陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール 「南から来た男」その4.

2006-08-31 22:20:39 | 翻訳
「わたしにも火を貸してもらえますか」私は声をかけた。

「おっと失礼。あなたがまだおつけじゃないのを忘れてました」

 私は手を出してライターを受け取ろうとしたのだが、青年は立ち上がるとこちらまでやって来て、火をつけてくれた。

「ありがとう」私は礼を言い、青年は自分の席に戻った。

「楽しい休暇をお過ごしですか」と私は聞いてみた。

「ええ、ここはすごくいいところですね」

 しばらく誰もが黙りこんでしまい、私は、小柄な老人のもくろみはうまくいったのだ、とんでもないことを持ちかけたために、彼はこんなにも動揺してしまっているのだから、と考えた。青年は身じろぎもせずすわっていたが、その内部では緊張感がさざなみのようにひろがっていっていることは、見間違いようもなかった。やがて彼は自分の椅子に座ったまま、落ち着かなげに座り直すようになり、胸をこすったり、首の後ろをさすったりしたあげく、両手を膝に乗せると、膝頭を指先でトントンとたたきはじめた。じきに片方の足もそのリズムに加わる。

「言っておられる賭けとやらをもう一度確認させてください」青年はとうとう口にした。「上のあなたの部屋へ行って、ぼくがこのライターに十回連続で火をつけることができさえすれば、ぼくはキャディラックを手にいれることができるんですね。もし一回でも失敗したら、左手の小指を切り取られてしまう。そうでしたね?」

「そういうことです。それが賭けですね。でも、あなた、怖がってるですね」

「もしぼくが失敗したらどうするつもりなんです。あなたが切り落としているあいだ、ぼくはじっと差し出してるんですか」

「とんでもないです。それは良い、ありません。あなた、指、引っ込めようと思うかもしれませんね。私はこうします。始めにあなたの手、テーブルにくくります、それから私、ナイフ持って立つです、ライター、つかなかったら、切り落とす準備して」

「何年型のキャデラックなんです」青年はたずねた。

「失礼。私、わかりません」

「そのキャデラックは製造されて何年になるんですか?

「ああ、わかりました! 何歳か、あなた聞いてるですね。はい。去年できました。新しい車ですね。でも、あなた、賭けしませんよ。アメリカ人、そんなことしないね」

 一瞬の間をおいて、青年は初めてイギリス人の女の子、ついでわたしのほうに視線を動かした。「やるさ」語気鋭くそういった。「賭けるよ」

「すばらしい!」小柄な老人は、一度だけ音を立てずに両手を叩いた。「まことに結構。これからやりましょう。それから、あなた」ここで私のほうに向き直った。「あなた、たぶん親切だから、何と言いますか、た、立会人、やってくれますね」青白い、というよりほとんど色のない虹彩の中央に、黒い点のような瞳孔が光っていた。

「いやあ、私にはこんな賭けはどうかしているようにしか思えないんですが。いいことだとは思えない」

「わたしもイヤだわ」イギリス娘も言った。ここで初めて口を開いたのだ。「なんだかバカみたいよ、そんな賭け」

「ほんとうにこの青年の指を切るつもりなんですか、もし彼が負けたとしたら」私は聞いた。

「もちろんそうするです。それにもちろん、この人、勝ったら、キャデラック、この人のもの。さぁ行きましょう。私の部屋へ行きましょう」

(この項続く)

ロアルド・ダール 「南から来た男」その3.

2006-08-30 22:30:23 | 翻訳
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【ロアルド・ダールとこの作品についての遅ればせながらのメモ】
ロアルド・ダールは1916年生まれのイギリスの作家である。
いわゆる「文学」の作家というよりは、エンタテインメント、ミステリ作家と分類されるかもしれない。
自分の子供たちに聞かせるためにつくった話がもとの『チョコレート工場の秘密』や『おばけ桃の冒険』など、独特のブラックな味わいのある児童文学の作家としても有名。
この『南から来た男』はダールのおそらくはもっとも有名な短編で、短編集『あなたに似た人』(1953)に収められている。
最後にあっと驚いてください。
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「南から来た男」その3.

「そう」青年は答えた。「そのとおりです」
19か20といった年格好、そばかすの散った面長な顔立ちで、こころもち尖った、小鳥の嘴を思わせるような鼻をしていた。胸はたいして日に焼けてはおらず、そこにもそばかすがあって、赤みがかった胸毛がうっすらと生えていた。右手にライターを持ち、いまにもやすりをまわそうと待ちかまえている。「火がつかないなんてことはありえないんだ」ちょっとした自慢をわざと大げさに言ってみせているのだ、とばかりに、にんまりと笑った。「請け合いますよ、これはかならず火がつくんだ」

「チョト待てくださいです」
葉巻を持った手を高くあげ、てのひらを外に向けて車を停めようとするような手つきをした。「待てくださいです」その声は奇妙に低く、抑揚のないもので、相変わらず青年から片時も目を離そうとしない。

「私たち、そのことでチョトした賭けができますと思いませんか」そう言って青年に笑いかける。「そのライター、つくかどうか、私たち、賭けることできますですね」

「もちろん賭けられますよ。やります?」

「あなたは賭けが好きですね」

「ええ、こんなことならしょっちゅうやってるんだ」

 老人は口をつぐんだまま、葉巻を改めるような仕草をしていたが、その様子はあまり私には好ましいものには思えなかった。なにかしら老人にはすでに思惑があって、それは青年をなぶるためのもののように思え、同時に老人には密やかな秘密があり、それを舌なめずりしながら味わっているようにも思えたのである。

 青年に眼を戻すと、ねっとりと聞いた。「私も賭け、好きですよ。私たち、これでおもしろい賭け、できますですね。おもしろい、賭け、ね?」

「おっと、ちょっと待ってください」青年が言った。「そんなことはできないな。ぼくに賭けられるのは1ドルか、ううん、ここだといくらなんだろう――何シリングとか」

 老人はまた手をひらひらさせた。「あなた、わたしの言うこと聞きますね。これから私たち、楽しいことします。私たち、賭け、やるです。私たち、ホテルの私の部屋、行くですね。そこは風、ないですし、私、あなたがこの有名なライター、一回も失敗なしで十回連続、火、つけられる、失敗するに賭けますね」

「そのくらいできますよ」

「わかりました。よろしいです。私たち、賭けるですね?」

「よしきた。1ドル賭けるよ」

「違うですよ。私、あなたともっと楽しい賭けするです。私、お金持ち、それに賭け事、大好きです。私の言うこと、聞くですね。ホテルの外、私の車あるです。とても良い車。あなたのお国から来たアメリカの車。キャデラック……」

「うわぁ、ちょっと待ってください」青年はデッキチェアに身をあずけて笑い出した。「ぼく、そんなたいそうなもの持ってないから。そんなバカみたいなことできっこない」

「全然バカみたい、ないです。あなた、ライター、連続十回火をつける、うまくいったらキャデラック、あなたのものですね。あなた、キャデラック、持ちたいですね、そうでしょう?」

「そりゃもちろん。キャデラックはほしいけど」青年はまだニヤニヤと笑っていた。

「よろしい。結構です。わたしたち、賭けをやる、私、私のキャデラック賭けるです」

「で、ぼくは何を賭けるんです?」

小柄な老人は、未だに火のついていない葉巻から、赤いシガーバンドを慎重にはがしている。「私、あなたができないこと、お願いしません、親友。わかりますね」

「だから何を賭けろと?」

「あなた、とても簡単ですよ」

「わかった。そりゃ手間が省けるね」

「ほんのチョトしたもの、あなた、くれること簡単。おまけに、もしなくなってもあなた、そんなに具合悪くならない。いいですね?」

「だからどういったものなんです」

「どういったものか、いうと、たぶん、あなたの左手の小指とか」

「なんだって!」青年の笑いはすっと引っ込んだ。

「そうです。どうです。あなた勝つ、車、あなたのもの。あなた負ける、私、指もらう」

「わからないな。どういうことなんです、指をもらうって」

「私、切るです」

「なんてことを! とんでもない話だぜ。1ドル賭けりゃ十分だよ」

 老人はふんぞりかえると両のてのひらを上に向けて広げ、さげすんだように肩をちょっとすくめてみせた。「結構、結構。私、わかりません。あなた、火がつく、言いますね、でも、賭け、しない。なら、私たち、忘れましょう。いいですね?」

 青年は身じろぎもせず腰をおろしたまま、プールで水遊びをしている連中にじっと眼をやっていた。やがて急に自分がタバコに火もつけていなかったことを思い出したらしい。タバコをくわえると、両手で風除けを作って、ライターのやすりを回した。芯に火が点ると、小さいけれど安定した、黄色いほのおが浮かび上がり、手でおおっているせいで、風にゆらぐこともなかった。

(この項つづく)

ロアルド・ダール 「南から来た男」その2.

2006-08-29 22:42:47 | 翻訳
私のかたわらで足を止めた男は、にっと笑って上下の歯、小ぶりで微かに黄ばんで不揃いな歯並びを見せた。私も笑い返す。

「失礼いたしますですが、ここへ腰掛けてもよろしゅうございますか」
「もちろんです。どうぞ」

 男は椅子の後ろへひょこひょこと回り込むと、だいじょうぶかどうか確かめてから、腰掛けて足を組んだ。白いバックスキンの靴には、一面に換気用の小さな孔が空いている。

「気持の良い夕方ですね。ここ、ジャマイカの夕方は、いつも美しい」
男のアクセントがイタリア系のものか、それともスペイン系なのか、わたしにはよくわからなかったけれど、南米のどこかということには間違いない。しかも、近くで見れば、歳を取っていることもよくわかった。68歳から七十歳というあたりだろうか。

「そうですね。でも、ここもすばらしいですよ」

「あの、あちらにいる方々、どのような方とお聞きしてもかまいませんですか。ホテルの人、ありませんですね」そう言いながら、プールで水浴びしている人々を指さした。

「おそらくアメリカの水兵だと思いますよ。水兵になる訓練を受けているアメリカ人でしょうね」

「確かに、あの人たち、アメリカ人ですね。あのように大騒ぎをする人々がほかにいることはありませんです。あなたはアメリカ人、ないですね?」

「そうです。わたしはアメリカ人ではありません」

そのとき急に、アメリカ人の士官候補生のうちひとりが私たちの前にやってきて、立ち止まった。全身からプールの水をしたたらせており、イギリス娘のうちのひとりを連れている。

「ここ、ふさがってます?」
「空いてますよ」わたしは答える。
「すわってもいいですか」
「どうぞ」
「どうもありがとう」

若い男はタオルをにぎっていて、腰をおろすとタオルを開いて、そこからタバコとライターを取りだした。娘にタバコを差し出したが、断られる。ついで私にもすすめたので、受け取った。小柄な老人は言った。
「ありがとう。でもいらないです。私は私のタバコ、ありますです」ワニ皮のケースから葉巻を一本抜き取ってから、さらに小型のハサミがついたナイフを取り出すと、葉巻の端を切った。

「火を使ってください」アメリカ人青年が自分のライターを差し出す。

「きっとこの風のなかではつきませんですね」

「大丈夫。どんなときだってつくんですから」

小柄な老人は、火のついていない葉巻を取って、小首を傾げて青年をじっと見た。

「いつだって、かならず、ですか」とそっと聞いた。

「ええ、これまでつかなかったことがないんです。ともかく、ぼくがやった限りではね」

老人はなおも首を傾げたまま、青年から目を据えていた。「ほほう。というと、これが失敗することがないので有名なライターなのですか。そうあなたは言いますね?」

(この項つづく)

ロアルド・ダール 「南から来た男」その1.

2006-08-28 22:37:39 | 翻訳
今日からロアルド・ダールの「南から来た男」の翻訳をやっていきます。
原文は
http://www.classicshorts.com/stories/south.html
で読むことができます。

* * *

「南から来た男」

by ロアルド・ダール



 そろそろ六時になろうかという時刻だったので、ビールを一本買って、外に出て、プールサイドのデッキチェアでしばらく夕日でも眺めようと考えた。

 私はバーへ行ってビールを買い、それをぶらさげて外へ出ると、プール目指して庭を歩いていった。

 立派な庭には芝生、ツツジの植え込み、背の高い椰子の木が続き、吹きつける強い風にあおられる椰子の梢の葉は、火でもついたようなパチパチいう音を立てていた。茶色い大きな実が、葉陰にぶらさがっているようすが見える。

 プールの周囲にはデッキチェアがたくさんあって、白いテーブルと、明るい色の巨大な日傘と一緒に置かれている。水着姿になってよく日焼けした男や女が腰を下ろしていた。プールの中には三、四人の娘たちと十数人の若い男が、水をはねかしながら、大声をあげては大きなゴムのボールを投げ合っていた。

 私は立ったままそれを見ていた。娘たちはホテルに滞在しているイギリス人らしい。若い男たちを私は知っているわけではなかったけれど、アメリカふうのアクセントなので、おそらく今朝入港したアメリカ海軍の練習艦の士官候補生ではないかとあたりをつけた。

 黄色い日傘の下、空っぽの椅子が四つしつらえられている場所に私は歩いていって腰を下ろすと、コップにビールを注いで、タバコをくわえたまま、背もたれに身をゆっくりとあずけていった。

 夕日の中、ビールとタバコを手にすわっているのは、大変にいい気分だった。緑の水の中で水をはねかしている人々を、こうやって坐ったまま眺めるのも悪くない。

 アメリカ人の水兵たちは、イギリス人娘たちとうまくやっているようだった。水に潜っては、相手の足を持ち上げて倒すことをしてもいいほどの仲になっているらしい。

 そのとき、小柄で老年にさしかかったぐらいの年代の男が、プールサイドをきびきびと歩いてくるのが目に留まった。染み一つない真っ白いスーツを身にまとい、素早い、軽く弾むような、一足ごとにつま先立ちになるような足取りでこちらに向かってくる。大きなクリーム色のパナマ帽をかぶって、人々や椅子に眼をやりながら、男は弾むようにやってきた。

(この項つづく)

サイト更新しました

2006-08-24 22:20:09 | weblog
昨日までここで連載していた「夏の思い出」、「夏休みが長かったこと」と改題し、内容も加筆修正してサイトにアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

わたしがときどき書いてしまう「昔話」ネタです。
いつもこんなもの読んで、おもしろいと思う人がいるんだろうか、と思うのですが、それでもつい書いちゃいます。
良かったらまたおつきあいください。

さて、わたしは明日からしばらく出かけるので、ブログは28日(月)に再開します。
またそのときにお会いしましょう。
どうかみなさまお元気で。

この話、したっけ ~夏の思い出 その3.

2006-08-23 22:19:19 | weblog
3.夏は繰り返す

大学時代、小学生の塾の夏合宿で、こんどは引率する側の一員となった。

四十人ほどの小学生と引率の大人を乗せたバスは、耳元がわんわんするほどやかましく、体温の高い子供たちのおかげでエアコンのつまみを最強にしていても汗がじっとりとにじんだ。
車内の空気は、乳臭く汗臭く日向臭く、つまりはやたらに子供臭く、山の中をうねうねと登っていくうちに、
「せんせー、○○さんが気持ち悪くなったー」と、酸っぱい臭いまでもが混じり始めた。

トイレ休憩のたびごとに人数を確認し、たいていはいない子供がひとりやふたりいて、彼らを探しに行き
「せんせー、セミつかまえた」
「逃がしてやりなよ、バスの中に持って入んないで」と言ったにもかかわらず、やがてバスの中でジイジイとやかましくセミが鳴きはじめる。
「わー、やかましい」
「逃がしてやれよ」
実際、そばで聞くと、ただごとではないほどのやかましさなのである。なんとか窓から外へ放り出すと、やっと静かになった。
それもつかのま、時ならぬ悲鳴がこんどは引率の先生(といっても、これも同じく学生バイト)の間から起こり、どうしたの? とのぞいてみると、
「ム…ムシが…あたしの髪に……。取って、だれか取って……」
髪の毛をバレッタでまとめている大島先生の、ちょうどそのバレットの下あたりに、白い斑点のあるカミキリムシが触覚をふりあげている。
「もぞもぞするって思ったら、何かさわった……、いったい何やの?」
「カミキリムシ。いま取ってあげるからちょっとじっとしてて」
わたしがそっとつまみあげようとすると、前足が髪にからまる。
「こら、カミキリムシ、大島先生に留まらせたの、だれ?」
見まわすと、うれしくてたまらない、という顔をした悪ガキがふたり。
「えへへー、カミキリムシて、ほんまに髪、切るんかどうか、試してみてん」
「実験的精神を持つことは極めて正当であるが、そういうことは自分の髪の毛でやるように」
そういってわたしは子供の柔らかい髪を脱しかけている、半ば固くなりかけの短い前髪の上にカミキリムシをのせてやった。

やっとのことでバスが到着した民宿は、日本海のすぐ近くだった。海は見えないけれど、空気のなかに汐のにおいが混ざっている。もう八月は終わりに近かったけれど、日差しは強く、十分泳ぐこともできそうだ。だが、塾の夏期講習の合宿には、泳ぐような時間は組み込まれていないのだった。
夜、浜で花火をするぐらいの時間はあったはずだ。わたしは頭の中でもういちどスケジュールを確認した。

「さーて、みんな、もう今日から三日間、泣こうがどうしようが、家には帰れないからね」と、気がつけば昔、自分が言われたせりふをそのままに繰り返していたのだった。

簡単なミーティングと諸注意が終わると、すぐに授業。それから小グループに分かれて勉強していく。合宿というと、それぞれに目的はあっても、いつだって結局は遊ぶため、楽しむために行っていた。こんなふうに集まって勉強するという合宿を、わたしは経験したことはなかった。

それでも中学受験組だったわたしにとって、この時期の勉強は、それはそれでパズルみたいにおもしろかったのもまた確かなのだ。かわいそう、だとか、いまのうちから、とか、さまざまな言い方もできるけれど、それは教えることでお金をもらっているわたしの言うべき言葉ではない。
だからその代わりに、ひとりひとりに声をかけていった。
「よし、よくわかってるね。えらいよ。だけどね、ここはこんなふうにやってみると、もっとスムーズに行く。じゃ、これをこういうふうに換えて、もう一題やってみよう。いいよ、絶対できるから。見ててあげる。ひとりでやってごらん。……ほら、できた。やったじゃん」

夕方の勉強が終わると、夕食の時間だ。
わいわいさわぐ子供たちの尻を叩いて、テーブルを台ふきでふかせ、クロスをかける。大鍋やおひつを運ばせ、麦茶の入った大きなアルミのやかんを一緒になって運んだ。

「先生……」
見ると、ひとりの女の子が目に涙をいっぱい溜めている。
「おなか、痛いの?」
わたしは自分が初めて臨海学校に行ったときのことを思い出していた。
その子はゆっくりとうなづく。

ほかの先生に別室で休む旨をつげて、小さな四畳半の部屋に蒲団を敷いた。
エアコンの静かな音が部屋に響く。

蒲団に横になったその子は、じっと天井を見ていた。
「わたしもね、四年生の時、お腹が痛くなった。お腹っていっても、みぞおちのあたりがきゅっとする感じなんでしょ?」
「そう。わかる?」顔がぱっと明るくなる。
「そりゃわかる。経験者だからね。小学校四年の、臨海学校だった。そのころはね、ホームシックなんて言葉も知らなかったし、よくわかんなかったんだ」
「これ、ホームシックなんかなぁ」

部屋の蛍光灯があまりにまぶしいように思え、わたしは豆電球だけにした。
オレンジの小さなあかりになったほの暗い部屋のなかで、わたしは小学校のときの臨海学校や、そればかりではない夏休みのことをぼつぼつと話した。

六月も半ばになると、終業式まであと何日、と、指折り数えていたけれど、いざ始まってみると、わたしは夏休みの日を、実際にはどうやって過ごしていたのだろう。臨海学校、林間学校、クラブの合宿。お盆の頃に両親の実家へ行ったり。家族でささやかな旅行に出かけた夏もあった。けれどそれをのぞけば、毎日毎日、朝起きて、ゴハンを食べて、本を読むか何かして、またゴハンを食べて、たまには自転車に乗って、公営プールに行ったり、図書館に行ったりして過ごした。塾の夏期講習に行った夏もあれば、毎日絵を描いていた夏もある。図書館にある文学全集を端から読んでいった夏もあった。

変わり映えのしない毎日の中で、夕立が楽しみだった。白いむくむくした積乱雲が鉛色に変わり、空が暗くなったと思うと、天の底が抜けたような大雨が降り始める。腹の底がずしんとくるような雷鳴が好きだった。ぴかっと光ると、つぎに落ちる稲妻を探した。そらに浮かび上がる青白いジグザグから、1,2,3……と音が聞こえる間を数え、落ちた場所との距離の見当をつけた。やがて雨足が弱くなり、雲の切れ間から青い空がのぞくようになる。それでもときおり、遠くでゴロゴロという音が聞こえた。「遠雷」という言葉も好きだった。

たまに夏休みの間にクラスメートに会うこともあった。何か、一学期にくらべて背も伸びて、少し大人になったようにも見える。事実、二学期になってみると、みんな、会わないでいた間に身長が伸びているのだった。
つまり、夏休みは成長する時期だったのだ。

トウモロコシが日々育っていくのは、毎日見ている人間にはわからない。それでもひとつき見ないでいると、トウモロコシの丈も伸び、実もついているように、四十日後にまた会うと、それぞれに変化が起きていた。確かに、みんなが変わっていたのだった。

かつてのわたしを見るような女の子と同じ部屋にいて、自分を「おとな」として頼り切っている女の子と話をしながら、わたしはいつの間にか、自分が「おとな」になっていたのだった。自分ではちっともそんな気がしなかったのだけれど。

(この項おわり)

この話、したっけ ~夏の思い出 その2.

2006-08-22 22:59:14 | weblog
2.初めてのデート

中三の時、富士山麓に林間学校に行った。
初めて親元を離れてから、修学旅行やクラブの合宿、中学の臨海学校と、親元を離れる経験もずいぶん重ね、そのころにはホームシックになるどころか、帰らなければならない日が憂鬱になるほど、わたしも成長していたのだった。
たいがい、夏休みの始めにそうした行事が終わってしまうと、あとは延々と家族の顔ばかり見て過ごさなければならなくなってしまうのである。そういう日が三十日以上待っているというのに、ホームシックなんぞになるわけがないのだ。

このとき、キャンプファイヤーの余興で、ギターを弾いて歌うという大杉君(仮名)に頼まれて、わたしは伴奏でピアニカを吹くことになっていた。そうでなくても多い荷物に加えて、わざわざかさばるピアニカを入れていくのは大変だったけれど、なによりもそのときのことを楽しみにしていたのだった。

「ピアニカ、吹いてもらえない?」と言われたときは、えー、ピアニカ? と思ったものだった。
ピアニカなんて、幼稚園のときに吹いたことがあるくらい。鍵盤数も少ないし、片手でしか弾けない。ぶーかぶーかと素朴といえば素朴、いささか間の抜けた音がする。
大杉君が作曲したという譜面を見せてもらったのだけれど、単純なメロディをイントロと間奏でちょこっと弾くだけだ。これじゃつまらないなぁ、と思ったのだが、それでも、そんなふうに誘われたことがうれしかった。

一学期の終わりに、一度だけ音合わせをした。
ありきたりのコードに、いろんなバラードからちょっとずつもらってきたようなメロディがのり、ささやかなピアニカのソロがあった。それでも、アンサンブルというのは楽しいもので、自分の音が人の出す音に重なっていくときの和音の喜びというのは、何にもかえがたい。たとえそれが「蛙の歌」の輪唱であっても、自分ではない声と自分の声が醸し出すハーモニーを耳で聞けるのは楽しいのだ。
何度か練習して、「もうバッチリ」とお互いを讃え(笑)、キャンプファイヤーを待ったのだった。

歌あり、踊りあり、寸劇ありの出し物の、ほとんど最後のほうだったと思う。
野外では、教室で練習したときとちがって、音が拡散してしまうために、ピアニカを吹き始めると、ギターの音はほとんど聞こえなくなってしまった。それでもわたしは大杉君の指の動きでリズムを取って、音を合わせていった。拍手のほとんどは大杉君の歌とギターに向けられていたのだろうけれど、わたしはとても満足だった。

林間学校も終わって、気だるい夏休みの日を過ごしていたころ、ある日大杉君から電話がかかってきた。映画を見に行こう、という。わたしはおそるおそる母親に聞いてみた。
誰と行くの、という問いに、大杉君、あと、池田さんと村松さんと横山君と……と、思いつく名前をいくつも追加した。しょうがないわね、としぶしぶ了解した母は、危ないところ(これはゲームセンターのこと)に近寄らないように、遅くならないように、とくどくどいつまでも言っていた。

駅で待ち合わせたのだけれど、なんとなく話ができない。基本的に話すことがないときは黙っていることにしているわたしなのだが、そのとき映画館に着くまでずっと黙っていたのは、やはり緊張していたのかもしれない。
幸いなことに見たのは『エイリアン2』で、終わってからマクドナルドでマックシェークを飲みながら「なんであの女の子だけは助かったんだろう」とか「バスケスがカッコ良かった」とか、話す材料には事欠かなかったのだった。
なぜかそのあとスニーカーを買うという大杉君につきあってシューズ屋をのぞき、どこか行きたいところある? と聞かれて、ほんとうは本屋に行きたかったのだが、なんとなくそれも言い出しかねて、そのまま帰りの電車に乗った。
「行きがけ、何もしゃべってくれないから、誘って悪かったのかと思った」と言われ、そんなことない、とあわてて否定して、つぎに美術館に行こう、と約束した。

ところがそれから一週間ほどしてわたしは体調を崩し、入院する羽目になる。二学期が始まってもしばらくは学校を休み、やっと登校したのは十月になってからだった。
ところがそのときには大杉君には「公認のカノジョ」ができていたのだった。

あるとき、昇降口のところでその「カノジョ」に会った。映画の帰りに大杉君が買ったスニーカーとおそろいのケイパをはいている。ふん、大杉君が買ったときは、わたしと一緒だったんだからね、と思ったが、もちろんそんなことは言わなかった。ピアニカも弾けないクセに、と、それも言わなかった。

大杉君は、このあと本格的に音楽を始めて、高校の途中でやめるか、よそに転校するかしてしまう。
そうして、大学に入って二年目、夏休みの帰省で乗っていた新幹線の車中で偶然会ったのだった。

何か買ってきたのか、トイレに行った帰りだったのか、ともかく身体がよろけないように気をつけながら通路を抜けて、自動ドアがあいたところで、車両の入り口のすぐ脇に立って、外を見ながらタバコをすっていたのが大杉君だった。
「大杉君!」
わたしの言い方は、昨日会ったばかりのような言い方だったのだと思う。
向こうは一瞬、いぶかしげに目を細め、上から下までわたしを見まわし、少し考え、「**さんでしょ」と笑った。「全然変わってないね」
大杉君の方は、ひどく変わっていた。
薄いジャケットを着て、Tシャツに黒い細身のジーンズ、コンバットブーツをはいて、チェーンのベルトをし、髪をのばして耳にいくつもピアスをしていた。
なによりも、顔がひどくだらけて、太っているわけではないのにほほがたるんで、眼に力がなかった。なにか、大杉君の抜け殻が歳を取ったようだった。
聞かれるままに、大学の話や寮の話をしたのだけれど、なんとなくわたしのほうからは、いま、どうしてるの、と聞けなかった。大杉君の方から、何か話してくれないかな、と思いながら、わたしたちは当たり障りのない話を続けた。
窓から夕日に染まって薄いピンク色になった富士山が見えた。
「音楽、やってるの?」
「なかなか大変でね、いまは違うことやってる」
「そう」
「あの曲、覚えてる?」
「覚えてる。ソーソーミミファー、ラーラーファファソー」

富士山が見えなくなると、話すこともなくなったわたしたちは、「それじゃまたね」と言って別れたのだった。

(この項つづく)

この話、したっけ ~夏の思い出 その1.

2006-08-21 22:38:48 | weblog
生まれて初めて親元を離れて泊まったのは、小学校四年のときだった。
一学期の終業式が終わってすぐに始まる臨海学校で、房総半島の先のほうに行ったのだ。

ほとんどの生徒が親元を離れるのは初めてで、説明会だの保護者会だの、ずいぶんいろんな準備があったような気がする。とはいえ大変なのは母親で、わたしのほうはクラスのだれと並んで寝ようか、ふたりから誘われているのだけれど、トシコちゃんがいいか、エミちゃんにしようか、と悩むぐらいがせいぜいだった。

巨大なオレンジのリュックサック、ついにそのとき一度しか使わなかったあのリュックサックも実家に戻ればまだあるのかもしれない、ともかく学校指定のそのリュックを、わざわざスポーツ用品店まで買いに行ったのだった。たかだか三泊四日のためにいったい何を入れる必要があったのか、実際、弟が入って遊んでいたぐらい大きなリュックサックだったのだ。
バスタオルを数枚、水着、着換え、そのほかにはいったい何を詰めたのだろう。それでもいざ準備を始めると、あれも持っていきなさい、これも持っていきなさい、ということになったのではないのかと思うのだけれど、ともかく八分ほどは詰まっていった。

その日の朝、脚をふらつかせながらまず学校へ行き、そこからバスに乗って目的地へ向かう。途中、お弁当を食べるためにどこかに停まったのだと思うが、それがどこだったかはまったく記憶にない。ただ、ずっとバスに揺られるだけだったためにまったくお腹が減らず、お弁当も半分ほどしか食べられなかった。わたしは食べられなかったお弁当を、そのままナプキンで包んで持って帰ったのだが、真夏、四日前の弁当が残った弁当箱を洗う母はさぞいやだったことだろう。その場で処分する、という知恵など、まったく回らなかったのである。

バスから降りて、細い道をうねうねと歩いていきながら、引率の先生が、君らはもう泣こうがどうしようが、四日先まで家には帰れないのだ、と話す。それを聞いて泣き出す子が何人かおり、しばらく家族には会えないのだ、ということが、しこりのようにみぞおちのあたりに固まってくるのを感じたのだった。

おそらく民宿のようなところに泊まったのだと思う。山が海岸近くまで迫り、細い平野部にその民宿はあったのだ。目の前に狭い砂浜があり、その向こうに波打ち際が続く。
おそらく入り江のようなところだったのだろう、水平線は見えず、海の向こうにもまた山が迫っていた。

それまで、家族で何度か海に泳ぎに行くことはあったのだけれど、泳ぐといえばもっぱらプールで、海はずいぶん泳ぎにくかった。何よりも、眼が痛くなるのには困った。
海からあがると寒かったような記憶があるのは、たまたまそのときが曇っていたかどうかしたせいなのだろうか。ただ、いまに比べると、そのころ、七月の暑さはいまとはずいぶんちがっていたような気もする。
海から上がると、浜辺の焚き火のところに行く。
薪を積み上げた上にはアルミの黄色い大鍋があって、そこへいくと、夏用の薄いベールになったシスターが、ひしゃくで鍋の飴湯を湯呑みにすくってくれる。ショウガの匂いのきつい、熱くてどろっと甘い飴湯は、ほかのときならおいしいと思うこともなかったろうに、そのときは不思議とおいしかったのだった。

ところが初日の晩ご飯、カレイの煮付けだかなんだかを食べていたら、急に胃がきゅんとつかまれたような感じになった。家のご飯と味付けがちがう。そう思ったとたんに、激しいホームシックにかられてしまったのである。
涙が出そうで、もうなにも飲み込むことなどできそうにない。ホームシックなどとは言えなかったために、「お腹が痛い」と訴えた。
ひとりちがう部屋に寝かされ、ビオフェルミンか何かをもらった。
もう三日寝たら、家に帰れるのだ、と、まだ一晩も寝ないうちに考えた。
波の音が耳について離れなかった。

(この項つづく)

サイト更新しました

2006-08-20 18:54:27 | weblog
先日までここで連載していた「ものを贈る話」(芸のないタイトルで、実に、「読みながら考え…」のページを更新しているときにそっくりなタイトル―「ものを食べる話」―というのを書いていたことに気がつきました)を大幅にあらため、サイトにアップしました。
またお暇な折りにでも読んでみてください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

* * *

すでに気がついていらっしゃる人もいるかもしれませんが、わたしはいまはほとんど小説を読みません。ここ数年では、最初から最後まで読み通す新しい作品は、年間では十冊ないと思います。
ただ、八十年代から九十年代の半ばまでの十五年間くらい、ひたすら読んできた本のストックがあるだけです。
ひとつラッキーだったのは、その時期がいわゆる翻訳バブルの時期と軌を一にしていたことです。特にアメリカの同時代の小説がどっと翻訳された時期で、わたしは19世紀の文学も、日本の明治時代の文学も、同時代のアメリカ小説も、なにもかもを端から読んでいきました。

その時期に読んだ本は、相当細かいところまで覚えています。このところ記憶力の減退ときたら、もうしゃれにはなんないんですが、当時読んだ本は、背表紙を見ただけで、かなり細かい点まで思い出すことができる。だから、本棚の前に立って、ネタ出しをするんです。

「贈り物…贈り物…『リア王』の領土…『大農場』の農場…『港湾ニュース』のタマゴ…『人間失格』の肖像画…」

そうやって使えるかどうか考えていく。
ということで、どうしてもわたしが引用する本は、古いものが多いのです。
どうか最近こんな本読んだよ、とってもおもしろかった、っていうのがありましたら、どうか教えてください。

残念なことに、当時読んだ小説、とくに翻訳本の多くが、すでに手に入りにくいものになっていることが少なくありません。
今回引用したドラブルの『碾臼』にしても、ドラブルの作品のなかでは非常に読みやすいものですし、おもしろいものだと思います。
ですからどうか興味をひかれたかたは、図書館か、古書店のサイトをさがしてみてください。文庫なら手に入るみたいです。

ということで、それじゃまた。
また明日から、何かあたらしいことを書いていくつもりです。

贈ったり贈られたり

2006-08-18 22:23:14 | weblog
つなぎとしてこのところ毎日駄文を書き連ねているのだけれど、いよいよ「ものを贈る話」のリライトも、『蜆』のところまでさしかかったので、たぶん明日にはアップできると思います。いやあ、長かった。

さて、「贈り物」というと、わたしが選ぶときの規準は
・実用的でないもの
・なくても困らないけれど、あるといい気分が味わえるもの
・ちょっと笑えるもの
というあたりに置いている。

まず、実用的なものは、言葉を換えれば必要なものということだ。必要なものならば、おそらくすでに相手は持っているだろうし、それに対する好みもあるだろう。
そういうものを改めてわたしが贈る意味がないように思えてしまうのだ。

自分で買おうなどとは思いもよらない、それでも、あるといい気分、となると、だいたいプレゼントを選ぶカテゴリは限られてくる。ここでは諸事情からあえて明らかにはしないのだけれど、贈る相手が子供である場合をのぞいては、もっぱらとある分野から選んできた。
もちろん三点目は相手にもよるのだけれど、わたしとしては、これはかなり大きなファクターなのである。

逆に、これまでもらったなかでうれしかった贈り物というとなんだろう。
以前クリスマスの話でも書いたのだけれど、小さいときのプレゼントというと、クリスマスには決まってレゴで、誕生日はたいてい本だった。つまり、うれしくないわけではないけれど、飛び上がって喜ぶほどのものでもないプレゼント、というわけだ。

そのころもらってうれしかったのは、東ドイツから来た手紙だった。
学校でフランス語を教えてくれていた東ドイツ出身のシスターが、東ドイツの小学生と文通の仲立ちをしてくれたのだ。ベルリンの壁が崩壊する前の話で、同封されていた便せんは質の悪い紙、写真は確かモノクロだったように思う(さすがにこの記憶には自信がないのだけれど)。仮装行列の写真、ということで、帽子をかぶって、顔に紙で作ったらしいつけひげの男の子がふたり映っていて、裏にはドイツ語の文字と「お兄さんとぼくです」というシスターの手による和訳がついていた。「海賊になりました」と書くべきところの「海賊」という文字が「海族」になっている、と母が指摘して初めて、わたしは「海賊」という字を読めるようになったのだと思う。

なにしろクラスの子が全員書くので、ドイツ語に訳して送るのも大変だったのだろう、長くは続かなかったけれど、とにかく二通、返事をもらった。二通目の手紙に、わたしが返事を書いたかどうかは記憶にない。

自分では読めない不思議なアルファベットの並ぶその手紙と、同封されていたドレスデンの絵はがき、そうしてその子の写真は、長らくわたしの宝物だった。

わたしのような贈り物の規準を持っている人はそれほど多くないらしく(笑)、大人になってもらう贈り物の多くは、実用的なものである。
ただ、おもしろいことに、いつまでも使い続けるかどうかというのは、巡り合わせとしか言いようのないところがあるのだ。
マイケル・ジョーダンが好きだった頃に、MBAのドリームチームがプリントされたトレーナーをもらって、大切に取っていたら、そのうち、着るに着られなくなって、部屋着になってしまったケースもあれば(実はいまだにわたしはそのトレーナーを着ているのである。マジック・ジョンソンもスコット・ピッペンもわたしの胸元で笑っているのである)、柔らかくて実に具合のいい手袋をもらっても、あっという間に片方落としてなくしてしまったこともあるし、デザインはかわいいのだけれど、柄の先がアヒルになっていて、やたらに差しにくい折り畳み傘、これがどういうわけか忘れてもかならず手元に戻ってきて、十年近くたつのに未だに使っているというケースもある。
文鎮にせよ、手帳にせよ、使うたびに相手を思い出す……というわけでもないのだが(ゴメンナサイ。でも、ほんと、感謝しています)、だれからもらったかも、くれたその人のことも、忘れることはない(はずです。たぶん)。

わたしは基本的に義理堅い人間であるし(自己申告)、贈り物を贈ることも好きだ(さらに自己申告)。だから、贈られっぱなし、ということは、あまりないのだけれど、それでも事情で、もらったままになっている場合もある。ときどき、取りだしては使っているのだけれど、お返しをするのだったら、何がいいだろう、と漠然と思ったりもする。お返しができる機会があればいいなぁ、と思いながら。
もちろん、笑えるものじゃなきゃね。

さて、明日はなんとかがんばってアップしますね。
それじゃ、また。