするシーザーの野心を知って、シーザーに対する愛よりも、ローマに対する愛の方が勝ったがゆえに、シーザーを刺したのだ、と。

市民はすっかりそれに説得されてしまう。シーザーの遺体が運ばれてきて、ブルータスが
 私はローマのために最愛の友を刺した、その同じ刃を、もし祖国が私の死を必要とするならば、みずからこの胸に突きつけるだろう。

と言うのに対し、このように答えるのである。
市民一同  死ぬんじゃない、ブルータス、生きてくれ!
市民1   万歳を叫んでブルータスを家まで送ろう。
市民2   ブルータスの像を建てよう、先祖の像と並べて。
市民3   彼をシーザーにしよう。
市民4   ブルータスならばシーザーの美点だけが王冠をかぶることになるぞ。

アントニーがそこに登場する。そうしてシーザーが捕虜の身代金をすべて国庫に収めたこと、王冠を三度までも拒絶したことをあげ、シーザーに果たして野心があったのか、と市民に問う。さらに、シーザーは遺言状に、死後は自分の財産をローマ市民に分け与えると記している、と告げるのだ。すると市民の態度は豹変する。
市民1   ああ、痛ましい姿だ!
市民2   ああ、気高いシーザー!
市民3   ああ、なさけないことに!
市民4   ああ、謀反人め、悪党め!
…略…
市民一同  復讐だ! やれ! 捜せ! 焼きうちだ! 火をつけろ! 殺せ! やっつけろ! 謀反人を一人も生かしておくな!

さっきまで英雄だったブルータスも、アントニーのひとことで「謀反人」の「悪党」になってしまうのだ。

もちろんこれは戯曲だし、現実に生きる人びとのカリカチュアライズではある。けれども、実際にわたしたち自身が、ほんの些細なことが原因で、ある人の評価が一方の極から一方の極へと、大きくふれてしまうことはないか。しかも、それが自分の利害に直結するようなことなら、なおさらわたしたちは「市民 n」になってはいまいか。

どちらが「正しい」のか、その場ではわからないことが多い。にもかかわらず、わたしたちは「あれ」よりも「これ」の方が正しい、と、いとも簡単に判断してしまい、さまざまな理由でそれを補強し、いつのまにかそれがほんとうに正しいとする。けれども、その判断がどれほど正しいのか、何らかのバイアスがかかっていないのか、実際にはなかなかわからない。

少なくとも、「対立するふたつのことがらに対して、等しく距離を取る、もしくは、どちらにも与しない」ことは、わたしたちにとって大変むずかしいことである、という意識だけは、頭の隅にとどめておきたいと思うのだ。

もちろん、これすらも「あれかこれかの一方に、簡単に飛びついてしまうか否か」というふたつのことがらの一方に過ぎないのだが。




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1 コメント

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Unknown (Amarcord)
2013-04-17 15:17:26
面白いですね。
一旦引いてから改めて、適切な距離まで近づくのが社会人らしい
と言えばそうなんですが、そうしている間に失われるのは(情)熱でしょう。(良くも悪くも)
何にしても、この熱をうまく使えるようになりたいものですね。
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