4.照明の移り変わりと文学
芥川龍之介の『雛』にしても、新美南吉の『おじいさんのランプ』にしても、物語のなかで照明器具の変化は時代の移り変わりを示す象徴として描かれていた。
ところが、欧米の小説には、このように照明器具の変化そのものを題材に取った作品が見あたらない。それはなぜなのだろうか。
照明器具の外見は様々でも、光源は、日本でも西洋でも十八世紀までは同じ、油かロウソクだった。それが十八世紀後半から、差がつき始める。
ヨーロッパでは、石油ランプ→ガス灯→白熱電球→蛍光灯という発達過程を経ていくが、その変化はゆるやかだった。
それに対して、日本ではヨーロッパが二百年かけて発達したプロセスを、明治維新後、八十年で経験してしまう。
このような急な変化を目の当たりにすれば、そうして、旧世代の照明器具が、まったく廃れてしまうとなれば、それは時代の終焉の象徴ともなるのだ。
変化が連続的で、しかも旧世代の照明器具も並行的に使われているような場合は、そのような象徴とはなりにくい。
アメリカの小説で、灯りが印象的な小説といえば、『グレートギャツビー』だろう。
『グレートギャツビー』が発表されたのは1925年。アメリカの1920年代を代表する作品である。
本格的な大量生産・大量消費の時代を迎えたアメリカでは、中西部や南部からニューヨークへ人が続々と集まってきて、この時代特有の文化を形成する。
「ぼく」のニック・キャラウェイも中西部の名家から、ニューヨーク郊外のロングアイランドに住むようになる。その隣には「ノルマンディのどこかの市庁そっくり」の大豪邸が建っている。それがギャツビーの家なのである。
とびぬけて豪華で広大な邸宅で、夜な夜なパーティを開くギャツビーの家は、電飾に彩られ、誘蛾灯のように、パーティ好きの客を引きつける。
だが、ギャツビー自身はパーティを楽しんでいる様子はない。
まばゆいギャツビー邸でのパーティは、入り江の向こうに住むデイズィを呼び寄せるためのものであり、電飾だったのだ。そうして、ギャツビーが見ていた緑の灯はデイズィの家の灯なのである。
(明日最終回)
芥川龍之介の『雛』にしても、新美南吉の『おじいさんのランプ』にしても、物語のなかで照明器具の変化は時代の移り変わりを示す象徴として描かれていた。
ところが、欧米の小説には、このように照明器具の変化そのものを題材に取った作品が見あたらない。それはなぜなのだろうか。
照明器具の外見は様々でも、光源は、日本でも西洋でも十八世紀までは同じ、油かロウソクだった。それが十八世紀後半から、差がつき始める。
ヨーロッパでは、石油ランプ→ガス灯→白熱電球→蛍光灯という発達過程を経ていくが、その変化はゆるやかだった。
それに対して、日本ではヨーロッパが二百年かけて発達したプロセスを、明治維新後、八十年で経験してしまう。
明治中期に東京で生まれて長生きした人は、たとえば谷崎(※潤一郎:1886-1965)もそうだが、一生のあいだに、右の四種類の光源を自分の身のまわりで体験できたろう。しかし、もし同じ人がロンドンで生を受けたとしたら、同じ期間に、自分の家ではガス灯と白熱電球しか見なかったろう。…
ヨーロッパの照明は、光源も器具も変化がおそく、変化の地方への伝播もおそい。…光源が新しくなれば、もちろんより明るくなるのだけれど、照明器具の方は、淘汰されたはずの旧光源の器具が生きのびたかと見まがうほど似たものがあとを受ける。そしてそれが、何世代もかけて、ゆっくり石の家と新光源のあいだの橋渡しをするのだ。照明の連続性とはこういうことをいう。それで照明が文化たりうるのである。
それに対して、日本の照明は変化が激しく、しかもその変化は、その都度、すぐ国中に伝わる。光源が変わることもあれば、器具が変わることもあるが、二、三十年に一度くらい、大きく照明が変わると、日本中がわれもわれもと同じことをするから、いきおい画一化がすすむのだ。つまるところ、照明は不連続になる。
(乾正雄『夜は暗くてはいけないか 暗さの文化論』朝日新聞社)
このような急な変化を目の当たりにすれば、そうして、旧世代の照明器具が、まったく廃れてしまうとなれば、それは時代の終焉の象徴ともなるのだ。
変化が連続的で、しかも旧世代の照明器具も並行的に使われているような場合は、そのような象徴とはなりにくい。
アメリカの小説で、灯りが印象的な小説といえば、『グレートギャツビー』だろう。
夏の夜な夜な、隣の邸宅からは、楽の音が流れてきた。そしてその青みわたった庭の中を、ささやきとシャンペンと星屑につつまれながら、男女の群れが蛾のように行きこうていた。……
すくなくとも二週間に一度は余興係の一団が、数百フィートのズックと、ギャツビーの大庭園を一つのクリスマス・ツリーに仕立てうるだけの色電球を持ってやってくる。……
地球が太陽から傾き離れて行くにつれて灯は輝きを増し、オーケストラは扇情的な酒席の音楽を奏しはじめ、人声のオペラもいちだんと調子を高める。緊張は刻々にくずれ、笑い声は惜しげもなくばらまかれて、愉快な言葉を聞くたびにどっとばかりに爆笑が湧き起こる。……
ぼくがはじめてギャツビーの家へ出かけた夜、ぼくも含めてほんとうに招待を受けてきた客はごくわずかしかいなかったはずだ。人びとは招待されるのではない――彼らのほうから出かけて行くのだ。ロング・アイランドまで運んでくれる車に乗りこみ、ともかくギャツビー邸の入り口で降りる。ここまでくれば、ギャツビーを知っている人間が招じ入れてくれる。後は遊園地の行動原則にしたがって振舞うだけだ。ときには来てからかえるまでに一度もギャツビーその人に会わぬこともある。パーティが好きでやってくるその単純素朴な心、それが唯一の入場券なのだ。
スコット・フィッツジェラルド『グレートギャツビー』野崎孝訳 新潮文庫
『グレートギャツビー』が発表されたのは1925年。アメリカの1920年代を代表する作品である。
本格的な大量生産・大量消費の時代を迎えたアメリカでは、中西部や南部からニューヨークへ人が続々と集まってきて、この時代特有の文化を形成する。
「ぼく」のニック・キャラウェイも中西部の名家から、ニューヨーク郊外のロングアイランドに住むようになる。その隣には「ノルマンディのどこかの市庁そっくり」の大豪邸が建っている。それがギャツビーの家なのである。
とびぬけて豪華で広大な邸宅で、夜な夜なパーティを開くギャツビーの家は、電飾に彩られ、誘蛾灯のように、パーティ好きの客を引きつける。
だが、ギャツビー自身はパーティを楽しんでいる様子はない。
明るい夜空には、梢にはばたく羽音やら、いっぱいに開いた大地のふいごが蛙どもにあふれるばかりの生命を吹きこんだような、絶え間ない歌声が聞こえて賑やかだった。月光の中を、一匹の猫が影のように通りすぎた。その姿をとらえようと頭をめぐらしたとき、ぼくは、自分が一人でないことを知った――五十ヤードほど離れた所に隣の邸宅の影の中からいつの間に出てきたのか、ひとりの男がたっていて、ポケットに両手をつっこみ、銀砂をまいたような星空を眺めている。悠然たる身のこなし、それから芝生をふまえて立ったそのおちつきはらった感じから、これがギャツビーその人であることは明らかだった。このあたりの天地に占める、わが家のたたずまいかいかにかと、それを見定めに出てきたのだろう。
ぼくは言葉をかけようと思った。……しかしぼくは言葉をかけなかった。というのは、ふと彼が、自分はひとりで満足しているのだという気配をただよわせたからである――彼は、暗い海にむかって奇妙にも両手をさしのべた。そして、ぼくは彼の所から遠く離れてはいたが、彼が慄えていたことは断言してもいい。反射的にぼくは、海のほうを見た――と、そこには遠く小さく、桟橋の尖端とおぼしいあたりに緑色の光がひとつ見えただけで、ほかには何も見えなかった。もう一度ギャツビーの姿を探したときには、もう彼は姿を消していた。そしてぼくは、ざわめく夜の中に、ふたたび一人になったのだ。
まばゆいギャツビー邸でのパーティは、入り江の向こうに住むデイズィを呼び寄せるためのものであり、電飾だったのだ。そうして、ギャツビーが見ていた緑の灯はデイズィの家の灯なのである。
(明日最終回)