3.早い引退
さて、昨日統計を引用したように、どうやら日本の高校生は「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたい」を理想としているらしい。
実はそれを実践した人物がいる。しかもその生活はひどく有意義だったようだ。その暮らしを少し見てみよう。
若いというと多少語弊があるが、ともかく三十八歳で仕事から引退し、「暮らしていける収入があってのんびりと暮らした」のがモンテーニュである。
しがらみを棄て、自分になりきる。なんとすばらしい響き。先立つものさえあれば、確かにわたしも実践してみたい。ところがモンテーニュはこうも言っている。
ひとりこもっていれば「ありのまま」の自分になれるのか、自分らしくいられるのか。モンテーニュはそうではないというのである。
かくしてその「記録」となる「エセー」の執筆とそのための思索は、引退後のモンテーニュの生活の柱となっていく。
……ところでこれは、一種の仕事とは言えないか?
「偉くなりたくない」高校生は「自分の時間がなくなる」ことを怖れるのだが、自分の時間が無制限にあれば、こんどはそれをなんとかして埋めなければならない。人はほんとうに「何もしない」でいることはできないのだ。
はたして「仕事」というのは、自分の時間や精力や情熱をただ吸い取るだけのものなのだろうか。
人間はそれぞれにアイデンティティの意識を持つ。
このアイデンティティというのは、言葉を換えれば、「自分がどんな人間であるか」を自分に言って聞かせる物語である。
自分が仕事をするなかで、仕事を通じて、これが自分である、という感覚を少しずつ持っていくのではないのか。
ところで以前「林住期」という言葉を聞いたことがある。
インドのヒンズー教では、人の一生を四つの時期に分けるのだそうだ。世の中に出る前、いろんなことを学ぶ「学生(がくしょう)期」、家を持ち、子供を育てる「家住期」、そうして、子供を育て上げ、仕事からも引退するようになった時期、ひとり家を出る。そうして旅に出たり、林のなかに入って瞑想したり。多くの人は自分でその時期に区切りをつけ、やがて家に戻るのだけれど、そのなかからほんの少数の人が、そのまま聖者になって「遊行期」に入るのだという。
ただ、この「家を出る」というのには、少し注釈が必要のような気がする。
当時のインドは家父長制で、「家住期」の家長というのは、一族を背負うことを意味した。それこそ『夜明け前』の世界で、その責任たるや並大抵のものではない。そういう時代に、家族(一族)ひとりひとりの面倒を見ていくという重責から身を解き放ち、家を出るという思いは、どれほどの解放感があったことだろう。初めて、自分自身の生を生きる、という感覚だったかもしれない。そういう背景にその言葉を置いてみると、「林の中での瞑想」も、ずいぶん深い意味を持つように思う。夏目漱石の『門』も、この「林住期」をごく短い形で経験した物語なのかもしれない。
いまは多くの人間が、もちろん家族のしがらみはあるにせよ、その比重は以前とはくらべものにならないほど軽いものになってしまった。そうなると、当然、その反対にある「林の中での瞑想」も、軽いものにならざるをえない。単純にヒンズー教の四つの区分をいまに当てはめることなどできないように思うのだ。
確かに「しがらみ」を脱することを望む人は、当然、いていい。脱することを通じてしか得られないものもあるだろう。
ただ、それは「学生期」「家住期」を経てからではないのか。
それを経ずして「林」のなかに入ってしまったとしても、「暇はつねに精神を散らす」だけにしかならないように思うのだ。
「のんびりと暮らす」ことを望むのはそのあとでも遅くはない。
さて、昨日統計を引用したように、どうやら日本の高校生は「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしていきたい」を理想としているらしい。
実はそれを実践した人物がいる。しかもその生活はひどく有意義だったようだ。その暮らしを少し見てみよう。
若いというと多少語弊があるが、ともかく三十八歳で仕事から引退し、「暮らしていける収入があってのんびりと暮らした」のがモンテーニュである。
一五七一年、長年の公僕としての義務と宮仕えに疲れた私はわが城に退いた。三十八歳で、元気ではあったが、父祖伝来の地で平穏無事な毎日を送り、余生を自由と静謐と閑暇にささげるつもりだった。
私は人から逃げたのではない。しがらみから逃げたのだ。他人のために生きるのはもう十分だ。ならば、これからは自分のために生きよう。私たちを自分自身から引き離し、別のものに縛りつけるこの世のしがらみを棄てよう。何よりも大切なのは自分になりきるすべを知ることだ。モンテーニュ『エセー(一)』岩波文庫
しがらみを棄て、自分になりきる。なんとすばらしい響き。先立つものさえあれば、確かにわたしも実践してみたい。ところがモンテーニュはこうも言っている。
最近私は、自分に残されているこの少しばかりの余生を静かにひとから離れて過ごすようにしよう、それ以外にはどのようなことにもかかずらうまいと、わたしにできるかぎりではあるが、心にきめて、自分の家に引退した。そのときわたしには、わたしの精神を十分暇な状態のなかに放してやり、自分自身にかかりきり、自分のなかにとどまり落ち着くこと以上に大きい恩恵を、精神にたいしてほどこしてやることはできないように思われたのだった、そして、私の精神が時間がたつにつれていっそう重みを増し、いっそう成熟したうえで、このことを、いっそうたやすく行えるようになればよいと希望していた。しかし逆に、暇はつねに精神を散らす(ルカヌス『内戦譜』)わたしの精神は、放れ馬のようになって、ほかの人間にたいして与えていた気づかいよりも百倍も多くの気づかいを自分自身に与えるものだということがわかった。そしてわたしの精神は、それほどまでに多くの幻想的な奇獣怪物を、つぎつぎに生みだしてくるので、そのばからしさ、奇妙さをゆっくり思いみようとして、それらを記録にとりはじめたほどだ。
ひとりこもっていれば「ありのまま」の自分になれるのか、自分らしくいられるのか。モンテーニュはそうではないというのである。
かくしてその「記録」となる「エセー」の執筆とそのための思索は、引退後のモンテーニュの生活の柱となっていく。
……ところでこれは、一種の仕事とは言えないか?
「偉くなりたくない」高校生は「自分の時間がなくなる」ことを怖れるのだが、自分の時間が無制限にあれば、こんどはそれをなんとかして埋めなければならない。人はほんとうに「何もしない」でいることはできないのだ。
はたして「仕事」というのは、自分の時間や精力や情熱をただ吸い取るだけのものなのだろうか。
人間はそれぞれにアイデンティティの意識を持つ。
このアイデンティティというのは、言葉を換えれば、「自分がどんな人間であるか」を自分に言って聞かせる物語である。
自分が仕事をするなかで、仕事を通じて、これが自分である、という感覚を少しずつ持っていくのではないのか。
ところで以前「林住期」という言葉を聞いたことがある。
インドのヒンズー教では、人の一生を四つの時期に分けるのだそうだ。世の中に出る前、いろんなことを学ぶ「学生(がくしょう)期」、家を持ち、子供を育てる「家住期」、そうして、子供を育て上げ、仕事からも引退するようになった時期、ひとり家を出る。そうして旅に出たり、林のなかに入って瞑想したり。多くの人は自分でその時期に区切りをつけ、やがて家に戻るのだけれど、そのなかからほんの少数の人が、そのまま聖者になって「遊行期」に入るのだという。
ただ、この「家を出る」というのには、少し注釈が必要のような気がする。
当時のインドは家父長制で、「家住期」の家長というのは、一族を背負うことを意味した。それこそ『夜明け前』の世界で、その責任たるや並大抵のものではない。そういう時代に、家族(一族)ひとりひとりの面倒を見ていくという重責から身を解き放ち、家を出るという思いは、どれほどの解放感があったことだろう。初めて、自分自身の生を生きる、という感覚だったかもしれない。そういう背景にその言葉を置いてみると、「林の中での瞑想」も、ずいぶん深い意味を持つように思う。夏目漱石の『門』も、この「林住期」をごく短い形で経験した物語なのかもしれない。
いまは多くの人間が、もちろん家族のしがらみはあるにせよ、その比重は以前とはくらべものにならないほど軽いものになってしまった。そうなると、当然、その反対にある「林の中での瞑想」も、軽いものにならざるをえない。単純にヒンズー教の四つの区分をいまに当てはめることなどできないように思うのだ。
確かに「しがらみ」を脱することを望む人は、当然、いていい。脱することを通じてしか得られないものもあるだろう。
ただ、それは「学生期」「家住期」を経てからではないのか。
それを経ずして「林」のなかに入ってしまったとしても、「暇はつねに精神を散らす」だけにしかならないように思うのだ。
「のんびりと暮らす」ことを望むのはそのあとでも遅くはない。