陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

英語の勉強

2013-05-02 23:56:49 | weblog
2011年から小学校に英語の授業が導入されて、この春で二年目になる。「コミュニケーション能力の素地を養う」とかいう授業がどのようなものなのか、実のところは知らないのだが、外国人教師が週に一時間か二時間、"Hello, everyone! How are you?" と言う例のやつではあるまいか、と思っている。そんな挨拶だけ、どれだけ勉強したとしても、何の役に立つわけでもないことは、誰もが十分わかっているだろうに。問題は、挨拶をしたそのあとなのである。

以前から、日本の英語教育の弊害を口にする人は多かった。曰く、文法中心でちっとも話せるようにならない、とか、中学から大学まで十年も勉強したのに、話せない、聞けないで役に立たない、とか。そんな不満が小学校からの導入や、「オーラル重視」という流れを生んだのだろう。

ただ、ひとつ疑問なのは、そんなことを言っている人が、現実にいま、過去の学校教育のおかげで困ったことになっているのだろうか。

なんだかんだ言っても、日本で生活している限り、英語とは無縁でいられる。ほとんどの人は英語など不要な生活を送っていて、過去に英語のテストで痛めつけられた苦い記憶だけが残っているから、つい、そんなことを愚痴混じりに言っているのではあるまいか。

ユニクロの社長始め、仕事で英語を日常的に使っている人は、どこかの段階で、相当しっかり勉強したはずだ。わたしもそうだけれど、必要に迫られれば、その必要に応じて勉強し直すよりほかなく、そうなってみれば記憶の隅に引っかかっている切れ切れの文法の知識が、意外と役に立つことを思い知らされたのではないか。少なくともわたしの場合はそうだった。文法というのはゲームのルールと同じで、ゲームを進めていくためには基本的なルールを身につけないわけにはいかない。それだけでゲームで勝つところまではいかないが、ルールを知らなければ、ほかのプレイヤーと同じスタートラインにさえ立てない。

文法なんて必要ない、子供を見てみろ、子供なんて文法など覚えなくても、外国で生活していればすぐに英語を覚える、と乱暴なことをいう人もいるが、これも相当にアヤシイ。実際に見てきた限りでは、子供が大人より早く覚えるということはなく、どれだけ「英語漬け」の環境にあったとしても、ちっとも「自然に」身につけることなどはないのである。まして、両親とも英語が使えない家の子となると、いくら現地の学校に放り込まれても、大人よりもひどいストレスを被ることはあっても、ちっともしゃべれるようにはならない。そんな子供たちは、英語を母語としない子供向けのメニューで、結局英語を文法から勉強していくしかないのだ。

もちろん、文法なんかムダだ! という語学の達人もいる。たとえばトロイの遺跡を発掘したシュリーマン。この達人は、どんな勉強方法で十数カ国語をモノにしたのだろうか。彼はこうやってギリシャ語を習得したのだそうだ。
語彙の習得はロシア語のときより難しく思われたが、それを短時日で果たすために、私は『ポールとヴィルジニー』の現代ギリシャ語訳を手に入れて、それを通読し、この際、一語一語を注意深くフランス語原文の同意語と対比した。この一回の通読で、この本に出て来る単語の少なくとも半分は覚え、それをもう一度くり返したのちには、ほとんど全部をものにした。しかも、辞書を引いて一分たりとも時間をむだにするようなことはしなかったのである。このようにして、私は六週間という短い期間のうちに、現代ギリシャ語をマスターすることに成功し、それから古典ギリシャ語の勉強に取りかかった。(略)

…ギリシャ語文法は格変化と規則動詞および不規則動詞だけを覚えた。一瞬たりとも、文法規則の勉強で貴重な時間をむだにはしなかったのである。(略)私の考えでは、ギリシャ語文法の根本的知識は、実地練習、つまり古典の散文を注意深く読むことと、模範的作品を暗記することだけで身につけることができる。私はこのきわめて簡単な方法に従って、古典ギリシャ語を生きた言語のように学習したのである。だから私は、決して言葉を忘れることなく、完全にすらすらと書き、どんな対象についてもらくらくと思うことを表現することができるのだ。
(ハインリヒ・シュリーマン『古代への情熱――シュリーマン自伝』新潮文庫)
なるほど、さようでございますか。
対訳本を使えば、辞書をまったくひかなくても、一回で単語の半分を覚えて、二回目にはそのほとんどをものにすることができるんだって!!「格変化と規則動詞および不規則動詞だけ」覚えれば、あとは「実地練習」だけで、「完全にすらすらと書き、どんな対象についてもらくらくと思うことを表現することができる」???

いや、確かにその勉強法はシュリーマンには合ったのだろう。勉強法というのは千差万別で、結局のところ、自分に合った勉強法というのは、試行錯誤しながら、失敗を積み重ねながら、自分なりにカスタマイズしていくしかないのだ。『合格体験記』というのがあるけれど、うまくいった人の勉強法を聞いたところで、何の参考にもならない(逆に、「不合格体験記」というのは実際にはないのだが、もしあれば意外と参考になるような気がする。それを避ければよいのだから。少なくとも、人の自慢を聞かされるよりは、失敗談を聞いていた方が楽しいではないか)。

なんにせよ、語学の勉強というのは、時間をかけ、積み重ねていくしかなく、しかも結果は否応なくつきつけられるものなのである。英文は読めないし、話すことが自分の中になければ、挨拶をしたあと、口ごもるしかなくなる。「まだうまく話せないから、話さない」と言っていては、話せるようになる日は永遠に来ない。どこまでやっても、母語としている人の域まで行けないし、レベルの差はあれど、失敗はつきもので、恥はかきつづけなければならない。とにかく勉強というインプットだけでなく、アウトプットをし続け、その結果を自分で受け止める。恥をかき、ほぞをかむその向こうに、自分の勉強の足りないところと、うまくいったところが見えてくるのだ。

がんばっていきまっしょい。


直感は信じない

2013-04-30 23:33:46 | weblog
以前、骨董品やコレクションを鑑定をする番組で、鑑定をする人が、借金のカタや「ピンと来た」と言って買ったものはたいていニセモノ、と言っていて、なんだかとてもおかしかったので、いまでもよく覚えている。

こんな場面が目に浮かぶ。夜、知り合いがやってきて、いまちょっと手元不如意で、とか、資金繰りが苦しくて、などと言いながら掛け軸や絵や茶器を出してくる。その代わりといっては何だが、これを預かっておいてもらえないか、と。先祖代々伝わるもので、良い物なんだが……ともったいをつけながら、近いうち、かならず返すから、と言いながら、用立ててもらったお金を懐に。ところがその「近いうち」は一向に来るようすもなく、その「カタ」は行き場を失って押し入れに眠ったまま。果たしてほんとうに値打ちのあるものなのだろうか、貸してやったお金に引き合うほどのものだろうか。そうだ、TVで鑑定してもらおう……。

考えてみればそんなものが二束三文というのもあたりまえの話で、もしほんとうに良い物なら、預けっぱなしになるはずもなく、そもそもほんとうに借金のカタにできるぐらいの価値のあるものなら、骨董屋だの古物商だので現金に代わっている。相手も、二束三文だろうと半ば思いながら、そんなものを持ってきて、借金を頼むほどせっぱ詰まっているのなら、と用立ててやるのだろう。

もうひとつの「ピンと来た」がニセモノ、というのも、なんとなくわかるような気がする。
自分のことをふりかえっても、衝動買いばかりではない。これまでの経験で、失敗したときというのは、ほぼまちがいなく拙速な判断の結果だ。

二者択一を迫られ、ああでもない、こうでもない、と慎重に考え、さまざまな情報を集め、周囲の状況を観察した結果の判断なら、実際のところ、どちらを選んでも、その結果がさほど困ったことにはならないのだ。あとになって苦い思いをするのは決まって、うかつに決めてしまったときである。

もちろん「ピンと来た」ことがうまくいったこともあるだろう。けれどもその「直感」というのは実際のところ、その時のちょっとした気分とか、感情にほかならない。そうしてわたしたちの判断の根っこにあるのは、その「直感」である。

けれども、そこからわたしたちは理由を考え、理由が依拠する理論を考えて、その判断を整ったものにしていく。客観的な情報を集め、それによって判断に加わった自分のバイアスや思い込みや、こうあってほしいという願望を取り除いていく。

司馬遼太郎の『城塞』だったと思うが、徳川家康の特異な点は、自分を突き放して見ることができることだった、とあったように思う。「自分を突き放す」というのは、結局のところ、自分の判断をゆがめてしまう自分の思い込みや願望をどれだけ抑えることができるか、ということだろう。自分の癖を知り、自分を取り巻く人間関係から一定の距離を取り、ものごとを俯瞰的に眺めるということを日常的におこなう。言葉にすれば簡単だけれど、「特異」という言葉は、実際にそれをすることがどれほどむずかしいか示している。

昔は、どちらかを選ぶことが怖かった。どちらを選んだら良いかあれこれ迷って、ああでもない、こうでもない、とずいぶん考えたものだ。けれどもそうした経験をいくつかくり返し、いまではしっかり考えた結果なら、どちらを選んだとしても、「あのときああしたら良かった」と後悔することはない、と思うようになった。

後悔するのは、「ピンと来た」り、衝動に負けたり、こうあってほしい、という願望を「客観的な見方」と取り違えてしまっていたり、単純に知識が欠けていることを知らなかったりするような場合だ。問題なのは、そのときにはそんなことに気がつきもしないことなのだが……。

少なくとも「直感」は信用しない。ピンと来ても、それはきっと気のせいだ。そう思っている限り、骨董のニセモノをつかまされる恐れはないはずだ。まあ、幸か不幸か、骨董を買う予定は当分ありそうにないのだが。



「あれ」でもなく、「これ」でもなく

2013-04-10 22:52:48 | weblog
お昼ごはんを食べていたら、隣の席で女性がふたり、例の洗脳された芸能人がテレビ復帰すべきか否かについて、ずーっと語り合っていた。おかげでわたしもすっかりその情報に詳しくなったのだけれど、その芸能人の話ではなく、洗脳の話でもなく、それをきっかけに気になったことがあったので、今日はそのことを。

考えてみればおかしなことだけれど、わたしたちは自分に利害関係はまったくなくても、ふたつのことが対立する構造にあると、つい、どちらかに肩入れしてしまう。占い師による洗脳がまだ続いていようがどうだろうが、わたしたちにとっては痛くもかゆくもない話だ。でも、それを話している人は、そのことに対して自分の意見を持ち、相手にも同意してもらおうと、さまざまな情報で裏付けながら、熱をこめて話をしていた。そうして、その人と何の関係もないわたしまでも、すっかり説得されてしまって(笑)、洗脳と依存と友情のあいだに線を引くのは意外とむずかしいものなのかなあ、などと思ってしまったのだ。

たとえ自分に何の知識もなく、興味もなく、まったく関係がなくても、わたしたちはつい、「あれかこれか」と考え、「あれ」よりは「これ」の方が好ましい(正しい)、と考える。というより、自分には関係ないから、そのことはよく知らないから、興味がないから、と、どちらにも肩入れせず、等しく距離を置くことは、思っているよりずっとむずかしい。

ところで、最近では学校の授業で「ディベード」を扱っているのはご存じだろうか。この「ディベード」のおもしろいところは、論者が自分の立つ側を選ぶのではない、という点だ。

「原発か脱原発か」「死刑制度は廃止すべきか否か」「小学生に携帯(ゲーム機)を持たせるべきか」「高校生のアルバイト」「救急車を有料化すべきか否か」……など、まず論題が与えられると、それについて各人がどう思っているかとはまったく無関係に、「Yes」の側と「No」の側に割り振られ、それに従って資料を集め、自分の意見を作り上げ、それに対する批判点を予測し、批判に対する回答を準備していく。

そうしていくうちに、たとえそれまでそんなことを考えたことがなくても、割り振られたことによって自分の考えができていく。ディベードに勝つために始めたことが、自分の考えを方向付け、やがてそれが自分の意見になっていくのである。

このことを考えると、わたしたちが日ごろばくぜんと、「自分の意見」と思っていることは、ほんとうに自分自身が考え、選び取ったものなのだろうか、という気がしてくる。「あれかこれか」とふたつ立場があるうちの、その一方を、さしたる根拠もなく肩入れした結果、いつのまにかそれが「自分の意見」になってしまってはいないだろうか。

シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』に、こんな場面がある。
ブルータスがシーザーを暗殺する。例の「ブルータスよ、おまえもか」である。なにしろ当時のシーザーときたら、ローマ市民の英雄だったから、市民たちは黙ってはいない。ブルータスにどうしてそんなことをしたのか、公開の場で説明してくれ、と要求する。

ブルータスは言う。自分がシーザーを刺したのは、シーザーを愛さなかったためではない、独裁者となって、市民を奴隷としようとするシーザーの野心を知って、シーザーに対する愛よりも、ローマに対する愛の方が勝ったがゆえに、シーザーを刺したのだ、と。

市民はすっかりそれに説得されてしまう。シーザーの遺体が運ばれてきて、ブルータスが
 私はローマのために最愛の友を刺した、その同じ刃を、もし祖国が私の死を必要とするならば、みずからこの胸に突きつけるだろう。

と言うのに対し、このように答えるのである。
市民一同  死ぬんじゃない、ブルータス、生きてくれ!
市民1   万歳を叫んでブルータスを家まで送ろう。
市民2   ブルータスの像を建てよう、先祖の像と並べて。
市民3   彼をシーザーにしよう。
市民4   ブルータスならばシーザーの美点だけが王冠をかぶることになるぞ。

アントニーがそこに登場する。そうしてシーザーが捕虜の身代金をすべて国庫に収めたこと、王冠を三度までも拒絶したことをあげ、シーザーに果たして野心があったのか、と市民に問う。さらに、シーザーは遺言状に、死後は自分の財産をローマ市民に分け与えると記している、と告げるのだ。すると市民の態度は豹変する。
市民1   ああ、痛ましい姿だ!
市民2   ああ、気高いシーザー!
市民3   ああ、なさけないことに!
市民4   ああ、謀反人め、悪党め!
…略…
市民一同  復讐だ! やれ! 捜せ! 焼きうちだ! 火をつけろ! 殺せ! やっつけろ! 謀反人を一人も生かしておくな!

さっきまで英雄だったブルータスも、アントニーのひとことで「謀反人」の「悪党」になってしまうのだ。

もちろんこれは戯曲だし、現実に生きる人びとのカリカチュアライズではある。けれども、実際にわたしたち自身が、ほんの些細なことが原因で、ある人の評価が一方の極から一方の極へと、大きくふれてしまうことはないか。しかも、それが自分の利害に直結するようなことなら、なおさらわたしたちは「市民 n」になってはいまいか。

どちらが「正しい」のか、その場ではわからないことが多い。にもかかわらず、わたしたちは「あれ」よりも「これ」の方が正しい、と、いとも簡単に判断してしまい、さまざまな理由でそれを補強し、いつのまにかそれがほんとうに正しいとする。けれども、その判断がどれほど正しいのか、何らかのバイアスがかかっていないのか、実際にはなかなかわからない。

少なくとも、「対立するふたつのことがらに対して、等しく距離を取る、もしくは、どちらにも与しない」ことは、わたしたちにとって大変むずかしいことである、という意識だけは、頭の隅にとどめておきたいと思うのだ。

もちろん、これすらも「あれかこれかの一方に、簡単に飛びついてしまうか否か」というふたつのことがらの一方に過ぎないのだが。




無人島からの手紙

2013-02-05 23:08:43 | weblog
『人魚とビスケット』という小説がある。

なんとなくロマンティックなタイトルでしょう?
原題は、"Sea-Wyf and Biscuit"、一般的な「人魚」を表す "mermaid" ではなく、 "sea-wyf" というめずらしい単語が使ってある。この語はオックスフォードにも載っていないのだが、本文中に「古い船乗りの言葉でマーメイドのことだ」と出てくるので、英語を母語とする人にとっても耳慣れない、どことなく神秘的な言葉ではあるまいか。

もうひとつの「ビスケット」、おそらくこれは「クッキー」というより、本文の流れからいって「乾パン」のことではないかと思うのだが、ともかく、この「人魚」と「ビスケット」、不思議な取り合わせの小説は、中味は救命ボートで延々と海を漂う「漂流小説」で、さほどロマンティックとはいえないのだが、すべりだしはとてもロマンティックなのである。

1951年3月7日、イギリスの新聞〈デイリー・テレグラフ〉の個人広告欄に、こんな三行広告が載る。

 人魚へ。とうとう帰り着いた。連絡を待つ。ビスケットより。

このビスケットから人魚への呼びかけは数度にわたって繰り返され、イギリス中の話題になるのだが、実はこの広告、実際に1951年の3月から5月にわたって掲載されたものなのである。現実にはこの広告にどのような背景があったのか定かではないのだが、作家ジェイムズ・スコットはたいそう好奇心をかき立てられ、一編の小説にしたてあげた。

1942年、日本軍の侵攻により、シンガポールが陥落する。その直前に、シンガポールに滞在していたヨーロッパ人は大挙して引き上げるのだが、引き揚げ船のひとつであるサン・フェリックス号が、日本軍の攻撃を受けて沈没してしまう。千人以上いた乗客もほとんどが犠牲となり、たった三人のイギリス人と船のパーサーであり混血の黒人、あわせて四人だけが生き残って、救命ボートでインド洋を漂流するのである。

四人はいつのまにか互いを名前ではなく、ビスケット、ブルドッグ、人魚、ナンバー4と呼び合うようになるのだが、苦しい漂流生活は14週間にも及ぶ。それから最後は殺人あり、どんでん返しあり、で、なかなかおもしろい展開になるのだが、この部分はやはりミステリということもあるので、ネタバレはしないでおこう。興味のある人はぜひご一読を。

ともかく、おもしろい小説なのだが、わたしはどうしても気になってしかたがないことがひとつあるのだ。

このなかに、一通の手紙が出てくる。実際、この手紙は鍵となるのだが、その手紙がどうやってロンドンに住むブルドッグの下に届くのか。

小説では、無人島に郵便箱があった、そうして(どのくらいの頻度かは定かではないけれど)ココナツやウミガメを捕りに来る船が、一緒に回収したのだ、という。そうやって9年の歳月を経て、その手紙が届いた……ということになっているのだが、果たしてそんなことがあるのだろうか。

無人島にポストがある?
そうして、何年かに一度、それを回収に来る?

ほんとうにこんなことがあったのだろうか、と思ってしまうのだが、この部分がフィクションだとしたら、あまりにご都合主義になってしまうので、逆に、ほんとうにそんな郵便船があったと考えたい。

それにしても、なんとも悠長な話である。9年経って届く手紙だなんて、びんに入れて流す手紙と大差ないではないか。

けれども、こうも考えるのだ。昔の人の時間の感覚というのは、そういうものだったのかもしれない、と。

そもそもの発端が、新聞広告なのである。

その昔、子供の頃、社会面の下に「キヨコ 連絡待つ 父」などという広告を見て、さまざまな妄想をかき立てられたようなおぼろげな記憶があるのだが、もしかしたらこれはわたしのものではなく、小説で読んだものだったのかもしれない。ともかく、音信が途絶えた相手に連絡するためには、昔はそんな方法しかなかったのだ。

相手がその新聞を目にするかどうかも定かではないまま。
それこそ、無人島のポストに手紙を投函するのと、どれほどの差があろうか。

けれども、逆に、そうしないではいられないほどの思いの強さというのも感じてしまう。なんとかして相手と連絡したい。その一縷の望みにすがろうとする気持ちは、一縷でしかないとわかっていても、必死のものだったろう。

考えてみれば、いまのわたしたちも、どれほど情報手段が発達しているとはいえ、音信が途絶えて久しい相手と、ふたたび連絡を取ろうと思っても、それほど簡単ではない。人に寄ればググって所属先やtwitterやfacebookなどの個人ページが見つかるケースもあるだろうが、見つからない場合だってあるだろう。

ただ、そうかといって、新聞広告を出すまでにはいたるまい。何年かかっても、どれほど待たなければならないとしても、連絡を待つ。そんな気持ちの強度は、なかなか持ててはいないような気がする。

楽しくないことが楽しい

2013-01-31 23:52:40 | weblog
「楽しくないことが楽しい」について、もう少し。

人が楽しさを感じるのは、さまざまな状況があるだろうが、そのひとつに「何かを思い通りにできる」ということがあるだろう。

それがゲームであっても、ダンスであっても、野球やサッカー、ピアノを弾くことであっても、ネコやキンギョを飼うことであっても、ベランダでハーブを育てることであっても同じなのだけれど、それらはすべて、わたしたちがその対象に働きかけ、対象を自分の願うように変化させようとする行為だ。

ゲームを先に進めたい。サッカーで強いシュートを打てるようになりたい。ショパンのエチュードを弾きたい。ネコと一緒に遊びたい。エサをやったり、練習を重ねたりして、わたしたちはその対象に働きかける。

このとき、「その対象」は鏡となって、わたしたち自身を規定する。「ゲームのコントローラーを握る自分」「サッカーのボールを蹴る自分」「ピアノの鍵盤に向かう自分」「ネコを育てる自分」…という具合に。ちょうど鏡に映った自分の姿を見るように、相手によって規定された「自分」を知ることになるのだ。

多くの場合、対象はなかなかこちらの思い通りにはならない。練習してもなかなか指は動いてくれないし、ネコはいうことを聞かないし、ハーブには虫がついてしまう。ゲームだって複雑な操作が要求されるから楽しいのであって、ボタンを押すだけで先へ進めるとしたら、それは単なる作業になってしまうだろう。

そうやって失敗を重ねながら働きかけを繰り返し、相手からの反応にこちらも反応していくことで、わたしたち自身が変わっていく。わたしたちは自分をそうやって少しずつ変化させながら、「思い通り」に近づいていくのだ。

「楽しくないこと」というのは、働きかけること自体に興味がない場合は別として、最初は興味を持って始めても、働きかけても働きかけても相手が一向に変わってくれない、ということだ。

相手に変化が見られないと、相手によって規定される「自分」も動いてはいかない。だから何か同じことの繰り返しに飽きてしまう。

それでも、働きかけを続けたとする。相手に変化は見られない。けれども、実は自分の側は決して同じではないのだ。まず何よりも「変化がない」という相手からの反応を受けて、「変化のない相手に働きかけを重ねる自分」に変わっている。そこからさらに働きかけを続けることで相手に対する知識は増えていくし、働きかけの熟練度もあがっていく。さらには「別の方法を試そうとする自分」や「かすかな変化に気がつく自分」に変わっていく。

つまり、見かけ上はどれだけ「変化」がなかったとしても、働きかけを続ける限り、自分が変わらないということはありえない。自分が変わらなかったとしたら、それはほんとうの意味で働きかけているのではなく、ただ惰性で繰り返しているだけだろう。

「楽しくないことが楽しい」というのは、この「容易には言うことを聞いてくれない相手に働きかけ続けることの楽しさ」にほかならない。「できる」ということは、「できる自分に自分が変わっていく」ということだ。「何かをする」ということは、働きかける対象を鏡にして、結局は自分を見つめるのにほかならない。

「好きなことをやりなさい」の罠

2013-01-26 23:54:11 | weblog
帰り道で、わたしの前を小学校の低学年ぐらいの女の子が自転車に乗って走っていた。頭の上でお団子にまとめた髪型、もこもこしたダウンの下から白いタイツをはいた細い足が、強い風にさからって、けんめいにペダルを踏んでいる。バレエ教室に通っているのだ。

わたしの子供時代はピアノやバレエというのは、女の子にとって今よりもっとありふれた習い事だったような気がする。小学校が私立だったこともあるのだろうが、ピアノを習っている子の方が学習塾に通っている子よりも多かったし、なかには月曜日と木曜日はピアノ、火曜日と金曜日はバレエ、水曜日は英語、土日は塾……と、毎日予定が埋まっている子までいた。

わたしの場合は四年生になるまでは、週に一回のピアノのレッスンだけだったが、正直、最初のうちはバレエの子がうらやましかった。ピアノは毎日練習しなければならないのに、バレエなら教室で稽古するだけだからいいなあ、と思っていたのだ。ところが友だちにそう言ってみたら、稽古場のバーがなくても、家で柔軟や基本姿勢の練習を毎日しなきゃならないの、と聞いて、結局どの習い事でも真剣にやろうと思えば、大変なのは一緒なのだと思ったものだった。

小さい頃からお稽古ごとを始めた子というのは、本人の意志とはまったく無関係であることがほとんどだろう。物心がつく前に、否応なしにピアノの前にすわらされ、練習を強いられる。あれこれ考え始める年代になっても、あまりに身になじみすぎていて、「何で自分はこんなことをしているのだろう」という疑問すら生まれない。

授業が終わると、掃除もそこそこに、かばんをまとめて急いで家に戻り、まっさきにピアノのふたを開ける。たいてい夜になると近所をはばかって練習などできなかったから、晩ご飯までのあいだが勝負だった。つぎのレッスンまでに、課題曲を十分に弾きこんでいなかったら、学校の先生などとは比べものにならないほど厳しいピアノの先生からの、容赦ない叱責が待っている。
「音をひとつ出しただけで、この間にどのくらい練習したかわかるのよ。そんなにやる気がないのなら、もう来なくていいのよ」と。
事実、レッスンの順番がわたしの前の子が、一度、一小節を弾くか弾かないかのうちに、「もう帰りなさい」とやめさせられて、泣きながら帰って行ったのも見たことがある。そんな話が親にでも行ったことなら、と見ていたわたしまで青ざめた。

そんなにやる気があったわけではないのだが、「レッスンをやめる」という選択肢は実際には与えられてはいなかった。「叱られることのないように」の一念で、指を間違えることなく適切な時間、適切な鍵盤を、適切な指できちんと押さえることができるよう、家に帰って練習を繰り返したものだった。

だがそれだけピアノの練習をやったからといって、どうにかなったということはまったくない。意味もなく絶対音感だけはついたものの、信号の音やサイレンが音階で聞こえたところで、何の役に立つこともなく、中学受験を機にやめてしまったわたしだけでなく、同じ先生に教わっていた他の子たちも、おそらくは音大にさえ進むことなく、どこかでやめていったように思う。

それでも、そんな練習がまったく無駄だったかというと、そうでもないような気がするのだ。

ピアノの練習にせよ、勉強にせよ、やって楽しいものではない。シャープが五つほどついている難曲を一度も間違えることなく弾けたときに「やった」と胸の内でガッツポーズをしてみたり、返却されたテストの点数を見てひそかにほくそ笑むことはあっても、そんなものは一瞬なのである。その一瞬のあとには、また練習しても練習しても出来なくて、悔し涙を流す日々が待っている。

それでも、楽しくなくても、その曲にすっかり飽きてしまっても、いやになっても、やり続ける。そうしているうちに、たとえばおもしろい映画を見たり、寝っ転がって時代小説やミステリを読んだり、気のあった友だちと話したり、旅行に行ったり、という楽しさとはちがう、なんというか、ほかのものでは味わえないような、変な言い方だけれども、「楽しくない」ことの「楽しさ」みたいなものが、ばくぜんとわかってくるのだ。ちょうど、子供のときはおいしくなかったオリーヴやムール貝やふきのとうのおいしさが、経験を重ねるうちに、いつのまにかわかってくるように。

こんな「楽しくないことの楽しさ」を知っている人なら、たとえば勉強でも仕事でも、「楽しくないからやらない」「やりたくないからやらない」「最初は楽しかったけれど、飽きてしまったからやりたくなくなった」と離れたり、やめてしまうということは少ないように思う。つまり、映画を見たり、遊んだり、の「楽しさ」を規準にすると、勉強や仕事や「やらなければならないこと」はどこまでいっても「楽しくない」。けれども「楽しくないことの楽しさ」を知っている人なら、たとえ出口が見えないような仕事でも、辛抱して、腰を据えて続けられるのではないか。

なんというか、わたし自身はそうした意味で、幼いころの経験にずいぶん助けられているように思うのだ。

絵や音楽や演劇など、いわゆる「好きなこと」を仕事にしている人がいる。
趣味でやるなら楽しい活動だけれど、それを仕事にしている人にとっては、「楽しい」というレベルではすまないことだろう。もちろん、「楽しさ」「やって良かった」と感じる一瞬がないわけではないだろうけれど、ほんとうにそんなものは一瞬で、ダメ出しされても、叩かれても、かならずしも自分の意に沿わなくても、それが仕事ならただただ黙々とやるしかない。けれどもそんな「楽しくないこと」を通じてしか、人の成長はないように思う。

「好きなことをやりなさい」という言い方があるけれども、「好き」だの「嫌い」だのというのは、うつろっていくものだ。「あのときは好きなような気がしたけれど、ほんとうはそれほどでもなかった」と、多くの人はいつしかそのことから離れていく。そんな「好き」を繰り返しても、あとには何も残らないのではないか。

ほんとうに言うのなら、「好きなことをやりなさい」ではなく、「楽しくないことが楽しいってわかるまでやってごらん」ではないのか、とわたしは思うのだ。

日本で一番?遅い年頭のごあいさつ

2013-01-09 23:16:35 | weblog
年が明けて十日あまりが過ぎて、いまさら年頭の挨拶というのも奇妙な話ですが、懸案のアリス・マンローが一区切りついたので、やはりここから始めましょう。

あけましておめでとうございます。

旧年中は、できるだけ毎日更新しようと思ってはいたものの、なかなかまとまった時間がとれず、更新もとぎれがちになっていたんですが、それでも訪問してくださって、ほんとうにありがとうございました。



シモーヌ・ヴェーユの『ヴェーユの哲学講義』のなかに、

「時間は、人間存在にとっての気がかりのなかでもっとも深刻でもっとも悲劇的なものです。あるいは唯一の悲劇的なものだと言えるかもしれません」

という一節があります。

わたしがヴェーユを最初に読んだのが、二十歳前だったということもあって、当時は「時間が悲劇的」ということが、どうにもピンと来ませんでした。その頃、寮の隣の部屋の子が、ユーミンの「時はいつの日にも 大切な友だち 過ぎてゆく昨日を 物語に変える」という歌を毎日聞いていて、なるほど、〈昨日〉を〈物語に変える〉というのはうまい言い方だなあ、と感心していましたから、それもあって、「大切な友だち」の時間が、そんなに悲劇的なものだとは思えなかったのです。



暮れに、映画の『レ・ミゼラブル』を観に行きました。
感動的な歌が続くなかで、登場人物の一人、マリウスが "Empty Chairs At Empty Tables" という歌を歌う場面に、ことのほか深く胸を衝かれました。

六月蜂起がバリケードの陥落とともに終焉し、パンや職が平等に分け与えられる世界を求めて立ち上がった同志は、みんな死んでしまいます。けれども、ジャン・ヴァルジャンのおかげで生きながらえたマリウスは、曲のタイトルの通り、空っぽのテーブルや空っぽの椅子を見て、悲しみの涙を流しながら、生きている自分を許してくれ、と歌うのです。

机や椅子ばかりでなく、本来なら何でもないただの物が、その物とは不釣り合いなほど、強い感情を引き起こすことがあります。本の間にしおりがわりに挟んでいた一枚の葉っぱや、服から落ちたボタン。そうしたただの「物」が悲しいのは、思い出の引き金になる、というだけではない。小学生のまだ低学年の頃だったけれど、幼稚園にあがる前の夏に着ていた、薄い青緑色のワンピースがタンスの底から出てきて、自分がどれだけこの色が好きだったかを思い出し、自分がもう二度とこの服が着られないことに感じた、身を圧倒するほどの悲しさを、いまでもよく覚えています。一枚の服がどうしてこんなに悲しいのか、不思議でしょうがありませんでした。

やがて、わたしはこう思うようになりました。
「物」は、ただ物としてあるだけではなく、いつだって自分を含めた「人」と結びついたかたちで存在します。

そうしてまた、そこに「ある」物や「いる」人をわたしたちは見ることができます。けれども、わたしたちは「いない」人を直接に知覚することはできません。

ところが「物と結びついた人」の「物」だけが残っているのを見たとき、わたしたちは初めて、それまでそこにいたはずの人が、いまはもういない、ということを、直接、まのあたりにしている。その「物」と結びついていたときの自分や誰かはもういないのだ、ということを、「物」を通じて、はっきりと「見て」しまうのです。
ほんとうは「物」が悲しいのではなく、悲しいのは「そのとき」にはそこにいた人が、「いま」はもういないことが悲しいのだけれど、実際、わたしたちには、その「不在」をそういうかたちでしか認識できない。そうして、この「不在」とは、時が過ぎた、ということにほかなりません。

その意味で、「時間」は「唯一の悲劇的なもの」なのでしょう。

時は、いやおうなく過ぎていきます。わたしたちがいま、ばくぜんと「自分のもの」と信じている、さまざまなものや人間関係や自分自身のありようも、いつかはまちがいなく自分から切り離されてしまい、取り戻そうと思っても、二度と自分のものにはならない。この自分自身さえ、いやおうなく変わってしまい、決して過去の自分には戻れません。

なのに。

なのに、わたしたちは誕生日が来ると、おめでとう、と言い、年が改まると、おめでとう、と言います。悲劇的なもののはずなのに、時間が過ぎていくことを、どうして喜ぶのでしょう。

それは、おそらく何かを失う、ということは、別の新しいものを手に入れる、ということだから。過去の自分を失う、ということは、新しい自分を手に入れる、ということだから。

竜宮城に行った浦島太郎のように、過ぎてゆく時間に目をつぶり、何か、それを忘れさせてくれるものに夢中になる、というやり方もあります。けれども、時間の過ごし方はそれだけではありません。過ぎてゆく時間のなかで、何かを続けていくこと。積み重ねていくこと。そうすれば、何ものかは残っていきます。

未来は、先にあるものではありません。未来は、足下にある。たとえ、今日手に入れたものを、明日、失うことになるにせよ。手に入れた記憶は確かにわたしのうちに刻まれていきます。

がんばっていきましょう。
どうか今年も 「ghostbuster's book web.」 とブログ「陰陽師的日常」よろしくお願いします。

いや、今年はもうちょっと更新します(笑)。

あけまして おめでとう
あたらしいとし おめでとう
きょうも あしたも あさっても
ずっと ずっと 1ねんじゅう
300と65にち
よい日でありますように


なかがわりえことやまわきゆりこ
『ぐりとぐらの1ねんかん』


本物と偽物

2012-11-27 23:42:30 | weblog
古い"The New Yorker" をたくさんもらったので、適当にパラパラと読んでいたら、アリス・マンローの 短編"Dimension"というのが、すごくおもしろかった――というか、おもしろいという言葉ではまったく足りないのだけれど。

(※いま調べてみたら、「次元」というタイトルで邦訳あり。短編集『小説のように』に所収されている。ただ、タイトルの「次元」という訳は適切なのかなあ、という気はする。このディメンションは、もちろんあえて抽象度の高い言葉をあてているのはわかるのだけれども、「次元」というと、二次元、三次元……と、垂直方向に上がっていく含意があるでしょう? 少なくともこれは垂直方向の話ではないと思う。"dimension"をOEDで引くと、"sun-dried tomatoes add new dimension to this sauce." という例文が載っているのだが、まさにこれなのだ。「ドライ・トマトはこのソースにいままでになかった風味を加えます」と言ってしまうと料理の話になるのだが、こんなふうに、あることをきっかけにものごとががらりと様相を転じてしまう、その変わってしまった「様相」の話なのである。となると、日本語は「様相」とか「局面」とかになるのかなあ……)

はてさて、これはなかなか深い話なので、日を改めて、またそのうち。今日はこれを読んでいて思い出したことをひとつ。

話の中に奇妙な人物が出てくるのだ。
病院の雑役夫なのだが、医療の知識が豊富で、患者の扱いもうまい。本人も自分の能力にはずいぶん自信があったようで、日ごろから医者などバカにしてはばからなかった。そんな彼はのちに大きな問題を引き起こすのだが、それはいまの話とは関係ない。

読んでいて、そうそう、こんな人に会ったっけ、と思い出したのである。病院というところには、この手の人がときどきいるものなのだろうか。それとも職業に関係なく、こうしたたぐいの人は、一定の割合でいるのか。ともかく、わたしが会ったのも医療関係者だった。しかも、ふたり。

ひとりは、歯科医院だった。若い女性で、受付にいた。
行くたびに、調子はどうか、とか、抜歯のあとはすぐに血が止まったか、とか、声を掛けてくれる。それだけでなく、痛み止めや抗生物質の種類も詳しく説明してくれるし、つぎの診療まで日が空くようなときは、そのあいだにどういうことに気をつけた方がいい、とアドバイスしてくれて、最初のうちはなんと優しい人だろう、と思っていた。歯医者さんではないから、きっと歯科衛生士さんなのだろうけれど、いろんなことをよく知っていて、勉強もよくしている人なんだろう、と。

ところがそこに行く回数が増えるにつれ、なんとなくその人の気遣いがわずらわしくなってきた。その人がいない日ならさっさと終わる受付も、今日やった処置の説明だけでなく、酸性食品だのアルカリ性食品だの、栄養のバランスが歯のためにも大切だのといった話がついてきて、時間ばかりかかって、なんだかうるさく感じるようになったのである。

まあ、そうは言ってもこんなひねくれたことを考えるのはわたしだけだろう、とばくぜんと思ってはいたのだ。そうでなくてもうっとうしい歯医者なのだから、そんなやさしい人が必要なのだろう、ぐらいに。

ところがある日のこと(ちょうどその人が休みの日だった)、待合室にいたわたしのところへ、たまたま受付の奥の部屋にいた、ほかの歯科衛生士さんたちの会話が聞こえてきたのだ。

「あの人、そんなにいろんなこと知ってるんなら、国試受けて、衛生士になればいいのに」
「衛生士なんて、ってバカにしてるからね。そんなバカにしてるもののためにわざわざ勉強なんてしないよ。ほんとは歯医者になりたかったんでしょ」
「じゃ、歯科大に行けば良かったのに」
「歯科大はねえ。誰でも行けるってわけじゃないから。うふふふ」
うふふふ、と、ひそやかな、いかにも楽しそうな笑い声を聞きながら、ああ、そういうことだったのか、あの人は歯医者さんになりたかったから、その望みが満たされなくて、そんなことをしていたのか、なんだか聞いちゃいけないことを聞いてしまったなあ……、と思ったものだった。

まあ、そういった「陰口」が果たしてどこまで当を得ているものなのか、はたして「あの人、感じ悪いよね」レベルの悪口とどれほどちがうものなのかはよくわからなかったけれど、いくら仕事ができたとしても、彼女と一緒に働くのは、確かに厄介かもしれなかった。

それから数年後、今度は別の病院に入院していたとき、そこのレントゲン技師さんと口をきくようになった。英語やドイツ語の略語を交えながら、あれやこれや病気やケガについて説明してくれて、なかなか興味深かったけれども、医者に対する悪口はかなりひどかった。「○○先生は××大だけど、使えない」「△大は世間では有名だけど、そこ出にはロクな医者がいない」などなど。「こんなことは医者は知らないんだけどさ」という前置きで始まる話を聞きながら、以前会った歯科助手の人と一緒で、この人もほんとはお医者さんになりたかったのかなあ、と思ったものだった。

医療現場というのは、職域がはっきりと定まっているから、知識欲や向上心のある人というのは、欲求不満の状態におかれてしまうことがあるのかもしれない。以前、アメリカのドラマ「e.r.(緊急救命室)」のエピソードのなかで、婦長のキャロルが看護師としての限界を感じてコミュニティ・カレッジに再入学し、医大を受験する、というストーリーがあったが、そうした感情を持つのは決してめずらしいことではないのだろう。

けれども、ドラマならいざしらず、自分の携わっている業務に物足りなさを覚えたとしても、実際に医学部をめざす人は、そう多くはないのではないか。なにしろ医学部入学は簡単なことではないし、高校の勉強から離れた人なら、独学はとうてい無理で、予備校に通うことは前提となるはずだ。そうやって三角関数をやりなおし、微分方程式を解き、英単語を覚え、化学記号を覚え、歴史の年号を覚え、斜面を滑り落ちる物体の加速度を計算し、という、いったい何の役に立つかわからない、それこそ受験を終えてしまえば必要もなくなるような勉強を延々とやっていかなければならないのだ。

多くの人は、自分の仕事に限界を感じたとしても、その中でできるだけのことをやっていこうとしているのだろう。けれども、なかにはその限界を耐えがたく思う人もいるのかもしれない。

アリス・マンローの短編に出てくるロイドは、「病院の雑役夫」という仕事にはがまんできなかった。もっと医療に関わる仕事ができるように、資格をとるという方法もとらなかった。そんな迂遠なことをする代わりに、てっとりばやく「お医者さんみたい」になったのだ。ちょうど、子供がごっこ遊びで「お母さん」や「先生」になるように。わたしが会った人たちも、「お医者さんみたい」に振る舞うことで、自分の満たされない思いを、なんとか満たそうとしていたのではなかったか。

ちょっと前、医師免許もなしに医療行為をしたとして、摘発された人がいた。その人は、おもに健康診断をやっていたようだが、おそらくその人もお医者さんになりたかったのだろう。そうして、医者になることはもちろんかなわなかったし、なんらかの事情で医療職に就くこともしなかったか、できなかったのだろう。だから、医者になりたい、という夢を、医者を助けることによって満足させることもできないとなると、「偽医者」になるしかない、と考えたのだろう。

その人も、わたしが会った人たちと同じように、受診者に対しては、過剰なくらい、親切丁寧な対応をしていたような気がする。けれども、その人たちが親切だったのは、それが「ごっこ遊び」だからなのではあるまいか。「ごっこ遊び」だからそれをやっていて楽しい、だから過剰なまでに説明をしてくれたのだし、こちらをかまってもくれた。ちょうど、ままごと遊びをやっている子供が、「赤ちゃんのお世話もしなきゃいけないし、お買い物にも行かなきゃならないし、ああ、忙しい、忙しい」と言いながら、楽しくてたまらないように。だが仕事となると、どれほど望んで就いた職業であっても、もはや「楽しみ」という尺度で測れるものとは関係がなくなってしまう。

何でもそうだけれど、何か特別の資格や技術や能力を身につけようとすれば、迂遠でまだるっこしい、一見すれば何のために必要なのかもよくわからないような努力が必要なのだろう。結局、ロイドみたいな人に欠けている資質というのは、たとえば「頭の良さ」とか、「知識」とかではなく、それに必要な時間をひたすらやり続ける能力なのかもしれない。

「秘密」の話

2012-10-04 22:26:22 | weblog
オスカー・ワイルドの短編に「謎のないスフィンクス」という作品がある。

ある女性に恋い焦がれた男が、彼女の後をつけていく。すると、その女性は一軒の見知らぬ家に入っていく。秘密の恋人がいるのだろうか。思い悩んだ男は、友人に相談する。

友人はやがてその秘密をつきとめる。彼女は必要もないのに部屋を借り、そこで本を読んだりお茶を飲んだりして「秘密」めかした気分を味わっていた。秘密がないのが彼女の「秘密」だったのだ。

ところで、谷崎潤一郎の短編に「秘密」という作品があるのだが、おそらくこれは、谷崎がワイルドを読んでインスパイアされたのにちがいない。発表が明治四十四年ということで、谷崎25歳、まだ短編集すら発表していない最初期の作品である。

ワイルドの短編では、語り手は第三者、謎めいた女性のことを愛していた友人から話を聞いて、種明かしをしてみせる、という役割に過ぎないのだが、『秘密』の「私」は、『スフィンクス』の謎の女性さながらに部屋を借り、イギリスのミステリを読んだり(ワイルドの名前はここには出てこないが)、密かに女物の着物の肌触りを楽しんだり、さらには女装しお化粧までして外出したり、密かに麻薬を懐に忍ばせたりして、「秘密」をこころゆくまで楽しむ。

さらに谷崎は、ワイルドの短編には出てこなかった、もう一人の「秘密」を抱えた人物を登場させる。

かつて主人公には行きずりの関係を持ったT女という女性がいた。自分に執着する彼女を、主人公が捨てたせいで、お互い名告ることもなく、それきりになっていたのだ。ところが女装してお高祖ずきん姿の主人公を一目見て、彼女はそれが誰か気がついた。

彼女は主人公に手紙を渡す。そこからふたりは再会の約束をしたのだが、彼女は主人公に対して、俥を迎えにやるが、目隠しをさせてほしい、と要求する。彼女は、自分がどこの誰であるかをあくまで主人公に対して「秘密」にしようとするのだ。

この「秘密」に主人公は夢中になってしまうのだが、同時に彼女の秘密を暴きたくもなる。結局、途中で一瞬だけ、目隠しをはずした主人公は、途中で見た看板から、彼女の居所を突き止め、相手が何者かわかった瞬間に、執着心もさめてしまう、というところで終わる。

こうした短編を見ていると、「秘密」の意味をあらためて考えてしまうのだ。

「秘密」ということばでわたしたちが思い浮かべるのは、多くの場合、何かしら後ろ暗い行為なり出来事なりがあって、それを隠している、といったことだろう。だから、親しい関係では「秘密」は障害物になるように思われるし、秘密のある人間というのは、後ろ暗いところのある人、というふうにみなされる。何も悪いことをしていないんだったら、秘密なんてあるわけがない、というふうに。

けれども、ワイルドや谷崎の短編は、「秘密」のまったく別の一面をあきらかにしている。相手から隠す情報など何もないにもかかわらず、「秘密」があるふりをすれば、それは「秘密」として通用する、ということだ。言葉を換えれば、「秘密」としてわたしたちがやりとりしているのは、言ってみれば単に「秘密」とレッテルの貼ってある箱なのではないか。その箱に何が入っているかは問題ではない、中が空っぽでもかまわない。

秘密というのは、その内容ではないのだ。
わたしたちは、相手が何かを隠していると思うと、それが知りたくなる。そのために「秘密」を握る側は、情報を与えないことによって、相手の優位に立つことになる。そうして相手を操縦することが可能になるのだ。秘密にされた側は、相手との関係を対等に戻そうとして、何とかしてその「秘密」を知ろうとする。

こう考えていくと、「秘密」というのは、実は力関係なのだろう。ありのままの自分ではまた捨てられる、と思ったT女は、なんとかして主人公を手に入れようとして、「秘密」によって力を得ようとするし、「スフィンクス」の女性は、「秘密」のひとときを過ごすことで、誰というあてはなくても密かな優越感に浸る。

わたしたちの周りでも、「親に隠し事をするな」と怒る親は、「秘密」を持つことではなく、子供が自分の手の届かないところに行ってしまうことを怖れているのだろうし、「自分の部屋に入るな」という子供は、「秘密」を持つことで、なんとか親と対等になろうとしているのだろう。恋人の携帯をこっそりのぞく人は、相手の不実を疑っているというより、実際には、相手のすべてを把握し、相手をそっくり自分の内に取り込んでしまいたいのだ。まあ、「一心同体」というのが理想だと思う人もいるのかもしれないが。

わたしはそういうのはイヤだけどね。


境界の話

2012-09-27 22:46:52 | weblog
ほんの短い間だったけれど、その昔、千葉県市川市の南行徳というところに住んでいたことがある。そこから引っ越して10年あまりが経って、その界隈がやたらと有名になるような事件が起き、自分がその前を何度となく通ったマンションをテレビのニュースで見ることにもなったのだが、それはこの話とは関係がない。

ここは奇妙なところで、行政区分では市川市に組み込まれているのだが、市川市本家(?)は総武線沿線にあり、行徳、南行徳はそこからずいぶん南、東京湾に近い東西線沿線にある。市役所などに用があって、市川市の中心部に行こうと思えば、いったん西船橋まで行って、そこから総武線に乗って戻るしかなく、何でこんな奇妙なことになっているのだろう、と思ったものだった。

南行徳の東京側の隣は浦安市である。浦安の隣は東京都内なので、何となく都内に住む人からは、バカにされていたのだが、もうひとつ向こうの南行徳となると、あまりピンと来なかったせいか、バカにされることはなかった。というか、バカにされることすらなかった、と言った方が正確か。

とはいえ、京葉線がまだ開通しておらず、ディズニーランドといえば、浦安から直通バスに乗るしかなかった時代の浦安は、隣の南行徳に比べれば、西友があったり、ミスタードーナツがあったり、モスバーガーやケンタッキーがあったり(笑)で、商業施設は充実していた(というか、南行徳がなさ過ぎたのである。駅の中にロッテリアが一軒と、ダイエー系のマルエツしかなかった)。近所ではあまりに用が足りなかったので、わざわざ一駅、電車に乗るのも面倒で、何かあれば浦安まで歩いて出かけていた。途中に、当時から蔵書の充実では有名だった浦安図書館があった、ということもあったのだが。

ここに住んでいたときのことで、何よりも強く印象に残ったのが、市川市と浦安市のあいだの「市境」のことだ。住宅街の中を、高さ40センチ、幅30センチほど、レンガを積み重ねて作った植え込みがうねうねと伸びている。ところどころで通り抜けられるように、レンガには区切りができているのだが、わたしなどはわざわざ回り込んだりしないで、レンガをひょいと乗り越えて直進していた。最初のうちは、なんでこんな邪魔なものがあるのだろうと思っていたのだが、あとで地図で確かめると、浦安市と市川市の境界が、そのレンガブロックで示されていたのだった。

高速道路で走っていると、「京都府」とか「大津市」とかの看板が立っている。実際には地面にここまでは大阪、ここからは京都という線が引かれているわけではない。だが、その表示は、そこに目には見えない境界線があることを示している。それを見るたびに、実体のない境界線を、自分がいま「またいだ」のだ、という不思議な感覚にとらわれる。

ひょっとしたらこれは、幼い頃に川端康成の『雪国』の冒頭「国境の長いトンネルを抜けると……」という一節を聞いたことに端を発しているのかもしれない。まだそれがどういう本かも知らないころに、人口に膾炙したその一節だけを耳にして、「国境」、つまり「上野国・越後国の境」の「線」を超えたら、ページをぱたんとめくるように雪が降っていた光景が目に浮かんだものだった。現実にはそんなものなどない「境界線」が、そこを超えると景色が一変する、というのは、なんともいえず不思議で、想像力をかきたてられた。それが、未だに尾を引いているのかもしれない。

浦安と市川の間には、はっきりと目に見えるかたちでその境界線が引いてあった。それも、なんというか、おもちゃのような、子供っぽい、簡単にまたぎ超えられるような、それでもれっきとした「しきり」だった。実際にはどこにもない想像の「境界線」を実体化させるなら、それぐらいで十分なのかもしれない。ものものしい国境の壁やゲート、有刺鉄線でおおわれた塀や銃を持った兵士を「境界」として要求しなければならないような「現実」さえなければ、の話なのだが。